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秘書が見たヒトラー 1

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

1942年11月末、ドイツの総統ヒトラーは、秘書を1人募集した。当時、ヒトラーには3人の女性秘書が付いていたが、その1人が辞めたためであった。これを受けて、ベルリンの総統官邸で働いていた女性事務員、トラウデル・ユンゲ、当時22歳が応募した。ユンゲは1920年にミュンヘンで生まれ、十代の頃からダンサーになるのが夢であったが、家の経済事情もあって、地元の会社で事務員として働き出した。1941年、ダンサーの試験に合格したので、会社を退社してダンサーとして生きようとしたが、戦争状態に入っていたドイツが職業制限を行い出したので、これを諦めざるを得なかった。


そうした折、ベルリン在住の妹インゲが、政府関係者のアルベルト・ボルマンと知り合いであったので、それを通じて、ベルリンの総統官邸で働かないかと誘いをかけてきた。ユンゲはこれを機に家を出て、首都ベルリンを見学し、そこで新たな体験をしたいとの思いが強く湧きあがってきたので、すぐさまベルリンへと発った。そして、総統官邸で事務員として働き出し、次にヒトラーの秘書に応募したのだった。1942年11月末、秘書採用試験を受けるため、ユンゲを含む10人の女性が列車に乗って、東プロイセンにある総統大本営(狼の巣)に入った。女性達は緊張の面持ちで、ヒトラーのいる広間へと通された。ヒトラーは女性達の緊張を解きほぐすかの様に、にこにこしながらやって来ると挨拶を交わし、1人1人に手を差し出しながら、名前や住所を聞いて回った。


この中でユンゲは、ナチス揺籃の地である、ミュンヘン出身であったので、それが好ましく思われたようだった。それから2週間余り後、タイプライターの試験が始まった。まずユンゲが最初で、ヒトラーのいる執務室へと入った。ヒトラーはまず握手の手を差し出すと、次にタイプライターのある机へと導いた。部屋にいるのは2人だけで、ユンゲも緊張は隠せなかったが、ヒトラーはにこにこと優しげに、「あがったりする必要はまったくないんですよ。私だって自分で筆記する時でさえ、あなたが全然やりそうにない間違いを、たくさんやらかしますからね」と気遣った。ユンゲは、「ちっともあがったりしていません」と言い張ったものの、その手はぶるぶると震えていた。


その時、ノックがあって従卒が入って来ると、リッベントロップ外相からの連絡を告げた。ヒトラーはしばし、リッベントロップと電話で応対したので、その間にユンゲは落ち着きを取り戻す事が出来た。電話が終わると試験は再開され、ヒトラーが文章を読み上げて、それをユンゲがタイプに打ち込んでいく。全てを書き終えて提出すると、ヒトラーは素晴らしい出来である事を保障し、別れの挨拶をしてから執務に戻った。ユンゲはほっとして部屋を出たが、自分が受かったとは思っていなかった。しかしながら、ヒトラーはもう他の9人を試す気はなく、既にユンゲの採用を決めていた。


それから間もなく、ヒトラーはユンゲを呼び出し、「君には大変、満足している」と言い、それから、「あなたは、私の所にこのまま留まりたいですか?」と訊ねた。政治的に無知であったユンゲは、特別な職場で、素晴らしい、刺激的な体験を得られると思い、「はい」と答えた。こうしてユンゲは、2人の先輩秘書ヴォルフ嬢、シュレーダー嬢と共に、ヒトラーの秘書となった。それからの日々、ヒトラーと会いも話もせず、一緒に働かず、食事も共にしないという日は、ほんの僅かでしか無かった。しかし、これからの秘書生活では、タイプを打つより、社交相手としての役割の方が多かった。


ユンゲは、東プロイセンの地、狼の巣で働き始めた。冬の東プロイセンは、例えようもなく美しく、雪をかぶった白樺の森、澄み切った空、湖を囲む平原の広がりに感激させられた。だが、夏のプロイセンは、空気は湿っぽく淀んで、息苦しい上、無数の蚊が飛び交って人々を閉口させた。ヒトラーは散歩を日課としていたが、夏の間は、専用の涼しい退避壕に引き篭もっていた。ただ、そんな時でも愛犬ブロンディのためだけに、退避壕近くの一角はひと回りするようにしていた。ヒトラーは犬と遊ぶことが一番の息抜きだと言っており、ブロンディが数センチ高く飛んだりすると、大喜びした。ヒトラーは菜食主義者で、肉抜きの質素な料理をいつも食した。コックが味付けを良くしようと僅かばかり肉の脂を加えたりすると、大抵、ヒトラーはそれを見抜いて、胃の調子が悪くなったと怒るのだった。


1943年2月2日、スターリングラードに包囲されていたドイツ軍30万人余が、飢えと寒さに苦しんだ挙句、全滅した。ドイツの先行きに暗い影が差し始める。1943年3月末、ヒトラーはドイツ南東部にあるベルクホーフ山荘で休息し、そこで国賓を迎えるため、列車の旅路についた。それは豪華な専用列車で、壁は磨かれた高級木材で、床にはビロードの絨毯が敷き詰められ、豊かな食材を提供する食堂車両や会議も出来る応接車両、それに風呂付きのヒトラー用の個室が2つ備わっていた。ヒトラーはユンゲを含む5人を食事に招いて、会話をもった。ヒトラーは女性に対してはとても感じの良いホストで、好きな物を食べるように勧め、何か希望はないかと訊ね、以前この列車でした旅の話や、犬の話をユーモアを加えながら話し、自分のスタッフについて冗談を飛ばしたりした。


やがて、列車はベルクホーフ山荘に到着した。森や野原が広がり、その奥に山々がそびえる美しい場所だった。そして、この山荘には、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンが住まっている。エヴァはとても身なりがよく、いつも品良く装っていた。それでいて気取りがなく、自然体であった。エヴァは、ただ1人、ヒトラーを好きな時に撮影する事を許されており、度々、その姿をカメラや八ミリ映写機におさめようとした。ヒトラーは控えめに、ありのままに写される事を望んだ。エヴァの写真の腕は確かで、度々、上手い写真が出来上がった。


ヒトラーはこの山荘で、2つのまったく違う生活を送った。昼間は執務室に篭もって、軍、政治の最高指導者として激しい会議を持ち、夜になると、エヴァやユンゲを含む少数の取り巻きと穏やかなお茶会を持った。参加者は、コーヒー、紅茶、酒など好きな物が飲めたが、ヒトラーは専らリンゴ皮茶と、焼きたてのリンゴケーキを好んでいた。ヒトラーは少人数の食事時には、もっぱら、政治や軍事とはまったく関係の無い、上滑りな軽い話題を好んだ。同じくヒトラーの秘書であった、クリスタ・シュレーダーは、「お茶の時間に、世の中の事、前線での出来事に言及する事は許されなかった。戦争に関連する事は、全てタブーだった」と述べている。お茶会では、楽しい月並みな会話がもたれ、その中で揶揄を込めたやりとりが交わされた。


時にヒトラーは、自分の青春時代を面白おかしく話したり、人の物真似をしたりして、女性達を笑わせた。ヒトラーは、この夜毎のお茶会を子供のように楽しみにしていた。ヒトラーの愛犬、ブロンディも参加を許されており、人々の前で度々、芸を披露した。ブロンディは、ヒトラー自慢の大変賢い犬で、度々、茶会の話題となった。様々な客が訪れて、散歩やお茶会の供となった。中でも、ヒトラーは特にアルベルト・シュペーアをひいきにしていており、「彼は芸術家で、私と同類の人間だ。彼とはまたとないほど暖かい人間関係にあるんだ」と言うのだった。実際、シュペーアは好感の持てる楽しい男で、優れた才能も兼ね備えていた。


だが、ある時、ウィーンからヘンリエッテ・フォン・シーラッハ夫人が訪ねてきた時、 タブーとされている話題を、ヒトラーに持ちかけた。 「総統閣下、私、この前アムステルダルでユダヤ人の移送列車を見たんです。ぞっとしたわ。あの気の毒な人達がどんな様子だったか、あの人達はきっと物凄くひどい扱いを受けているのよ。御存知なんですか?あんな事お許しになるんですか?」 。ヒトラーは怒鳴り散らして、これに反論する。


その主張は、「毎日、大切な青年達が何万人も戦死している。最良の者達が失われ、ヨーロッパの釣り合いが取れなくなってきている。何故なら、劣等な連中が生きているからだ。それで百年、千年経てば、どうなると思う?私は自らの民族に対する義務を負っている」といったものだった。最後に、「あなたは憎悪する事を覚えねばならない。私もそうせざるを得なかったのだ」と言った。シーラッハ夫人は、少女時代からヒトラーと肉親のような付き合いをしていたが、「私はもうあなたのお仲間ではありません」と言って退出した。お茶会に気まずい空気が広がる。翌日、シーラッハ夫人は早々に帰された。客としての権利を超え、ヒトラーを楽しませるという義務を怠ったためであった。


1943年4月20日、ヒトラーは54歳の誕生日を迎え、それを祝うため、ヒムラー、ヨーゼフ・ディートリヒ、ゲッベルス、リッベントロップら、ナチス首脳が集った。昼食会が開かれ、ユンゲはヒムラーの隣に座った。彼は、親衛隊全国指導者にして、全ドイツ警察長官でもあり、絶大な権勢を誇る。その外観は官僚的かつ、偽善的に見えて感じが悪かった。ところが実際に話してみると、思いの他、礼儀正しくて、びっくりさせられた。口元には絶えず微笑を湛え、静かな語り口で魅力的な会話をする。


そして、自らが運営する強制収容所が、いかに素晴らしく組織されているかを、説明しだした。ヒムラーいわく、「収容者達に、私は個人個人に合わせて仕事を振り分けました。このやり方によって、完璧な保安はもとより、より良い成果、平穏、規律なども収容所にもたらされたのです」。ヒトラーはその解説に頷き、ユンゲを始めとする人々もその言葉を信じた。(実際には、ヒトラーがユダヤ人虐殺の指示を出し、それをヒムラーが忠実かつ、大々的に実行していた)


この頃、ユンゲは、ヒトラーの従卒を務めている、ハンス・ユンゲと親しくなり、婚約を交わす仲となった。ハンスは献身的な働きをもって、ヒトラーに大いに気に入られていたが、彼自身は、ヒトラーの身辺から離れたいと考えていた。ヒトラーの側にいると、その思考の世界にとことん影響されて、自分の本質を見失いそうになるからであった。ヒトラーの存在感は大きく、誰もがその強烈な個性の影響を受けずにはいられない。もう一度、自分自身を見つめ直すには、そこを離れる他無かった。


なので婚約に事よせて、前線勤務を申し出たのだった。そうとは知らないヒトラーはここでお節介を焼いて、ハンスが前線に赴く前に結婚するよう、2人に強く勧めた。2人は余計なお世話と苦笑したが、悪い気もしなかった。こうしてヒトラーに背中を押される形で、1943年6月19日、2人は結婚式を挙げ、正式に夫婦となった。だが、結婚の幸せはボーデン湖畔で過ごした、4週間の休暇だけであった。そして、ハンスは前線へと赴き、ユンゲは大本営に戻っていった。





↑エヴァ・ブラウンとアドルフ・ヒトラー


1942年6月19日、ベルクホーフ山荘のテラスで撮られた写真。ヒトラーの右にいるのは、シェパード犬のブロンディ。

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毛利隆元の苦悩

2016.09.09 - 戦国史 其の三

大永3年(1523年)、毛利隆元は、毛利元就の長男として生まれる。天文15年(1546年)、隆元24歳の時、50歳の元就より家督を譲られて、当主となった。この家督継承に当たって、元就は今後の心得を細々(こまごま)と書き記した書状を幾つか、渡した。

「書状九通、それに内に入れた書状一通、合計で十通であろうか。いずれも暇な時、手隙の時によくよく御覧になり、元就が申す事であっても、間違っているとお思いの事があれば、はっきりと異見を言ってください。話を聞きます。そのようにして、議論を戦わせてこそ、物事の分別や理非がはっきりするのです。思うところがあっても、心底に留めているだけでは、事は解決しないのです」


元就は、隆元に大きな期待を抱いていたが、同時に心配もしていた。

元就いわく、「隆元はまったくの正直者で、これでは今の世の中はやって行けない」

「今の時節は、誰が一番役立つ味方なのか、何が大切で何が不要なのか、どれを後回しにして、どれを急ぐべきなのか、隆元はその分別がちと弱いようだ。これも経験不足から来るものだろうか」

「万事をなげうって、隆元は稽古に励まねば駄目だ」

「隆元は、大変な孝行者である。神仏への信心も見事である」


元就は、隆元の実直な人柄を危ぶむと共に、評価もしていた。そして、まだまだ経験不足であると見なしていた。それでも元就は、当主としての隆元を全面に押し出していく。

「余所(よそ)への使者などの命令は、これからは隆元に行わせる」

「余所(よそ)への書状は、日夜、隆元から出させる」


元就は、隆元から相談される度、細かい助言を送って、陰から新当主を支えた。これらのやり取りは、書状で密密に行われた。書状を運ぶのは使者であるが、勿論、中を見る事は許されない。そして、元就と隆元の書状のやり取りでは、早く読んで相手に返すといった約束事が成されていたようである。元就からの書状には大抵、「この書状は読んだら返してください」と書き添えられている。また、隆元からの書状も読んだら返却していたようで、「なおなお、今朝の三通はお返ししました」とある。ところが、隆元はこれは思った書状は、手元に残して置く事があった。そんな事があるので、元就は追伸に、「この捻(ひねり、捻って綴じた文書の形)はすぐに返してください」と書いた上、包紙の上に更に、「この捻はすぐに返してください」と念を押す事があった。そして、時には書状を返却させるためだけに、書状を書き送ってもいる。「この前、御返事として出した書状を、この者(使者)に返してください。御返事は度重なる場合であっても返してください。もちろん、この捻も返してください」


元就の大変な几帳面さ、用心深さ、くどさが伝わってくるようである。現代人が見れば笑ってしまいそうになるが、戦国当時は常に生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、書状のやり取りこそが、情報伝達の主要手段であった。それに、元就の書状には、諸勢力との交渉、家臣達の取り扱い、家族内だけの愚痴や秘密など、他人には決して知られてはならないものが含まれていた。なので、ここまで書状の管理、すなわち情報の管理を徹底したのである。元就からの書状には、「この書状を見たら、誰にも見せずに燃やしさない」と注意書きを付け加えておいたものもあった。しかし、隆元はこれを燃やしもせず、返しもせず大切に保管した。元就は常日頃から、「書状は大事の物」、「いずれも暇があれば、隅々まで目を通しておきなさい」と言い聞かせていたので、実直な隆元は、それを忠実に守ったのである。その結果、これらの書状は後世まで残って、我々の目にするところとなった。


隆元は自分自身、まだまだ未熟だと感じていたので、絶えず父の指示を仰ごうとした。

元就の返書、「あなたの返事の通り、大小に関わらず、例え分かった事でも、密密に私に相談し、判断を仰ぐのが大事です。勿論、よくわからない事については申すまでもありません。そういう事なのですが、密密の事を頼める使いはそうはいませんし、文で伝えても、一通りの事しか表現できず、かえって相談がうまくいかない事もあります。そうなればあなた自身、軽々と山上まで登って来て、面談しなくてはなりません。そういうつもりでいてください。その上で書状で指示した事については、もちろん書状で対応してください」

元就と隆元は、共に吉田郡山城に住んでいたが、元就は山上190メートルの「かさ」と呼ばれていた本丸に住んでおり、隆元はそこから100メートル低い本城に住まっていた。しかし、隆元は、「かさと本城は遠く、何事も不便である」と述べて、この後、本丸から程近い尾崎丸に生活の場を移した。これも、元就の指南を受けやすくするためであろう。


隆元は、父の助言を忠実に守りながら、力を尽くして当主の重責を務めていた。しかし、自らの力量が父には及ばないとも自覚しており、自分の代で家を滅ぼしてしまうのではないかと、深く憂慮していた。天文23年(1554年)春、大敵、陶晴賢との戦いを目前に控えていた時、隆元は、山口にある国清寺(こくしょうじ)の僧侶、笠曇恵心(じくうん えしん)に宛てて、武運つたなく敗れた際には、死後の弔いをしてくれるよう依頼した。隆元は、恵心を心の師と仰いでいたようで、胸中を余す事なくさらけ出している。


「我が家も、父の代で終わると思います。私の代からは家運も尽き果てたようです。諸家興亡の中で、我が家だけが今日に至るまで存続しているのは、誠に不思議な事です。しかし、何時までも我が家が存続している訳は無く、私は家が滅びる時の主人として生まれて来ました。我が家は数代に渡って名を留め、父の代になり、その数代にも勝る名を馳せるようになりました。このため、例え私に才覚、器量があったとしても、父には及びもつきません。また、例え私が普通の人であっても、人は父と比べて大変、劣っていると見るでしょう。ましてや無才覚、無器量であったならば、言うまでもありません。我が家は、このように人にも知られるようになりましたが、それはひとえに父が一心の心遣い、苦労をしてきたからです。灯り消えんとして光増す、という例えの如く、家運もこれまででしょう。ともかく今生の思いは断ち切りました。今は来世にての安楽を願っておりますので、宜しくお導きください。しかし、このような事を言っているからといって、国を保つ事を油断している訳ではありません。十分には出来ないかもしれませんが、私なりに心掛けて努力しようと思っています。その事については、少しも疎意はありません。誠に恐れ入りますが、来世をお頼み致したく、この様に私の思いを残らずお話した次第です。なにとぞお頼み申し上げます」


これを読むと、隆元は気の弱い人物に思えるかもしれない。だが、彼には紛れも無く、戦国武将としての気概もあった。強大な軍事力を誇る陶晴賢に対し、元就は当初、恭順する姿勢を見せていたが、これと対決するよう主張したのは、他ならぬ、隆元であった。

隆元いわく、「晴賢は、元就を怖き者として恐れている。このためいずれは討たれる。ならば力のある時に戦うべきである」

そして、天文24年(1555年)、毛利家は総力を上げて厳島の戦いに臨み、見事、陶晴賢を討ち取る事に成功するのである。その立役者となったのが、隆元であった。


弘治3年(1557年)4月、大内義長を滅ぼした直後、毛利元就はこれを契機に、政務から一切手を引いて隠退すると言い出した。元就も61歳となっており、毛利家も力が付いてきた今、ここらが引き際と考えたのだろう。ところが、父あっての毛利家と考えていた隆元にとって、この隠退宣言は、晴天の霹靂であった。そして、隆元は、「父、元就が築き上げた領国を、自分の不器量、無才覚でつぶしては大変だ」と慌てふためき、しまいには、「長く家を保ち、分国を支配する事は出来ないから、隆元も隠居する」とまで言い出す始末であった。元就が翻意して隠退を撤回すると、隆元は安堵して再び、当主としての自覚を取り戻していく。それでも、時には、その責務に押し潰されそうになるのであった。

隆元いわく、「とにかく、元就の跡を継ぐ事が大変なのだ」

「自分の代で、毛利家を潰す訳にはいかないのだ」

恵心への私書、「名将の子には、必ず不運の者が生まれると申しますが、私には思い当たります」


陶晴賢、大内義長を滅ぼし、その領国を編入した毛利家は一躍、中国地方きっての大大名となった。だが、出雲国にはまだ強敵、尼子家が存在している事から、元就は油断せず、家中の引き締めを図った。その核となるのが、長男、毛利隆元、次男、吉川元春、三男、小早川隆景である。しかし、兄弟の仲は、必ずしもしっくりしたものでは無かった。元就はそれを憂いて、弘治3年(1557年)11月25日、かの有名な教訓状を書き綴った。

「毛利という名字を、力の及ぶ限り、末代までもすたらぬように心がけ、努力する事が大切である」

「元春、隆景は、すでに他家を相続している。けれどもこれは、当座のものに過ぎない。だから毛利の二文字を疎かにして、忘れるような事があれば、真に問題である」

「兄弟が少しでも喧嘩するような事があったなら、3人皆、滅亡するものと思いなさい」

「兄弟が仲良くする事は、亡き母、妙玖(みょうきゅう)への最大の弔いである」


これにて、隆元、元春、隆景の三兄弟の結束は強まったかに見えたが、実はそうでもなかった。


弘治4年(1558年)に書かれたと見られる隆元の覚書。

「私が足りないところを助けてくれるとのことだが、まったく何もしてくれない」

「吉田に2人が来ても、すぐに帰りたがる」

「何事も隆元をのけ者にして、2人だけでちこちこと話し合ってばかりいる。そのついでに他人とも、ちこちこと話し合っている。こちらからなつなつと話しかけても、相手にしてくれない」

弟達への不満を募らせた隆元は、ある朝、11箇条に渡って悩みを書き記し、それを元就に届けたのである。

それに対する元就の返書。長文なので中略してある

「今朝の書状、つぶさに拝見しました。元春、隆景に対し、思うところはよく分かりました。本当に、馴れ馴れしく、こまごまとした関係であるべきところを、次第にひたひたと疎遠になっていくとは困った事ですね。もっともなことです。私も、隆景が次第にひたひたと疎遠になっていく事に、腹が立つ事が多いです。あなただけでなく、私もそう感じています。もっともなことです。元春は前々から、付き合いの悪い者なので、言い様がありません。


隆景や元春も分かってはいるでしょう。ただ、他家を継げば、自然、自家の事を優先してしまいます。あなたと私との間でも問題は起こるのです。ましてや他家を相続しているのだから、そこのところをよく思いやって、互いに分別をわきまえるのが大事です。いつも父を頼ってばかりいては駄目ですよ。何事も兄弟で相談するようになさい。2人には私からも話しておきます。隆元の言う事はもっともです。私もそう思います」


元就から諭されたものの、それでも隆元には不満が残った。

「兄の言う事であっても、堪忍して受け入れず、隆景は心のままに動いている。それは、隆元を見限る行為である。小早川より下に私がいると言う事は、ひとえに私に才覚が無いからだと人は言っている」


この様に三兄弟は、元就が教訓状を送ったにも関わらず、すれ違いや衝突が絶えなかったようである。それでも3人共、道義はわきまえていたようで、深刻な対立に至る事は無かった。元就のくどいまでの説教が、功を奏したと言えよう。そして時には、兄弟仲良く、酒を酌み交わす事もあった。永禄4年(1561年)3月26日、毛利元就、隆元父子は重臣を引き連れて、三原にある隆景の居城、雄高山城(新高山城)まで旅行に出向いた。3月27日、一行が到着すると、そこから10日間、隆景は心を込めて饗応し、隆元を訪ねて酒を酌み交わしたり、隆元も宿所に隆景を招いて饗応したりしている。


永禄5年(1562年)12月、この時、元就は、出雲国、洗合(あらわい)の陣中にて、尼子攻めの指揮を取っていた。留守を預かっていた隆元は、66歳の老父の身を気遣って、厳島の神に向かって願文を捧げた。

「どうか父の体が健康で、長生きできますように。もし、巳歳の厄難がふりかかるならば、その難は隆元が引受けて、身代わりとなります」

しかし、その願いが天に通じてしまったのか、それから9ヵ月後の永禄6年(1563年)9月1日、隆元は、父のいる出雲に向かっている途中、安芸国佐々部にて急死してしまう。毛利隆元、享年41。


隆元の死後、国清寺の恵心は、隆元から送られてきた書状の数々を、元就に送り届けた。元就はそれを読んで、生前の隆元の心の苦しみや、父への溢れんばかりの思いを知った。これらの書状は、吉川元春や小早川隆景も拝見したようである。


元就の返書 、「隆元の書き置きをお贈り頂きましたところ、毎日見ては言葉にもならず、涙が絶えません。和尚(恵心)のことを、これほど頼りにしていたとは存じておりませんでした。お願いします、是非共、国にお越しください、共に隆元の菩提を弔ってください」


隆景の返書 、「御手紙を拝見致しました。隆元の書き置きを数通、送って頂きましたが、誠に、是非に及びません。これほどまで思いつめておられたとは、まったくもって言葉にもなりません。これらの書状の文面から、兄の深い思いが見えてきました。今まで、気付きませんでした。来世の事まであなた様を頼りとしていたようですので、このうえは安芸においでになり、隆元のために寺を建立してくださいますよう。元春も私も出来る限りの助力を致します。元就の御心底のほどは、御察しください。寺のことは、急ぎお願いしたいとの事であります。 くれぐれもお願い致します」


元就は、恵心に吉田に来て隆元の菩提を弔ってもらいたいと依頼した。同じ依頼は、吉川元春や小早川隆景からも届けられており、こうして郡山城内に隆元の菩提寺、常栄寺が建立された。

元就いわく、「私は、隆元の存命中は、世の中の恐れも少なく、心強く思っていた」

この元就の言葉こそ、隆元に対する最大の評価ではなかろうか。隆元は、偉大な父と常に見比べられながらも、自らの実直さを持って、国家を堅実に運営した。そして、当主の重圧に押し潰されそうになりながらも、懸命に責務を果たし続けた。元就だけでなく、元春や隆景も、亡くしてから初めて、その存在の大きさに気付いた事だろう。



↑毛利隆元像



隆元の死去を受け、元就は、孫の輝元を当主の座に付けた。しかし、まだ11歳の幼年であったので、自らが実権を握ると共に、輝元の補佐役として、吉川元春と小早川隆景を権力の中枢に据えた。3人で政務、軍務の分担を計ったが、それでも最高指導者として、元就にかかる心身の負担は重かったに違いない。永禄9年(1566年)には、病を患って一事、重篤になるも、京から呼び寄せた名医、曲直瀬道三の治療をもって回復に努め、同年9月には、尼子家を滅ぼして、毛利家を中国地方の覇者の座に押し上げる事に成功する。元亀元年(1570年)9月、元就は病が再発し、輝元、元春、隆景の懸命の看病を受けて一時、持ち直すも、元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城にて死去した。毛利元就、享年75。隆元の死から8年後の事であった。


主要参考文献、館鼻誠著「戦国争乱を生きる」



金沢城

金沢城は、石川県金沢市にある平山城である。


天文15年(1546年)、加賀国を支配していた一向一揆は、統治拠点を設けるべく、犀川と浅野川に挟まれた台地上に、城郭風の寺院、尾山御坊(金沢御堂)を築いた。以降、尾山御坊は本願寺の北陸における一大拠点として用いられ、ここを発した一向一揆軍は、有力戦国大名の朝倉義景や上杉謙信とも戦った。しかし、畿内の覇者、織田信長の攻勢には抗しかね、天正8年(1580年)、織田家部将、佐久間盛政の攻撃を受けて、尾山御坊は落とされた。 戦後、佐久間盛政は功績として加賀半国の統治を委ねられ、尾山御坊を金沢城と改称して本拠に定めた。 天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで敗れた盛政は5月に刑死し、代わって、能登一国の領主であった前田利家が、金沢城と加賀半国を受け取った。


利家は金沢城を本拠と定めると、新たに堀を穿ち、櫓や郭(くるわ)を増設し、天守閣を築くなどの大改修を加えた。工事はその後も続けられ、前田家の領国拡大と合わせて、城は拡張されていった。慶長4年(1599年)、利家は死去し、長男の利長が跡を継いだ。この利長の時代、前田家は能登、加賀、越中の3カ国、122万5千石を支配する、日本最大の外様大名となった。その後、加賀大聖寺藩10万石、越中富山藩10万石が成立、分与されたので102万石となるが、それでも徳川家に次ぐ実力者である事に変わりはなく、家格も徳川家に次ぐものがあった。そして、金沢城とその城下町は、いわゆる加賀百万石のお膝元として栄え、北陸最大級の都市へと発展する。


しかし、金沢城は火の運が悪いようで、度々、焼失を受けている。

慶長7年(1602年)、落雷を受けて、天守閣と本丸の建物が焼失する。これ以降、天守閣が再建される事は無かった。

元和6年(1620年)、火災を受けて、本丸御殿が焼失する。

寛永8年(1631年)、城下の大火を受けて、再建された本丸御殿が焼失する。これ以降、本丸の機能は二ノ丸に移されていった。

宝暦9年(1759年)、城下の大火を受けて、城内ほぼ全域が焼失する。この火災は城のみならず、城下の90パーセント、10,500戸以上を焼き尽くす大惨事となった。おそらく、千人余の死者と万を超える被災者が出ただろう。このため、加賀藩は幕府より5万両を借用して復興に努めた。

文化5年(1808年)、二ノ丸御殿が出火して、全焼する。

明治4年(1571年)、金沢城は陸軍省の管轄下に入り、師団の司令部が置かれるも、明治14年(1881年)、営所より出火して、再建された二ノ丸御殿、五十軒長屋、橋爪門などが焼失する。


現在、金沢城は、石川県が用地を取得して、史実を尊重しつつ、伝統工法と現在工法を織り交ぜて建物を再建しつつある。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑石川門

金沢城の特徴の一つが、この独特な外観の海鼠塀(なまこべい)です。


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑手前が河北門で、奥が五十軒長屋



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑河北門から見た五十軒長屋



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋から見た、三の丸広場


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋内部

伝統工法と現代工法の双方が、用いられています。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑三十軒長屋

安政5年(1858年)に再建された長屋で、重要文化財に指定されています。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑極楽橋付近の石垣



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑玉泉院庭園

寛永11年(1634年)、三代藩主、前田利常によって作庭された庭園で、その後、歴代藩主によって手が加えられていきました。明治時代に廃絶され、大正時代に池は埋め立てられましたが、平成27年(2015年)、絵図、文献等を参考にして復元されました。


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑玉泉院庭園と奥に本丸石垣

金沢城を散策するなら、合わせて兼六園や東茶屋街を散策するのをお勧めします。そして、食事は近江市場で取っては如何でしょうか。

但馬八木城

八木城は、兵庫県養父市にある山城である。



八木城の始まりは定かではなく、建久5年(1194年)~正治2年(1200年)頃、但馬国養父郡朝倉を本拠とする、朝倉高清が築いたのが最初とされている。高清は、次男、重清を城主として、同時に八木姓を名乗らせた。尚、この但馬朝倉氏からは更に一派が分かれて、後に越前朝倉氏を築く事になる。南北朝時代、八木氏は、当時、山陰に勢威を振るった山名氏に従って、山名四天王の1人に数えられた。八木氏は但馬を代表する国人の1人となり、八木城も時代が下るに連れ、発展していった。八木城は大きく二つに分かれており、標高409メートルの位置に南北朝時代に築かれたと見られる八木土城があり、それより低い標高330メートルの位置に本丸があり、ここが防御の要となっていた。



戦国時代の八木城は、上下一体で運用され、普段の政務や生活は、麓に築かれた居館で営まれていたと見られる。15代当主、八木豊信(1524~?)の時代になると、400年近くに渡って君臨してきた八木氏にも、戦国の荒波が押し寄せる事になる。当初、豊信は山名氏に従っていたものの、西の毛利家の勢力が強くなると、これに属した。しかし、東の織田家の勢力も強くなると、但馬は両者がせめぎ合う地となり、天正5年(1577年)には、織田家の部将、羽柴秀長の侵攻を受けた。これは何とか凌いだものの、天正7年(1579年)頃、抗しきれないと見て織田家に降参した。


豊信は、羽柴秀吉に属して、因幡国に知行を与えられ、若桜鬼ヶ城の守備を任された。その後の豊信の足取りは不確かで、天正9年(1581年)4月と、天正10年(1582年)2月の2回に渡って津田宗及の茶席に招かれたのが確認されており、また、九州に渡って、島津四兄弟の末弟、島津家久(1547~1587年)に仕えていたのも確認されている。八木城主時代の豊信の花押と、島津仕官時の花押の文字が一致しており、家久の右筆(ゆうひつ・秘書役)として仕えていたようだ。豊信の没年は不明であるが、地味ながら、数奇な生涯を辿ったと言えよう。



天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命を受け、別所重棟が八木城に入り、1万2千石を領した。この別所時代、八木城は近代改修され、石垣が施された。天正19年(1591年)、重棟は死去し、嫡男の吉治が継いだ。文禄元年(1592年)、吉治は、朝鮮出兵に従って3千石を加増され、1万5千石となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折には西軍に従って、丹後田辺城の攻撃に加わり、これを落とすのに貢献した。しかし、関ヶ原本戦は東軍の勝利に終わり、吉治は改易の危機に瀕するも、許されて丹波の北由良に転封となった。これに伴い、八木城も廃城となった。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑見張り所の様な跡

登城口から、しばらく登るとあります。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸からの眺望は、木々に阻まれてほとんど望めませんでした。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑本丸跡と石仏

左奥の山が、八木土城です。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑南面の石垣



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑北面の石垣

ここから北の山を登っていくと、八木土城に繋がります。


但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木土城

段丘状になっていて、郭が連なっているのが分かります。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木土城、最高所

ここが八木城の最高所で、今でも土塁がはっきりと残っています。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木城北面

北面は切り込んだ谷と山があるので、こちらからの攻撃はまず無理でしょう。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木城南面

南面はやや開けており、ここに小さな城下町がありました。南面には、血の谷と呼ばれる場所があって、かつて羽柴秀長軍と八木城の城兵が戦って、両軍の戦死者で真っ赤に染まったとのいわれがあります。やはり、攻城軍は、南から攻めてきたのでしょう。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑麓から見た八木城

八木城は、山間の小大名の居城であったので、それに見合った小振りな造りですが、八木土城と合わせるとそこそこの規模になります。

ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 終

ここから日にちを、4月29日に戻す。グライムとライチュは、ベルリンを飛び立ってから50分ほどして、レヒリンに到着した。だが、そこもソ連軍機の攻撃を受けており、着陸はそれを掻い潜ってのものとなった。到着すると、グライムはすぐさま、ヒトラーの第一の命令を果たすべく、現存する航空機の全てを、ベルリン救援のために向かわせた。これらの航空機はベルリンの包囲網内に補給物資を投下し、現地のドイツ軍はパンツァーファウスト十発余、砲弾十数発、医薬品を少々、受け取った。しかし、ソ連軍数十万人に対しては、何の意味も無かった。



それから、グライムとライチュは、ヒトラーの第二の命令、ヒムラーの逮捕を果たすべく、プレーン(ドイツ北部の都市)に向かった。5月1日、プレーンにて、海軍元帥カール・デーニッツを首班とする新政府が発足する。そして、同日夜半、グライムとライチュは、ヒトラーが自殺した事を知った。5月2日、グライムは新政府の会議に参列し、ライチュはその外で、ヒムラーの来着を待った。ヒムラーは遅れて姿を現し、ライチュもその姿を認めて、彼を告発すべく質問を投げかけた。



ライチュ、「全国指導者閣下、あなたが連合軍と接触して、ヒトラーの指示無しに講和を申し入れたと言うのは本当ですか?」


ヒムラー、「勿論ですとも」


ライチュ、「あなたは最も困難な時に、祖国と国民を裏切ったのです。これは国家的な裏切りです、全国指導者閣下。あなたがそれをするのは、地下壕で総統と共にいなければならない時だったはずです」



ヒムラー、「国家的裏切りだって?それは違う!歴史が違う評価を付ける事が、あなたにも分かる事でしょう。ヒトラーは戦争を続けようとしていた。彼は誇りと名誉に憑かれて、気が変になっていた。彼はまだ、ドイツの血を流そうとしていたが、もう血など残っていなかったのだ。ヒトラーは気が変になっていた。こんな事はずっと以前に終わりにするべきだったのだ」



ライチュ、「気が変になっていたですって?私が彼の所から出てきて、まだ36時間も経っていないのですよ。彼は自分が信じる事業のために死んだのです。彼は、あなたの言う名誉に包まれて勇敢に死にました。ところがあなたやゲーリングなどは、裏切り者、臆病者のレッテルを張られて生きていかねばならないのです」



ヒムラー、「私は自分に出来る事をした。ドイツの血を救うために。私達の国にまだ残っているものを救うために」



ライチュ、「全国指導者閣下、あなたはドイツの血と言っているのですか?あなたは今、それを言うのですか?あなたがそれを考えねばならなかったのは、何年も前の事です。あなたがこれだけの量の無益な流血を我が身のものと感じるよりも、前の事なのです」



突然の空襲によって、会話は中断された。ヒムラーは親衛隊の全国指導者にして、全ドイツ警察長官であり、今だ隠然たる勢力を保持していた。デーニッツのもとにも、ヒムラー逮捕命令が届いていたが、彼の力を警戒して、州の行政長官の地位を授けるに到っていた。なので、ライチュに出来るのは、ここまでであった。当時のライチュは知らなかったようだが、ヒムラーは、ユダヤ人虐殺の実行責任者であって、数百万もの人々を死に至らしめていた。そんな男が連合軍に和平交渉を持ちかけたのは、同胞の流血には心を痛めていたのか、それとも単に保身のためにしたのか、それは人々の判断に委ねられる。



5月7日、グライムとライチュは、政府の命を受けてオーストリアの都市ツェル・アム・ゼーに飛んだ。そこにいるアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥に、政府の指示を伝えるためであった。しかし、5月8日、ドイツは降伏し、ヨーロッパの戦争は終わった。5月9日、グライムとライチュは米軍に出頭し、捕虜として拘禁された。2人の戦争も、これで終わった。だが、グライムはソ連軍に引き渡されると知って絶望し、5月24日、ヒトラーから受け取っていた毒薬を仰いで自決した。ローベルト・リッター・フォン・グライム、52歳。



ヒムラーは5月22日、イギリス軍の捕虜となったが、翌23日、粗略な扱いに耐えかねて、毒薬を仰いで自決した。ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー、44歳。ゲーリングは5月7日に米軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判にかけられて絞首刑を宣告されたが、この処刑方法に納得せず、1946年10月15日、青酸カリを飲んで自決した。ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング、53歳。ライチュは15ヶ月間の勾留の後に、釈放された。しかし、故郷ヒルシュベルクにいたライチュの父、母、妹、妹の子供達は、ヒルシュベルクのポーランド編入に伴うドイツ人追放を前にして、一家心中を果たしていた。ライチュもまた自殺を考えたが、自らが見てきた真実を語るため、生きる事を決した。戦後、ナチスが隠してきた犯罪行為の数々が暴かれると、それを受けてか、ライチュも、「ヒトラーは、全世界に対する犯罪者として命を断った」と語った。



しかし、すぐにこうも付け加えた。

「彼は、最初はそうでは無かった。初め、彼が考えていたのは、いかにドイツを立ち直らせるか、いかに自国民が経済的不自由なく、しっかりとした社会保障を受けて暮らせるか、ということだけであった。そのために彼は、様々なゲームを行った。最初の危険な賭けに成功すると、賭博者の誰もが犯す間違いに陥った。すなわち、より大きな危険を冒し、それに勝つと、更に大きな賭けに出るのだった。成功する度、民衆の熱狂は高まり、その支持を背景に彼は次の一歩へと進んだ。やがて誇大妄想に憑かれて、ヒトラー自身が変わってしまい、理想主義者、庇護者から、貪欲で腹黒い独裁者に変貌して、自らもその犠牲となった。世界史において、これほどの権力を1人の人間が獲得する事をもう許すべきではない」と語った。


ライチュはこう述べているが、1925年にヒトラーが執筆した、「我が闘争」では、既に反ユダヤ主義と東方進出が述べられている。ヒトラーが政権を握るのは1933年であるが、それ以前から、その侵略的性向は露わとなっていた。ライチュも大勢のドイツ国民と同様、ヒトラーの本質を見抜けず、強烈な個性に魅せられ、その弁舌によって踊らされた一人と言えよう。しかしながら、第一次世界大戦後のドイツ国民は、懲罰的なヴェルサイユ条約や世界恐慌によって苦しめられており、現状を打破せんとするヒトラーに、大いなる期待を抱いたのも無理は無かった。救世主と見なした男が破滅をもたらすなど、極少数の人間を除いて、予想出来なかった。



ライチュは、1912年にドイツ領ヒルシュベルク(現ポーランド領、ドルヌィ・シロンスク県)に生まれ、学生の頃より空を飛ぶ事に憧れを抱き、1932年、グライダーによる初飛行を果たした。1937年、ドイツ空軍の飛行学校に女性として初めて入校し、テストパイロットとなった。1938年には、女性としては初となる、ヘリコプター飛行を行う。1941年3月28日、それまでの飛行試験の功績を讃えられて、ヒトラーより2級鉄十字章を授与された。同年には、ロケット戦闘機Me163の飛行試験を行うが、5回目の飛行試験中、意識不明になるほどの重傷を負い、5カ月間の入院を余儀なくされた。この時、瀕死の身でありながらメモを取っており、尋常ではない意志の強さを見せている。しかしながら、テストパイロットに必要な分析的知性には欠けており、彼女の報告はあまり役立たなかったという声もある。



ナチスはライチュの話題性を買って、大いに宣伝材料とした。そして、ドイツ空軍のあらゆる航空機を操縦する、特別許可を与えた。ライチュもナチスに傾倒したが、党員にはならず、反ユダヤ主義には反対の立場をとっていた。熱烈な愛国心の持ち主で、国家やヒトラーに対して、死をも辞さない忠誠心を持っていた。1944年2月28日には、女性唯一となる1級鉄十字章を授与される。この鉄十字章を、ライチュは生涯、持ち続けた。戦後も空への憧れと挑戦心を持ち続け、1955年にはグライダードイツチャンピオンとなった。1970年代、老年となっても活発に飛行し、女性による飛行滞在時間、飛行距離、飛行高度などの世界記録を次々に塗り替えていった。1979年8月24日、ドイツフランクフルトにて、心筋梗塞で死去。ハンナ・ライチュ、67歳。生涯、独身だった。






↑1941年3月、ヒトラーより2級鉄十字章を授与されるライチュ。中央はゲーリング




↑戦後、1947年に撮影された、総統官邸



主要参考文献、「KGB㊙調書・ヒトラー最後の真実」


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