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長水城(ちょうずいじょう)

長水城は、兵庫県宍粟郡山崎町にある山城である。長水山(標高584メートル)の山上にあって、西播磨有数の山城である。ここには知られざる一族の知られざる歴史が埋もれている。



長水城は、分和年間(1352~56年)頃、播磨守護である赤松則裕が険阻な長水山に砦を築いたのが、始まりであるとされている。文明元年(1469年)赤松氏の支族である、宇野氏が城主として入り、西播磨の守護代として重きを成した。以後代々、宇野氏は長水城を居城として、徐々に勢力を伸ばしていった。宇野氏は赤松氏に従いつつも、周囲の状況に応じて、対立する事もあった。



永正17年(1520年)赤松氏に従って、浦上氏と戦う。


天文7年(1538年)山陰の尼子氏が播磨に侵攻してくると、これに属し、赤松氏と戦った。


天文10年(1540年)但馬の山名氏が宍粟郡に侵攻して来るが、これを撃退する。


永禄9年(1566年)尼子氏が滅亡すると、代わって台頭してきた毛利氏に属した。



宇野氏の全盛期を築き上げたのが、宇野政頼である。この政頼の時代に宇野氏は、長水城を中心に篠ノ丸城、常屋城、香山城など、幾つかの支城を合わせ持つ、播磨西北の有力国人に成長した。 その勢力は宍粟郡一円に加えて、揖保郡、飾東群、但馬の美方群に及び、石高に表すと12万石余になった。 しかし、天正元年(1573年)を迎えると、宇野氏は西に毛利、東には織田といった大勢力の狭間に置かれ、いずれかの傘下に入らねば存続は危うかった。そこで、同年、政頼は京都に使者を送って、織田家との提携を模索する。



翌天正2年(1574年)政頼は長水城にて嫡男、満景を殺害する。この事件の詳細は不明であるが、満景とは外交方針の違いを巡って対立したらしい。そして、同年中に政頼は、次男、祐清に家督を譲った。天正5年(1577年)織田家の部将、羽柴秀吉が播磨に入り、中国攻めを開始すると、一時、宇野氏は織田家に恭順したらしい。しかし、翌天正6年(1578年)4月、毛利軍が大挙して播磨に押し寄せ、織田方の上月城を落とすに至って、宇野氏は毛利方に付く姿勢を明確にした。 宇野氏が毛利氏に鞍替えした理由については、この時の毛利氏の勢いが強かったのと、領内に多数存在する、一向宗門徒の意向を無視する事が出来なかった事が挙げられる。



播磨はかねてから一向宗の盛んな地であり、加賀、三河、安芸と並んで本願寺の四大勢力地の一つであった。一向宗は概ね反信長であり、これを敵に回せば統治がままならなくなる恐れがあったからである。しかし、天正7年(1579年)3月、備前の戦国大名、宇喜多直家が織田家に寝返ると言う、重大事態が起こって、宇野氏や別所氏などの播磨の親毛利勢力は孤立し、強大な織田家相手に独力で戦わねばならなくなった。天正8年(1580年)1月、三木城の別所氏が力尽きて滅亡すると、宇野氏は侵攻してくる織田軍の矢面に立たされる事になる。そして、同年4月、羽柴秀吉は大軍をもって、宇野氏への攻撃を開始した。秀吉軍によって宇野方の支城は次々に落とされてゆき、4月下旬には長水城も囲まれた。城に篭った人数は3千人余と伝えられ、秀吉軍の方は1万人はいただろう。



長水城は堅固な山城と、麓の平城の両構えだった。麓の平城は、五十波(いかば)と清野の二箇所にあった。これらは揖保川近くの小高い丘に築かれており、宇野一族は普段はここを居館として用いていた。 五十波と清野の2つの構えには、政頼と政祐(祐清の伯父)が立て篭もって、秀吉軍を迎え撃った。4月24日から始まった戦闘は3日間続き、4月26日、宇野方は奮戦したものの、数に勝る秀吉軍によって押し切られ、五十波と清野の構えは乗っ取られた。宇野方は250人余が討ち取られたが、政頼と政祐は辛うじて背後の長水城へと逃れた。同時期、長水城の南西にある、篠の丸城も落とされた。



秀吉軍は城下を焼き払い、さらに長水山へ攻め上って多数の小屋を焼き払った。その上で要所に三つの砦を築いて城を徹底的に封鎖する。窮した城の者が逃れ出ても、秀吉は皆、捕らえるか首を切らせた。孤立無援に陥った長水城では結束が乱れ始め、5月9日
には内通者が現れて、それに呼応した秀吉軍の激しい攻撃を受けた。翌5月10日、城は炎上し、最早、落城は必死の情勢となった。同日夜半、祐清は一族郎党数百人を伴って城を抜け出し、縁者がいる美作に逃れんとした。 宇野一族は夜陰に紛れ、尾根伝いの間道を抜けていったが、途中で秀吉軍に見つかってしまう。ここで、幾人もの心ある武士が命を捨てて踏みとどまり、一族の逃亡を助けんとした。



近臣達が防戦に努める中、宇野一族は千種川の畔、大森まで辿り着いたが、川を渡る前に秀吉軍に追いつかれ、ついに政頼、祐清父子も自刃に追い込まれた。宇野一族の大半が討死したが、僅かに政頼の末子が逃げ延びたとされる。播磨西北の一大領主であった宇野一族は、ここに滅亡した。「信長公記」によれば、長水城が落城したのは6月5日であったとされているが、宇野一族の滅亡は5月10日の出来事であったと思われる。 以後、城が用いられる事はなく、廃城となった。その後、宇野一族が落命した大森の地には、子孫が供養塔が建てて、その冥福を祈った。供養塔は今でも、山中に静かに佇んでいる。




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↑長水山の山頂


このすぐ下には民家があって、人が住んでおられます。そこを通りかかった時、犬が思いっきり吼えながら、私に迫ってきました。私はそれほど怪しい人間なのか!?まあ、否定はしないが・・・



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↑麓を流れる川は揖保川


長水山からの眺望はなかなか良いです。しかし、結構、傾斜がきついので、この山を登る場合は飲み物を持参するほうがよいでしょう。



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↑恐竜出現!?


長水山を登っている最中、蛇が横切り、スズメバチと遭遇し、犬に吠え立てられ、最後に謎の生物に襲われました。よく見ると大きなカエルでして、おそらく山の主だと思われます。



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↑山の主(おそらくヒキガエル)


山の主 「わしに断りもなく、山に入ってくるでない!」

私 「山の主に断りもなく山に入って、真に申し訳ございません・・・」



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真田家の憂鬱

2009.10.08 - 戦国史 其の二
真田信之は、かの有名な真田信繁(幸村)の兄として知られている。そして、表裏比興の者と称された父、真田昌幸とは違い、温厚で誠実な人柄であったと伝えられている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、真田父子3人は敵味方に分かれた。昌幸、信繁は西軍へ、信之は東軍へ付き、これが3人の永遠の別離となった。


戦後、信之は自身が領する沼田2万7千石に加えて、昌幸の旧領、上田3万8千石と、3万石の加増を受けて合計9万5千石の大名となる。しかし、昌幸と信繁の死罪は濃厚であった。そこで信之は、恩賞と引き換えに、父と弟の命を救ってもらいたいと徳川家康、秀忠父子に懇願する。自らの命に代えてもとの必死の願いは、家康の心をも動かし、父と弟の命は助けられる事となった。この後、昌幸と信繁は九度山に蟄居となった。3人は手紙でお互いの消息を尋ねあったが、父子3人が再び集う事はなかった。慶長16年(1611年)、昌幸は65歳で没し、慶長20年(1615年)、信繁は大坂夏の陣で華々しく散った。享年49。残された信之は独り、大名への道を歩んで行く。


元和8年(1622年)、真田信之は、幕府の命によって上田9万5千石から松代13万5千石に転封される。所領は増やされたものの、馴染み深い上田の地を離れる事に、内心は複雑であった。そして、この時、幕府から分家を建てよとも命令されていた。やがて、この分家が真田家に問題を引き起こす事になる。信之は、父、昌幸や弟、信繁が徳川家に何度も煮え湯を飲ませていた事から、徳川幕府には大変、気を使っていた。おそらく、幕府も内心は真田家を快く思っていなかったであろう。信之はいらぬ嫌疑を受けぬよう、幕府から仰せつかる賦役をそつなくこなし、藩政においては倹約に努めながらも領内の発展に心を砕いた。


明暦3年(1657年)、信之は92歳で隠居するが、長男、信吉は早世していたため、次男の信牧に家督を譲った。ところが、万治元年(1658年)2月、信牧は父に先立って死去する。そのため、信牧の子、幸道が僅か2歳で家督を継いだ。しかし、これに沼田領を治めていた、信利(信澄とも)が異論を唱える。信利は信吉の子であった。そのため自分が真田家の長男筋であり、松代藩を相続する権利があると主張する。


それと、信利の母は、徳川譜代である酒井家の出身であったから、その縁から幕府の実力者、酒井忠清が背後に控えていた。そのため、家中では信利を推す声が優勢であった。一方、幸道に仕える老臣達はこれに反発し、信利が家督を継いだなら合戦も辞さぬと連判状を認める有様であった。この真田家中を二分する騒動に信之は心を痛め、一時は御家の滅亡も覚悟したと云う。


だが、老齢の信之が家中を主導し、最終的に幸道が家督を相続する事で決着した。しかし、この結果、信利は3万石の沼田藩として独立し、幸道は松代10万石となって真田家は分裂した。万治元年(1658年)10月17日、この御家騒動を収めた後、信之は安堵したのか、ほどなくして93歳で息を引き取った。当時としては異例の長寿であったが、信之の頭脳は最後まで明晰であったようだ。だが、この信之の死からほどない万治元年(1658年)12月、信利は、今度はその遺産の分配を求めてきた。


信之は生前、倹約に努め、その死の際、26万5千両もの遺金が残されていた。遺金の内、15万両は松代城に、11万5千両は信之の隠居地であった柴の館に残されていた。信利は老中、酒井忠清に訴え、莫大な遺金と諸道具の相続権を主張した。忠清は大目付を派遣して、真田本家に遺金の配分を迫った。この突然の要求に真田家は再び、大揺れとなった。この万治元年は真田家に取って厄年であった。2月には信牧が死去して御家騒動が勃発し、それを収めたと思えば分家が独立し、10月には信之が死去して、今度は遺産相続争いが勃発したのである。


この事態を受けて、本家の老臣達は結束して事に当たった。道理を説いて大目付を納得させ、遺金の内、松代城の15万両は守られた。そこで信利は、柴の館の遺金、11万5千両の取得を狙った。信利を後援する忠清は、この一件が破談となれば、老中の面目が潰れ、取り返しがつかなくなるであろうと、老臣達に警告した。老臣達は苦慮したが、最終的には柴の遺金、11万5千両を配分する事で話はまとまったようである。この騒動には幕府も介入してきて、まかり間違えば真田家の取り潰しにもなりかねない事態であったが、本家の老臣達は結束してこの危機を乗り切った。信之は良き家臣を残していたと言えよう。


この後も信利は、あくまで松代藩に対抗心を燃やし、検地を断行して、沼田藩は表高3万石であるのに14万5千石であると幕府に申告した。本家と同等の家格にならんとして、沼田城に優美な5層の天守閣を建て、さらに江戸の藩邸も豪奢なものに造り替えた。これらの付けは全て、領民へとまわされた。


天和元年(1681年)、沼田藩の領民は、重税と折からの飢饉によって窮乏し、餓死者が続出する事態となった。堪りかねた領民の中には幕府に直訴する者も現れた。伝承では、茂左衛門と云う百姓であったらしい。幕府はこれを受け、統治の不届きと賦役の遅滞を理由に沼田藩を取り潰しにした。信利は他藩預かりの身となり、貞享5年(1688年)1月、失意の内に没した。茂左衛門は本望を遂げた後、自首して磔の刑に処されたと云う。土地の人々は、茂左衛門を義民として讃えた。


一方の松代藩では、幸道の時代に幕府から集中的に賦役を課せられた事によって、信之が残した莫大な遺金も大半が消えてしまった。賦役の中には一件で藩の年収を上回るものもあって、財政は火の車となり、終いには幕府に借財を申し込む始末であった。幸道の養嗣子、信弘を経て、その子、信安の代になると、松代藩の財政は一段と窮乏し、とうとう大規模な百姓一揆を招くに至った。


松代城(海津城)

松代城(海津城)は長野県松代市松代町にある平城です。かの有名な川中島の戦いでは、信玄はこの城を拠点として、謙信と睨み合っていました。松代城の正確な築城年代は不明ですが、永禄3年(1560年)頃には既に完成していたようです。



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↑二の丸南門




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↑北不明門



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↑戌亥(いぬい)隅櫓跡



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↑本丸石垣



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↑本丸


本丸の中心部で、江戸時代には御殿が建てられており、政庁や藩主の住居として用いられていたとの事です。かつては信玄とその部将達も、この中心部で軍議を開いていたのでしょうか。



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↑東不明門


松代城の東側には、城を囲むように山が取り巻いています。戦国期、この山々には、城を固めるための武田家の城砦がありました。



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↑二の丸


この松代城(海津城)は、北信濃を支配する上で非常に重要な拠点でありました。信玄の時代、謙信に備えてこの城を守っていたのは春日虎綱(高阪昌信)でした。虎綱は永禄3年(1560年)頃から天正6年(1575年)に病死するまで、長きに渡って海津城代を務めていました。これは、虎綱が並々ならぬ器量の持ち主であったのと、信玄、勝頼の二代に渡って深く信頼されていた証であったと言えるのではないでしょうか。


松代城は、天正10年(1582年)に武田勝頼が滅亡した後は一時、織田信長の支配する所となり、その織田家が「本能寺の変」で分裂すると、その隙に乗じて北信を制圧した上杉景勝の支配する所となります。その上杉家が慶長3年(1598年)に会津に転封されると、一時、豊臣家の支配する所となりますが、慶長6年(1600年)から森忠政が城主となります。


慶長8年(1603年)、忠政が美作に転封されると、代わって松平忠輝の居城となりますが、忠輝元和2年(1616年)に改易されます。その後、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8年(1622年)から真田信之が移り、その後代々、真田家の居城として用いられながら、明治の世を迎えます。尚、海津城が松代城と改名されるようになったのは、真田氏の時代からであります。松代城は、明治時代に廃城となりましたが、平成に入って復元工事が成されて、江戸期の頃の姿がある程度、再現されています。

川中島古戦場

長野県長野市にある川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)は、かつて武田信玄と上杉謙信が激突した場所として余りにも有名です。



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↑謙信、信玄の一騎討ちの像


永禄4年(1561年)9月10日に起こったとされる第四回川中島合戦では、激闘の最中、謙信は1人武田本陣に攻め入り、信玄と一騎討ちを演じたと云われています。しかし、実際には総大将同士が一騎討ちをするなど有り得ない出来事です。ただ、謙信自らが太刀を振るって奮戦した事は事実であるようで、謙信と交流のあった前関白、近衛前久は、謙信の武勇を讃える書状を送っています。

「期せざる儀に候といえども、自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」



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↑三太刀七太刀の碑


第四回川中島合戦で信玄は、上杉方の武士(上杉家御年譜によれば荒川伊豆守長実)によって斬りつけられ、負傷した模様です。ここは信玄と荒川伊豆守が、斬り合った場所なのでしょうか。



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↑戦国期のものとされている土塁 



第四回川中島合戦では、謙信は海津城の背後にある妻女山に陣取ったとされています。しかし、これには大きな疑問があります。海津城の周辺の山には、武田方の城砦群が築かれており、これらが第四回合戦時にすでに存在していたならば、謙信は妻女山にたどり着く事すら困難です。謙信はこれらを排除して、本当に妻女山に布陣出来たのでしょうか? それと、普通は軍が布陣すると、陣城を築いたりして敵に備えるものなのですが、妻女山には布陣の跡を示す痕跡がなんら見当たらないとの事です。そのため、謙信が実際に布陣した場所は、善光寺北方にある若槻山であるとの説があります。



この若槻山には規模の大きな陣城が築かれており、大軍の駐屯が可能であるとの事です。謙信は、若槻山一帯に布陣したと見るのが妥当なところなのでしょう。 有名な川中島合戦の話の多くは、江戸時代初期に編纂された「甲陽軍鑑」を元としています。しかし、この書の信頼性には疑問符が付けられており、啄木鳥の戦法なども非常に怪しいものです。ただ、この第四回川中島合戦では、謙信自らが太刀を振るい、信玄が上杉方の武士に斬り付けられた事は事実であり、また、信玄の弟で武田軍の副将格である信繁も戦死している事から、相当な激戦が展開された事は間違いないでしょう。霧の中、武田、上杉軍が八幡原を行軍中、不意に遭遇し、合戦に発展したものと推測されます。




謙信と信玄の両者は、お互いの実力を認め合う良き好敵手であり、天正元年(1573年)4月12日に信玄が死んだ際には、謙信は箸を落として落涙したと云う逸話が伝わっています。しかし、実際には、両者はお互いに願文を掲げて、相手が滅亡する事を願っておりますし、謙信は、信玄が死んだと聞くと、信長、家康に「この好機に乗じて甲信へ攻め入るべし」と呼びかけています。この時は信長の都合が悪くて、共同作戦は取れなかったものの、信玄の妨害が止んだので謙信は早速、越中に出陣しています。謙信が信玄の死すとの報を受けたのは4月末で、その確報を得たのが6月であると思われ、翌7月に謙信は越中に出陣しています。




謙信は、今まで信玄に散々苦しめられてきたので、その死に大いに喜んだ事でしょう。 信玄は死に際し、「今後は謙信を頼りとせよ」と勝頼に言い残したとされています。しかし、実際には両者は敵対関係で、勝頼と謙信が同盟を結んだ形跡はありません。天正3年(1575年)、長篠の戦いで勝頼が敗れた理由の一つに、背後に謙信の存在があって、全軍を投入できなかったからでもあります。勝頼が上杉家と同盟を結ぶのは、謙信の跡を継いだ景勝の時代からです。 





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↑善光寺山門



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↑善光寺



この善光寺周辺の地の支配を巡って、武田、上杉両家は熾烈な戦いを繰り広げました。その時の兵火によって、善光寺も荒れ果ててしまったと伝わります。しかし、現在、善光寺周辺は、観光地として大いに賑わっており、かつては凄惨な戦場であった事も遠い過去の記憶であるようです。

岩村城

岩村城は、岐阜県恵那市岩村町にある山城である。日本三大山城(大和高取城、備中松山城)の一つとされる。岐阜県岩村城の見所と言えば、壮大な石垣であるが、ここに秘められた歴史もまた壮絶なものがある。



城の創建は古く、文治元年(1185年)、源頼朝の臣であった加藤景廉が、美濃国遠山荘の地頭に任じられた時から始まったとされている。その景廉の子、景朝の代に遠山性に改名し、以降、一族は恵那郡一帯に散って、数多くの城館を築いていった。それらの中で本家筋の遠山氏は、代々、岩村城を居城として戦国に至る。この岩村遠山氏、最後の当主となったのは遠山景任である。景任は、年代は不明であるが、美濃攻略を進めていた頃の織田信長と同盟を結んでいる。 信長は、美濃・信濃・三河の国境に位置する城である岩村城と、その一帯を統治する遠山氏を重要視し、叔母にあたる、おつやの方を景任に娶せたうえに、子のなかった夫妻に婿養子として四男、坊丸まで送っている。



元亀3年(1572年)11月、織田信長と武田信玄、戦国時代を代表する両雄が対決に至ると、岩村城はその位置ゆえ、争奪戦の的となる。信玄は西上作戦の一環として、秋山虎繁(信友)に3千の兵を任せて岩村城を攻撃させた。この時、岩村城では折り悪く、城主、遠山景任が死亡していた。その死は、武田軍との前哨戦で受けた傷によるものと考えられている。城主を失って主体性を失ったのか、残されたおつやの方と遠山一族は、信長の援軍を待たずして、虎繁の降伏勧告に応じた。 この時、おつやの方と遠山一族はほとんど抵抗せずに城を明け渡した事、坊丸を武田家に差し出した事、そして、おつやの方が敵将である虎繁の妻に納まった事で、後に信長の凄まじい怒りに触れる事になる。



開城後、虎繁は城将として岩村城に君臨した。岩村城は信長の本拠、岐阜城からもほど近く、武田家の西方進出の拠点となった。それは、信長にとって脇腹に剣を突きつけられたに等しく、更に虎繁とおつやの方に対する憎悪を深めていくのだった。天正元年(1573年)4月、武田信玄が病没し、勝頼に代替わりするが、秋山虎繁はそのまま岩村城の守備を任された。 天正2年(1574年)2月、勝頼が東美濃で大規模な軍事活動を行うと虎繁もこれに従い、岩村城周辺の織田方18支城を陥落させて、周辺に勢力を伸ばした。しかし、翌天正3年(1575年)5月21日、武田軍が長篠で大敗北を喫すると、岩村城は、織田軍の反抗をまともに受ける形となった。信長の嫡男、信忠率いる兵3万人余の大軍が岩村城に迫ってきたのである。



信長は、長篠勝利の余勢を駆って、東美濃を奪還する決意であった。この時、虎繁が守る岩村城は3千人余の兵力だった。篭城するには十分な兵力であるが、後詰めが無ければ勝利の可能性は無い。同年6月、虎繁は、勝頼の来援を信じて篭城戦に入った。当初、織田軍は一挙に城を攻め落とさんと、力攻めを加えた。織田軍は数を頼みに強攻したが、天険の要害はびくとみせず、逆に虎繁を始めとする城兵の激しい反撃を受けて、多数の死傷者を出して撃退された。これに懲りた織田軍は長期包囲に切り替え、城方の抵抗力が弱まるまでじっくり待つ事にした。この間、城方が待ち望んでいた、武田の後詰めはなかなか現れなかった。武田勝頼は長篠で大敗北を喫していたが、形振り構わぬ素人動員で、短期間で軍勢を再建する事に成功している。そして、同年9月7日、勝頼はこの寄せ集めの武田軍を、徳川家康によって包囲されていた遠江、小山城へと振り向けた。



長篠の大敗北を受けて、武田方はしばらく動けないと踏んでいた徳川方は、この素早い援軍の到来に驚いて撤退していった。勝頼は、
織田軍3万人余に包囲されている岩村城の救援は困難極まるが、1万人以下の徳川軍なら、寄せ集めの武田軍でも追い払えると踏んだのだろう。こうして小山城の危機は救われたが、同じく包囲されていた岩村城は後回しにされた。天正3年(1575年)10月、孤立無援の岩村城では、半年にも及ぶ篭城で兵糧が乏しくなり、士気も低下していった。そして、同年10月23日、26日には、城方と織田軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられたらしく、城方の大身の武士が多数、戦死している。この頃、武田家の先遣隊(おそらく3千~5千)がようやく岩村城に駆け付けていた。



同年11月10日、城外の武田軍は劣勢であったが、織田軍の本陣を打ち破らんと、水晶山に夜襲を仕掛けた。だが、水晶山は織田信忠の本隊をはじめ、河尻秀隆、毛利秀頼らによって固められており、すぐさま反撃に出て武田軍を撃退した。城兵も合わせて打って出て、柵を打ち壊し、夜襲隊と合流せんとした。そこへ、信忠自ら陣頭に立つ織田軍が突入してきたので、武田軍は散々に討ち破られた。夜襲隊は兵力不足、城兵は兵糧攻めによって力が出せなかったのだろう。武田軍は甲斐、信濃の大将21人と、兵1,100人余が討死し、山野に多数の屍を晒した。この頃、武田勝頼も本隊を率いて岩村城の後詰めに向かおうとしていた。上京していた信長は勝頼来援の報を受けると、同年11月15日、急ぎ岐阜まで駆け戻った。



勝頼の本隊は伊那に着陣したようだが、織田の大軍を目の前にして動けなかった。岩村城も兵糧は乏しく、城兵も大半が討死して、これ以上の籠城は不可能であった。精魂尽き果てた虎繁らは篭城を断念して、開城を申し出た。ここまで、よくぞ戦い抜いたと云えよう。同年11月21日、織田方が開城を受け入れたので、虎繁を始めとする3人の将は、礼を言わんと、信忠の陣へ赴いた。だが、この和議は謀略であって、信忠は3将を絡め捕って、信長の下へと送った。そして、助命されるはずであった城兵達も誰一人として許されず、主将を失った岩村城に織田軍の総攻撃が加えられた。 和議になると安堵していた城方は不意を突かれたが、この破約には怒って最後の抵抗を試みた。城内では遠山一族が各曲輪を守って、織田軍に少なからぬ打撃を与えたが、衆寡敵せず次々に討たれていった。最後には城に火が放たれ、生き残った者達も各曲輪に押し込められて、焼き殺されていった。



一方、信長の下へ送られた虎繁は、長良川にて逆磔(さかさはりつけ)の刑に処された。おつやの方は虎繁と共に逆磔にされたとも、信長自らの手で斬り殺されたとも云われている。信長の激しい怒りに触れた岩村城の人間3千人余は、こうして無残に葬り去られたのだった。 落城後、織田家部将、河尻秀隆が岩村城を任されて城主となった。これ以前の武田時代は土塁の城であったろうが、織田時代に石垣が築かれるなどして、現代に近い姿となった。河尻秀隆が甲斐に移封となると、森乱丸、長可、忠政の森家兄弟、三代の持ち城となり、忠政の代になって近世城郭として完成した。



その後、城主は次々に変わり、最終的には松平氏が入封して明治に至る。しかし、明治の世を迎えると岩村城も他の城同様、建物は取り壊され、壮大な石垣と秘められた悲劇のみが残される事となった。 (余談)おつやの方は、信長に対して呪いの言葉を発しながら、死んでいったと云われている。この岩村城に関わった織田信長・織田信忠・坊丸こと織田勝長・森乱丸・森長可・川尻秀隆といった人物は、いずれも横死している。ちなみに岩村城では出る!との噂がある・・・






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↑本丸石垣


岩村城は標高が高い所に建っているので、登るのはさぞかし難儀するだろうと思っていましたが、車で本丸近くにある駐車場まで行けたので、そこに車を置くと、歩いて5分程で本丸までたどり着きました。



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↑本丸埋門



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↑本丸石垣






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↑本丸跡


岩村城は遠山景任→秋山虎繁(信友)→川尻秀隆→森乱丸・長可・忠政→田丸直昌→松平氏→丹羽氏→松平氏と目まぐるしく城主が入れ替わっています。武田勝頼や織田信長、信忠も一時、在城したと思われます。往時には、これらの武将達もこの本丸跡にいたのでしょう。



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↑曲輪跡


この曲輪は中世に築かれたもので、戦国時代の息吹を感じさせられる遺構です。


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↑本丸石垣


岩村城は、川尻秀隆の時代に大修築され、その後、城主と時代が変わる毎に石垣が増改築されていきました。



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↑六段に積まれた本丸石垣



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↑岩村城の井戸(霧ヶ井)



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↑岩村城からの眺め


天正3年(1575年)、秋山虎繁を主将とする岩村城を、織田信忠率いる3万余の大軍が包囲していました。往時には、周辺をびっしりと織田軍の旌旗(せいき)や逆茂木(さかもぎ)が立ち並んでいたでしょう。本国への道は閉ざされ、孤立無援で半年もの籠城は、想像を絶します。この岩村城を見下ろす位置にあったのが水晶山で、織田軍の陣跡が残っているようです。

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重家 
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