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武田家と鉄砲

2014.12.12 - 戦国史 其の三

天正3年(1575年)5月21日、精強を謳われた武田軍は、長篠において、織田、徳川連合軍と決戦するも、空前の大敗北を喫した。この敗因については色々と取り沙汰されているが、武田軍は騎馬中心の戦法にこだわって、鉄砲を軽視していたと見る向きも多い。果たして、武田家は本当に鉄砲を軽視していたのだろうか?


弘治元年(1555年)、第二次川中島の戦いにおいて、武田信玄は信濃善光寺の近隣にある旭山城に、将兵3千人、弓800張、鉄砲300挺を援軍として派遣した。「勝山記」「妙法寺記」にある記述で、これが確かな史料で、武田家の鉄砲隊の存在が確認できる初見となる。天文12年(1543年)に種子島に初めて鉄砲が伝来したとされる日(諸説あって確実とは言えない)から、12年余で武田家は300挺の鉄砲を揃えていた事になる。また、弘治3年(1557年)1月には、塩硝(火薬の材料)と銀下(弾丸の材料の鉛を指すと思われる)を扱う、彦十郎なる商人を招き入れようとしている書状が残っている事から、武田家が早くから鉄砲を導入しようとしている様子が窺える。それに加えて信玄は、家中の鉄砲装備率を上げるため、永禄5年(1562年)に出した軍役定書を初見として、家臣に鉄砲を装備するよう、盛んに指示するようになる。信玄は知行貫高に応じて、鉄砲を装備するよう指示したのであるが、何貫文につき何挺の鉄砲を課していたかについては、残念ながら詳細は分かっていない。ある説によれば、信玄時代は80貫文に付き1挺であったが、長篠合戦後には50貫文に付き1挺となって、軍役が増したと云う。


永禄10年(1567)~永禄12年(1569年)年間に作成されたと見られる武田信玄旗本陣立書には、鉄砲隊を率いる指揮官として小幡昌盛、今井昌茂、甘利信康などの名が記されている事から、信玄は、大名直属の旗本鉄砲隊を編成していたと見られている。また、信玄は、重要な合戦の際には、境目を守るため出陣できない部将に対しても、鉄砲隊だけは派遣するよう指示していた。永禄7年(1564年)6月、信玄は、武田家に属する東美濃の国人、遠山景任(かげとう)、直廉(なおかど)兄弟に宛てて、上杉謙信が信濃に出兵してきたとの報を得たので、鉄砲衆50人を派遣してもらいたいと要請している。信玄の鉄砲隊は、大名直属の旗本鉄砲隊に、知行貫高に応じて鉄砲を揃えた家臣の鉄砲隊、それに留守を守る家臣からも鉄砲隊を引き抜いて、それらをひとまとめにして運用していたと考えられる。このように信玄は、戦場における鉄砲の有効性を十分理解しており、いざ合戦となった際には、全領国から鉄砲を集めようとした。しかしながら、武田家の鉄砲調達には、非常な苦労が伴っていた。


当時の主な鉄砲産地は、近江の国友村と、和泉の堺であった。中でも堺は、南蛮貿易を通じて、大量の鉄砲に加えて、火薬や鉛(弾丸の材料)も入手可能な戦略拠点であった。畿内のみならず東国大名の多くも、この堺を通じて鉄砲の入手を図った事だろう。だが、甲斐、信濃を領国としていた頃の武田家は、内陸に閉ざされており、商人を通じて陸路から細々と鉄砲を導入するしかなかった。その入手経路は不明だが、主に東海道方面から入手を図ったと思われる。しかし、当時は、全国の大名が鉄砲、火薬、鉛を血眼になって探し求めていたので、入手競争は激しかったたはずである.。それも、陸路からだと少量ずつしか入ってこなかったろう。永禄13年(1570年)、武田家は念願であった海に通じた領国、駿河を手に入れた事から、大量輸送可能な船をもって、鉄砲産地の畿内まで直接、買い付ける事が可能となった。しかし、折り悪く、この頃、堺は織田信長の手に落ちており、鉄砲、火薬、鉛も、ほぼ独占されていた。


それでも、織田家と武田家は、永禄8年(1565年)から友好関係にあったので、この間は何とか入手できたかもしれないが、元亀3年(1572年)に手切れとなると、それも難しくなる。これ以降、武田家は、紀伊国の雑賀衆を通じて、鉄砲の入手を図ったのではないか。雑賀衆は海運、貿易業を営む富裕な集団で、大量の鉄砲を保有していた。また、彼らの多くは熱心な一向宗徒で、本願寺とも懇意にあった。武田家は本願寺と同盟関係にあったので、それを介して雑賀衆から、鉄砲、火薬、鉛を入手したのではなかろうか。だが、海路にも障害はあった。武田の領国、駿河から船を出しても、間には徳川領国の遠江、三河と、織田領国の尾張、伊勢、志摩が横たわっており、妨害を受けないとは限らなかった。「当代記」の天正2年(1574年)の記事によれば、兵糧を積載した大船が遠江沖を航行しており、それを徳川方が見止めて、小船を多数出して拿捕しようとしたが、相手は大船な上、鉄砲を多数持っていたので逆に撃退され、逃げられたとある。この大船はおそらく武田方で、畿内との交易を窺わせると共に、その航路が織田、徳川家によって脅かされていた事を示唆している。


武田領国では鉄砲本体の製造は確認されておらず、これは輸入に頼っていたと見られる。鉄砲は高価で入手も困難であるが、一旦、手に入れると早々に壊れる事は無かったであろうから、数量自体は徐々に積み重なっていったと思われる。しかし、使うと確実に無くなっていく火薬と鉛はそうはいかず、絶えず輸入を図らねばならなかった。この火薬と鉛が、武田家にとって一番の悩みであったろう。鉄砲に使用される黒色火薬は、塩硝(硝石)、硫黄、木炭を混合する事によって精製される。この内、硫黄と木炭は日本国内で産出されていたが、塩硝は産出しない事から、海外から大量に輸入されていた。戦国期には厠屋(かわや)の土から塩硝を取り出す土硝法が広まっており、西国の毛利家はそれを習得していた模様だが、武田家がその技術を習得していたかどうかは定かではない。例え習得していたとしても、到底、需要は賄いきれなかっただろう。なので、塩硝は輸入に頼っていたと思われるが、硫黄、木炭の方は、武田領国からの産出で賄えたと思われる。


もう一つ、弾丸の材料となる鉛であるが、これは日本でも産出していたが、国産だけでは到底、需要を賄い切れず、海外から大量に輸入されていた。武田の領国内には金山はあったが、鉛山の存在は確認されていない。なので、鉛もほぼ輸入に頼っていたと思われる。しかし、鉛不足は否めず、武田家では鉛に代わって、銅で弾丸を製造したりもしている。その材料となったのが銅銭で、武田家は神社に悪銭を供出するよう度々、命じている。以上に挙げたように、武田家は鉄砲関連の多くを輸入に頼っていたが、火薬の調合と弾丸の製造は、材料を集めた上で国内で行っていたようだ。元亀3年(1572年)閏1月、信玄は書状で、武蔵国児玉郡の鋳物師中林氏に宛てて、賦役を免じる代わりに、火薬を調合するための道具である薬研(やげん)と弾丸の製造を命じている。武田家はこの薬研をもって、自ら火薬を調合したのだろう。天正元年(1573年)11月1日の軍事条目では、火薬は、大将(武田家)が陣配当するように努めているが、近年は欠乏しているので、戦闘に当たっては、家臣が知行役相当に火薬を用意しておくように、と要請している。武田家では、戦争の際に使用する火薬は、基本的には大名が用意しておくが、それでも不足気味なので、家臣も努力するようにと呼び掛けているのだ。



↑薬研(やげん) (画像はウィキペディアより)


武田家は地理的な制約がありながらも、東国大名の中では有力な鉄砲隊を揃えていたと思われる。しかし、武田家がどれだけ鉄砲導入に力を尽くしたとしても、堺を押さえている織田家に、鉄砲保有競争で勝つ事は出来なかった。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおける武田軍の鉄砲数は推定600挺で、それに対して織田軍の鉄砲数は推定3,000挺で、それに徳川軍の鉄砲、推定300挺も加わる事になる。戦国時代の戦闘は、鉄砲や弓の射撃から始まり、それによって相手を撃ち崩したところへ、騎馬隊や足軽隊を投入して勝敗を決した。戦国時代の戦いにおける負傷原因の半分以上は、飛び道具によるものだった。歴史研究家の鈴木真哉氏が多数の軍忠書(軍功報告書)を集めて、そこから戦国合戦の負傷原因を探っているので、以下に紹介する。


応仁の乱(1467年)から島原の乱(1637年)までの170年間、1461人の負傷原因。


●矢傷 604人 41,3%

●鉄砲傷 286人 19,6%

●槍傷 261人 17,9%

●石・礫傷 150人 10,3%

●刀傷 56人 3,8%

●薙刀傷  35人 2,4%

●その他、複合傷 69人 4,7%


総計では矢傷が41,3%と最も多いが、これを、鉄砲が伝来したとされる天文12年(1543年)以降の史料で集計してみると、鉄砲傷が44%に達したとされる。これは、戦国前半の主力武器は弓であったが、後半は鉄砲が取って代わった事を示唆している。


長篠の戦いも、鉄砲による応酬から始まった事だろう。天正3年(1575年)5月21日、設楽原を舞台とした武田軍と、織田、徳川連合軍との決戦は日の出から始まった。そして、時を同じくして背後でも、長篠城を封じ込めている鳶ヶ巣山砦の武田軍部隊と、これを打ち破らんとする織田、徳川別働隊による合戦が始まっていた。設楽原の本戦であるが、数量で劣る武田鉄砲隊が、織田、徳川鉄砲隊に撃ち勝つ事は出来ず、弾丸火薬も不足気味なので、徐々に沈黙していったと思われる。援護射撃を欠いた武田の騎馬、足軽隊は撃ちすくめられる一方となった。午前11時頃、こうして武田軍の攻撃が手詰まりになったところで、背後の鳶ヶ巣山砦の武田軍が壊滅してしまう。そうと知った勝頼は、やぶれかぶれの全軍突撃を命じる他、無かった。武田軍は相手の優勢な鉄砲射撃に晒されながらも肉薄し、柵に取り付かんとしたが、その度、激しい鉄砲射撃と足軽隊の迎撃を受けて消耗を重ねていった。午後14時頃、万策尽きた勝頼はついに総退却を命じたが、織田、徳川軍はこれに乗じて猛追撃してきたので、武田軍は散々に打ち破られた。


武田軍の戦死者の多くは、最後の追撃戦によって生じたと見られており、必ずしも鉄砲が勝敗を決した訳ではないが、それでも大きな要素を占めたのは間違いないだろう。敗北の当事者であった勝頼が、これ以降、鉄砲装備の拡充に邁進していくのが、それを証明している。武田家は信玄の時代から鉄砲の導入に努力していると既に述べたが、長篠の敗北を受けて、勝頼は鉄砲装備の強化をより一層、押し進めんとした。その努力の一端を紹介したい。


長篠合戦後、天正3年(1575年)12月の軍役定書で、勝頼は、身分を問わず、規定以上の火薬を用意したものは忠節であると通達した。慢性的な弾丸火薬不足によるものか、武田家の鉄砲隊は錬度も低かったらしく、勝頼は、弓、鉄砲の鍛錬が出来ていない者は、一切連れてきてはならない。今後は、陣中で折々、検使を派遣して調査を行う。その時、弓、鉄砲の訓練がなされてなければ過怠(中世の武家では刑罰に当たる)にすると通告している。また、天正4年(1576年)には、鉄砲1挺につき、300発分の弾丸火薬を用意するよう命じた。天正4年(1576年)5月、駿河国の内記内記助なる者に、賦役を免じる代わりに弾丸の製造と上納を命じる勝頼の書状が残っている。おそらく、このような命は多数下され、領国各所で弾丸の製造が行われたのだろう。しかし、国内の製造だけでは弾丸は足りなかったのか、天正8年(1580年)8月、勝頼は10万発の弾丸を購入してくるよう、家臣の秋山下野守に命じている。


天正7年(1579年)11月、武田勝頼は、家臣の青沼忠重を責任者として、火薬の調達を命じた。しかし、火薬を大量に調合しようと思えば、鉄製の薬研も大量に揃えねばならない。そこで忠重は、関東の下野国まで鍛冶を派遣して鉄の入手に努めた。この一方で武田家は、敵方の商人からも鉄砲や鉄を購入しようとしていた。天正3年(1575年)~天正8年(1580年)年間に出された武田家臣、穴山信君の書状からは、駿府商人と徳川方商人の間で行われている捕虜の買戻し交渉において、鉄砲と鉄の取引を持ちかけるよう指示しているのが窺える。つまり武田家は捕虜交換交渉において、鉄砲と鉄を手に入れようとしたのだ。武田家は信玄の時代から鉄砲の導入に力を尽くしていたが、地理的な要因によって事は進まなかった。長篠の敗北を受けて、勝頼はなんとしても鉄砲を増強せんとするのだが、やはり思うようにならず、切歯扼腕する様子が伝わってくるのである。


主要参考文献、平山優「検証長篠合戦」

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