忍者ブログ

八上城

八上城は、兵庫県篠山市にある山城で、黒井城、八木城と並んで、丹波の三大山城と称されています。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑麓にある春日神社

鳥居をくぐった先に、車が1、2台停めれるスペースがあります。この神社から登り始めます。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑主膳屋敷跡

歴代の当主が住まっていた所です。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑二の丸跡

この先にある土塁が、本丸跡です。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸から西を望む

左下にある山には、法光寺城が築かれていて、八上城の側面防御を担っていました。明智光秀との攻防の折には、ここは占領され、付城とされた模様です。この両城の谷間に城下町があり、その奥にかつての波多野氏の本拠、奥谷城がありました、



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸跡



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸跡の石垣

この石垣は、明智光秀か豊臣秀吉の統治下にあった時に、築かれたものでしょう。




八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

眼下にある小島の様な丘陵にも、織田軍の陣所が設けられていました。このどれかが、ロウ山で、光秀の家臣、小畠越前守が守っていましたが、波多野軍に攻め懸けられ討死しました。丹波は霧が深い事で知られており、その霧に乗じて、波多野軍は忍び寄ったのでしょう。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑大堅堀跡

実際、大きな堀切りでした。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑朝路池跡

底が見えていたので、入水自殺をするには無理があると思いました。しかし、この付近は、なにやら重々しい雰囲気が漂っているように感じました。山中では誰一人出会わず、不気味なほど静寂だったので、余計にそう感じました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑八上城遠景

これは、篠山城の本丸からの眺めです。八上城のある高城山は、整った山容をしており、丹波富士とも称されています。    

PR

八上城の攻防

2016.11.23 - 戦国史 其の三

八上城は、兵庫県篠山市にある山城である。城を築いたのは、丹波国(兵庫県、京都府、大阪府に跨る地域)の戦国武将、波多野氏で、戦国時代後半、城主の波多野秀治と織田家の部将、明智光秀との間で、熾烈な攻防戦が繰り広げられた城として知られている。


波多野氏の始まりは、応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)の応仁の乱にて、石見国出身の波多野清秀(1443?~1504年)が東軍の総大将、細川勝元に属して活躍した事から、その子、細川政元から、丹波多紀郡を与えられた事に始まるとされる。この清秀の時代に、奥谷城が築かれ、そこを本拠とした。2代目、元清(1496~1545)になると、波多野氏の勢力は周辺の群にまで及び始める。そして、元清は、奥谷城の隣にある、高城山(標高460メートル)に八上城を築き、そこを新たな本拠とした。正確な築城年代は不明だが、大永6年(1526年)に「足利李世記」「細川両家記」の両記に矢上城と記載されている事から、これ以前には築かれていたと見られる。


3代目、秀忠(?~1554?)は、波多野氏の全盛期を作り出した人物で、丹波の最有力者となっただけでなく、室町幕府菅領、細川家の被官として、京都でも活躍を見せた。秀忠は、細川京兆家の権威を背景に、丹波の制覇を進め、天文7年(1538年)には、丹波守護代、内藤氏の拠る八木城を落として、船井郡、桑田群に勢力を伸ばした。また、秀忠の文書は、多紀、桑田、天田、船井の各群に向けて発給されており、その勢力は丹波のほぼ全域に及んでいたと考えられる。その実力をもって丹波守護と称され、名実ともに丹波を代表する戦国大名となった。時の菅領、細川晴元は、秀忠を厚く信頼し、三好長慶と並んで、家中の柱石と見なした。秀忠は、同僚の実力者、長慶に娘を嫁がせて友好関係を結んだ。


しかし、4代目、元秀(?~?)の時代になると、三好長慶との対立が深まってゆく。天文18年(1549年)、細川晴元と三好長慶との間で抗争が始まると、元秀は晴元に属して戦った。だが、長慶の勢力は強大で、天文21年(1552年)、八上城は三好軍によって包囲される。波多野氏は存亡の危機に立ったが、幸いこの時、三好家の一族、芥川孫十郎が摂津芥川城で反旗を翻したので、三好軍は撤退していった。弘治元年(1555年)、八上城は再び三好家の攻撃を受けたが、元秀は固く城を守って、自力でこれを退けた。そこで長慶は調略をもって、波多野氏の切り崩しにかかり、その一族で数掛山(かずかけやま)城主の波多野秀親を味方に付けた。元秀は頼りとしていた一族に裏切られ、八上城を保つのも難しくなった。そして、永禄2年(1559年)、三好家の部将、松永長頼(松永久秀の弟)の攻撃を受けて、元秀は八上城から追われ、丹波の支配者の座から転がり落ちた。元秀は逼塞を余儀なくされ、永禄4年(1561年)まで、文書の発給は途絶える。


それからの元秀の所在は定かではないが、隣接する氷上郡の赤井直正の下に身を寄せていたと思われる。その後援を受けてか、永禄5年(1562年)には勢力を挽回しつつあったようだ。同年12月、元秀は、多紀郡の豪族に人夫摘発を免除するとの書状を発給している。永禄8年(1565年)8月、丹波に君臨していた松永長頼が、赤井直正と戦って敗死すると、元秀はこの機に乗じて反攻し、八上城を奪回する事に成功した。この後、直正が丹波3郡を支配する最大勢力となるが、波多野氏とは協力関係にあったと思われる。元秀の没年は不明だが、やがて、5代目、秀治が当主となった。元亀元年(1570年)11月、秀治は、畿内最大の実力者となっていた織田信長に馬と太刀を送って、服属を表明した。赤井直正も同じく、織田家に服属したようだ。元亀4年(1573年)、足利義昭の主導による信長包囲網が形成されると、秀治は応じなかったが、直正はこれに応じて反旗を翻した。


天正3年(1575年)10月、信長は、直正を討つべく、部将の明智光秀を丹波に派遣した。光秀軍は丹波北部から攻め入ると、瞬く間に直正の拠る黒井城を包囲した。秀治は、光秀軍に協力する姿勢を見せていたが、天正4年(1576年)1月15日、包囲が続く中、突如として反旗を翻した。背後を突かれた光秀はたまらず、総崩れとなって落ち延びていった。天正5年(1577年)10月、光秀は雪辱を晴らさんと、再び丹波攻略に乗り出した。そして、丹波東部の内藤氏の亀山城、八木城、ついで宇津氏の船坂城、波多野氏の籾井城を攻略していった。前回は北から一気に丹波を制圧せんとして失敗したが、今回は東から徐々に切り取っていく堅実な作戦に切り替えたのだった。天正6年(1578年)2月、播磨の戦国大名、別所長治が、織田家に反旗を翻した。別所氏と波多野氏は婚戚関係にあったとされ、これで播磨と丹波が揃って織田家に対抗する形となった。


しかし、同年3月、丹波一の実力者、赤井直正が病没してしまい、反織田陣営にとって大きな打撃となった。赤井氏は丹波の半分と但馬の一部を支配していたので、3~4千人の兵力を有していたと思われる。一方、波多野氏は、一群のみの支配であったのでその兵力は1,500人未満であったろう。だが、赤井氏が主体性を失ってしまったので、これからは、秀治が丹波の反織田の盟主とならざるを得なくなる。同月、これを好機と捉えてか、光秀は、細川藤考と共に丹波に攻め入り、八上城に迫った。その兵力は、8千人余だと思われる。同年4月10日、同僚の丹羽長秀、滝川一益の増援を受けて、細工所城を落とし、多数の付城を築いて、八上城とその有力支城、氷上城の封鎖に取り掛かった。同年7月、園部城を落として側面の安全を確保し、同年9月、八上城の後ろの山まで陣取った。


しかし、同年11月、摂津の織田家部将、荒木村重が謀反を起こし、これで丹波、播磨、摂津の3カ国が織田家に敵対する形となった。光秀は摂津への転戦を命じられ、親織田の丹波国人、小畠越前守に包囲陣を委ねた。だが、村重謀反に呼応する形で、八上城の秀治も反撃に出る。それに対して光秀は、「我々留守ねらい候事、笑敷(おかしき)候」と述べつつ、亀山城から増援を現地に派遣した。光秀は更に指令を発し、赤井氏の黒井城と、波多野氏の八上城との中間に位置する金山城を改修させた。両者の提携を断ち切るためである。同年12月、光秀は丹波に戻ると、八上城の封鎖の徹底を図った。城の三里四方を取り囲むと、堀を穿ち、塀と柵を幾重にも廻らせた。堀際には陣屋を連ね、兵を交代で警備させて、厳重な監視下に置いた。そうしておいて、光秀はまた摂津に転戦したようだ。


光秀不在の間にも、八上城の前線では激しい戦闘が繰り広げられていた。天正7年(1579年)1月26日、光秀は書状で、八上城から約1キロ北にある、籠山(ろうやま)に敵が取り掛かってきて、ここに陣取っていた小畠越前守が戦死したと報じている。だが、この攻撃をもってしても、包囲陣は揺るぎなかった。摂津戦線が織田有利で膠着してきたので、ようやく光秀は本腰を上げて丹波攻めに取り掛かれるようになった。そして、同年2月、光秀は亀山城に入って準備を整えると、同年3月、攻勢に打って出た。この頃には、八上城の兵糧攻めはかなり進行していたようだ。同年4月4日、光秀は書状で、「八上城ではもう四、五百人も餓死している。出てきた者は青くむくんで、この世の人間の顔をしていない。五日、十日の間には討ち果たす事になるだろう」と述べている。この様な状況にあっても、秀治は徹底抗戦の構えを崩さず、尚も篭城を続けたが、城内では徐々に不満が高じつつあった。


同年5月5日、波多野氏の最後の支城、氷上城が落城する。同月、光秀を側面援助すべく、隣国但馬から織田家部将、羽柴秀長が4千人余を率いて、西から丹波に侵攻した。そして、赤井氏の支配下にあった、何鹿郡、天田郡を平定し、これらを光秀に引き渡してから、帰還していった。同年6月1日、激しく抵抗してきた八上城もついに落城となり、秀治も捕らわれの身となった。「信長公記」によれば、調略をもってとあるので、光秀は城内の不満分子に働きかけて、秀治を絡め捕った模様である。同年6月4日、秀治とその弟2人は安土に送られ、そこで磔に処された。秀治の享年は不明で、これをもって波多野氏は滅亡となった。この後、光秀は軍を反転して、同年7月、宇津氏の拠る宇津城を落とし、次に北上して丹後の一色氏を討ち、同年8月9日、赤井氏の黒井城を落とし、残る小敵をつぶしていって丹波の平定を成し遂げた。八上城の落城をもって、事は一気に進展したのだった。それだけ、秀治と八上城の存在は大きかったと言える。


信長は、光秀の功を讃えて、「永年丹波に在国しての粉骨の働きと度々の高名、名誉比類なきものである」との感状を与えた。 天正7年(1579年)10月24日、光秀は晴れて安土に凱旋し、丹波と丹後の平定を報告する。そして、翌年、丹波一国を拝領した。この後、八上城は光秀の持ち城となるも、天正10年(1582年)6月13日、光秀は山崎の合戦にて敗死し、丹波は豊臣秀吉の支配下に入った。慶長7年(1602年)、前田茂勝が入封し、八上城主となるも、慶長13年(1608年)、茂勝は改易され、徳川譜代の松平康重が入封する。慶長14年(1609年)、新たに篠山城が築かれたのに伴い、八上城は廃城となった。現在、篠山城の本丸に立てば、八上城のある高城山を見渡す事が出来る。篠山城は観光地として賑わいを見せているが、八上城を訪れる人は少なく、激しい歴史を秘めつつ、ひっそりと佇んでいる。





秘書が見たヒトラー 終

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

4月28日の深夜、ライチュとグライムが飛行の支度をしていた。そして、ヒトラーと長い会話をしてから、地下壕を去って行った。ユンゲが執務室に入ると、そこには皿やグラスが並べられて祝いの席が設けられていた。ユンゲには、何の席かまだ分からなかったが、ここでヒトラーとエヴァの結婚披露宴が行われるのだった。そして、ヒトラーから口述筆記してもらいたいと言い渡され、隣の会議室に移動した。タイプライターの席に座ると、ヒトラーはまず、「余の政治的遺言」と発した。それを聞いたユンゲは、極度に緊張する。ここで、あらゆる歴史的真実が明かされるに違いないと思ったからだ。


しかし、その期待は外れ、ヒトラーは心ここにあらずと言った感じで、ほとんど機械的に声明、訴え、要求を述べるのみだった。その内容は、「1939年の開戦とヨーロッパにもたらされた戦禍は、ユダヤ人の陰謀によるものである。敵の見せ物にされるくらいならば、私は首都に留まり死を選ぶ。国民、兵士もそれに続いてくれる事を望む。その名誉の死の後に、新たな国家社会主義の芽が生えてくるであろう」といったものだった。続いて、新政府の閣僚の名前を挙げていき、カール・デーニッツ海軍元帥を大統領に、ゲッベルスを首相に、ボルマンを党大臣に指名し、自らの意思を受け継いで、軍民一体となってあくまで悪しき国際ユダヤ人に抵抗するよう呼びかけた。


けれども、ドイツと国家社会主義が崩壊しようとしている今、彼が任命する男達がなにをすべきなのか、ユンゲには理解し難かった。続いて、個人的な遺書の口述を始め、それが終わると3部清書するようにと言った。 ユンゲが清書に取り掛かっている間、ヒトラーとエヴァの結婚式が執り行われた。大管区局長のヴァルター・ヴァーグナーが戸籍係となり、ゲッベルスとボルマンが立会人となった。4月29日早々の深夜、参列者がお祝いを述べた後、エヴァは署名に名を記し、続いてBと書こうとしたが、新たな姓がヒトラーとなるため、Hと書き直した。それは、死に行く者のけじめの儀式であった。その後、ヒトラーは、何度も会議室を出たり入ったりして、ユンゲの作業具合を窺った。ヒトラーは言葉は発しなかったが、余裕のある時間は少ない事から、遺書の完成を待ちかねていた。


突然、ゲッベルスが会議室に駆け込んできて、泣きながらユンゲに話かけてきた。丁度、近くに心を打ち明けられる人間がいなかったからであった。「ユンゲさん!総統が私にベルリンから立ち去れと命じるんです。新政府で私が指導的役割を引き受けるように、と言うんですよ。しかし、私はやはり、ベルリンを出て行く事は出来ない。総統の傍を離れる事なんて出来ませんよ!私はベルリン大管区長で、ここが私の居場所なんですから。総統が死んだら、私の人生は意味がない。それなのに総統はこう言ったんです。「ゲッベルス君、君までも私の命令に従わないとは、思ってもいなかったね」って。総統はあんなにも多くの決定を、手遅れになってから下したのに、この一件は、最後の決定は、なぜこんなに早いんだろうか?」と、途方に暮れながら問いかけた。


そして、彼もまた口述筆記を頼み、それを総統の遺書に添えるよう頼んだ。その内容は、「私は、人生で初めて総統の命令を拒否する。ベルリンにある、総統の傍らの自分の場所を離れる事は出来ない。だが、忠義の手本の方が、長らえた生より貴重になる事だろう。国家社会主義の存在しないドイツに生きるよりも、家族全員で一緒に死ぬ方を選ぶ」といったものだった。この日、ベルリン救援作戦が悉く失敗した事を知らされ、ヒトラーは最後を決めた。自決の手段は、ピストルと毒薬と定めていたが、ヒムラーの離反を受けてから、毒薬の効果に疑念を持っていた。そこで、ハーゼ医師を呼んで話し合い、青酸カリのアンプルを1つ渡した。


2人は、犬小屋になっている小さな空き部屋に入って行くと、ハーゼがヒトラーの愛犬ブロンディの前に屈みこんだ。甘酸っぱいアーモンド臭が漂ってきたかと思うと、もうブロンディは動かなかった。そこから戻ってくるヒトラーの顔は、既に死人そのものだった。4月30日、エヴァは、「皆さん、私の事をヒトラーさんと呼んでくれていいんですよ」と顔をほころばせながら言った。エヴァがヒトラーと出会ったのは、1929年10月、エヴァ17歳、ヒトラー40歳の時だったが、そこからは長らく影の存在だった。ようやく晴れて夫婦となれたものの、その幸せは僅か1日でしか無かった。エヴァは、ユンゲを自室に呼んで洋服ダンスを開けると、「ユンゲさん、私、このコートをお別れにあなたにプレゼントしたいのよ」と言った。それは、銀ぎつねの美しいコートで、ユンゲは感激して心から礼を言った。


それから、ヒトラーと昼食がもたれ、明るい落ち着きのある雰囲気で会話がなされた。それは、覚悟を秘めた最後の食事であった。ユンゲは食卓を立つと、煙草を一服する場所を探し、ヒトラーとエヴァは自室に戻っていった。ほどなく、副官のギュンシェが近寄ってきて、「ちょっと来て、総統がお別れしたいそうだよ」と耳打ちしてきた。廊下に出て行くと、秘書や使用人らが立ち並んでいた。ヒトラーはゆっくりと自室から出てくると、1人1人に握手していった。その背は、いまだかってないほど曲がっていた。ヒトラーは、ユンゲとも握手を交わし、じっと見つめてきたが、その目は遥か遠くを見ているようだった。何かつぶやくが聞こえず、最後の言葉は分からなかった。


エヴァは、ヒトラーお気に入りの黒いドレスを着ていた。そして、微笑みながら抱き締めてきて、「どうかここから出ていけるよう、頑張ってくださいね。あなたならきっと上手くやれると思うわ。そうしたらバイエルンの人達によろしく伝えてくださいね」と言った。その声には、すすり泣きも混じっていた。ヒトラーに続いて、エヴァも部屋へと入って行く。そして、重い鉄の扉が閉まった。不意にここから出来るだけ遠くに行ってしまいたいという衝動に駆られ、地下壕の階段を駆け上って行く。ところが、途中でゲッベルスの子供達が、しょんぼりとしゃがみこんでいたので立ち止まった。今日は誰も昼食を作ってくれなかったので、子供達はお腹を空かせていた。


ユンゲは子供達を連れてテーブルに付き、パンを食べさせた。子供達と喋っていた時、突如、一発の銃声が鳴り響いた。皆、黙り込んだ。今、ヒトラーが死んだのだ。しかし、子供達は何も分からないまま、お腹を満足させると部屋へと戻って行った。ユンゲはテーブルに付いたまま、きつい酒をあおり、そのままやるせない時間が過ぎていった。やがて、副官のギュンシェがやって来て、どっと座り込むと、彼も酒の瓶を掴んだ。その大きな手は、小刻みに震えていた。そして、「僕は、総統の最後の命令を実行したよ。彼の死体を焼いたんだ」とつぶやいた。ユンゲは何も答えず、何も問わない。ギュンシェは、遺体が余すことなく焼けたかどうか確認するため、また下に降りていった。


ユンゲは、ヒトラーの居た部屋へと駆り立てられた。エヴァの椅子の下には、空になった青酸カリのカプセルが転がっていた。ヒトラーの腰掛けのクッションには血が染みこんでいた。にわかに気分が悪くなった。ヒトラーは死んで、どうしようもない虚しさと戸惑いを残していった。そして、自分でも驚くほど、憎しみの感情が湧いてきた。夜半、モーンケ少将とギュンシェが話し合って、脱出計画を練っていた。ユンゲとクリスチアン夫人は、「私達も連れていって!」とせがむと、2人の男は頷いた。5月1日夜半、総統官邸を出て行く時、ゲッベルスが見送って、歪んだ笑みを浮かべながら、「あなたは上手く切り抜けられますよ」と言ってくれた。この頃、すでに子供達は死出の旅についており、ゲッベルスもまたマクダと共に後を追う。


脱出の前、もう一度、ヒトラーの部屋の前を通りかかった。ヒトラーの灰色のコートや、帽子、手袋が架けられていて、犬の手綱がぶらぶらと揺れていた。エヴァの洋服ダンスには、E・Vの金文字が付いた銀ぎつねのコートが架かっていたが、それを手にする事は無かった。今、いるのはピストルと毒薬だけだった。午後21時半頃、脱出が始まり、大勢の人々を掻き分けながら地下道を進んでいった。崩れかけた階段を登り、壁の穴を通り抜けながら、ヴィルヘルム広場に出た。遠くの銃砲火は激しく、広場を横切って行く時も、時々、耳をつんざくような銃声が響いた。地下鉄の入口を見つけて、暗いトンネルを進み、避難民や兵士達の脇を通り抜けて、フリードリヒ駅まで辿り着いた。そこで行き止まりであったので、鉄橋を進んで向こう岸へ渡らねばならなかった。ユンゲら先頭集団は無事通り抜ける事が出来たが、後方から続く人々はソ連軍に銃撃を浴びせられ、阿鼻叫喚に陥った。


燃え盛る家々の間を通り抜け、真っ暗な街路を忍び足で歩きながら、何時間も進んだ。人気の無い地下室を見つけて2、3時間の睡眠を取ると、また歩き出す。5月2日、やがて、空が白々と明けてゆき、静かな朝を迎えた。銃声は止んでいた。一行は古びたビール醸造所まで行き着いたが、これ以上、先に進む事は出来なかった。ソ連軍の戦車や兵士によって、完全に包囲されていたからだ。ソ連軍は降伏するよう呼びかけている。モーンケ少将は最後の報告書を書き上げて、これをデーニッツに届けてくれるよう、女性達に頼んだ。軍人達はここから出て行く事は叶わないが、女性達ならソ連軍も通してくれると思ったからだ。


女性達は鉄兜とピストルをその場に置き、男達と別れの握手をしてから、出て行った。国民突撃隊などの動員兵も武器を置いて、ソ連軍に投降して行く。その一方、親衛隊の兵士達は尚も醸造所に留まって、抗戦の構えを取っていた(モーンケ少将らはしばらく篭城していたが、18時頃、降伏する)。ユンゲらは、荒々しい勝者、ソ連兵達の真ん中を、恐る恐る通り抜けていった。こうして、ユンゲの戦争は終わった。戦後、ユンゲはベルリンに戻ったが、そこでソ連軍に拘束され、14週間、独房に収監された後、ヒトラーの死についての尋問がなされた。それから司令部付きの従業員として働き、1945年12月10日、外部の病院事務員に採用され、解放となった。その後は、秘書や事務員、編集者やフリーの記者として働き、2002年2月11日、81歳で死去した。


同年、彼女が書いた手記をもとにして、「最後の瞬間まで」が出版された(和訳・私はヒトラーの秘書だった)。第3章までは、戦後間もなく書かれたもので、見たもの感じたものがほぼそのまま書かれているが、4章の暗殺未遂事件から6章のヒトラーの死までは、老年になって本にする際に新たに書き起こされたもので、記憶違いや、ヒトラーへの批判も散見される。特に、ヒトラーの遺言の際に抱いた大いなる疑問、その死に関して湧き上がって来たと言う憎しみは、戦後、ユンゲがナチスヒトラーの真実を知るに到ってからの、後付けであろう。ユンゲの自著には、自己批判や自己弁護が付け加えられていると見て良い。ただそうであっても、これらの証言が大変、貴重なものである事に変わりは無い。


ユンゲは生前、この様な事を言っていた。

完全崩壊、難民、苦しみ、私はこの責任をヒトラーのせいにしました。彼の遺書、自殺、その頃から私はヒトラーを憎み始めました。それと同時に私は激しい同情をヒトラーにさえも抱いたのです。彼は父親のような友人でしたし、私に安心と保護と安全の感覚を与えてもくれたんです。森の真ん中にある総統の大本営のあの共同体の中で、あの父親のような人に守られていると感じていました。あの事を思い出すと、今でも心温まる気持ちになります。どこかに属していると言うあの感情をあんな風に抱く事は、その後、二度とありませんでした。自分の上司が、その誠実な顔の裏に犯罪的権力欲を持った男である事を見抜くには、私は若過ぎ、未熟過ぎました。ドイツが崩壊した時、とにかく望みは1つ、生きる事でした。ようやく、1960年代の半ば頃になって、自分の過去や日増しに強くなってくる罪悪感と真剣に取り組むようになりました。この男の犯罪が露見したからには、私は自分の人生の最後の瞬間まで、共犯の感覚と共に生きていく事でしょう。





↑生前のヒトラー最後の写真

1945年4月末に撮られたと見られる。





↑狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)の掩蔽壕の廃墟


旧ドイツ領東プロイセン(現ポーランド領)にあった、ヒトラーの本営跡。


主要参考文献、トラウデル・ユンゲ著、「私はヒトラーの秘書だった」



秘書が見たヒトラー 3

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

ソ連軍は恐ろしい勢いで、東から迫っていた。彼らが占拠した村からは、略奪、強姦、虐殺といった、身の毛もよだつ報告が上がってくる。ヒトラーは、「奴らは人間じゃない。アジアの平原から来た野獣だ」と罵ったものの、ドイツ軍は追い込まれる一方であった。そして、1944年11月初旬、ソ連軍が目前まで迫ってきたため、ヒトラーは東プロイセンの狼の巣を引き払わねば、ならなかった。そして、ベルリン行きの特別列車に乗り込んだ時、ユンゲは、心から愛した東プロイセンの景色に永遠の別れを告げた。ヒトラーもまた、別れの感傷に浸っている。ひどく気落ちして、昼食時になっても、ぼんやりと一点を見つめるばかりであった。


やがて、列車はベルリンに到着し、ヒトラーは総統官邸に入った。だが、ヒトラーは西部戦線の指揮を執るため、ドイツ西方のタウヌス山地にある鷲の巣に向かうつもりだった。そして、1944年12月16日、ドイツ軍は、西方のアルデンヌからアメリカ軍に大攻勢をかける。ユンゲはクリスマスに休暇を取ってから、1945年1月10日、タウヌスの鷲の巣に着いた。ヒトラーは、総統防空壕で熱気の帯びた作戦会議を行っており、夕方になってやっと姿を現した。ベルリンにいた時よりかは元気になって、生き生きとしていた。そして、ここでも夜のお茶会が開かれ、政権初期の頃、高速道路建設の際の思い出話に花が咲いた。


この晩の会話はたいそう弾み、ヒトラーには、心配事など何も無いといった感じであった。しかし、彼をよく知る人々は、こんな話で気を紛らわし、日々刻々と伝えられてくる、国土や人、物の喪失から目を逸らそうとしているのが、分かるのだった。1945年1月15日、ヒトラーは再び、ベルリンへと舞い戻った。総統官邸の庭園には、鉄筋コンクリート製の巨大な地下壕が作られていた。この地下壕は空襲時の一時的な滞在のために作られたものであったが、官邸が空襲の被害を受けてからは、ここがヒトラーとその幕僚の居住地となった。コンクリートと鉄の扉で守られた堅固な施設であるが、人が住むには余りにも重々しい空間でもあった。


1945年1月25日、西方におけるアルデンヌ攻勢は失敗に終わり、連合軍はライン河に迫りつつあった。同日、東方のソ連軍もオーデル河に達し、ベルリンまで約70キロの地点に立った。戦争は、最終局面を迎えようとしていた。4月19日には、ベルリンを守る最後の防衛線、ゼーロウ高地も突破され、ソ連軍を阻むものは何も無くなった。そして、4月20日、ソ連軍の最初の戦車隊がベルリン近郊に現れ、砲火の轟きが総統官邸にまで聞こえるようになった。そんな最中、ヒトラーは56歳の誕生日を迎えた。ゲーリング、ゲッベルス、リッベントロップ、ヒムラーといったナチス高官達が現れて、ヒトラーと握手を交わし、お祝いの言葉を述べた。そして、皆、口を揃えて街を出るよう促した。


だが、ヒトラーは、あくまでベルリンに留まるとの決意を変えず、官邸の庭園でヒトラーユーゲントの少年達に勲章を授けていた。それは、ベルリン中の老若男女を、戦火の渦に巻き込む事を示唆していた。ユンゲら女性達も、「ベルリンを出てはいかがでしょう」と勧めたものの、ヒトラーは、「いや、それは私にはできない」と答え、続いて、「ここベルリンで決定戦に持ち込まねばならない。さもなければ破滅するかだ!」と述べた。ヒトラーは最早、勝利など信じていなかった。女性達も以前から薄々、感づいてはいたが、それでも信じたかったし、すがりたかった。ところが、ついに本音を、真実を聞いたのだった。同じテーブルに付いていた女性達は沈黙し、ヒトラーは早々に立ち上がって、部屋へと去った。


誕生祝いはお開きとなり、飲んだゼクト(発泡ワイン)も気の抜けた味となった。その時、エヴァが皆に声をかけて、踊ろうと言い出した。そして、通りすがりに出会った人々を皆、引き連れると、地下壕を出て、二階にある昔の居間へと向かった。仕事の鬼のボルマン党官房長官や、太っちょのモレル医師も加わる。レコードが流され、シャンパンを飲み、甲高い笑い声を上げて、ダンスをした。皆、心の中の不安を脱ぎい去るべく、踊り狂った。この日の夜、ゲーリングを始めとするナチスの高官達は車列を作って、ベルリンを去っていった。4月22日、朝から晩まで砲火の轟きが聞こえるようになった。この日、ヒトラーを囲んで戦況会議が開かれたが、現状のドイツ軍の戦力では反撃すら行い得ないと聞かされた。


すると、ヒトラーは激高して、「この戦争は負けだ!その罪は軍人共にあるのだ!」と叫んで、散々罵った挙句、茫然自失して椅子に座り込んだ。女性達が会議室に呼ばれて入ると、ヒトラーは無表情で虚ろな目をして立っていた。そして、これまで女性達には決してしなかった、命令口調でがなりたてた。「みんな早く着替えるんだ!1時間後に君達を南ドイツに運ぶ飛行機が出る。何もかもお終いだ!もはや万策尽きて、望みようも無し!」。女性達は、こわばって動けなかった。最初にエヴァの硬直が解け、ヒトラーの前に進み出た。そして、両の手を握り、微笑みながら、「あなたも御存知じゃないの。私があなたのお傍に残る事を。私はいかないわ」と話しかけた。すると、ヒトラーの目の奥が輝きだし、今だかつて誰にも見せなかった事をやってのけた。ヒトラーが、エヴァに口づけをしたのだ。


ユンゲはここを出たかったし、死にたくもなかったが、絶望し、打ちひしがれた孤独な男に、ユンゲもまた強い憐れみと同情を覚えていた。そして、「ここに残ります」と言ってしまった。ヒトラーは足を引きずるようにして、将校達の所へ行き、「諸君、なにもかもお終いです。私は時がくればピストルで自殺します。行きたい者は行ってよろしい。全員自由です」と告げた。沈黙のまま別れの挨拶をして、将校達は次々に地下壕を出ていった。ヒトラーは自室で、破棄せねばならない書類を引っ張り出して整理を始めた。ゲッベルスが家族を伴って、宣伝省の防空壕からやってきた。5人の女の子と1人の男の子は天真爛漫で、部屋をおもちゃで一杯にした。子供達は、ヒトラーおじさんと一緒に遊んだり、話したりするのが好きだった。


4月23日、シュペーアがひょっこり姿を見せた。エヴァは手を差し出しながら、「私、おいでになることを存じていました。総統を1人ぼっちになさる方ではいらっしゃいませんもの」と言ったが、シュペーアは苦笑いを浮かべるのみだった。シュペーアはヒトラーと話をもったが、会話の内容は不明で、その後、ベルリンを去った。この夜、ゲーリングから、「私が総統の地位に付いても宜しいか」との電報が入った。ヒトラーは無気力の極みで、それを聞いても無関心であったが、ボルマンが、「これは反逆行為です」と吹き込むと、急に怒りだして、直ちにゲーリングを解任した。


ヒトラーは茫然自失の状態であったが、取り巻き達は、何とか元気つけようとして、エルベ河東岸に陣取っているヴェンク第12軍に目を付けて、これに望みを繋ぐよう必死に説得した。それを受けて、ヒトラーは次第に意欲を取り戻し、作戦の指揮を執りだした。しかし、ソ連軍の勢いは止まる事なく、4月24日には、ベルリンを完全に包囲する。4月26日、女性飛行士ハンナライチュとグライム空軍大将が、シュトルヒ連絡機に乗ってやってきた。彼女は、ヒトラーを無条件に崇拝しており、彼とその理念のためには、死の犠牲さえ厭わない、狂信的、熱狂的な覚悟に燃えていた。ライチュが、ゲッベルスの子供達の話し相手や遊び相手となった。


ゲッベルス夫人マクダには、もう子供達と平静に向き合う気力が残っていなかった。ゲッベルス夫妻は子供諸共、死ぬ覚悟を秘めていた。そんな思い詰めた彼女が、子供達と一緒にいるのは大変な負担となっており、その度、後で泣き崩れていた。子供達は無邪気に過ごしていたが、最年長のヘルガだけは、大人達のまやかしを感じ取って、物憂げな表情をしていた。ユンゲは、子供達を生かせる道はないかと、マクダと話し合いをもった。それに対してマクダは、「うちの子達は、恥と嘲笑の中で生きていくよりも、死んだほうがましなのよ。戦後がどうなろうとも、ドイツという国にうちの子供達の生きる場所はないわ」と述べるのだった。


昼も夜も分からない地下壕の生活を続けていると、今、何日なのかも分からなくなってきた。絶え間ない砲撃によって、安眠出来る日も無かった。地下壕の長い廊下には、疲れ切ってぼろぼろになった兵士達が横たわっていた。大部屋の1つは手術室となって、次々に負傷者が運び込まれ、バケツは切断された手足で一杯となった。ヒトラーは禁煙主義者であったが、この段階に到っては誰も守ろうとはせず、総統が近くにいようがいまいが、皆、そこら中で煙草を吸いまくった。エヴァですら吸っている。規律は弛緩し、あちこちに酒瓶が転がり、ヒトラーが側を通っても起立せず、喋り合ったりしていた。


食事時、何を食べているのか分からないまま、どうすれば確実に死ねるだろうかとの会話がなされた。ヒトラーは、ヒムラーから青酸カリ入りのカプセルを10個、受け取っていた。そして、ヒトラーが青酸カリを使えば、数秒の内に死に至ると説明すると、ユンゲとクリスチアン夫人はそれを頼んでもらい受けた。ソ連軍に捕まれば、女性は酷い目に遭わされると噂されており、そうなれば死こそが救いだと思えたからだ。ヒトラーは、「お別れにもっと良い贈り物ができなくて、本当に残念です」と言って、手ずから青酸カリのカプセルを渡した。


ヒトラーは、部屋から部屋へと彷徨い歩いている。かつては年齢よりも若く見られ、鋭い眼差しに力に溢れた動作、獅子吼とも呼ばれた舌鋒をもって、絶対的な独裁者として君臨した。しかし、今は打ちひしがれた老人そのもので、虚ろな目に不自由な動作、言葉は弱々しく、その権威も地に落ちていた。ユンゲは、彼がなにを待っているのか、どうしてけりをつけないのか、理解に苦しんだ。そこで、「あのう、総統閣下ご自身が軍隊の先頭に立って、戦死される事をドイツ国民が期待しているとは、お思いになりませんか」と聞いてみた。最早、総統とは何でも話せた。


すると、ヒトラーはさもけだるそうに、「私はもう肉体的に戦える状態ではない。私の手は震えて、ピストルが握れないくらいだ。もし私が負傷したとしても、撃ち殺してくれる部下さえ見つからないだろう。どんな事があっても、私はロシア人の手にだけはかかりたくないんだよ」と答えた。それは本当で、ぶるぶる震える手でフォークを口に持っていき、歩く時も床に足を引きずっていた。エヴァはいつもと変わらず、朗らかに過ごしていた。けれどもある時、ユンゲの手を取ると、「ユンゲさん、私、本当はものすごく怖いのよ。早く全部終わってくれれば良いのに!」と打ち明けた。その目には、苦悩がありありと浮かんでいた。


エヴァは、義弟のフェーゲラインが失踪した事を気にかけていた。やがて、フェーゲラインは愛人宅で泥酔していたところを、取り押さえられる。4月28日夜、ヒムラーの裏切りが発覚すると、フェーゲラインもその関係者と見なされて、死刑判決が下された。エヴァは、ヒトラーにかけあって助命嘆願をしたが、無駄だった。フェーゲラインは外務省の中庭で銃殺され、エヴァは泣き腫らした。皆がヒトラーの最後の決断を待って、じりじりとした時間を過ごしている。勤勉なボルマンやゲッベルスも、最早、何もする事が無い。従卒、副官、職員らもその時を待ちかねている。皆、地下壕から出たがっていた。頭上で鳴り響く轟音を聞きながら、座り込み、煙草を吹かし、無駄話をしながら、やり切れない時間を過ごした。




↑総統官邸




↑総統官邸の空中俯瞰図

赤い図が、総統地下壕のあった所。総統官邸は巨大な建造物だったが、地下壕は比較的、小さな閉鎖空間だった。




秘書が見たヒトラー 2

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

その内、ヒトラーは再び、東プロイセンの狼の巣に本営を移した。ヒトラーは1日1回は、エヴァに電話を入れるようにしていた。ヒトラーがエヴァに夢中になった第一の理由は、彼女の人間的な長所との事であった。ある時、ヒトラーと夫婦や結婚に関しての会話がなされると、ユンゲは、「何故、結婚をなさらなかったのですか?」と尋ねてみた。すると、ヒトラーは、「私は良き家庭の父親にはなれないだろうし、充分に妻に尽くす時間も無いのに家庭を持つのは、無責任でしょう。それに私は自分の子供は欲しくない。天才の子孫はいつの世も大変、生きにくいものです。世間は彼らに有名な祖先と同じ器を期待し、平凡である事を許してくれません。彼らのほとんどが、クレチン症患者になるというのにね」。この答えを聞いたユンゲは、1人の人間が自分自身を天才だと思いこんでいる事に、ひどく嫌な気持ちがした。


ユンゲは時々、ヒトラーの会議室から、将軍達が、悄然として出てくるのを見た。彼らは実現不可能な作戦や指示を正そうと、鉄の決心と、非の打ちどころのない資料と論拠をもって、ヒトラーに立ち向わんとした。ところが、彼らが説明しきらない内にヒトラーは話を遮って、自らの理論を述べ始める。将軍達にはそれがおかしいのは分かっているのだが、どうしても逸らされ、まるで催眠術にかけられたかのように、自らの意見に対する自信を失っていく。そして、打ちのめされ、絶望した面持ちで会見の場から出てくるのであった。


1943年7月25日、イタリアのファシスト党首ムッソリーニが失脚した。ヒトラーいわく、「ムッソリーニは思ったよりも弱虫だったな。この私が支援したというのに失脚するとは。しかし、イタリアの同盟というのはどうも信用が置けなかった。無責任な民族と組まなくても、我々だけの方がずっと首尾よく勝てるというものだ。奴らは成果をもたらすどころか、威信の喪失と事実上の敗北を引き起こしてくれたようなものだ」


1943年末、ユンゲの夫、ハンスが休暇で帰ってきたが、最前線で過酷な現状を目にしたのか、完全に人が変わってしまい、まるで別人のようになっていた。そして、ヒトラーとも話を持ったが、最高指導者が現状をまったく認識していない事に愕然としていた。ほどなく、ハンスは再び最前線に戻っていった。1944年を迎えると、ドイツの敗色は濃くなる一方だった。毎日の生活はこれまで以上に不規則になり、作戦会議が際限無く続いて、とんでもない時間に食事を取った。皆、どんなに陽気に振舞い、軽い会話をしても、忍び込んだ不安を隠せなくなってきた。


年が明けて、ヒトラーは本営をベルクホーフ山荘に移した。エヴァは、ここにいる。ヒトラーの様子を心配して、エヴァがユンゲに訊ねてきた。「ユンゲさん、総統のご機嫌はどう?私、モレルには聞きたくないの。信用出来ないし、大嫌い。総統に会ってびっくりしたわ。老けて深刻な感じになっちゃって。彼が何を心配しているのかご存知?私には何も言ってくれないのだけど、戦況が良くないのでしょう?」。そして、お茶会でエヴァは、ヒトラーに背中が曲がっていると注意した。


連合軍の爆撃機は、ベルクホーフの上空まで飛び交って、周辺の都市を爆撃するようになった。ヒトラー達はその度、地下防空壕へと退避せねばならなかった。ヒトラーは復讐を誓い、今にドイツ空軍の新発明を使って、敵に全ての借りを百倍にしてお返しすると息巻いた。実際、V1、V2という新型ロケット兵器を開発して、ロンドンに撃ち込み、数千人を殺傷せしめたが、連合軍によるドイツ爆撃の方が遥かに規模が大きかった。この頃、山荘にフェーゲラインという新顔が現れた。フェーゲラインは、ヒトラーとヒムラーとの連絡将校で、最初は作戦会議に顔を出すだけであったが、党指導者のボルマンと親しくなって頭角を現し、ヒトラーの側近の1人に加えられた。


フェーゲラインは、颯爽とした騎手の様な風貌をした美男子だった。その性格は正直かつ愉快で、歯に衣着せない発言をした。話上手で社交家でもあったので、たちまち夜のお茶会の一員となった。そして、フェーゲラインは、エヴァの妹、グレートルの目にとまり、求愛の対象となった。最初、フェーゲラインは、「ありゃいったい、なんて馬鹿なガチョウだ!」と相手にしなかったが、グレートルが、ヒトラーの寵愛を受けているエヴァの妹であると知るや、たちまち取り入って婚約を交わす仲となった。2人は、1944年6月3日に結婚する。(フェーゲラインは女性には人気があったが、出世に貪欲で、彼をよく知る軍人達からは、骨の髄まで腐りきった男と評されていた。また、フェーゲラインは、1941年、独ソ戦の折、騎兵旅団を率いて、プリピャチ沼沢地にてユダヤ人14,000人余を殺戮していた)


連合軍によるドイツ爆撃は、激化する一方であったが、ヒトラーはただの一度も、被害を受けた都市を見に行こうとしなかった。夜になれば、レコードを流しつつ、暖炉の側で、女性達と気さくにお喋りをした。そうやって、余裕と勝利への確信を見せつけようとしているようだった。ヒトラーは常々、礼儀正しい紳士であろうとし、老けた様子を絶対に見せようとはしなかった。しかし、時折、椅子に座ってぼんやりするようになり、年を取って疲れ切っているように見えた。そして、ヒトラーは、女性達に足を延ばしてても良いか?と訊ねてから、ソファーに足を置くのだった。それをエヴァは、心配そうに、悲しそうに見ていた。


1944年6月6日、アメリカ・イギリス連合軍はフランスノルマンディーへの上陸を果たし、6月22日にはソ連軍も、バグラチオン作戦を発動して、大反抗に転じていた。東西からの大きな包囲網が、ドイツに迫りつつあった。1944年7月、ヒトラーは東プロイセンの狼の巣に、また移動した。ヒトラーはここで指揮を執り、夜のお茶会も続ける。しかし、戦況が悪化するにつれ、それについては多くを語らなくなった。同年7月20日、突如として大本営に、爆発音が鳴り響いた。現場はたちまち、恐怖と混乱の巷となった。それは、ヒトラー暗殺を謀った、シュタウフェンベルク大佐の仕掛けた爆弾であった。爆発から数分後、ユンゲらはヒトラーがいると思われる地下会議室へと駆けた。


ヒトラーは、控え室で従卒に囲まれて立っていた。頭髪は逆立ち、黒いズボンは裂けて細い紐が何本も垂れ下がっているかのようであったが、本人は無事であった。そして、女性達に左手を出して、挨拶した。「さあて、ご婦人方、今度もうまくいきましたよ。やはり私は天命を授かった人間なのですね。そうで無ければ、もうこの世にはいませんよ」。間もなく、シュタウフェンベルク大佐が容疑者として上がり、その協力者として、軍の高官も次々に捕らえられていった。ヒトラーは逆上して裏切り者、卑怯者と罵って、散々息巻いた。そして、首謀者らが苦しみながら死ぬよう、ピアノ線による絞首刑に処していった。


その一方、ヒトラーは、女性達には変わらず優しく、魅力的に振舞った。ユンゲを末っ子の甘えん坊のように扱い、からかうのが好きだった。1日1回は、エヴァの話となり、その時のヒトラーの目は温かい輝きを帯び、声は柔らかかった。事件後、ヒトラーはこれまでにない不健康な生活を送るようになった。新鮮な空気を吸う事はほとんど無くなり、食欲も減退して、左手がかすかに震えるようになった。異常にたくさんの錠剤を飲むようになり、その上、毎日、モレル医師による注射を受けるようになった。


モレルは肥満体で、野心家の医者だったが、注射の腕は良かった。ヒトラーはモレルを信頼しきって、大変な温情を与えており、夜のお茶会にも欠かせない存在だった。だが、侍医の1人、ブラントが、モレルの処方する錠剤に含まれていたストリキニーネの含有量を調べたところ、ヒトラーが、そのまま飲み続けていれば死に至る量であった。そこで、ブラントは覚書を提出して、ヒトラーにモレルの解任を促したところ、逆に怒りを被って、ブラントが侍医の職を失った。


1944年8月末、ユンゲはヒトラーと食卓を囲っていたが、この日のヒトラーは様子が変で、一言も言葉をかけてこず、偶然、目が合うとじっと探るように見てきた。感じが悪いと言ってもよかった。そして、この日、ユンゲは、フェーゲラインを通じて、夫ハンスが、8月13日ノルマンディー戦線にて戦死したと告げられた。ユンゲは外に飛び出し、雨の降る中、野原の道を駆けていった。どうしようもなく悲しかった。遅くなってから部屋に戻ったが、誰とも会いたくなく、誰とも話したく無かった。1人にしておいてもらいたかったが、ヒトラーからの呼び出しを受けて、仕方なく向かった。


ユンゲが部屋に通されると、ヒトラーは無言で近づいてきて両の手を握り、「ああ君、可哀想に。あなたのご主人は立派な人でしたね」と低い悲しげな声で、お悔やみを述べた。そして、「私が付いていますから心配しないで。いつでも助けてあげますよ」と慰めた。しばらくして、ユンゲはまた食卓に参加するようになった。ヒトラーは老けて疲れた様子で、言葉数も少なかった。ご機嫌うかがいをすると、「私は本当に重大な問題をたくさん抱えています。私がたった1人でどんなに色々な決断を迫られているか、皆さんには分からないでしょう。誰も私の責任の肩代わりなんてしてくれない」とこぼした。


それから数日後、ヒトラーは寝込んでしまい、お茶会も中止となった。ヒトラーは投げやりになって誰とも会いたがらず、決済すべきものも滞って、副官達は途方に暮れた。モレル医師が病棟から助手に指示を出して、治療に当たらせると、いくらか気力を取り戻し、ベッドの上から命令を発し、お茶会も開くようになった。ヒトラーは白い寝間着を着て、客を迎え入れた。その袖から見えていた腕は、輝くような白さだった。しばらくは腑抜けたようにベッドに横たわり、疲れた目でぼんやりするばかりであったが、ソ連軍が東プロイセンに侵攻中であるとの報告を受けて、ようやく我に還った。




 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
▼ 最新CM
[03/14 お節介爺]
[05/12 杉山利久]
[07/24 かめ]
[08/11 重家]
[05/02 通りすがり]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ 楽天市場