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石見銀山・山吹城

石見銀山は島根県大田市大田町に所在する、古くからの歴史ある銀山です。ここは戦国時代、大内氏・尼子氏・毛利氏が壮絶な争奪戦を繰り広げた場所でもあり、その後も時の権力者によって厳重に管理された重要な鉱山です。

 
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↑山吹城の城門。

山吹城は石見銀山のすぐ隣の山上にあり、銀山を巡る争奪戦はこの城を巡る争いでもありました。中国地方の雄、毛利元就もこの城の奪取に執念を燃やしており、永禄5年(1562年)には自ら兵を率いて尼子方の城将、本城常光が守る山吹城を攻めています。しかし、城が要害である事と本城常光が武勇に長けていた事もあって、なかなか城を落とすことが出来ませんでした。そこで元就は好条件を持って本城常光を誘降し、ようやくこの城を手にします。しかし、本城常光は油断のならない人物であった事と銀山を支配下に置いていたこともあって、元就は本城常光を一族諸共、謀殺し、銀山を自らの支配下に置きます。


元就は、いったん降った者をこうした非情な手段で抹殺したため、出雲の国人達は疑念を抱いて尼子方に寝返る者も現れ、そのために出雲の平定は遅れたとされています。しかし、そういった事は元就も分かっていたはずであり、その様なマイナス点を差し引いても、銀山を自らの支配下に置いておく事の方が価値があったという事なのでしょう。 尚、出雲の国は銀だけでなく豊富に産出する砂鉄も重要な資源でした。出雲の鉄は最上品であり、鍛冶師はこの鉄で鉄砲を製作したり、また日本刀を始めとする刃物用の素材としても利用したそうです。

 
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↑坑道跡

昔の坑道ですが、現在は立ち入り禁止となっています。
当時、坑道は間歩と呼ばれており、石見銀山ではこうした坑道があちこちに残っていました。当時はこの狭い坑道から鉱夫達は出入りしており、奥までかがみながら進んだのでしょう。長期間こんな所で働くと、腰が曲がってしまうでしょう。

 
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↑設置パネル

鉱山の環境は劣悪であり、粉塵によって塵肺となったり、また落盤・転落などの事故もあって鉱夫達の寿命は三十歳前後であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったそうです。

私が行った時は、龍源寺間歩という坑道を見学したのですが、一本道ですぐに通り抜けてしまい、何だかあっけなく感じました。実際には奥までアリの巣のように坑道が掘られてあるとの事ですが、見学出来るのは本の一部分でした。現在では大久保間歩というより規模の大きな坑道が、一般公開されている模様です。




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