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ドイツを目指した日本潜水艦「伊52」 4

ドイツを目指した潜水艦「伊52」1から御覧になってください


(6月24日午前0時28分)、護衛空母ボーグから、アベンジャー17号機が飛び立った。機長はウィリアム・ゴードン中尉で、テイラー機に代わって現場を探索するために派遣されたのだった。そして、ソノブイが潜水艦を探知すれば、直ちに魚雷攻撃をするよう命令されていた。この機体には機長のゴードン、銃手と無線員、そして、民間人のブライス・フィッシュ技師の合わせて4人が乗り込んでいた。通常、アベンジャー雷撃機は3人乗りであるが、最新兵器である音響探知機ソノブイと、音響追跡魚雷マーク24の組み合わせ攻撃を確実とするため、水中音響の専門家であるフィッシュ技師に同行を要請したのである。(0時55分)、ゴードン機が現場海域から16キロ付近に接近すると、フィッシュ技師はソノブイに微かなスクリュー音が入ってくるとゴードンに伝えた。


(午前1時)、ゴードン機は現場海域に到着する。ソノブイからは、微かなスクリュー音が聞こえ続けた。ゴードンは更に3つのソノブイを投下して、その音に耳を傾ける。(午前1時45分)、1つのソノブイの音が明らかに強くなった。それは北に浮かぶソノブイからであり、潜水艦が北に移動している事が分った。ゴードンは中央の目印と、北のソノブイの中間に魚雷を投下する事を決める。


高度100メートルから、魚雷を投下しようとした時、北のソノブイの反応がより強くなった。(1時54分)、ゴードンは潜水艦が狙いよりやや北に進んだと判断し、投下場所を北方にずらして魚雷を発射した。魚雷は17分間走ると、バッテリーが切れて沈没してしまう。しかし、魚雷が疾走して、17分経っても爆発は起こらなかった。ところが18分後、突如爆発が起こり、それから30秒間に渡って爆発音が響いた。その時の音が、ソノブイ・レコーダーによって録音されている。


まず、伊52のシュッシュッシュッシュッという水を切るスクリュー音がしばらく続く。そして、急にドーン!という爆発音が大きく響き渡った。テープには爆発音と共にパイロット達の会話も録音されていた。

「見えないな」

「黙れ!」

「やったぜ!あの野郎に命中した!」

やがて艦体がきしむ金属音と、空気が漏れる音が聞こえ始める。伊52は艦体に致命的な打撃を受けていた。爆発の音が静まると、今度は艦体が水圧によってつぶれる音が聞こえ始めた。

「何か聞こえるぞ、ブリキ缶を踏み潰す様な音だ」

「潜水艦が壊れる音じゃないか?」

金属がクシャクシャと潰れる音が続き、しばらくして鈍い爆発音が響いた。そして、短い2度の爆発音を最後に静寂が訪れた。テープはここで終った。


(6月24日)夜明け、波静かな海面には油が広がっていた。対潜部隊は撃沈の確証を掴もうと、現場海域を捜索した。捜索に当たった駆逐艦からは、以下のような漂流物が回収された。艦の外板・日本語が書かれた木片・サンダルの片方・天然ゴムの塊多数・ゴム片からはがした髪の毛・絹の破片・人肉の大きな塊一つ。駆逐艦は、現場海域に多数のサメがいると報告した。これは、明らかに人間の死体に引き寄せられたものだった。(人肉の解剖所見)、これは腕の肉のようである。浅黒いのでドイツ人ではなく、日本人のものであろう。体毛の質が良く、数も少ないので若い日本人と見られる。(毛髪鑑定)、黒い直毛。約15センチの毛が多い。毛にこれといった特徴は無いが、状況からいって日本人のものと思われる。


伊52には、民間の技術者達も乗り込んでおり、その遺書が残されている。まだ幼い自分の子供のために残していった遺書である。

「郷照さん 御父さまより
お父様は、日本が戦争に勝つため、大事なお仕事をするため、お国の言いつけによって、遠い所に行きます。戦争をしながら行くのです。郷照も、お父様やまさるのおじ様に負けない、立派な日本の子供にならなければいけません。お母様のお言いつけと、先生の教えをよく守り、勉強も、遊びもお手伝いも、友達との力比べも、誰にも負けぬ、強い賢い子供になるように自分で自分の事を考えて、頑張りなさい。
のぶ子とひさ子には、お兄さんから、話してあげてください。 おわり。」


それにしても、1944年8月前後に届けられた、謎の到着信号は何だったのだろうか?想像力を膨らませてみれば、伊52は1944年6月24日に沈没したものの、乗員の魂はブレストまで到着し、それを知らせたのであろうか・・・


伊52は現在、大西洋アゾレス諸島北方、北緯15度15分、西経39度55分、深度5千メートルの海底に眠っている。


日本潜水艦による訪独作戦は、合計5隻で行われた。


「伊30」 (1942年4月11日)呉を出港。(6月18日)マダガスカル島東岸で通商破壊任務に従事中、訪独任務を受ける。同島沖にて給油を受けた後、出発。(8月6日)ロリアン到着。(8月23日)ロリアン出航。(10月8日)ペナン到着。(10月13日)シンガポールにて機雷に触れ沈没。乗員14人が死亡。

「伊8」 (1943年6月1日)呉を出港。 (6月27日)ペナン出航。 (8月31日)ブレスト到着。(10月5日)ブレスト出航。(12月5日)シンガポール到着(12月21日)呉に到着。唯一の訪独作戦成功艦となる。

「伊34」 (1943年10月13日)呉を出港。(11月11日)シンガポール出航。 (11月13日)ペナン島沖にてイギリス潜水艦の待ち伏せに遭い撃沈される。乗員85人が戦死。水深が35メートルと浅かったため、14人が助かった。

「伊29」 (1943年11月5日)呉を出港。 (12月16日)シンガポール出航。(1944年3月11日)ロリアン到着。 (7月14日)シンガポール到着。(7月26日)バシー海峡にてアメリカ潜水艦の待ち伏せに遭い撃沈される。乗員110人余が戦死。

「伊52」 (1944年3月10日)呉を出港。 (4月23日)シンガポール出航。(6月24日)大西洋上でアメリカ空母によって撃沈される。乗員125人とドイツ人3人が戦死。


主要参考文献「消えた潜水艦イ52」
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ドイツを目指した日本潜水艦「伊52」 3

(6月22日)、この日、伊52はドイツ潜水艦U530と会合して、レーダー逆探知装置を受け取らねばならない。大西洋は多数の連合軍機によって、常に監視されている。敵機の接近を事前に察知するレーダー逆探知装置を装備せねば、伊52のロリアン到着は望めなかった。そのため、この装置を受け取る事は最優先事項であった。伊52とU530は会合点付近の海域に到着したが、生憎、この日は両艦とも、お互いを見つける事は出来なかった。(翌6月23日午後20時20分)、両艦は無事会合に成功し、早速、レーダー逆探知装置がゴムボートで伊52に届けられた。そして、3人のドイツ軍人も乗り移った。


U530乗員の回顧、「あの日本潜水艦はとても大きくて、美しい艦でした。ゴムボートで運んでいた木箱を落してしまうと、すぐに日本の水兵がジャックナイフの形で飛び込み、木箱まで泳いで脇に抱えると、また泳いでそれを艦に引き揚げていました」。「伊52の艦長が、我々に向かって別れの挨拶をしました。彼らは彼らの針路に進み、我々は潜水しました」
 
その後、U530は現場海域から離れたが、ほどなくして伊52からのものと思われる戦闘音を探知する。伊52が攻撃されている模様であったが、会合自体は成功したのでU530はすぐに本国に無線報告しようとした。しかし、生憎、無線機の調子が悪く、すぐに発信する事は出来なかった。


(6月27日)、U530は無線機を直し、27日になって会合成功との無線を発した。会合成功との知らせを受けて、ドイツ駐在武官室には歓声が上がり、伊52の受け入れ準備を加速する。そして、フランス北部の戦況を伊52に伝えながら、ドイツ側と最終調整を進めた。ドイツ駐在武官は、伊52が早ければ7月25日にロリアンに入港すると推察し、日本に持ち帰る品々と便乗する人員を準備をした。乗艦予定者は27名、海軍の駐在員・技術士官、日本に赴任するドイツの軍人・技術者合わせて17名と、さらに陸軍の技術士官10名が乗り込む予定であった。


(7月30日)、伊52からと推定される信号QWFを受け取った。この信号は、指定された合流点に36時間で到着するというものである。(8月1日)、伊52を迎えるためドイツ護衛艦隊が出港し、午前4時と、午後23時にロリアン港外の指定場所で待機したものの、この日は合流する事は出来なかった。日本人一行も朝から到着をずっと待っていたが、引き返さざるを得なかった。日本人一行がいったん基地内に戻ると、そこは大混乱の極みにあった。フランス北部のドイツ軍戦線が破綻し、ロリアンは孤立しつつあったのだ。そこで、一行は包囲網に捕らわれる前にパリへと引き揚げていった。この後、ロリアンは1944年8月7日から1945年5月に降伏するまで、連合軍に包囲される事になる。


伊52からと思われるQWF信号は、8月1日にも何回か受信された。したがって8月2日にもドイツ艦隊は出港して待機したが、またもや合流出来なかった。(8月3日)、ドイツ海軍は伊52に向けて、「護衛艦は4日の午前4時30分に合流点で待つ。合流出来ない場合は理由を報告せよ」と発信し、ドイツ駐在武官も艦長宛てに直接、メッセージを送った。だが、返信はなかった。


(8月8日)、ドイツ駐在武官からの指令、「貴艦よりの連絡はないが、我々は無事を祈っている。急速に戦況が悪化しているため、ロリアンや他のフランス沿岸の港に入る事は危険になった。針路を変えてノルウェーのトロンヘイムかベルゲンに進め。貴艦の状況をできるだけ早く報告せよ」。しかし、伊52から返信が帰って来る事はなく、その消息は完全に途絶えた。


このQWF信号は、連合軍の発した偽の電文であった可能性がある。しかし、連合軍の行動を見ると、その推測とは矛盾する事が多い。誰が?何のために ?この到着信号を発信したのかは、現在でも謎のままである。だが、この謎の信号は、伊52が発したものでない事だけは確かである。彼らはこの時、無線を発しようがなかったのだ・・・


伊52はどうなったのであろうか?(6月23日)、伊52はU530と会合している時、アメリカ対潜部隊(護衛空母ボーグと5隻の駆逐艦)によって追跡されていたのである。暗号を解読しているアメリカ軍は会合点に対潜部隊を差し向け、2隻の潜水艦を葬り去ろうとしていた。23日、ボーグは夜明け前の午前3時から、4時間おきに航空隊を発信させて探索する。その内の1機、ジェシー・テイラー少佐が操縦するアベンジャー雷撃機はボーグの南西海域を探索していた。


月のない漆黒の闇夜だった。離陸から1時間半後、テイラー機はレーダースコープに僅かな反応を捉えた。八木アンテナを調整するとレーダースコープに小さな光点が輝いた。目標までの距離は約16キロであった。テイラー機は目標まで、1.6キロに近づくと、照明弾とソノブイを投下した。ソノブイとは当時の最新兵器で、海上に浮かぶブイに海中の音を捕らえるソナーを組み合わせた、画期的な潜水艦探知装置である。そして、このソノブイがとらえた音の強弱によって、潜水艦のおおよその位置を特定し、正確な攻撃を加える事が出来るのだ。


(午後11時45分)、テイラー機は目標まで1キロを切った時、再び照明弾を投下した。すると、そこには、これまでに見た事もない巨大潜水艦が浮かび上がった。それは、艦首と艦尾が異様に細く尖っており、ドイツのUボートとは違って、カモフラージュ用の塗装も表示もない真っ黒な潜水艦だった。潜水艦の上空を通過したテイラー機は旋回し、潜水艦の左前方に進んでから、左舷艦首に向けて直進する。そして、高度90メートルまで急降下しながら爆雷2個を投下した。


この時、潜水艦は急速潜航中であり、艦尾と艦橋だけが水上にあり、白い航跡を引いていた。爆雷の1発は艦橋の右6メートル付近に、もう1発は15メートル離れた場所で炸裂し、巨大な水柱が艦橋を覆い尽くした。テイラー機は2個目のソノブイを投下し、音を探ると大きなスクリュー音が響いてきた。まだ潜水艦は健在であり、海中を進んでいた。海面は爆発によって波立ち、潜水艦が潜航した後には渦巻きが出来ていた。


(11時47分)、テイラー機は急旋回し、この渦巻きに向かって、マーク24魚雷(スクリュー音を探知して自動追尾する最新魚雷)を発射した。魚雷投下から3分後、ソノブイ・レシーバーから恐ろしい爆発音が響いた。潜水艦に魚雷が命中したのだ。爆発音は1分ほど続き、スクリュー音は消えた。テイラー機は、万が一潜水艦が爆破を逃れた場合に備えて、現場を囲むように更に3つのソノブイを敷設した。しかし、5つのソノブイからはその後、スクリュー音を伝えてこなかった。潜水艦は沈没したのか?それともスクリューを止め、海中で息を潜めているのか?しばらく周辺海域を監視するため、護衛空母ボーグでは後続機を送る準備を進めた。


U530乗員の回顧、「会合して、木箱を伊52に引き渡した後、すぐに我々は潜水しました。いつ飛行機が現れても、敵艦が現れても不思議ではない緊迫した状況でした。敵が交信を傍受して、この会合を知っているのではないかと恐れていました。我々の艦長は何か情報をキャッチして相当神経質になっており、早く抜け出さなければ、と言っていました。出来るだけ早く、会合点から離れました。何分経ったか覚えていませんが、少しして戦闘音が聞こえました。高射砲で撃つような音でした。狙われたのは、我々が会合したばかりの伊52のようでした。その後、ブワーンという爆発音が何回か聞こえました」


U530はこの夜、2回にわたって敵機の接近を察知したが、その度、潜水して攻撃を逃れる事が出来た。そして、浮上と潜航を繰り返しながら、危険海域からの脱出に成功した。このU530は終戦まで生き残る。


伊52は攻撃を受ける前、レーダー逆探知装置を艦に設置して、調整を行っている最中であったらしい。乗り込んだシュルツェ二等兵・ベーレント二等兵・連絡将校シャーファー大尉がその作業を指導していた。しかし、装置のテストを行うため、伊52はしばらく浮上航行を続ける必要があった。完全に調整が終らなければ、敵機が近づいてきても敵のレーダー波を探知する事は出来ない。そこをテイラー機に襲われたのである。


照明弾の投下によって伊52は初めて攻撃に気が付き、急速潜航を試みたものの、重厚長大な艦体が災いして、伊52は短時間で潜航する事は出来なかった。最初の攻撃で至近弾を受けたが、幸い致命傷には至らなかった。ようやく海面下に姿を没した伊52は、潜航しながら逃れようとした。だが、海中での動きはソノブイによって克明に捕らえられ、そして、魚雷攻撃を受けたのである。まさか、敵機がスクリュー音を聞きながら攻撃を行っているなど、伊52の乗員には知る由もなかった。


ドイツ潜水艦Uボートは敵に音を探知される事を恐れ、エンジン音が響かないようにゴムの防音材を使用するなど、できるだけ静かに進む工夫をしていた。例えば、ドイツから日本に譲渡された Uボート (日本名、呂500)を日本側が調査した際、日本潜水艦と比べて、その特色を次の様に述べている。

「呂500で水中航行中、米機グラマンF6Fからの13ミリ機銃を受けたが、弾痕は残っても致命的にはならなかった。鋼材が良かったからであろう。全体的に性能は良く、搭載機器、回転機器の発生音が静かだった。艦内音が強いと水中聴音機が聞こえにくいのだが、その点有利であった。レンズ類はドイツツァイス製でこれも良質だった。襲撃用の二番潜望鏡は内筒だけが上下する油圧式で、操作が楽だった。受信機はドイツテレフンケン社の物、方位盤、魚雷発射指揮装置などはコンパクトにできていた。生ゴムなどの資源がないためか、配線は省略してある。食生活は日本の方が豊富で、水の消費量も日本の方が多かった」


しかし、日本潜水艦には騒音を減らすような工夫が欠けていた。伊30・伊8・伊29など、日本潜水艦がドイツに到着した時、ドイツ海軍関係者は、「こんな大きな音を立てながら、よく無事に到着したものだ」と変に感心したものだった。「日本潜水艦は、水中で太鼓を叩きながら進むようなものだ」とも言った。日本の最新潜水艦であった伊52も世界標準から見れば、旧式艦であったのかもしれない。だが、自動追尾魚雷・ソノブイなど最新技術を駆使したアメリカ軍によって、沈められたかに見えた伊52は損傷を受けながらも、まだ息があった。艦内では生き残るため、任務を完遂するため、乗員達は必死になって損傷修理をしていたと思われる。そして、伊52のスクリューは再び動き始めた。

4へ続く・・・

ドイツを目指した日本潜水艦「伊52」 2

伊52が帰りに持ち帰る予定の主な物品は、「水銀300トン(火薬・電気製品の原料となる)・2000馬力魚雷艇エンジンMB501・音響追尾魚雷T5・ロケットエンジン、ジェットエンジンとその設計図・新型エニグマ暗号機・レーダー装置の真空管(出来るだけ多数)・地上用レーダーウルツブルグ・レーダー逆探知装置・ベルリン型9センチ波レーダー・飛行機用レーダー・飛行機用無線電話装置・ミコシ射撃装置・潜水艦用レーダーとアンテナ・オシログラフ(振動記録器)・ラインメタル13ミリ自動機関銃設計図・その他に捕獲されたアメリカ・イギリス軍の計器類」。 東京の海軍省事務局は、これらの品を何としても持ち帰ってほしいとドイツ駐在武官宛てに電文を送った。伊52には、戦局打開の最後の望みがかけられていた。


この訪独作戦にあたって、ベルリンにある日本海軍のドイツ駐在海軍武官室が、伊52の動きをドイツ側と調整して、統制した。武官室には、およそ40名の関係者が働いており、日本への通信、訪独作戦中の伊52への指令などは、全て武官室の関係者が行っていた。日本を巡る戦況が急速に悪化する中、駐在武官に課せられた重要な任務は、ドイツの最新兵器を探し出し、それを速やかに日本に送り込む事であった。その輸送任務を担うべく期待されたのが、伊52である。作戦を開始するに当たって、伊52には「モミ」という暗号名が付けられた。


(3月21日)、伊52はシンガポールに到着し、ここに1ヶ月滞在して、錫・モリブデン・タングステン計228トン・阿片2、88トン(医療用)・キニーネ(マラリア熱の特効薬)3トン・生ゴム54トン・その他暗号本数冊と陸軍から頼まれた文書を積んだ。同じ頃、ドイツでは2隻の日本潜水艦が、日本に向かって出港していた。その1隻は、呂501(ドイツから提供されたUボート)であり、ドイツで訓練を受けた日本海軍の乗員が乗り込んでいた。もう1隻は木梨鷹一艦長率いる伊29であり、この艦は伊52と同じ訪独任務を担っていた。(3月30日)、呂501はドイツキール軍港を出港し、(4月16日)、伊29も新兵器類を積み込んで、フランスロリアンを出港する。日本へ向けて帰国する呂501と伊29、そして、ドイツへ向かう伊52、同じ時期に3隻の日本潜水艦が大西洋を航行し、すれ違う事になる。


(4月23日)、伊52はシンガポールを出港、スンダ海峡を通過し、インド洋を横断する。この任務は極秘とされていたが、5月7日の時点で、伊52の出港はアメリカ側に確認されていた。シンガポール周辺で、日本船の出入りを監視していたスパイの報告によるものと考えられている。アメリカ軍による暗号解読文、「モミは特定されていないがおそらく日本船であろう。伊52である可能性が高い。伊52は5月7日、シンガポールを発った事が確認されている。伊52はシンガポールからヨーロッパへ向かっている。おそらくインド洋にいる」


その後もアメリカ軍は、伊52の行動を徹底的に追い続けてゆく。当時、訪独作戦に関する日独間の連絡は、短波の無線通信によって行われており、その情報は深夜に浮上する伊52にも伝えられていた。通信は暗号を使って行われていたが、アメリカ側はこの暗号をほぼ完全に解読しており、暗号通信を傍受してから、4、5日後には英訳化された報告書を作成していた。


日本を出港してから2ヶ月、伊52はアフリカ南端の海域に入った。南アフリカ喜望峰にはイギリス軍の航空基地があるため、伊52は大陸から離れた沖合いを走らねばならない。だが、その海域はローリングフォーティズと呼ばれる海の難所である。台風並みの西風が吹き荒れるこの海域では、訪独任務を担った潜水艦のいずれもが激しい波を受けて、艦体に損傷を負っている。遣独第一陣を担った、伊30乗員の記録を紹介したい。「風速40メートルを越える暴風圏に入って、艦は木の葉のように翻弄された。波は艦首を越えて艦橋に激突し、海水がハッチから艦内に滝のように流れ込んだ。艦橋の分厚いフロントガラスも波の力でいつの間にか流出し、見張り員はロープで体を縛り付けて、ずぶ濡れになって2時間の当直を耐えた。


進んでは押し戻され、また少しずつ進み続けて7日目、排気口から海水が逆流し、エンジンのピストンが押し潰された。エンジンは故障し、艦は荒波に任せて漂流する危機を迎えた。漂流中の横揺れは45度、真横になるような感覚だった。艦体はみるみる東に流されて行く。機関員達は激しい揺れの中、総出でピストンを抜き取り、分解修理を始めた。ようやく組み立ててエンジンが動き出しても、次の日には停止してしまうといった事を繰り返し、やっと大西洋に出た時には2週間が経っていた」。伊52も激浪に翻弄され、乗員達は激しく動揺する艦内で苦しみ続けたであろう。1週間後ようやく暴風圏を突破した。


(5月20日頃)、伊52は喜望峰を越えて大西洋に入った。(5月30日)、ドイツ海軍は、大西洋を航行するUボートに、日本潜水艦が大西洋に入った事を無電で知らせ、その特徴を伝えて間違って攻撃しないよう注意を呼び掛けた。この頃、呂501は暗号を解読されて、アメリカ軍に補足されていた。海中を密かに進む呂501の動きをアメリカ軍は詳細に把握し、その航路に対潜攻撃部隊(護衛空母ボーグと5隻の駆逐艦)を派遣して攻撃を繰り返した。


(5月6日)、呂501からの報告、「5月6日、我々は北緯30度西経37度の海域を通過した。我々はPポイント(燃料補給のための会合場所)で燃料補給を求めなかった。付近は厳重に警戒されていて、我々は3日間にわたって爆雷攻撃を受けたが無事だった」。しかし、この報告から一週間後(5月13日午後19時)、アメリカ駆逐艦のソナーに捉えられた呂501は爆雷攻撃によって撃沈され、乗員55名も戦死した。アゾレス諸島西南、北緯18度8分、西経33度18分の海域だった。(6月4日)、一方、伊52は赤道を越えて北大西洋に入った。そして、呂501が沈められた最も危険な海域へと進んで行く。


(6月5日)、ドイツ海軍作戦本部から日本海軍宛てに、無事に伊52がドイツに到着するよう、偽の情報発表をして、連合軍を欺こうと提案してきた。しかし、この通信もアメリカによって傍受され、暗号解読されて計略は筒抜けとなっていた。しかも、翌(6月6日)には連合軍の一大反抗、ノルマンディー上陸作戦が決行され、この計画は立ち消えとなった。(6月7日)、ドイツ駐在武官から伊52への無線、「駐在武官からモミ艦長へ。英米軍がフランスのルアーブルとシェルブールの間の海岸に6月6日以来上陸している。目的地は依然ロリアンであるが、状況によってはノルウェーになるかもしれない」


ドイツ駐在武官から伊52への指令、「会合点は北緯15度西経40度。会合日時は6月22日21時15分、日没後である。貴艦は浮上した後、緯度線と平行方向に航行せよ。会合点を中心に往復しつつ、ドイツ潜水艦を待て。潜航しているドイツ潜水艦は、水中聴音器で貴艦を見つけて会合する。もし最初の日に会合出来なければ、同じ方法を翌日の夜明けまで試みる。それでも成功しない場合は無線で報告せよ」。「目的地がノルウェーに変更される場合もある。そうなれば燃料が不足するだろうが、ドイツ軍側が燃料補給を行うことは非常に困難である」

伊52からの返信、「モミ艦長から駐独武官へ。6月11日の我々の位置は、北緯10度西経31度。艦には速度11ノットで1万2千マイル進める十分な燃料と3ヶ月分の食料がある」。宇野艦長は目的地がノルウェーに変更されても、伊52が対応出来る旨を伝えた。そして、会合点に向かって北上する。

3へ続く・・・

ドイツを目指した日本潜水艦「伊52」 1

1995年3月末、大西洋の広大な海原で、アメリカの冒険家達が海洋調査船に乗って、ある1隻の沈没船を捜し求めていた。その沈没船には金塊2トン(時価80億円以上)もの財宝が積まれているはずであり、彼らはそれを引き揚げる予定であった。しかし、調査を開始してから5週間を経ても、今だ沈没船は見つからず、クルーに諦めの色が浮かび始めた頃、ついに彼らはソナーの画面に、大きな黒い影を捉えた。謎の物体は、水深5千メートルの深みにあった。


水中カメラが海底に降ろされると、そこには、大小無数の傷が刻まれた鋼鉄の巨大な船体が映し出され、周辺にも積荷の箱のような物が多数、散乱していた。その船は、平らな甲板、異様に細長い船体、とがった船首、舵を保護するための鉄枠といった特徴があった。いずれも旧日本海軍が使用していた、伊号潜水艦の特徴であった。この潜水艦は第二次大戦中、機密任務にあたり、そのまま行方不明となっていた伊52である事が判明した。


●伊52の性能要目

全長108.7メートル

最大幅9、3メートル

排水量、通常2583トン

排水量、満載3,158トン

水上4,700馬力

水中1,200馬力

水上速力17.7ノット

水中速力6.5ノット

航続距離、水上16ノットで2万1千海里

航続距離、水中3ノットで105海里

53センチ魚雷発射管、艦首6門

前部甲板14センチ砲1門

後部甲板25ミリ機関砲1基

安全潜航深度100メートル

飛行機格納筒はもたない


1944年、第二次大戦後半、日本の敗色は濃厚となっていた。そこで日本は同盟国ドイツから最新の兵器技術を提供してもらい、そこに戦局挽回の望みを見出そうとした。しかし、ドイツ側も、ただでは最新技術を渡してはくれない。ドイツは当時、国内で枯渇していた戦略物資の提供と、巨額の対価を日本側に求めた。戦争に必要な戦略物資は日本でも不足していたが、日本側にはドイツの最新技術と交換し得る、優れた技術を持ち合わせていなかったので致し方なかった。


当時、日本とドイツとの間には、広大な連合国の勢力圏があって、航空機での両国の連絡は不可能であった。しかし、この困難な任務も、深海を深く静かに進む潜水艦ならば可能と思えた。そこで日本は、合計5隻の潜水艦をドイツへと送り出した。その最後の遣独潜水艦となったのが伊52である。伊52は、日本の呉から出港し、連合軍の厳重な哨戒網が張り巡らされた大西洋を超え、ドイツ占領下にあるフランスのロリアンを目指した。そこで新兵器類を積み込んで、再び日本に帰り着かねばならない。実に往復3万5千海里(6万キロメートル)もの過酷な航海であった。


この任務にあたる伊52の艦長と乗員のほとんどは、この訪独任務が非常に危険で生還する見込みが薄い事を知っていた。彼らは出発前それぞれ実家に里帰りをして、お世話になった人達に挨拶回りをすませ、遺書を書き残していった。伊52には民間の技術者達も乗り組む事になっていた。彼らも生還の見込みが少ない事を知っており、ある人は生前に自分の墓を立て、ある人は知人に、「生きて帰れる確率は4、5パーセントしかないだろう」と話していた。伊52には艦長、宇野亀雄中佐以下、軍人117名・ドイツ語通訳1名・技術者7名・合計125名の乗員が乗り込み、さらに49個の箱に収められた純度99,5パーセントの金塊146本、合計2トンが積み込まれた。


(1944年3月10日午前8時50分)、伊52は密かに呉を出港して行った。

2へ続く・・・

目が開く掛け軸

2008.11.10 - 歴史の怪奇談
幕末、渡辺金三郎と言う人物がいました。この人は京都町奉行与力を勤め、安政の大獄で志士の逮捕に活躍したとあります。しかし、そういった行動を尊皇攘夷派に見咎められ命を狙われます。(1862年11月14日)近江の旅宿に同心、森孫六・大河原重蔵らと居た所を、人斬り以蔵こと岡田以蔵を含む24人の刺客の乱入を受け、天誅と称されて3人とも殺され、首を晒されます。その際、今で言う検死のためなのか、絵師によって生首の血を顔料に含ませた絵が描かれます。


その絵が、昔、テレビで放映していた目が開く掛け軸です。何故こんな現象が起きたのかは不明ですが、もし、霊と言うものが存在するならば、その無念の姿が人々の好奇の目に晒されたので、怒りの思いで目が開いたのかもしれませんね。 もっとも、この怪奇現象は、話題作りのためのテレビ局のやらせかもしれませんが。しかし、この絵自体は本物なのでしょう。そして、この絵からは非業の死を遂げた金三郎の無念が伝わってきて、鬼気迫るものを感じさせられます。


幕末の事はあまり詳しくないのですが、京都や江戸での尊皇攘夷派の人斬りなどの活動は、テロリストと変わりがなかったように思えます。奉行与力とは現在の警察官のような役割で治安を取り締まっていたとのことです。お気の毒です・・・

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重家 
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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