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戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
西教寺は、滋賀県大津市坂本にある寺院で、比叡山の東麓にある。明智光秀ゆかりの寺として知られている。
西教寺の開祖は聖徳太子であると云われているが、詳らかではない。西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、天台真盛宗の開祖、真盛上人が入寺してから、発展していった。しかし、元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際には、この西教寺も焼き払われてしまう。その後、坂本を領有するようになった明智光秀によって西教寺は復興され、以降、光秀と西教寺は、深い関係を有するようになる。
この西教寺には、光秀が戦死した家臣を弔うために書いた戦没者供養米寄進状が残されている。これは、元亀4年(1573年)2月、光秀が軍を率いて近江堅田の城を攻めた際、18人の戦死者を出したため、彼らの名前を列記した上で西教寺に米を寄進し、その冥福を祈った書状である。光秀は、この他にも負傷した家臣を労わる書状を幾つか残している。家臣へのこのような細やかな心遣いは、他の武将ではほとんど見られないものだった。その一方で光秀は「明智光秀家中軍法」と云う軍法を定めており、家臣に厳しい軍律も課している。家臣に規律を遵守させつつも、思いやりの心で接する、おそらく光秀軍は織田家中の精鋭であった事だろう。
光秀には妻木熙子(ひろこ)と云う正室がいたが、彼女は光秀に先立って、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったと云われており、その墓も西教寺にある。光秀は、熙子の葬儀をこの西教寺で盛大に執り行ったとか。また、この寺には光秀の妻の実家である、妻木一族の墓も建てられている。彼ら妻木一族は最後まで光秀に忠節を尽くし、多くの戦死者を出したとある。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺の変を起こすが、6月13日の山崎の戦いで敗死し、残された一族も坂本城で最後を迎える。6月18日、熙子の父とされる妻木広忠は、西教寺に明智一族と妻木一族の墓を建てた後、墓前で切腹して果てたと云われている。以降、西教寺では、縁が深かった明智一族と妻木一族の菩提を弔い続けた。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺の総門
この門は、坂本城の城門を移築したものであると伝えられています。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺の墓石群
雪煙が舞う墓石群の中に、明智一族の墓もあります。
西教寺 posted by (C)重家
↑明智一族の墓
坂本城で散っていった明智一族の菩提が弔われています。
西教寺 posted by (C)重家
↑妻木一族の墓
明智光秀の妻、煕子(ひろこ)は妻木氏の出で、その一族は光秀と深い繋がりを有しています。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺本坊
この本坊は昭和33年に改築されたものですが、元は光秀が寄進した坂本城の陣屋であったとされています。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺の日本庭園
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺内に安置されている石仏
西教寺 posted by (C)重家
↑客殿に安置されている光秀とその妻、煕子の木像
寺の方の承諾を得て、撮らせてもらいました。左に安置されている鞍は、光秀の重臣で湖水渡りの伝説を残した明智左馬助 秀満のものであると云われています。
近江坂本城は、滋賀県大津市坂本にある平城である。
現在の坂本城は城域に国道が走り、宅地開発も進んで、坂本城跡の石碑と、光秀の石像がぽつんと立つだけの何とも侘しい城跡となっている。遺構らしい遺構は残されておらず、琵琶湖の渇水時に僅かに石垣の礎石が見られる程度である。だが、かつてここには華麗なる水城があった。
坂本城は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを経て、その部将である明智光秀に坂本の地が委ねられてから、築城が始まる。この坂本は比叡山の門前町として栄え、要路の北国街道(西近江路)がすぐ脇を通り、琵琶湖の水運の要衝でもあった事から、当時、日本有数の商業地として賑わっていた。この地に坂本城を築くよう命じたのは信長であった。琵琶湖は畿内の物流、交通の要であり、それに目を付けた信長は湖に面した地に多数の城を築かせている。
まずは琵琶湖西南、明智光秀の坂本城、続いて琵琶湖東北、羽柴秀吉の長浜城、琵琶湖西北、津田信澄(信長の甥)の大溝城、そして、琵琶湖東岸にあって、それらの城の中心となるのが、信長の居城、安土城であった。安土城の脇を固める形になるこれらの城には、信長にその能力を認められ、信頼を受けていた者が配されたのである。そして、それらの城の先駆として築かれたのが坂本城であった。
坂本城には、信長の構想力、光秀の築城術に加え、当時の先端技術がふんだんに注ぎ込まれていた。当時、瓦葺きによる城は少なかったのだが、坂本城では大々的に取り入れられた。また、坂本には寺院が多く、石垣作りが盛んであった事から、その技術集団である穴太衆の手によって総石垣の城となった。本丸は琵琶湖に突き出し、陸地に向かって二の丸、三の丸と築かれた。
それぞれの区画間に堀が廻らされ、三重の堀を成していた。しかも、それら全てが琵琶湖に直結していた。城には船着場があり、船での往来も可能であった。そして、本丸には日本初とも云われる天守閣が建てられ、それに対面する形で小天守閣もあったと推察されている。この様に瓦葺き、総石垣、天守閣といった新機軸が取り入れられた坂本城は、近世城郭の走りとも云える存在であった。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスも坂本城を見聞しており、「豪壮華麗で、信長が安土山に築いたものに次ぎ、明智の城ほど有名なものは、天下にないほどであった」と述べている。余談であるが、天正5年(1575年)5月14日、薩摩の武将、島津家久が上京して来た折には、光秀に舟遊びに誘われ、坂本城の付近を周遊するといった出来事もあった。
翌5月15日、城下にて連歌師、里村紹巴も交えて茶会が催され、この時にも家久は招かれた。しかし、家久は根っからの武人であったからか、茶道に疎く、ただ湯を所望するのみであったと伝わる。また、天正6年(1578年)には、堺の商人、津田宗及が坂本城に招かれて、茶会が催されている。茶会後、宗及は城内より、御座船を用いて安土に向かった旨が「天王寺屋会記」に記されている。
坂本城には光秀の妻子が住まわり、この華麗な城郭は、明智一族の繁栄の象徴でもあった。だが、それが急転直下するのが、天正10年(1582年)6月2日に光秀自身が起こした本能寺の変である。そして、同年6月13日、山崎の戦いにて光秀が敗死すると、坂本城にも羽柴秀吉の軍が押し寄せる。坂本城には、光秀の腹心であった明智秀満が僅かな一族、郎党と供に城に立て篭もった。
秀満は既に死を決しており、一緒に燃えるには惜しいとして、多くの宝物を羽柴軍の指揮官、堀秀政に明け渡したそうである。しかし、ルイス・フロイスの記述によれば、羽柴軍が坂本城に到着するにあたって、多量の黄金を湖に投げ入れたとも。いずれにせよ、それらを終えると秀満は一族を刺し殺してゆき、城に火を放った。そして、天下第二の城と謳われた坂本城は、明智一族と供に、炎の中へと消えていった。
戦後、羽柴秀吉の命を受け、丹羽長秀が坂本城を再建した。だが、天正14年(1586年)、琵琶湖南岸に大津城が築城されるに当たって、坂本城の廃城が決定する。大津城の築城に坂本城の資材が転用されたため、その遺構はほとんど消え去る事となった。その後、坂本城は人々の記憶から忘れ去られ、その位置も長らく不明となった。だが、昭和54年(1979年)、住宅開発に伴って発掘作業が実施されたところ、坂本城本丸付近と見られる場所から、厚さ10cmから30cmにもなる焼土層が発見された。
この焼土層からは、安土桃山時代の物と見られる変色した鬼瓦や陶磁器等が出土した事から、坂本城が焼け落ちた時に生じたものと推測された。出土品の中には中国産の白磁、青磁や、銭貨、鏡、刀装具が数多く発見され、また、本丸跡からは、城主とその一族が居住していたと見られる邸宅の石組みも見つかった。これらの発掘調査から、城主とその一族が優雅な生活を送っていた事が窺えた。これらは、明智一族の夢の跡であった。
比叡山は古代より、神の鎮座する山として人々に崇められていた。そして、平安時代初期、延暦7年(788年)、この神域に伝教大師こと最澄上人が上がり、寺院を建立する。これが、比叡山延暦寺の始まりである。以来、延暦寺は王城鎮護の寺として崇められ、大いに繁栄していった。この延暦寺からは、法然、親鸞、良忍、一遍、真盛、栄西、道元、日蓮といった多くの高僧を輩出しており、日本仏教の母山とも称されている。また、紀貫之、源義経、吉田兼好、上杉謙信といった多くの歴史上の人物もこの寺を訪れている。
この様に、延暦寺は日本の歴史にも関わる重要な寺院であったが、その一方、大きな権威を振りかざして、度々、横暴な振る舞いも行った。また、強力な僧兵集団を抱えている事もあって、時の権力者であっても容易に手を出せる存在ではなかった。平安時代、院政を布いて強力な権勢を誇っていた白河法皇ですら、「余のままならぬものが、賀茂川の水、双六の賽、比叡山の山法師である」と嘆かせるほどであった。また、室町時代には、時の将軍、足利義教と抗争し、一触即発の事態にもなっている。
戦国時代に入っても、延暦寺はその権威と武力をもって一種の独立国家の状態を守っていた。しかし、戦国も後半に入ると、時代の風雲児、織田信長が台頭してきて、延暦寺の寺領も押収される事態となった。自らの権威と領域を侵された延暦寺は、これに強い反発を覚える。そして、元亀元年(1570年)、朝倉、浅井家が信長と敵対し、両軍が近江西方で対峙する事態が起こると、延暦寺は朝倉、浅井軍に加担し、比叡山一帯に陣所を提供した。
無論、信長はこれに激怒するが、山上に朝倉、浅井軍が立て篭もっている現状では、手の出しようが無かった。それにこの時、信長は、朝倉、浅井軍だけでなく、大阪本願寺、三好家、長島一向一揆といった敵対勢力に取り囲まれており、非常な苦境にあった。そこで信長は、延暦寺に対し、申し出を行った。寺領を返還するので朝倉、浅井軍に味方する事を止めてもらいたい。出家の身ゆえ、一方に味方する事が出来ぬと云うなら、せめて中立を守ってほしい。もし、それも叶わぬと云うならば、全山焼き払うと。しかし、これに対する延暦寺の返答は無かった。これで信長の決意は固まった。
翌元亀2年(1571年)8月、信長は3万余りの大軍を率いて、近江に出陣する。織田軍は、南近江の浅井方の諸城を幾つか攻め取った後、三井寺(園城寺)近くに陣を張った。織田軍は、そのまま京に入るかに見えた。しかし、信長の真の目的は、延暦寺にあった。そして、同年9月12日、織田軍が琵琶湖西岸の坂本に到着するや否や、あらやる家屋に一斉に火を放ち始めた。この坂本は、平安時代から延暦寺と深いつながりを有しており、それに伴って大勢の僧侶も居住していた。だが、織田軍の見境のない放火によって、当時、近江で最も栄えていた町は灰燼に帰す事となる。
織田軍は続いて、延暦寺の守護神とされている日吉神社も放火し、さらに比叡山を駆け上って、根本中堂を始めとする諸堂を焼き払っていった。しかし、延暦寺の堂舎の多くは坂本にあったため、殺戮と放火は主に麓を中心に行われた。火に巻かれた僧侶、町人、女、子供らは方々を逃げ惑ったが、織田軍はそれを容赦なく斬り捨てていった。この惨劇は4日間続き、比叡山が炎上する様は、京都からも窺えたと伝えられている。当時の公家の日記である「言継卿記」によれば、この焼き討ちによる死者は3千人から4千人に上ったそうである。これによって、歴史ある大社、延暦寺と日吉大社は、多くの人々ごと、その存在を抹消された。
この比叡山焼き討ちで、大きな役割を担っていたのが明智光秀である。光秀は元亀元年(1570年)末から、比叡山の近隣にある宇佐山城に在城しており、以来、近隣の土豪や村の懐柔工作にあたっていた。焼き討ちの十日前、光秀が地元の土豪に宛てた書状には、山麓をなで斬りにすると、その決意のほどが述べられている。焼き討ちの後、信長は光秀の果たした役割を評して、延暦寺領を含む、滋賀郡約5万石の所領を委ねている。光秀には合戦で戦死した将兵の菩提を丁重に弔うなど、慈悲深い面もあったが、このように冷酷に徹する一面もあった。光秀には、信長とも通じる冷徹かつ合理的に物事を進めるところがあり、それが重用された一因ともなったのだろう。
その後、延暦寺は、豊臣秀吉の時代に再建が始まり、さらに徳川時代になって多くの建物が復興された。現在、延暦寺の中心とも云える根本中堂は、徳川家光による再建である。延暦寺は険しい山上にあるが、現在は車やケーブルで気軽に行ける寺院となっている。しかし、今だにかつての悲劇を物語る遺跡も残されている。昭和初期、ケーブルの建設工事中に多数の石仏が発見され、それらは山麓に一箇所にまとめられて祭られた。この石仏群は、焼き討ちからまだ間もない頃、地元の人が大勢の死者の冥福を祈って、作ったものであると伝えられている。比叡山坂本ケーブルの脇にある、霊窟と呼ばれる場所がそれである。