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西教寺 明智光秀ゆかりの寺

西教寺は、滋賀県大津市坂本にある寺院で、比叡山の東麓にある。明智光秀ゆかりの寺として知られている。


西教寺の開祖は聖徳太子であると云われているが、詳らかではない。西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、天台真盛宗の開祖、真盛上人が入寺してから、発展していった。しかし、元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際には、この西教寺も焼き払われてしまう。その後、坂本を領有するようになった明智光秀によって西教寺は復興され、以降、光秀と西教寺は、深い関係を有するようになる。


この西教寺には、光秀が戦死した家臣を弔うために書いた戦没者供養米寄進状が残されている。これは、元亀4年(1573年)2月、光秀が軍を率いて近江堅田の城を攻めた際、18人の戦死者を出したため、彼らの名前を列記した上で西教寺に米を寄進し、その冥福を祈った書状である。光秀は、この他にも負傷した家臣を労わる書状を幾つか残している。家臣へのこのような細やかな心遣いは、他の武将ではほとんど見られないものだった。その一方で光秀は「明智光秀家中軍法」と云う軍法を定めており、家臣に厳しい軍律も課している。家臣に規律を遵守させつつも、思いやりの心で接する、おそらく光秀軍は織田家中の精鋭であった事だろう。


光秀には妻木熙子(ひろこ)と云う正室がいたが、彼女は光秀に先立って、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったと云われており、その墓も西教寺にある。光秀は、熙子の葬儀をこの西教寺で盛大に執り行ったとか。また、この寺には光秀の妻の実家である、妻木一族の墓も建てられている。彼ら妻木一族は最後まで光秀に忠節を尽くし、多くの戦死者を出したとある。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺の変を起こすが、6月13日の山崎の戦いで敗死し、残された一族も坂本城で最後を迎える。6月18日、熙子の父とされる妻木広忠は、西教寺に明智一族と妻木一族の墓を建てた後、墓前で切腹して果てたと云われている。以降、西教寺では、縁が深かった明智一族と妻木一族の菩提を弔い続けた。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の総門


この門は、坂本城の城門を移築したものであると伝えられています。


西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の墓石群


雪煙が舞う墓石群の中に、明智一族の墓もあります。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑明智一族の墓


坂本城で散っていった明智一族の菩提が弔われています。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑妻木一族の墓


明智光秀の妻、煕子(ひろこ)は妻木氏の出で、その一族は光秀と深い繋がりを有しています。


西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺本坊


この本坊は昭和33年に改築されたものですが、元は光秀が寄進した坂本城の陣屋であったとされています。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の日本庭園



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺内に安置されている石仏



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑客殿に安置されている光秀とその妻、煕子の木像


寺の方の承諾を得て、撮らせてもらいました。左に安置されている鞍は、光秀の重臣で湖水渡りの伝説を残した明智左馬助 秀満のものであると云われています。

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近江坂本城

近江坂本城は、滋賀県大津市坂本にある平城である。


現在の坂本城は城域に国道が走り、宅地開発も進んで、坂本城跡の石碑と、光秀の石像がぽつんと立つだけの何とも侘しい城跡となっている。遺構らしい遺構は残されておらず、琵琶湖の渇水時に僅かに石垣の礎石が見られる程度である。だが、かつてここには華麗なる水城があった。



坂本城は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを経て、その部将である明智光秀に坂本の地が委ねられてから、築城が始まる。この坂本は比叡山の門前町として栄え、要路の北国街道(西近江路)がすぐ脇を通り、琵琶湖の水運の要衝でもあった事から、当時、日本有数の商業地として賑わっていた。この地に坂本城を築くよう命じたのは信長であった。琵琶湖は畿内の物流、交通の要であり、それに目を付けた信長は湖に面した地に多数の城を築かせている。


まずは琵琶湖西南、明智光秀の坂本城、続いて琵琶湖東北、羽柴秀吉の長浜城、琵琶湖西北、津田信澄(信長の甥)の大溝城、そして、琵琶湖東岸にあって、それらの城の中心となるのが、信長の居城、安土城であった。安土城の脇を固める形になるこれらの城には、信長にその能力を認められ、信頼を受けていた者が配されたのである。そして、それらの城の先駆として築かれたのが坂本城であった。


坂本城には、信長の構想力、光秀の築城術に加え、当時の先端技術がふんだんに注ぎ込まれていた。当時、瓦葺きによる城は少なかったのだが、坂本城では大々的に取り入れられた。また、坂本には寺院が多く、石垣作りが盛んであった事から、その技術集団である穴太衆の手によって総石垣の城となった。本丸は琵琶湖に突き出し、陸地に向かって二の丸、三の丸と築かれた。


それぞれの区画間に堀が廻らされ、三重の堀を成していた。しかも、それら全てが琵琶湖に直結していた。城には船着場があり、船での往来も可能であった。そして、本丸には日本初とも云われる天守閣が建てられ、それに対面する形で小天守閣もあったと推察されている。この様に瓦葺き、総石垣、天守閣といった新機軸が取り入れられた坂本城は、近世城郭の走りとも云える存在であった。


イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスも坂本城を見聞しており、「豪壮華麗で、信長が安土山に築いたものに次ぎ、明智の城ほど有名なものは、天下にないほどであった」と述べている。余談であるが、天正5年(1575年)5月14日、薩摩の武将、島津家久が上京して来た折には、光秀に舟遊びに誘われ、坂本城の付近を周遊するといった出来事もあった。


翌5月15日、城下にて連歌師、里村紹巴も交えて茶会が催され、この時にも家久は招かれた。しかし、家久は根っからの武人であったからか、茶道に疎く、ただ湯を所望するのみであったと伝わる。また、天正6年(1578年)には、堺の商人、津田宗及が坂本城に招かれて、茶会が催されている。茶会後、宗及は城内より、御座船を用いて安土に向かった旨が「天王寺屋会記」に記されている。


坂本城には光秀の妻子が住まわり、この華麗な城郭は、明智一族の繁栄の象徴でもあった。だが、それが急転直下するのが、天正10年(1582年)6月2日に光秀自身が起こした本能寺の変である。そして、同年6月13日、山崎の戦いにて光秀が敗死すると、坂本城にも羽柴秀吉の軍が押し寄せる。坂本城には、光秀の腹心であった明智秀満が僅かな一族、郎党と供に城に立て篭もった。


秀満は既に死を決しており、一緒に燃えるには惜しいとして、多くの宝物を羽柴軍の指揮官、堀秀政に明け渡したそうである。しかし、ルイス・フロイスの記述によれば、羽柴軍が坂本城に到着するにあたって、多量の黄金を湖に投げ入れたとも。いずれにせよ、それらを終えると秀満は一族を刺し殺してゆき、城に火を放った。そして、天下第二の城と謳われた坂本城は、明智一族と供に、炎の中へと消えていった。


戦後、羽柴秀吉の命を受け、丹羽長秀が坂本城を再建した。だが、天正14年(1586年)、琵琶湖南岸に大津城が築城されるに当たって、坂本城の廃城が決定する。大津城の築城に坂本城の資材が転用されたため、その遺構はほとんど消え去る事となった。その後、坂本城は人々の記憶から忘れ去られ、その位置も長らく不明となった。だが、昭和54年(1979年)、住宅開発に伴って発掘作業が実施されたところ、坂本城本丸付近と見られる場所から、厚さ10cmから30cmにもなる焼土層が発見された。


この焼土層からは、安土桃山時代の物と見られる変色した鬼瓦や陶磁器等が出土した事から、坂本城が焼け落ちた時に生じたものと推測された。出土品の中には中国産の白磁、青磁や、銭貨、鏡、刀装具が数多く発見され、また、本丸跡からは、城主とその一族が居住していたと見られる邸宅の石組みも見つかった。これらの発掘調査から、城主とその一族が優雅な生活を送っていた事が窺えた。これらは、明智一族の夢の跡であった。





近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑坂本城碑


国道161号線のすぐ脇にありますが、車で通行していると、ほとんどの場合、気付かずに通り過ぎてしまうでしょう。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑明智光秀の石像



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑この辺りは本丸付近で、山に向かって二の丸、三の丸とありました。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近の石垣


この石垣は一見して古さは感じず、公園を作る際に組まれたものだと思われます。かつてはこの辺りに御殿が建ち並び、明智一族が住まっていたと思われます。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近からの眺め


琵琶湖の北方を望んでいます。湖に張り出した本丸跡で、この辺りに天守閣が建っていたのでしょう。往時には、光秀は湖に船を浮かべて賓客をもてなし、自慢の城を酒の肴としていた事でしょう。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近からの眺め


琵琶湖の南、大津方面を望みます。湖に沈んでいるとされている、石垣の礎石の跡を探しましたが、見つける事は出来ませんでした。天下第二の名城と謳われた坂本城は、泡沫(うたかた)のように消えてしまっていました。


比叡山延暦寺 

比叡山延暦寺は、滋賀県大津市坂本にある大寺院である。標高848メートルの比叡山全域が境内であり、東塔、西塔、横川塔の3地区に分かれている。比叡山延暦寺とは、これら堂塔群の総称である。


比叡山は古代より、神の鎮座する山として人々に崇められていた。そして、平安時代初期、延暦7年(788年)、この神域に伝教大師こと最澄上人が上がり、寺院を建立する。これが、比叡山延暦寺の始まりである。以来、延暦寺は王城鎮護の寺として崇められ、大いに繁栄していった。この延暦寺からは、法然、親鸞、良忍、一遍、真盛、栄西、道元、日蓮といった多くの高僧を輩出しており、日本仏教の母山とも称されている。また、紀貫之、源義経、吉田兼好、上杉謙信といった多くの歴史上の人物もこの寺を訪れている。



この様に、延暦寺は日本の歴史にも関わる重要な寺院であったが、その一方、大きな権威を振りかざして、度々、横暴な振る舞いも行った。また、強力な僧兵集団を抱えている事もあって、時の権力者であっても容易に手を出せる存在ではなかった。平安時代、院政を布いて強力な権勢を誇っていた白河法皇ですら、「余のままならぬものが、賀茂川の水、双六の賽、比叡山の山法師である」と嘆かせるほどであった。また、室町時代には、時の将軍、足利義教と抗争し、一触即発の事態にもなっている。



戦国時代に入っても、延暦寺はその権威と武力をもって一種の独立国家の状態を守っていた。しかし、戦国も後半に入ると、時代の風雲児、織田信長が台頭してきて、延暦寺の寺領も押収される事態となった。自らの権威と領域を侵された延暦寺は、これに強い反発を覚える。そして、元亀元年(1570年)、朝倉、浅井家が信長と敵対し、両軍が近江西方で対峙する事態が起こると、延暦寺は朝倉、浅井軍に加担し、比叡山一帯に陣所を提供した。



無論、信長はこれに激怒するが、山上に朝倉、浅井軍が立て篭もっている現状では、手の出しようが無かった。それにこの時、信長は、朝倉、浅井軍だけでなく、大阪本願寺、三好家、長島一向一揆といった敵対勢力に取り囲まれており、非常な苦境にあった。そこで信長は、延暦寺に対し、申し出を行った。寺領を返還するので朝倉、浅井軍に味方する事を止めてもらいたい。出家の身ゆえ、一方に味方する事が出来ぬと云うなら、せめて中立を守ってほしい。もし、それも叶わぬと云うならば、全山焼き払うと。しかし、これに対する延暦寺の返答は無かった。これで信長の決意は固まった。



翌元亀2年(1571年)8月、信長は3万余りの大軍を率いて、近江に出陣する。織田軍は、南近江の浅井方の諸城を幾つか攻め取った後、三井寺(園城寺)近くに陣を張った。織田軍は、そのまま京に入るかに見えた。しかし、信長の真の目的は、延暦寺にあった。そして、同年9月12日、織田軍が琵琶湖西岸の坂本に到着するや否や、あらやる家屋に一斉に火を放ち始めた。この坂本は、平安時代から延暦寺と深いつながりを有しており、それに伴って大勢の僧侶も居住していた。だが、織田軍の見境のない放火によって、当時、近江で最も栄えていた町は灰燼に帰す事となる。


織田軍は続いて、延暦寺の守護神とされている日吉神社も放火し、さらに比叡山を駆け上って、根本中堂を始めとする諸堂を焼き払っていった。しかし、延暦寺の堂舎の多くは坂本にあったため、殺戮と放火は主に麓を中心に行われた。火に巻かれた僧侶、町人、女、子供らは方々を逃げ惑ったが、織田軍はそれを容赦なく斬り捨てていった。この惨劇は4日間続き、比叡山が炎上する様は、京都からも窺えたと伝えられている。当時の公家の日記である「言継卿記」によれば、この焼き討ちによる死者は3千人から4千人に上ったそうである。これによって、歴史ある大社、延暦寺と日吉大社は、多くの人々ごと、その存在を抹消された。


この比叡山焼き討ちで、大きな役割を担っていたのが明智光秀である。光秀は元亀元年(1570年)末から、比叡山の近隣にある宇佐山城に在城しており、以来、近隣の土豪や村の懐柔工作にあたっていた。焼き討ちの十日前、光秀が地元の土豪に宛てた書状には、山麓をなで斬りにすると、その決意のほどが述べられている。焼き討ちの後、信長は光秀の果たした役割を評して、延暦寺領を含む、滋賀郡約5万石の所領を委ねている。光秀には合戦で戦死した将兵の菩提を丁重に弔うなど、慈悲深い面もあったが、このように冷酷に徹する一面もあった。光秀には、信長とも通じる冷徹かつ合理的に物事を進めるところがあり、それが重用された一因ともなったのだろう。


その後、延暦寺は、豊臣秀吉の時代に再建が始まり、さらに徳川時代になって多くの建物が復興された。現在、延暦寺の中心とも云える根本中堂は、徳川家光による再建である。延暦寺は険しい山上にあるが、現在は車やケーブルで気軽に行ける寺院となっている。しかし、今だにかつての悲劇を物語る遺跡も残されている。昭和初期、ケーブルの建設工事中に多数の石仏が発見され、それらは山麓に一箇所にまとめられて祭られた。この石仏群は、焼き討ちからまだ間もない頃、地元の人が大勢の死者の冥福を祈って、作ったものであると伝えられている。比叡山坂本ケーブルの脇にある、霊窟と呼ばれる場所がそれである。




比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑麓にある石段


かつては、ここから延暦寺に上がっていったのでしょう。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の略図


昔は麓にも寺院が広がっており、坂本は延暦寺の門前町として栄えました。延暦寺は全国各地に寺領を所有しており、それが坂本を通じて寺に収められていたそうです。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の象徴とも言える、根本中堂


この建物は、寛永19年(1641年)、徳川家光の手によって再建されたもので、国宝に指定されています。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

戒壇院(かいだんいん)


延宝6年(1678年)建立の重要文化財です。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め。


写真中央、琵琶湖東岸に見える山の右端付近に、信長の居城、安土城跡があると思われます。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め


眼下に広がるのは坂本の町で、奥には大津市街が広がっています。今でこそ平穏な町ですが、信長による焼き討ち時には、麓は焼き尽くされ、阿鼻叫喚の地獄が広がっていたのでしょう。


本能寺の変、第二幕、二条御所の戦い

2010.12.11 - 戦国史 其の二

天正10年(1582年)6月2日未明、京都本能寺において、日本史を揺るがす大事件が起こる。天下統一を間近に控えていた織田信長を、家臣の明智光秀が討ったのである。だが、謀反はこれで成功した訳ではない。本能寺の近隣にある妙覚寺には、信長の嫡子である織田信忠がまだ存在していた。信長に次ぐ権力者である信忠も討たねば、謀反が成功したとは言い難かった。この信忠を逃せば、たちまちの内に諸将が糾合されて光秀は攻め滅ぼされてしまう。光秀には信長、信忠を同時に討って、織田家の求心力を消し去る必要があった。そして、その後に生じるであろう権力の空白の合間に畿内を制圧し、天下に号令を掛ける、これが光秀の戦略だった。


さて、光秀は首尾よく本能寺の襲撃には成功したものの、信忠のいる妙覚寺は、まだ手付かずのままだった。本能寺と妙覚寺との距離は、直線距離にして600メートル、道沿いに歩いても1キロメートルである。指呼の距離にあると云っても良く、光秀も当初は、本能寺と妙覚寺を同時に襲撃する予定であった。しかし、妙覚寺を襲撃する予定だった明智次右衛門の別働隊は、行軍に遅れが生じて、同時攻撃はならなかったのである。 その妙覚寺の信忠の元へ、本能寺近辺に居住する村井貞勝から飛報がもたらされた。そして、異変を嗅ぎ付けた馬廻(うままわり・主君の側近・旗本)の者達も急遽、信忠の下へと集まって来た。この時、本能寺はすでに火の手を上げており、その煙と火の粉は妙覚寺からも遠望出来たはずである。


信忠は父を救うべく、すぐさま本能寺に駆け付けんとしたが、これを貞勝が押し止めた。貞勝は、「最早、本能寺は絶望的でありましょう。明智軍がここに来るのも時間の問題です。この妙覚寺より、隣接する二条御所の方が堅固なので、敵を迎え撃つにはこちらの方が宜しいでしょう」と進言した。 この時、家臣の中には、信忠に逃亡を勧める者もいた。しかし、信忠は、「この様な大掛かりな企てならば、自分が逃れられない様、手を打っているはずである。雑兵の手にかかるよりは、ここで腹を切った方がましである」と云い、二条御所へと移った。この時、信長の弟である織田長益(有楽斎)は脱出に成功している。信忠もすぐ様、行動していれば、脱出に成功していた可能性があった。だが、信忠は最早、脱出は困難であると諦め、武士らしく華々しく散らんとしたのだった。


それから間もなく、明智軍が二条御所を取り囲み始め、脱出の機会は失われた。 二条御所は包囲されたものの、すぐに戦いが始まった訳ではない。この二条御所は、天皇の皇太子である、誠仁(さねひと)親王の邸宅であった。光秀も信忠も天皇一家を戦いに巻き込む気はなく、誠仁親王と、供の者達を退出させる手筈となった。このため、束の間の平穏が訪れたが、その間にも二条御所には明智軍が続々と集結し、信忠軍も防備を固めて、戦闘準備を行った。そして、誠仁親王が退出するや否や、明智軍の火縄銃が火を噴いて、戦いの火蓋は切って落とされた。戦闘開始時刻は午前7時頃、明智軍は1万人余り、信忠軍は1千人余であった。 明智軍は大人数で、鎧兜、鉄砲、槍の完全武装で固めていたのに対し、信忠軍は少人数の上、急遽、駆け付けた者達ばかりで、軽装の帷子(かたびら)姿に太刀を手に取って戦う有様であった。


信忠軍に取っての利点は、二条御所が堀を廻らせた堅固な城郭風の建物である点と、馬廻の者達が主君のためなら死をも厭わぬ覚悟である点だけだった。勝敗は最初から目に見えていた。それでも、信忠軍の戦意は旺盛であり、大手門に兵を集結させると、門を開いて幾度も打って出た。信忠も自ら太刀を手に取り、幾人もの敵兵を切り伏せたと云う。 明智軍も大手門に攻撃を集中するが、決死の信忠軍を相手に苦戦する。そのため、他の諸門からも攻め立ててみたが、それでも突破は成らなかった。この攻防の最中、明智軍の前線指揮官、明智次右衛門は鉄砲で重傷を負い、多数の兵卒も討ち死にした。信忠軍の思わぬ奮戦に業を煮やした明智軍は、御所の隣にある近衛前久邸へと乱入し、そこの屋根から見下ろす形で弓、鉄砲を撃ち掛け始めた。


これで、信忠軍には死傷者が続出する事態となる。 信忠軍は徐々に撃ち減らされ、ついには大手門への侵入を許してしまう。信忠軍は御殿に篭って尚も抵抗したが、そこへ明智軍が火を放った。追い詰められ、従う兵も僅かとなった信忠は、最早これまでと見て、御殿の奥に入り、四方に火を掛けた。そして、燃え盛る炎の中、信忠は近習の鎌田新介に介錯を頼むと、腹をかき切って果てた。織田信忠、享年26。時刻は午前9時頃、2時間余りの激闘であった。夕刻になって二条御所を訪れた公家によると、御所内は首や死体で数限りなしの状況であったと云う。その中で信忠の姿は父同様、炎の中に消え、その遺骸を明智軍が見つける事は出来なかった。


この本能寺と二条御所での戦闘で、織田家の中枢に位置していた重要人物や、将来を担うべき若武者が多数、討死にした。本能寺では、織田信長・森乱丸・坊丸・力丸の森三兄弟。二条御所では、織田信忠・織田長利(信長の弟)・織田勝長(信長の五男)・村井貞勝(京都の全般的な行政を司る、京都所司代)・福富秀勝(馬廻の指揮官)・菅屋長頼(信長の側近筆頭格)・毛利良勝(今川義元の首級を挙げた馬廻)・野々村 正成(馬廻)・猪子兵助(馬廻)・団 忠正(信忠麾下の若手部将)・斎藤利治(斉藤道三の末子とされる、美濃の有力部将)・金森長則(金森長近の長男で馬廻)。この他にも、多数の馬廻や小姓(主君に側仕えする少年)が討死した。


この本能寺の変によって織田家の中枢は消え去り、当時の日本の政治的中心地であった京都と安土城も制圧された。これを国家で例えれば、突如、クーデターが発生して元首と閣僚が殺害され、首都も制圧されて国家機能が麻痺した状態に等しい。これで、光秀の目論見通り、畿内には権力の空白状態が生じた。この一大衝撃は畿内のみならず、日本全国に伝わって、人々は大いに動揺し、右に左に揺れ動いた。光秀はこの混乱に乗じて近江・丹波・山城・若狭の国々を掌握し、さらに大阪方面に進出しようとした。 このまま半月余り、勢力拡大の時間があれば、光秀は畿内を固めて、大兵力をその手に有したであろう。だが、ここで光秀は、羽柴秀吉の驚異的な中国大返しに遭って窮地に陥る。光秀最大の誤算は、秀吉の迅速な畿内進出であったが、それに加えて、味方になると思っていた細川藤孝・忠興父子、筒井順慶ら大身の部将が馳せ参じなかった事も大きな誤算となった。突発的な謀反を起こした光秀には大義名分が無く、親しかった部将達も去就を迷っていた。その反面、電撃的な畿内進撃を果たし、さらに主君の仇討ちと云う大義名分を掲げた秀吉には多くの諸将が集まった。


天正10年(1582年)6月13日、山崎において明智軍1万人余と秀吉軍2万人余が激突し、光秀は倍する秀吉軍に敗れて敗死した。光秀が信長を討ってから、僅か13日後の出来事であった。戦後、信長、信忠という支柱を失った織田家は指導力を失い、宿老の羽柴秀吉と柴田勝家が家中を主導する事態となった。だが、秀吉と勝家は主導権を巡って対立を深めてゆき、やがて両者は賤ヶ岳において激突する。この戦いの結果、羽柴秀吉が織田家の勢力範囲を継承して、強大な権限を手にした。さらに秀吉は日本全国の平定を押し進め、豊臣姓を名乗って天下人と成る。この豊臣時代、かつての主家であった織田家は急速に没落していった。だが、豊臣家も秀吉の死と共に没落し、天下は徳川家康の手に移る。徳川時代に入ると、織田家は、信長の次男、信雄や、信長の弟、信包や長益(有楽斎)が小大名として僅かに存続するのみであった。天下を統べらんとした一族が、一夜の出来事で全てを失い、埋没していったのだった。




三国志・魏の武官、文官達の所領

2010.12.02 - 三国志・中国史
中国の三国時代、功を挙げた人物は、主君より褒美として官位や所領を与えられて、報われていた。日本の戦国時代でも、功を挙げた人物には官位や所領を与えられて、報われている。日本での所領の呼称は石高と呼ばれ、土地の生産性で示されたが、三国時代の中国では戸数と呼ばれ、家の数で示されていた。


従って魏、呉、蜀では、配下の将領達に戸数を与えていたが、国家機能が完全ではなく、途中で滅亡してしまった呉と蜀の諸将達の戸数は、残念ながら分かっていない。しかしながら、三国の中で最も国家機能が充実していた魏では、諸将達の戸数がある程度、分かっている。それでは、魏の有名人物に限って、戸数を取り上げてみたい。


●夏侯惇(かこうとん) (?~220年)

曹操の親戚で、創業期から活躍した宿将である。曹操から最も厚い信頼を受けており、友人としての待遇を受けていた。軍事面だけでなく、統治面でも才を示した。(戸数2,500)


●夏侯淵(かこうえん) (?~219年)

夏侯惇とは従兄弟に当たり、急襲を得意とする猛将である。猪突猛進のきらいはあったが、曹操の信頼は篤く、各地で赫々たる武勲を挙げた。ただ、その活躍と比べると戸数は少なく、216年に(戸数800)となっている。


●曹仁(そうじん) (168~223年)

曹操の従弟で、知勇を兼ね揃えた曹一門きっての名将である。曹操から重要地の守備を託されたり、遠征軍の指揮官を任される事も度々であった。(戸数3,500)


●曹供(そうこう) (?~232年)

曹操の従弟で、その一命を救った事もある勇将である。220年(戸数2,100)。曹丕の時代には疎まれて戸数を削減されたが、232年、曹叡の時代に名誉を回復し(戸数1000)を与えられた。最終的には(戸数1,000?それとも3,100?)


●曹植(そうしょく) (192~232年)

曹操の子息で、その類まれな詩才を愛され、一時はその後継者と目された。しかし、兄、曹丕がその跡を継ぐと、疎まれて各地を転々とさせられると共に戸数も削減されていった。232年(戸数3,500)


●曹真(そうしん) (?~230年頃)

曹操の族子にあたる。三国志演義では無能な人物に描かれているが、実際には忠烈無比で有能な将軍だった。諸葛亮の北伐では、その意図を見抜いて的確な対処を取った。(戸数2,900)


●張遼(ちょうりょう) (169~222年)

魏の五名将の1人。人並みはずれた武勇に加え、冷静な知略も有している。合肥の戦いでは、8千の兵で10万の呉軍を破った。名将多い魏において、その筆頭的な存在にある。(戸数2,600)


●楽進(がくしん) (?~218年)

魏の五名将の1人。小柄ながら豪胆な武将だった。曹操に早くから従って呂布、袁紹、劉備、孫権など名立たる強豪相手に数々の軍功を挙げた。(戸数1,200)


●于禁(うきん) (?~221年)

魏の五名将の1人。192年に曹操に属して以来、30年近くに渡って軍歴を積み重ねた。規律を重んじ、数々の軍功を挙げた名将であったが、219年に関羽に敗れて降伏した事から、晩節を汚す結果となった。(戸数1,200)


●徐晃(じょこう) (?~227年)

魏の五名将の1人。冷静かつ慎重な武将であるが、ここぞと言う時には疾風の様な攻撃を見せた。慎み深い性格で、曹操もその将器を褒め称えた。(戸数3,100)


●張郃(ちょうこう) (?~231年)

魏の五名将の1人。その軍歴は後漢末の黄巾の乱から始まり、以来40年余、諸葛亮の北伐まで続く。その将器は、敵である蜀の劉備や諸葛亮も一目置くほどであった。(戸数4,300)


●荀彧(じゅんいく) (163~212年)

曹操に対し、数多くの有効な進言を行い、その覇業を知略の面から助けた。また、多数の有能な人材を推挙してもいる。曹操は我が張良であると評し、前漢の名軍師となぞらえて重用した。207年(戸数2,000)


●荀攸(じゅんゆう) (157~214年)

思慮深いが、剛腹な人物でもあった。袁紹と曹操の決戦、官渡の戦いでは、参謀として参加し、数々の有効な進言を打ち出して、曹操軍を勝利に導いた。207年(戸数700)


●郭嘉(かくか) (170~207年)

曹操の幕僚中では最も若かったが、将来を見通す洞察力は誰よりも勝っていた。曹操の真意を理解しており、その進言に誤りはなかった。死後に加増される。(戸数1,000)


●賈詡(かく) (?~223年頃)

かつては、敵として曹操を窮地に陥れた事もある知将である。曹操の配下となってからもその知略は冴え渡っていたが、処世術に長けた賈詡は控えめに身を処した。(戸数800)


●程昱(ていいく) (?~220年頃)

立派な風貌と、それに見合う豪胆さも兼ね備えていた。優れた洞察力を有する参謀であったが、指揮官としての才能もあった。呂布や袁紹との戦いでは、指揮官として城の守りに就いている。(戸数800)



●満寵(まんちょう) (?~242年)

192年より曹操に仕えて以来、曹丕、曹叡、曹芳の曹氏4代に渡って活躍した宿将である。地味ながら政治、軍事両面で活躍し、実績を積み上げていた。(戸数9,600)


●司馬懿(しばい) (179~251年)

非常に頭が切れる上に大局観もある人物だった。指揮官としても非常に優秀で、内に大いなる野心を秘めて、東西奔走の働きを見せる。241年、(戸数10,000)。249年、(戸数20,000)。251年(戸数50,000)


こうして見ると、長年に渡って活躍した人物ほど、戸数が多い事が分かる。また、政治、計略に才を発揮する文官よりも、戦場で功績を打ち立てる武官の方が評価が高い傾向にある。それと、曹氏の政権は、一族であっても過剰な戸数は与えず、外様でも有能な人物には同等の処遇を与えている事が分かる。そして、その中でも司馬懿の戸数の上昇振りは異常で、魏の実権を握っていく過程が戸数の面からも伺える。最後の5万戸ともなると、曹一族を始め、太刀打ち出来る者は存在しなかっただろう。



 

 

 
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重家 
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