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2026.04.11 - 
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山本山城

山本山城は、滋賀県長浜市湖北町にある山城である



山本山城は琵琶湖北東の岸辺にある、山本山(標高324メートル)の頂部に築かれた険阻な山城である。山本山城の歴史は古く、治承4年(1180年)、源氏に属する地元の豪族、山本義経がこの山本山に拠って、平氏に対して蜂起したのが、歴史における初見である。しかし、山本山城と義経は、平知盛・資盛率いる平家の大軍によって攻め滅ぼされたとある。室町時代になると、近江は京極氏の支配化となり、在地勢力の阿閉氏がその被官として山本山城に入った。戦国時代中期、浅井氏が近江北部で勢力を強めてくると、当時の阿閉氏当主である貞征(さだゆき・1528~1582)は、浅井氏の旗下に属するようになった。


元亀元年(1570年)、浅井長政が織田信長に戦いを挑むと、阿閉貞征、貞大(さだひろ・?~1582)父子もそれに従って篭城戦に参加する。阿閉氏は浅井氏の重鎮であり、姉川の戦いでは1千の兵を率いて参陣したとされており、その後も、山本山城に拠って度々の織田軍の攻撃にも耐え抜いた。山本山城は琵琶湖北東の湖上水運を制する位置にあり、また、その存在自体が小谷城を側面援助していた。このように、山本山城と阿閉氏の存在は、浅井氏にとって掛け替えの無いものだった。だが、天正元年(1573年)頃から、浅井氏の劣勢は明らかとなり、それを見越して阿閉父子は信長に降る。これが、浅井氏にとって決定的な打撃となり、同年9月1日、小谷城は落城し、浅井長政も自刃して果てた。


戦後、阿閉氏は本領である伊香郡(いかぐん)を安堵され、浅井氏に代わって近江北部の領主となった羽柴秀吉の与力となる。しかし、秀吉が、阿閉氏の収入源であった竹生島の扶持を差し押さえてくるなど、圧迫を強めてくると、阿閉貞大はこれに反発して信長に訴え出た。その後も、阿閉氏と秀吉の対立は解消される事なく、貞大は信長の直接指揮下に転属する。ちなみに貞大は大力無双の武者で、天正6年(1578年)8月15日には、信長の面前で相撲を披露している一面もある。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発すると、阿閉父子は明智光秀に組して、秀吉の本拠地であった長浜城を襲った。これには、かねてから遺恨ある秀吉への報復の意味合いも含まれており、秀吉の一族(生母のなか、妻おねなど)は命からがらで城から逃れた。


6月13日、阿閉父子は光秀方として山崎の戦いにも参加したが、この戦いで光秀は敗死し、阿閉父子も山本山城へと逃れた。だが、阿閉父子は、本拠地と家族の命を脅かされ激しい怒りを含んだ秀吉の報復攻撃を受ける事となる。勢いに乗った万余の秀吉軍を前に、いくら山本山城が堅城とは云え、孤立無援の阿閉父子に勝ち目は無かった。山本山城は秀吉軍によって攻め立てられ、阿閉父子は一族郎党共々、族滅されたのだった。この後、山本山城は廃城となり、阿閉氏と共に歴史の片隅に消えていった。






山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑宇賀神社


この社の脇から登って行きます。
麓にある宇賀神社の近辺に駐車スペースがあり、そこから歩いて30~40分ばかり歩くと山頂まで行けます。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑傾斜の強い斜面


山本山の見た目は、低い穏やかな山なのですが、中腹から傾斜が強くなっており、頂上に向かうにつれ非常に息が切れてきます。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑二の丸跡


奥に本丸があります。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑山本山からの眺め。



黄砂が酷くて見え難いですが、琵琶湖の北岸が見渡せ、左手には竹生島もあります。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


ここで阿閉氏が君臨し、そして、最後を迎えたのでしょうか。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑本丸から一番馬場の方を望む。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑北面にある一番馬場


ここから北に7、8キロばかり進むと、賤ヶ岳まで通じます。
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多田銀山

2011.04.18 - 歴史の怪奇談
多田銀山は、兵庫県川辺郡、猪名川町にある鉱山跡である。伝承では、多田銀山の始まりは8世紀の奈良時代にまで遡り、東大寺の大仏建立の際、銅を供出したと云われている。戦国時代には技術の革新と、銀行脈の発見によって、大規模な開発が始まる。時の天下人、豊臣秀吉はここを直轄地として、自らも視察に訪れたと伝えられている。慶長8年(1598年)8月、秀吉が死の床についた際、豊臣家の将来を案じて、多田銀山の坑道に大量の黄金を埋めたと云う伝説も残っている。


次の徳川幕府も多田銀山を重視し、代官所を設置して直轄領とした。この徳川時代に多田銀山は最盛期を迎え、銀山町は1万人を越える人々で賑わった。しかし、江戸時代中期を境に産出量は減少していき、町もそれに合わせて衰退していった。明治、昭和の時代に入っても採掘は続けられていたが、昭和48年(1973年)に閉山を迎えた。最盛期には銀山3千軒とまで云われた、かつての賑わいは影を潜め、今は数えるばかりの集落が静かに佇んでいる。


通常、金山、銀山と聞くと華やかな想像が働くが、実際には過酷な地であり、もの悲しい歴史も数多く伝えられている。当時の鉱夫の多くは、粉塵を吸い込む事によって起こる職業病、塵肺(じんぱい)に罹って、若くして死んでいった。また、狭い坑道の中では落盤、転落事故も多く発生し、鉱夫達の平均寿命は30歳前後であったようだ。だが、その分、報酬は高く、彼らの多くは華美な服を着込んで、毎夜毎晩、酒盛りを開き、遊女を抱いては刹那的な生き方を送っていた。しかし、ヨロケと呼ばれる、塵肺が進行してくると、鉱夫は咳き込み始め、やがて呼吸困難に陥って死に至る。その症状が苦しい事から、罹患した鉱夫が自殺する事も多かった。死亡した鉱夫の多くは山中に埋葬され、無縁仏として人知れず、草木に埋もれていった。


銀山跡では不可思議な現象が起こると、よく語られている。この多田銀山も例に漏れず、幾つかの怪奇現象が伝えられている。学芸員が坑道穴の調査に入った際、鎧武者が突然、暗闇に浮かび上がった。集落の丘にある甘露寺と云う寺では、夜中に錫杖の音が響く。かつての墓地跡を造成工事中、ダンプの運転手が突然、目の前が真っ黒になり、横転してしまった。などなど、である・・・


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑代官所跡


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑かつての銀山町

右手にある丘が、甘露寺だそうです。


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑青木間歩


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑金山彦神社

当時の鉱夫達は、ここで安全を祈願してから、危険な仕事場に向かったのでしょう。


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑水抜通風穴


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑瓢箪間歩大露頭

鉱脈がそのまま、地表に現れているそうです。


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑台所間歩

間歩とは、坑道の事です。なんだか、坑道から白いもやの様なものが出ているような・・・多分、光の加減でしょう・・・


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑台所間歩

暗闇の奥の岩石が、人の顔に見えてしょうがない・・・


多田銀山
多田銀山 posted by (C)重家

↑瓢箪間歩

豊臣秀吉の時代に開発されたとされている、間歩です。かつて、秀吉は馬上のまま、間歩の中に入っていったと云われています。そして、ここからも白いもやが出ているような・・・光の加減に違いない・・・そうだ、きっとそうだ!

麻呂と猫

2011.04.16 - お笑い歴史街道

駿河の戦国大名、今川氏真(1538~1615)は大の猫好きであった。


                   _,,...='~1
           _,.、='"~~,才</彡  }
         ,.=゙ー-  ▼  ````.X彡-ナ
     _,,.::=7;;;.〃    人  .〟二二キ二   ニャ~ン
  _,..='´~こ/;;;´,,..   -イ .`'''´      Y
.< 二二=オ;;,,..-´             }
 乂 .二=壬  /            /
   ゝ、,,,,,..キ;/         ,..--./
      ゞi         ,/     \
        \    _,,,,,__.レ         i
         \,./    ゝ_r_,.イ゙   !
           /     ¦       \     ,. 、
           {    ゝJ┘         .>-、, /6 6∂
           \                 ゙'i .ω }
            ゙キ               i   /
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              メ゙゙               ,,ノ
             {キ;.              ノ
             キ≠         r=ォ'匕ゝ、_  ,,....,
              Y.--''''''''     ノ弋≠ ≠;≠キ千;;彡゙
              i゙ o 3    ,.)   `'''…ー'''''´´
             (__ 8 ,..〟'''´´
              ゝ-'''´

 

 


氏真 「おお、猫ちゃんを見つけたでおじゃる!麻呂は猫が大好きなのじゃ。今からモフモフしてあげるでおじゃる。」
 

          「;:丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
            ト、;:;:;:丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
          {::ト、:;:;:;:;:;:` '' ー―――;:;: '|
           l::l . 丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
           ',:i r- 、、` ' ―――一'' " .|
            || ヾ三)       ,ィ三ミヲ  | 
            lj         ゙' ― '′ .|
           | , --:.:、:..   .:.:.:.:..:.:...  | 
           | fr‐t-、ヽ.  .:.:. '",二ニ、、|
           l 丶‐三' ノ   :ヾイ、弋::ノ| 
           ', ゙'ー-‐' イ:   :..丶三-‐'"|
            ',    /.:   .      |
            ',  ,ィ/ :   .:'^ヽ、..  |
             ',.:/.:.,{、:   .: ,ノ 丶::. |
            ヽ .i:, ヽ、__, イ    _`゙.|
              ,.ゝ、ト=、ェェェェ=テアヽ|    ん~ふっふっふ♪
           _r/ /:.`i ヽヾェェシ/   |
     _,,. -‐ '' " ´l. { {:.:.:.:', `.':==:'."   |
一 '' "´        ',ヽ丶:.:.:ヽ、 ⌒      ,|
             ヽ丶丶、:.:.ゝ、 ___,. イ |
              `丶、 ``"二ユ、_,.____|

 


 

猫 「ニャニャニャ(来んな。キモおっさん」

         / \     /\
         /  .\.,.,.,.,..,,/  ヽ
        /           `:、
       ,:'              ',
      .,:'               i
      .i  ○      ○     i  
       .',            * i   
        `:、   ー―‐     /   
         |           \
         |             \  |ヽ
         |              ヽ丿 |
         |               )_ノ
        (.,.,.,.,..,).,.,.,..,.,.,.(,..,.,.,.,..,.),.,.,,../

 

 
 

氏真 「こ、これ、そんなに警戒するでない。ほれほれ、こっち来てみれ」
 

       |_:::::::::::::::::::::::::::::l:..l;;;:::.:.:::::::::::::::;:;:;:;:;:;:;|
        .l..: ̄'''' ー-''':::___i_i___,,...、、、'ェ´''''---‐|
        ,L,,,___    ..':';i i'' ::.:..     :.:.::;:;:;|
       {rミミ::l  `'‐--- !_!,,,、 ----‐‐‐-i' ̄;;:i
       |ミミ:::l   r‐‐ァ    r‐‐ゥ   _」  三|
        |ミミゝ'   . ̄       ̄   {,,,、 三|
      i´lミ: !   _,,.-_-       .-_、   :i 三|
      |:|ミ::ノ  .,,ィ'r。ァ`ュ    ィ"r。ァヽ,   | :ニ/i`l
      .!ヽ:l   . `'''''"´~ / ::. 弋''-‐.'`   |. ノi !;ノ
       i 'ゞl:::.      ./ ::   .゙‐-    i::l,,i /
         l ..|:i:::.     ;〃 ::  i,       | |';.ノ  可愛い猫ちゃん
        ~ゞ::::::::...  ''〈? _?}::  .......  |├'   超可愛い麻呂でおじゃるよ
         |:::::::::::::..    ) (    .::::::::. ノ:ノ  
          !::::::::::::::...._,,...____   ..:::.:::.  ノ/_   
         `ヽ,::::::::::..{〉ヘ,__,゙iq     /!1l
             l::::::::::.八`-''フ~i    / ;;r' .i ヽ
          /|ヽ:::::: i :^‐‐' .ノ   / /  /  `!_
          .,ィ'フ .i ;;'、:: ゙ー-‐′  / .ノ ./    -〒ヽ
    __/-/  ヽ . .ヽ..,,__ / / ./     ノ  }

 





猫 「フゥーーーー(来んなっつってんだろ。殴んぞ)」
       ,..,_
  ,rfY'ヽ  \ヾ`'''ヽ‐y'⌒ヽ
  ゞ r;; ヽ  〉    '、 r ;リハ
  ゞ.,    ゙;  ;;:      fヘi
   ゙:,  '゙;;, '{i,: ,r:;、 ,;; /〉`);,
    ';, ,;' ` Y,, `" ,,. ,!ヾ`):;
     ';,    `ー- ―7  ゙' ;!,
     ゞ:;,   ',.  ,/:;,  ;i ゙;,
        `ヾ::;,i  i:;  ,:;"  ゙:;,
          ゙;:  ゙ :;:'" ,,.::  ゙:;,
           ゙;:     ,. :;''"  ゙;;,
             ';          ';,
            ';    ,,.. 彡  ミ,
            ';      彡  ヽ
             ヾ   、''::;;   ,;:'
            _,,,..`ゝ- :;)f   ;'
           (_r_,,.. -‐ '" ( Y:,ソ
 

 
 

氏真 「ええい、構わん。猫ちゃん、撫で撫でモフモフ~♪」
 

                    |;:;:_:;:_:;:_:;:_;:;_:;:l:;_;:_:;:_:;:_:;:_;:_;|
                  |______|_____|
                  | 三|  _     _   |三 !
                  | 三| ,ィ三シ   ヾ三ヽ |三 |
                  | 三′  .._     _,,.   i三 |  ほ~れ ほ~れ  
                  ト、ニ| ,ィでiフ  ;'ヾでiヽ、|三.|
                  ', iヽ! "´  /  !、  ``  |シ,イ     ,r‐- 、
        __         i,ヽリ    ,' :  !.     |f ノ    ,、<_ー 、   ',_
       / ,-\_       ヾ!    i ,、 ,..、ヽ   lノ    |   `´ ィ  ヽ、
       ト  /  }        |  r 、、 _ _ ,ィ ュ ,イ l     ヽ、_ ノ:.:    `' 、
      / \_ _ ノ、´         l   ヾー‐-‐‐/  i /、   ./ .|:.:.:.:.:.:.:       |
     _/  :.:.:.:.:.:/ `ヽ         ゙i、   ゝ、二フ′ ノ/'"\  /  | :.:.:   /    l l
   ,r' ´/   :.:.:ー'   ',.        | \  ー一 / /   _ン/   |     {    |  ヽ
  ./  /            }     ,ィ|、  \     /_,、-'" _,. ヽ    /   ヽ  `} 〉j
  |  〈    ヽ,      {  _, イ  | ヽ_ 二=''" _,. -''´  "lヽ/    /:. ̄´ /ノ
  |  ヽヽ   j___:.:./ニヽ  ヽ  \    ,, -‐'''"       l/ ,   、イ:.:.::./  /
  ヽ  | ゝ   ヽ     ̄ ̄` " ‐、ヽ `ー"          人 | ンヽ二ニ´-─ ''
   ',  ヽ_|7   .}         ‐-、 ヽ
   ヽ  ゝ-‐ '゙二二二ニ ー- 、,ノ_丿

 

 
 


猫 「ニャ~ニャ~!(やめろニャ~!キモ過ぎるニャ~!!)

      /゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
      i ノ    川 `ヽ'    ジタ     ジタ
     /        l        
 ∩ 彡,   ×  . × iミ      バタ    バタ 
  ヾ〆 ヽ、, ミ(_,人_)彡` 
⊂二、   '''つ''''''"´,,,つ  ))   

 





猫 「ニャニャニャーッ!!!(もう切れたニャーッ!キモおっさん覚悟しろニャーーッ!!)」
                   ,、   _/l
                     l〉`´     ヽ
                  / <●>  <●> }
  , -‐- 、              |ミ q___ ,.ニ  /
. -(_〇 r-、`ー--─‐ '' " ´  ̄ヾ `Y, -‐ |=/ ヽ
 _( O {  l     ,.. -‐ '' " ´ヾ \\_,ノム   l   シャーーーッ!!!
  _7 o ` ´r‐ ' "´          ゝ' "´ ̄ ,. '   l
  _て O ノ       /´⌒`ー '"´     , '"´     |
    `´     ー>        /       |
            -(       / .|          |
           _て_    /   |          |
              -t_ノ    |          |

 
 




氏真 「おお!怒った顔がまた可愛ゆいのう。ほ~れ、こっち向いてみるでおじゃる」
 

       |_:::::::::::::::::::::::::::::l:..l;;;:::.:.:::::::::::::::;:;:;:;:;:;:;|
       .l..: ̄'''' ー-''':::___i_i___,,...、、、'ェ´''''---‐|
       ,L,,,___    ..':';i i'' ::.:..     :.:.::;:;:;|
      {rミミ::l  `'‐--- !_!,,,、 ----‐‐‐-i' ̄;;:i
      |ミミ:::l   r‐‐ァ    r‐‐ゥ   _」  三|
       |ミミゝ'   . ̄       ̄   {,,,、 三|
     i´lミ: !   _,,.-_-       .-_、   :i 三|
     |:|ミ::ノ  .,,ィ'r。ァ`ュ    ィ"r。ァヽ,   | :ニ/i`l
     .!ヽ:l    {::::::. i~ / ::. 弋''-‐.'`   |. ノi !;ノ
      i 'ゞl:::.  ヽ:: /; ./ ::   .゙‐-    i::l,,i /
        l ..|:i:::. /⌒iノγ ::  i,       | |';.ノ
       ~ゞ::/ / ''〈? _?}::  .......  |├'    ベロベロバ~
       / :/::::..    ) (    .::::::::. ノ:ノ
      /  .(::::::::::...._,,...____   ..:::.:::.  ノ/_
       /     ⌒\.{〉ヘ,__,゙iq     /!1l
     |        〈.:.!⌒!⌒!./     / ;;r' .i ヽ
     |       /iヾ|. │ │ノ   / /  /  `!_
      |       ;;'、 、ヽ___丿 '  / .ノ ./    -〒ヽ
     |     /ヽ . ヽ..,,__ / / ./     ノ  }

 




猫 「フギャフギャーーー!!!(もう許さんニャ!喰らえ、メガトン猫パンチ!!)」

               ,/゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
               i ノ   川 `ヽ'
              / ` ・  . ・  i、 
  _,,-‐'"ヽ.     彡,   ミ(_,皿_)彡ミ   
 ノ \ ヽ ト、     ヽ、,       ノ    
{ 、 ヽ. ヽ_(⌒)  _,,.. -‐'"ノ / ̄ ̄ 个 、.    フゥオオオオオオオオ!!! 
 ヽー'.ー' `7⌒/'フ  >,ノ--―‐‐' ̄ ⌒`ヽ、        
   ∀ ー {  ∨    ∨   >ミ λ二ヽ、_ )ヽ__      
   \  〉ー {     {     __ミ∧__,,.-''`ヽ `ヽ   
     ー―-ヽ、  ノ  _,,.. ‐'"´彡 'Y   `ヽ i  ̄ヽ、
          { ̄´》丶 ー- <ノ__\     {  / ∧
             { 7⌒/⌒ー-' ノ彡/∨ ノ >、._ノ  ,'  _∩
          !〉ー、―-、,ゝ┴ン ノ/ ノ  { レ ´ ヽi
          {ヽ.__,、___  '  / (´_ /  _,,..×   ヘ〈 ハ |
             /ヽ Y    '/´´    }  (_,,..、_ハ   , ノ }
          〉ミミと=‐- ┴―――〈      > ノ / .!
         ノノ  ', ̄ ̄ ̄ 不TT7´     ゝク´ ,  /
        / ' ∧   彡=  ′ ハ     ⊂´_ノ  /

 

 


氏真 「ちょー!待つでおじゃる!!ごめん、あやまるから、やめてぇえええええ!!!」
 

         ヽ:r‐'、  __
           〉‐r '´     `丶
         /:::ヽ         ヽ
           ,':::::::::::ヽ.          '、
        l:::::::::::::::/ .,、z:ュ、,_.  ,、=,
        l;:::::::::::/ ´ ,r'ャ、`' i'rャ;|
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猫 「キシャーーーッ!!!(もう遅いニャーーーッ)」

          ヽ l // あ~れ~~!
 ∧_∧(⌒) ―― ★ ―――
 (    ) /|l  // | ヽ   
 (/     ノl|ll / / |  ヽ
 (O  ノ 彡''   /  .|    このヴォケニャーー!
 /  ./ 〉
  \__)_)  

 





猫 「ニャハニャハニャハ!(キモおっさん、ザマー味噌)

         /\____/\
        /         \
      / /・\  /・\ \
      | _  ̄ ̄    ̄ ̄_ |
      | _  (_人_)  _ |
      | _   \   |  _ |
      \       \__|   /

 



しつこい人は、猫にも人にも嫌われますね。

ちなみに氏真が、猫好きであったかどうかは分かりません。多分、好きだったでしょう。


(おまけ)


maro1.jpg









↑麻呂の表情百変化(クリックするとアップ)



maro2.jpg










↑切れた麻呂

「きえええええええええ!!!!」

大阪城 

大阪城は、大阪府大阪市中央区にある平山城である。現在は花見の名所となって、多くの人々の笑い声が響く平和な城となっている。だが、この城は日本有数の要地にあって、戦国時代には、幾度となく激しい攻防が繰り広げられた激戦の地でもあった。



大阪は、古代より商業、交通の一大要衝として栄えており、繁栄を約束された地であった。そして、戦国時代、この地に初めて本格的な城郭を築いたのが、浄土真宗(一向宗)の僧侶、本願寺蓮如である。明応5年(1496年)、蓮如は、天然の要害である上町台地に大伽藍を築いて、ここを教団の本拠と定めた。堀を巡らし、櫓(やぐら)の役割を果たす堂塔を100以上建設し、更にそれを多数の坊官が守りを固める、鉄壁の構えであった。これが、石山本願寺の始まりである。本願寺は大阪に万全たる地盤を築いたかに見えたが、戦国の風雲児、織田信長が畿内に突如として現れて、本願寺に圧迫を加えてきた。時の本願寺法主、顕如はこれに強い不満と不安を抱き、そして元亀元年(1570年)9月、敢然と戦いを挑んだ。



本願寺は、有力戦国大名並の戦力を有していおり、他の戦国大名とも結んで信長を散々に苦しめた。だが、信長も底力を発揮して各個撃破で、本願寺の力を徐々に削いでゆき、とうとう石山本願寺を包囲するに到った。信長は数万の大軍をもって、本願寺を封じ込めたが、それでも力攻めで落とすのは不可能であって、根気強く、数年がかりの兵糧攻めで追い詰めていった。天正8年(1580年)、10年に渡る攻防の末、本願寺はついに石山の地を明け渡した。信長は苦労して手に入れたこの地に、一大城郭を築く予定であった。それは安土城を越える奇抜かつ壮麗な城となり、織田一族の居城にして、日本統治の拠点ともなっていただろう。しかし、その雄大な構想は、本能寺の変を受けて信長と共に消え去った。天正11年(1583年)、信長亡き後、その勢力範囲と統一事業を受け継いだ羽柴秀吉は、名実共に天下人たらんとして、石山の地に一大城郭の建設を開始する。



秀吉は諸大名、武士、農民を大動員して、天正13年(1585年)春には、華麗な天守閣と御殿を完成させた。九州の戦国大名、大友宗麟が秀吉に支援を求めて訪ねて来た際、この大阪城を案内されている。御殿の壁は、狩野永徳の手によって金箔を押された絵画が描かれ、天守閣の蔵には、金銀、宝物が山の様に収められていた。宗麟は、大阪城の規模と絢爛豪華振りに驚愕し、三国無双の城であると感嘆した。このような大城郭は、圧倒的な富と権力を持つ者にしか実現し得ないものであった。それを諸大名に見せ付ける事によって、力の格差を思い知らせ、戦わずして従わせる。これこそ、秀吉の意図するところであった。



大阪城の拡張工事は以後も続けられ、文禄4年(1594年)からは町屋も囲む長大な惣構(そうがまえ)の築造が始まり、秀吉死去の年、慶長3年(1598年)からは4年の歳月をかけて三の丸が築造され、豊臣家の繁栄と守護の象徴たる、大阪城は完成を見た。だが、秀吉の死と同時に、豊臣家の前途に暗雲が立ちこみ始める。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、天下の権の大部分は徳川家の手に移り、豊臣家の勢力は大きく後退した。一般的には、この時点で豊臣家は65万石の一大名に転落したと思われがちであるが、これは直轄地であって、豊臣家臣の知行地は西国各地に散らばっており、これらを合わせれば、実際の石高はもっと上であった。それに豊臣家は、高い家格、天下の巨城たる大阪城、莫大な資金を有しており、なにより、天下の台所とも呼ばれる物流と商業の一大拠点、大阪の地を押させているのが強みであった。 徳川家にとって、豊臣家は今だ脅威であった



豊臣家は一方の旗頭になるだけの潜在力をまだ秘めており、これに徳川家に不満を持つ外様大名が集まったなら、関ヶ原の様な大戦が再び起こらないとも限らなかった。それこそ、家康の最も危惧するところであったろう。その危惧を断つには家康の目が黒い内に、豊臣家を大阪から転封させるか、秀頼を江戸に置いて統制下に置くか、根絶やしにする他、無かった。しかし、名分も無しに要求を突きつける事は出来ず、家康はじっとその機会を窺った。そして、慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が起こると、家康はこれを絶好の機会と捉えて、豊臣家に要求を突きつけた。すなわち、大阪城を立ち退いて転封するか、秀頼か淀殿のどちらかが江戸に住まうよう求めたのだった。勿論、豊臣秀頼とその母、淀殿はこの申し出を峻拒する。豊臣家は、恩顧の大名ならば、馳せ参じてくれると見込んでいたようだ。しかし、徳川家の力、特に家康の力を知る諸大名は、全てがその命に従った。こうして、戦国最後の争乱、大阪の陣が始まった。



慶長19年(1614年)11月、徳川方20万人余が大阪に押し寄せ、城に篭る豊臣方10万人余を取り囲んだ。過去、家康は幾度となくこの大阪城に滞在しており、その堅牢さは分かりきっていた。そこで、無理攻めはせず、大音響が轟く大筒を日々、撃ち放ち、夜中に諸軍に大声で喊声を上げさせるなど、心理戦で豊臣方を追い詰めていった。この冬の陣は、全体的には平易に推移している様に見えるが、局地的には幾つか合戦が行われており、日々の鉄砲の撃ち合いも激しいものがあった。同年12月、両軍共、余りの大軍であるので、兵糧の欠乏に苦しみ始め、和平の機運が高まってくる。そして、豊臣方が大阪城の主要部を破却する事を条件に、徳川方は、秀頼、淀殿の関東下向は求めず、その本領を安堵する事として、和平は成った。この時の和議で大阪城は、二の丸、三の丸、惣構が破却され、外掘も埋められた。



だが、これが危うい和平である事は、誰の目にも明らかであった。事実、家康は和平締結後、すぐに大筒の製造を命じている。そして、豊臣方の浪人が不穏な動きをしているとの風聞が伝わってくると、家康はすぐさま反応し、浪人を全て放逐するか、転封するかのどちらかを選択せねば、豊臣家を追討すると最後通牒した。だが、どちらも豊臣家にとっては、受け入れ難い条件であった。例え、これを受け入れたとしても、約束が忠実に履行されるとは限らず、後に難癖を付けられて取り潰しに合えば、不名誉極まりない。そう思い定めた秀頼は、戦って潔い最期を迎える方が良しとした。そして、両家は最後の対決の時を迎える。



慶長20年(1615年)5月、徳川方15万5千人余が大阪の地に集結し、これを豊臣方5万5千人余が迎え撃つ。両軍共、先年よりは兵数は減少しているが、戦意は遥かに上回っていた。徳川家は最終勝利者として戦国の世を終わらせるべく、豊臣家はそれに最後の一矢を報い、あわよくば過去の栄光を取り戻すべく、戦場へと赴いた。だが、大阪城はすでに防御機能を失っており、豊臣方は劣勢な兵力を率いて、一か八かの決戦を挑む以外に手は無かった。



5月7日、豊臣方は、真田信繁(幸村)、毛利勝永らが突進を開始し、凄まじい気迫と勢いで徳川方の大軍を突き破っていった。そして、家康本陣まで乱入するも、あと一押しの力が足らず、力尽きたのだった。この後、豊臣軍は崩壊し、徳川軍10数万人が一斉に大阪城に乱入した。これを受けて万を越える避難民、武士らが落人狩りにあって命を落とすか、川を渡りきれずに溺死していった。この未曾有の惨劇の様子は、後の「大坂夏の陣図屏風」に克明に写し出されている。大阪城とその周辺は大炎上し、京都からも見えるほど、夜空を赤く染め上げた。翌5月8日、秀頼と淀殿は山里曲輪(やまざとくるわ)の一角に身を潜めていたが、最後の助命嘆願も無視され、自刃を余儀なくされた。ここに豊臣家は、大阪城諸共、滅び去ったのだった。



戦後、大阪は徳川家の直轄領となり、元和20年(1620年)より城の再建が始められる。そして、寛永6年(1629年)、新たな大阪城の完成を見る。徳川家による再建は、豊臣家の痕跡を消すが如く、徹底的に改築されたものであった。秀吉が築いた石垣は埋め立てられ、天守、堀、石垣の位置や形も大きく変更された。徳川時代の大阪城は、外郭線など城域は豊臣時代より縮小されたが、天守閣と石垣はより壮大なものとなった。だが、寛文5年(1665年)、落雷によって天守閣が焼失してしまうと、以後、再建される事は無かった。城の象徴たる天守閣は失ったものの、大阪城の戦略的な価値はいささかも衰えず、徳川幕府の西の要として重視された。



慶応3年(1868年)、明治維新が起こると、大阪城もその動乱の渦中に落ち、歴史ある建造物の多くが焼失してしまう。明治の世を迎えると、大阪城は陸軍の管轄地となり、鎮守府が置かれた。昭和6年(1931年)、大阪城の天守閣は、鉄筋コンクリート製で再建される。昭和20年(1945年)3月、大阪城は陸軍の拠点となっていた事から、米軍の爆撃目標となり、大空襲を受ける。この空襲によって、残されていた幾つかの歴史建造物が焼失してしまうが、天守閣自体は無事であった。戦後、大阪城は一時、米軍の駐屯地となったが、昭和23年(1948年)に返還され、大阪城公園として整備された。天守閣はコンクリート製とは言え、昭和初期の近代建造物としての評価は高く、国の登録有形文化財に指定されて現在に至っている。激動の世に翻弄されつつ、大阪城は今もそこに在り続ける。





大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑外堀



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑大手門前


大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑千貫櫓


大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑石垣と桜



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑桜門枡形の巨石


この巨石は城内第一の大きさで、蛸石(たこいし)と呼ばれています。
岡山県出土の花崗岩で、寛永元年(1624年)に備前岡山藩が運んで来たものです。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣


現代、天守閣は近代的なコンクリート建造物となって、様々な資料が収められた博物館となっています。近隣には大阪城ホールもあって、コンサートがある日には多くの人で賑わっています。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣から南を望む。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣から西の丸を望む。



大阪城 西の丸
大阪城 西の丸 posted by (C)重家

↑西の丸


平和な光景が広がっています。桜の季節の大阪城は、城内各所に屋台が建ち並んで人で溢れかえります。特に大阪城西の丸の広場は、多くの花見客で賑わいます。

カルタゴの滅亡 3

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
紀元前148年、長期の滞陣でローマ軍の士気は下がり、規律も乱れ始めていた。ローマ軍の司令官は、兵士達に再びやる気を引き起こさせようとして、カルタゴ側の小都市を幾つか攻撃して陥落せしめる。そこでのローマ軍の略奪は、容赦の無いものであった。だが、こういった戦果も、膠着した戦局を打開するには至らなかった。本国ローマでは事態を憂慮する声が上がって、増援部隊の派遣と、新任の司令官スキピオ・アエミリアヌスを送り込む事を決定する。このアエミリアヌスは、かのローマの英雄、スキピオ・アフリカヌスの養孫にあたる人物で、その再来を思わせる軍才を示していた。ローマ上層部の期待にたがわず、アエミリアヌスは現地に着任するや否な、弛緩した軍律を引き締め直し、激励の演説をして、兵士達の士気をたちまち取り戻していった。


カルタゴ側では、ローマ軍が強化された事を知って危機感を覚え、内陸で勇戦していたハズドルバルを召集して、市の総司令官に任じた。アエミリアヌスも動き出し、まずカルタゴ市と内陸との補給路を断ち切らんとして、三重城壁の正面に封鎖砦を築き始めた。カルタゴ側も必死に妨害したが、ローマ軍は卓越した土木技術力を発揮して、僅か30日で長大な城砦線を築き上げたのだった。その城砦線には各所に見張り塔が建てられ、その中の一つは三重城壁よりも高い四階建ての木塔で、市街を一望する事も出来た。これにカルタゴ軍民が動揺したため、ハズドルバルは気を引き締め直そうとして、捕虜としていたローマ兵に拷問を加えた上、城壁から次々に投げ落としていった。この様な蛮行はカルタゴ市民も望んでいなかったが、ハズドルバルは反対者も殺害して強行した。目の前で同胞達が無惨に殺されていくのを見てローマ軍は激怒し、来たるべき日の復仇を誓った。


アエミリアヌスは城砦線を築いて内陸からの補給路は遮断したので、今度は海からの補給路を断たんとして、主力を率いてカルタゴの東南、テニアの半島に向かった。第二次ポエニ戦争の敗北を受けて、カルタゴには海軍は存在しなかったが、商船隊は存在していた。これらの勇敢な商船隊は、カルタゴ港を厳重に封鎖するローマ艦隊の網の目を掻い潜っては、市内に補給物資を届けていた。アエミリアヌスはこれを断ち切らんとして、今度はカルタゴ港の正面に長大な封鎖堤を築き始めたのである。カルタゴ人は最初はいぶかしげに見ていたが、工事が進むにつれ、その意図を悟って驚愕した。だが、カルタゴ人は諦めず、ならば別に船の通り道を作らんとして、陸地を開削し始めたのである。そして、開削工事と並行して、艦隊の建造も開始した。


ローマ軍は大量の石材を投じて幅20メートル、全長720メートルもの封鎖堤を築き上げた。だが、その努力はすぐに徒労に終わる。カルタゴ側も市民総出で地を掘り岩を割って、新たに水路を開削したからである。どちらも空前の土木作業であった。それと、カルタゴは限られた資材を投じて、50隻の艦隊も作り上げていた。この艦隊は商船の船長達が中心となっており、しばらく港内で訓練を積んだ後、新たな水路から外海に打って出た。海上にはローマ艦隊数百隻が待ち構えていたが、カルタゴ艦隊50隻はそれに果敢に戦いを挑んだ。


劣勢ながらカルタゴ艦隊は勇戦し、容易に勝敗は決しなかった。だが、両軍の戦力差は余りにも大きく、夕刻を迎えて、カルタゴ艦隊は撤退に取り掛かったが、その後をローマ艦隊が追った。最早、これ以上は戦えないのでカルタゴ艦隊は港に避難しようとしたが、新たな水路は狭く、少数ずつしか入れなかった。そこをローマ艦隊に狙われ、カルタゴ艦隊の大部分が失われてしまう。最終的に敗れはしたものの、このカルタゴ艦隊50隻の勇戦は、後々まで人々の語り草となった。


カルタゴの港の近くには、チョマと呼ばれる城壁がある。ここは港を見下ろす位置にあって、市街防衛の重要拠点であった。アエミリアヌスもここが要点であると見なして、ローマ軍が築いた封鎖堤を通って、チョマの前面に大兵力と、大型の破城槌、攻城塔を投入した。カルタゴ側も、ここが破られれば致命傷となるのが分かっていたので、軍民、死力を尽くして防戦に努めた。日中、激しい攻防戦が展開されたが、とうとうローマ軍は城壁の一部を破壊せしめる事に成功した。


だが、夜間になると、決死の覚悟のカルタゴ人の一団が海を泳いで忍び寄り、攻城兵器に火をかけて回った。ローマ軍は驚きながらも反撃を加え、その大半を死に至らしめたが、カルタゴ人の決死隊は任務を成功させていた。それならばと、アエミリアヌスは、今度は小型の攻城兵器を数多く持ち込んだ。さらに火を用いた飛び道具を発案し、それを城壁に撃ち込んではカルタゴ兵を追い散らし、とうとうチョマの城壁を乗っ取る事に成功したのだった。
ローマ軍は占領したチョマの城壁に投石器を設置し、カルタゴ市に補給物資を運び入れんとする船に攻撃を加えた。これでカルタゴは、海からの補給路も断たれてしまう。だが、内陸にはまだ、ネフェリスと云う拠点が保持されており、そこからローマ軍の城砦線を避けつつ、チュニス湖を通じて、僅かながらも市内に補給物資が届けられていた。この細々とした補給線こそ、カルタゴ人最後の希望だった。アエミリアヌスの次の目標は当然、ネフェリスとなる。


紀元前147年夏、ローマ軍主力は内陸に進撃し、ネフェリスを激しく攻め立てた。ローマ軍は駐留カルタゴ軍を蹴散らし、軍民合わせて7万人余を殺害せしめたと云う。ネフェリスの陥落でカルタゴは全ての補給路を失い、その滅亡は時間の問題となった。以降、カルタゴ市は深刻な飢餓に陥り、多くの人々が餓死していった。アエミリアヌスは、カルタゴ軍民が十分に弱ったのを見越して、翌年春に総攻撃を実施する事を決した。破滅が目前に迫ってきた事から、カルタゴ側はアエミリアヌスに降伏交渉を持ちかけた。そして、代表としてハズドルバルが会談に赴いたが、アエミリアヌスは都市の破壊を譲らず、会談は物別れに終わる。この時、アエミリアヌスはハズドルバルに対し、その一命と家族、親しい友人の命は助けるから投降するよう呼び掛けた。だが、ハズドルバルはこの申し出を峻拒し、憤激しながら市街に戻っていった。ハズドルバルは傲岸不遜な人物であるが、非常時に国を売るような真似はしなかった。


紀元前146年、アエミリアヌスは最終攻撃に当たって儀式を執り行い、カルタゴ人には呪いを、ローマ人には神の加護があるようにと祈りを捧げた。カルタゴ市にはビュルサと呼ばれる丘があり、この上に壮麗な神殿が建てられていた。これこそカルタゴの象徴であり、ローマ軍の最終目標でもあった。ローマ軍はチョマに集結すると、そこから市街目指して一斉に突撃を開始した。ローマ軍の作戦目標は、まずは港の確保、続いて中央広場、最後にビュルサの神殿の順であった。ローマ軍が港に雪崩れ込んで来ると、カルタゴ側は守り難い地勢にある港を放棄し、倉庫群に火を放ちながら退却していった。ローマ軍の進撃が余りにも迅速であったため、カルタゴ側の応戦は遅れた。しかしながら、ローマ軍が市街中心部へ進撃するに伴って、市民は必死の抵抗を見せるようになる。


ローマ軍は市民の激しい抵抗を排除しつつ、中央広場まで占領した。ここから坂を駆け上がれば、神殿はすぐそこであった。だが、翌朝、ローマ軍の兵士達は占領地での略奪に狂奔し、この日は戦いにならなかった。この間にカルタゴ側は各所から軍民を集結させ、防衛態勢を整える事に成功する。攻囲戦が始まって以来、戦闘と飢餓で市民の半数の命が失われていたが、それでも神殿のあるビュルサ地区にはまだ、10万人余の市民が立て篭もっていた。秩序を回復したローマ軍はビュルサの神殿目指して、再び進軍を開始する。だが、神殿に至る坂道の両脇には、高層の石造建築物が数多く建ち並んでいて、それが砦の役割を果たしており、ビュルサの丘自体も天然の要害となっていた。そこにカルタゴの軍民が立て篭もって、ローマ軍に投石、投槍の雨を浴びせかける。この日を境に、市街戦は本格的かつ、凄惨なものになっていった。


ローマ軍は建物の屋根から屋根に板を架けて乗り移り、市民を斬り伏せ、投げ落としながら、一軒一軒制圧していった。多くの人間が投げ落とされて、路上で戦っている者にも当たるほどであった。路上、建物内、屋根、立て架けた板など、あらゆる場所で戦闘が繰り広げられた。路上を埋め尽くした死体は、行軍に支障をきたすほどであった。そこで、ローマ軍は死体除去の分隊を編成して、瀕死の者であってもかまわず溝に投げ捨てていった。痩せ衰えているとはいえ、カルタゴ市民の抵抗は激烈なものがあった。彼らの必死の形相と雄叫びを受けて、ともすればローマ軍の方が逃げ腰となった。


ローマ軍は幾度となく攻撃を立て直し、アエミリアヌスも自ら陣頭指揮を執って兵士達を推し進めていった。カルタゴ市民は膨大な死者を出して追い込まれていったが、ローマ軍もおびただしい死傷者を出して消耗しており、そのため、市街戦には不向きな騎馬隊まで戦場に投入するに到った。熾烈な市街戦が続く中、ローマ軍の分別は失われてゆき、老若男女問わずに斬り捨てていった。それでも市民の抵抗は収まらなかったので、ついにアエミリアヌスは市街全域に火を放つよう命じた。火に巻かれて多くの市民が焼死していき、建物から逃げ出して来る者はローマ軍が斬り捨てていった。こういった合間にも、各所で略奪が繰り広げられた。


ローマ軍が市街に突入を開始してから七日後、生き残った5万人の市民は抵抗を諦め、降伏を申し出た。しかし、カルタゴの主将ハズドルバルと降伏を良しとしない市民は、神殿に立て篭もって尚も抵抗する。壮麗な神殿を舞台に、最後の戦いが繰り広げられた。やがて神殿は炎上し、悲観した多くのカルタゴ人がそこに身を投じていった。ハズドルバルはこの最終局面になって、家族を伴って投降した。この日、カルタゴは一面燃え盛り、夜空と海を紅に染めた。そして、700年余の歴史に幕を閉じたのだった。


戦後、残っていた建物は悉く破壊され、土地は平らにならされた。そして、永遠の不毛を願って、土地一面に塩が撒かれた。捕虜となった市民5万人は奴隷として、何処かへ売り飛ばされていった。飢餓と戦乱をようやく生き延びた彼らに待っていたのは、過酷な奴隷生活であった。一方、ハズドルバルはローマ兵捕虜を惨殺した前歴があったにも関わらず、ローマで余生を送る事を許された。全てを終えた後、アエミリアヌスは廃墟と化した市街を何時までも見つめて、立ち尽くしていた。そして、「いずれ、我がローマも同じ運命を辿るであろう」と慨嘆し、涙したと云う。ローマ人によって呪われた地とされたカルタゴであるが、100年後、皮肉にも同じローマ人の手によって復興される事になる。以降、カルタゴはアフリカ有数の大都市へと発展してゆき、ローマにとって欠かせぬ都市となる。それゆえ、今に残るカルタゴの遺跡は、ほとんどがローマ時代のものである。


1943年、第二次大戦時、アメリカ軍の猛将ジョージ・パットンはドイツ軍と戦うため、北アフリカに派遣された。作戦終了後、パットンは部下を連れてカルタゴの遺跡に立ち、感慨深げに、「俺はかつて、カルタゴ人としてここで戦ったのだ」と語った。そして、初めて見る遺跡や古戦場を、まるで見てきた事があるように解説して回ったと云う。パットンは自らをハンニバルの生まれ変わりだと語っていたそうだが、実際にはハズドルバルの生まれ変わりであったのかもしれない。現在、ローマ時代の遺跡の下には、カルタゴ滅亡時の焼土層が見て取れる。カルタゴの遺跡はその下にあって、深い歴史と悲しみを湛えて眠りについている。



carthage_img2.jpg












↑円形の港がカルタゴの軍港で、その先の長方形が商業港


 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
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