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金ヶ崎城

金ヶ崎城は、福井県敦賀市にある山城である。ここは幾度となく戦乱の舞台となった激戦地だが、現在は、山頂から日本海や敦賀市を見渡す事も出来る風光明媚な城跡となっている。



金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した岬に築かれた山城である。城は標高86メートルの金ヶ崎山の山頂にあって、背面は急峻な斜面となっており、三方は海に囲まれた天然の要害である。また、この城は北陸と畿内をつなぐ街道と、日本海交易の拠点、敦賀港を押さえる事も出来る要衝であった。こういった戦略上、経済上の見地から、金ヶ崎城は度々、争奪戦の舞台となっている。


寿永2年(1183年)頃、源平合戦の最中、平氏が源義仲の挙兵に備えて、砦を築いたのが金ヶ崎城の始まりであるとされている。南北朝時代、建武3年(1336年)5月、湊川の戦いに敗れた南朝は捲土重来を期して、後醍醐天皇の皇子である尊良(たかよし)親王と恒良(つねよし)親王、そして、重臣の新田義貞を越前に派遣した。同年10月、皇子2人と義貞は金ヶ崎城に入ったが、すぐに北朝の足利方が包囲するところとなる。


翌建武4年(1337年)、足利尊氏は高師泰に大軍を授けて、城を激しく攻め立てたさせた。城方は何とかこの攻撃を凌いだものの、兵糧不足は深刻であった。同年2月、新田義貞は援軍を求めて城を脱出する。そして、援軍を編成して城に向かったものの、足利方に阻まれて救援は成らなかった。同年3月6日、足利方が城に総攻撃を加えると、兵糧攻めで弱っていた城方300人余は次々に討ち取られていった。そして、本丸まで攻め入られるに至って、尊良親王と新田義貞の嫡男、義顕は自害して果てた。恒良親王は捕らえられて毒殺されたと伝わる。現在、金ヶ崎城の中腹にある金ヶ崎宮は、尊良親王と恒良親王を祭って建てられたものである。



戦国時代、金ヶ崎城は越前朝倉氏の支配する所となり、その一族が敦賀郡司として守りに就いた。朝倉氏は紛うこと無き戦国の大大名であったが、その存在を抹消せんとする者が現れる、織田信長である。元亀元年(1570年)4月20日、信長は越前に攻め入らんとして、3万人余の大軍を率いて京を出立する。4月25日、織田軍は敦賀に侵入すると、手始めに手筒山城への攻撃を開始する。この手筒山城は金ヶ崎城の支城であり、尾根伝いで繋がっていた。信長の号令一下、3万の兵が一斉に雄叫びを上げて山上を駆け上がって行く。しかし、朝倉軍の抵抗も激しく、攻防戦の最中には森乱丸の兄にあたる森可隆(織田家の重臣、森可成の長男)も戦死している。織田軍はおびただしい死傷者を出しつつも、朝倉軍1370人余を討ち取って、その日の内に城を攻め取った。


戦国期の公家が書いた、「言継卿記(ときつぐきょうき)」によれば、織田軍も千人余の討死を出したと書かれており、相当な激戦であった事が窺える。だが、この犠牲は無駄では無かった。隣接する金ヶ崎城に加え、その南方にある疋檀(ひきだ)城も震え上がって、戦わずして織田軍に城を明け渡したからである。これで敦賀郡の平定は成り、後は木芽峠を越えて一乗谷を目指すのみであった。信長が今まさに軍を進めようとした時、凶報が入った。信長の妹婿にして近江北部の領主である、浅井長政が離反したのである。如何に大軍を引き連れていようとも、退路を断たれれば圧倒的に不利となる。4月28日、信長は即座に撤退を決断し、少数の馬廻(うままわり)だけを連れて京へと向かった。


信長は、後を追うであろう朝倉軍や浅井軍を食い止めさせるため、現地に羽柴秀吉、明智光秀、池田勝正らを残していった。殿軍(しんがり)は最も危険な役目であるが、それを成し遂げてこそ主君の信頼も得られる。金ヶ崎城には羽柴隊が篭って信長撤退の時間を稼ぎ、それを成したと判断すると脱出に入った。そこへ朝倉軍が大挙して襲い掛かってくるが、秀吉隊は鉄砲を乱射しつつ、じりじりと退いてゆく。


秀吉隊が崩れそうになると、池田隊や明智隊が側面から援助して撤退を助けた。そして、3隊は入れ替わり立ち替わりながら追撃を食い止め、殿軍の重責を果たしたのだった。この金ヶ崎撤退戦では羽柴秀吉の軍功が名高いが、実際には3千人余の兵を率いていた池田勝正が主力となっていたと思われ、明智光秀も秀吉と同等の働きをしていた。いずれにせよ、この三者の協力によって信長は死地を脱し、軍の大部分も脱出に成功したのだった。


この撤退戦によって織田軍は千人余の戦死者を出したとされるが、3万人余りの軍勢の撤退にしては犠牲は少ないと云えよう。信長の迅速な決断と、優秀な部下達の奮戦によって損害は最小限に抑えられたのだった。この事は、信長に早期の立ち直りを可能とする。4月30日、信長は無事、京に着くと、揺らいだ地盤を固め直すため、重臣と軍勢を近江各所に派遣する。そうした仕置きをすませた上で、5月21日に本拠の岐阜へと戻り、長政への復讐の機会を窺う。


そして、6月中旬、浅井氏に従う国人、堀秀村が織田家に鞍替えしたと聞くや、信長はすぐさま出陣を命じた。6月19日、信長はまたも少数の馬廻を従えただけで城を飛び出すと、近江と美濃の国境で軍勢の集結を待った。そして、6月21日になって2万余の軍勢(後から徳川軍3千人余も参加)が揃うと、小谷城へと攻め上って行くのである。信長は、攻めも退きも常に迅速であり、その速さは他の戦国大名の追従を許さない。信長のこの迅速な決断力と行動力こそ、天下制覇の大きな原動力であった。


尚、この後の金ヶ崎城であるが、天正3年(1575年)に信長が越前を平定すると、敦賀一群は
武藤舜秀(むとう きよひで)に委ねられた。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後には秀吉の部将、蜂屋頼隆が敦賀一群を与えられる。頼隆は敦賀城を築いてそこを居城としたため、金ヶ崎城は廃城となった。現在でも、金ヶ崎城には土塁や堀切の跡が残っており、かつての激戦地の面影を残している。




金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑金ヶ崎宮


金ヶ崎城の中腹にあります。かつては、ここも城域の一部だったと思われます。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑中腹から眺める敦賀市内



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑城の案内図



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿跡


金ヶ崎城の最上部、標高86メートル地点にあります。ここからの眺めはなかなかのものです。


金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から左方を望む


非常に急峻な崖となっています。南北朝時代、金ヶ崎城に篭城していた尊良親王、恒良親王らは足利方の大軍に囲まれて、ここから絶望的な面持ちで海を眺めていた事でしょう。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から右方を望む



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑堀切



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑兵糧庫の跡


元亀元年(1570年)、織田軍が金ヶ崎城を攻撃した際に倉庫が焼け落ち、その時に生じた焼米が出土したとされています。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑二の木戸跡


南北朝時代、この付近で激しい攻防戦があったと伝えられています。この先を進むと、手筒山城に行けます。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城


尾根の左側には金ヶ崎城があり、その右側の尾根に天筒山城がありました。戦国の第一級資料である「信長公記」には屏風の様な高山であったと記されており、実際に見て、なるほどと納得しました。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城


織田軍がこの城に攻めかかった際には、全山を震わすほど、軍勢の喊声や銃声が響き渡っていた事でしょう。金ヶ崎城は小規模な山城ですが、そこに秘める歴史は深いです。



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