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丸亀城

丸亀城は香川県丸亀市にある、平山城である。見事な高石垣が見られる事で知られている


丸亀城は、応仁年間(1467~1468年)頃、細川氏の家臣、奈良氏によって、標高60メートルの亀山に砦として築かれたのが、始まりであるとされている。この城が、現在の様な姿になるのは、慶長2年(1597年)に生駒氏が讃岐18万石の領主として入封してからである。丸亀城は、生駒氏の支城として築城が始まり、慶長7年(1602年)に完成した。


寛永17年(1640年)、生駒氏は転封され、翌寛永18年(1641年)、代わって山崎氏が5万石で入封する。万治元年(1658年)、山崎氏は断絶し、代わって京極氏が6万石で入封する。以後、明治の世を迎えるまで、京極氏の居城となった。


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↑御殿表門



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↑麓から見た丸亀城



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↑搦手門から見た丸亀城




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↑石垣


丸亀城の代名詞とも言える、高石垣です。



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↑石垣



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↑石垣


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↑天守閣


天守閣は、万治3年(1660年)に建てられたもので、3層3階の小柄な木造建築物です。
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↑本丸からの眺め


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↑本丸からの眺め


眼下の林は二の丸で、奥には讃岐富士(飯野山、標高421メートル)が見えます。


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↑本丸からの眺め


ここからは瀬戸大橋が見えました。この日は霞があって、見晴らしはよくありませんでした。それでも、丸亀城の高石垣はやはり見応えありました。

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スパルタクスの乱

2010.11.01 - 歴史秘話 其の一
紀元前一世紀の古代地中海世界、唯一の超大国としてローマ帝国が君臨していた。当時のローマは、世界で最も洗練された文明の一つであった。だが、そのローマの繁栄は、多くの奴隷の苦しみの上に成り立っているものだった。紀元前一世紀、イタリア半島には、600万~700万人の市民が存在していたが、奴隷の人口も200~300万人に達していた。奴隷の人種は様々で、戦争で捕虜となって、奴隷市場に売り飛ばされた者が大半を占めていた。奴隷であっても医者、建築家、教師などの特殊技能を持った者は厚遇された。こういった上層の奴隷の中には開放され、資産を得て一般市民になる者もいた。しかし、その反面、農場や鉱山で働く下層の奴隷ともなれば、過酷な労働を課せられ、人間としての扱いは受けられなかった。そして、当時の奴隷の多くがそのような下層に属していたのだった。


下層奴隷の中には、剣闘士として戦う運命を課された者達もいた。当時のローマでは、剣闘試合が度々催され、人々の最大の娯楽となっていた。剣闘士として選ばれるのは、肉体的に屈強な奴隷である。彼らは訓練施設に送られると、剣闘士としての養成を受けた。そして、彼らは剣を手に取り、まさに命懸けの興行を演じるのだった。剣闘士の戦いは一対一が基本で、用いる武器は様々である。真剣をもって戦う以上、死人が出るのは当然だったが、負けた者が必ず死ぬとは限らず、良い戦い振りを示せば、観客の支持を受けて一命を許された。しかし、敗者が無様な戦い振りを見せようものなら、観客は親指を下に向けて罵声を浴びせかけ、容赦無く死を求めた。


紀元前73年、そのような下層に生きる剣闘士の不満が爆発する事件が起こる。イタリアカプアの町にある剣闘士養成所から、自由を求めて70人余の剣闘士が脱走したのである。この剣闘士達を率いていたのは、スパルタクスと云う男だった。スパルタクスはトラキア(バルカン半島東部の地域)出身の奴隷で、人並み優れた勇気と知恵を有し、卓越した指導力も兼ね備えていた。スパルタクスら70人余の剣闘士は、ナポリ近郊にあるヴェスビオ山に立て篭もると、周辺の農村を荒らし回りつつ、同じ境遇の奴隷達の参加を募った。ローマもこれに対し、3千人もの討伐隊を送り込んだが、少数のスパルタクスらの奇襲攻撃を受けて惨敗を喫した。このローマ軍敗れるの報は、瞬く間に周辺に広がり、付近の農場で過酷な労働を課せられていた奴隷達はこれに勇気を得て一斉に蜂起し、スパルタクスの居るヴェスビオ山へと向かったのである。


奴隷軍の規模は一挙に大きくなり、ローマも事の重大さを実感した。そこで、今度は2個軍団(約1万2千人)を送り込んだが、またしてもスパルタクスの前に敗北を喫した。ローマ軍は地中海最強であり、数的劣勢であってもその錬度と戦術によって幾度となく強敵を撃ち破ってきた精鋭である。そのローマ軍1万2千人の内、逃げ延びたのは、僅か数人であった。これでスパルタクスの名は全イタリアに響き渡り、奴隷どころか下層のローマ人まで参加するに至り、その人数は7~10万人余に達した。だが、これだけの人数が一箇所に集まると、食料の配給や全体の統率にも重大な支障を来たしてしまう。そこで奴隷軍は効率よく集団を運営するため、スパルタクス率いる本隊と、副頭目のクリクスス率いる別働隊とに分離した。この二つの集団はそれぞれ、食料を求めて各地を収奪して回ったが、ローマ軍に対しては共闘する事を約していた。


紀元前73年冬、イタリア南端のトウルィで奴隷軍の本隊と別働隊は合流すると、そこで冬営に入った。そして、ローマ軍との戦いに備えて、武器製造と訓練に励んだ。この時、スパルタクスは、捕虜としていたローマ兵に剣闘試合をさせて復讐したと云う。紀元前72年春、奴隷軍の中で、これからの進路についての話し合いがもたれ、その結果、北に向かってアルプスを越え、そこからそれぞれの故郷へと帰ろうとの結論に達した。これを受け、奴隷軍は再び本隊と別働隊とに分かれて北上を開始する。一方、ローマは断固として反乱を鎮圧する決意を掲げ、スパルタクスとクリクススらに向けて、それぞれ2個軍団ずつ差し向けた。別働隊のクリクススら3万人余は、ローマ軍2個軍団に追い詰められ、やがてその軍諸共、全滅してしまう。


一方、スパルタクスは4万人余を率いて、アドリア海沿いに北上を続けていたが、その途上でローマ軍に追いつかれてしまう。スパルタクスはローマ軍4軍団(約2万4千人)が合流する前に各個撃破を狙い、まず、クリクススを破ったローマ軍2個軍団を撃破すると、返す刀でもう2個軍団のローマ軍をも撃ち破った。スパルタクスら奴隷軍は数こそ多いが、女、子供、老人等も含まれており、装備や訓練も満足には施されていない。その軍が、装備も訓練も行き届いていたローマ軍を撃ち破ったのである。スパルタクスの卓越した統率力、軍才を見せ付けた戦いであった。


スパルタクスは、さらに北イタリアに駐屯していたローマ軍をも撃ち破り、ついに北への道を切り開いたのである。後は、アルプスを越えるのみであった。しかし、ここに来てスパルタクスら奴隷軍は、何故か、進路を南に変更する。その理由は定かでないが、女子供を引き連れてのアルプス越えは困難だったので、イタリア南部まで進んで、そこからキリキア(トルコ南部)の海賊に頼んで小アジア(トルコ)に運んでもらおうと考え直した、または、未開の貧しい土地に戻るより、豊かなシチリア島に渡ろうとした、とも云われている。


いずれにせよ、スパルタクスら奴隷軍はイタリア南端部を目指す事になったが、それは再びローマ軍と戦わねばならない事も意味していた。奴隷軍は略奪をしつつイタリア半島を南下し、シチリア島を目の前にした、メッシーナ海峡まで達する。だが、そこに奴隷軍が待ち望んでいた、海賊の船団は現れなかった。そして、それに代わって現れたのが、ローマ軍8個軍団、5万の大軍であった。最早、ローマはスパルタクスと奴隷軍を無視できない重大な脅威と断じ、総力を挙げて殲滅に取り掛かったのだった。ローマ軍は奴隷軍を包囲せんとし、一時は網の中に追い込んだが、スパルタクスらはこれを強行突破して、危地を脱した。そして、奴隷軍は海路から脱出せんと、港湾都市ブルンディシウムを目指したが、そこにもローマ軍が上陸したとの報を受ける。


前後に敵を迎え、進退窮まったスパルタクスら奴隷軍は、ローマ軍と戦わざるを得なくなった。そして、活路を見出すべく、背後のローマ軍8個軍団との決戦に臨む。一方のローマ軍の方でも、今度こそはと国家の威信を賭けて戦いに臨んでいた。両軍しばしの対峙の後、戦端が切って開かれた。奴隷軍はこの決戦に勝てば、今度こそ自由への展望が広がると信じて、突進する。第1戦は、勢いに勝る奴隷軍の勝利に終わった。だが、これは前哨戦であって、ローマ軍を瓦解に追い込むまでには至らなかった。ローマ軍の司令官は背を見せて敗走した中隊に厳罰を下し、600人の人数の内、10分の1の60人をくじ引きで選び、残りの540人が棒で叩き殺すよう命じた。これがローマ軍最大の厳罰、10分の1刑である。敗北すれば奴隷軍には死が待っており、ローマ軍も退けば過酷な刑が科せられる。こうして始まった第2戦は、奴隷軍、ローマ軍いずれも一歩も退けない激戦となった。


だが、いかに奴隷軍の戦意が高かろうとも、平原での決戦となれば、装備、訓練の行き届いたローマ軍に一日の長があった。奴隷軍が次第に劣勢に追い込まれてゆく状況を見て、スパルタクスは一か八かの賭けに出る。自ら騎兵隊を率いて、ローマ軍本営目掛けて突撃を敢行したのである。そして、見事、スパルタクスは本営付近まで斬り込み、さらに肉薄せんとしたが、乱戦の最中、ローマ兵に槍で太股を突かれて落馬してしまう。スパルタクスは負傷を堪え、尚も剣を振るって猛戦するが、殺到してきたローマ兵に取り囲まれ、ズタズタに切り裂かれてしまう。偉大な統率者を失った奴隷軍は総崩れとなり、4万人余の内、6千人の捕虜を除いて全滅した。


戦いは終わり、ローマ軍はスパルタクスの死体を確認しようとしたが、折り重なった死体の山の中にその姿を見出す事は出来なかった。捕虜となった6千人は十字架に張り付けられ、長い苦しみの果てに絶命していった。十字架の列はローマへと続く街道沿いに何処までも続き、見せしめとして朽ち果てた骸骨が数年に渡って晒された。これ以降、ローマでは奴隷の反乱は途絶え、その待遇は改善の方向に向かったとされる。だが、乱の源となった剣闘試合そのものは、衰えるどころか益々盛んとなり、人々は血の饗宴に熱狂した。剣闘試合が終焉を迎えるのは、5世紀まで待たねばならなかった。


 

鳥取城

鳥取城は、鳥取県鳥取市にある山城である。標高263メートルの久松山に築かれていて、総石垣の近世城郭となっているが、山上部には中世山城の遺構も残っている。



鳥取城は、天文年間(1532~1555年)に因幡の守護である山名氏によって築かれた山城である。鳥取城は山名氏の出城として作られたが、次第に拡張され、因幡の主城と目されるようになる。山名氏は名門の出で、かつては山陰の大勢力であったが、山名豊国(1548~1626)の代には毛利氏に屈し、その傘下に入る。しかし、天正8年(1580年)より、織田家の勢力が山陰にまで及んでくると、豊国は織田家に鞍替えしようとする。すると、それに反発した山名家重臣、森下道与、中村春続らによって、豊国は鳥取城から追放されてしまった。そして、森下、中村らは、毛利家の重鎮、吉川元春に新たな城主の派遣を請うた。当時の吉川元春は、毛利家の山陰方面を統括していた。


天正9年(1581年)3月、元春は、この山名重臣の要請に応じ、吉川一門から、良将として名高い吉川経家を鳥取城に派遣した。経家は出陣するにあたって所領を子息に譲っており、死を覚悟の上での出陣であった。織田家の部将、羽柴秀吉による山陰攻めは間近に迫っており、経家は城に到着するや、直ちに篭城の準備に取り掛かった。だが、経家は城内を見廻して、兵糧備蓄の少なさに愕然とする。これは、秀吉が予め、高値をもって因幡の米を買い占めていた結果であった。


経家は上方に間者を送るなどして、情報収集に務めた結果、上方の軍勢が襲来するのは7月頃であると分析した。そして、上方の軍は、積雪の厳しい山陰の冬が到来する11月頃には撤退すると読んで、自身は翌年の3月までは篭城する決意でいた。これは見事な読みであったが、その篭城の裏付けとなる兵糧が絶対的に足りなかった。しかも配下の因幡武士からは、兵糧を求める不満の声が挙がって、城内に不穏な空気が漲っていた。経家は自ら説得して回り、城内の意思統一に務めつつ、幾度となく本国に兵糧輸送を打診した。しかし、元春は、備前の戦国大名、宇喜多直家との戦いに忙殺され、なかなか支援に応じる事が出来なかった。


それに鳥取城と元春の本拠、出雲との間には、織田方の羽衣石城が立ちはだかっていた。羽衣石城主の南条元続は、当初、毛利家に従っていたが、織田家の勢力が山陰にまで伸びてくると、これに鞍替えしたのである。そのため、陸路からの兵糧輸送は困難で、海路を用いる以外に手はなかった。対宇喜多戦での兵糧消耗に加え、羽衣石城による兵糧輸送の妨害もあって、元春は鳥取城への支援を後回しにする。この頃、経家は実家の家臣宛てに手紙を出しており、その中で、兵糧さえあれば全ての問題は解決するのにと嘆きの声を上げている。そうこうしている内に、秀吉軍の侵攻が始まった。


天正8年(1581年)6月25日、秀吉は姫路城を出立し、経家の読み通り、7月7日に鳥取表に到着する。そして、鳥取城東方の山に本陣を置くと、約12キロに渡って土塁や柵を廻らし、徹底的な封鎖を試みる。鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)と云う山全体を城域としており、麓にも二つの出城がある大要害であった。このような城に力攻めを加えるのは愚の骨頂であり、秀吉は最初から兵糧攻めにする心積もりであった。この時、秀吉軍の戦力は2万人余で、鳥取城の戦力は、将兵1千人に非戦闘員2千人の合わせて3千人余であった。非戦闘員2千人は秀吉軍によって追い立てられ、城に逃げ込んだ民衆であった。


篭城が始まって1ヶ月余、城内では早くも飢餓が始まった。7月、吉川経家の父、経安は息子の苦闘を案じ、元春に銀子100枚を献上して、鳥取城への兵糧輸送を懇願する。これを受けて、元春はようやく本腰を上げて兵糧輸送に取り掛かった。元春は、名将と讃えられているが、この対応の遅さには疑問を感じざるを得ない。元春は石見銀山を押さえていたはずであるが、それでも財政は火の車であったのであろうか。一方、秀吉の方でも兵糧不足が深刻化しており、信長に願い出て、兵糧輸送を頼み出ている。天正8年(1581年)8月半ば、海路を通じて織田本国からの兵糧が秀吉の元に届いた。それから程なくして、元春からの兵糧を満載した船団も鳥取城の沖合いに現れた。ところが毛利船団は、丁度、兵糧を積み降ろして身軽になった織田船団とぶつかってしまい、無残な敗北を喫してしまう。これで、海上からの鳥取城への補給の見込みは、完全に無くなった。


元春は今度は、陸路から鳥取城を救わんと進撃したが、その途上、南条元続が篭る羽衣石城で足止めされてしまう。経家は、この元春の軍が駆け付けてくれる事を信じて篭城を続けた。鳥取城では兵糧が尽きると、人々は始めは草木の葉や稲株を食した。やがてそれらも尽きると、今度は牛馬を裂いて食した。それも無くなると、ぽつぽつと餓死者が出始める。そして、幽鬼の如く痩せ衰えた男女は、包囲軍の柵に取りすがり、泣いて助命を乞うた。だが、秀吉は、それに対して火縄銃の射撃で応じた。弾を受けて倒れた者に、痩せ衰えた人々が群がり寄せ、刃物を手に取って、争って肉を食い漁る様は、まさに地獄絵図であった。特に頭部は奪い合いになったと云う。この世のものとは思えない惨状を目の当たりにして、経家は開城を決した。


経家は自らの切腹をもって、城内全ての人々の助命を請うた。これに対して秀吉は、雇われ城主である経家に責任は問わず、切腹すべきは、山名家の重臣でありながら主を追い出した森下道与、中村春続の2人にあると答えた。だが、経家はあくまで責任は自分1人にあると主張し、森下道与、中村春続らを庇ったため、交渉は難航する。同年10月24日森下道与、中村春続は自分達の存在が、経家と篭城者を苦しめていると感じ、切腹して果てた。これを受けても経家は、篭城の総責任者として切腹する心積もりは変わらなかった。


経家は切腹を前にして、父と子宛てに遺書を残している。これは、経家が父、経安に宛てた遺書である。

「去る7月12日、羽柴秀吉が鳥取城に攻め寄せてまいりました。昼夜200日余に渡って堅固に城を守ってきたものの、今に至っては兵糧も尽き果てました。この上は、私が腹を切り、諸人の命を助けたいと存じます。それによって、吉川一門の名誉ともなるでしょう」 

200日余と云うのは、経家が3月に入城した時からの日数である。開城した後、経家は行水で体を清め、死に装束を身にまとうと、具足の前に正座する。そして、時世の句を書き記し、別れの杯を飲み干した。それを終えると、別室に控える秀吉の検使に、「突然の事ゆえ、無調法があるやもしれません」と大声で呼びかけ、2、3高笑いを残すと、腹を真一文字に切って果てた。吉川経家、享年35。
 

天正8年(1581年)10月25日、吉川経家と森下道与、中村春続の首は秀吉の陣所へと届けられた。これによって、3ヶ月に渡っての鳥取城の篭城は終わりを告げる。過酷な篭城から解放され、痩せ衰えた人々が城からよろめき出るのを見て、包囲軍は炊き出しを振舞った。しかし、弱った胃に急に大量の食物を流し込んだため、大勢の者が死んでしまう。戦後、鳥取城では、雨の夜の日にはうめき声が聞こえるとか、幽鬼が現れるといった噂が流れた。


鳥取城は、その後、秀吉の部将であった宮部継潤とその子、長房の居城となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦において、長房は西軍に付いたため、改易となった。代わって入封したのは、池田輝政の弟、長吉で、この時に鳥取城は近世城郭に改められた。元和3年(1617年)、池田輝政の孫、光政が32万5千石で入封する。以後代々、鳥取城は池田家の居城として用いられると共に、増改築されていった。明治の世を迎えると、鳥取城も他の例に漏れず、順次、取り壊されていった。現在、鳥取城は地元の人々の憩いの場所として賑わっている。しかし、その光の影には、暗い歴史も埋もれている。








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↑鳥取城全景



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↑山麓の石垣



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↑山上部にある古井戸の跡


土砂に埋もれていますが、今でも水が滲みだしています。鳥取城の攻防戦時には、篭城者の喉を潤す命の水だったのでしょう。



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↑山上部の石垣



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↑山上二の丸


ここまで来るのに、30~40分ばかり掛かりました。結構、きつい登山でした。



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↑鳥取城からの眺め


鳥取市内を望みます。



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↑鳥取城からの眺め


麓を流れる川は、千代川です。かつてはあの河口付近で、織田、毛利の水軍の激突がありました。



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↑鳥取城からの眺め


鳥取砂丘が見えます。



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↑鳥取城からの眺め


鳥取城東方の山です。峰々には秀吉軍の陣所がありました。



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↑本丸跡


奥には天守台の跡があります。戦国期の鳥取城は、この山上が主城だったので、鳥取城の攻防戦時には、ここに吉川経家らが篭っていたのでしょう。そして、経家が篭城者の命を助けるために、切腹した場所もおそらくこの辺りでしょう。

仁風閣

仁風閣(じんぷうかく)とは、鳥取県鳥取市東町にある洋館で、鳥取城の敷地内に立てられています。明治39年(1906年)9月に着工され、明治40年(1907年)5月に完成しました。この館の命名者は、当時の日本海軍大将であった東郷平八郎です。完成年の明治40年には、嘉仁皇太子(後の大正天皇)による山陰巡業の宿舎として用いられました。



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↑正面から見た仁風閣



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↑らせん階段



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↑御座所



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↑東郷平八郎直筆の書



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↑裏側ベランダからの眺め



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↑裏側から見見た仁風閣



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↑和風庭園から見た仁風閣


建物内部は完全に洋風で、和室などはありませんでした。白亜の壮麗な建物で会見とかするには最適の場所でしょうが、落ち着いて住むにはきらびやか過ぎるかなと感じました。

因幡若桜城

若桜城(わかさじょう)は、鳥取県八頭群若桜町にある標高445メートルの山城です。鬼ヶ城とも称される険しい城ですが、現在は林道を伝って、車で山頂近くまで行けます。



若桜城の築城年代は不明で、正治2年(1200年)頃、この地に赴任してきた駿河の豪族、矢部氏によって城砦が築かれた模様である。若桜城は播磨と因幡との国境にあり、街道を制する位置にある。そのため、戦国期には度々、争奪戦の的となった。天正3年(1575年)には、尼子再興を目指す、山中鹿之助の拠点としても、用いられた。しかし、翌天正4年(1576年)、吉川元春の攻撃によって、山中鹿之助は若桜城から追い落とされた。天正6年(1578年)、織田家の部将、羽柴秀吉による中国攻めが開始されると、この若桜城も落とされ、因幡攻略のための拠点とされた。



天正9年(1581年)、毛利方の鳥取城が落城し、因幡が平定されると、秀吉の部将、木下重堅が2万石の若桜城主として入った。その後、重堅は城を大規模に改修し、総石垣の近世城郭に改めた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍側に属した重堅が自刃すると、代わって山崎家盛が2万5千石で入封した。元和3年(1617年)、山崎家二代目、家治は移封され、代わって池田光政が因幡、伯耆の2ヶ国32万5千石の領主となって入封する。しかし、光政は鳥取城を居城とし、一国一城令もあったため、若桜城はほどなくして廃城となった。




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↑馬場



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↑崩れた石垣


若桜城の石垣は所々で崩れていますが、これは自然によるものではなく、廃城時に人為的に崩されたものです。



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↑曲輪



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↑上が本丸



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↑天守台跡



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↑砕けた瓦


かつては立派な建物が立っていたのでしょう。


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↑若桜城からの眺め


眼下に広がるのは、若桜の城下町です。


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↑若桜城からの眺め


右手奥の道は、旧播磨国へと通じています。秀吉もここから進軍してきたのでしょう。
 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
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