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波賀城

波賀城は、兵庫県宍粟市にある山城である。


伝承によれば、その昔、波賀七朗なる武士がこの地に城を築いたのが最初とされる。13世紀中頃には、鎌倉幕府御家人の中村氏がこの地に入り、戦国時代末期に至るまで治めていた。その後、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による播磨攻めの際に落城したと思われる。波賀城の歴史は不確かで、廃城の時期も定かではない。















↑二層櫓





↑二層櫓





↑二層櫓内部

木造建築で、ちょっとした資料館となっています。





↑北西を望む






↑西を望む




↑南西を望む

波賀城が、三つの街道を制する位置にある事が分かります。




↑北を望む






波賀城の人影はまばらで、眼下に広がる景色を静かに堪能出来ました。11月初旬であったにも関わらず、まだツクツクボウシが一匹だけ鳴いていました。

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佐用城(福原城)

佐用城は、兵庫県佐用郡にある平山城である。


南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨赤松氏の一族、佐用範家が築いたのが、佐用城の始まりとされる。その後、同じ赤松氏の一族、福原氏が城主となったため、福原城とも称された。戦国時代、福原氏最後の当主となったのが、福原則尚(ふくはら のりなお)である。佐用城は、近隣にある上月城と共に赤松氏の城郭群を担っていたが、織田信長の勢力が播磨にまで伸びてくると、その部将、羽柴秀吉の攻撃を受ける事となった。そして、天正5年(1577年)11月27日、秀吉自身は上月城を攻め立て、佐用城には与力の黒田孝高と竹中重治を差し向けた。


秀吉自身の文書によれば、佐用郡にある敵城三つの内、佐用城の城兵が打って出て来たので、竹中半兵衛と黒田官兵衛を先陣として、これを迎え撃たせ、数多を討ち取った。秀吉配下の平塚三郎兵衛が城主(則尚)を討ち取り、助太刀に来た城主の弟も討ち取ったとある。信長公記によれば、城兵250人余が討死したそうだ。翌11月28日、秀吉は上月城に攻めかかり、7日後に城兵は敵わずと見て、城主、赤松政範の首を差し出してきたが、秀吉はこれを許さず、城兵を備前、美作国境に連行して、悉く磔(はりつけ)に処したとある。こうして佐用城と上月城は、共に凄惨な最後を迎えた。それからほどなく、佐用城は廃城になったと思われる。






↑本丸跡





↑説明版





↑福原霊社

落城時の城主、福原則尚の首級と魂を祀るため、地元の人々が建てたものと伝わります。そのため、この神社は、頭様(こうべさま)とも云われているそうです。





↑佐用城の郭(くるわ)跡





↑福原霊社から東を望む

秀吉軍との戦いでは、この正面が主戦場だったのでしょう。





↑福原霊社脇の道路

ここは、空堀だったのかもしれません。


城の写真は少ないので、ついでに寄った、飛龍の滝の写真も載せておきます。佐用郡にあって、落差は20メートルとの事です。





↑飛龍の滝





↑滝の不動明王

増水していて、不動明王の姿は確認出来ませんでした。




↑飛龍の滝

普段はもっと水が少ないようですが、この日は雨の翌日だったので、水量豊富で迫力ありました。





↑飛龍の滝

苗木城

苗木城は、岐阜県中津市にある山城である。一般的には知名度に欠けるが、見応えのある石垣と、麓を流れる木曽川に、背景の恵那山が相まって、風光明媚な姿を醸し出している。


築城年代ははっきりせず、美濃国東部に勢力を張る遠山氏によって、天文年間(1532~1555年)に築かれたと見られる。遠山氏は、源頼朝の重臣であった遠山景廉(とおやま かげかど)を祖として、代々、東美濃を統治していた。本家は岩村城を居城としていたが、戦国時代に到ると一族が分派して苗木城を築き、苗木遠山氏となった。戦国時代後半、遠山氏は、東の武田信玄と西の織田信長の狭間に置かれて、揺れ動いていた。当時の岩村当主、遠山景任(とおやま かげとう)は、武田、織田に両属する姿勢を取っていたが、元亀3年(1572年)5月頃に病死すると、信長はすかさず、四男の御坊丸と軍勢を送り込んで、岩村城と遠山氏を織田方に取り込んだ。そして、景任夫人で、信長の叔母にあたる、おつやの方を御坊丸の後見人とした。


元亀3年(1572年)10月、武田信玄が西上作戦を開始すると、織田の在番兵は岐阜城防衛の為、岩村城から出払った。同年11月14日、その隙を突いて、武田部将、秋山虎繁が攻め寄せてくると、おつやの方はすぐさま城を明け渡した。そして、虎繁と婚約を交わし、御坊丸も差し出した。だが、苗木遠山氏の方は、織田方に止まった。天正2年(1574年)1月27日、信玄の跡を継いだ、武田勝頼は東美濃に侵攻し、織田方の明知城を囲んだ。同年2月、明知城は落城し、苗木城も同じく落城して、苗木遠山氏は織田家に亡命したと見られる。天正3年(1575年)5月21日、織田信長は、長篠の戦いで勝頼を破ると、勝利に乗じて、嫡男、信忠に大軍を授けて、岩村城を攻めさせた。そして、同年11月21日、織田軍は岩村城を落とすと、秋山虎繁とおつやの方を処刑し、岩村遠山氏も悉く討ち果たした。


その一方、苗木遠山氏の友忠は、苗木城主に返り咲いたと見られる。天正10年(1582年)2月1日、友忠は、武田部将、木曽義昌に調略を仕掛けて、内通させる事に成功し、これに乗じて兵を出すよう、織田信忠に注進している。そして、織田家はこれを足掛かりとして、武田討滅に成功した。しかし、同年6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、東美濃は群雄割拠状態となった。友忠は、同じ東美濃の領主、森長可と敵対するも、長可の勢いは強く、苗木城も攻め立てられた。友忠は一度は森軍を撃退したものの、次の攻撃には耐えられず、天正11年(1583年)5月、苗木城を捨てて、徳川家康の下に逃げ込んだ。友忠はそのまま客死したらしく、嫡男の友政が跡を継いだ。


一方、苗木城を支配していた森氏は、慶長4年(1599年)、信濃川中島に転封され、代わって川尻直次(秀長)が城主となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きると、川尻直次は西軍に加わって、苗木城から出陣した。遠山友政は家康方の東軍に加わって、東美濃攻めを命じられる。そして、旧領、苗木城に攻めかかって、奪還する事に成功した。戦後、その功をもって、友政は苗木城とその周辺、1万500石の知行を与えられる。以後代々、遠山氏は苗木城を居城として、統治に務めた。しかし、小藩ゆえの財政難に苦しみ、幕末には借金は14万両に達して、財政破綻してしまう。そうした状況で明治の世を迎え、遠山氏による統治も終わりを向かえた。そして、苗木城も廃城となった。




↑風吹門





↑大矢倉

結構、立派な造りでした。





↑大門跡





↑菱櫓門跡





↑千石井戸と石垣





↑天守台

昔は小振りな天守閣が建っていたようですが、現在は展望台となっています。



↑天守台より東を望む

ここからの眺めが、一番良かったです。奥には恵那山がそびえ立っているのですが、雲に隠れてしまっています。





↑天守台より、北を望む

木曽川が流れています。




↑天守台より西を望む





↑馬洗岩

天守台直下にある大岩です。

「カザンからホーフガイスマーまで」3千キロの逃避行

2017.08.05 - 歴史秘話 其の三

第二次大戦末期、ドイツの東西戦線は崩壊し、それに合わせて膨大な戦死、行方不明者を出し続けていた。そして、1945年3月6日、ドイツの都市ホーフガイスマーに住む、ヘートヴィッヒ・ビーラー夫人は、一通の封筒を受け取った。そこには、「夫君、第57擲弾兵連隊第2大隊主計へルマン・ビーラーの行方に関する調査は終了したが、徹底的な解明は出来なかった。ご主人はルーマニアのサラータ近郊の戦闘以来、つまり1944年8月22日以来、行方不明である。確たる情報をお知らせできず、残念至極であるが、ご主人がまだ元気でおり、いつの日かつつがなく帰郷される事を、共に望む次第である」とあった。夫人は、2人の娘を抱き締めて悲嘆にくれた。だが、一縷の望みもあった。それは死亡通知ではなく、行方不明とあったからだ。いつの日か、必ず夫は帰ってくる、夫人はそう信じた。


その頃、ヘルマン・ビーラー本人は、生きていた。ヘルマンは、ソ連のセロニ・ドルスク収容所に在って、強制労働をさせられていた。その収容所は、ロシアの奥深く、ソ連の首都モスクワから更に東に800キロの地点、ヴォルガ河河畔の都市、カザンの近郊にあった。当初、ヘルマンは元気であったし、労働もさほど過重だと思わなかったが、徐々に肉体的、精神的に弱っていくのを感じた。なんの自由も娯楽も無い鉄条網内の収容所暮らし、腐臭の漂う粗末な食事、日々の肉体労働、この単調な生活がひたすら続くのだ。これで、健康であり続けろと言うのが無理な話であった。


ソ連の捕虜となったドイツ人は300万人以上いたが、その内、100万人以上が死に至ったと云われている。1946年初夏、ヘルマンが捕虜となってから2年が経ち、その間に戦争も終わっていた。しかし、ヘルマンを始め、ドイツ人達が解放される予兆はいまだ無かった。そんな時、収容所にある噂が広まった。それはソ連の西部にある収容所から、捕虜が順に解放されていくといったものだった。しかし、ヘルマンのいるセロニ・ドルスク収容所は、ドイツから遥か3千キロも離れていた。噂によれば、東ほど帰郷は遅れるとの事だった。ヘルマンは既に42歳になっており、この生活をあと数年続けられる自信は無かった。


恐怖と焦燥に駆られたヘルマンは、ついに脱走を決した。それは危険な賭けであった。捕まれば、良くて、殴られ食事を減らされての禁固刑、悪ければ、即銃殺である。後者の場合、見せしめとして、死体が収容所に晒される場合もある。脱走、それは捕虜なら誰もが頭に思い描いた夢物語だが、途方も無い距離と危険を鑑みて、実行する者はほとんどいなかった。その数少ない脱走者も、広大なソ連の国土から逃れる事は適わず、ほとんどが無残な失敗に終わっていた。そこで、ヘルマンは大胆不敵な脱走計画を立てた。ロシア人に紛れて列車に乗り込み、最短でソ連の国土を抜けようと考えたのだ。それも、ソ連の首都、モスクワを経由してのものだった。


ヘルマンは、パンを乾かして蓄え、建設作業の労賃も貯えた。そして、ドイツの軍服と交換して、ロシアの労働者服を手に入れた。ヘルマンには、ロシア語が喋れるという大きな強味があった。ロシア語が堪能だと、ロシア人社会に溶け込みやすく、ドイツ人だとばれる心配も少ない。ヘルマンは手始めに、建設現場からの脱走を考えた。しかし、作業現場に向かう往復の行進は、銃を構えたロシアの監視兵が付くので、まず無理だった。作業現場に着けば、監視兵が塔に上がり、そこから建設現場全体を見渡すので、これも無理だった。だが、監視兵が捕虜に背を向ける瞬間もあった。それは、監視兵が塔に向かい、登りきるまでの僅かな隙であった。


1946年8月6日朝、捕虜達は整列して、作業現場へと歩き出した。この日、ヘルマンは貯えた賃金とパン、それに大胆な脱走計画を持って行った。現場に到着すると、いつもどおり監視兵が塔に向かい始めた。今だ!ヘルマンは一軒の家の裏手に回り、前方に広がるジャガイモ畑に飛び出した。一心不乱に走る。背後からの銃声を恐れたが、幸い、撃たれなかった。西へ、西へ、息を弾ませて走っていく。やがて、家並みが現れ、カザンの郊外に達した。市電が走っており、ヘルマンは堂々とそれに乗り込んで、市内へと向かった。市内の駅で降り、30分並んでパンを買い求めた。大勢の市民、兵士、警察がいたが、青い労働者服を着て、雑踏に溶け込んでいるヘルマンを怪しむ者は、誰もいなかった。


線路に沿って西に向かって歩き出すと、ヴォルガ河に架かる大きな橋に達した。しかし、そこには歩哨が立っていて、通行人を調べている様子だった。ヘルマンはしばらく身を潜めて、観察していると、列車が通過する度、橋の手前で減速している事に気が付いた。そこで、暗くなってから橋に忍び寄り、減速した列車に飛び乗った。ヘルマンは貨車に隠れて、広大なヴォルガと歩哨をやり過ごした。2時間後、列車は停車し、ヘルマンは降り立った。その時、不意に懐中電灯の光を浴びせられ、心臓が凍り付いた。そこには、武装した鉄道公安官が立っていた。ところが、相手は体制に忠実な役人では無かった。公安官は、ヘルマンをキセルしたロシア人だと見なして、「金はあるか?」と問うてきた 。


ヘルマンが50ルーブル渡すと、公安官はある方向を指差し、「あそこに乗り換えの列車が停まっている。もうすぐ発車だ。とっとと失せろ」と言った。ヘルマンは言われた通りの列車に向かい、貨車に隠れ込んだ。列車が出発して数時間経ったが、ここでヘルマンは間違いを犯した。暗い内に飛び降りるべきであったのに、夜明けまで乗って、終点に着いてしまったのだ。ヘルマンは貨車から這い降りていったが、その様子をロシアの監視兵に見られていた。ロシア兵が、「どこへ行く?どこから来た?」と近寄って来た。そして、最も恐れていた、「身分証は?」との質問をされた。ヘルマンは、前回の公安官の件を思い起こし、再び買収すべく、金を取り出した。しかし、今回の相手は、体制に忠実であった。ヘルマンは銃を突きつけられ、駅の公安室に連行されて、そこで3人の警察官に引き渡された。


ヘルマンは厳重に監視されたが、列車が入って来ると、2人の警察官が検査のため、そちらに向かった。残った1人の様子を窺いつつ、隙を見てドアを飛び出した。後ろから大声が上がったが、銃弾は飛んでこなかった。ヘルマンは走りに走って最終車両にしがみ付き、やっと乗り込んだ瞬間、列車は走り出した。今度は、次の駅に着くまでに飛び降りた。通報されている恐れがあるので、駅手前の藪で暗くなるまで身を潜め、次の列車がやってくると、貨車の下部にある鉄の支柱の間に這いずり込んだ。しかし、その列車の旅は、危険かつ不快なものとなった。車輪の轟音が何時間も耳をつんざき、飛ぶように過ぎていく枕木を見ていると、幻覚に襲われた。その苦痛に耐えながら、西へ、西へと距離を稼いでいった。


ヘルマンはある寒村で、モスクワ行きの旅客列車を見つけた。暗い内に列車の屋根に這い上がり、出発を待ったが、その間、機関車の吐き出す煙にむせて、苦しんだ。列車が走り出しても、屋根にはしっかり掴める様な場所はなく、振り落とされれば、一巻の終わりであった。そこでヘルマンは、列車が停車した時、客車のステップに降り立って、車両の壁に体を押し付けた。しかし、ここで車掌に見つかった。車掌はキセルだと思って、切符を買うか、ここで降りるか、どちらかにしろと言った。ヘルマンは金を払って切符を買い、普通に客席に座れる事になった。乏しい持金から支払ったが、致し方なかった。


ヘルマンはモスクワの郊外で降りて、翌朝、モスクワ市内を歩いて抜けていった。なるべく目立たぬよう、大通りは避けて進んだ。この街を支配するソ連の独裁者スターリンは、今も尚、100万人以上のドイツ人を収容所に押し込んで、強制労働に就かせていた。この赤い首都を、1人のドイツ人逃亡者が通り過ぎて行く。ヘルマンは7時間歩いて、モスクワの西端に着き、線路から程近い、荒れ果てた墓地で夜を過ごした。翌朝、近くにあった大操車場を観察して、西行きの列車を探した。そして、この日の夜、目的の列車を見つけた。車両の札には、「カリーニングラード行き」とあった。カリーニングラードは、旧名ケーニヒスベルクと言って、元はドイツの都市であった。


だが、ソ連はケーニヒスベルクを含む東プロイセン北部を自国領に編入して、1946年7月4日をもって、ケーニヒスベルクからカリーニングラードに改名していた。ヘルマンも、どこかでそれを聞いていたのだろう。ヘルマンは、錠の掛かっていない手荷物車を見つけると、それに乗り込んで荷物の中に身を潜めた。ヘルマンは、ソ連西方の都市スモレンスクで降りると、そこでパンを買い求めた。この都市は独ソの戦場となって破壊されており、その廃墟の一角で一晩を過ごした。翌夕方、駅まで歩いて行き、再び「カリーニングラード行き」の列車を見つけた。しかし、ヘルマンは躊躇する。何故なら、その列車は軍用で、大勢のソ連兵が乗り込んでいたからだ。


それでも、ヘルマンは西行きの列車の魅力には抗い難く、今までの行動で大胆にもなっていたから、思い切って乗り込む事にした。そして、炭水車に這い上がり、石炭の山の後ろに身を隠した。すると、2人のロシア人がその隠れ場所にやって来た。今度こそ万事休すか、いや、彼らも逃亡者だった。ロシアには、昔から大勢の逃亡者がいる。ヘルマンが出会った2人も、労働収容所からの逃亡者らしく、身分証も持っていなかった。こうして、3人の逃亡者が身を寄せ合って、西へと進んだ。しかし、途中、罐焚(かまたき)に発見され、石炭用のシャベルで脅されたので、次の駅で降りざるを得なかった。2人のロシア人逃亡者とは、ここで別れを告げた。それぞれ己の故郷を目指すのだ。


ヘルマンはまた、西行きの列車を見つけると、手荷物車に隠れて昼も夜も過ごし、1千キロ以上の距離を稼いだ。カリーニングラードに到着したが、この街は戦場となって廃墟と化しており、ドイツ兵捕虜が再建工事をさせられていた。ドイツ人住民の多くは追放されていたが、まだ数万人、居住していた。ヘルマンはここで、数週間振りにドイツ語の響きを聞いた。廃墟の中には大勢の人間がたむろしていて、そこで闇商売が行われていた。ヘルマンは、地下室で死亡したドイツ人の身分証を手に入れた。これはソ連司令部発行のものだったので、逃亡者として捕まる恐れは減った。しかし、ここに留まり続けると、いずれは嗅ぎ付けられる。長居は出来なかった。


しかし、故郷、ホーフガイスマーまでには、まだ三つの難関が立ちはだかっていた。

ソ連邦ロシア⇔ポーランド

ポーランド⇔ソ連のドイツ占領地

ソ連のドイツ占領地⇔西側諸国のドイツ占領地


これらの国境間は、厳重な警戒下に置かれていた。ソ連の支配下に入った東プロイセンでは、大勢のドイツ人がヘルマン同様、列車に紛れて国境を突破しようとしていた。しかし、その大半が失敗に終わって、警戒も強化されていた。ヘルマンもその事を聞き知っていたが、故郷を目指す決意に揺るぎはなかった。ヘルマンは夜間、列車の下部に潜り込み、枕木の幻覚に襲われながらも、第一の難関を突破した。そして、ポーランド領に編入された旧ドイツ都市、バルテンシュタインの駅に着いた。ヘルマンは西行きの列車を見つけて、空のタンク車に入り込み、容器の奥底に隠れこんだ。蓋は開いていたので、窒息の心配は無かった。列車は走り出し、やがて、旧ドイツ都市キュストリンで一時停車した。


誰か、砂利を踏みしめる足音が、近付いて来る。そして、ヘルマンのいるタンク車で立ち止まり、棒で叩いて、「出て来い!」と声を上げた。ヘルマンは、身を潜め続ける。この間、ヘルマンは息も止めようとしたが、顎が震えるのを止められなかった。再び、「出てこい!」との声が響いた。しばしの沈黙、ヘルマンは、何かおかしいと気付いた。存在が分かっているなら、どうしてタンクをよじ登って、中を確認しようとしないのか。そう、相手はかまをかけて、逃亡者を見つけ出そうとしていた。そうやって、いちいち確認する手間を省いていたのだ。足音は遠ざかって行き、離れた場所で、また、「出て来い!」と聞こえてきた。その直後、列車は出発した。何時間かして、列車は大きな駅に着いた。ヘルマンは、タンクの縁から慎重に辺りを窺うと、駅名はベルリンとあった。ドイツの首都だ。1946年8月25日、こうしてヘルマンは、第二の難関も突破した。


ヘルマンは、ベルリンに設けられていた難民集合所に向かった。そこで改めて身分証をもらい、久しぶりに温かい真っ当な食事をもらった。ここに到るまで、食料は僅かなパンと、生のジャガイモ、ニンジン、タマネギ、トマトで済ませ、水は、駅にあった水樽を飲み、時にはそれで体を洗っていた。この日、ヘルマンはちょっとした解放気分を味わうべく、映画館に足を運んだ。それは、ひどい吹き替えのロシア映画であったが、中身ではなく、映画を見ているという自分自身の自由を楽しんだ。しかし、ここに大きな危険が潜んでいた。上映が終わり、観客が退出しようとした際、出入り口で大騒ぎが起こっていた。ロシア兵が労働に適した男女を捕らえて、強制的にトラックに押し込んでいたのだ。これまでの逃避行で、本能が研ぎ澄まされていたヘルマンはすぐ様、事態を悟った。そして、映画館のロビーに戻り、壁際の凹みに隠れつつ、裏口を求めて脱出した。


ヘルマンは、ベルリンの東西境界線を突破すべく、しばらく情報収集に努めた。東西冷戦の象徴として有名な、ベルリンの壁である。だが、当時はまだ、鉄条網も地雷も無く、監視兵が時折、巡回するだけであった。1946年8月29日、ヘルマンは道を教わって、難なく境界線を越える事が出来た。最後の難関を突破して、西側のドイツ都市ヘルムシュテットに達した。ここからは通常の旅客者として、列車に乗り込んだ。そして、1946年8月30日、ついに故郷、ホーフガイスマーの自宅前に立った。数年に渡った戦争と捕虜生活、そして、ロシアの都市カザンから、ドイツの都市ホーフガイスマーまでの3千キロの旅もようやく終わる。ヘルマンは階段を上がり、震える手でドアを叩いた。ドアが開かれ、ヘートヴィッヒ夫人が、「ヘルマン!」と声を上げた。11歳と17歳の娘も、「パパ!」と駆け寄って来た。ヘルマンは、家族の温もりの中へと包み込まれていった。



戦後、ドイツでは捕虜の実体験を後世に伝えるため、大勢の復員兵から聞き取り調査を行った。この話は、その証言の1つであり、実話とされている。


主要参考文献、パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」


独ソ戦の捕虜、苛烈なる運命

●ソ連兵捕虜の運命

ドイツはアメリカ、イギリスなどの西側国家の捕虜は比較的、人道的に扱ったが、ソ連兵捕虜に対しては何の配慮も示さず、ろくに食料も与えなかった。ドイツは、ソ連兵を下等人種と見なして、残忍極まる態度で接した。ドイツの食料優先順位は、まずはドイツ軍、次に本国のドイツ国民、その次が占領地の民間人、最下位がソ連兵捕虜であった。その食料は、ドイツ占領下のソ連領から強制的に取り上げられた。戦場で捕虜となったソ連兵は、収容所へと連行されて行くが、場所によっては数百キロの道のりを延々と歩かされ、途中、力尽きた者は次々に銃殺されていった。


鉄道で輸送される事もあるが、屋根の無い無蓋列車に座る事も出来ないほど詰め込まれ、風雪に晒されながら運ばれていった。これが冬場であれば、目的地に達した時、数百人から数千人の凍死体が転がり落ちたと云う。徒歩での行進、鉄道輸送の際に死亡した捕虜は、20万人に達すると見られている。ようやく収容所に達しても、風雪を遮る宿舎、診療所、便所などは無く、野原を鉄条網で囲っただけのしろものがほとんどだった。建物がある場合もあったが、狭い室内に大量に詰め込まれたり、中に入る事を許されない事もあった。


アメリカの学者アレクサンダー・ダリンの記述

「弁の立つ大勢の証人によると、何個師団もが野外でくたばるに任せられた。伝染病等の病気で、収容所の人口は減った。監視兵の殴打、職権濫用は日常茶飯事だった。何百万人もが、食料も屋根も無い状態で放っておかれた。捕虜輸送列車が目的地に着くと、貨車は死体で一杯だった。死亡率は統計により大きく異なるものの、1941年から1942年にかけてのこの冬場、30%を下回る事は無かった。95%に達する所もあった」


1942年1月26日、この日、ドイツの参謀ハインツ・ダンコ・ヘル大佐は、ドイツ軍がスターリノ(現在名ドネツィク)に建設した収容所を訪問し、その時の模様を報告している。

「捕虜達は、びっしり寄り添って立っている。横になって寝る空間が無いのだ。扉の側で身を屈めて転がっているのが3人いたが、死にかけているか、もう死んでいるらしい。骨と皮だけの姿が、幾つか転がっているのが見えた。立っていられなくなったのだ。ベッドも椅子も毛布も無い、糞だらけの床だけ。どの顔にも生気が無い、目はくぼみ、髭が汚い」


1942年2月28日、ドイツの東方占領地大臣であった、アルフレート・ローゼンベルクは、カイテル元帥宛ての手紙でこう述べている。

「ドイツの捕虜収容所にいるロシア人の運命は、まさに大悲劇であります。捕虜になった360万人中、今尚、作業可能な者は僅か数十万人しかおりません。大部分は餓死したか、厳しい気候で死亡したかであります。発疹チフスで死んだ者も何万人とおります。大抵の収容所所長は、市民が捕虜に食料を与える事を禁じており、餓死するに任せております。飢えと疲労で行進出来なくなった捕虜は、多くの場合、恐怖に慄く市民の前で射殺され、死体は放っておかれます。捕虜が寝る場所も無い収容所も多くあります。雨や雪の時も、屋根無しで横たわっています。ええ、そうです、地面に穴を掘ったり、どこかに横穴を掘ったりする道具すら与えられておりません。そして、捕虜は射殺されるのです。あちこちの収容所でアジア人(ロシア人)が射殺されております」


西ドイツ政府捕虜史委員会の報告。

「ドイツの公式文書によると、1944年5月1日の段階で、ドイツに捕まったソ連人捕虜500万人以上の内、200万人以上が死亡し、他に100万人以上が行方不明になっていた。行方不明者の大部分は死んだか、処刑されたかで、逃亡したのは僅かに過ぎない。この時点で生きていたソ連人捕虜の数は100万人を切る。1944年5月1日時点のドイツの公式数字を基礎にすれば、第二次大戦のこの時点までに、ドイツに捕まったソ連人捕虜の約60パーセントが死亡した事になる」


ティモシー・スナイダー著「ブラッドランド、上巻)の記述。

ドイツ軍は、310万人ものソ連兵捕虜を死に至らしめた。その内訳は、銃殺50万人、移送中の死と収容所での餓死を合わせて260万人であった。


ソ連兵捕虜は、草や樹皮など、手当たり次第、口に入れ、それでも飢餓に追い詰められると、食人行為に走った。ロシアの長く厳しい冬の間、捕虜達は、硬い地面を手で掘って壕を作り、そこで仲間と寄り添って耐え忍ぼうとした。しかし、そのまま飢えて凍りついていった。また、ドイツ占領下のソ連領では飢餓が広がって、戦争中、数百万人の民間人が餓死した。こうしたドイツの残虐行為は、ソ連国内へと伝わってゆき、ソ連の人々は捕虜となって飢え死にさせられるぐらいなら、戦って死ぬ方がましだと考え、徹底抗戦するようになった。そして、大戦後半、ソ連軍がドイツ本土に達すると、報復とばかりに、ドイツ人に対して略奪、婦女暴行、虐殺の限りを尽くした。





1941年8月、スモレンスク近辺の過密状態の捕虜収容所(ウィキより)



●ドイツ兵捕虜の運命

ドイツも1943年7月のクルスク戦以降は、ソ連の圧倒的な物量攻勢によって防勢一方となり、東部戦線の各所で敗退し、多数の捕虜を出すようになる。ソ連は、第二次大戦中、300万人以上のドイツ兵を捕虜とした。そして、捕虜を、ウクライナからシベリアに到る、国内3千箇所の収容所に振り分けた。捕虜は、鉄条網内に設けられたバラックに詰め込まれ、板張りの寝台で寝泊りした。日々の労働は、建設作業、木材伐採、鉱山労働、農作業、石材切り出しなどであった。この肉体労働を補う食事は、僅かなパンとマッシュポテト、薄いキャベツのスープなどであった。独ソ戦による国土破壊の煽りを受けて、ソ連全体の食料が不足していた。


しかも、ソ連の非効率な計画経済に付きものの、流通の滞りがあって、カビの生えたパンや、黒ずんで異臭を放つジャガイモがよく食事として出された。捕虜達は恒常的な飢餓に晒されており、犬、猫、ヘビ、トカゲ、ネズミなどを見かけると、手当たり次第に捕らえて、口に入れた。そんなドイツ兵捕虜に、ソ連の民衆は度々、食べ物の差し入れを与えた。特にロシア人女性は、深い同情心を示してくれる事が多かった。捕虜達にとってパンは命そのもので、これを盗んだ者には、集団で殴る蹴るの厳罰が加えられた。そして、見せしめとして服を剥がされ、バラック内を曳き回された。50歳以上の年配者は環境の変化に対応出来ず、よく盗みを働いた。捕虜達はバラック内の秩序と命の食料を守るため、階級も年齢も上のパン泥棒を殴りつけねばならなかった。


戦争中、ドイツ兵は固い団結と仲間意識を誇ったが、捕虜となって飢餓に追い込まれると、相互扶助の精神は失われていった。ソ連は、従順で協力的な捕虜は厚遇して、食料も多めに与えた。協力者は収容所の役職に就いて、かつての戦友をこき使った。また、密告者となって、不満を口にした戦友を売る者もいた。捕虜達の間には疑心暗鬼が広まって、自分しか頼りにならないという状況が現出した。信じられるのは、自分と極少数の戦友のみだった。だが、捕虜達も密告者を捜し出すと、作業中、事故に見せかけて殺害する事もあった。捕虜生活から解放され、帰郷への列車に乗っている最中、捕虜達は、裏切り者を走っている列車から突き落としたりもした。


西ドイツ政府捕虜史委員会に寄せられた捕虜の証言

「帰郷のため輸送される途中、我々は2人の男を放りだしました。走っている列車から、頭から先に、ほれ!と放ったのです。あの時の事を思い出すと、今でもぞっとします。恐ろしい事です。それも帰郷の途中です。放りだされる前、片方の男はめそめそ泣いていました」


1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ中央軍集団を壊滅させ、ドイツ兵8万5千人余を捕らえた。ソ連の独裁者スターリンは、この捕虜達をモスクワに集めて、戦意高揚の戦勝パレードを行おうと考えた。衆目が集まる中、侵略者たるドイツ人の惨めな姿を見せ付けて、ソ連の大勝利を印象付けようとしたのである。1944年7月初め、スターリンは、ドイツ兵捕虜5万5千人をモスクワに運ばせた。捕虜達は、幾日もまともな飲食物を与えられておらず、皆、飢え渇いていた。その上、大半が赤痢を患っていた。軍服は泥まみれで、異臭を放っていた。 


同年7月16日、ソ連当局は、翌日に控えた行進に備えて、捕虜達に特別豪華な食事、パンとお粥、ハムを与えた。しかし、弱った胃腸に急に大量の食物を流し込んだ結果、大勢が下痢に悩まされる事になった。1944年7月17日朝、モスクワの空は晴れ渡っていた。吹奏楽団がマーチを演奏する中、捕虜達は号令をかけられて、幅70メートルのゴーリキー通りを歩き出した。先頭を行くのは、中央軍集団の壊滅で捕虜となった、21人の将軍達だった。彼らは勲章はそのままで、軍服も整っていた。その後を、泥まみれのやつれ切った兵士達が続く。


赤痢の捕虜達は、缶詰の空き缶を手にして、行進の最中に排泄を行った。それを見た護衛のソ連騎兵は、「ドイツ野郎め、教養ねえな」と嘲笑った。群衆の前を通り過ぎる時、ドイツ兵達は罵声を浴び、石を投げつけられた。捕虜に直接、危害を加えようとした者もいたが、これは護衛の騎兵に阻止された。罵声と投石、唾の吐きかけまでは許されていたが、殺しは禁止であった。だが、この日、捕虜達は、群集の目の中に、憎悪よりはむしろ同情を見た。涙ぐんでいる女性もいた。


この行進は6時間続き、クレムリンの近くで解散となった。そして、捕虜達は待っていた列車に乗り込み、ソ連各地の収容所へと散っていった。これから、終わりの見えない強制労働の日々が始まるのだ。ドイツ兵捕虜の大半は、1949年末から1950年初頭にかけて解放されたが、戦犯として有罪にされた2万7千人は尚も留め置かれて、1953年から1954年にかけて半数以上が解放され、残った1万人は1955年末から1956年初頭にかけてようやく解放された。第二次大戦でソ連の捕虜となったドイツ人は350万人余で、その内、100万人以上が死亡したと見られる。





1944年7月17日、モスクワ市内を行進させられる、ドイツ兵捕虜



主要参考文献

パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」

ティモシー・スナイダー著、「ブラッドランド 上」

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