このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
古代地中海世界、北アフリカの大地に燦然と輝く、一大商業都市があった。その名をカルタゴと云う。紀元前9世紀頃、カルタゴは、東地中海(現在のレバノン周辺)に勢力を張っていたフェニキア人の手によって建設された。当初は小さな植民都市として始まったが、カルタゴのあるチュニジアは地味豊かな大地で、しかも地中海の東西交易の中継地である事も手伝って大いに繁栄し、やがては地中海随一の貿易都市にまで発展する。だが、母国フェニキアはアッシリアやバビロニアといった周辺勢力の伸張によって衰亡していったため、カルタゴは一国家として自立せねばならなくなった。
以降、カルタゴは、地中海の雄、ギリシャと激しく競り合いながら強力な海軍を築き上げ、紀元前5世紀には西地中海一帯に領域を持つ、一大海洋国家に成長する。後にカルタゴの宿敵となるローマであるが、この頃はまだイタリアに数ある都市国家の一つに過ぎず、カルタゴを上位と認める条約を結んでいた。だが、紀元前3世紀になるとローマはイタリア半島全域に支配力を及ぼす、一大国家に成長していた。自然、両大国はお互いを意識して、緊張が高まってゆく。そして、イタリア半島のローマと北アフリカのカルタゴの中間に位置し、お互いの勢力が交錯するシチリア島にて、ついに両者は激突した。時に紀元前264年、第一次ポエニ戦争の始まりである。
シチリアは地中海のほぼ中心に位置する要衝で、この島を制すると、周辺の制海権はおろか、地中海全体に影響を及ぼす事も可能であった。そのため、両国とも総力を挙げて、島の争奪戦を繰り広げた。カルタゴはその経済力をもって各地から庸兵を招集してシチリアに送り込み、ローマは市民から徴兵した国民軍を送り込んでいった。当初、海軍戦力はカルタゴ側の圧倒的優勢であったが、ローマは1から海軍を育て上げ、それに新戦術を加えて、カルタゴ海軍と互角以上の戦いをするまでになった。勢いに乗ったローマ海軍は度々勝利を収め、制海権を握るかに見えたが、嵐を受けて数万人もの人員が海没する大被害を二度も受けてしまい、以後は振るわなくなった。
それでも、ローマ軍は10数年の歳月をかけて、一歩一歩、シチリア島の地歩を固めていった。長引く戦争で、両国とも国力と人員を大きく消耗し、国民に重税を課す事でようやく戦線を維持していた。両国とも疲弊しきっていたが、より苦境にあったのは、シチリアから追い落とされつつあったカルタゴであった。ここでカルタゴは、ハミルカルと云う新進気鋭の将軍をシチリアに送り込んで、事態の打開を図った。このハミルカルこそ、かの有名なハンニバルの父である。ハミルカルは天才的な指揮官で、寡兵をもって要害に立て篭もると、以後、数年に渡って優勢なローマ軍相手に互角に渡り合った。ローマ軍は、地上ではどうしてもハミルカルを撃ち破る事が出来ず、この戦争に勝利するにはハミルカルへの補給を断つしかないと察した。そして、最後の努力を傾けて200隻の艦隊を建造すると、それを、ハミルカルに補給物資を運び入れようとしていたカルタゴ艦隊にぶつけた。この運命の海戦でカルタゴ海軍は壊滅し、制海権を完全に喪失してしまう。
こうして補給路を断たれ、敵中に孤立する形となったハミルカルは、ローマと不利な和議を結んでシチリアを去らざるを得なかった。こうして第一次ポエニ戦争は、ローマの勝利に終わった。時に紀元前241年、24年に渡る長い消耗戦であった。この戦争を契機にローマは一大海軍を築き上げ、地中海の制海権を握るに至った。しかし、その代償も大きく、戦争によってローマ市民の人口は17%も減少した。前251年の統計では、成人市民の数は29万7,797人であったのに、前246年の統計では25万1,211人に減少していた。一方、カルタゴはその主兵が傭兵であったため、人的被害は少なかったが、国富は底を突き、海軍は弱体化し、要衝シチリア島も失った。その上、10年払いで3200タレントの賠償金を課せられた。
戦後、カルタゴは深刻な財政難に陥った。そして、雇っていた傭兵の賃金を出し渋ったため、紀元前240年、4万人を越える傭兵が大反乱を起こした。この反乱には、第一次ポエニ戦争中、重税が課せられていた北アフリカの諸都市も加担し、一時は10万人の規模にまで膨れ上がる。更にカルタゴの勢力範囲であったサルデーニャ島(イタリア半島南西にある大きな島)でも反乱が勃発し、その支配から離れた。存亡の危機に立ったカルタゴは急遽、市民を動員し、新たに庸兵も雇い入れた。そして、再びハミルカルを指揮官に任命して、カルタゴの命運を託した。反乱軍側の方が規模は大きかったが、ハミルカルは卓越した軍才を発揮して、反乱軍を追い詰めていった。そして、最終的には4万人以上の庸兵全てが殺される形で、本土の反乱はようやく終息した。時に紀元前238年、3年半に渡る戦いであった。戦後、カルタゴは蜂起に加担した都市や部族に報復を加え、女子供を含む多くの人間を処刑していった。
紀元前237年、カルタゴは本土の反乱は平定したので、今度はサルデーニャ島の反乱鎮圧に取り掛かろうとした。しかし、これに先んじてローマが兵を派遣し、サルデーニャ島とその北にあるコルシカ島まで占領してしまう。ローマは、カルタゴの弱体化に付け込んで、両島を不法占領したのだった。カルタゴはこれに激しく抗議して艦隊の準備に取り掛かると、ローマは、カルタゴの出兵準備はローマに対する侵攻準備であるとして、宣戦を布告してきた。庸兵の反乱を受けてまったく余力が無かったカルタゴは、何としても戦争を回避すべく1200タレントの追加賠償金を支払った上、両島も放棄せざるを得なかった。このサルデーニャ島は重要な交易拠点にして、食料供給地でもあったのでカルタゴの受けた打撃は大きかった。そして、ローマに対する深い遺恨を覚えた。
第一次ポエニ戦争、庸兵の反乱、ローマによるサルデーニャ島、コルシカ島の占領を受けて、地中海におけるカルタゴの勢力範囲と国力は大きく減退した。だが、カルタゴにはまだ、スペインという植民地が残されていた。このスペインは豊富な銀を産出して、カルタゴの苦しい財政を助けていた。しかし、このスペイン植民地は、南部の沿岸部を占有するに留まっていて、内陸部はほとんど手付かずの状態にあった。このまま手隙の状態が続くと、今度はローマがスペインを狙う可能性があった。この時、カルタゴの指導者となっていたハミルカルはスペインの確保を確固たるものとすべく、遠征を主張する。
おそらく、ハミルカルはこう考えていた。ローマが介入する前にスペイン全土を掌握し、その地からもたらされる富をもって、カルタゴの財政を復興させる。そして、戦力を蓄えた上でローマに報復し、カルタゴを再び地中海の覇者へと導く、と。このスペイン遠征案は政府に承認され、正式にカルタゴの国家戦略となった。紀元前237年、ハミルカル率いる大船団がカルタゴから出航せんとしていた時、9歳になっていたハンニバルは父に同行を願った。それに対してハミルカルは、「ローマを生涯の敵とせよ」との誓いを立てさせた上で、同行を許したと云う。ハミルカルは勇躍スペインに上陸したものの、諸部族の抵抗は思いのほか激しく、戦いに次ぐ戦いの日々が続いた。それでも徐々に支配地は広がっていって、経営が軌道に乗り出したところ、紀元前229年頃、ハミルカルは壮図半ばで、戦死してしまう。
だが、ハミルカルの残した基盤は、娘婿であったハズドルバルが引き継ぎ、それを更に発展させていった。紀元前221年、ハズドルバルが不慮の死を遂げると、25歳になっていたハンニバルがその跡を引き継いだ。ハンニバルはしばらくはスペインの諸部族相手に戦い、貴重な戦闘経験を得ると共に地盤を固め直した。そして、紀元前219年、ハンニバルは亡き父との誓いを果たさんとしてか、大軍を連ねて、遥かローマを目指して進軍を開始する。第二次ポエニ戦争の始まりである。しかし、地中海の制海権はローマの手にあるので、ハンニバルは未開のフランスを横断し、峻険なアルプスを越えてイタリアに向かわねばならなかった。ハンニバルとその軍は苦心してイタリアに辿り着くと、そこからイタリア全土を縦断してローマに凄まじい損害を与え続けた。
ハンニバルの戦歴の頂点となるのが、紀元前216年に行われたカンナエの戦いである。ハンニバル率いるカルタゴ軍5万人は、ローマの頭脳たる元老院議員多数を含んだローマ軍8万人余と決戦し、その内7万人余を殺害すると云う空前の大勝利を収めた。この結果、イタリア半島南部のほとんどの都市がカルタゴ支持に回り、さらにバルカン半島中央部の大勢力マケドニア、シチリア島のシュラクサイといった勢力もカルタゴ側に付いた。これに加えて、イタリア半島北方のガリア人もカルタゴ側に味方する。こうしてローマは、ハンニバルが構築した巨大な包囲網に捕われ、存亡の危機に立った。
だが、ローマはここから、実に粘り強かった。非常に苦しい状況であったにも関わらず、ハンニバルからの和平提案を峻拒し、市民に大動員をかけてじりじりと反抗した。だが、その過程でイタリア半島は戦場となって荒れ果て、多くの耕作地が放棄された。特に南イタリアの状況は酷く、両軍による略奪と破壊を受けて、荒廃しきっていた。戦争による人口減少も甚だしく、前233年のローマの成人市民の数は、27万713人であったのに、前204年の統計では21万4千人に減少していた。ローマだけでなく、同盟都市の人的資源も大きな打撃を被っていたが、それでもローマの国力、軍事力はカルタゴを上回るものがあった。
ローマは底力を発揮して、やがてハンニバルをイタリア半島のつま先に押し込める事に成功する。そして、若き新星スキピオを立てて攻勢に転じ、ハンニバルの根拠地であるスペインを奪取し、更にカルタゴ本国へと攻め入った。このカルタゴの危機を救えるのは、ハンニバル唯1人であった。紀元前203年、ハンニバルは本国からの召還令を受け、北アフリカに帰還する。そして、紀元前202年、北アフリカザマの大地で、スキピオ率いるローマ軍と、ハンニバル率いるカルタゴ軍が国運を賭けて決戦した。この戦いで勝敗を左右する存在となったのが、カルタゴの隣国にあって強力な騎兵を有していたヌミディア王国である。このヌミディアの王、マシニッサはローマに味方して参戦し、その強力な騎兵をもってカルタゴ軍を撹乱し、ローマの勝利に大きく貢献した。ザマの会戦でハンニバルは生涯初の惨敗を味わい、カルタゴの未来も大きく閉ざされる結果となった。
ザマの会戦後、カルタゴは抗戦を諦め、使節を派遣してローマとの間に講和条約を結ぶ。だが、この戦争でカルタゴが失ったものは、余りにも大きかった。スペインを始めとする全ての海外領土を失った事に加えて、10隻を除く、全ての軍船がローマ側に引き渡された事は何よりの痛手であった。これで伝統を誇るカルタゴ海軍は消滅し、自衛のための最小限の軍備しか持てなくなった。ローマは、カルタゴを独立した同盟国と見なして駐留軍は置かず、その自治は認めたが、以後、ローマの承認無しに戦争する事は禁じられた。更に、賠償金として50年払いで1万タレントの支払いも課せられた。カルタゴの農園は1年に1万2千タレントの収益があったと云わているが、それでも長期の戦争で疲弊しきったカルタゴにとって、とてつもない負担であった。こうして、カルタゴは大国としての地位を失い、ローマの覇権下で生きる一地域国家、すなわち属国に等しい存在になった。
戦後、カルタゴでは経済が悪化し、それを立て直すためハンニバルが再び先頭に立った。ハンニバルは政治面でも持ち前の指導力を発揮し、増税はせずに経費の削減と予算の見直しによって見事に国内経済を建て直した。だが、その反面、既得権益を侵される立場にあった貴族達の反感を喰らい、これら反対派の要望を受けて、ローマから視察団がカルタゴに派遣される事になった。この視察団はハンニバル暗殺の密命を受けていたと云われており、危険を察知したハンニバルは国外に逃亡する。しかし、その後もローマは執拗にハンニバルを探索し、紀元前183年、亡命先のビィテニア(現トルコ)で自害に追い込んだ。ハンニバル・バルカ、65歳。奇しくも同時期に、最大の好敵手であったスキピオ・アフリカヌスも54歳で死去している。カルタゴはハンニバルと云う偉大な指導者を失ったが、彼が行った改革を元に着実に復興を遂げていく。
↑紀元前264年頃のカルタゴの勢力範囲(ウィキペディアより)
カルタゴの滅亡2に続く・・・
1939年、ヨーロッパにおいて緊張が高まり、第二次大戦が勃発しようとしていたこの年、極東でも、日本とソ連が一触即発の緊張状態にあった。ソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国と、日本の影響下にあった満州国が、両国の境目にあるノモンハン周辺の帰属を巡って対立を深めていたのである。5月、モンゴルの国境警備隊が、日本側が国境線と主張するハルハ川を渡って越境する事件が起こった。これに対して現地の日本軍は断固たる処置を取る事を決定し、航空隊による爆撃を加えた。これを受けてソ連軍は大挙出動し、日本軍も大部隊を送り込んで、事態は抜き差しならないものとなっていく。この紛争の表向きはモンゴルと満州国との対立であるが、実際にはソ連と日本の勢力争いであった。
この紛争では両国共、多数の戦闘車両を投入して、戦況の推移に大きな影響を与えた。ソ連軍の主力戦車はBT-5で、重量11・5t、長砲身の45mm砲を搭載、速度52km、装甲は主要部で13mm。準主力のBA-10装甲車は、重量5・1t、長砲身の45mm砲搭載、速度53km、装甲は8mm程度。ソ連軍の装甲車両は、速度、火力で日本戦車を上回っていたが、装甲は同水準で、燃えやすいという欠点があった。
↑BT-5快速戦車
日本軍の主力戦車は95式軽戦車で、重量7・4t、37mm砲を搭載、速度は40km、装甲は最厚部で13mm。準主力の89式中戦車は、重量11・8t、短砲身の57mm砲を搭載、速度は25km、最大装甲厚は17mm。日本軍の戦車は全般的な性能で劣っており、数でも大きな劣勢を強いられていた。だが、乗員は高い錬度を発揮して、ソ連戦車相手に互角以上の戦いを繰り広げた。また、主機がディーゼルのため、被弾しても燃えにくいという利点もあった。
↑95式軽戦車
日本の戦車隊は夜襲を決行して、ソ連軍に大きな損害を与えている事例もある。これは高い錬度と、阿吽の呼吸とも言える連携が無ければ、実現困難な作戦だった。以上の様に活躍した日本戦車隊であったが、高価な戦車を喪失する事を恐れた軍上層部によって、紛争半ばで戦線後方に下げられてしまう。一方、ソ連軍の戦車隊は、紛争を通じて最前線にあったため、大きな損失を出し続けた。
その損害のほとんどが、日本軍の94式37mm速射砲や、75mm野砲の直接射撃によるものだった。しかしながら、紛争終盤、その高速力と火力を生かして日本軍の戦線を突破、包囲するに当たっては、大きな役割を果たした。日本軍は戦車、装甲車合わせて100両余りを投入し、その内30両余を喪失した。ソ連軍はおおむね500両余の戦車、装甲車を前線に配備し続け、紛争を通じて350両余を喪失した。
この紛争では、空でも激しい戦いが繰り広げられた。日本軍の主力戦闘機は97式戦闘機で、最大速度は460km、主武装は7・7mm機銃2挺、機体重量は1100㎏で、非常に優れた格闘能力を有していた。しかし、防御力は無きに等しく、被弾には脆かった。ソ連の主力戦闘機はポリカルポフⅠ-16で、最大速度470km、主武装は7.62mm機銃4挺、または20mm機関砲2挺と7・62mm機銃2挺、機体重量は1266㎏であった。強力な武装と防御力を誇り、急降下性能も高かったが、格闘性能は低かった。紛争序盤は97式戦闘機に格闘戦を挑まれて非常な苦戦を強いられたが、後半に入り、その優れた武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法を取るようになると、逆に97式戦闘機が苦境に追い込まれた。
↑97式戦闘機
↑ポリカルポフⅠ-16
紛争初期6月中旬の段階で、日本軍は戦闘機、爆撃機合わせて126機、ソ連軍は戦闘機、爆撃機合わせて300機を配備しており、倍以上の戦力差があった。だが、日本軍航空隊の練度は高く、逆にソ連軍航空隊の錬度は低かったため、劣勢にも関わらず、前半は日本側が制空権を握った。しかし、後半に入るとソ連軍は機数を最大580機まで増強し、更にスペイン内戦や、中国戦線で経験を積んだ搭乗員を投入し始めると、200機未満でしかない日本側の損害は増大していき、やがて制空権を喪失するに至った。紛争を通じて日本軍は170機余の機体を喪失し、搭乗員110人余が死傷した。ソ連軍は250機余を喪失し、搭乗員170人余が戦死し、110人余が負傷した。
地上戦では、紛争全般を通して日本の歩兵は勇戦敢闘したが、高級参謀の杜撰な作戦と、最終段階でのソ連軍の大攻勢によって大きな損失を出した。一方のソ連兵も日本兵に劣らぬ勇戦振りを示したが、前半は日本軍に押され気味で、後半になって大量の重砲と戦車の援護を受けて勝利を掴んだ。日本軍の野砲は38式改75mm野砲、機動90式75mm野砲、38式12cm榴弾砲、96式15cm榴弾砲などであった。ソ連軍は107mmカノン砲、122mm榴弾砲、152mm榴弾砲が主力で、火力、射程、砲数、弾薬量とも日本軍の野砲に勝っていた。
この紛争で決定的な要素となったのが、両軍の補給力の差である。日本軍は、補給拠点である鉄道駅から前線までは200kmの距離があり、1,000両余の車両を駆使して補給、輸送に当たった。ソ連軍側では、補給拠点の鉄道駅から前線までの距離は650kmもあったが、これを3,300両余の車両や、馬匹まで用いて補給と輸送に当たった。日本側の方が補給線は短かく有利であったが、ソ連は大量の車両を投じて劣勢を補った。7月、日本軍は攻勢をかけ一時は優位に立ったものの、補給が続かず、戦線は膠着状態に陥った。その間、ソ連軍は大量の物資を集積し続け、8月になって大攻勢をかけて、日本軍を包囲撃滅するに至った。
紛争を通じての日本軍の人的損失は、戦死、行方不明者、合わせて9700人余りで、戦傷者8700人余、戦病者2300人余、総計21000人余りであった。ソ連軍の人的損失は、戦死、行方不明者合わせて8000人余、戦傷者15000人余、戦病者700人余、総計24000人余だった。
1939年9月16日、両軍の間で停戦協定が結ばれ、ソ連とモンゴルが主張する国境線で紛争は決着する。結果から見れば日本軍の敗北であるが、損失自体はソ連軍の方が大きく、双方痛み分けのような形であった。この紛争を通じて、日本軍はほぼ全ての面で劣勢であったが、兵士の高い錬度と旺盛な戦意によって、ソ連軍と互角に渡り合っていた。しかし、最終的には、ソ連軍の圧倒的な物量によって押し切られたのだった。この紛争から2年後、1941年、日本は、さらに圧倒的な物量を誇るアメリカとの戦争に望む事になる。