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鹿屋航空基地史料館

鹿屋航空基地史料館は、鹿児島県鹿屋市にある史料館です。海上自衛隊鹿屋航空基地に隣接しており、太平洋戦争時の日本海軍から現代の海上自衛隊に至る豊富な史料が展示されています。無料で入館出来ますが、2022年時点ではコロナ過を受けて、人数制限がされています。



鹿屋航空基地は、昭和11年(1936年)4月、大日本帝国海軍鹿屋航空隊の創設に始まる。太平洋戦争末期には神風特攻隊最大の出撃拠点となり、鹿屋航空基地から908名もの搭乗員が飛び立っていった。戦後はアメリカ軍が進駐し、その退去後は警察予備隊の駐屯地となり、昭和30年(1955年)から海上自衛隊の管轄する所となった。現在も、広大な南西諸島の警戒監視と救難活動を担っている。





↑鹿屋航空基地史料館



屋外には、海上自衛隊で使用されていた、航空機やヘリコプターが大量に展示されています。屋内も日本海軍の艦艇模型や、零戦の復元機と装備機銃、特攻隊員の遺影と遺書、などなど大量の史料が見られます。特に見入ってしまったのは、昭和18年(1943年)4月、山本五十六大将が戦死した際の搭乗機、一式陸上攻撃機の残骸や、硫黄島守備隊の遺品、銃孔らしき穴の空いた鉄兜や、薬品の瓶などでした。展示史料は撮影不可もありますが、兵器等は撮影可が多かったです。基本的に私が興味あるものを載せていきます。







↑零戦用エンジン 栄発動機二一型







↑零式艦上戦闘機五二型



平成4年(1992年)、鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた2機の零戦から部品を補い合って復元されました。






↑零式艦上戦闘機五二型





↑零式艦上戦闘機五二型





↑零式艦上戦闘機五二型







↑7.7mm機銃



零戦などの軍用機に搭載されていたものです。






↑零式艦上戦闘機二一型用20mm機銃



初期型の零戦に搭載された20mm機銃で、銃身が短いです。







↑下が零式艦上戦闘機五二型丙用20mm機銃で、その上が13mm機銃



後期型の零戦に搭載された20mm機銃で銃身が長く、見た目にも威力が上がっているのが分かります。






↑旧日本海軍の軍装







↑航空母艦赤城の模型








↑軽巡洋艦矢作の模型







↑二式大型飛行艇一二型



唯一の現存機で、屋外展示機の目玉です。






↑二式大型飛行艇一二型






↑二式大型飛行艇一二型


往時には側面、上面に20mm機銃が装備されていました。






↑二式大型飛行艇一二型



側面から見るとずんぐりした機体に見えますが、意外と細いです。空力的に洗練するため、この形状になったのでしょう。


太平洋戦争に興味がある者にとって、鹿屋航空基地史料館は興味が尽きない施設です。特攻作戦に関する史料は、知覧特攻平和会館の方が豊富ですが、兵器など総合的な史料数は、鹿屋航空基地史料館の方が豊富でした。

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西南戦争史跡 城山

城山は、鹿児島県鹿児島市にある山です。標高は107mと小さな山ですが、鹿児島市内を見下ろす要地で、麓には島津氏の居城であった鶴丸城(鹿児島城)もあります。何より、この地を有名にしているのは、維新の三傑と呼ばれた、西郷隆盛最期の地となった事でしょう。



明治10年(1877年)1月29日、明治政府が鹿児島県にあった武器弾薬と製造設備を大阪に搬出しようとした。しかし、西郷隆盛創設の私学校の生徒達がそれに反発し、武器弾薬を奪うという事件を起こす。それを切っ掛けとして、私学校の幹部達は西郷を担いで挙兵、ここに西南戦争が始まる。この後、薩軍は数を増して北上し、九州中部を中心に政府軍と激闘を続けるも、徐々に敗色が濃くなり、同年9月1日には、始まりの地である鹿児島への退去を余儀なくされた。城山に籠った薩軍は300人余で、それを政府軍4万人余が取り囲んだ。同年9月24日午前4時より、政府軍の総攻撃が始まり、薩軍は次々に倒れていった。西郷隆盛は籠っていた洞窟から出て谷を下りつつあった時、腰と大腿部に銃弾を受け、動けなくなった。隆盛は傍らの別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」と声をかけ、介錯の太刀が振り下ろされた。西郷隆盛49歳。







↑私学校跡



鶴丸城内にあります。






↑私学校に残る弾痕







↑私学校に残る弾痕






↑鶴丸城(鹿児島城)



鶴丸城は麓の居城と、背後の詰城、城山とで構成されています。城郭は広大でさすが九州の雄、島津氏の城といったところです。







↑鶴丸城庭園跡







↑鶴丸城 御楼門






↑薩摩義士碑


宝暦3年(1753年)から宝暦5年(1755年)にかけて、薩摩藩は徳川幕府より濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を命じられ、多大な出費と難工事の末にこれをやり遂げています。しかし、その過程で多くの犠牲者を出した事から、彼らを弔うためにこの碑が立てられました。






↑西郷隆盛像






↑史跡 西郷隆盛洞窟



西郷隆盛は最後の5日間、この洞窟で過ごしたそうです。






↑史跡 西郷隆盛洞窟





↑西郷隆盛終焉の地



明治10年(1877年)9月24日、洞窟を出た西郷隆盛は、ここで最後を迎えたとされています。





↑城山展望台からの眺め




西郷隆盛も眺めた風景です。


知覧特攻平和会館

知覧特攻平和会舘は鹿児島県南九州市知覧町郡にある、歴史博物館です。太平洋戦争時、この地には陸軍の航空基地が置かれ、戦争末期に多くの特攻機がここから飛び立っていった事で知られています。




昭和16年(1941年)12月、知覧飛行場が建設される。昭和20年(1945年)3月、特攻基地となり、以降、陸軍特攻隊439名が沖縄へと飛び立っていく。隊員の多くは10代後半から20代前半の若者であった。その若者達の母親代わりとなって、親身になって世話していたのが富屋食堂の女将、鳥濱(とりはま)トメであった。トメは明日をも知れぬ隊員達のために心を込めた食事を振る舞い、預かった遺書、遺品を家族の元へと届けていった。同年8月、終戦を迎え、知覧飛行場からの特攻作戦も終わった。そして、進駐してきた米軍によって、知覧飛行場は徹底的に破壊される。



そのまま知覧飛行場と特攻隊の存在も忘れ去られつつあったが、トメは1人、木切れの慰霊碑を建てて毎日、供養を続けていた。トメは慰霊と平和のための観音堂建立を知覧役場に働きかけるも、反戦運動家らからは戦争賛美だとの批判を浴びせられた。それでもトメの誠心誠意の訴えを受けて、昭和30年(1955年)9月、特攻平和観音堂が建立された。昭和50年(1975年)4月、観音堂近辺に知覧特攻遺品館が開館し、昭和62年(1987年)2月、装いを新たに知覧特攻平和会館が開館する。






↑知覧特攻平和会館



館内の大部分は撮影不可で、特攻隊員の遺影、遺書、遺品が所狭しと展示されています。若き隊員達の最期の姿や、家族に宛てた遺書を読むと、胸に熱いものがこみ上げて来ます。当時の特攻作戦は、隊員からの純粋な志願もあれば、上官からの暴力を伴った強制もあったと聞きます。出撃直前の写真から垣間見れる隊員達の表情も様々で、朗らかな笑顔を浮かべる隊員もいれば、達観し遠くを見つめる様な隊員、無念さあるいは恐怖を噛み殺している様な隊員もいました。当時の教育もあったのでしょうが、10代の隊員の多くは純粋無垢に国家への奉仕を望んでいたように見受けれ、20代以上で妻子や恋人のいる隊員は無念の思いを抱えている人が少なからずいた様に見受けられました。個人の感想です。







↑零式艦上戦闘機52型丙



零戦の後期型で、速度と武装が強化されています。昭和20年(1945年)5月に鹿児島県、甑島(こしきしま)沖で海没した機体を、昭和55年(1980年)に引き揚げたものです。






↑零式艦上戦闘機52型丙





↑零式艦上戦闘機52型丙



知覧特攻平和会館には他に唯一の貴重な現存機である、四式戦闘機疾風も展示されていましたが、こちらは撮影不可でした。





↑復元三角兵舎



松林に作られた、半地下壕の宿舎です。当時の特攻隊員はこうした粗末な宿舎で、出撃までの僅かな時間を過ごしていました。






↑三角兵舎内部






↑特攻勇士の像






↑航空自衛隊T3練習機






↑一式戦闘機隼の復元機



平成19年(2007年)に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」に使用されました。





↑灯篭と奥に特攻平和観音堂



慰霊祭が開かれるらしく、天幕と椅子が設置されていました。


知覧特攻平和会館では、映像資料も多く見られますが、時間が余りにも足らず、足早に見て回らずを得ませんでした。知覧では、他に鳥濱トメさんが営んでいた「ホタル館 富屋食堂」や武家屋敷も見て回りたかったです。次に来る事があれば、知覧で1泊したいところです。

兵馬俑

京都市京セラ美術館で開催されていた、兵馬俑の展覧会に行って来ました。その時の写真を載せていきます。



俑とは古代中国において、死者への副葬品として作られた陶製の人形である。その中で、兵士や馬を模して作られた俑が、兵馬俑と呼ばれた。取り分け、秦代に作られた兵馬俑は有名で、その数量と造形美は他の時代を圧倒している。






↑騎兵


鎧を着用し、右手には長柄を持ち、左手で手綱を引いていました。馬は背後にいました。







↑歩兵


右手に剣を、左手に盾を装備していたと見られます。







↑下級指揮官


頭に冠を被り、右手に長柄を、左手に剣を掲げていたと見られます。







↑将軍


鎧は着用せず、頭に冠を被り、右手に剣を持っていました。







↑将軍 背面







↑下級指揮官


頭に冠を、右手に長柄を、左手には盾を持っていたと見られます。






↑弩兵


右手に弩を持っていたと見られます。






↑軍馬


戦車を曳いていたと見られます。







↑弓兵


鎧は着用せず、弓を構えて遠方を見据えています。






↑弩兵


鎧を着用し、弩を構えていたと見られます。





↑弩兵 側面



秦の兵馬俑は一体一体、表情、服装、姿勢が違っており、非常に写実的です。秦代の後の漢代の兵馬俑も見ましたが、こちらは小さく、迫力に欠けていました。しかしながら、当時、兵馬俑の制作に要した費用、資源、労力を思えば、秦代の方が民衆への負担は遥かに重かったでしょう。秦の時代は短く、漢の時代が長く続いたのも、これと少なからず関係があるでしょう。


山崎合戦、明智光秀本陣跡

天正10年(1582年)6月13日、摂津国と山城国の境目、山崎の地にて、明智光秀と羽柴秀吉による天下分け目の決戦が行われた。両軍の兵力は、太閤記(江戸時代に書かれた秀吉の伝記)によれば、羽柴軍4万人、明智軍1万6千人、兼見卿記(吉田神社神主の吉田兼見の日記)によれば、羽柴軍2万人、明智軍不明であった。山崎は天王山と淀川に挟まれた狭い回廊で、京都側に抜ける通路も沼沢地が広がる地形で、大軍の機動は制限されていた。明智軍はその通路を防ぐ形で陣取り、光秀自身は御坊塚に本陣を置いた。円明寺川(小泉川)東岸には古墳が幾つか点在しており、明智軍はそれらを削平して陣城に仕立てていた。御坊塚もその一つであろう。


ルイス・フロイスの日本史によれば、合戦当日、秀吉軍の先鋒、高山右近の隊は山崎の集落を押さえていたものの、秀吉本隊はまだ、その後方3里(12km弱)の距離にあった。この日、羽柴秀吉や織田信孝が筒井順慶に宛てた書状では、合戦は14日になるだろうとの見通しを示しており、13日時点での開戦は予定には無かった模様である。しかし、 明智軍の先鋒が山崎の村門を叩き始め、高山隊が反撃すべく門から突出したので、ここに合戦の火蓋が切って落とされた。兼見卿記には申(さる)の時(午後15時から17時の間)に鉄砲の音がしたとあるので、戦いは夕刻に始まった。そして、この日は雨天であったようだが、激しい鉄砲戦が繰り広げられた模様である。火縄銃は雨天でも使用可能であったようだ。


山崎の戦いの正確な記録は残されておらず、おおよその推測となるが、光秀としては、自軍の方が数的に劣勢であったので、まだ羽柴軍の布陣が整わない内に機先を制して攻撃を仕掛け、戦いの主導権を握ろうとしたのだろう。そして、羽柴軍の先鋒(高山右近、中川清秀、堀秀政)を引きずり出して、これを殲滅せんとした。光秀の目論見道り、羽柴軍先鋒を苦戦に追い込んだが、ここから羽柴軍の増援が続々と駆け付けて来たので、次第に乱戦模様となった。隘路から突出してくる羽柴軍を、有利な地形で迎え撃つ形で明智軍は持ちこたえていた。しかし、明智軍は持てる戦力のほとんどを天王山麓での戦いに投入していたと思われる。



山麓での戦いが激しくなっていた頃、羽柴軍から見て右翼の加藤光秦、池田恒興隊が淀川沿いを密かに進軍、円明寺川を渡河し、手薄になっていた明智軍左翼に襲い掛かった。これで戦局は大きく動き、明智軍は側面を突かれる形となった。光秀自身、本陣で羽柴軍右翼を迎え撃つ形になったであろう。包囲されつつある戦況を受けて、明智軍全体に動揺が走り、夜を迎える頃には、明智軍は総崩れとなり、光秀は勝龍寺城へと逃れた。しかし、そこも長居は出来ず、光秀は坂本城目指して、密かに城を抜け出したものの、その途上、醍醐、または山科辺りで農民の槍を受けて、落命した。一般には、光秀は小栗栖の藪で討たれたとされているが、同時代人の記録には、醍醐、山科辺りとある。翌日、光秀の首は秀吉に差し出され、本能寺と栗田口に晒されたと云う。


↑明智光秀本陣跡


境野一号墳にあります。


↑明智光秀本陣跡、説明板


説明板には、古墳からは空堀の遺構が複数発見され、火縄銃の鉛玉も出土したとあります。


↑恵解山古墳(いげのやまこふん)


境野一号墳の北側にあります。現代では、こちら恵解山古墳の方が、光秀本陣跡であった可能性が高いと目されています。


↑古墳前方部



↑恵解山古墳説明板


古墳前方部に大きな掘り込みがあって、後円部には棚田状に三段に削平されているとの事です。また、ここからも火縄銃の鉛玉が出土しています。


↑後円部



↑前方斜めから見た恵解山古墳



↑古墳から天王山方面を望む



↑古墳から淀川方面を望む


現地に立って見ると、境野一号墳より恵解山古墳の方が規模が大きく、見晴らしも良いので、私もこちらが光秀本陣跡であったと思います。光秀は、円明寺川を堀に見立て、古墳群に築いた陣城に布陣して、かつて織田信長が甲斐の武田勝頼を破った、長篠の戦いの再現を試みたのだと思います。しかし、最終的には兵力差で押し切られたのでしょう。もし、奈良の筒井順慶が明智軍に加わってその脇を固めていたなら、戦況も変わっていたでしょう。もっとも、その順慶は6月13日時点で秀吉に加担する事を約しており、翌14日には明智軍に攻撃を加えていた可能性があります。光秀もそれを察して、早期攻撃を決心したのかもしれません。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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