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安史の乱 1

2013.10.15 - 三国志・中国史
(618年)、中国では一大王朝、隋が倒れ、代わって鮮卑系の李氏が唐王朝を打ち立てた。唐は、旧来の制度を刷新して国力を強化すると共に、外征を繰り返しては強大化していった。また、唐朝を立てた李氏は遊牧民の鮮卑系出身である事から、異民族への偏見がなく、才能さえあれば取り立てていった。従って唐朝では、政治、軍事、経済の様々な分野で異民族が活躍し、その首都たる長安も国際色豊かなものとなった。日本人の阿倍仲麻呂(698~770年)も留学生から、唐の高官にまで取り立てられている。(712年)、玄宗皇帝が即位した時、唐朝は最盛期を迎え、その勢力範囲は、西は中央アジアのアラル海、北はシベリア、東は朝鮮半島、南はベトナムにまで至り、隋を上回る一大帝国となった。 




↑唐とその周辺国

回鶻(かいこつ)はウイグルで、吐蕃(とばん)はチベット、契丹(きったん)はキタイの事である。


唐が最盛期を迎えんとしていた(705年頃)、中国東北部、営州柳城にて1人の男子が生まれた。その男子はイラン系のソグド人の父と、トルコ系の突厥(とっけつ)を母とし、長じて安禄山と名乗った。漢人は、この様な異民族の血が混ざり合った人間を、卑しみを込めて雑胡と呼んでいた。この雑胡の子、安禄山は突厥(とっけつ)の下で少年時代を過ごしたが、やがて突厥内で乱が生じたので、唐朝の支配化にある幽州に逃れた。この頃、同郷、同年生まれで、同じソグド系の史思明(ししめい)と知り合い、意気投合して生涯の盟友となる。


安禄山は多くの民族が行き交う幽州の地で逞しく成長し、やがて6ヶ国から9ヶ国もの民族言語を覚え、さらに騎馬と弓射に長じた偉丈夫となった。盟友の史思明も、安禄山に劣らない才の持ち主で、数カ国の民族言語を解し、人並みはずれた武勇を誇った。2人は漢族と諸民族とが交易する市場で、書蕃互市牙朗(貿易仲介人)として働き、ここで多種多様な商人相手に縦横の駆け引きをした。この時の経験が、安禄山を機知に富んだ人物に成長させる事となる。 
そして、開元20年(732年)頃、安禄山は范陽(はんよう)節度使(中国東北部の守備司令官)の張守珪に見出されて、捉生将(捕縛隊長)になった。


この張守珪との運命的な出会いが、安禄山が世に出る切っ掛けとなる。安禄山は史思明と連れ立って戦場に赴き、幾度となく数十人の契丹人を捕らえて帰った。安禄山はその功績と機知をもって、張守珪にいたく気に入られ、養子に迎え入れられた。そして、開元24年(736年)を迎える頃には、安禄山は左驍衛将軍になって、一軍を率いるまでになっていたが、ここにきて大きな失態を冒す。安禄山は張守珪から兵を授けられて、北方騎馬民族の契丹、奚(けい)の討伐に向かったのだが、安禄山は勇に頼んで軽々しく前進し、その結果、大敗を喫したのである。


安禄山は、張守珪の前に引っ立てられ、死罪を告げられる。安禄山はここで、「張大夫は、契丹、奚を滅ぼしたいと思わないのですか!何故、壮士を無駄に殺してしまうのですか!」と叫んで、助命を請うた。張守珪は安禄山の類い稀な武勇を惜しいと思ったので、長安に送り届けて玄宗の判断に委ねる事とした。玄宗も安禄山の武勇を惜しんで、免官にするだけで済まそうとしたが、ここで唐の名臣と謳われる張九齢が意見して、「安禄山は軍法に照らし合わせて、死罪にすべきです。それに彼は反骨の面相をしているので、今、処刑しなければ、必ず災禍を招くでしょう」と述べた。それでも玄宗は安禄山を許して、范陽に戻した。 



一時、免官となった安禄山であるが、その後も張守珪に重用され、節度使に次ぐ節度副使にまで取り立てられた。だが、安禄山はその地位に満足せず、朝廷の使者が訪れる度に多額の賄賂を渡し、その甲斐あって天宝元年(742年)には平盧節度使に任命された。これで安禄山は一地方の支配者に栄達した訳であるが、更なる高みを望んで、今度は唐の中央政界に目を向け始める。時の皇帝玄宗は、初期においては政治に意欲を燃やし、賢臣の補佐も得てその治世は安定していた。しかし、麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣り、絶世の美女、楊貴妃に心奪われて、政治への関心も失われていった。


安禄山は楊貴妃に目を付け、世辞を並べ、しきりに贈り物をしてその歓心を買った。事は安禄山の思惑通りに運び、楊貴妃を通じて玄宗の知己を得る事に成功し、たちまちお気に入りの人物となった。玄宗の寵愛を得た安禄山は、天宝3載(744年)には、平盧節度使を兼ねたまま、范陽の節度使に任ぜられた。平盧節度使と范陽節度使には、北方騎馬民族の契丹、奚(けい)を抑え込む役割が期待されており、安禄山も度々、兵を率いて北方に攻め入る事になる。そして、天宝4載(745年)3月、安禄山は軍を率いて契丹、奚を攻撃して、これを打ち破る事に成功した。また、安禄山は契丹、奚の酋長を度々、宴席に招いては毒酒を飲ませ、謀殺していった。


しかし、これらをもっても契丹、奚の覆滅には程遠く、その後も両部族との戦いは引き続く事になる。 
安禄山は節度使としての仕事をこなしながらも、中央からは決して目を逸らさず、合間を見ては長安に赴いて玄宗の寵愛と歓心を買わんとした。
安禄山は大兵肥満の巨漢で体重は200キロあったと云うが、俊敏な動作を必要とする胡旋舞を舞っては、玄宗や楊貴妃の目を楽しませたと云う。胡旋舞とは旋舞と付く通り、高速で回転しつつ、両手に持った細長い帯を泳がせる華麗な舞踊である。安禄山は大きな体を揺らしながら、これを舞ったというのである。


安禄山は自分を低く見せて、相手を持ち上げるのが巧みであった。ひょうきん者の様に振舞い、愚者を装っては人々を笑わせた。ある時、玄宗から、「その大きな腹には何が入っているのか?」と訪ねられると、「ただただ、陛下への赤心(忠誠心)のみが入っております」と答えて、玄宗から益々気に入られるのだった。その甲斐あってか、天宝十載(751年)には河東の節度使職も委ねられた。これで安禄山は三つの節度使を兼ねる事となり、唐朝随一の軍事力を帯びる事となる。安禄山は玄宗の前では愛嬌ある人物を演じていたが、内面には満々たる野心を宿していた。
 

ここで節度使と呼ばれる、職の説明をしておきたい。 
唐の皇帝、玄宗は辺境防備と異民族対策のため、節度使と呼ばれる軍事指揮官と行政官を兼ねた職を創設した。節度使は、地方においては皇帝に等しい権力を振るったと云う。 

  
「安西節度使・拠点亀茲」
兵力2万4千・軍馬5千5百  


「北庭節度使・拠点庭州」
兵力2万・軍馬5千 


「河西節度使・拠点涼州」
兵力7万3千・軍馬7千9百 


「朔方(さくほう)節度使・拠点霊州」
兵力6万4千7百・軍馬1万3千3百 


●「河東節度使・拠点太原」
兵力5万5千・軍馬1万4千 


●「范陽(はんよう)節度使・拠点幽州」
兵力9万1千4百・軍馬6千5百 


●「平盧節度使・拠点営州」
兵力3万7千5百・軍馬5千5百 


「隴右(ろうゆう)節度使・拠点鄯州(ぜんしゅう)」
兵力7万5千・軍馬1万 


「剣南節度使・拠点成都」
兵力3万9百・軍馬2千 


「嶺南五府節度使・拠点広州」
兵力1万5千4百 



●で示したのが、安禄山が兼務した節度使 


この10節度使の兵力を合計すると約49万人、軍馬は8万頭余となる。この他に首都、皇帝防衛軍として長安に駐屯する、右左羽林軍10万人があった。これらの総計、60万人余が唐軍の全兵力となる。この中で、安禄山は河東・范陽・平盧の3節度使を兼ねていた事から、その兵力は18万3千9百人(この内、騎兵が2万6千9百人)に達しており、唐軍全体の三分の一を占めていた。


安禄山軍は数が多いだけでなく、契丹族と激闘を重ねている事から実戦経験も豊富な精鋭軍団であった。それに比べて、首都防衛軍たる右左羽林軍は金持ちの子弟で占められており、ろくに訓練も施されていなかった。唐の軍事力の大半は北方と西北の辺境にあって、内地は手薄な状況にあった。これでもし、野心のある節度使が唐に反旗を翻したなら、ただではすまない事になる。 



天宝十載(751年)、安禄山は6万人余の兵を動員して、長躯、契丹の本拠地へと攻め入った。しかし、慣れぬ土地で軍は困窮し、そこに契丹と奚の挟み撃ちを受けて軍は壊滅、安禄山も命からがら逃げ帰ると云う惨敗を喫した。この戦いには敗れたものの、安禄山は投降してきた契丹族の騎兵をも取り込んで、更に軍事力を拡充させてゆく。天宝11載(752年)3月、安禄山は昨年の雪辱を晴らさんとして、20万人余を大動員して契丹と奚を叩かんとしたが、味方節度使の協力を得られず、攻撃を断念した。


これ以降も、安禄山と契丹は勝ったり負けたりの攻防が続き、両者は不倶戴天の間柄となった。余談となるが、この契丹族は10世紀に契丹(遼)という大国家を建設する事になる。安禄山は契丹対策に悩まされ続けるが、逆に見れば安禄山の武力が、この強力な騎馬民族の国家創設を押さえ込んでいたとも云える。 
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松本城再訪

松本城の記事は以前にも書いているので、説明文は簡略化します。ただ、その時は写真が少なかったので、今回は写真を多めに載せてみます。


松本城は、永正元年(1504年)に小笠原氏の支城の一つとして築かれたのが始まりで、天正18年(1590年)~慶長18年(1613年)の石川氏の統治時代に大規模な近世城郭に作りかえられ、現在にその姿が伝えられています。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑在りし日の壮大な松本城

松本城
松本城 posted by (C)重家

↑太鼓門


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿跡


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣下層


天守閣内部は、火縄銃が豊富に展示されていました。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣最上部


天井に祭られているのは、松本城の守護神、二十六夜神です。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


松本城
松本城 posted by (C)重家


松本城
松本城 posted by (C)重家



松本城
松本城 posted by (C)重家


松本城を訪問するのは今回で二度目ですが、何度見ても、その質実剛健な姿には感嘆します。特に漆黒の天守閣は渋く、これぞ武士の城という感じがします。

虎御前山砦

虎御前山は滋賀県長浜市にある標高230メートルの山である。戦国時代には織田信長によって砦が築かれ、すぐ側にある小谷城の攻略に用いられた。


元亀3年(1572年)7月19日、織田信長は浅井長政を討滅せんと近江に出兵し、同年7月21日に小谷城に至って、その目と鼻の先にある虎御前山を占領する。そして、7月27日より織田軍は虎御前山に砦の建設を始め、8月中には完成させる。山の
木々は取り払われて、そこに切岸(人工的な断崖)、土塁、空堀が何重にも巡らされ、最高所には信長の陣所が設けられた。それは驚くべき土木工事量であり、何の変哲もない丘陵上に、突如として堅固な城が現出したかの様であった。この砦の完成によって浅井長政は小谷城に封じ込められ、手も足も出せなくなる。そして、天正元年(1573年)9月1日に小谷城が落ちるまで、虎御前山砦は前線基地として大きな役割を果たす事となる。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑柴田勝家の陣所跡


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁と堀切


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁


この奥にある土塁が、羽柴秀吉の陣所跡です。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑木下秀吉の陣所跡


元亀元年(1570年)6月28日に行われた織田徳川軍と対浅井朝倉軍との激突、姉川の戦いで、織田軍は横山城を手に入れます。信長はここに木下秀吉を入れて、対浅井の最前線を任せました。ここから秀吉は2年に渡って浅井軍と対峙し、幾度となくその攻撃を撃退します。元亀3年(1572年)8月に虎御前山砦が築かれると、引き続き秀吉が城将となり、小谷城と浅井長政を押さえ込みます。そして、天正元年(1573年)8月27日夜半、秀吉は虎御前山砦より出陣すると、山麓を駆け上って小谷城の京極丸を乗っ取り、見事、落城に追い込みました。戦後、信長は、小谷城攻略の最大の功労者は秀吉であるとして、浅井の旧領、北近江三群をそっくり委ねます。これで、大名身分となった秀吉は、木下から羽柴に改名し、自他供に認める織田家の重鎮となりました。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑織田信長の陣所跡


虎御前山の最高所にあります。現在は木々が生い茂って見晴らしが利きませんが、往時には木々が取り払われて、四方に視界が広がっていたはずです。そして、信長はここから幾度となく、小谷城を睨みつけた事でしょう。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山から小谷城を望む



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑信長陣所近くの切岸


掘平されて段丘状になっています。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑滝川一益の陣所跡


今回は、虎御前山の北から柴田勝家、木下秀吉、織田信長、堀秀政、滝川一益の順番で陣所を訪ねてきましたが、山中にはこの他にも、佐久間信盛、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの陣所もあるそうです。これらの言い伝えが本当ならば、織田家を代表する実に錚々たる顔ぶれが、この一山に出揃っていた事になります。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山砦の推定復元図


相当、しっかりした作りだったのが伝わってきます。この虎御前山砦が完成した時、小谷城側からは、突如として、巨大な山城が現れた様に映ったのではないでしょうか。浅井長政とその将兵達は強い圧迫感を感じて、信長の力を否が応にも認めざるを得なかったでしょう。虎御前山砦はその存在だけで、小谷城の将兵の士気を下げる効果があったに違いないです。現場の当事者であった秀吉はこれに学んで、後年の小田原攻めで応用し、石垣山城を築いて北条氏の士気を挫き、降伏に追い込んだのでしょう。

小谷城 2

小谷城訪問の続きです。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小丸跡


天正元年(1573年)8月27日夜半、織田家の部将、木下秀吉は清水谷から駆け上って京極丸を急襲、奪取します。秀吉は続いて京極丸の一段上にある小丸に攻撃を集中し、浅井長政の父、久政を自刃に追い込みました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑京極丸跡


大広間に次ぐ広さがあり、近江守護の京極氏を迎えるために用意した屋敷があったと伝えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑中丸跡


本丸と京極丸の中間に設けられており、本丸とは巨大な大堀切で隔てられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大堀切


天正元年(1573年)8月28日、信長は京極丸まで上がると、自ら本丸攻撃の指揮を執らんとします。同日夜半、落城が目前に迫ると浅井長政は、妻、お市と、茶々、初、江の3人の娘を織田陣営に送り届けました。この時ばかりは両陣営も矛を収めて、静まり返っていたそうです。そして、翌8月29日、大堀切を挟んで、両軍最後の攻防が始まります。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑本丸跡


長政は本丸一つに押し込められながらも、抗戦意欲は衰えず、尚も数日間持ちこたます。それは己の最後を飾り立てんとする、武将の意地でした。9月1日、この日も長政は黒金門から打って出て、織田軍と激しく渡り合いますが、その後方ではついに織田軍が大堀切を乗り越えて本丸に殺到してきます。長政も異変を察して本丸に戻らんとしましたが、既に本丸周辺は織田軍で充満しており、入るに入れなくなりました。長政は本丸で自刃する心積りだったのでしょうが、それは適わなくなり、本丸直下にある赤尾屋敷へと向かいました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大広間跡


小谷城で最も広い平坦部で、かつては御殿が建っていたと推測されます。ここでは酒器が多く発掘された事から、城主と家臣が集って、軍儀や宴会を開いていたのでしょう。そして、浅井長政とお市も、ここで酒宴を楽しんだ事でしょう。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑首据石


天文2年(1533年)、初代、浅井亮政の時代、敵方の六角氏に通じた今井秀信の首を、この石の上に晒したとあります。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑虎御前山


小谷城とは、目と鼻の先にあります。織田信長は虎御前山を奪取すると、堅固な砦を築いて、小谷城攻略の前線基地としました。往時には樹木が切り払われ、簡単な小屋や塀が建てられて、旗指物が建ち並んでいた事でしょう。そして、この砦で最も見晴らしの良い場所から、一際立派な身なりをした1人の武将が腕を組んで小谷城を睨め付けていたはずです。それこそ織田信長であり、その姿を小谷城の浅井長政も見とめたかもしれません。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑馬洗池


この馬洗池は、文字通りの馬を洗う池ではなく、水堀の遺構だと考えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑浅井長政自刃の地


浅井家重臣、赤尾清綱の屋敷跡で、本丸の東下にあります。浅井家重臣の屋敷はほとんど清水谷に置かれていたのに、この赤尾清綱だけ本丸直下にあるので、浅井家中において相当地位が高く、信頼の置ける人物であった事が窺えます。

天正元年(1573年)9月1日、本丸も落ち、追い詰められた浅井長政は赤尾屋敷に入り、ここで割腹して29歳の生涯を閉じました。自らと浅井家の滅亡を招く事になった信長離反の判断はともかく、長政が果敢な勇将であった事は間違いないでしょう。そして、長政が小谷城で見せた奮闘と潔い最期は人々の記憶に残り、お市との悲恋も絡めて、後々まで語り継がれる事になります。

小谷城 1

小谷城は滋賀県長浜市にある山城である。悲運の戦国大名、浅井長政と戦国の覇者、織田信長とが激しい攻防を繰り広げた城として余りにも有名である。


小谷城は浅井家初代、亮政によって築かれるが、正確な築城年代は不明で、大永5年(1525年)に亮政は小谷城に拠って六角軍と抗戦したとあるので、大永3年(1523年)~大永4年(1524年)間に築かれたと推測される。亮政は浅井家勃興の祖で、北近江の守護、京極氏の被官から始まって徐々に伸し上がり、京極氏に代わって北近江一の実力者となった器量人である。亮政の子、久政は父ほどの活躍は示していないが、それでも内政に勤しんで浅井家の基礎を固めた。


そして、三代目長政を迎えた頃に浅井家は全盛期を迎え、それに合わせて小谷城も拡張されて、北近江の戦国大名に相応しい一大山城となった。しかし、元亀3年(1570年)4月、長政は、同盟者で義兄に当たる織田信長から離反した事から、小谷城は信長の激しい報復攻撃に晒される事となる。小谷城は織田軍数万の攻撃を3年余に渡って持ちこたえ、その堅固さを存分に示したが、天正元年(1573年)9月、織田軍の総攻めを受けて、ついに落城する。その後、小谷城は織田家部将、羽柴秀吉の居城となるが、天正3年(1575年)、秀吉は琵琶湖畔に長浜城を築き、そこを居城と定めたので、小谷城は廃城となった。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小谷城の絵図


本当は清水谷から、金伍丸を経て本丸まで行ったのですが、今回は反対側の山崎丸から紹介していきます。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑清水谷(きよみずだに)より小谷城を望む


正面に映る大きな山が大獄城で、その右手に小谷城があり、左手の山にも山崎丸や福寿丸といった砦があります。この清水谷の入り口は往時には土塁と水堀で固められており、その奥に浅井家重臣の武家屋敷が建ち並んでいました。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家


↑山崎丸跡


元亀3年(1572年)7月21日、織田信長は大軍をもって小谷城に迫り、その外郭線である虎御前山と雲雀山(ひばりやま)を奪った事から、小谷城は危機に瀕します。同年7月29日、朝倉義景の援軍が遅まきながらやってきて大獄を固め、その上で山崎丸、福寿丸といった砦を築いて小谷城の側面を固めた事から、なんとか危機を乗り越えました。この時に山崎丸を築いたのが朝倉家の重臣、山崎吉家であった事から、その名が付けられました。山崎吉家は、軍略、政略に長けた朝倉家の重鎮であったようです。また、同年8月2日には、朝倉義景もこの山崎丸に陣取っています。




小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑福寿丸跡


この砦も元亀3年(1572年)8月頃に築かれました。朝倉家の築城術は浅井家よりも先進的で作りも違うので、それによって朝倉家による小谷城強化の跡が窺えます。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城跡


小谷城(標高494メートル)の最高所にあります。大永4年(1524年)頃、浅井長政の祖父、亮政によって小谷城が築かれた当初は、この大獄を本丸としていた模様です。その後、浅井氏は東尾根に新たな本丸を築くと、大獄は砦として用いられたと思われます。元亀3年(1572年)8月、信長の大軍が小谷城に迫って来た時、救援に赴いた朝倉義景は、この大獄に陣取り、ここを中心に山崎丸、福寿丸、月所丸といった砦を築いて小谷城全体の防御力を強化します。しかし、天正元年(1573年)8月12日、大獄北面を守っていた浅井家の臣、浅見対馬守が信長に寝返って織田軍を引き入れた事から、大獄は陥落します。これで小谷城は朝倉家との連絡を絶たれて、完全に孤立します。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城から山本山城を望む


正面中央に写っている山が山本山城で、その左奥には竹生島があり、右奥には賤ヶ岳があります。山本山城が、小谷城の側面を守っているのが、よく分かるかと思います。天正元年(1573年)8月8日、山本山城主の阿閉貞征が織田家に寝返った事から、織田軍は小谷城の側背面に回り込んで、全面包囲する事が可能となりました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城から小谷城を望む


大獄城と小谷城とは、尾根伝いに繋がっているのが分かります。そして、大獄城は、
本丸よりも高所にあるので、防御上、非常に重要な拠点となります。こういった場所を朝倉軍が守っていたという事実が、朝倉家が浅井家よりも上位の存在であった事を物語っています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑六坊跡


浅井久政の時代に、領国内の有力寺院六つの出張所をここに設けた事から、六坊と名付けられました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑山王丸跡


小谷城の主郭の最上段にあり、石垣で厳重に固められていました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑山王丸の石垣


小谷城 2に続きます。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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