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名古屋弁と織田信長

2008.10.26 - お笑い歴史街道
日本には様々な方言があり、なかには同じ日本語とは思えない方言もあります。私が住んでいる所では関西弁ですが、女性が喋るとかわいらしくて、男性が喋ると柄が悪いと思われているんじゃないでしょうか・・・

名古屋弁は余り知られていませんが、独特の方言があるようでして、現在も使われているかどうかは分かりませんが、話をする時「にゃあ」とか「みゃあ」を付けて喋るそうです。昔、織田信長が部下に突撃を指示する時も、「おみゃーら、突撃にゃー!」って言っていたんでしょうかね?

信長はせっかちなので遅れる部下がいればこう言ったのではないでしょうか?

「た~けっ!! おみゃー 遅いだぎゃー! とろくせゃあ 奴ばらは打ち首にするみゃあ!」


そして、信長と尾張兵の戦い振りはこのようなものであったのではないかと。

信長「ワシに続けにゃー!」

      ∧_∧
⊂二二二( ´∀`)二⊃
      |   /
      ( ヽノ
      ノ>ノ
  三   レレ


尾張兵「にゃーーー!!!」

  
 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧  ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧∧_∧ ∧_∧
 (∩´∀`)∩´д`)∩´∀`)∩´∀`)∩´∀`)∩´∀`)∩´ё`)∩´∀`) ∩   
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この織田軍団と戦った敵対勢力は拍子抜けして力が抜けてしまい、そこを突かれて敗北に至ったという。それが織田軍団快進撃の秘訣であった。

しかし、その織田軍団にも弱点はあった。
マタタビや肉の切れっ端を見せつ
けられると「大好物にゃー!」と追いかけてしまい、そこを突かれて苦杯をなめる事もしばしばあったという。嘘のような嘘の話である。


m(。-_-。)m スイマセン 尾張名古屋の方、殴らないでください。



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高野山

2008.10.26 - 戦国史 其の一
高野山は、和歌山県東北部にある真言密教の大寺院です。

2006年の秋、私は高野山を訪れてきました。車で2時間ほどかけて高野山の麓に着きましたが、ここからがまた長い!4、50分ほど山道をひたすら上がって行ってようやく高野山に到着したと記憶しています。そこはまさに、山上の都市といった観がありました。


金剛峯寺、奥の院、霊宝館、等あちこちを見て回りましたが、私的に一番見応えがあったのは、奥の院に行く道筋の傍らにある有名な戦国武将の墓の数々でした。ここ高野山には、豊臣秀吉、織田信長、武田信玄、上杉謙信、石田三成、伊達政宗など、戦国を代表する錚々たる顔触れの武将達の墓や供養等が建立されています。それは大名の権力を誇示するかのような、巨大な独特の形であったり、質素な小さな墓まで様々でした。それらの墓は大きな杉木立と緑の苔の間にあり、静かで厳かな雰囲気を漂わせていました。


この高野山なんですが、戦国期には17万石余りの寺社領を有する、戦国大名並の戦力を持った勢力であったそうです。宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、高野山には坊主、4、5千人が居住しており、一大共和国の様相を呈していたともあります。そして、17万石といえば1万石で250人の兵力を得られたとすると、4250人の兵力を養えるという大体の計算になります。 古くからの歴史がある寺院であり、信者を始めとする多くの人々からの寄進も有るだろうし、実際にはもっと多くの戦力を養う、大きな影響力のある勢力だったのではないかと思われます。事実かどうかはわかりませんが、高野山は数万の僧兵を擁していたとも云われています。


そういった高野山の勢力には、各国の戦国大名も目を付けていた様で、ある者は協力を仰ぎ、ある者は脅威に思ったようです。上杉謙信は天下統一のために是非、高野山の力を借りたいという手紙も残っているそうです。織田信長の場合は、高野山を目障りと感じたのか、これに兵を差し向けています。天下統一の途上にあった織田信長は、自らの御膝元とも言える畿内に、自分の権力が及ばない地域が有る事が許せなかったのでしょう。それと高野山は謀反を起こした荒木村重の残党を匿った事もあって、信長は高野聖を数百人殺害し、天正9年(1581年)には軍を派遣し、高野攻めを行います。その後も両軍は対峙し続け、信長はやがて総攻撃を行う事とし、高野山の包囲を続けます。
 

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こった事により、織田軍は囲みを解き、高野山は難を逃れます。この本能寺の変が起こらなければ、やがてはこの高野山も、比叡山延暦寺の様に焼き討ちの憂目を免れなかったでしょう。その信長の墓が、高野山に建立されて供養されているのは、何とも皮肉です。その後、高野山は次の天下人、豊臣秀吉とも対立します。秀吉は紀州攻めを決行して、雑賀、根来寺を焼き払い、次に高野攻めを行う準備をします。それを見た高野山は秀吉に和を請い、2万石に減封された上で、武装解除します。こうして、高野山は近世の統治体制に取り込まれてゆきます。


こうした事例は、高野山だけでなく、全国の寺社仏閣に適用されました。次の天下人、徳川家康の時代になると、高野山はその庇護を受けて、後の世まで存続していく事になります。 そして、後世に数多くの文化財を伝え残しています。


高野山のHP




大坂夏の陣、影の主役

2008.10.26 - 戦国史 其の一

戦国最後の大戦、大坂夏の陣では、真田信繁(幸村)が大活躍して、現在にまでその名を轟かせている。だが、その影では、毛利吉政もそれに勝るとも劣らない活躍をしていた。尚、この武将は、勝永の名で知られているが、一次資料では吉政としか記されていない。


天正6年(1578年)、毛利吉政は、豊臣秀吉の譜代家臣であった、毛利吉成(勝信)の嫡男として生まれる。吉成は、秀吉の天下制覇の戦いに従軍したり、使者として交渉したり、代官として物資輸送に携わったりと、長きに渡って秀吉に貢献した。天正15年(1587年)には、その活躍と忠節をもって、豊前国の2群6万石余を与えられ、晴れて大名身分となった。この時、吉政も、そこから1万石を与えられたとされている。この恩義を毛利父子は、終生、忘れなかった。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが起こると、毛利吉成、吉政父子は、豊臣方の西軍に味方する。だが、肝心の西軍主力が敗北してしまったため、毛利父子は所領を没収された挙句、その身は、土佐の大名、山内一豊に預けられてしまう。


失意のどん底にあった毛利父子であったが、山内氏は厚遇して、客分として扱ってくれた。父、吉成は高知城の西郭に住まって、一豊の側近くに仕え、吉政は城から離れた久松に住まっていた。毛利父子は比較的、自由な身で、鷹狩りをしたり、茶の湯をする事もあったようだ。また、吉政は度々、家臣を大阪に差し向けて、大野治長と連絡を取っていた。そのまま長い歳月が流れ、慶長15年(1610年)5月25日には、正室の安姫(龍造寺政家の娘)が死去する。この安姫との間に、嫡男の式部勝家と、次男の太郎兵衛が誕生したと見られる。吉政には側室が1人確認されており、その女性との間に、後に娘が1人誕生している。慶長16年(1611年)、大野治長は、吉政に宛てて、豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見した事を伝えてきた。同年5月7日、父、吉成が死去する。


慶長19年(1614年)、大阪で戦雲が垂れ込み始めると、土佐の吉政の元に豊臣家の使者が現れて、大阪への入城を促される。吉政は山内氏の庇護の下、安定した生活を送っており、このまま留まっていれば、重臣格に取り立てられていただろう。だが、かつての主恩をいささかも忘れていない吉政は、全てを捨てて大阪を目指す決意を固めた。しかし、山内家の当主、忠義は徳川方として出陣するに当たって、吉政を厳しく監視しておくよう、父の康豊に言い含めていた。そのため、吉政はなかなか動きが取れなかった。そこで、忠義の力添えをしたいので、従軍を許してもらいたいと康豊に懇願する。そして、人質として嫡男、勝家と、次男、太郎兵衛を差し出すと述べたので、殊勝な心がけと出陣を許された。


同年10月、吉政は、家臣の宮田甚之丞をやって勝家を配所から連れ出させ、合流してから、夜間、浦戸を出港した。吉政はかねてから自前の船を所有しており、それに乗って大阪を目指さんとした。翌日、勝家の失踪を知って、康豊は吉政の真意を悟り、すぐに後を追わせたが、最早、手遅れであった。同年11月頃、吉政は上陸して、大阪城下に近づいたが、周辺は既に徳川方の統制化に置かれていたらしい。そこで、吉政父子は、馬の飼葉の中に身を潜めて、ようやく城中に入り込んだと云う。入城後、吉政は、真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、明石全登らと共に5人衆の1人として重んぜられた。やがて東軍が押し寄せてくると、吉政は、山内氏の陣所に向けて矢文を射ち込み、篭城に到った子細を説明し、これまでの厚遇に対する礼を述べたと云う。この大坂冬の陣では、幾つか激しい局地戦も起こったが、吉政の受け持った場所は不明で、活躍する場面も無かった。


だが、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が始まると、吉政は一世一代の大活躍を見せる事になる。この時の両軍の戦力は、豊臣方5万5千人に対し、徳川方は15万5千人であったとされており、豊臣方、圧倒的不利の状況であった。しかも、大坂城は冬の陣の講和の際、外堀を埋め立てられており、豊臣方は一か八か城を打って出るしか、無かった。同年5月6日、道明寺にて合戦が起こり、後藤基次隊が突出して10倍もの徳川方と戦った。この時、真田隊、毛利隊は遅れて戦場に到着して、1人奮戦していた基次を戦死させてしまう。吉政は後藤隊の敗兵を収容し、信繁が殿軍を務めて味方の撤退を成功させた。この後、毛利隊は天王寺に、真田隊は 茶臼山に野営して翌日の合戦に備えた。


同年5月7日、夏の陣、最終決戦の日、豊臣方は徳川方を引き付けるだけ引き付けてから、豊臣秀頼の出陣をもって乾坤一擲の攻勢をかけて、一気に徳川家康、秀忠父子を討ち取る事とし、各部隊、持ち場に着いた。だが、正午頃、徳川方の本多忠朝、松平忠直の先陣争いから始まった、無秩序な進撃に豊臣方は巻き込まれてしまう。 吉政は兵4千人を率いて天王寺南門に布陣していたが、徳川方の本多忠朝隊1千人に挑まれて麾下の部隊が応戦してしまう。吉政はそれを止めようとしたものの、銃撃戦は激しくなる一方であった。吉政は已む無く攻撃を開始、豊臣方は作戦とは違った形で戦いが始まってしまう。毛利隊は銃撃戦の後に突撃を開始し、たちまち本多隊を切り崩して、本多忠朝を討ち取った。続いて、保科正光、正貞兄弟の隊と交戦を開始するが、正貞に槍傷を負わせた上、これも早々に切り崩した。 この保科隊を援護せんと、今度は小笠原秀政隊が突出してきた。


小笠原隊は、毛利隊先手の竹田永翁の隊を敗走させると、続いて毛利本隊に襲い掛かる。これを見た大野治長の隊は援護に回って、小笠原隊の右備えを攻撃し、吉政も自ら兵を率いて左備えを攻撃した。この挟撃を受けて小笠原隊は崩れ出し、秀政は瀕死の重傷を負って後送され、その嫡男、忠脩(ただなが)は槍衾30本余を受けて戦死、その弟、忠真も重傷を負って後送された。忠真は命を取り留めたが、秀政は、この夜に死亡する。勢いに乗った毛利隊は、真田信吉、信牧兄弟、浅野長重、秋田実季、内藤忠興、松平康長といった諸隊を、片っ端から撃破していった。毛利吉政の嫡男、16歳になる勝家は、初陣ながら鎧武者を1人討ち取って、その首を父の前に披露した。吉政は、「見事である。しかし、その首は捨てよ。この後、敵を討ち取っても、その首は取らずともよい。そのまま打ち捨てにせよ」と言い付けた。再び前線へと戻っていく勝家の後姿を見送りながら、吉政は「惜しき者よ」とつぶやいた。この日、勝家はもう1人、鎧武者を討ち取ったが、父の言葉通り、首は打ち捨てにした。


茶臼山の真田信繁は、毛利隊が戦端を開いた後もしばらくは戦況を窺っていた。だが、毛利隊が徳川諸隊を次々に撃破していくのを見て、ここが戦機と動き出す。そして、信繁は赤備えの精鋭3千5百人を率いて、真向かいの松平忠直隊1万5千人に向かって突撃を敢行した。そして、両軍、入り乱れての激闘の末、真田隊はこれを突破する。真田隊は勢いを保ったまま、徳川本隊1万5千にぶつかって、三度に渡って突撃を敢行した。この激しい攻勢に徳川隊は浮き足立って、混乱する。真田隊は家康の本営まで肉薄し、馬印まで倒した。家康はたまらず後退し、討死も覚悟する程であった。この時、毛利隊も徳川本隊に迫っており、真田隊と共に挟撃した、あるいはその前面の徳川諸隊と渡り合っていたとされる。家康を追い詰めた真田隊であったが、この後、態勢を立て直した松平忠直隊の反撃を受けて、徐々に押し戻されていく。そして、午後15時頃、信繁は、茶臼山北方の安井神社まで辿り着いたところで力尽き、討死してしまう。


真田隊の全滅をもって豊臣方の攻勢は潰え、総崩れとなって城へと引き戻っていく。そんな中、毛利隊は殿を務めて、敗兵の撤退を助けていた。そこへ、徳川方の、藤堂高虎隊と、井伊直孝隊が追撃してくると、吉政は反撃に打って出た。毛利隊は連戦に次ぐ連戦で疲労の極みにあったが、味方の退却を助けるべく、戦場に踏み止まった。そんな毛利隊を見て、大野治長、浅井周防の隊、その他、遊軍となっていた残存部隊も集まってきて、最後の反転攻撃に転じる。井伊隊は苦戦に陥って、旗奉行2人が討ち取られ、藤堂隊も敗走しかかって、激怒した高虎は、「敗走する者は射殺せよ」と喚き叫ぶほどであった。ようやくのところで、井伊隊、藤堂隊は持ちこたえ、細川隊の来援をもって、毛利隊に鉄砲の集中射撃を浴びせかけた。吉政は頃合と見て退却に転じ、大阪城と天王寺の中間にある小橋野(おばせの)という地を通過していった。


藤堂隊は逃すまいと猛追してきたが、ここで吉政は、埋火(まいび、火縄の付いた火薬箱)をもって、食い止めんとした。そして、藤堂隊が接近したところ、堤に並べ置いた埋火を次々に爆発させて、大混乱に陥らせた。その隙に毛利隊は、城へと退き取っていった。 最後の決戦の日を戦い抜いて、吉政は大阪城まで帰り着いた。そして、この時、家臣の宮田甚之丞に遺品を託して、土佐に落とさせている。それは、水牛の兜と、信光作の名刀、豊臣家から拝領したとされる陣羽織であった。これらの遺品は、やがて土佐山内家の預かるところとなって、現在まで残されている。翌5月8日、豊臣家は最後の時を迎え、秀頼と淀殿は自害して果てる。秀頼の介錯を務めたのは、大野治長、速水甲斐守、あるいは吉政であったと云う。


主君の最後を見届けた後、吉政はあの世までもお供せんと、自害して果てた。毛利豊前守吉政、享年38。その嫡男、勝家も豊臣家に殉じて果てた。毛利式部勝家、享年16。豊臣家の象徴たる、大坂城天主は炎を上げて燃え盛り、やがて崩れ落ちていった。100年余に渡る戦国の大乱は、大坂落城をもって終わりとなった。真田信繁ら他の浪人集は、武名を上げんとして、または御家再興を夢見て戦ったのだが、吉政だけは、ただ純粋に豊臣家の為に戦っていたと思われる。土佐には、次男の太郎兵衛、吉政の妻と2歳になる娘が残されていたが、山内氏に身柄を拘束されて上方に送られた。太郎兵衛は処刑されたが、妻と娘は助命されて、家康の側室、お夏の方に預けられた。妻は侍女として長く仕え、娘は長じて有徳人に嫁ぎ、やがて母も呼び寄せて暮らしたと伝わる。



主要参考文献、今福匠著「真田より活躍した男 毛利勝永」

今川氏真のまろ日記

2008.10.26 - お笑い歴史街道
今川氏真を茶化して、思いっきりふざけて書いてみたいと思います。


(氏真) まろは、東海一の弓取りと謳われたかの今川義元の嫡子にして、東海一の蹴鞠使いと畏怖される今川氏真におじゃる。これから日常を語るでおじゃる。


まろは、御父上から勉強しろ勉強しろと言われて孫子やら戦国策〈兵法書)を渡されたのじゃが、これを読むとなぜかすぐに深い眠りについてしまうのじゃ。


まろはこれではいかんと思うて春画(エロ画)を見て頭を銀、銀とさせてから赤本(江戸時代の子供向けの本)を見て勉学に励んでいるのじゃ。


まろは今から出掛けるので、おめかししているでおじゃる。たっぷり白粉とお歯黒を塗って、鏡を見てみると、ああ!なんという美男子である事か!


           ____
    +     ./ /  \\
        / (●)  (●)\
      /   ⌒ノ(、_, )ヽ⌒  \
      |      `-=ニ=-      | ハァ 我ながら、惚れ惚れするでおじゃる
      \      `ー'´      / +
      /     ∩ノ ⊃  /
      (  \ / _ノ |  |
      .\ “  /__|  |
       . \ /___ /


この瓢箪のような顔、そして円を描くような体形、さらに芸術的なまでのこの三頭身、どれをとっても素晴らしい!後の世の者はまろの事をこう言うでおじゃろう。

戦国の世のガクトであると!

所でどこに出掛けるかというと、これから悪商人の接待を受けに行くのでおじゃる。悪商人は良商人を陥れて、自分を取り立ててくれと言うのでおじゃる。

(悪商人) ささっ、氏真様、これを袖にお納めください。

(氏真) おおっこんなに!
まったく、仕方のない奴じゃのう、じゃがこういう出来の悪い奴ほど可愛い者なんじゃて。言う事を聞かざるをえんのう、愛い奴、愛い奴、おーっほっほっほ。そして、この者にはあの台詞を言わねばならんのう、男なら誰もが憧れるあの台詞を。


(氏真) お主もワルよのう。 (かっ快感っー!!!)

(悪商人) いえいえ氏真様には適いませぬ。


(悪商人) あーはっはっは!氏真様、悪事をすると清々しい気分になりますな!


    /\___/ヽ
   /''''''   '''''':::::::\
  . |(●),   、(●)、.:| +     もう、ワクワクドキドキ!
  |   ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::| 
.   |   ´トェェェイ`  .::::::| +
   \  |,r-r-|  .::::/     +
,,.....イ.ヽヽ、`ニニ´ーノ゙-、.        /^)
:   |  '; \_____ ノ.| ヽ iヽ __ ‐┘(
    |  \/゙(__)\,|  i |´⌒ )二  ト、 



(氏真) まったくもって、そちの言う通りじゃ。笑いが止まらぬわ。おーっほっほっほ!
       
  ____
        /_ノ  ヽ、_\                   
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/  あーひゃっひゃっひゃひゃwwwwwwwww
|     ノ     | |  |   \  /  )  /   あーひゃっひゃっひゃひゃwwwwwwwww
ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /        アッーーーーwwwwwwwww
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))




なおこの物語は完全なフィクションです。信用なさらないように・・・
上記では思いっきりふざけてしまいましたが、今川氏真を少し、弁解してみます。

この人は国を失った凡将として描かれがちなのですが、まったくの無能ではありません。戦国武将としての資質は父、義元よりも劣っていたようですが、領内の統治にはある程度、功績を残し、また和歌に秀で、剣術にも長けていたようです。武田を敵にまわさなければ、あるいは領国を保っていけたかもしれません。


または、生まれた世界が公家だったならば、才能を生かして名声を残した事でしょう。なお、氏真が落ちぶれた後も妻の早川殿(北条氏康の娘)はずっと夫に寄り添っていたそうです。早川殿が(1613年)に亡くなると氏真も(1614年)後を追うようにして亡くなります。 どん底にあっても、二人で励ましあいながら生きていたのかもしれません。



初めまして

2008.10.25 - 初めまして
忍者ブログを始めてみます。
ここでは、私が今までPCに書き溜めておいた、様々な歴史エピソードを載せていこうと思っています。尚、私はただの歴史好きの一般人であって専門家ではありません。知ったかぶりして、間違った事を書くかもしれませんので、参考程度に御覧になってください。後日、間違いを見つけたり、新事実を発見した場合、記事を書き直す事もあります。

私は教科書に書かれた歴史や、テレビが流す歴史を、あまり信用しておりません。歴史は、一つの出来事につき何種類もの書を読むなど、自分で様々な情報を集めてどれが真実か見定め、そして、客観的かつ多面的な視点に立って見るものだと思います。

ブログタイトルの「叛骨の焔(はんこつのほむら)」ですが、私は反骨心のある人物が好きでして、自分自身もそうありたいと思い、こう名付けました。そして、ハンドネームの重家は、戦国時代の北越の武将、新発田重家からお借りしました。

コメントは基本的に受け付けていますが、一部記事に関しましては、海外のコメントスパムがしつこいので、コメント禁止にしております。ご了承、願います。

ブログは、ゆっくり発展させていきたいと考えています。
では、よろしくお願い致します。



 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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