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比叡山延暦寺 

比叡山延暦寺は、滋賀県大津市坂本にある大寺院である。標高848メートルの比叡山全域が境内であり、東塔、西塔、横川塔の3地区に分かれている。比叡山延暦寺とは、これら堂塔群の総称である。


比叡山は古代より、神の鎮座する山として人々に崇められていた。そして、平安時代初期、延暦7年(788年)、この神域に伝教大師こと最澄上人が上がり、寺院を建立する。これが、比叡山延暦寺の始まりである。以来、延暦寺は王城鎮護の寺として崇められ、大いに繁栄していった。この延暦寺からは、法然、親鸞、良忍、一遍、真盛、栄西、道元、日蓮といった多くの高僧を輩出しており、日本仏教の母山とも称されている。また、紀貫之、源義経、吉田兼好、上杉謙信といった多くの歴史上の人物もこの寺を訪れている。



この様に、延暦寺は日本の歴史にも関わる重要な寺院であったが、その一方、大きな権威を振りかざして、度々、横暴な振る舞いも行った。また、強力な僧兵集団を抱えている事もあって、時の権力者であっても容易に手を出せる存在ではなかった。平安時代、院政を布いて強力な権勢を誇っていた白河法皇ですら、「余のままならぬものが、賀茂川の水、双六の賽、比叡山の山法師である」と嘆かせるほどであった。また、室町時代には、時の将軍、足利義教と抗争し、一触即発の事態にもなっている。



戦国時代に入っても、延暦寺はその権威と武力をもって一種の独立国家の状態を守っていた。しかし、戦国も後半に入ると、時代の風雲児、織田信長が台頭してきて、延暦寺の寺領も押収される事態となった。自らの権威と領域を侵された延暦寺は、これに強い反発を覚える。そして、元亀元年(1570年)、朝倉、浅井家が信長と敵対し、両軍が近江西方で対峙する事態が起こると、延暦寺は朝倉、浅井軍に加担し、比叡山一帯に陣所を提供した。



無論、信長はこれに激怒するが、山上に朝倉、浅井軍が立て篭もっている現状では、手の出しようが無かった。それにこの時、信長は、朝倉、浅井軍だけでなく、大阪本願寺、三好家、長島一向一揆といった敵対勢力に取り囲まれており、非常な苦境にあった。そこで信長は、延暦寺に対し、申し出を行った。寺領を返還するので朝倉、浅井軍に味方する事を止めてもらいたい。出家の身ゆえ、一方に味方する事が出来ぬと云うなら、せめて中立を守ってほしい。もし、それも叶わぬと云うならば、全山焼き払うと。しかし、これに対する延暦寺の返答は無かった。これで信長の決意は固まった。



翌元亀2年(1571年)8月、信長は3万余りの大軍を率いて、近江に出陣する。織田軍は、南近江の浅井方の諸城を幾つか攻め取った後、三井寺(園城寺)近くに陣を張った。織田軍は、そのまま京に入るかに見えた。しかし、信長の真の目的は、延暦寺にあった。そして、同年9月12日、織田軍が琵琶湖西岸の坂本に到着するや否や、あらやる家屋に一斉に火を放ち始めた。この坂本は、平安時代から延暦寺と深いつながりを有しており、それに伴って大勢の僧侶も居住していた。だが、織田軍の見境のない放火によって、当時、近江で最も栄えていた町は灰燼に帰す事となる。


織田軍は続いて、延暦寺の守護神とされている日吉神社も放火し、さらに比叡山を駆け上って、根本中堂を始めとする諸堂を焼き払っていった。しかし、延暦寺の堂舎の多くは坂本にあったため、殺戮と放火は主に麓を中心に行われた。火に巻かれた僧侶、町人、女、子供らは方々を逃げ惑ったが、織田軍はそれを容赦なく斬り捨てていった。この惨劇は4日間続き、比叡山が炎上する様は、京都からも窺えたと伝えられている。当時の公家の日記である「言継卿記」によれば、この焼き討ちによる死者は3千人から4千人に上ったそうである。これによって、歴史ある大社、延暦寺と日吉大社は、多くの人々ごと、その存在を抹消された。


この比叡山焼き討ちで、大きな役割を担っていたのが明智光秀である。光秀は元亀元年(1570年)末から、比叡山の近隣にある宇佐山城に在城しており、以来、近隣の土豪や村の懐柔工作にあたっていた。焼き討ちの十日前、光秀が地元の土豪に宛てた書状には、山麓をなで斬りにすると、その決意のほどが述べられている。焼き討ちの後、信長は光秀の果たした役割を評して、延暦寺領を含む、滋賀郡約5万石の所領を委ねている。光秀には合戦で戦死した将兵の菩提を丁重に弔うなど、慈悲深い面もあったが、このように冷酷に徹する一面もあった。光秀には、信長とも通じる冷徹かつ合理的に物事を進めるところがあり、それが重用された一因ともなったのだろう。


その後、延暦寺は、豊臣秀吉の時代に再建が始まり、さらに徳川時代になって多くの建物が復興された。現在、延暦寺の中心とも云える根本中堂は、徳川家光による再建である。延暦寺は険しい山上にあるが、現在は車やケーブルで気軽に行ける寺院となっている。しかし、今だにかつての悲劇を物語る遺跡も残されている。昭和初期、ケーブルの建設工事中に多数の石仏が発見され、それらは山麓に一箇所にまとめられて祭られた。この石仏群は、焼き討ちからまだ間もない頃、地元の人が大勢の死者の冥福を祈って、作ったものであると伝えられている。比叡山坂本ケーブルの脇にある、霊窟と呼ばれる場所がそれである。




比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑麓にある石段


かつては、ここから延暦寺に上がっていったのでしょう。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の略図


昔は麓にも寺院が広がっており、坂本は延暦寺の門前町として栄えました。延暦寺は全国各地に寺領を所有しており、それが坂本を通じて寺に収められていたそうです。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の象徴とも言える、根本中堂


この建物は、寛永19年(1641年)、徳川家光の手によって再建されたもので、国宝に指定されています。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

戒壇院(かいだんいん)


延宝6年(1678年)建立の重要文化財です。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め。


写真中央、琵琶湖東岸に見える山の右端付近に、信長の居城、安土城跡があると思われます。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め


眼下に広がるのは坂本の町で、奥には大津市街が広がっています。今でこそ平穏な町ですが、信長による焼き討ち時には、麓は焼き尽くされ、阿鼻叫喚の地獄が広がっていたのでしょう。


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