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何かの名シーンと戦国武将

2008.10.27 - お笑い歴史街道
●腹黒い三連星

斉藤道三「よーし、いける、いけるぞ!今から主君に下克上ストリームアタックをかける!久秀、直家、遅れるなよ!」

松永久秀「おう!」

宇喜多直家「任せておけ!」

♪~荒野を駆ける、死神の列~黒く歪んで、真っ赤に燃える~♪

斉藤道三の戦果 土岐頼芸を撃破!さらに織田信秀を中破!

松永久秀の戦果 三好一族を撃破!しかし、三好一族の反撃を受けて久秀も中破!

宇喜多直家の戦果 浦上宗景を撃破!さらに三村家親も撃破!


●蹴鞠の誓い

朝倉義景・今川氏真・一条兼定、「蹴鞠で繋がりし我ら3人、今この場で誓いを立てるでおじゃる!」

長兄、朝倉義景「我ら、姓は違えど、共に兄弟の契りを交わし、共に助け合うでおじゃる!そして、力を合わせて蹴鞠の頂点を目指すでおじゃる!例え国を失ってもこの誓いを果たすでおじゃる!」

次兄、今川氏真「蹴鞠なら信玄・信長にも負けぬでおじゃる!」

末弟、一条兼定「政務をほったらかしても、蹴鞠に励むでおじゃる!」

しかし、朝倉義景と一条兼定は志半ばで散ってしまいます・・・
残された氏真は二人の義兄弟の無念を思い、国を失い放浪を続けながらも、決して夢を諦めません。そして、修練を重ね、終に全国蹴鞠大会、初代王者に輝きます。蹴鞠の全国制覇を達成した氏真は、誓いを果たしたのです。
拍手喝采 
!(゚∇゚ノノ"☆(゚∇゚ノノ"☆(゚∇゚ノノ"☆パチパチパチ!!!

しかし、これを見た信長と信玄は・・・

                  
         
      ク    ク || プ  //
      ス  ク ス  | | │ //
       / ス    | | ッ //   ク   ク  ||. プ  //
       /         //   ス ク ス _ | | │ //
         / ̄ ̄\     /  ス   ─ | | ッ //
       /  _ノ  .\     /         //
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        |  ⌒(__人__)     ./ ⌒  ⌒\
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        ヽ         }| | |        ` Y⌒ l__    |
         ヽ    ノ、| | \       人_ ヽ  /
          /^l       / /   ,─l       ヽ  \




●戦国マトリックス、エージェントスミス(杉谷善住坊)とネオ(織田信長)千草峠にて対決

スミス善住坊「アンダーソン信長君、これまでだな。覚悟したまえ」
                          

ガトリング火縄銃で蜂の巣にしてやろう
 ∧_∧
 ( ・ω・) ̄ ̄--―─-r| |    
 (っ  l,゙゙''つl___l,,l,|,iノ"""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
 ./   )|二;;二二;;二=''''''''''' ̄         
 ( / ̄∪_/ヽヽ



  ∧_∧ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ つ =つ≡つ =つ≡つ
  ( ・ω・)=つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ つ =つ≡つ =つ≡つ
  (っ ≡つ=つ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ つ =つ≡つ =つ
  /   ) =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つ =つ≡つつ =つ≡つ =つ
 ( / ̄∪ ババババ ババババ ババババ ババババ


ネオ信長「甘いわ!スミス善住坊!」


∧_∧              _ ∩
( ・ω・)=つ≡つ     ⊂/  ノ )
(っ ≡つ=つ       /   /ノV     フォーー!
/   ) ババババ      し'⌒∪
( / ̄∪          '┴┴ ┴┴


          ヽ l // グフォアァーー!
 ∧_∧(⌒) ―― ★ ―――
 (    ) /|l  // | ヽ   
 (/     ノl|ll / / |  ヽ
 (O  ノ 彡''   /  .|   ヴォケが10年早いわーー!
  /  ./ 〉
  \__)_)            



スミス善住坊「ちぃっ!アンダーソン信長君、今日はこれ位にしといてやる。運の良いヤツだ・・・」

   ∧_∧
  ((.;.;)ω・)
  (っ  ≡つ
  /   #)
 ( / ̄ ̄∪


モーフィアス秀吉「さすが、ネオ信長様!」

w( ̄△ ̄;)wおおっ!救世主だ!




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大根占での怪奇現象

2008.10.26 - 歴史の怪奇談
戦国時代、現代の鹿児島県に当たる大隈国では、島津氏と肝付氏が九州南部の覇権を争って戦いを繰り広げていた。そして、時には500人以上の戦死者を出す事もあった。両者の戦いは大根占の地でも行われ、おびただしい数の武士の骸が戦場に横たわった。付近の農民達は戦いがある度に避難して隠れていたが、戦いが終わると戦死した武士の祟りを恐れて、塚を作って弔い、丁重に供養を続けた。しかし、時が流れる内にそのような歴史も徐々に忘れ去られていった。


現代に至り、とある場所で塚を撤去して工事が行われる事が決まった。しかし、いざ工事が始まると、その現場では作業者達の事故が相次ぎ、死者も出るなどして、工事はなかなかはかどらなかった。「塚を撤去した祟りではないのか!?」と言う声が囁かれ始めたが、その工事を請け負う会社社長は取り合わず、工事を続行させた。


ある日の夕刻、付近の住民がその工事現場を通りかかった際、驚くべきものを目撃した。人魂のようなものが舞い上がって、とある方向へ飛び去っていったのだ。その人魂は目を凝らせば、生首の様に見えたと云う。そういった現象が度々目撃され、ある日、会社社長の死が伝わってきた。


その社長は突然、高熱に襲われ、「武者の生首が襲い掛かって来る!」とうわ言を言い、その顔は恐怖でひきつりながら息絶えたと云う。工事現場から飛び立った生首の人魂が向かっていたのは、その社長の家の方向であったのだ。人々は恐れおののいて工事は中止となり、改めて塚を作り直し、供養を行うと怪奇現象は治まったと云う。


この大根占付近での別の話。

夜間、ある人が隣町まで出掛けようとしてバイクを走らせていた。その内、道が鬱蒼と茂った林の中へと続くと、その人はただならぬ気配を感じ始めた。そして、両側の木々の間から、鎧兜を身に着けた大量の人影が現れて来たのだ。その人は恐怖に囚われてバイクのアクセルを強めると、人影達は一斉に襲い掛かって来た。バイクのライトに照らされてもその人影の顔は見えず、「ぶつかる!」と思った瞬間、その林の道を通り抜け、事無きを得ることが出来た。後日の昼間、その人があの時、何があったのか確かめようとその道を調べて見ると、林の道の両側には武士達の墓が立ち並んでいたと云う。


日本には大根占だけでなく、全国各地に首塚や供養塔があります。その中でも、とりわけ有名なのは平将門の首塚でしょう。第二次世界大戦後、GHQが周辺の区画整理をしようとして将門の首塚を撤去しようとした際、ブルドーザーが転倒して運転手が死亡したという事故が起きたため、造成計画を取り止めたという話があります。こういったものを撤去するとやはり良い事は起こらないのでしょう。あな、恐ろしや・・・しかし、武士の霊は一度、この目で見てみたい気もする。 


 

戦国に生きる民衆

2008.10.26 - 戦国史 其の一
日本残酷物語と言う本に書かれていたエピソードを紹介したい。


土佐の国にある本川谷は、ヒノキを始めとする豊かな森林に覆われている土地であった。しかし、本川谷から山一つ隔てた先は伊予の国で、そこは、瀬戸内海に面した貧しい土地であった。そこで伊予側の者は、本川谷に忍び入っては無断で材木を盗伐し、それによって生計を立てていた。しかし、戦国時代、長宗我部氏によって土佐一国が統一されると、この本川谷は長宗我部氏の最前線となり、隣国、伊予の者に対する警戒が強められた。そして、山番達に鉄砲、刀を持たせて、伊予からの越境伐採者を厳しく取り締まるようになった。


この政策は、長宗我部氏が滅んだ後に入封した土佐藩、山内氏にも受け継がれ、伊予との国境沿いの峰筋には、一里、二里くらいの間隔で山守番所が作られていった。山守番所には、藩の役人の他、見張り役を勤める下番下人も詰めていた。下番下人とは、村から交代で夫役をしている者で、昼夜見張りをしなければならなかった。これら山番は鉄砲を所持して、見通しのきく場所で見張るのであるが、何分、山ひだの多い山地である事から、尾根一つ越えた向こうはもう何も見えなかった。


盗伐者達は昼間、密かに忍び入って、これと思う木を見立てておいて、夜になると火を灯してヒノキを刈り始める。深い山林の事ゆえ、夜でも火が周囲に洩れる事は少ない。切り倒した木は厚板にして担ぎ上げ、夜明け頃には山を越えて帰って行く。これに対して、山番達も油断なく峰々を警戒し、灯火を発見すると直ちに仲間を集めて、火を頼りに忍び寄る。そして、盗伐者を捕縛するか、撃ち殺すかにした。しかし、深い山中で斧の音や鋸の音を聞く事はあっても、火が見えない事もあった。例え火を見つけたとしても、それが深い谷を隔てている場合もあり、捜査は困難を極めた。


山番は盗伐者を見つけると、すぐさま取り押さえに向かうのだが、それがまた困難であった。山中に道らしい道など無く、漆黒の樹林が広がるのみである。そんな中を、火を灯さず、音も立てずに忍び歩かねばならない。はぐれたり谷に落ちないよう、お互いに縄を括って、慎重に進んでいった。火縄も竹筒に入れて火が盗伐者に見つからないようにして忍び寄り、盗伐者の逃げ道を想定して、途中でじっと待つのである。そして、夜明け近くになって盗伐者達が5人10人と、焚火を囲んで飯を食い始めると、ここぞとばかりに鉄砲を撃ちかけた。


すると盗伐者達は担いできた厚板を打ち捨てて、ほうほうの体で逃げて行く。しかし、中には追い詰められて斧を手に取り、斬りかかって来る者もあった。山番は、抵抗する者は即座に射殺していった。このような不運不屈の盗伐者は、樹下に自然石を立てて埋められ、当時、そのような墓が山中に無数あったと云う。捕らえられた盗伐者は耳を削がれ、髻(もとどり・束ねた髪)を切られ、衣類、ふんどしまで剥がれた挙句、追放された。


こういった知られざる山中の戦いは、山番側が鉄砲を持っている強みで、勝利を収める事がほとんどであったが、時には盗伐者側の逆襲を受ける事もあった。山中で1人2人で見回りに歩いていると、突然、盗伐者に襲撃される事もある。山番がたいして抵抗しなければ、裸体にされて大木に括(くく)り付けられ、打ち叩かれる程度であったが、抵抗しようものなら、磔(はりつけ)の様に両腕を長い木に括りつけられて放り出される。しかし、そのような状態で、密林の中は歩けない。大抵は散々もがいた挙句、苦しみながら絶命していくのだった。また、崖から突き落とされて殺される者もあった。この様な状態は、明治の世になるまで続いたと云う。これは、お互いの生活に余裕がなかったためであった。


この話は土佐の国の話であるが、当時は日本全国でこの様な事が起こっていたのでは?と思われる。


異論もあるが、戦国時代は戦乱の影響で飢饉が頻発して、人々は常に飢えていたとされている。その日一日食べるだけでも大変であるのに、年貢を取り立てられ、軍役にも駆り出される。また、自分の住む村に戦火が及ぶと田畑は荒らされ、娘、女房は暴兵に襲われ、家は焼かれるといった具合で、当時の民衆は大変な苦労をしていた。しかし、民衆も只、黙っていた訳ではなく、時として一揆を起こして支配者に抵抗したり、攻め込もうとしている勢力と交渉して禁制(乱暴、狼藉をしないという約束事)を取り付けたりもしている。(もっとも禁制を取り付けるには、相手勢力に多額の謝礼を渡さねばならない。この謝礼が戦国大名の資金源ともなっていた)


また、民衆達は自衛の為に村の城を築き、いざと言うときにはそこに避難をし、または寺や支配者の城などにも避難していた。 民衆を敵の蹂躙から守るのは、戦国大名の責務の一つでもあった。他国の戦国大名に侵入されて、度々、村々が蹂躙されるような事態を迎えると、民衆は敵の蹂躙を許した、力無き戦国大名の方を恨み、統治者として失格であると見なした。


民衆による落ち武者狩りであるが、これは当然といえば当然の行為であると言えるかもしれない。民衆は自らの生活を武士によって散々、脅かされているので、日頃の鬱憤を晴らすと共に、落ち武者を討って鎧兜を剥ぎ取り、それを売って生活の足しとしたのだろう。しかし、落ち武者狩りされる側も、農兵である場合が多かったと思われる。いつの世も、民衆の犠牲が最も大きいのだろう。ただ、戦国時代はあれほどの戦乱の世であったにも関わらず、総人口自体は増えていたらしい。戦乱の影響で飢饉が頻発していたとしても、戦国大名の富国強兵策で、全体としては開発が進み、生産力は上がっていたと思われる。


余談となるが、戦国の甲斐武田氏の領国では、税がかなり高かったようだ。当時は棟別銭という家屋に掛ける税があったが、北条氏は50文(35文まで減税した事もある)、伊達氏は100文、武田氏は200文であった。これだけで武田氏は重税であったと決め付ける事は出来ないが、おおよその目安にはなる。武田家の大規模な軍事活動は、金山と民衆への高い税で成立っていたのかもしれない。


武田信玄 対 織田信長

2008.10.26 - 戦国史 其の一

元亀4年(1573年)西上作戦時、武田信玄は織田信長に勝てたのか?


元亀3年(1572年)、甲斐の虎の異名を持つ戦国の強豪、武田信玄は将軍、足利義昭の誘いに乗って織田信長と敵対する。同年10月3日、信玄は甲斐を発ち、軍を西に進めた。この時の信玄の軍は総勢3万人と云われ、その内5千は山県昌景が率いて、信濃飯田から奥三河の制圧に向かい、もう3千は秋山信友が率いて、東美濃の岩村城攻撃に向かう。信玄自身は北条家の2千の援兵を含む2万2千の軍を率いて、遠江に侵入した。そして、信玄は徳川家康の所領、三河・遠江の北部を制圧し、10万石余りを切り取った。


信玄本隊は山県隊と合流した後、浜松城を素通りし、堀江城の攻略を目指して三方ヶ原台地を通過する。ここで家康は背後から武田軍を襲うべく出陣するが、信玄はこの動きを読んでおり、三方ヶ原台地で徳川軍を待ち受けた。そして、同年12月22日、武田軍2万7千、対、徳川軍1万1千は三方ヶ原において激突し、数に勝る武田軍はこれを打ち破って、徳川軍1800人余を討ち取った。


この勝利の後、信玄は三方ヶ原台地西麓の刑部で年を越える。その頃、北近江で信長と対峙していた朝倉義景はそこで信長を牽制しておくべきだったのだが、信長が岐阜に引き揚げてしまうと、自らも本国、越前に撤兵してしまった。これを知ると信玄は大いに怒って、書状を送って義景の行動を非難する。「貴軍が帰国してしまった事を聞き、大いに驚いている。兵をいたわることは当然のことながら、信長を滅ぼす絶好の機会であったのに、貴軍の作戦は労多くして功なしと言うべき軽薄な行為である。」


そして、信玄は三方ヶ原での勝利を伝え再度の出兵を促すが、義景は積雪と疲労を理由に応じなかった。それでも信玄は、翌元亀4年(1573年)1月になると三河に侵入して野田城を囲んだ。そして、同年2月中旬に野田城を開城させたところで信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。信玄は長篠城で2ヵ月余治療に専念するも、病状は一向に良くならず、甲斐に撤退することを決意した。だが、同年4月12日、帰還途上、信濃駒場で信玄は病没する。この信玄の死で信長包囲網は瓦解し、信長は大きな危機を脱した。


この西上作戦において、信玄に後、数年の余命があれば天下を取れていたとはよく云われている。当時、信玄に勝ち目はあったのだろうか? 太閤検地の石高と一万石で250人の動員力を得られたとして、1573年当初の両陣営の戦力を推測してみる。


●「織田家の推定戦力 」

(石高)          (動員力 )
尾張57,2万石    14,300人 
美濃54,0万石    13,500人 
伊勢56,7万石    14,175人 
志摩 1,8万石      450人 
山城22,5万石     5,625人 
若狭 8,5万石     2,125人

他に近江60万石余りを切り取り、大和・摂津・和泉・河内の一部または大部分に勢力圏を有していたと思われる。だいたい300万石余りの石高を有し、動員力は7万5千人余であったというところか。ただ、当時の織田家の所領は、敵対勢力(本願寺・足利・松永・三好など)の所領と複雑に入り混じっていて正確な事は分らない。1568年の信長上洛以降、織田家は急激に勢力を拡張し、1573年には戦国最大級の大名に成長している。しかし、その反動も大きく、徳川家を除く、周囲全てが敵となって苦境にあった。


「織田家の盟友、徳川家」

(石高)          (動員力 )
三河29,0万石    7,250人 
遠江25,5万石    6,375人 

合計54万石・動員力13600人だが、1573年には武田信玄に10万石余りを切り取られていたそうなので、石高44万石で動員力は11000人ほどか。しかし、三方ヶ原で打撃を受けている事に加えて、領土も蚕食されているので、積極的な行動は出来ず、武田方の城に牽制攻撃を加えるか、織田家に数千の援軍を派遣できる程度だと思われる。


●反織田勢力の推定戦力。


「反織田の盟主である武田家」

(石高)          (動員力 )
信濃 40,8万石   10,200人 
甲斐 22,7万石    5,675人 
駿河 15,0万石    3,750人 
西上野20,0万石    5,000人 
東美濃 5,0万石    1,250人 

三河、遠江の内、10万石余りを切り取り、飛騨、越中の一部にも勢力圏を有していたとされている。信玄の最盛期にはだいたい120万石余りの勢力圏で動員力は3万人ほど。信玄の背後には強敵、上杉謙信が控えているが、本願寺顕如を通して越中で大規模な一向一揆を起こさせ、そちらに謙信を釘付けにさせていたので、西上作戦時は武田家のほぼ全力を投入出来た。


「朝倉家 」

(石高)         (動員力 )
越前49,9万石   12,500人

石高は約50万石で、動員力は12,500人。若狭や加賀南部にも勢力が及んでおり、最大2万人を動員していたとも。武田家に次ぐ軍事侵攻能力があったと思われ、信玄や顕如も当てにしていた戦力だが、義景の動きは鈍く、両者とも抗議の書状を送っている。しかし、この頃には領国の疲弊が進み、浅井家を救援する事すらままならない状況だったのかもしれない。1572年から、義景を見限って織田家に寝返ったり、出兵を拒否する重臣が現れている。


「浅井家 」

(石高)           (動員力 )
近江北部15万石余   3,750人

最盛期には近江北半分39万石、動員力は1万人余あった。しかし、1573年には織田家にかなり追い詰められており、石高は15万石程度で、動員力は3~4千人余だったのではないか。しかも、浅井・朝倉家は小谷城正面にある虎御前山砦を初めとする城砦群によって封鎖されており、衰えを見せる両家の力では、これらを突破する事すら難しい状況にあった。それでも、朝倉義景が自ら出向き、牽制攻撃を加えるなりすれば、織田家もある程度の戦力は差し向ける必要があったと思われる。


「三好家 」

(石高)          (動員力 )
 讃岐12,6万石    3,150人 
阿波18,4万石     4,575人 
淡路 6,2万石     1,550人 
河内の北半分を三好義継が領有 12、0万石    2,700人

主な人物は三好三人衆、三好義継、三好康長など。
これ以外にも、畿内に幾つかの拠点を有していた模様。大体、石高50万石ほどで動員力は1万2千人ほど。三好家は三好長慶の元で一つにまとまっていた頃は強大であったものの、長慶の死後は内部抗争を繰り返して、一枚岩ではなくなっている。侮れない戦力は有しているものの、統一された強力な軍事行動は出来なかったように思われる。


「本願寺 」

石山本願寺に1万5千人余で、伊勢長島に2~3万人余の一揆衆が存在していた。かなりの人数を誇るが、これらには多数の非戦闘員も含まれている。他に加賀や、紀伊雑賀にも強力な一向一揆が存在して本願寺を支援しており、近江の一向一揆も浅井・朝倉を支援していた。一向一揆はゲリラ戦を展開して、防御戦には滅法強いが、他国に侵攻する意志と能力があったのかは疑問である。史実では加賀の一向一揆が越前に侵攻したりしているが、石山本願寺、長島一向一揆はほとんどその場を動いていない。


「その他の反織田勢力 」

足利義昭の幕府衆が3千~5千人ほど。松永久秀は大和45万石の内、20万石?5千人ほど。他には近江南部に六角家の残党と、山城に反織田の国衆が存在していた。これらの勢力は織田家に取っては厄介な存在だが、単独では織田家に対抗は出来ず、牽制する程度であろう。


織田側と反織田側で主な勢力を挙げてみたが、両陣営合わせると数的には反織田側が優勢であるように見える。ただし、この中で他国に侵攻して強力な打撃を与えうるのは、武田家と織田家だけではなかろうか。織田家は動員力7万5千人なのに対し、武田家は3万人なので、常識的には信玄に勝ち目はないのだが、当時の織田家は周囲を敵対勢力に包囲されていたので畿内の兵力は動かせず、伊勢にも長島一向一揆が存在していたので、信長が信玄に対応できる兵力は尾張・美濃の2万7千人余だけだったのではないか。なので、信玄が領国の力を結集した3万人余の兵を引き連れれば、信長との決戦も不可能ではなかった。


信玄は健康であれば、元亀4年(1573年)春に東美濃から打って出る予定であったと云われている。信玄は、その美濃侵攻を前にして、美濃の国人達に内応工作を行い、郡上八幡城主の遠藤慶隆などはこれに応じる用意があったとされている。後年、武田家に内通していたとして天正8年(1580年)に信長に追放された美濃の有力者、安藤守就もこの時、密かに信玄と通じていた可能性があった。


信玄にいま少し余命が延びたとして、元亀4年(1573年)春に作戦を開始したと仮定してみる。


信玄はまず、本願寺、朝倉など反織田勢力を動かして、織田家の戦力を分散させる。その上で美濃の国人を幾人か寝返らせるか、日和見をさせて、さらに信長の戦力を分散させる。そして、仕上げとして、信長の本拠、岐阜城に近い城を攻めたてて、後詰めに来るであろう信長に決戦を試みる。 どれだけ分散させたとしても、信長の手元には、2万5千人余の兵力は揃っていたと思われるが、これ以上、条件が良くなる事は無かっただろう。信玄も総力を上げた3万人余の兵を持って、相対する事となる。この信長との決戦に勝利すれば、武田家による天下統一も夢ではなくなる。だが、信長も黙って手をこまねいているはずはなく、家康や謙信に働きかけて、信玄の背後を騒がせたに違いない。そして、両者が要請通りに動いたなら、信玄は家康対策に5千人、謙信対策に1万人は割かねばならない。そうなれば、信玄の手元の兵力は1万5千に半減して、信長との決戦はおぼつかなくなる。


決戦の前提条件は、謙信の封じ込めであった。そのため、越中の一向一揆や、関東の北条氏に強力に働きかけて、牽制してもらる必要があった。これに成功したなら、家康対策に5千を割いた上で、残りの2万5千をもって決戦に臨む事になったろう。兵数的には互角の条件が揃った様に見えるが、信長にはまだ切り札があった。それは鉄砲である。信長は、日本有数の鉄砲産地、和泉国の堺や近江国の国友を押さえていたので、1573年の時点で2千丁余の鉄砲は保有していたと思われる。武田軍はせいぜい5,6百丁といったところだろう。鉄砲は防衛戦において、絶大な威力を発揮する。信玄が下手に攻撃しようものなら、長篠の戦いの様な惨敗を喫したであろう。だが、これを打ち破らねば、天下には届かない。信玄の腕の見せ所であった。史実では、信長は、1573年中に朝倉義景、浅井長政、三好義継を滅ぼし、足利義昭も追って一気に版図を拡大しているが、信玄と対峙していたなら、それらは不可能であったろう。信玄の余命が1年でも延びていたなら、戦国の歴史は大きく書き換えられていた可能性があった。




戦国武将が本を出したなら

2008.10.26 - お笑い歴史街道
どこかで戦国武将が本を書いたら、こういうものを出していたのではないかとあったので、私も想像してみました。


武田信玄・高坂昌信(春日虎綱)ペアヌード写真集
「ふんどしの絆」

(武田信玄(当時、武田晴信)と高坂昌信(当時、春日源助)は若い頃、ムフフな関係であったそうで晴信が春日源助宛てに浮気の弁明をした書状も残っています。 )


宇喜多直家著・暗殺が難しいと悩んでいるあなた、1人で悩まないで、暗殺の達人がやさしく解説。
「暗殺入門書」


松永久秀著・病死や事故死のように見せかけて如何に暗殺するか、妥協なき職人技ここに光る。
「匠の暗殺技」


最上義光著・おや、私に逆らう気ですか?このノートにあなたの名前を書き込んじゃいますよ。衝撃の告白、最上義光はキラだった!!
「デスノート」

(宇喜多直家と松永久秀は下克上の代表的な人物で、宇喜多直家は暗殺を多用して成り上がった人物であり、松永久秀も主家である三好家の主要な人物を暗殺したといわれています。最上義光も暗殺を多用して勢力を拡大していますが、領内に於いては名君であったそうです。 )


足利義昭著・人は私を陰謀将軍などと呼ぶが、私は将軍の権威を取り戻したいだけだ、私を信じてほしい。
「誠意大将軍」 羽賀研二の愛読書

(足利義昭は室町幕府最後の将軍です。その策略は、あの織田信長を苦しめるほどでした。 )


龍造寺隆信著・子供向け絵本
「肥前の熊さんの物語」 

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| 頭が高いクマー! 控えクマー!

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  |   (_●_) ミ
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(龍造寺隆信は九州三強の一角を占め、肥前の熊とも呼ばれた軍略に長けた武将です。 )


伊達保春院著・料理エッセイ。今度、小田原に向かう息子に手料理を振舞おうと思っています。隠し味にド〇も入れちゃいます♡
「愛情たっぷり、〇クもたっぷり、母の手料理」

(保春院(義姫)とは伊達政宗の母で、真意のほどは定かではありませんが、小田原に向かう政宗を毒殺しようとしたといわれています。 )


大田牛一著・信長公記の作者が明かす、本能寺の変の真実。実は本能寺の変は織田信長・森蘭丸・明智光秀の三角関係のもつれが原因だった!
「本能寺の
事の真相を知ると前田慶次は涙を流しながら、こう言ったという。
「だが、それがいい」と。



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重家 
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