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岩剣城

岩剣城(いわつるぎじょう)は、鹿児島県姶良市にある山城である。岩剣城は、薩摩統一を果たしたばかりの戦国大名、島津氏が更なる飛躍を目指して、総力を挙げて攻めかかった城であり、また、名将として知られる島津4兄弟の次弟、義弘が初陣を飾った城でもある。




岩剣城は、享禄2年(1529年)頃、北薩の国人、祁答院(けどういん)良重によって築かれたとされる。標高225mの岩剣山の山上にあって、三方が切り立った断崖で、尾根筋の一方も幾重もの切岸や曲輪によって厳重に守られていた。天文19年(1550年)、薩摩統一を果たした島津貴久は続いて、大隅国への進出を図っていた。その最初の標的となったのが、大隅国西部に拠る蒲生範清(かもう のりきよ)である。蒲生氏は竜ヶ城(蒲生城)を本拠として、松阪城、北村城、といった支城を持つ有力国人で、平山城、岩剣城を有する国人、祁答院良重と結んで、島津氏に対抗せんとした。 天文23年(1554年)9月10日、蒲生範清が先に動き、大隅国にある島津方の加治木城を攻め立てた。これを受けて島津貴久も動き、弟の忠将(ただまさ)、尚久(なおひさ)、子息の義久、義弘、歳久らを始めとする一族譜代に国内諸領主を総動員して、薩摩との国境に近い岩剣城を攻めんとした。




同年9月12日、島津勢は岩剣城に押し寄せ、まずは城の西側に陣取って半分、取り囲んだ。9月14日、島津忠将が船5艘で岩剣城の足元にある脇本を襲撃し、鉄砲で13人を討ち取った。9月17日、島津義弘が脇本南方の白銀坂に着陣し、東側の包囲を進める。9月18日、島津忠将は、50艘余の船をもって別府川を遡上し、蒲生、祁答院の主力が籠る平山城に鉄砲を撃ちかけて牽制した。9月20日、義弘は手勢を二手に分けて、一手を脇本に伏せさせ、一手を持って岩剣城下を焼き払い、稲を刈り取らせた。これに激高したのか、城兵が打って出たところを伏兵を持って撃退し、義弘は初陣を勝利で飾った。9月21日、義弘は船10艘を拿捕した上、脇本を完全に制圧して、岩剣城を孤立せしめた。




10月2日夜明け、島津貴久は岩剣城への総攻撃を命じ、義弘率いる手勢は西門を攻撃して城戸を打ち破り、小屋に火をかけてまわった。その隙に乗じて、尚久の手勢も城際に迫って攻撃した。こうして城方に打撃を与えた上で、島津軍は城下に布陣し、蒲生、祁答院勢の後詰に備えた。貴久は城への攻撃と並行して、一手をもって星原で稲を刈り取らせ、蒲生、祁答院勢が籠る平山城を挑発させていた。これに釣られた蒲生、祁答院勢2千人余が出撃し、島津軍主力が待ち受ける星原で激突した。だが、蒲生、祁答院勢は祁答院良重の子息、重経、蒲生家の重臣、西森盛家ら主だった者50人余が討ち取られる惨敗を喫する。後詰の蒲生、祁答院勢が敗れた事で、城方の士気は喪失し、同日夜半、城兵は城を捨てて逃走、翌10月3日、岩剣城は島津氏の手に渡った。




戦後、義弘が岩剣城を任されるが、山城が不便であったのか麓の平松に居館を築いて、3年間城番を務める。島津貴久は岩剣城を足掛かりに更に蒲生範清を攻め立て、天文24年(1555年)に平山城を落とし、弘治2年(1556年)松坂城を落として、蒲生氏の本拠、竜ヶ城へと迫った。弘治3年(1557年)4月、孤立を深めた蒲生範清は、ついに竜ヶ城を棄てて祁答院へと落ちて行った。こうして大隅西部は、島津貴久の領する所となった。その後の岩剣城であるが、麓の平松館は使われ続けたものの、それも慶長11年(1606年)に役割を終えて岩剣城共々、廃城となった。







↑登山口



山深く険しい道のりです。







↑大手口付近







↑最高所への道



岩剣城を登っている時、誰とも出会わないだろうと思っていましたが、この付近で山城散策をしていた物好きな人に出会いました。「こんなマイナーな城を登られているとは、城マニアの方ですね」と声をかけると、苦笑いされました。「お前もだろう」と思ったに違いないです。







↑曲輪8



広い削平地です。小屋を建てて、大勢の兵が詰めていたと思われます。






↑奧が曲輪10







↑曲輪10



岩剣城の最高所です。






↑最高所からの眺め



姶良市街が広がっています。眼下に映る一帯が蒲生氏の勢力範囲でした。しかし、島津氏はこれだけの地域を制圧するのに、3年近い歳月を費やしています。蒲生氏の抵抗が強かったのもありますが、島津氏の力がまだ不足していたのもあるでしょう。







↑本丸






↑本丸石垣



戦国期の山城にしては珍しく、石垣が施されています。ただ、城を築いた祁答院氏が積んだのか、その後、城主となった島津氏が積んだのかは分かりません。






↑本丸直下の斜面



切り立っていて険しいです。





↑城を流れる渓流


大手道に沿って流れており、水に困る事は無いです。






↑岩剣神社とその背後に岩剣城

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