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大阪城 

大阪城は、大阪府大阪市中央区にある平山城である。現在は花見の名所となって、多くの人々の笑い声が響く平和な城となっている。だが、この城は日本有数の要地にあって、戦国時代には、幾度となく激しい攻防が繰り広げられた激戦の地でもあった。



大阪は、古代より商業、交通の一大要衝として栄えており、繁栄を約束された地であった。そして、戦国時代、この地に初めて本格的な城郭を築いたのが、浄土真宗(一向宗)の僧侶、本願寺蓮如である。明応5年(1496年)、蓮如は、天然の要害である上町台地に大伽藍を築いて、ここを教団の本拠と定めた。堀を巡らし、櫓(やぐら)の役割を果たす堂塔を100以上建設し、更にそれを多数の坊官が守りを固める、鉄壁の構えであった。これが、石山本願寺の始まりである。本願寺は大阪に万全たる地盤を築いたかに見えたが、戦国の風雲児、織田信長が畿内に突如として現れて、本願寺に圧迫を加えてきた。時の本願寺法主、顕如はこれに強い不満と不安を抱き、そして元亀元年(1570年)9月、敢然と戦いを挑んだ。



本願寺は、有力戦国大名並の戦力を有していおり、他の戦国大名とも結んで信長を散々に苦しめた。だが、信長も底力を発揮して各個撃破で、本願寺の力を徐々に削いでゆき、とうとう石山本願寺を包囲するに到った。信長は数万の大軍をもって、本願寺を封じ込めたが、それでも力攻めで落とすのは不可能であって、根気強く、数年がかりの兵糧攻めで追い詰めていった。天正8年(1580年)、10年に渡る攻防の末、本願寺はついに石山の地を明け渡した。信長は苦労して手に入れたこの地に、一大城郭を築く予定であった。それは安土城を越える奇抜かつ壮麗な城となり、織田一族の居城にして、日本統治の拠点ともなっていただろう。しかし、その雄大な構想は、本能寺の変を受けて信長と共に消え去った。天正11年(1583年)、信長亡き後、その勢力範囲と統一事業を受け継いだ羽柴秀吉は、名実共に天下人たらんとして、石山の地に一大城郭の建設を開始する。



秀吉は諸大名、武士、農民を大動員して、天正13年(1585年)春には、華麗な天守閣と御殿を完成させた。九州の戦国大名、大友宗麟が秀吉に支援を求めて訪ねて来た際、この大阪城を案内されている。御殿の壁は、狩野永徳の手によって金箔を押された絵画が描かれ、天守閣の蔵には、金銀、宝物が山の様に収められていた。宗麟は、大阪城の規模と絢爛豪華振りに驚愕し、三国無双の城であると感嘆した。このような大城郭は、圧倒的な富と権力を持つ者にしか実現し得ないものであった。それを諸大名に見せ付ける事によって、力の格差を思い知らせ、戦わずして従わせる。これこそ、秀吉の意図するところであった。



大阪城の拡張工事は以後も続けられ、文禄4年(1594年)からは町屋も囲む長大な惣構(そうがまえ)の築造が始まり、秀吉死去の年、慶長3年(1598年)からは4年の歳月をかけて三の丸が築造され、豊臣家の繁栄と守護の象徴たる、大阪城は完成を見た。だが、秀吉の死と同時に、豊臣家の前途に暗雲が立ちこみ始める。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、天下の権の大部分は徳川家の手に移り、豊臣家の勢力は大きく後退した。一般的には、この時点で豊臣家は65万石の一大名に転落したと思われがちであるが、これは直轄地であって、豊臣家臣の知行地は西国各地に散らばっており、これらを合わせれば、実際の石高はもっと上であった。それに豊臣家は、高い家格、天下の巨城たる大阪城、莫大な資金を有しており、なにより、天下の台所とも呼ばれる物流と商業の一大拠点、大阪の地を押させているのが強みであった。 徳川家にとって、豊臣家は今だ脅威であった



豊臣家は一方の旗頭になるだけの潜在力をまだ秘めており、これに徳川家に不満を持つ外様大名が集まったなら、関ヶ原の様な大戦が再び起こらないとも限らなかった。それこそ、家康の最も危惧するところであったろう。その危惧を断つには家康の目が黒い内に、豊臣家を大阪から転封させるか、秀頼を江戸に置いて統制下に置くか、根絶やしにする他、無かった。しかし、名分も無しに要求を突きつける事は出来ず、家康はじっとその機会を窺った。そして、慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が起こると、家康はこれを絶好の機会と捉えて、豊臣家に要求を突きつけた。すなわち、大阪城を立ち退いて転封するか、秀頼か淀殿のどちらかが江戸に住まうよう求めたのだった。勿論、豊臣秀頼とその母、淀殿はこの申し出を峻拒する。豊臣家は、恩顧の大名ならば、馳せ参じてくれると見込んでいたようだ。しかし、徳川家の力、特に家康の力を知る諸大名は、全てがその命に従った。こうして、戦国最後の争乱、大阪の陣が始まった。



慶長19年(1614年)11月、徳川方20万人余が大阪に押し寄せ、城に篭る豊臣方10万人余を取り囲んだ。過去、家康は幾度となくこの大阪城に滞在しており、その堅牢さは分かりきっていた。そこで、無理攻めはせず、大音響が轟く大筒を日々、撃ち放ち、夜中に諸軍に大声で喊声を上げさせるなど、心理戦で豊臣方を追い詰めていった。この冬の陣は、全体的には平易に推移している様に見えるが、局地的には幾つか合戦が行われており、日々の鉄砲の撃ち合いも激しいものがあった。同年12月、両軍共、余りの大軍であるので、兵糧の欠乏に苦しみ始め、和平の機運が高まってくる。そして、豊臣方が大阪城の主要部を破却する事を条件に、徳川方は、秀頼、淀殿の関東下向は求めず、その本領を安堵する事として、和平は成った。この時の和議で大阪城は、二の丸、三の丸、惣構が破却され、外掘も埋められた。



だが、これが危うい和平である事は、誰の目にも明らかであった。事実、家康は和平締結後、すぐに大筒の製造を命じている。そして、豊臣方の浪人が不穏な動きをしているとの風聞が伝わってくると、家康はすぐさま反応し、浪人を全て放逐するか、転封するかのどちらかを選択せねば、豊臣家を追討すると最後通牒した。だが、どちらも豊臣家にとっては、受け入れ難い条件であった。例え、これを受け入れたとしても、約束が忠実に履行されるとは限らず、後に難癖を付けられて取り潰しに合えば、不名誉極まりない。そう思い定めた秀頼は、戦って潔い最期を迎える方が良しとした。そして、両家は最後の対決の時を迎える。



慶長20年(1615年)5月、徳川方15万5千人余が大阪の地に集結し、これを豊臣方5万5千人余が迎え撃つ。両軍共、先年よりは兵数は減少しているが、戦意は遥かに上回っていた。徳川家は最終勝利者として戦国の世を終わらせるべく、豊臣家はそれに最後の一矢を報い、あわよくば過去の栄光を取り戻すべく、戦場へと赴いた。だが、大阪城はすでに防御機能を失っており、豊臣方は劣勢な兵力を率いて、一か八かの決戦を挑む以外に手は無かった。



5月7日、豊臣方は、真田信繁(幸村)、毛利勝永らが突進を開始し、凄まじい気迫と勢いで徳川方の大軍を突き破っていった。そして、家康本陣まで乱入するも、あと一押しの力が足らず、力尽きたのだった。この後、豊臣軍は崩壊し、徳川軍10数万人が一斉に大阪城に乱入した。これを受けて万を越える避難民、武士らが落人狩りにあって命を落とすか、川を渡りきれずに溺死していった。この未曾有の惨劇の様子は、後の「大坂夏の陣図屏風」に克明に写し出されている。大阪城とその周辺は大炎上し、京都からも見えるほど、夜空を赤く染め上げた。翌5月8日、秀頼と淀殿は山里曲輪(やまざとくるわ)の一角に身を潜めていたが、最後の助命嘆願も無視され、自刃を余儀なくされた。ここに豊臣家は、大阪城諸共、滅び去ったのだった。



戦後、大阪は徳川家の直轄領となり、元和20年(1620年)より城の再建が始められる。そして、寛永6年(1629年)、新たな大阪城の完成を見る。徳川家による再建は、豊臣家の痕跡を消すが如く、徹底的に改築されたものであった。秀吉が築いた石垣は埋め立てられ、天守、堀、石垣の位置や形も大きく変更された。徳川時代の大阪城は、外郭線など城域は豊臣時代より縮小されたが、天守閣と石垣はより壮大なものとなった。だが、寛文5年(1665年)、落雷によって天守閣が焼失してしまうと、以後、再建される事は無かった。城の象徴たる天守閣は失ったものの、大阪城の戦略的な価値はいささかも衰えず、徳川幕府の西の要として重視された。



慶応3年(1868年)、明治維新が起こると、大阪城もその動乱の渦中に落ち、歴史ある建造物の多くが焼失してしまう。明治の世を迎えると、大阪城は陸軍の管轄地となり、鎮守府が置かれた。昭和6年(1931年)、大阪城の天守閣は、鉄筋コンクリート製で再建される。昭和20年(1945年)3月、大阪城は陸軍の拠点となっていた事から、米軍の爆撃目標となり、大空襲を受ける。この空襲によって、残されていた幾つかの歴史建造物が焼失してしまうが、天守閣自体は無事であった。戦後、大阪城は一時、米軍の駐屯地となったが、昭和23年(1948年)に返還され、大阪城公園として整備された。天守閣はコンクリート製とは言え、昭和初期の近代建造物としての評価は高く、国の登録有形文化財に指定されて現在に至っている。激動の世に翻弄されつつ、大阪城は今もそこに在り続ける。





大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑外堀



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑大手門前


大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑千貫櫓


大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑石垣と桜



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑桜門枡形の巨石


この巨石は城内第一の大きさで、蛸石(たこいし)と呼ばれています。
岡山県出土の花崗岩で、寛永元年(1624年)に備前岡山藩が運んで来たものです。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣


現代、天守閣は近代的なコンクリート建造物となって、様々な資料が収められた博物館となっています。近隣には大阪城ホールもあって、コンサートがある日には多くの人で賑わっています。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣から南を望む。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣から西の丸を望む。



大阪城 西の丸
大阪城 西の丸 posted by (C)重家

↑西の丸


平和な光景が広がっています。桜の季節の大阪城は、城内各所に屋台が建ち並んで人で溢れかえります。特に大阪城西の丸の広場は、多くの花見客で賑わいます。
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カルタゴの滅亡 3

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
紀元前148年、長期の滞陣でローマ軍の士気は下がり、規律も乱れ始めていた。ローマ軍の司令官は、兵士達に再びやる気を引き起こさせようとして、カルタゴ側の小都市を幾つか攻撃して陥落せしめる。そこでのローマ軍の略奪は、容赦の無いものであった。だが、こういった戦果も、膠着した戦局を打開するには至らなかった。本国ローマでは事態を憂慮する声が上がって、増援部隊の派遣と、新任の司令官スキピオ・アエミリアヌスを送り込む事を決定する。このアエミリアヌスは、かのローマの英雄、スキピオ・アフリカヌスの養孫にあたる人物で、その再来を思わせる軍才を示していた。ローマ上層部の期待にたがわず、アエミリアヌスは現地に着任するや否な、弛緩した軍律を引き締め直し、激励の演説をして、兵士達の士気をたちまち取り戻していった。


カルタゴ側では、ローマ軍が強化された事を知って危機感を覚え、内陸で勇戦していたハズドルバルを召集して、市の総司令官に任じた。アエミリアヌスも動き出し、まずカルタゴ市と内陸との補給路を断ち切らんとして、三重城壁の正面に封鎖砦を築き始めた。カルタゴ側も必死に妨害したが、ローマ軍は卓越した土木技術力を発揮して、僅か30日で長大な城砦線を築き上げたのだった。その城砦線には各所に見張り塔が建てられ、その中の一つは三重城壁よりも高い四階建ての木塔で、市街を一望する事も出来た。これにカルタゴ軍民が動揺したため、ハズドルバルは気を引き締め直そうとして、捕虜としていたローマ兵に拷問を加えた上、城壁から次々に投げ落としていった。この様な蛮行はカルタゴ市民も望んでいなかったが、ハズドルバルは反対者も殺害して強行した。目の前で同胞達が無惨に殺されていくのを見てローマ軍は激怒し、来たるべき日の復仇を誓った。


アエミリアヌスは城砦線を築いて内陸からの補給路は遮断したので、今度は海からの補給路を断たんとして、主力を率いてカルタゴの東南、テニアの半島に向かった。第二次ポエニ戦争の敗北を受けて、カルタゴには海軍は存在しなかったが、商船隊は存在していた。これらの勇敢な商船隊は、カルタゴ港を厳重に封鎖するローマ艦隊の網の目を掻い潜っては、市内に補給物資を届けていた。アエミリアヌスはこれを断ち切らんとして、今度はカルタゴ港の正面に長大な封鎖堤を築き始めたのである。カルタゴ人は最初はいぶかしげに見ていたが、工事が進むにつれ、その意図を悟って驚愕した。だが、カルタゴ人は諦めず、ならば別に船の通り道を作らんとして、陸地を開削し始めたのである。そして、開削工事と並行して、艦隊の建造も開始した。


ローマ軍は大量の石材を投じて幅20メートル、全長720メートルもの封鎖堤を築き上げた。だが、その努力はすぐに徒労に終わる。カルタゴ側も市民総出で地を掘り岩を割って、新たに水路を開削したからである。どちらも空前の土木作業であった。それと、カルタゴは限られた資材を投じて、50隻の艦隊も作り上げていた。この艦隊は商船の船長達が中心となっており、しばらく港内で訓練を積んだ後、新たな水路から外海に打って出た。海上にはローマ艦隊数百隻が待ち構えていたが、カルタゴ艦隊50隻はそれに果敢に戦いを挑んだ。


劣勢ながらカルタゴ艦隊は勇戦し、容易に勝敗は決しなかった。だが、両軍の戦力差は余りにも大きく、夕刻を迎えて、カルタゴ艦隊は撤退に取り掛かったが、その後をローマ艦隊が追った。最早、これ以上は戦えないのでカルタゴ艦隊は港に避難しようとしたが、新たな水路は狭く、少数ずつしか入れなかった。そこをローマ艦隊に狙われ、カルタゴ艦隊の大部分が失われてしまう。最終的に敗れはしたものの、このカルタゴ艦隊50隻の勇戦は、後々まで人々の語り草となった。


カルタゴの港の近くには、チョマと呼ばれる城壁がある。ここは港を見下ろす位置にあって、市街防衛の重要拠点であった。アエミリアヌスもここが要点であると見なして、ローマ軍が築いた封鎖堤を通って、チョマの前面に大兵力と、大型の破城槌、攻城塔を投入した。カルタゴ側も、ここが破られれば致命傷となるのが分かっていたので、軍民、死力を尽くして防戦に努めた。日中、激しい攻防戦が展開されたが、とうとうローマ軍は城壁の一部を破壊せしめる事に成功した。


だが、夜間になると、決死の覚悟のカルタゴ人の一団が海を泳いで忍び寄り、攻城兵器に火をかけて回った。ローマ軍は驚きながらも反撃を加え、その大半を死に至らしめたが、カルタゴ人の決死隊は任務を成功させていた。それならばと、アエミリアヌスは、今度は小型の攻城兵器を数多く持ち込んだ。さらに火を用いた飛び道具を発案し、それを城壁に撃ち込んではカルタゴ兵を追い散らし、とうとうチョマの城壁を乗っ取る事に成功したのだった。
ローマ軍は占領したチョマの城壁に投石器を設置し、カルタゴ市に補給物資を運び入れんとする船に攻撃を加えた。これでカルタゴは、海からの補給路も断たれてしまう。だが、内陸にはまだ、ネフェリスと云う拠点が保持されており、そこからローマ軍の城砦線を避けつつ、チュニス湖を通じて、僅かながらも市内に補給物資が届けられていた。この細々とした補給線こそ、カルタゴ人最後の希望だった。アエミリアヌスの次の目標は当然、ネフェリスとなる。


紀元前147年夏、ローマ軍主力は内陸に進撃し、ネフェリスを激しく攻め立てた。ローマ軍は駐留カルタゴ軍を蹴散らし、軍民合わせて7万人余を殺害せしめたと云う。ネフェリスの陥落でカルタゴは全ての補給路を失い、その滅亡は時間の問題となった。以降、カルタゴ市は深刻な飢餓に陥り、多くの人々が餓死していった。アエミリアヌスは、カルタゴ軍民が十分に弱ったのを見越して、翌年春に総攻撃を実施する事を決した。破滅が目前に迫ってきた事から、カルタゴ側はアエミリアヌスに降伏交渉を持ちかけた。そして、代表としてハズドルバルが会談に赴いたが、アエミリアヌスは都市の破壊を譲らず、会談は物別れに終わる。この時、アエミリアヌスはハズドルバルに対し、その一命と家族、親しい友人の命は助けるから投降するよう呼び掛けた。だが、ハズドルバルはこの申し出を峻拒し、憤激しながら市街に戻っていった。ハズドルバルは傲岸不遜な人物であるが、非常時に国を売るような真似はしなかった。


紀元前146年、アエミリアヌスは最終攻撃に当たって儀式を執り行い、カルタゴ人には呪いを、ローマ人には神の加護があるようにと祈りを捧げた。カルタゴ市にはビュルサと呼ばれる丘があり、この上に壮麗な神殿が建てられていた。これこそカルタゴの象徴であり、ローマ軍の最終目標でもあった。ローマ軍はチョマに集結すると、そこから市街目指して一斉に突撃を開始した。ローマ軍の作戦目標は、まずは港の確保、続いて中央広場、最後にビュルサの神殿の順であった。ローマ軍が港に雪崩れ込んで来ると、カルタゴ側は守り難い地勢にある港を放棄し、倉庫群に火を放ちながら退却していった。ローマ軍の進撃が余りにも迅速であったため、カルタゴ側の応戦は遅れた。しかしながら、ローマ軍が市街中心部へ進撃するに伴って、市民は必死の抵抗を見せるようになる。


ローマ軍は市民の激しい抵抗を排除しつつ、中央広場まで占領した。ここから坂を駆け上がれば、神殿はすぐそこであった。だが、翌朝、ローマ軍の兵士達は占領地での略奪に狂奔し、この日は戦いにならなかった。この間にカルタゴ側は各所から軍民を集結させ、防衛態勢を整える事に成功する。攻囲戦が始まって以来、戦闘と飢餓で市民の半数の命が失われていたが、それでも神殿のあるビュルサ地区にはまだ、10万人余の市民が立て篭もっていた。秩序を回復したローマ軍はビュルサの神殿目指して、再び進軍を開始する。だが、神殿に至る坂道の両脇には、高層の石造建築物が数多く建ち並んでいて、それが砦の役割を果たしており、ビュルサの丘自体も天然の要害となっていた。そこにカルタゴの軍民が立て篭もって、ローマ軍に投石、投槍の雨を浴びせかける。この日を境に、市街戦は本格的かつ、凄惨なものになっていった。


ローマ軍は建物の屋根から屋根に板を架けて乗り移り、市民を斬り伏せ、投げ落としながら、一軒一軒制圧していった。多くの人間が投げ落とされて、路上で戦っている者にも当たるほどであった。路上、建物内、屋根、立て架けた板など、あらゆる場所で戦闘が繰り広げられた。路上を埋め尽くした死体は、行軍に支障をきたすほどであった。そこで、ローマ軍は死体除去の分隊を編成して、瀕死の者であってもかまわず溝に投げ捨てていった。痩せ衰えているとはいえ、カルタゴ市民の抵抗は激烈なものがあった。彼らの必死の形相と雄叫びを受けて、ともすればローマ軍の方が逃げ腰となった。


ローマ軍は幾度となく攻撃を立て直し、アエミリアヌスも自ら陣頭指揮を執って兵士達を推し進めていった。カルタゴ市民は膨大な死者を出して追い込まれていったが、ローマ軍もおびただしい死傷者を出して消耗しており、そのため、市街戦には不向きな騎馬隊まで戦場に投入するに到った。熾烈な市街戦が続く中、ローマ軍の分別は失われてゆき、老若男女問わずに斬り捨てていった。それでも市民の抵抗は収まらなかったので、ついにアエミリアヌスは市街全域に火を放つよう命じた。火に巻かれて多くの市民が焼死していき、建物から逃げ出して来る者はローマ軍が斬り捨てていった。こういった合間にも、各所で略奪が繰り広げられた。


ローマ軍が市街に突入を開始してから七日後、生き残った5万人の市民は抵抗を諦め、降伏を申し出た。しかし、カルタゴの主将ハズドルバルと降伏を良しとしない市民は、神殿に立て篭もって尚も抵抗する。壮麗な神殿を舞台に、最後の戦いが繰り広げられた。やがて神殿は炎上し、悲観した多くのカルタゴ人がそこに身を投じていった。ハズドルバルはこの最終局面になって、家族を伴って投降した。この日、カルタゴは一面燃え盛り、夜空と海を紅に染めた。そして、700年余の歴史に幕を閉じたのだった。


戦後、残っていた建物は悉く破壊され、土地は平らにならされた。そして、永遠の不毛を願って、土地一面に塩が撒かれた。捕虜となった市民5万人は奴隷として、何処かへ売り飛ばされていった。飢餓と戦乱をようやく生き延びた彼らに待っていたのは、過酷な奴隷生活であった。一方、ハズドルバルはローマ兵捕虜を惨殺した前歴があったにも関わらず、ローマで余生を送る事を許された。全てを終えた後、アエミリアヌスは廃墟と化した市街を何時までも見つめて、立ち尽くしていた。そして、「いずれ、我がローマも同じ運命を辿るであろう」と慨嘆し、涙したと云う。ローマ人によって呪われた地とされたカルタゴであるが、100年後、皮肉にも同じローマ人の手によって復興される事になる。以降、カルタゴはアフリカ有数の大都市へと発展してゆき、ローマにとって欠かせぬ都市となる。それゆえ、今に残るカルタゴの遺跡は、ほとんどがローマ時代のものである。


1943年、第二次大戦時、アメリカ軍の猛将ジョージ・パットンはドイツ軍と戦うため、北アフリカに派遣された。作戦終了後、パットンは部下を連れてカルタゴの遺跡に立ち、感慨深げに、「俺はかつて、カルタゴ人としてここで戦ったのだ」と語った。そして、初めて見る遺跡や古戦場を、まるで見てきた事があるように解説して回ったと云う。パットンは自らをハンニバルの生まれ変わりだと語っていたそうだが、実際にはハズドルバルの生まれ変わりであったのかもしれない。現在、ローマ時代の遺跡の下には、カルタゴ滅亡時の焼土層が見て取れる。カルタゴの遺跡はその下にあって、深い歴史と悲しみを湛えて眠りについている。



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↑円形の港がカルタゴの軍港で、その先の長方形が商業港


カルタゴの滅亡 2

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
ローマは、カルタゴとの死闘を経て強大化し、地中海の覇者となりつつあった。しかし、この頃はまだ、支配は完全ではなく、ギリシャ、スペインなど各地で反ローマの火の手が上がっていた。中でも、カルタゴから引き継いだスペインでは反乱が続発し、ローマはこの地に絶えず軍を貼り付けねばならなかった。ローマ軍は地中海最強であり、正規の軍相手には敵無しであったが、地の利を生かしてゲリラ戦を展開するスペイン原住民には難渋した。この反乱は数十年経っても収まる気配はなく、ローマは果てしない消耗を強いられる事になる。スペインの完全な平定を見るには、100年以上後のアウグストゥス帝の時代まで待たねばならない。


一方、カルタゴは国土の開発に務め、経済は持ち直しつつあった。しかし、深刻な悩みの種もあった。それは隣国のヌミディア王、マシニッサによるカルタゴ領への侵攻である。カルタゴとヌミディアは共にローマの同盟国であり、その許可無くしての交戦は禁じられていた。だが、マシニッサはローマが重大な対外問題を抱える度、その間隙を突いてカルタゴ領を蚕食していった。カルタゴは、マシニッサの不法を再三に渡ってローマに訴えたものの、ローマはザマの会戦以来、ヌミディアをより上位の同盟関係と見なしていたので、ほとんど何の反応も示さなかった。その後もマシニッサによる侵略は続き、次々に領土を奪われていったカルタゴでは、ヌミディアに対する怒りとローマに対する不信を増幅させていった。


紀元前160年頃から、カルタゴは軍事力をもってヌミディアに応戦するようになった。だが、それでもヌミディアの侵略は収まらず、ついにはカルタゴ市近郊まで侵入してくる事態となった。これにはさすがにカルタゴも憤慨して、ローマに強く訴えかけた。紀元前153年、これを受けてローマも調査団を送る事を決定し、政界の重鎮であるカトーと云う人物を送り込んできた。このカトーは82歳の高齢で、ハンニバルとの戦争も経験している人物であった。


カトーはカルタゴ市に降り立つと、市街を見学して回った。紛争を抱えているとは言え、カルタゴ市は豊かで活気に満ち溢れており、それを見たカトーは激しい衝撃を覚える。一方のローマと言えば、イタリア半島が第二次ポエニ戦争の主戦場であった事から、その傷跡が今だ各所に残っており、しかもスペイン戦役で消耗を続けているので、国内には厭戦気分が漂っていた。カトーはこの両国の落差に驚き、カルタゴが再び力を付けてローマに刃向かってくるのではないかと思い定めた。そして、この時にカルタゴ滅ぼすべしとの決意を固める。こうして、紛争調停も不調に終わった。


このような問題はあったが、ザマの会戦から半世紀の間、ローマとカルタゴは平和裏に共存していた。そして、経済復興を遂げたカルタゴは、賠償金をローマに完済しつつあった。しかし、カトーは帰国後、政界で演説する度、「カルタゴ滅ぼすべし!」と呼び掛けるようになる。当時のカルタゴは確かに豊かではあったが、総合的に見れば軍事力、経済力とも到底、ローマの敵では無かった。にも関わらず、カトーの主張はローマ国内に徐々に浸透していく。過去、ローマは二度に渡ってカルタゴと死闘を演じており、ローマ人の潜在意識には憎しみと恐怖が残っていた。それに当時のローマは、スペインとギリシャの双方で戦役を重ねて苦闘しており、他民族への寛容の精神が失われつつあった。そうした空気も手伝って、カトーのカルタゴ強硬論は支持を受けてくる。


紀元前151年、カルタゴは、ヌミディア王マシニッサの挑発に堪えかね、庸兵を募ってとうとう大規模な軍事行動に打って出た。マシニッサがカルタゴの友好都市を攻撃してきたのを切っ掛けとして、カルタゴ軍は大挙して出撃し、ヌミディア軍を退去せしめたのである。このカルタゴ軍を率いたのは、ハズドルバルと云う将軍であった。ハズドルバルは勇猛果敢な軍人であったが、傲慢で遠謀深慮には欠けていた。そして、後に重大な問題を引き起こすとも知らず、ハズドルバル率いるカルタゴ軍は、そのまま勢いに乗ってヌミディア領へと侵攻してしまう。


しかし、ヌミディア領深く侵攻したカルタゴ軍は、マシニッサの狡猾な策略を受けて無残な敗北を喫してしまう。このマシニッサは半世紀前のザマの戦いにも参加しており、88歳という高齢ながら、今だ、馬に跨って陣頭指揮を執っていた。余談であるが、マシニッサは41人の子供をもうけて、その末子は87歳の時に生まれたとされている。勇猛かつ残忍で知られるヌミディア騎兵を率いるに相応しい、狡猾さと豪胆さを兼ね備えた人物だった。このマシニッサの言い分としては、「カルタゴ人はよそ者であり、北アフリカを侵略して領土を広げていったのだから、それを取り返して何が悪いのだ」と云うものであった。これには一面の真実も含まれているが、この主張が通れば、カルタゴ人は全ての土地を失ってしまう事になる。


マシニッサに敗れたカルタゴは、軍の主力を失って大きな試練に立たされる。だが、カルタゴに引導を渡したのは、ヌミディアではなくローマであった。カルタゴが、ローマに無断でヌミディア領に侵攻したのは条約違反であるとして、軍団の派遣を通告してきたのである。カルタゴは確かに過失を犯したが、これまでの経緯を見れば、ヌミディア側に非があるのは明白であった。にも関わらずローマは断固として、カルタゴ側の言い分を聞き入れようとはしなかった。ローマはこれまで、介入する機会をじっと窺っていたのであろう。その絶好の機会を逃すはずは無かった。ヌミディアは、だしに使われた様なものであった。そして、これを受けて、8万人ものローマ人が来たるべき遠征に志願した。何故、志願者が殺到したのかと言えば、未開のスペインとは違い、富裕な文化都市に対する遠征とあって、多くの人間がそこに利得を見出していたからだった。


紀元前149年、2人の司令官に率いられたローマ軍8万人余が、カルタゴ市近郊に上陸する。カルタゴは過去、二度に渡って正面からローマと戦ってきたが、今回は、そのような軍事力は存在しなかった。そのため、カルタゴ側は何としても戦争を回避せんとして、300人の人質を提供し、全面降伏を申し出た。これに対してローマは、まず全ての武器を明け渡すよう命じた。カルタゴはこれに応じて、2千の弩、投石器に加えて、20万人分の武器、甲冑を明け渡す。


しかし、ローマは武器を押収した上で、カルタゴ人はその首都を自ら破壊して、海岸から15キロ以上離れた内陸に移り住むよう命じたのだった。この通告は、これまで海洋交易で生きてきたカルタゴ人にとって、死を告げられたのと同様に感じた。生業を失い、住み慣れた土地も放棄して、これからどうやって生きていけというのか!これまでの経緯と、今回のローマの騙し討ちのような仕打ちに、ついにカルタゴ人は激高した。そして、全国民が一致して、最後の戦いを挑む事を決した。 カルタゴとローマの最終戦、第三次ポエニ戦争の始まりである。


まず、カルタゴ人が取り掛かったのは、武器の製造である。都市にあった金属という金属が供出され、それらを鋳潰しては剣、盾、槍、投石器、弩(ど)が作られていった。女は、その髪を弩の材料に提供した。老若男女全てが昼夜を問わず、熱狂的に作業に取り組んだ結果、ローマ軍の攻勢が始まる前にある程度の武器を揃える事が出来た。カルタゴ市には奴隷も含めて20万人余が立て篭もり、その内、戦闘員として武器を取って戦ったのは5万人余であった。その他、先にマシニッサに敗れたカルタゴの将軍、ハズドルバルは残兵2万人余を率いて内陸に拠点を設け、市内に補給物資を運ぶ役割を担った。一方、このカルタゴを攻略せんとするローマ軍は、歩兵8万人余に騎兵4千人余、それに加えてローマ海軍、数百隻がカルタゴ市の封鎖に取り掛かった。


カルタゴ市は、北、東、南の三方を海によって守られている天然の要害であった。残る西は内陸と通じていたが、そこには三重の巨大城壁が築かれていた。海に面した三方も内陸ほどではないが、城壁で囲まれていた。一方、ローマ軍では、いかにカルタゴが強固な城壁を誇っていようとも、全ての武器は取り上げてあるので、大した抵抗は出来まいと高を括っていた。そして、まず司令官の1人が4万人余を率いて、三重城壁に対する正面強襲を開始する。だが、雨あられの如く投石と弩を浴びせられて、死傷者が続出し、城壁に取り付く事さえ困難であった。次にもう1人の司令官が、カルタゴ市の東南にあるテニアと呼ばれる細く狭い半島に上陸して、そこから市街中心部への進入を図ったが、これもカルタゴ市民の果敢な反撃を受けて退けられた。 こうしてローマ軍の第一次攻撃は、完全な失敗に終わった。


案に相違して、カルタゴ市民が壮烈な反撃を浴びせてきたので、ローマ軍は戦略を練り直す必要に迫られた。短期での攻略を諦め、十分な下準備をした上で改めて攻勢とかける事とし、まず攻城兵器の製造に取り掛かった。そして、ローマ軍は巨大な破城槌を2台組み立てると、それをテニアの半島に持ち込んだ。この破城槌は、操作と護衛も含めて6千人もの人員で運用したと云う。その甲斐あって巨大破城槌は威力を発揮し、城壁を破壊し始める。だが、カルタゴ側は夜間、市民総出で城壁を修復すると共に、闇に紛れて奇襲を敢行し、破城槌を破壊せしめたのだった。さらに火船を流して、ローマ軍の軍船を焼き払う事にも成功する。この一連の戦闘で士気が上がったカルタゴ軍は時折、打って出てローマ軍を襲撃するようになった。


市内のカルタゴ市民の敢闘に呼応するように、内陸のハズドルバル軍もローマ軍の後方を撹乱(かくらん)して回った。戦いが長期戦の様相を呈してきたため、ローマ軍はまず、補給と撹乱の任務を担っているハズドルバル軍を叩かんとして、主力を差し向けた。これに対して、数で大きく劣るハズドルバル軍は決戦を避け、強力な騎兵と地の利を生かして遊撃戦を展開する。ハズドルバル軍は神出鬼没で、ローマ軍を散々に翻弄した。こうしたカルタゴ側の思わぬ健闘を受けて、戦線は完全に膠着状態に陥った。この紀元前149年、ローマのカトーは86歳で、ヌミディアのマシニッサは90歳で、共にカルタゴの滅亡を望みながらも、それを見届ける事なく死んだ。


カルタゴ
↑カルタゴ市の概要(海外のウィキペディアより)



カルタゴの滅亡 終に続く・・・

カルタゴの滅亡 1

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一

古代地中海世界、北アフリカの大地に燦然と輝く、一大商業都市があった。その名をカルタゴと云う。紀元前9世紀頃、カルタゴは、東地中海(現在のレバノン周辺)に勢力を張っていたフェニキア人の手によって建設された。当初は小さな植民都市として始まったが、カルタゴのあるチュニジアは地味豊かな大地で、しかも地中海の東西交易の中継地である事も手伝って大いに繁栄し、やがては地中海随一の貿易都市にまで発展する。だが、母国フェニキアはアッシリアやバビロニアといった周辺勢力の伸張によって衰亡していったため、カルタゴは一国家として自立せねばならなくなった。


以降、カルタゴは、地中海の雄、ギリシャと激しく競り合いながら強力な海軍を築き上げ、紀元前5世紀には西地中海一帯に領域を持つ、一大海洋国家に成長する。後にカルタゴの宿敵となるローマであるが、この頃はまだイタリアに数ある都市国家の一つに過ぎず、カルタゴを上位と認める条約を結んでいた。だが、紀元前3世紀になるとローマはイタリア半島全域に支配力を及ぼす、一大国家に成長していた。自然、両大国はお互いを意識して、緊張が高まってゆく。そして、イタリア半島のローマと北アフリカのカルタゴの中間に位置し、お互いの勢力が交錯するシチリア島にて、ついに両者は激突した。時に紀元前264年、第一次ポエニ戦争の始まりである。


シチリアは地中海のほぼ中心に位置する要衝で、この島を制すると、周辺の制海権はおろか、地中海全体に影響を及ぼす事も可能であった。そのため、両国とも総力を挙げて、島の争奪戦を繰り広げた。カルタゴはその経済力をもって各地から庸兵を招集してシチリアに送り込み、ローマは市民から徴兵した国民軍を送り込んでいった。当初、海軍戦力はカルタゴ側の圧倒的優勢であったが、ローマは1から海軍を育て上げ、それに新戦術を加えて、カルタゴ海軍と互角以上の戦いをするまでになった。勢いに乗ったローマ海軍は度々勝利を収め、制海権を握るかに見えたが、嵐を受けて数万人もの人員が海没する大被害を二度も受けてしまい、以後は振るわなくなった。


それでも、ローマ軍は10数年の歳月をかけて、一歩一歩、シチリア島の地歩を固めていった。長引く戦争で、両国とも国力と人員を大きく消耗し、国民に重税を課す事でようやく戦線を維持していた。両国とも疲弊しきっていたが、より苦境にあったのは、シチリアから追い落とされつつあったカルタゴであった。ここでカルタゴは、ハミルカルと云う新進気鋭の将軍をシチリアに送り込んで、事態の打開を図った。このハミルカルこそ、かの有名なハンニバルの父である。ハミルカルは天才的な指揮官で、寡兵をもって要害に立て篭もると、以後、数年に渡って優勢なローマ軍相手に互角に渡り合った。ローマ軍は、地上ではどうしてもハミルカルを撃ち破る事が出来ず、この戦争に勝利するにはハミルカルへの補給を断つしかないと察した。そして、最後の努力を傾けて200隻の艦隊を建造すると、それを、ハミルカルに補給物資を運び入れようとしていたカルタゴ艦隊にぶつけた。この運命の海戦でカルタゴ海軍は壊滅し、制海権を完全に喪失してしまう。


こうして補給路を断たれ、敵中に孤立する形となったハミルカルは、ローマと不利な和議を結んでシチリアを去らざるを得なかった。こうして第一次ポエニ戦争は、ローマの勝利に終わった。時に紀元前241年、24年に渡る長い消耗戦であった。この戦争を契機にローマは一大海軍を築き上げ、地中海の制海権を握るに至った。しかし、その代償も大きく、戦争によってローマ市民の人口は17%も減少した。前251年の統計では、成人市民の数は29万7,797人であったのに、前246年の統計では25万1,211人に減少していた。一方、カルタゴはその主兵が傭兵であったため、人的被害は少なかったが、国富は底を突き、海軍は弱体化し、要衝シチリア島も失った。その上、10年払いで3200タレントの賠償金を課せられた。


戦後、カルタゴは深刻な財政難に陥った。そして、雇っていた傭兵の賃金を出し渋ったため、紀元前240年、4万人を越える傭兵が大反乱を起こした。この反乱には、第一次ポエニ戦争中、重税が課せられていた北アフリカの諸都市も加担し、一時は10万人の規模にまで膨れ上がる。更にカルタゴの勢力範囲であったサルデーニャ島(イタリア半島南西にある大きな島)でも反乱が勃発し、その支配から離れた。存亡の危機に立ったカルタゴは急遽、市民を動員し、新たに庸兵も雇い入れた。そして、再びハミルカルを指揮官に任命して、カルタゴの命運を託した。反乱軍側の方が規模は大きかったが、ハミルカルは卓越した軍才を発揮して、反乱軍を追い詰めていった。そして、最終的には4万人以上の庸兵全てが殺される形で、本土の反乱はようやく終息した。時に紀元前238年、3年半に渡る戦いであった。戦後、カルタゴは蜂起に加担した都市や部族に報復を加え、女子供を含む多くの人間を処刑していった。


紀元前237年、カルタゴは本土の反乱は平定したので、今度はサルデーニャ島の反乱鎮圧に取り掛かろうとした。しかし、これに先んじてローマが兵を派遣し、サルデーニャ島とその北にあるコルシカ島まで占領してしまう。ローマは、カルタゴの弱体化に付け込んで、両島を不法占領したのだった。カルタゴはこれに激しく抗議して艦隊の準備に取り掛かると、ローマは、カルタゴの出兵準備はローマに対する侵攻準備であるとして、宣戦を布告してきた。庸兵の反乱を受けてまったく余力が無かったカルタゴは、何としても戦争を回避すべく1200タレントの追加賠償金を支払った上、両島も放棄せざるを得なかった。このサルデーニャ島は重要な交易拠点にして、食料供給地でもあったのでカルタゴの受けた打撃は大きかった。そして、ローマに対する深い遺恨を覚えた。


第一次ポエニ戦争、庸兵の反乱、ローマによるサルデーニャ島、コルシカ島の占領を受けて、地中海におけるカルタゴの勢力範囲と国力は大きく減退した。だが、カルタゴにはまだ、スペインという植民地が残されていた。このスペインは豊富な銀を産出して、カルタゴの苦しい財政を助けていた。しかし、このスペイン植民地は、南部の沿岸部を占有するに留まっていて、内陸部はほとんど手付かずの状態にあった。このまま手隙の状態が続くと、今度はローマがスペインを狙う可能性があった。この時、カルタゴの指導者となっていたハミルカルはスペインの確保を確固たるものとすべく、遠征を主張する。


おそらく、ハミルカルはこう考えていた。ローマが介入する前にスペイン全土を掌握し、その地からもたらされる富をもって、カルタゴの財政を復興させる。そして、戦力を蓄えた上でローマに報復し、カルタゴを再び地中海の覇者へと導く、と。このスペイン遠征案は政府に承認され、正式にカルタゴの国家戦略となった。紀元前237年、ハミルカル率いる大船団がカルタゴから出航せんとしていた時、9歳になっていたハンニバルは父に同行を願った。それに対してハミルカルは、「ローマを生涯の敵とせよ」との誓いを立てさせた上で、同行を許したと云う。ハミルカルは勇躍スペインに上陸したものの、諸部族の抵抗は思いのほか激しく、戦いに次ぐ戦いの日々が続いた。それでも徐々に支配地は広がっていって、経営が軌道に乗り出したところ、紀元前229年頃、ハミルカルは壮図半ばで、戦死してしまう。


だが、ハミルカルの残した基盤は、娘婿であったハズドルバルが引き継ぎ、それを更に発展させていった。紀元前221年、ハズドルバルが不慮の死を遂げると、25歳になっていたハンニバルがその跡を引き継いだ。ハンニバルはしばらくはスペインの諸部族相手に戦い、貴重な戦闘経験を得ると共に地盤を固め直した。そして、紀元前219年、ハンニバルは亡き父との誓いを果たさんとしてか、大軍を連ねて、遥かローマを目指して進軍を開始する。第二次ポエニ戦争の始まりである。しかし、地中海の制海権はローマの手にあるので、ハンニバルは未開のフランスを横断し、峻険なアルプスを越えてイタリアに向かわねばならなかった。ハンニバルとその軍は苦心してイタリアに辿り着くと、そこからイタリア全土を縦断してローマに凄まじい損害を与え続けた。


ハンニバルの戦歴の頂点となるのが、紀元前216年に行われたカンナエの戦いである。ハンニバル率いるカルタゴ軍5万人は、ローマの頭脳たる元老院議員多数を含んだローマ軍8万人余と決戦し、その内7万人余を殺害すると云う空前の大勝利を収めた。この結果、イタリア半島南部のほとんどの都市がカルタゴ支持に回り、さらにバルカン半島中央部の大勢力マケドニア、シチリア島のシュラクサイといった勢力もカルタゴ側に付いた。これに加えて、イタリア半島北方のガリア人もカルタゴ側に味方する。こうしてローマは、ハンニバルが構築した巨大な包囲網に捕われ、存亡の危機に立った。


だが、ローマはここから、実に粘り強かった。非常に苦しい状況であったにも関わらず、ハンニバルからの和平提案を峻拒し、市民に大動員をかけてじりじりと反抗した。だが、その過程でイタリア半島は戦場となって荒れ果て、多くの耕作地が放棄された。特に南イタリアの状況は酷く、両軍による略奪と破壊を受けて、荒廃しきっていた。戦争による人口減少も甚だしく、前233年のローマの成人市民の数は、27万713人であったのに、前204年の統計では21万4千人に減少していた。ローマだけでなく、同盟都市の人的資源も大きな打撃を被っていたが、それでもローマの国力、軍事力はカルタゴを上回るものがあった。


ローマは底力を発揮して、やがてハンニバルをイタリア半島のつま先に押し込める事に成功する。そして、若き新星スキピオを立てて攻勢に転じ、ハンニバルの根拠地であるスペインを奪取し、更にカルタゴ本国へと攻め入った。このカルタゴの危機を救えるのは、ハンニバル唯1人であった。紀元前203年、ハンニバルは本国からの召還令を受け、北アフリカに帰還する。そして、紀元前202年、北アフリカザマの大地で、スキピオ率いるローマ軍と、ハンニバル率いるカルタゴ軍が国運を賭けて決戦した。この戦いで勝敗を左右する存在となったのが、カルタゴの隣国にあって強力な騎兵を有していたヌミディア王国である。このヌミディアの王、マシニッサはローマに味方して参戦し、その強力な騎兵をもってカルタゴ軍を撹乱し、ローマの勝利に大きく貢献した。ザマの会戦でハンニバルは生涯初の惨敗を味わい、カルタゴの未来も大きく閉ざされる結果となった。


ザマの会戦後、カルタゴは抗戦を諦め、使節を派遣してローマとの間に講和条約を結ぶ。だが、この戦争でカルタゴが失ったものは、余りにも大きかった。スペインを始めとする全ての海外領土を失った事に加えて、10隻を除く、全ての軍船がローマ側に引き渡された事は何よりの痛手であった。これで伝統を誇るカルタゴ海軍は消滅し、自衛のための最小限の軍備しか持てなくなった。ローマは、カルタゴを独立した同盟国と見なして駐留軍は置かず、その自治は認めたが、以後、ローマの承認無しに戦争する事は禁じられた。更に、賠償金として50年払いで1万タレントの支払いも課せられた。カルタゴの農園は1年に1万2千タレントの収益があったと云わているが、それでも長期の戦争で疲弊しきったカルタゴにとって、とてつもない負担であった。こうして、カルタゴは大国としての地位を失い、ローマの覇権下で生きる一地域国家、すなわち属国に等しい存在になった。


戦後、カルタゴでは経済が悪化し、それを立て直すためハンニバルが再び先頭に立った。ハンニバルは政治面でも持ち前の指導力を発揮し、増税はせずに経費の削減と予算の見直しによって見事に国内経済を建て直した。だが、その反面、既得権益を侵される立場にあった貴族達の反感を喰らい、これら反対派の要望を受けて、ローマから視察団がカルタゴに派遣される事になった。この視察団はハンニバル暗殺の密命を受けていたと云われており、危険を察知したハンニバルは国外に逃亡する。しかし、その後もローマは執拗にハンニバルを探索し、紀元前183年、亡命先のビィテニア(現トルコ)で自害に追い込んだ。ハンニバル・バルカ、65歳。奇しくも同時期に、最大の好敵手であったスキピオ・アフリカヌスも54歳で死去している。カルタゴはハンニバルと云う偉大な指導者を失ったが、彼が行った改革を元に着実に復興を遂げていく。

CarthageMap.png







↑紀元前264年頃のカルタゴの勢力範囲(ウィキペディアより)


カルタゴの滅亡2に続く・・・



 

 

 

ノモンハン事件

1939年、ヨーロッパにおいて緊張が高まり、第二次大戦が勃発しようとしていたこの年、極東でも、日本とソ連が一触即発の緊張状態にあった。ソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国と、日本の影響下にあった満州国が、両国の境目にあるノモンハン周辺の帰属を巡って対立を深めていたのである。5月、モンゴルの国境警備隊が、日本側が国境線と主張するハルハ川を渡って越境する事件が起こった。これに対して現地の日本軍は断固たる処置を取る事を決定し、航空隊による爆撃を加えた。これを受けてソ連軍は大挙出動し、日本軍も大部隊を送り込んで、事態は抜き差しならないものとなっていく。この紛争の表向きはモンゴルと満州国との対立であるが、実際にはソ連と日本の勢力争いであった。


この紛争では両国共、多数の戦闘車両を投入して、戦況の推移に大きな影響を与えた。ソ連軍の主力戦車はBT-5で、重量11・5t、長砲身の45mm砲を搭載、速度52km、装甲は主要部で13mm。準主力のBA-10装甲車は、重量5・1t、長砲身の45mm砲搭載、速度53km、装甲は8mm程度。ソ連軍の装甲車両は、速度、火力で日本戦車を上回っていたが、装甲は同水準で、燃えやすいという欠点があった。



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↑BT-5快速戦車


日本軍の主力戦車は95式軽戦車で、重量7・4t、37mm砲を搭載、速度は40km、装甲は最厚部で13mm。準主力の89式中戦車は、重量11・8t、短砲身の57mm砲を搭載、速度は25km、最大装甲厚は17mm。日本軍の戦車は全般的な性能で劣っており、数でも大きな劣勢を強いられていた。だが、乗員は高い錬度を発揮して、ソ連戦車相手に互角以上の戦いを繰り広げた。また、主機がディーゼルのため、被弾しても燃えにくいという利点もあった。



95siki.jpg










↑95式軽戦車


日本の戦車隊は夜襲を決行して、ソ連軍に大きな損害を与えている事例もある。これは高い錬度と、阿吽の呼吸とも言える連携が無ければ、実現困難な作戦だった。以上の様に活躍した日本戦車隊であったが、高価な戦車を喪失する事を恐れた軍上層部によって、紛争半ばで戦線後方に下げられてしまう。一方、ソ連軍の戦車隊は、紛争を通じて最前線にあったため、大きな損失を出し続けた。


その損害のほとんどが、日本軍の94式37mm速射砲や、75mm野砲の直接射撃によるものだった。しかしながら、紛争終盤、その高速力と火力を生かして日本軍の戦線を突破、包囲するに当たっては、大きな役割を果たした。日本軍は戦車、装甲車合わせて100両余りを投入し、その内30両余を喪失した。ソ連軍はおおむね500両余の戦車、装甲車を前線に配備し続け、紛争を通じて350両余を喪失した。


この紛争では、空でも激しい戦いが繰り広げられた。日本軍の主力戦闘機は97式戦闘機で、最大速度は460km、主武装は7・7mm機銃2挺、機体重量は1100㎏で、非常に優れた格闘能力を有していた。しかし、防御力は無きに等しく、被弾には脆かった。ソ連の主力戦闘機はポリカルポフⅠ-16で、最大速度470km、主武装は7.62mm機銃4挺、または20mm機関砲2挺と7・62mm機銃2挺、機体重量は1266㎏であった。強力な武装と防御力を誇り、急降下性能も高かったが、格闘性能は低かった。紛争序盤は97式戦闘機に格闘戦を挑まれて非常な苦戦を強いられたが、後半に入り、その優れた武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法を取るようになると、逆に97式戦闘機が苦境に追い込まれた。



97siki.jpg





↑97式戦闘機



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↑ポリカルポフⅠ-16


紛争初期6月中旬の段階で、日本軍は戦闘機、爆撃機合わせて126機、ソ連軍は戦闘機、爆撃機合わせて300機を配備しており、倍以上の戦力差があった。だが、日本軍航空隊の練度は高く、逆にソ連軍航空隊の錬度は低かったため、劣勢にも関わらず、前半は日本側が制空権を握った。しかし、後半に入るとソ連軍は機数を最大580機まで増強し、更にスペイン内戦や、中国戦線で経験を積んだ搭乗員を投入し始めると、200機未満でしかない日本側の損害は増大していき、やがて制空権を喪失するに至った。紛争を通じて日本軍は170機余の機体を喪失し、搭乗員110人余が死傷した。ソ連軍は250機余を喪失し、搭乗員170人余が戦死し、110人余が負傷した。



地上戦では、紛争全般を通して日本の歩兵は勇戦敢闘したが、高級参謀の杜撰な作戦と、最終段階でのソ連軍の大攻勢によって大きな損失を出した。一方のソ連兵も日本兵に劣らぬ勇戦振りを示したが、前半は日本軍に押され気味で、後半になって大量の重砲と戦車の援護を受けて勝利を掴んだ。日本軍の野砲は38式改75mm野砲、機動90式75mm野砲、38式12cm榴弾砲、96式15cm榴弾砲などであった。ソ連軍は107mmカノン砲、122mm榴弾砲、152mm榴弾砲が主力で、火力、射程、砲数、弾薬量とも日本軍の野砲に勝っていた。


この紛争で決定的な要素となったのが、両軍の補給力の差である。日本軍は、補給拠点である鉄道駅から前線までは200kmの距離があり、1,000両余の車両を駆使して補給、輸送に当たった。ソ連軍側では、補給拠点の鉄道駅から前線までの距離は650kmもあったが、これを3,300両余の車両や、馬匹まで用いて補給と輸送に当たった。日本側の方が補給線は短かく有利であったが、ソ連は大量の車両を投じて劣勢を補った。7月、日本軍は攻勢をかけ一時は優位に立ったものの、補給が続かず、戦線は膠着状態に陥った。その間、ソ連軍は大量の物資を集積し続け、8月になって大攻勢をかけて、日本軍を包囲撃滅するに至った。



紛争を通じての日本軍の人的損失は、戦死、行方不明者、合わせて9700人余りで、戦傷者8700人余、戦病者2300人余、総計21000人余りであった。ソ連軍の人的損失は、戦死、行方不明者合わせて8000人余、戦傷者15000人余、戦病者700人余、総計24000人余だった。


1939年9月16日、両軍の間で停戦協定が結ばれ、ソ連とモンゴルが主張する国境線で紛争は決着する。結果から見れば日本軍の敗北であるが、損失自体はソ連軍の方が大きく、双方痛み分けのような形であった。この紛争を通じて、日本軍はほぼ全ての面で劣勢であったが、兵士の高い錬度と旺盛な戦意によって、ソ連軍と互角に渡り合っていた。しかし、最終的には、ソ連軍の圧倒的な物量によって押し切られたのだった。この紛争から2年後、1941年、日本は、さらに圧倒的な物量を誇るアメリカとの戦争に望む事になる。


 

 
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重家 
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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