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首斬り浅右衛門

2011.07.03 - 歴史秘話 其の二
 江戸時代、刀剣の試し斬りと、斬首刑を専門とする特殊な一門が存在していた。試し斬りとは、処刑された罪人の死体を土壇(どだん)に載せてから、刀を大きく振りかぶって打ち下ろし、その切れ味の程を確かめる事である。現在から見れば、甚だ野蛮な行為であるが、当時は据物(すえもの)と呼ばれる武術の一種として認められており、特に将軍家のための試し斬りは御様御用(おためしごよう)と称され、名誉ある職と見なされていた。この御様御用を務めていたのが、山田一門と呼ばれる技術集団である。初代の貞武(さだたけ)から始まり、その跡を継ぐ者は代々、浅右衛門を襲名していた。


山田一門は試し斬りだけでなく、死刑執行人としても活動していた。山田一門によって斬首された罪人は数知れず、有名どころでは橋本左内や吉田松陰も含まれている。そのために人々から首斬り浅右衛門や、人斬り浅右衛門と呼ばれたのである。だが、これらは決して簡単な役目ではなかった。試し斬りをするには相当な技術が必要で、人の首を一刀両断するのも、技術に加えて、躊躇なく人の命を断つ、強靭な精神力が必要とされた。生半可な腕と心の者が首を落とそうとすれば、仕損じる事があり、そうなれば罪人に余計な苦しみを与える事になる。そのため、山田一門は厳しい修練を積み、一刀で首を打ち落とす、確かな腕を持った者を当主としていた。また、今際の際(いまわのきわ)の罪人が残す、時世の句を解するため、俳諧の修行も行っていた。この様に山田浅右衛門を襲名するには、文武両道の達人で無ければならない。しかし、山田一族から当主に足る者がいなければ、弟子の中から力量ある者を選んで養子とし、浅右衛門を襲名させて、その家風を受け継がせていった。


これらの役目は、武家政権である徳川幕府にとって必要不可欠なものであった。しかし、死を司る不浄な役目でもあったので、山田一門は正式な幕臣とはされず、浪人身分のまま雇われていた。だが、山田一門の財力は、数万石の大名並であったと云われている。山田一門は幕府、旗本、大名から依頼される試し斬り、刀剣鑑定などで相当な収入を得ていたが、それよりも巨利を得られたのが、人の内臓を用いた製薬の販売である。山田一門は御様御用の役得として、罪人の死体から肝臓、胆嚢(たんのう)を取り出して製薬販売する事を許されていた。当時、肝臓や胆嚢は、肺病に良く効く妙薬であると信じられていて、高値で出回っていたのである。


山田一門は処刑を執行し、その死体を試し斬りにし、さらに内臓を取って製薬を作る。世の人々は、山田一門の技には畏敬の念を持っていたが、その家業は忌み嫌ってもいた。しかし、山田一門に取っても、この家業は心身を著しく消耗するものであった。いくら罪人であっても人である事に変わりは無く、多数の処刑を執行した日には、体よりも心が疲れ果てて夜も眠れなかった。そのため、処刑をした日には宴会を開き、大騒ぎをして気を紛らわしていた。また、罪滅ぼしのため、罪人のための供養塔や寺院を建立したり、貧民の救済にも努めたとされている。


山田一門の家業は、武家の世が続く限りは安泰であった。しかし、明治の世を迎えると、試し斬りや人体の製薬は禁止されて、山田一門の最大の収入源が失われてしまう。それでも、しばらくは処刑執行人として斬首を担っていたが、それも明治13年(1880年)に絞首刑に切り替えられると、山田一門は完全に存在意義を失ってしまう。こうして山田一門は、武家の世の終わりと共に急速に没落してしまった。だが、その一方で、最後までその家風を守り抜いた者もいる。それが、最後の浅右衛門とも云われる山田吉亮(やまだ よしふさ)である。吉亮は安政元年(1854年)の生まれで、少年の頃から剣の才を発揮し、12歳にして斬首刑を執行したとされている。それ以来、多数の斬首刑を執行し、有名どころでは、雲井龍雄(維新の志士で元議員)や、高橋お伝(後に映画や小説のモデルとなった殺人犯)の斬首役も勤めたが、明治13年に斬首刑が禁止されると浪人となった。


吉亮は山田家から受け継いだ人胆(胆嚢)を隠し持っていて、金に困るとそれを売って糊口を凌いでいた。それでも食うに困り出すと、明治25年(1892年)、吉亮38歳の時から、知人の表具師(ひょうぐし)の職人宅を度々訪れるようになる。吉亮はここの主人からお小遣いをもらうまで、何日でも居候を決め込むのだった。吉亮の身嗜みは整っていたが、独身で洗濯をしないからか、虱(しらみ)を大量に飼っていた。主人の妻子はこの無遠慮かつ、虱を家中に撒き散らす居候を嫌っていた。吉亮は豆が嫌いであったので妻子があえて赤飯を出すと、敵もさるもの、箸で一つ一つ豆をつまみ出してから食べるのだった。だが、生真面目な一面もあり、妻子から手伝いを頼まれると、「はい」と答えて嫌な顔一つせず、仕事をこなすのだった。それに達筆の持ち主で、主人に代わって代筆をする事もあった。


毎回、布団は丁寧に折り畳み、365日欠かすことなく、袴(はかま)をきちんと着こなすなど几帳面なところがあった。体格は小柄だが、気迫が漲っているかの様な迫力があり、その鋭い眼光は、人の心底まで見透かしているかの様であった。実際、吉亮は、ある人の面相を見て死を予言し、それを的中させて一家を驚かせた事があった。普段は物静かであるが、子供が誤って袴の裾を踏んだ時には、顔に怒気を含ませ、「打首にするぞ」と凄んだ。この時の顔は、本当に恐ろしかったそうである。この家族の回顧によれば、吉亮は東京の薬屋に頻繁に出入りしていて、人胆の取引をしていたようだと語っている。その縁あってか、明治44年(1911年)に吉亮が58歳で亡くなると、葬儀は薬屋が執り行っている。



その後の山田家であるが、明治18年(1885年)、山田吉顕(よしあき)が九代目浅右衛門を襲名したものの、最早、名目だけであった。昭和に入ると跡継ぎは絶え、嫡流は途絶えてしまう。明治以降の山田一族には不幸が立て続き、病死、事故死、徴用による戦死、が付きまとった。縁起の悪さから名跡を継ぐ者はいなくなり、やがて山田家は消滅するに至った。


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↑山田吉亮

明治36年(1903年)12月17日、吉亮50歳時の写真と伝わる。
 
主要参考文献「大江戸残酷物語」


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カリブの海賊

2011.06.17 - 歴史秘話 其の二
カリブ海とは、北は大アンティル諸島のキューバ、ドミニカ、西は中央アメリカのコスタリカ、ニカラグア、南は南米のベネズエラ、コロンビア、東は小アンティル諸島までを範囲とする海域である。 かつて、この海域は、先住民が小舟に乗って漁をしたり、ささやかな貿易をするのみであった。しかし、そこへヨーロッパ人が大船に乗って現れると、平和な海はたちまち激変する。ヨーロッパ人は先住民を虐げるばかりか、列強と海賊が相争う、修羅の海となったのである。その切っ掛けとなったのがヨーロッパ人による、アメリカ大陸発見と植民活動である。


1492年、コロンブス率いるスペインの船団が、アメリカ大陸に達した。ヨーロッパの人々は、これを快挙と捉えて、興奮の渦に包まれた。しかし、アメリカの先住民にとっては、悪夢の始まりとなった。そして、これ以降、スペイン人は大挙として中南米に押し寄せ、先住民達を虐げつつ、無慈悲な征服活動を進めていった。スペインは、1521年にはアステカ帝国を、1533年にはインカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中にした。更に1545年、南米(現在のボリビア)でポトシ銀山が発見されると、大量の銀が産出されるようになった。こうしてカリブ海一帯は、金銀財宝をヨーロッパへと運ぶ船で満ち溢れるようになる。財宝目当てに多くのスペイン人が中南米に渡り、各地に植民都市を建設していった。


しかし、財宝に惹き付けられたのはスペイン人だけではなかった。富を独り占めにはさせじとフランスが、次にイギリスが、17世紀からはオランダが、それぞれ私掠船を派遣してスペイン船を襲撃するようになる。私掠船とは、国家公認の海賊である。それだけでなく、財宝の噂を聞き付けたヨーロッパ各地のあぶれ者達が、中南米に殺到するようになり、彼らも海賊となってスペイン船を襲うようになった。これら海賊や私掠船の集団は、「バッカニア」と総称されて、恐れられた。スペインも対策として輸送船に軍艦を付けて護送船団を組んだり、軍を派遣して海賊の根拠地を攻撃したりしたが、海賊行為は激しくなる一方であった。


17世紀、カリブの海は、勇猛かつ貪欲な海賊で満ち溢れるようになった。彼らの激しい海賊活動によって、スペインの植民地支配が揺るぎ出すと、ヨーロッパ列強は割り込む様に各地に拠点を築いていった。カリブ海の中核となる西インド諸島には、フランス人やイギリス人が植民するようになり、さらにアフリカから連れられてきた奴隷によって人口は急増した。これらの人々の多くは、社会の最底辺に位置しており、容易に海賊行為に走った。また、当時の商船の多くは傲慢で残忍な船長の下、船員は過酷な扱いを受けていたので、彼らも海賊に加わる事が多かった。


海賊の国籍は様々で、ヨーロッパ各地の白人、アフリカの黒人奴隷、白人と黒人の混血、南米の原住民など、非常に国際的であった。海賊船の乗員の大抵は20代の若者で、船長になる者は、30代から40代くらいだった。そして、大部分の海賊は独身だった。海賊となった者の多くは、社会の圧制から逃れて来た者達であり、彼らは権威に縛られる事を大変嫌った。しかし、中には海賊の捕虜となり、仕方なしに仲間になる事を強いられた者もいた。彼らは自分達の自由を守るため、民主的な方法で組織を運営している。例えば、ヨーロッパの海軍が会議をする際には、参加を許されるのは士官のみであったが、海賊の場合は全乗員が参加する事が出来た。


船長は多数決で選出され、同じく多数決で罷免する事も出来た。船長に次ぐ地位である操舵手は、乗員の代表でもあった。船長、操舵手、外科医、船大工などの少数の熟練した技術者には、多めの略奪品が分け与えられたが、それ以外は全乗員に公正に分配されるのが基本であった。しかし、獲物が無けらば、もちろん報酬などは無い。海賊とは、博打打ちのような職業であった。それでも、海賊ならではの保障もあった。当時の国家では、障害者に対する保障などほとんど無かったが、海賊では、戦闘や航海で手足を失うような者がいれば、補償金が支払われている。


海賊の乗り込む船は、全長30メートルほどの2、3百トンクラスの船が多かった。獲物と狙う相手の方が大型船である場合が多いが、大胆不敵な海賊達は度々、挑戦しては勝利を収めている。糧食や器具は、他の船からの分捕りで多くを補っていた。航海用具は貧弱で、海図も不正確なものだった。だが、彼らの技術は確かであり、経験と勘を頼りに各地を航海した。海賊が掲げる旗で有名なのは、黒の生地に二本の骨が交差する頭蓋骨である。実際には様々な絵柄であったが、黒地である事はほぼ共通していた。海賊はこの黒地の旗をたなびかせ、乗り込んでいた楽士が不気味な演奏を奏でつつ、獲物に接近する。これは、相手の恐怖心を煽って、早期に降伏させる心理的効果を狙ったものである。


海賊達は、獲物を狙う時、砲撃戦よりも接近戦を図った。船をなるべく傷付けずに、積荷ごと奪うためである。1985年、北米大陸東岸、トッド岬沖で発見された海賊船ウィダ号からは、海賊の戦術を推測できる遺物が見つかっている。船には、スペインの金貨や銀貨、腕輪や指輪などの豪華な財宝に加えて、多くの武器、弾薬類も積み込まれていた。弾薬の打ち分けは、ピストル、散弾銃、マスケット銃、それに手投げ弾だった。これらの武器は、船体をあまり傷付けずに甲板上の敵を殺傷可能であった。それと、回収された骨と衣服から推測した結果、ウィダ号の海賊達の平均身長は、165センチであった。海賊と言えば、大柄な荒くれ男と想像しがちであるが、そうでもなかったようである。


17世紀半ば、イギリスはジャマイカ島を占領し、ここにポート・ロイヤルと云う理想的な港湾を見つけた。このポート・ロイヤルは、カリブ海の海運ルートの中心に位置していた。現地のイギリス総督はスペインを苦しめてやろうと企み、周辺の海賊を歓迎して招き入れた。海賊達も拠点が得られると喜び、ポート・ロイヤルに殺到するようになる。町はたちまちの内に、略奪品の金銀で溢れかえるようになった。町には貨幣所が作られて容易に換金できるようになり、さらに居酒屋、売春宿、賭博場が雨後の竹の子の様に建ち並ぶようになった。海賊達は略奪してきた金銀を毎夜毎晩、町で馬鹿騒ぎしながら撒き散らした。こうしてポート・ロイヤルは、海賊の楽園となった。イギリスから遥々やって来たある牧師は、このポート・ロイヤルで神の教えを説こうとしたが、海賊、殺人者、売春婦などで溢れかえっている町を見て絶望し、来た船で戻ってしまう出来事もあった。


カリブの海賊は、財宝を積んだ船だけでなく、植民都市も頻繁に襲った。海賊らはカリブ海周辺の沿岸都市を襲っては、住民を虐殺暴行し、略奪の限りを尽くした。また、町を破壊しないかわりに、法外な代償金をせしめる事も多々あった。捕虜となった者は、脅しと拷問を受けて財産の在り処を吐かされ、それが身分の高い者であれば、高額の身代金が要求された。カリブの海賊は恐るべき体力を誇り、大胆不敵かつ残忍だった。時に守備隊の方が数的に優勢であっても、彼らは粘り強い戦闘力を発揮して度々、勝利を収めている。彼らの活動は現地の住民にいつまでも恐怖の記憶として残り、子孫代々に渡って語り継がれていった。


スペイン側も捕らえた海賊は容赦なく殺害していったが、それでも攻撃が収まる気配は無かった。スペイン人が目の色を変えて中南米各地の住民から巻き上げた財宝は、同じく目の色を変えた海賊によって狙われ続ける運命にあった。略奪に成功した海賊がポート・ロイヤルに凱旋すると、酒、女、博打などのあらゆる放蕩にふけった挙句、数日の内に稼ぎを使い果した。これが、典型的な海賊の生態だった。莫大な財宝を得て海賊業から足を洗い、楽隠居を決め込む者もいたが、そういった者は少数に過ぎない。海賊の職業病はアルコール中毒で、大抵、若くして死んでいった。


海賊となった者には、一獲千金を得られる機会が確かにあった。そして、スリル、暴力、酒、女を存分に味わう事も出来た。しかし、その反面、リスクも大きく、戦闘、壊血病、暴風雨、熱帯病などが頻繁に彼らを襲った。また、海賊行為を行った者が官憲に捕まると大抵は縛り首となり、見せしめとして、目立つ場所に骸骨になるまで吊るされる事になる。それでも彼らはリスクを取って、海賊行為を続けた。例え平民として生きても、支配者から搾取されて長く貧しい生活を送るだけであり、それならば太く短く、自由気ままに生きようとしたのである。


1692年、ジャマイカに大地震が発生し、ポート・ロイヤルは地震とその後に襲ってきた大津波によって壊滅した。市街の大部分は海中に没し、2千人余の人々が死亡した。この町の成り立ちを知る人々は、神の審判が下ったのだと噂した。海賊の楽園は消え去ったかに見えたが、今度はバハマ諸島の島の1つ、ニュー・プロヴィデンスが新たな海賊の基地として注目される事になる。ここはすぐさま海賊の巣窟となり、たちまちの内に居酒屋、売春宿が建ち並ぶようになった。そして、彼らの吐き出す略奪品を目当てに、多くの商人も集まってくる。ここは海賊の楽園、第二のポート・ロイヤルとなった。海賊達は、俺達が死ぬ時には天国ではなく、ニュー・プロヴィデンスに帰るのだと言った。


200年余りもの間、カリブの海は海賊達に大いなる恵みを与えていた。だが、17世紀も後半になると、その実りは乏しくなる一方となる。財宝を運ぶ船はめっきり少なくなり、それに代わって植民地産の農産物などを運ぶ船が増えるようになった。それでも海賊をするしか能のない者は、農産物や日用品などを略奪したが、それらはほとんど金にならなかった。そんな海賊達に追い討ちをかける様に、これまで海賊活動を支援してきたイギリス、フランスが方針を転換して、基地の提供を拒否するようになる。今まで我が物顔でカリブの海を闊歩してきた海賊達に、暗い影が差し始める。だが、ロウソクの最後の灯火の様に、海賊達は再び活発な活動を開始した。


18世紀前半、黒髭を代表とする勇猛果敢な海賊の首領が次々に登場して、周辺の海域を支配したのである。ニュー・プロヴィデンスを中心に、海賊達の黄金時代が幕が開く。しかし、それは30年ばかりの期間でしかなかった。この頃から、国家として強力に成長してきたヨーロッパ諸国が海賊活動を強硬に取り締まるようになり、海賊の傍若無人な振る舞いを憎んでいた人々もこれに支持を与えた。1718年11月には海賊の代表格、黒髭が討ち取られて晒され、続いて1720年代には、名立たる海賊の船長達が片っ端から殺されたり、縛り首となる出来事が起こった。これ以降、カリブ海における海賊行為は急速に尻すぼみとなってゆく。これは、一世を風靡したカリブの海賊の終わりを告げる出来事であった。



決死の島抜け行「黒瀬川を越えて」

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

江戸時代後期、下総国佐原村に佐原喜三郎と云う侠客がいた。喜三郎は地元の裕福な大百姓、本郷武右衛門の子として生まれた。この本郷家の跡取りと期待されていた喜三郎は、成人してから江戸にある普化宗一月寺に入門し、高僧からの指導を受けて修行を始める。しかし、どこで道を間違えたのか、賭博にはまって侠客となり、やがて佐原に戻って胴取り親分となった。そして、渡世上の争いで人を殺めてお縄となり、天保8年(1837年)に伊豆諸島の八丈島に流刑となったのだった。だが、喜三郎には島で朽ち果てる気は毛頭無く、船で運ばれている最中からすでに島抜けを考えていた。


喜三郎はやくざ者とは言え、非常に頭が切れる上、高僧からの教えもあって教養も深かった。それに喜三郎の出身地、佐原には日本地図の大家、伊能忠敬の本家があって、忠敬が描かせた、「伊豆七島実測図」をどこかで見て、それを頭に記憶していた模様である。伊能地図は門外不出の幕府の極秘事項であったが、喜三郎は佐原の実力者であったから、見る事が出来たのだろう。喜三郎は八丈島に到着すると、朝日象現と称する虚無僧に成りすまし、島内を徘徊しては気象や海流の観測をして回る。その最中に出会ったのが、花鳥と云う女流人だった。花鳥は吉原の遊女出身で、13歳の時、苦界から逃れようとして放火し、15歳になった時点で八丈島に流されてきたのだった。


喜三郎は義太夫、新内(どちらも浄瑠璃)の名手であり、花鳥は三味線が得意であったから、2人はすぐに意気投合する。この時、喜三郎は32歳、花鳥は24歳、2人が恋に落ちるのに時間は要せず、同居生活が始まった。やがて喜三郎を中心に7人の流人が集い、お互いの結束を固めつつ、島抜け計画が進められていく。花鳥も江戸の両親に会いたい一心から、この謀議に加わった。そして、天保9年(1838年)7月3日、黒潮を乗り切るに足る順風が吹き始めると、喜三郎は頃合は良しと見て、帆柱2本、櫂8本の漁船を盗み出すと、外海へと乗り出した。いよいよ、前代未聞の島抜け劇の始まりである。だが、一行の前には、最初から大きな難関が待っていた。それは、八丈島からその北にある御蔵島までの距離、80キロ間を流れている黒潮の奔流、黒瀬川である。


黒瀬川は時速7~13キロで流れており、当時、多くの船がこれに捕まって難破したり、漂流の憂き目にあっていた。八丈島の島唄にも、「鳥も通わぬ八丈島を 越えよと越さぬ黒瀬川」と歌われている。喜三郎らは、これを数人乗りの小さな舟で乗り切らねばならないのである。だが、喜三郎の頭の中には、かつて見覚えた詳細な日本地図、「伊豆七島実測図」があり、それに日頃の観測結果と、情報収集を加えた結果、勝算ありと踏んだのである。この賭けは見事に当たり、慣れた漁師ですら月に3日しか渡れないと云う黒瀬川を突っ切る事に成功する。そして、舟は順風に乗って、2日間で80里(約320キロ)も走破した。


だが、7月4日、大島の付近で嵐に襲われ、帆柱が折れて舟は漂流状態となってしまう。翌7月5日以降も嵐は続き、木の葉の様に揺れる舟から、2人の流人が流されていった。7月7日、なんとか嵐を抜けて、舟は房総半島沖を漂流する。この時、2人の流人が陸地を求めて泳いでいったが、この2人も行方不明となった。7月8日、北東の風に乗って、船は銚子の犬吠崎(いぬぼうさき)を越え、鹿島灘に入った。そして、7月9日、鹿島郡荒野村の浜に近づくと、喜三郎らは船を寄せて座礁させ、とうとう本土に帰り着いたのだった。この7日間の航海で4人が死んだり行方不明となったが、喜三郎と花鳥、仲間の流人1人は生き残ったのだった。江戸から遥か南にある八丈島からの島抜けは、25件確認されているが、成功したのはこの佐原喜三郎だけの様である。


体力を消耗してふらふらになっていた喜三郎らは、浜で出会った1人の漁師に助けを求め、しばらくそこの納屋で介抱を受けた。7月12日、体力を回復した喜三郎らは、その故郷である佐原村へと向かった。翌7月13日、喜三郎は佐原村に着くと、かつての子分の世話になりながら身を潜め、おりしも危篤になっていた父、武右衛門との再会を果たす。武右衛門は思わぬ息子との再会を喜んだ後、翌月に息を引き取る事となる。しかし、佐原にも間もなく島抜けの噂が流れ始め、危険を察知した喜三郎は7月22日に江戸へと向かう。 翌7月23日、喜三郎らは江戸に入り、そこで花鳥は十数年ぶりに両親との再会を果たしたのだった。


2人はしばらく江戸に身を潜ませつつも、幸せな日々を送った。しかし、潜伏していた浜町にも喜三郎らの噂が流れ始める。 10月3日、危険を感じた2人が今まさに西国に逃れようとしていたところへ、役人に踏み込まれ、あえなく御用となった。幕府は、不可能と思っていた八丈島からの島抜けに驚き、2人を詳細に取り調べた後、極刑に処する事を決定した。 そして、3年後の天保12年(1841年)4月、花鳥は江戸市中引き回しの上、斬首となった。享年27。 だが、喜三郎の方は、子分から送られてくる見届け物に物を言わせて生き延び続ける。


喜三郎は、前代未聞の島抜けを果たした者として、皆から一目置かれており、推されて牢名主となった。それからは真面目に務め上げ、治安を安定させ、病を患った囚人を看病したりして、牢内の信望を得る。そして、火事の際、喜三郎が預かる牢から解き放たれた囚人が、全員立ち戻ってきた功を評されて永牢(無期懲役)に減刑された。喜三郎は悪賢いが、侠気があって人を惹きつける魅力があったのは確かであった。しかし、喜三郎は長い牢生活と、病人の囚人を看病し続けた事によって結核を患ってしまう。 やがて喜三郎は、自らの実体験を詳細に描いた記録本、「朝日逆島記」を牢内で書き上げる。それを奉行所に提出した結果、大変な評価を受けて、弘化2年(1845年)5月9日、ついに出獄を許される身となった。


命懸けの島抜けを果たし、その後、捕まって恋人は刑死し、自らも刑の執行を待つばかりであった死罪人が、とうとう自由の身となったのである。この時、喜三郎は40歳、かつての子分達から続々と見舞い品が届けられ、久方ぶりに娑婆の空気も味わった。しかし、喜三郎の強運もここまでだった。喜三郎は病を悪化させ、出獄1ヶ月にして病死してしまう。一方、喜三郎らと共に島抜けした流人の1人は、その後も捕まっておらず、真の島抜け成功者となっている。この喜三郎と花鳥の島抜けは人々の語り草となって、小説や演劇のモデルとなった。


流人となった者のほとんどが一度は心に抱くもの、それが島抜けである。島抜けこそ流人の花であったが、それは死と隣り合わせの仇花でもあった。成功率は千分の一程度で、失敗すれば極刑が待っている。それでも多くの流人が、飢餓から逃れんとして、親兄弟に会わんとして、自由の身にならんとして、海を漕ぎ出していった。だが、そのほとんどが、無残な末路を辿ったのだった。





伊豆七島の流人

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

伊豆の七島とは、東京の南、太平洋上に浮かぶ島々、北から大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の事である。これらの島々は本土から遠く離れ、周囲を海で囲まれている事から、古来より流刑の地として利用されていた。だが、本格的に流人がこの島々に送られるようになるのは、江戸時代からである。その代表格として上げられるのは、関ヶ原の合戦で副将を務めた宇喜多秀家であろう。


秀家は七島の最南端にある八丈島に流されたが、元大名であった事から客人としての待遇を受けていた。それに正妻の豪姫が北陸の大大名、前田家の出身であった事から、その援助を受けて秀家の子孫は繁栄し、明治の世には20家まで増えていた。しかし、これは例外中の例外であって、大多数の流人は地味の乏しい離島で、喘ぎ苦しみながら生活を送っていたのである。



遠島の刑は、現在の終身刑に当たる重罪である。その主な罪は、幕政批判、放火(放火の罪は重く、火あぶりと定められていたが、15歳未満の者は遠島とされた)、密貿易、恐喝、詐欺、博打(三度までは敲き(たたき)であるが、それ以上になれば遠島とされた)。遠島となっても、将軍の代替りや、慶弔、法要の折には特赦や恩赦も実施されたが、これに加えて、流人の関係者による強力な放免活動も必要であった。それも30年から40年経ってようやく放免は実現するため、それまでに死ぬ者が多かった。


八丈島に送られてくる流人は、最初は政治犯や思想犯が多く、島民は教養ある彼らを国人(くんぬ)と呼んで尊敬していたが、時代が下るにつれ無頼漢の刑事犯が増えてきたので、次第に軽蔑するようになった。江戸時代後半の例を挙げると、最多は博徒で、次に女犯の僧侶、そして喧嘩であった。ちなみに江戸時代、僧侶の妻帯は禁じられていたが、実際にはお針女とか洗濯女の名目で寺内に引き入れたり、遊里に通ったりしていた。それが発覚すれば、日本橋に3日間晒された上、寺法に則って処分された。寺持ちの僧侶であれば遠島で、相手が人妻であったなら、僧侶と言えども獄門に処された。


遠島となった者は道義に外れた者も多く、問題も多く起こした。そのため、島民は困り果てて度々、遠島の免除を願い出たが、幕府は聞き入れなかった。遠島が無くなるのは、明治の世まで待たねばならなかった。流人が配所に到着すると、島役人の人改めを受けた上で、それぞれの村に受け渡される。女流人は、男流人とは区別されて島の有力者の召使いとされた。女流人の小屋には男流人が群がって妊娠する事もあったが、子を養う力が無いため、赤子は捨てられていった。配所には流人頭がおり、流人達の世話と統率に当たった。流人頭は、流人の中から信望のある者が任命されており、親切で面倒見のある者もいたが、同じ流人を家来の様に扱って、牢屋の専制君主の様に振舞う者もいた。


流人は身分によって扱いが異なっており、武士、高僧、有識者などは「別囲」と呼ばれて、寺や島役人の離れに寄宿した。その中でも、宇喜多秀家の一族は別囲以上の扱いを受けていた。見届け物の多い裕福な流人は「家持流人」と呼ばれ、借家に住んだ。しかし、大多数の流人は「流人小屋」と呼ばれる、粗末な掘っ建て小屋に住んでいた。島送りの流人達は渡世勝手次第と言って、自分で生計を立てるのが原則であった。


一見自由に見える流人の生活にも、禁止事項はある。島抜けの禁止・再犯の禁止・水汲み女の雇い入れの禁止(島妻の禁止)・内証便の禁止(見届け物や手紙の密輸禁止)などである。伊豆の島々は水の便が悪く、それを汲むのは島の女の役目であり、それが水汲み女と称されていた。「別囲」「家持」などの流人は水汲み女を雇い入れて、実際には島妻としていた。表向き、水汲み女の雇い入れは禁止されていたが、妻子を持つと流人の心が和んで再犯防止に効果があったので、どの島でも黙認されていた。


島民が最も恐れたのは、流人の再犯である。そのため、再び犯罪に手を染めたなら厳罰を持って望んだ。その主な刑は、斬首、簀巻き(むしろで巻いて海に投げ落とす)、縛り首、断頭刑(木槌で頭を打ち砕く)、榾(ほだ)の掛け捨て(手足を丸太に挟んだまま死ぬまで放置する)などである。伊豆七島は小さな火山列島であり、耕作地は狭く、火山灰によって作物の実りも乏しい。その上、台風などによる塩害や風害を受ける事も多く、その都度、深刻な飢饉に襲われた。そうなれば島民には男1人2合、女1人1合のお救い米が幕府より支給されたが、流人とその子供は適用外であり、飢饉になると多くが餓死していった。流人がこの島で生きて行くには、親族などから送られてくる、金品や食料などの見届け物が必要不可欠であった。


宇喜多一族には、加賀100万石の前田家から、隔年で豊富な見届け物が届けられていたが、これは宇喜多一族のみに当てはまる事であって、ほとんどの流人は親族からの細々とした見届け物で命を繋いでいたのである。そして、飢饉になると頻発したのが、流人による島抜けであった。新島では、寛文8年(1668年)から明治4年(1872年)までに18件、三宅島では、明和2年(1765年)から文久3年(1863年)までに35件、八丈島では、享保7年(1722年)から延元年(1860年)までに25件、確認されている。島を抜けるには数人がかりで船を漕がねばならないので、大抵5人から10数人で決行されている。島抜けの例を幾つか挙げてみる。


嘉永5年(1852年)6月8日、新島から竹居安五郎と云う侠客の親分が6人の仲間と共に島抜けを図った。この時、安五郎は42歳、諸般の罪科を重ねて、遠島となっていた。まず、安五郎らは島の名主宅を襲って殺害した上、鉄砲を盗み出した。そして、水先案内を捕らえると、本土へ向けて船を漕ぎ出した。翌9日、船は伊豆半島に漂着したが、この時に案内人が逃れて代官所に駆け込んだ。直ちに安五郎らの人相書きが配られて、捜索が始まった。一味はばらばらに逃れたが、3人は捕らえられて獄門に処され、3人は行方不明となり、安五郎は甲斐国へ逃れて追跡を振り切った。かつての子分達が、安五郎を匿ったのだろう。そして、安五郎は関東のあぶれ者達の集まり、甲州博徒の親分に復帰して、10年に渡って君臨する事になる。


島抜け成功者として、侠客の中でさらに重きを成していた安五郎であったが、文久元年(1861年)10月6日、ついにその悪運も尽きる時が来た。安五郎の用心棒であった、犬上郡次の密告を受けてお縄となったのである。この郡次は、安五郎の島抜けの際に殺された名主の甥であった。そして、翌文久2年(1862年)安五郎は獄死する。しかし、密告した郡次も、安五郎の一番子分、黒駒の勝蔵の報復を受け、滅多斬りにされて殺されたのだった。


万延元年(1860年)11月、この年は飢饉だったらしく、三宅島に在島していた流人258人の内、34人が島抜けを図った。その中の1人、金子伴作は仲間13人を誘って船を漕ぎ出したが、海が荒れていたからか、島に押し戻されてしまう。そこで、一味は村の鉄砲庫を襲った上で山に逃れた。10日後の深夜、一味は再び船を漕ぎ出したが、村民に非常線を張られており、追跡されて全員が海上で殺されたのだった。

金ヶ崎城

金ヶ崎城は、福井県敦賀市にある山城である。ここは幾度となく戦乱の舞台となった激戦地だが、現在は、山頂から日本海や敦賀市を見渡す事も出来る風光明媚な城跡となっている。



金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した岬に築かれた山城である。城は標高86メートルの金ヶ崎山の山頂にあって、背面は急峻な斜面となっており、三方は海に囲まれた天然の要害である。また、この城は北陸と畿内をつなぐ街道と、日本海交易の拠点、敦賀港を押さえる事も出来る要衝であった。こういった戦略上、経済上の見地から、金ヶ崎城は度々、争奪戦の舞台となっている。


寿永2年(1183年)頃、源平合戦の最中、平氏が源義仲の挙兵に備えて、砦を築いたのが金ヶ崎城の始まりであるとされている。南北朝時代、建武3年(1336年)5月、湊川の戦いに敗れた南朝は捲土重来を期して、後醍醐天皇の皇子である尊良(たかよし)親王と恒良(つねよし)親王、そして、重臣の新田義貞を越前に派遣した。同年10月、皇子2人と義貞は金ヶ崎城に入ったが、すぐに北朝の足利方が包囲するところとなる。


翌建武4年(1337年)、足利尊氏は高師泰に大軍を授けて、城を激しく攻め立てたさせた。城方は何とかこの攻撃を凌いだものの、兵糧不足は深刻であった。同年2月、新田義貞は援軍を求めて城を脱出する。そして、援軍を編成して城に向かったものの、足利方に阻まれて救援は成らなかった。同年3月6日、足利方が城に総攻撃を加えると、兵糧攻めで弱っていた城方300人余は次々に討ち取られていった。そして、本丸まで攻め入られるに至って、尊良親王と新田義貞の嫡男、義顕は自害して果てた。恒良親王は捕らえられて毒殺されたと伝わる。現在、金ヶ崎城の中腹にある金ヶ崎宮は、尊良親王と恒良親王を祭って建てられたものである。



戦国時代、金ヶ崎城は越前朝倉氏の支配する所となり、その一族が敦賀郡司として守りに就いた。朝倉氏は紛うこと無き戦国の大大名であったが、その存在を抹消せんとする者が現れる、織田信長である。元亀元年(1570年)4月20日、信長は越前に攻め入らんとして、3万人余の大軍を率いて京を出立する。4月25日、織田軍は敦賀に侵入すると、手始めに手筒山城への攻撃を開始する。この手筒山城は金ヶ崎城の支城であり、尾根伝いで繋がっていた。信長の号令一下、3万の兵が一斉に雄叫びを上げて山上を駆け上がって行く。しかし、朝倉軍の抵抗も激しく、攻防戦の最中には森乱丸の兄にあたる森可隆(織田家の重臣、森可成の長男)も戦死している。織田軍はおびただしい死傷者を出しつつも、朝倉軍1370人余を討ち取って、その日の内に城を攻め取った。


戦国期の公家が書いた、「言継卿記(ときつぐきょうき)」によれば、織田軍も千人余の討死を出したと書かれており、相当な激戦であった事が窺える。だが、この犠牲は無駄では無かった。隣接する金ヶ崎城に加え、その南方にある疋檀(ひきだ)城も震え上がって、戦わずして織田軍に城を明け渡したからである。これで敦賀郡の平定は成り、後は木芽峠を越えて一乗谷を目指すのみであった。信長が今まさに軍を進めようとした時、凶報が入った。信長の妹婿にして近江北部の領主である、浅井長政が離反したのである。如何に大軍を引き連れていようとも、退路を断たれれば圧倒的に不利となる。4月28日、信長は即座に撤退を決断し、少数の馬廻(うままわり)だけを連れて京へと向かった。


信長は、後を追うであろう朝倉軍や浅井軍を食い止めさせるため、現地に羽柴秀吉、明智光秀、池田勝正らを残していった。殿軍(しんがり)は最も危険な役目であるが、それを成し遂げてこそ主君の信頼も得られる。金ヶ崎城には羽柴隊が篭って信長撤退の時間を稼ぎ、それを成したと判断すると脱出に入った。そこへ朝倉軍が大挙して襲い掛かってくるが、秀吉隊は鉄砲を乱射しつつ、じりじりと退いてゆく。


秀吉隊が崩れそうになると、池田隊や明智隊が側面から援助して撤退を助けた。そして、3隊は入れ替わり立ち替わりながら追撃を食い止め、殿軍の重責を果たしたのだった。この金ヶ崎撤退戦では羽柴秀吉の軍功が名高いが、実際には3千人余の兵を率いていた池田勝正が主力となっていたと思われ、明智光秀も秀吉と同等の働きをしていた。いずれにせよ、この三者の協力によって信長は死地を脱し、軍の大部分も脱出に成功したのだった。


この撤退戦によって織田軍は千人余の戦死者を出したとされるが、3万人余りの軍勢の撤退にしては犠牲は少ないと云えよう。信長の迅速な決断と、優秀な部下達の奮戦によって損害は最小限に抑えられたのだった。この事は、信長に早期の立ち直りを可能とする。4月30日、信長は無事、京に着くと、揺らいだ地盤を固め直すため、重臣と軍勢を近江各所に派遣する。そうした仕置きをすませた上で、5月21日に本拠の岐阜へと戻り、長政への復讐の機会を窺う。


そして、6月中旬、浅井氏に従う国人、堀秀村が織田家に鞍替えしたと聞くや、信長はすぐさま出陣を命じた。6月19日、信長はまたも少数の馬廻を従えただけで城を飛び出すと、近江と美濃の国境で軍勢の集結を待った。そして、6月21日になって2万余の軍勢(後から徳川軍3千人余も参加)が揃うと、小谷城へと攻め上って行くのである。信長は、攻めも退きも常に迅速であり、その速さは他の戦国大名の追従を許さない。信長のこの迅速な決断力と行動力こそ、天下制覇の大きな原動力であった。


尚、この後の金ヶ崎城であるが、天正3年(1575年)に信長が越前を平定すると、敦賀一群は
武藤舜秀(むとう きよひで)に委ねられた。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後には秀吉の部将、蜂屋頼隆が敦賀一群を与えられる。頼隆は敦賀城を築いてそこを居城としたため、金ヶ崎城は廃城となった。現在でも、金ヶ崎城には土塁や堀切の跡が残っており、かつての激戦地の面影を残している。




金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑金ヶ崎宮


金ヶ崎城の中腹にあります。かつては、ここも城域の一部だったと思われます。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑中腹から眺める敦賀市内



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑城の案内図



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿跡


金ヶ崎城の最上部、標高86メートル地点にあります。ここからの眺めはなかなかのものです。


金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から左方を望む


非常に急峻な崖となっています。南北朝時代、金ヶ崎城に篭城していた尊良親王、恒良親王らは足利方の大軍に囲まれて、ここから絶望的な面持ちで海を眺めていた事でしょう。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から右方を望む



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑堀切



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑兵糧庫の跡


元亀元年(1570年)、織田軍が金ヶ崎城を攻撃した際に倉庫が焼け落ち、その時に生じた焼米が出土したとされています。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑二の木戸跡


南北朝時代、この付近で激しい攻防戦があったと伝えられています。この先を進むと、手筒山城に行けます。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城


尾根の左側には金ヶ崎城があり、その右側の尾根に天筒山城がありました。戦国の第一級資料である「信長公記」には屏風の様な高山であったと記されており、実際に見て、なるほどと納得しました。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城


織田軍がこの城に攻めかかった際には、全山を震わすほど、軍勢の喊声や銃声が響き渡っていた事でしょう。金ヶ崎城は小規模な山城ですが、そこに秘める歴史は深いです。



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