
2015.04.27 - 城跡・史跡訪問記 其の三
2015.01.11 - 城跡・史跡訪問記 其の三
八幡山城は、滋賀県近江八幡市にある山城です。
八幡山城は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の甥で、養子でもある豊臣秀次によって築かれた。城が築かれた八幡山(別名、鶴翼山)は、標高は272メートルと低いものの急峻で、東西には琵琶湖の内湖が広がる天然の要害であった。平野となっている南は、琵琶湖の水を引いた八幡堀が巡らされたが、これは防御を固めるだけでなく、商業を促す運河としても用いられた。秀次の居館は山麓に築かれ、普段の政務や生活はここで行われた。城下町は、すぐ北にある安土城から移築され、人々も八幡に移り住んだ。
天正18年(1590年)、秀次は小田原征伐の功をもって、近江43万石から、尾張、伊勢100万石に転封となり、代わって、京極高次が2万8千石で八幡山城主となった。文禄4年(1595年)、秀次は謀反の嫌疑をかけられて切腹に追い込まれると、その痕跡を消すように八幡山城も破却された。同時期には、京の秀次邸宅であった聚楽第も破却されている。これを受けて、八幡山城主であった京極高次は大津に転封された。八幡山城は失われたが、城下町はその後も発展を続け、現在も尚、水堀に囲まれた趣ある景観を見せてくれる。悲運に泣いた秀次であったが、自らが作り上げた八幡の町の発展と存続は、せめてもの慰めとなったであろう。

八幡堀 posted by (C)重家
↑八幡堀

八幡山城 posted by (C)重家
↑八幡山ロープウェー
ゴンドラに乗っている時に感じましたが、八幡山は結構、急峻な山でした。

八幡山城 posted by (C)重家
↑八幡山城から東を望む

八幡山城 posted by (C)重家
↑八幡山城から北を望む
中央にあって一段低い山は、安土城があった安土山です。その右側にある大きな山は、繖(きぬがさ)山で、かつてそこには六角氏の山城、観音寺城が築かれていました。左側に見える湖は、琵琶湖の内湖、西の湖で、昔は八幡山の麓まで広がっていたそうです。

八幡山城 posted by (C)重家
↑八幡山城から西を望む。
西に広がるのは琵琶湖で、これも往時には八幡山の麓まで水が浸していたそうです。

八幡山城 posted by (C)重家
↑八幡山城から南を望む

八幡山城 posted by (C)重家
↑本丸虎口跡

八幡山城 posted by (C)重家
↑本丸石垣

八幡山城 posted by (C)重家
↑本丸跡
本丸跡には、現在、瑞龍寺が建っています。

八幡山城 posted by (C)重家
↑八幡山城出土の瓦
八幡山城は、往時の建物はもう残っていませんが、石垣は良好な状態で残されていました。頂上からの眺めは素晴らしく、3ケ所ぐらいある展望台まで足を伸ばせば、ほぼ360度の展望が得られます。また、堀に囲まれた城下町は情緒があって往時を偲ばせてくれます。今回は見逃しましたが、麓には総石垣の立派な秀次邸宅跡が見られます。
天正3年(1575年)5月21日、精強を謳われた武田軍は、長篠において、織田、徳川連合軍と決戦するも、空前の大敗北を喫した。この敗因については色々と取り沙汰されているが、武田軍は騎馬中心の戦法にこだわって、鉄砲を軽視していたと見る向きも多い。果たして、武田家は本当に鉄砲を軽視していたのだろうか?
弘治元年(1555年)、第二次川中島の戦いにおいて、武田信玄は信濃善光寺の近隣にある旭山城に、将兵3千人、弓800張、鉄砲300挺を援軍として派遣した。「勝山記」「妙法寺記」にある記述で、これが確かな史料で、武田家の鉄砲隊の存在が確認できる初見となる。天文12年(1543年)に種子島に初めて鉄砲が伝来したとされる日(諸説あって確実とは言えない)から、12年余で武田家は300挺の鉄砲を揃えていた事になる。また、弘治3年(1557年)1月には、塩硝(火薬の材料)と銀下(弾丸の材料の鉛を指すと思われる)を扱う、彦十郎なる商人を招き入れようとしている書状が残っている事から、武田家が早くから鉄砲を導入しようとしている様子が窺える。
それに加えて信玄は、家中の鉄砲装備率を上げるため、永禄5年(1562年)に出した軍役定書を初見として、家臣に鉄砲を装備するよう、盛んに指示するようになる。信玄は知行貫高に応じて、鉄砲を装備するよう指示したのであるが、何貫文につき何挺の鉄砲を課していたかについては、残念ながら詳細は分かっていない。ある説によれば、信玄時代は80貫文に付き1挺であったが、長篠合戦後には50貫文に付き1挺となって、軍役が増したと云う。 永禄10年(1567)~永禄12年(1569年)年間に作成されたと見られる武田信玄旗本陣立書には、鉄砲隊を率いる指揮官として小幡昌盛、今井昌茂、甘利信康などの名が記されている事から、信玄は、大名直属の旗本鉄砲隊を編成していたと見られている。また、信玄は、重要な合戦の際には、境目を守るため出陣できない部将に対しても、鉄砲隊だけは派遣するよう指示していた。
永禄7年(1564年)6月、信玄は、武田家に属する東美濃の国人、遠山景任(かげとう)、直廉(なおかど)兄弟に宛てて、上杉謙信が信濃に出兵してきたとの報を得たので、鉄砲衆50人を派遣してもらいたいと要請している。信玄の鉄砲隊は、大名直属の旗本鉄砲隊に、知行貫高に応じて鉄砲を揃えた家臣の鉄砲隊、それに留守を守る家臣からも鉄砲隊を引き抜いて、それらをひとまとめにして運用していたと考えられる。このように信玄は、戦場における鉄砲の有効性を十分理解しており、いざ合戦となった際には、全領国から鉄砲を集めようとした。しかしながら、武田家の鉄砲調達には、非常な苦労が伴っていた。
当時の主な鉄砲産地は、近江の国友村と、和泉の堺であった。中でも堺は、南蛮貿易を通じて、大量の鉄砲に加えて、火薬や鉛(弾丸の材料)も入手可能な戦略拠点であった。畿内のみならず東国大名の多くも、この堺を通じて鉄砲の入手を図った事だろう。だが、甲斐、信濃を領国としていた頃の武田家は、内陸に閉ざされており、商人を通じて陸路から細々と鉄砲を導入するしかなかった。その入手経路は不明だが、主に東海道方面から入手を図ったと思われる。しかし、当時は、全国の大名が鉄砲、火薬、鉛を血眼になって探し求めていたので、入手競争は激しかったたはずである。それも、陸路からだと少量ずつしか入ってこなかったろう。
永禄13年(1570年)、武田家は念願であった海に通じた領国、駿河を手に入れた事から、大量輸送可能な船をもって、鉄砲産地の畿内まで直接、買い付ける事が可能となった。しかし、折り悪く、この頃、堺は織田信長の手に落ちており、鉄砲、火薬、鉛も、ほぼ独占されていた。 それでも、織田家と武田家は、永禄8年(1565年)から友好関係にあったので、この間は何とか入手できたかもしれないが、元亀3年(1572年)に手切れとなると、それも難しくなる。これ以降、武田家は、紀伊国の雑賀衆を通じて、鉄砲の入手を図ったのではないか。雑賀衆は海運、貿易業を営む富裕な集団で、大量の鉄砲を保有していた。また、彼らの多くは熱心な一向宗徒で、本願寺とも懇意にあった。
武田家は本願寺と同盟関係にあったので、それを介して雑賀衆から、鉄砲、火薬、鉛を入手したのではなかろうか。だが、海路にも障害はあった。武田の領国、駿河から船を出しても、間には徳川領国の遠江、三河と、織田領国の尾張、伊勢、志摩が横たわっており、妨害を受けないとは限らなかった。「当代記」の天正2年(1574年)の記事によれば、兵糧を積載した大船が遠江沖を航行しており、それを徳川方が見止めて、小船を多数出して拿捕しようとしたが、相手は大船な上、鉄砲を多数持っていたので逆に撃退され、逃げられたとある。この大船はおそらく武田方で、畿内との交易を窺わせると共に、その航路が織田、徳川家によって脅かされていた事を示唆している。
武田領国では鉄砲本体の製造は確認されておらず、これは輸入に頼っていたと見られる。鉄砲は高価で入手も困難であるが、一旦、手に入れると早々に壊れる事は無かったであろうから、数量自体は徐々に積み重なっていったと思われる。しかし、使うと確実に無くなっていく火薬と鉛はそうはいかず、絶えず輸入を図らねばならなかった。この火薬と鉛が、武田家にとって一番の悩みであったろう。鉄砲に使用される黒色火薬は、塩硝(硝石)、硫黄、木炭を混合する事によって精製される。この内、硫黄と木炭は日本国内で産出されていたが、塩硝は産出しない事から、海外から大量に輸入されていた。
戦国期には厠屋(かわや)の土から塩硝を取り出す土硝法が広まっており、西国の毛利家はそれを習得していた模様だが、武田家がその技術を習得していたかどうかは定かではない。例え習得していたとしても、到底、需要は賄いきれなかっただろう。なので、塩硝は輸入に頼っていたと思われるが、硫黄、木炭の方は、武田領国からの産出で賄えたと思われる。 もう一つ、弾丸の材料となる鉛であるが、これは日本でも産出していたが、国産だけでは到底、需要を賄い切れず、海外から大量に輸入されていた。武田の領国内には金山はあったが、鉛山の存在は確認されていない。なので、鉛もほぼ輸入に頼っていたと思われる。しかし、鉛不足は否めず、武田家では鉛に代わって、銅で弾丸を製造したりもしている。その材料となったのが銅銭で、武田家は神社に悪銭を供出するよう度々、命じている。
以上に挙げたように、武田家は鉄砲関連の多くを輸入に頼っていたが、火薬の調合と弾丸の製造は、材料を集めた上で国内で行っていたようだ。元亀3年(1572年)閏1月、信玄は書状で、武蔵国児玉郡の鋳物師中林氏に宛てて、賦役を免じる代わりに、火薬を調合するための道具である薬研(やげん)と弾丸の製造を命じている。武田家はこの薬研をもって、自ら火薬を調合したのだろう。天正元年(1573年)11月1日の軍事条目では、火薬は、大将(武田家)が陣配当するように努めているが、近年は欠乏しているので、戦闘に当たっては、家臣が知行役相当に火薬を用意しておくように、と要請している。武田家では、戦争の際に使用する火薬は、基本的には大名が用意しておくが、それでも不足気味なので、家臣も努力するようにと呼び掛けているのだ。
↑薬研(やげん) (画像はウィキペディアより)
武田家は地理的な制約がありながらも、東国大名の中では有力な鉄砲隊を揃えていたと思われる。しかし、武田家がどれだけ鉄砲導入に力を尽くしたとしても、堺を押さえている織田家に、鉄砲、特に弾丸と火薬の保有量で勝る事は出来なかった。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおける武田軍の鉄砲保有数は、動員兵力の10分の1程度と見込むと、推定1,500挺で、それに対して織田軍の鉄砲保有数は推定3,000挺、それに徳川軍の鉄砲、推定800挺が加わる事になる。戦国時代の戦闘は、鉄砲や弓の射撃から始まり、それによって相手を撃ち崩したところへ、騎馬隊や足軽隊を投入して勝敗を決した。戦国時代の戦いにおける負傷原因の半分以上は、飛び道具によるものだった。歴史研究家の鈴木真哉氏が多数の軍忠書(軍功報告書)を集めて、そこから戦国合戦の負傷原因を探っているので、以下に紹介する。
応仁の乱(1467年)から島原の乱(1637年)までの170年間、1461人の負傷原因。
●矢傷 604人 41,3%
●鉄砲傷 286人 19,6%
●槍傷 261人 17,9%
●石・礫傷 150人 10,3%
●刀傷 56人 3,8%
●薙刀傷 35人 2,4%
●その他、複合傷 69人 4,7%
総計では矢傷が41,3%と最も多いが、これを、鉄砲が伝来したとされる天文12年(1543年)以降の史料で集計してみると、鉄砲傷が44%に達したとされる。これは、戦国前半の主力武器は弓であったが、後半は鉄砲が取って代わった事を示唆している。
長篠の戦いも、鉄砲による応酬から始まった事だろう。天正3年(1575年)5月21日、設楽原を舞台とした武田軍と、織田、徳川連合軍との決戦は日の出から始まった。そして、時を同じくして背後でも、長篠城を封じ込めている鳶ヶ巣山砦の武田軍部隊と、これを打ち破らんとする織田、徳川別働隊による合戦が始まっていた。設楽原の本戦であるが、数量で劣る武田鉄砲隊が、織田、徳川鉄砲隊に撃ち勝つ事は出来ず、弾丸火薬も不足気味なので、徐々に沈黙していったと思われる。援護射撃を欠いた武田の騎馬、足軽隊は撃ちすくめられる一方となった。午前11時頃、こうして武田軍の攻撃が手詰まりになったところで、背後の鳶ヶ巣山砦の武田軍が壊滅してしまう。そうと知った勝頼は、やぶれかぶれの全軍突撃を命じる他、無かった。
武田軍は相手の優勢な鉄砲射撃に晒されながらも肉薄し、柵に取り付かんとしたが、その度、激しい鉄砲射撃と足軽隊の迎撃を受けて消耗を重ねていった。午後14時頃、万策尽きた勝頼はついに総退却を命じたが、織田、徳川軍はこれに乗じて猛追撃してきたので、武田軍は散々に打ち破られた。武田軍の戦死者の多くは、最後の追撃戦によって生じたと見られており、必ずしも鉄砲が勝敗を決した訳ではないが、それでも大きな要素を占めたのは間違いないだろう。敗北の当事者であった勝頼が、これ以降、鉄砲装備の拡充に邁進していくのが、それを証明している。武田家は信玄の時代から鉄砲の導入に努力していると既に述べたが、長篠の敗北を受けて、勝頼は鉄砲装備の強化をより一層、押し進めんとした。その努力の一端を紹介したい。
長篠合戦後、天正3年(1575年)12月の軍役定書で、勝頼は、身分を問わず、規定以上の火薬を用意したものは忠節であると通達した。慢性的な弾丸火薬不足によるものか、武田家の鉄砲隊は錬度も低かったらしく、勝頼は、弓、鉄砲の鍛錬が出来ていない者は、一切連れてきてはならない。今後は、陣中で折々、検使を派遣して調査を行う。その時、弓、鉄砲の訓練がなされてなければ過怠(中世の武家では刑罰に当たる)にすると通告している。また、天正4年(1576年)には、鉄砲1挺につき、300発分の弾丸火薬を用意するよう命じた。
天正4年(1576年)5月、駿河国の内記内記助なる者に、賦役を免じる代わりに弾丸の製造と上納を命じる勝頼の書状が残っている。おそらく、このような命は多数下され、領国各所で弾丸の製造が行われたのだろう。しかし、国内の製造だけでは弾丸は足りなかったのか、天正8年(1580年)8月、勝頼は10万発の弾丸を購入してくるよう、家臣の秋山下野守に命じている。 天正7年(1579年)11月、武田勝頼は、家臣の青沼忠重を責任者として、火薬の調達を命じた。しかし、火薬を大量に調合しようと思えば、鉄製の薬研も大量に揃えねばならない。そこで忠重は、関東の下野国まで鍛冶を派遣して鉄の入手に努めた。
この一方で武田家は、敵方の商人からも鉄砲や鉄を購入しようとしていた。天正3年(1575年)~天正8年(1580年)年間に出された武田家臣、穴山信君の書状からは、駿府商人と徳川方商人の間で行われている捕虜の買戻し交渉において、鉄砲と鉄の取引を持ちかけるよう指示しているのが窺える。つまり武田家は捕虜交換交渉において、鉄砲と鉄を手に入れようとしたのだ。武田家は信玄の時代から鉄砲の導入に力を尽くしていたが、地理的な要因によって事は進まなかった。長篠の敗北を受けて、勝頼はなんとしても鉄砲を増強せんとするのだが、やはり思うようにならず、切歯扼腕する様子が伝わってくるのである。
主要参考文献、平山優「検証長篠合戦」
2014.11.01 - 城跡・史跡訪問記 其の三
淡河城は、兵庫県神戸市北区にある平山城です。
淡河城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代に、執権北条氏の一族である淡河成正によって築かれたとされる。それから戦国時代に至るまで淡河氏は、勢力を保っていたが、毛利家、織田家の二大勢力が播磨で激突するに当たって、その運命は激変する事となる。この頃の淡河氏の当主は、定範(1539?~1579?)で、播磨の雄、別所氏と縁戚関係を結んで、その麾下に属していた。天正5年(1577年)、織田信長の部将、羽柴秀吉が、中国攻めのため、播磨に進駐してくると、別所家の当主、長治はこれに協力する事を約した。ところが、天正6年(1578年)3月、長治は毛利家に通じて三木城に立て篭もり、長治と縁戚関係にあった淡河定範もこれに呼応して、淡河城に立て篭もった。羽柴秀吉も反撃に出て、三木城を囲む一方で、播磨各地に張り巡らされた別所氏の支城網をつぶしにかかった。
それから秀吉は苦戦しつつも、着実に支城を落としていって、三木城の補給路を断っていった。それに加えて三木城の周囲に多数の付け城を築いて封鎖を強化し、有力支城である淡河城にも、四方に付け城を築いて攻略の機会を窺った。だが、同年10月、織田家の部将、荒木村重が反旗を翻した事から、村重の支配下にある花隈城から、丹生山明要寺を経て三木城へと通じる新たな補給路が開削された。そうと知った秀吉は、弟、秀長に軍を授けて、天正7年(1579年)5月25日、丹生山明要寺を夜討ちさせた。秀長は寺の僧侶を皆殺しにして、全山焼き払い、三木城の最重要補給路を断った。同年5月26日、秀長軍はその勢いで、丹生山の北にある淡河城にも襲い掛かった。「陰徳太平記」などの軍記によれば、淡河定範は奇策をもってこれを散々に打ち破ったが、長くは保てないと見て城を焼き払い、三木城に引き払ったそうである。
丹生山と淡河城の落城をもって、三木城は孤立無援となった。同年9月初旬、兵糧不足に陥った三木城を救うべく、毛利家の兵糧輸送隊が播磨の魚住に上陸して、密かに北上を開始した。同年9月10日、三木城の別所軍もこれに呼応して出撃し、兵糧受け取りに向かったが、秀吉に感づかれて、平田、大村の二ヶ所で合戦となった。しかし、平田の毛利軍は、秀吉が差し向けた別働隊によって打ち破られ、大村の別所軍も、秀吉本隊の攻撃を受けて散々に打ち破られ、これに参加していた淡河定範も奮戦の末に討死したと云われている。だが、毛利輝元の書状によれば、定範は無事、逗留中とあり、毛利家に保護されている事が窺える。定範は、平田、大村合戦には参戦したものの、三木城には帰還せず、毛利軍に合流して、その領国に引き払ったのではなかろうか。しかし、その後の定範の消息はようとして知れず、三木城の方も、天正8年(1580年)1月17日に落城して、別所氏共々、忘却の彼方に消え去った。淡河城は、その後、有馬則頼の居城となったが、慶長6年(1601年)、則頼は摂津三田に転封されたため、廃城となった。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑淡河城
道の駅、淡河のすぐ側にあります。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑淡河城の登り口
この橋を渡って5分ほど登ると、本丸まで行けます。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑本丸跡
本丸跡には神社が立っていますが、どことなく不気味な雰囲気でした。それに加えて蚊が非常に多く、早々に本丸跡から出ました。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑かつての淡河城

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑本丸

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑本丸脇にある空堀
この堀は現代でも、切り込みが鋭かったです。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑淡河氏の墓所
本丸跡から、しばらく南に歩いた場所にあります。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑本丸から南を望む
かつてはこの辺りも城郭だったはずですが、遺構は消失しているようです。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑本丸から東を望む
下に見えるのは、道の駅、淡河です。

淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家
↑麓から淡河城を望む
林になっている所が、城郭です。緩やかな台地上にあって、その麓には川が流れているので、天然の要害であるのが分かります。
2014.09.27 - 城跡・史跡訪問記 其の三
篠ノ丸城は、兵庫県宍粟市山崎町にある山城で、山崎町では、黒田官兵衛ゆかりの地として紹介しています。
篠ノ丸城は、南北朝時代の貞和年間(1345~1350)、播磨の守護大名、赤松氏の一族である、赤松顕則によって築かれたと伝わる。戦国期には、赤松氏の一族である宇野氏の支配する所となり、本城である長水城の支城として用いられた。宇野氏は西播磨の宍粟郡一円を支配する、有力な国人で、宇野政頼の時代に最盛期を迎えた。しかし、政頼は、畿内に台頭してきた織田信長に敵対し、その侵攻を受ける事となる。天正8年(1580年)4月、織田家の部将、羽柴秀吉の攻撃を受けて篠ノ丸城は落城し、続く5月には長水城も落城して、宇野一族は悉く討死して滅亡を遂げる。その後、播磨は織田家の分国となり、続いて豊臣家の分国となって、天正12年(1584年)には、黒田官兵衛(孝高)が宍粟郡の領主として入った。官兵衛は山崎の城を居城にしたとされ、これを篠ノ丸城に当てはめる説もあるが、現在残されている遺構を見れば、ここが近世大名の居城であったとは思えない。おそらく、落城当時の姿をそのまま残していると思われる。

↑登山口
篠ノ丸城は、標高325メートルの篠山の山頂に築かれています。山の中腹まで車で行けますが、そこの駐車場からは歩きとなり、山道を15分ほど登ると城跡に着きます。

↑手前が二の丸で、段差の向こうが本丸

↑本丸

↑本丸側面の郭跡

↑二の丸

↑二の丸

↑畝状堅堀
二の丸側面には、図にあるような縦に掘られた空堀が見られました。

↑篠ノ丸城から南を望む

↑篠ノ丸城から北を望む
正面中央にある山が長水城で、宇野氏はそこを本拠としていました。長水城は、大規模な山城で今でも石垣などが残されています。

↑篠ノ丸城から東を望む。
眼下に広がるのは、山崎の町並みです。羽柴秀吉が長水城攻撃に望んだ時、左側の山の麓辺りに、本陣を置いたと伝わります。それを真っ先に迎え撃ったのが、篠ノ丸城だったのでしょう。しかし、秀吉軍は1万人余はいたはずで、それに対して、篠ノ丸城に篭もっていたのはせいぜい数百人ぐらいでしょう。在りし日にはこの前面で、万余の兵が一斉に雄叫びを上げて、麓から攻め上がって来る光景が広がっていたはずです。篠ノ丸城は、そんな戦国の雰囲気を色濃く残しています。