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戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
近江坂本城は、滋賀県大津市坂本にある平城である。
現在の坂本城は城域に国道が走り、宅地開発も進んで、坂本城跡の石碑と、光秀の石像がぽつんと立つだけの何とも侘しい城跡となっている。遺構らしい遺構は残されておらず、琵琶湖の渇水時に僅かに石垣の礎石が見られる程度である。だが、かつてここには華麗なる水城があった。
坂本城は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを経て、その部将である明智光秀に坂本の地が委ねられてから、築城が始まる。この坂本は比叡山の門前町として栄え、要路の北国街道(西近江路)がすぐ脇を通り、琵琶湖の水運の要衝でもあった事から、当時、日本有数の商業地として賑わっていた。この地に坂本城を築くよう命じたのは信長であった。琵琶湖は畿内の物流、交通の要であり、それに目を付けた信長は湖に面した地に多数の城を築かせている。
まずは琵琶湖西南、明智光秀の坂本城、続いて琵琶湖東北、羽柴秀吉の長浜城、琵琶湖西北、津田信澄(信長の甥)の大溝城、そして、琵琶湖東岸にあって、それらの城の中心となるのが、信長の居城、安土城であった。安土城の脇を固める形になるこれらの城には、信長にその能力を認められ、信頼を受けていた者が配されたのである。そして、それらの城の先駆として築かれたのが坂本城であった。
坂本城には、信長の構想力、光秀の築城術に加え、当時の先端技術がふんだんに注ぎ込まれていた。当時、瓦葺きによる城は少なかったのだが、坂本城では大々的に取り入れられた。また、坂本には寺院が多く、石垣作りが盛んであった事から、その技術集団である穴太衆の手によって総石垣の城となった。本丸は琵琶湖に突き出し、陸地に向かって二の丸、三の丸と築かれた。
それぞれの区画間に堀が廻らされ、三重の堀を成していた。しかも、それら全てが琵琶湖に直結していた。城には船着場があり、船での往来も可能であった。そして、本丸には日本初とも云われる天守閣が建てられ、それに対面する形で小天守閣もあったと推察されている。この様に瓦葺き、総石垣、天守閣といった新機軸が取り入れられた坂本城は、近世城郭の走りとも云える存在であった。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスも坂本城を見聞しており、「豪壮華麗で、信長が安土山に築いたものに次ぎ、明智の城ほど有名なものは、天下にないほどであった」と述べている。余談であるが、天正5年(1575年)5月14日、薩摩の武将、島津家久が上京して来た折には、光秀に舟遊びに誘われ、坂本城の付近を周遊するといった出来事もあった。
翌5月15日、城下にて連歌師、里村紹巴も交えて茶会が催され、この時にも家久は招かれた。しかし、家久は根っからの武人であったからか、茶道に疎く、ただ湯を所望するのみであったと伝わる。また、天正6年(1578年)には、堺の商人、津田宗及が坂本城に招かれて、茶会が催されている。茶会後、宗及は城内より、御座船を用いて安土に向かった旨が「天王寺屋会記」に記されている。
坂本城には光秀の妻子が住まわり、この華麗な城郭は、明智一族の繁栄の象徴でもあった。だが、それが急転直下するのが、天正10年(1582年)6月2日に光秀自身が起こした本能寺の変である。そして、同年6月13日、山崎の戦いにて光秀が敗死すると、坂本城にも羽柴秀吉の軍が押し寄せる。坂本城には、光秀の腹心であった明智秀満が僅かな一族、郎党と供に城に立て篭もった。
秀満は既に死を決しており、一緒に燃えるには惜しいとして、多くの宝物を羽柴軍の指揮官、堀秀政に明け渡したそうである。しかし、ルイス・フロイスの記述によれば、羽柴軍が坂本城に到着するにあたって、多量の黄金を湖に投げ入れたとも。いずれにせよ、それらを終えると秀満は一族を刺し殺してゆき、城に火を放った。そして、天下第二の城と謳われた坂本城は、明智一族と供に、炎の中へと消えていった。
戦後、羽柴秀吉の命を受け、丹羽長秀が坂本城を再建した。だが、天正14年(1586年)、琵琶湖南岸に大津城が築城されるに当たって、坂本城の廃城が決定する。大津城の築城に坂本城の資材が転用されたため、その遺構はほとんど消え去る事となった。その後、坂本城は人々の記憶から忘れ去られ、その位置も長らく不明となった。だが、昭和54年(1979年)、住宅開発に伴って発掘作業が実施されたところ、坂本城本丸付近と見られる場所から、厚さ10cmから30cmにもなる焼土層が発見された。
この焼土層からは、安土桃山時代の物と見られる変色した鬼瓦や陶磁器等が出土した事から、坂本城が焼け落ちた時に生じたものと推測された。出土品の中には中国産の白磁、青磁や、銭貨、鏡、刀装具が数多く発見され、また、本丸跡からは、城主とその一族が居住していたと見られる邸宅の石組みも見つかった。これらの発掘調査から、城主とその一族が優雅な生活を送っていた事が窺えた。これらは、明智一族の夢の跡であった。