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硫黄島の日本兵

硫黄島は、太平洋戦争における、激戦地として知られている。だが、この島で戦った日本兵が、壮絶な環境下で戦っていた事はあまり語られていない。硫黄島は、東京から南、約1,250キロメートルの位置にあって、亜熱帯気候に属する。活発な火山活動によって形成されており、地熱が高く、島内各所から硫黄ガスが吹き上がる灼熱の島である。人が住むにはあまりにも過酷な土地であるが、それでも戦前には、1,000人余の人々がこの島に住んでいた。


1944年7月、サイパン島を始めとする、マリアナ諸島がアメリカ軍の攻撃を受けて陥落した。アメリカは、ここに戦略爆撃機B-29の基地を建設する。マリアナ諸島から飛び立ったB-29の大編隊は、日本の大都市を次々に焦土に変えていった。しかし、サイパン島から東京までは、2千キロもの距離があって、損傷機や故障機が力尽きて、墜落する事も多かった。そこでアメリカ軍は、東京から約1,080キロ南に位置する、硫黄島に目を付けた。そこに中間基地を設ければ、損傷機、故障機は容易に収容可能であるし、往路と復路に護衛戦闘機を付ける事も可能だった。こうして、アメリカは硫黄島攻略を決定する。日本側もその意図を察し、守備を固めるため、栗林忠道中将を始めとする2万1千人余の将兵を送り込んだ。戦局の逼迫を受けて、硫黄島民の壮年男性は徴用され、残る大部分は本土へと移送された。


硫黄島の守備に就いた日本兵であるが、彼らが最も困ったのは、飲料水の確保であった。島内に河川、湖沼などは無く、飲料水は雨水に頼る他なかった。硫黄島には毎日、スコール(熱帯地方の突発的豪雨)が降る事から、それが兵士達の命水となった。スコールが降り出すと、兵達は夜中であろうと飛び起きて、あらゆる容器を用いて水の確保を図った。水はドラム缶に貯蔵され、古いものから順に飲んでいった。だが、水にはドラム缶の錆びが混じって赤茶けており、ひどい味と臭いがした。その上、蝿(はえ)や蚊にたかられて汚染される事が多く、ほぼ全ての兵士が下痢に悩まされた。水不足は、当初から日本軍に重く圧し掛かっており、例え汚染された水であっても、兵士達は飲まざるを得なかった。


硫黄島に召集されて来た日本兵は、30~40代の年配者や10代の少年兵が多く、まともな戦闘訓練も受けていなかった。そんな彼らに与えられた最初の任務は、手掘りでの地下壕作りだった。しかし、この作業は、想像を絶する苦しみを伴った。壕内は熱気によって40度以上の高温に包まれ、掘り出した土も火傷をするくらい熱かった。また、壕内に硫黄ガスが充満して、呼吸困難に陥ったり、体調不良を訴える者が続出した。狭く熱い壕内での重労働は、当然、大量の汗が吹き出す。しかし、軍から支給される飲み水は、1人1日当たり、水筒1本分でしかなかった。無論、それで足りるはずも無く、スコールを掻き集めるのだが、それでも足りず、兵達は常に激しい喉の渇きを訴えていた。苦しみの果てに作り上げた壕であったが、そこには兵士だけでなく、大量の蟻(あり)やゴキブリも住まった。そして、寝ている兵士の体を這いずり回るのだった。


硫黄島の兵士達には、アメーバ赤痢、パラチフスが蔓延し、それに栄養不足、水不足が加わって、ふらふらの状態で陣地構築に勤しんでいた。大勢いた40代の応召兵は、衰えた老人の様になっていたと云う。過酷な環境下でひどく体調を崩したとしても、制空権、制海権を喪失した戦況下では、本土への後送など望み薄であった。アメリカ軍が上陸する以前から、爆撃、過労、病気によって命を失う者が、度々出ていた。彼ら兵士達を支えていたものは、御国のため、家族のために戦うという思いであった。それと、劣勢となっても、本土から援軍が駆けつけてくれるという淡い希望を抱いていた。1945年1月、アメリカ軍の上陸を目前に控え、栗林中将は、あくまでも陣地を死守し、一人十殺せよと兵士達に訓示する。


1945年2月16日、アメリカの大艦隊が硫黄島を埋め尽くすかのように取り巻き、それに合わせて猛烈な砲爆撃を開始する。その轟音と振動は地下壕にも響き渡り、恐怖を隠せずガタガタと震え出す兵士もいた。凄まじい準備射撃が3日間続いた後、2月19日、ついにアメリカ軍は上陸を開始する。日本軍は水際では抵抗せず、内陸にアメリカ軍を引き込んで叩く作戦を取った。日本兵が命懸けで作り上げた地下縦深陣地は存分に威力を発揮し、アメリカ軍を大いに苦しめた。


圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対し、日本軍は兵力、武器弾薬、食料水、全てにおいて大きく劣り、過酷な環境下で戦う前から消耗していた。だが、そんな状況であったにも関わらず、日本軍の戦意だけはアメリカ軍に勝るものがあった。アメリカ軍の死傷者は増え続け、攻略予定日の2月23日を過ぎても、激戦は続いた。そして、この23日、日米の兵士の士気に影響する、大きな出来事が起こる。アメリカ軍が、硫黄島の最高峰である摺鉢山を制圧して、山頂に星条旗を打ち立てたのである。6名のアメリカ兵が旗を打ち立てる姿は、劇的な戦場写真となって、世界中に知れ渡った。そして、戦後、この写真を元に、アーリントン国立墓地に巨大な海兵隊戦争記念碑が建てられる事になる。


擂鉢山を巡る攻防において、一つの話が伝えられている。海兵隊が苦労して打ち立てた星条旗であるが、翌朝、旗めいていたのは、なんと日本軍の日章旗であった。付近の残存日本兵が、夜の間に差し替えていたのだった。この日章旗は、硫黄島の守備隊からも目撃されており、彼らは大いに発奮した。アメリカ軍はすぐさま日章旗を降ろし、星条旗に差し替えた。ところが、翌朝になると、再び日章旗が翻っていたのである。しかし、この日を最後に擂鉢山に日章旗が翻る事はなかった。日本軍は少なからず落胆したが、それでも擂鉢山守備隊の、徹底抗戦の執念は受け継がれた。実際、戦いはここから激しさを増していくのである。世界で最も有名な戦争写真の主人公となった6名のアメリカ兵であるが、引き続く戦闘で3名が戦死する事になる。


限られた武器弾薬しかない日本軍は、地の利を生かし、肉弾戦をもってアメリカ軍に挑む。日本兵は死体に紛れて、アメリカ兵をやり過ごすと背後から手榴弾を投げ付けたりもした。それを受けて、アメリカ軍は日本兵の死体を見かけると、銃撃を加えるようになった。また、アメリカの強力なM4中戦車に対して、日本兵は爆雷を担いで、まさに捨て身の攻撃を行った。だが、アメリカ軍も肉薄攻撃への対策として、火炎放射器や機関銃で地面を薙ぎ払うように前進しだすと、日本兵の犠牲が増える一方となった。アメリカ軍は地下壕を見つける度、火炎放射器の火が奥まで届くよう、徹底的に焼き払って前進した。だが、日本兵は地下壕の奥深くに潜んでこれをやり過ごし、夜間になると姿を現して襲撃を加えた。


日本軍は必死の抵抗を見せていたが、絶海の孤島で補給も補充もないまま、いつまでも抵抗し続ける事は不可能だった。3月に入ると、日本軍は島の北部と東部の拠点を僅かに占有するのみとなる。3月15日、日本軍の抵抗はまだ続いていたが、アメリカ軍は既に大勢は決したと見て、硫黄島を占領したと宣言する。3月17日、追い詰められた栗林中将は、大本営に決別電報を打った。そして、3月25日夜半、栗林中将は、最後に一矢報いんと、4百人余の兵を率いてアメリカ軍陣地に突撃した。それは断末魔の万歳突撃ではなく、組織だった強攻だった。アメリカ軍は一時混乱し、日本軍はさらに進軍して飛行場突入を試みたが、その途上で、栗林中将共々、力尽きて散華した。3月26日、この栗林中将の戦死をもって、日本軍の組織的な抵抗は終わりを告げる。


だが、島内各地の地下壕には、まだ千人以上の日本兵が生存していた。彼らにとっては、これからが本当の地獄だった。残存日本兵の多くは、玉名山陣地にある南方空(南方航空隊本部壕)を目指した。南方空は巨大な地下壕で、アメリカ軍の上陸以前には、水、食料が豊富に備蓄されていたからである。しかし、アメリカ軍の警戒網を抜けられず、多くの残存兵が南方空に辿り着くまでに命を落とした。運良く残存兵が辿り着いたとしても、薄暗い壕の中で彼らが見たものは、絶望的な光景だった。うず高く積み上げられた死体に、うめき声を上げて横たわる大勢の負傷兵、それに、やせ衰えた残存兵達の姿であった。残っていた食料、水も僅かで、それらはすぐに底を突いた。壕の底には兵士達の排泄物が溜まっており、それらが放つ臭いと、死体の腐敗臭、熱気の入り混じった凄まじい空気が立ち込めていた。


夜になると兵士達は、食料、水を求めて島内を彷徨った。薬莢を拾って、溜まっていた僅かな水を飲み、埋まった壕を掘り起こしたり、死体をまさぐったりして、食べ物を求めた。また、アメリカ軍が捨てていったゴミから食べ物を探したり、危険を承知の上で、夜間、アメリカ軍陣地に忍び込んで、缶詰を強奪したりもした。だが、この忍び込みは非常な危険を伴い、成功するしないは別として、参加した兵士の半数は命を失ったと云う。飢えた兵士達は、シラミやウジ虫、炭まで食した。食べ物もそうだが、とにかく水、水が飲みたかった。兵士達は心身共に疲弊仕切って、その日1日を生き延びるだけで精一杯となる。場所によっては階級の上下もなくなり、横暴を振るった上官は兵士達によって壕から追放された。激しい飢餓によって、助け合う余裕もなくなり、僅かな水、食料を巡って仲間同士が争って、殺し合いになる事もあった。傷病兵の多くは治る見込みがなく、自決や、衰弱死の運命をたどった。


アメリカ軍は、まだ多くの日本兵が潜んでいる事を知ると、大掛かりな掃討作戦を開始する。アメリカ軍が投降を呼び掛けても、これに応じる日本兵は僅かだった。日本兵は、生きて虜囚の辱めを受けずとの教えを刷り込まれている。また、アメリカ軍の捕虜となると殺されると信じていたのと、家族共々、国賊扱いされるのを恐れて、あくまで投降を拒否したのである。日本兵のゲリラ戦は続き、3月26日以降もアメリカ軍には、死傷者が出続けた。アメリカ軍も容赦はなくなり、あらゆる手段を使って日本兵を一掃せんとした。壕の中に発煙弾、黄燐ガス弾を投げ込んで燻り上げ、更に爆薬をもって壕ごと爆破していった。また、大量の海水とガソリンを壕に流し込んで点火し、奥まで徹底的に焼き尽くしていった。


栄養失調、負傷、火傷、病気に加え、激しい掃討作戦によって日本兵達は次々に命を失っていった。この最中には、意識不明の傷病兵がそのまま捕虜となったり、抗戦を諦めて投降する日本兵も出た。5月17日、アメリカ軍は、掃討作戦が終わったと発表する。しかし、海岸沿いや地下壕の奥深くには、まだ日本兵は残っていた。彼らのゲリラ戦は、終戦まで続いたのである。そして、最後の残存兵2名が投降したのは、戦後の1949年1月の事であった。硫黄島での戦いでは、日本兵2万人が戦死し、1千人が捕虜となった。これは95%の死亡率である。アメリカ兵は6,900人が戦死し、2万2千人が負傷した。これは、太平洋戦争において、唯一、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回った戦いであった。戦後から現在まで、硫黄島からは日本兵9千柱の遺骨が収集された。しかし、未だ、1万柱を超える遺骨が灼熱の地下に埋もれている。




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海賊黒髭

2010.07.19 - 歴史秘話 其の一
世間で、「黒髭」と聞いたなら、樽に剣を1本1本刺していくと、突然、人形が飛び出す玩具、「黒髭危機一発」の事が、まず思い浮かぶ事だろう。実はこれにはモデルがあり、黒髭なる海賊は実在していたのである。


黒髭の前半生は定かではなく、1680年頃、イギリスのブリストルに生まれ、姓はエドワード、名はティーチ、タッシュ、サッチなどと伝わっている。1710年頃、黒髭は、国家公然の海賊活動である私掠船の1船員となってジャマイカに渡った。それからほどなくして、ホニーゴールド船長率いる海賊に加わる。黒髭には海賊としての天分があったらしく、類まれな勇猛さと統率力を発揮して、たちまち頭角を現していった。黒髭はホニーゴールドに見込まれて、2隻の船の内、もう1隻の指揮を任されるようになる。


ホニーゴールドの下、黒髭は目覚しい活躍を見せて、次々に獲物を仕留めていった。1717年、セント・ビンセント沖で、ホニーゴールドらはフランスの奴隷船を発見する。それは大きく頑丈で、40門の武装を誇る強力な相手であった。だが、2人は協力して、この大物を捕らえる事に成功する。蓋を開けてみれば、この船は宝の船で、金銀宝石、奴隷が山の様に積まれていた。ホニーゴールドはこれまでの黒髭の功を讃えて、この立派な捕獲船を与えた。黒髭は、この船をクイーン・アンズ・リベンジ号と名付けて、自らの乗船とした。この後、ホニーゴールドはほどなくして引退したため、海賊達の指揮は黒髭が執るようになった。


この後、黒髭は、北米ヴァージニアから、中南米のホンジュラスまで暴れ回って、20隻以上の船を拿捕した。黒髭はその内の何隻かを船団に加えて、更に強大になった。また、30門の大砲を積んだイギリス軍艦を打ち負かして、大いに名を上げた。黒髭のやり口は単純かつ冷酷で、相手が黙って積荷を差し出した場合は、そのまま生かして帰したが、抵抗した場合には容赦無く皆殺しにした。黒髭は恐怖の海賊、悪魔の申し子と呼ばれて、人々の恐怖の的となる。黒髭自身の自己喧伝もあって、カリブ海で彼の名を知らぬ者はいなくなった。引退していたホニーゴールドは、今や大海賊となった黒髭が、かつては自分の部下であったのだと人々に自慢した。


黒髭は長身かつ大柄な体格で、非常に恐ろしげな風貌をしていた。いかつい顔立ちに、たてがみのような黒髪をたなびかせ、そのあだ名の由来ともなった長い顎鬚は、編み込まれてへその辺りまで伸びていた。自慢の髭の両端には火縄が結い付けられ、それが煙を上げてくすぶる様は、見る者をたじろがせた。彼の気質は、その見た目同様、突飛で破天荒なものだった。黒髭は、ラム酒と火薬を混ぜた強烈な酒を愛飲していたと云う。また、黒髭は各地の港に愛人を持ち、その数は14人に達していた。


ある晩、黒髭は部下2人と共に酒盛りをした。黒髭は酒を飲みつつ、テーブルの下でピストルを2挺抜いた。船長の予想の付かない行動を知る部下の1人は、危険を察知して甲板へと逃れたが、もう1人はそのまま飲み続けた。すると、黒髭は突然、ロウソクを吹き消して真っ暗闇にすると、2挺のピストルを発射した。部下は膝を撃ち抜かれ、生涯不具の身となってしまった。他の乗員達から、何故そのような行為をしたのか問われると、黒髭は怒って、「時々、こういう事をしなきゃ、お前らも俺がどういう人間か忘れちまうだろうが!」と喚き散らしたと云う。


黒髭は、北米の大西洋岸から西インド諸島にかけての航路に絶えず出没して、付近を航行する船舶を荒らし回った。北米ヴァージニアの貿易業者達は黒髭に恐れ慄き、その貿易活動に支障を来たすまでになった。それらの人々の懇請を受け、イギリス海軍は討伐隊を送り込む事を決した。討伐隊の構成は、2隻のスループ船(中型の帆走軍艦)で、指揮官はロバート・メイヤード中尉であった。メイヤードは、まずは情報収集に努め、黒髭がノース・キャロライナのオクラコウク湾に潜んでいるらしいと聞き付けると、すぐさま現地に向かった。


1718年11月21日、この日、黒髭は拿捕した船を伴って、オクラコウク湾に停泊していた。イギリス海軍が迫っている事も知らず、黒髭は船上で18人の部下達と盛大な酒盛りを始めた。そして、翌日の朝になっても、まだ酒を飲んでいた時、突如、メイヤード率いる2隻の船団に急襲されたのである。だが、そんな泥酔状態であったにも関わらず、一旦、戦端が開かれると海賊達は手強かった。海賊達は猛反撃に転じて、1隻のスループ船の船長を殺して、乗員の大半を殺傷する。黒髭と海賊達は続いてメイヤードの船に斬り込みをかけ、熾烈な接近戦が始まった。


黒髭は、メイヤードを見かけると至近距離からピストルを発砲した。しかし、弾丸は逸れ、今度はメイヤードが反撃のピストルを撃って、黒髭に命中させた。黒髭は負傷に怯む事なく、今度はカトラス(短刀)を持って斬りかかった。黒髭は喚きながら激しく斬りかかり、メイヤードの剣を叩き折る。そして、黒髭が止めを刺そうと剣を振り上げたその瞬間、海軍兵の1人が剣をもって、その喉を切り裂いた。黒髭は瀕死の重傷を負ったにも関わらず、その闘志はまったく衰えを見せなかった。首から血を吹き出させつつ、尚もピストルを乱射し、海軍兵と渡り合った。だが、海軍の水兵に次々に斬り付けられて、20箇所もの刀傷を負い、弾丸も5発受けると、さすがの巨人もゆっくりと崩れていった。その罪業はともかく、勇猛果敢な海賊らしい死に様であった。


戦後、黒髭の首はメイヤードによって切り落とされ、船の船首に吊り下げられた。その首はヴァージニアへと運ばれ、ハンプトン河の河口に見せしめとして吊るされた。そして、戦いで捕虜となった黒髭の部下15人の内、13人も死刑となった。黒髭が海賊の首領として行動していた期間は、僅か2年余でしかなかったが、その激しい活動と破天荒な人物像は人々の語り草となり、やがて伝説となった。その後、作られた海賊ものの小説、映画などには、黒髭の印象が多分に取り入れられて現在に至っている。



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↑海賊黒髭


弓木城

弓木城は京都府、与謝野町岩滝にある山城で、近くには日本三景として有名な天橋立がある。



弓木城の詳しい歴史は定かではなく、鎌倉時代末期に地元の豪族、稲富氏が丹後岩滝の地に城を構えたのが、始まりであると云われている。室町時代になり、幕府の四職である一色氏が丹後守護となると、稲富氏はこれに従う。以後代々、稲富氏は一色氏の家臣として仕え、戦国に至る。天正6年(1578年)頃から、畿内には織田信長の支配が浸透し始め、その矛先は丹後一色氏にも向けられるようになる。信長は配下の細川藤孝や明智光秀らを差し向け、丹後攻略に当たらせた。



当時の一色氏当主は義道で、建部山城を居城として織田軍に抵抗した。しかし、翌天正7年(1579年)相次ぐ国人の裏切りによって義道は孤立し、建部山城も落城する。義道は但馬に逃れようとして、途中、中山城に立ち寄ったところ、そこで家臣の裏切りに遭い、自害して果てた。義道死後、子の義定(満信とも)が残党を引き連れて、弓木城に立て篭もった。細川藤・忠興父子は弓木城を攻め立てるが、剛勇の誉れ高い義定の抵抗は激しかった。この戦いでは、一色氏の家臣の稲富直家(祐直とも)も、よく主家を支えて戦った。この直家は稀代の鉄砲の名手であり、細川方を大いに悩ませた。



弓木城を攻めあぐねた藤は、娘を義定に娶らせて、その懐柔を図る。義定もこれを受け入れ、細川氏の支配下に収まったかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月本能寺の変が起こると、藤孝、忠興父子は明智光秀から距離を取ったのに対して、義定は光秀に味方する。山崎の戦いにて光秀が敗死すると、勝者となった羽柴秀吉は、義定を不信の目で見た。同年9月、その意向を受けた藤孝、忠興父子は、義定を宮津城へと招き入れ、これを謀殺せしめた。 この時、一色家の家臣、雑兵100人も殺害された。


義定謀殺後、一色家では義定の叔父である義清が跡を継ぎ、弓木城に拠って最後の抵抗を試みた。しかし、細川方はすぐさま軍を派遣し、弓木城を激しく攻め立てる。一色方の敗色は濃くなり、義清は最早これまでと細川方の本陣に斬りこみ、下宮津の海辺にて壮絶な討死を遂げたと云う。そして、弓木城も落城した。一色氏滅亡後、
稲富直家は、その鉄砲の腕を買われて細川家に召抱えられ、弓木城はほどなくして廃城となった。尚、この丹後一色氏に関しては不明な点が多く、詳しい事柄は分かっていない。







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↑天橋立と弓木城


奥に見えるのが天橋立で、真ん中下よりの丸い丘陵が、弓木城です。



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↑麓から眺めた弓木城




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↑弓木城内にある稲荷神社


夜には何か、出て来そうです・・・



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↑弓木城



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↑副郭



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↑副郭付近からの眺め


往時には、眼下から細川方が攻め上がり、城からは弓、鉄砲が撃ち放たれて熾烈な攻防戦が繰り広げられたのでしょう。



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↑主郭手前からの眺め


写真では分かり難いですが、急な坂道となっています。



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↑上が主郭


堅固な構えであった事が伺えます。


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↑主郭


ここに館があって、一色氏の当主が立て篭もっていたのでしょう。




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↑主郭にある石碑



弓木城は比較的、街に近い山城ですが、訪れる人も少ないようで、ひっそりとしていました。弓木城は、かつての城主、一色氏共々、忘れ去られた城跡のようです。

奥州藤原氏と平泉 終

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
文治5年(1189年)7月29日、頼朝率いる中央軍は白河関を突破し、奥州に進出した。8月7日、関東勢は阿津賀志山(あつかしやま)に達し、ここで奥州勢と対峙する。そして、翌8月8日より、熾烈な攻防戦が始まった。8月9日夜、関東勢の一部が、奥州方の安藤次なる者を道案内人に山越えをして、奥州勢の背後に回った。翌10日未明、背後に回った関東勢は一斉に鬨の声を挙げて襲い掛かり、不意を突かれた奥州勢は混乱する。これに加えて、正面からも畠山重忠率いる工兵隊が、鍬(すき)鍬(くわ)を用いて防塁を突き崩していった。奥州勢も必死に応戦して、この日は激闘となったが、やはり最初の一撃が利いて、奥州勢の敗色は濃厚となった。


支えきれなくなった奥州勢はとうとう崩れだし、大将の国衝は逃れんとしたが、その途上、畠山重忠配下の者に討たれてしまう。難攻不落と見られた阿津賀志山の堅陣は、3日間の攻防で突破された。奥州方は陸奥、出羽の2ヵ国の寡兵で、全国の兵を相手に戦かわねばならなかったのだが、それでも脆く崩れ去った印象を受ける。それを証明するかのように、奥州方からは内応者が出て関東勢を案内するなど、その軍は結束を欠いていた。もし、義経を大将に奥州勢が1つにまとまっていたなら、堅陣を盾に、逆に奥州方が迂回攻撃を仕掛けるなどして、戦法は変わっていただろう。しかしながら、泰衡が義経や弟、頼衝、忠衝を討った時から、すでに奥州勢の内部崩壊は始まっていた。



8月12日、頼朝率いる中央軍は東海道軍と合流し、多賀国府に進軍する。14日、物見岡(何処かは不明)にて奥州勢と合戦となり、20日には玉造郡、多加波々(たかはば)城に迫った。しかし、奥州勢はすでに多加波々城から後退していたため、関東勢はさらに進軍し、8月21日には津久毛橋に至った。この津久毛橋を越えれば、平泉は目の前であった。奥州方にとっては最後の防衛線であり、ここで関東勢を阻止せねば、最早、後がなかった。頼朝もここが最後の山場と考え、軍の分散を避け、2万余騎の軍勢を集結させる。この日、津久毛橋を巡って両軍、最後の戦いが繰り広げられた。しかし、勢いに乗る関東勢の猛攻は抑えきれず、奥州勢は敗走し、津久毛橋は突破された。戦い敗れた泰衡は、平泉へと逃れた。だが、ここはすでに往生楽土の地ではなかった。関東勢が平泉へと押し寄せて来るのも時間の問題であり、泰衡は平泉館や宝物庫に火を放つと出羽奥地へと逃れていった。


8月22日午後16時頃、はなはだしい雨が降る中、関東勢は平泉に入った。平泉館に着くも、すでに主はおらず、館は焼け落ちていた。町も寂寥として、人影は絶えていた。多くの人々で賑わい、栄えていた平泉の面影は、そこには無かった。だが、ここにはまだ、目も眩む様な財宝が残されていた。関東勢が火災を免れた1つの宝物庫を開けてみると、そこには金造りの鶴、象牙の笛、瑠璃の灯篭、金の沓(くつ)、錦の直垂(ひれたれ)、銀造りの猫などが山のように積まれており、武士達は仰天した。ここで頼朝は、功績を挙げた武士にこれらの宝物を与えている。平泉では、戦後も中尊寺、毛越寺、無量光院などは残されていた事から、泰衡は町全体に火を放った訳ではなく、頼朝も略奪放火を禁じていたと思われる。


頼朝は平泉に滞在し、方々に兵を放って泰衡を捜索させた。そうした折、頼朝の宿館に手紙が投げ込まれた。それは泰衡からのものだった。

「伊予守義経の件につきましては、父秀衝が援助した事であり、私はそのいきさつを存じておりません。父の死去後には鎌倉殿のご命令通り、伊予守を誅したはずです。この事は勲功に当たる行為のはずですが、それにも関わらず罪なくして征伐を受けるのは如何なる所存でありましょうか。そのため、私は先祖の在所を離れ、山林を住居とする始末で不便の極みでございます。奥羽両国がすでに鎌倉殿の支配にある以上、この泰衡には罪を許して頂き、後家人に列せられたいと存じます。これが許されないのなら、死を免ぜられ遠流(おんる)にも処して頂きたい。ご返事を頂けるならば、比内郡辺りに返書をご放置頂きたい」

この書で泰衡は必死に助命を乞うているが、無駄であった。頼朝には最初から泰衡を許すつもりなどなかった。泰衡は最後まで頼朝と云う人物を見抜けず、その手の平で踊らされ続けた、哀れな人形であった。


8月25日、泰衡の祖父、藤原基成が拘束される。基成が京都出身の貴族の身であったからか、ほどなく許されて開放されるが、その後の消息は不明である。奥州藤原氏の繁栄と滅亡の双方を見届けた人物であった。9月3日、泰衡は蝦夷の地を目指して逃亡を続けていたが、その途上、肥内郡、贄柵(にえのさく)にて朗従の河田次郎の裏切りに遭い、そこで無残な死を遂げた。だが、その河田次郎も、泰衡の首を献上した際、頼朝から「その罪、八虐に値する」となじられ、斬首の刑となった。その一方、由利八郎なる奥州方の名のある武士も捕らえられ、頼朝の前に引き出されたが、その尋問に八郎が堂々と受け答えしたため、許されて釈放されている。


頼朝の命によって、泰衡の首は鉄釘で柱に打ち据えられた。それは、祖先の源頼義が
前九年の役の折、討ち取った安部貞任の首を、鉄釘で打ち据えた故事に習ったものである。頼朝は、自分こそが正当な源氏の再興者であり、新たなる政権の樹立者であると天下に知らしめる必要があった。泰衡の首は、そのための重要な政治道具であった。義経を討とうが討たまいと、頼朝が奥州攻めを決めた時から、泰衡は殺される運命にあったのだ。戦後、頼朝は武士団に存分に褒美を与え、その心を大いに満足させる。そして、奥州の統治を葛西清重に委ねると、鎌倉へと戻って行った。これにて鎌倉幕府の権限は、あまねく全国に及ぶ事となった。建久元年(1190年)、頼朝は上洛し、右大将に任ぜられる。藤原氏を滅亡させた事で、頼朝はようやく心置きなく京に上がる事が出来たのだった。そして、建久3年(1192年)8月、頼朝は征夷大将軍の地位に就き、名実共に武家の頂点に立つ。


藤原氏が心血を注いで作り上げた中尊寺、毛越寺、無量光院などは、鎌倉幕府の庇護を受けて存続していたが、その後、火災を生じるなどして、時代を経るごとに廃れていった。奥州の中心ではなくなった平泉も衰退し、かつての繁栄の面影は消え去った。華麗を極めた建物の多くは消失し、現在にまで残された建物は、中尊寺金色堂のみである。
時代は下り、昭和25年(1950年)3月、中尊寺金色堂に安置されていた、藤原氏4代の遺体の学術調査が行われた。そこには、初代清衡、2代基衝、3代秀衝、4代泰衡らのミイラ化した遺骸があった。

●清衡(身長159センチ、保存状態が悪く広範囲で白骨化。体型は痩身。左半身不随の期間をかなり強いられたと見られる。死因は脳溢血か。4代中、最も老齢で、死亡年齢73歳説は妥当)

●基衝(身長165センチ、清衡より保存状態は良いが一部白骨化。具足の使用や武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脳溢血か。死亡年齢は50~60歳)

●秀衝(身長158センチ、全身はほぼミイラ化しているが、鼠害が著しい。基衝と同じく武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脊椎カリエスか。死亡年齢66歳説は妥当)

3代は共通して歯槽膿漏が進行し、カリエス(慢性炎症)があった。

この中で4代、泰衡の首のミイラは関係者に衝撃を与えた。首桶に入っていた首は、第4頚椎で横に切断され、脳と顔面には16箇所もの切り傷と刺し傷があった。右耳は切り落とされ、鼻も削がれ、なおかつ斬首までに7回太刀が加えられた挙句、最後の2回で切断された痕跡があった。これは、泰衡が最後まで生に執着して、激しく抵抗した為に付いたと見られている。眉間には親指大の釘が打ち付けられた孔があり、これは獄門に晒された事を意味していた。死亡年齢は30歳前後と見られている。


泰衡の首が納められていた桶からはハスの種が見つかり、その後、植物学者の尽力によってハスは、平成10年(1998年)に花を咲かせた。それは、泰衡の無念の思いが800年振りに花となって昇華したのかもしれない。現在、ハスは中尊寺の境内にある湿地に植えられている。それらは中尊寺ハスとして親しまれ、毎年7月頃、可憐な花を咲かせている。



平泉と中尊寺に関するHP



奥州藤原氏と平泉 2

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
義経は常勝将軍から一転、罪人として追われる身となった。義経は畿内各地の寺院を転々として身を隠していたが、その間にも、叔父の源行家や、佐藤忠信を始めとする郎党達は次々に討たれてゆき、愛妾、静御前まで捕らわれてしまった。最早、畿内に身の置き所は無く、義経は始まりの地である、奥州に向かう他無かった。文治3年(1187年)春、義経は苦難の逃避行の末、ようやく平泉に辿り着き、7年振りに秀衝との対面を果たした。だが、恩人の秀衝は病に冒され、すでに余命いくばくもなかった。


死の床にあっても聡明な秀衝は、平氏が滅んだ今、頼朝が次に狙うのは奥州であるという事が判っていた。そして、秀衝は死に臨んで嫡子、泰衡を呼び、義経を大将軍として、泰衡、国衝(泰衡の異母兄)らが三身一体となって、頼朝と戦うようにとの遺言を残すと、文治3年(1187年)10月29日、66歳の生涯を閉じた。偉大なる父から、巨大王国を引き継いだ泰衡であったが、彼は貴族ぜんとした線の細い人物であった。彼には国衝と云う異母兄がいたが、泰衡の母の出が高貴であった事から、兄を差し置いてその跡を継いだのだった。だが、秀衝も泰衡の資質に不安を感じていたのか、軍事の権は国衝に委ねている。しかも、この兄弟間は不仲であったとされる。


秀衝亡き後、奥州政権において大きな発言力を持つ人物がいた。それは秀衝の政治顧問役を務めていた、藤原基成である。基成は京都出身の貴族で、奥州藤原氏二代目、基衝の時に奥州に下向しており、京都とは深い繋がりがあった。毛越寺、無量光院、平泉館といった寺院は、基成の京における人脈を生かして建立されている。そして、基成は自身の娘を三代目、秀衝に娶らせており、その間に生まれたのが四代目、泰衡であった。秀衝が死亡した時には、すでに70歳前後の老齢であったが、泰衡の祖父という事も手伝って、その発言には重みがあった。


文治4年(1188年)2月、鎌倉の頼朝は、秀衝死すの報を聞くと、好機到来と見て、朝廷に義経追討の宣旨を出させて、その旨を奥州の基成と泰衡に伝えた。「義経を差し出さねば、朝敵として義経共々、奥州を討つ」との頼朝からの圧力であった。すでに秀衝の晩年の頃から、義経を差し出すようにとの要求はあったが、老獪な秀衝はこれをのらりくらりとかわしていた。泰衡も当初は同じ手を使っていたが、秀衝との役者の違いもあって、頼朝の圧力に抗しきれず、動揺をきたしていた。そこで、
藤原一族は寄り集まって、討議を行った。秀衝の三男忠衝、四男隆衝、五男道衝、末弟頼衝らは義経を奉って戦うべしと唱え、嫡男泰衡と長男国衝は、頼朝との協調路線を取るべしと唱えたと云う。討議は再三に渡って行われたが、意見は分かれたままであった。平泉には頼朝の間者が常駐しており、藤原一族の動向は逐次、鎌倉に伝えられていた。同年10月、頼朝は、動揺する泰衡を見透かすように、再び使者を送って圧力を掛ける。


この一連の不穏な動きは義経にも伝わっており、最早、平泉は安住の地にあらずとして比叡山に連絡を取り始める。文治5年(1189年)2月15日、泰衡は末弟、頼衝を討った。この出来事は、奥州政権内で意見の対立が激化していた事を物語っている。泰衡は征討の恐怖から逃れんと必死であったのか、それとも奥州の自立を守るにはこれが最善の道と見定めたのか、とうとう義経を討つと定めた。この決定には、泰衡だけでなく祖父の基成も深く関わっていただろう。同年4月30日、泰衡は、衣川の館にいる義経に数百騎の兵を差し向ける。不意を突かれた義経は防戦もままならず、持仏堂に入って22歳の妻と4歳の女子を殺害すると、そこで無念の自決となった。源義経、享年31、大きな栄光と悲劇に彩られた人生であった。同年6月26日、泰衡は、義経と同意していたとして弟、忠衝も討った。すでに頼朝の威令は、奥州を除く日本全域に及んでおり、抵抗しても勝ち目はないと思っていたのだろう。泰衡、基成らは、頼朝の鋭鋒を避けんと必死であった。しかし、現実はそれほど甘くなかった。


義経死すの報は、ただちに頼朝の耳へと伝わった。軍事の天才が死に、これで奥州侵攻の最大の懸念は取り除かれた。同年6月13日、奥州より、美酒に漬けられた義経の首が鎌倉に届けられたが、頼朝はそれに構わず、戦争準備を続ける。頼朝の動員令は全国に及び、九州南部の武士まで鎌倉に集まっていた。泰衡は、頼朝の命に従って義経を討ったのに、関東勢が攻め寄せてくると知って驚愕した。確かに泰衡には罪はなく、頼朝には大義名分が無かった。しかし、東国に武家政権を確立せんとする頼朝にとって、藤原氏は何としても打倒せねばならない相手だった。そして、その配下の御家人達も奥州を討って、恩賞と土地を賜わらん事を欲していた。奥州侵攻は関東武士の総意であり、それは誰にも止められるしろものではなかった。泰衡、基成らの現状認識は甘かったのである。


同年7月19日、頼朝は、関東武士を中心に全国各地から集められた28万と号される軍勢(実数は4~5万人余か)を率いて、鎌倉を出立する。頼朝は奥州に攻め入るにあたって軍を三分し、日本海沿いからは北陸道軍、太平洋沿いからは東海道軍、そして、白河関からは頼朝自ら率いる中央軍が、それぞれ平泉を目指して進軍を開始する。奥州方はこれに対して交通の要所である、伊達郡の阿津賀志山(あつかしやま)中腹から、阿武隈川に至るまでの地(約3・5km)に二重の堀と土塁を巡らせて、関東勢を迎え撃たんとした。この防塁は関東勢の襲来を予想して、奥州方が事前に構築していたものだった。藤原氏は、頼朝との和平交渉をしつつも一方では、万一の事態に備えていたのだろう。この地を守る奥州勢は国衝率いる2万人余の軍勢で、泰衡は後方の仙台に本陣を構えた。 
 

奥州藤原氏と平泉 終に続く・・・



 

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