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ゼーロウ高地1945 2

オーデル、それは、ドイツ東部を流れる、ヨーロッパ有数の大河である。この河は、ソ連の大軍を食い止める、最後の防壁と見なされていた。だが、ソ連軍はその河をも超えて、西岸に橋頭堡を築き上げた。戦力に劣るドイツ軍は、これを排除する術もなく、ただただ、ソ連軍の集結を見守るばかりであった。橋頭堡は急速に成長して、数十万ものソ連軍がオーデル西岸に進出して配置に付き、東岸にも重砲の砲列が布かれて支援の体制を取った。後は、攻撃命令を待つのみとなる。そして、1945年4月16日ベルリン標準時間午前3時、穏やかに流れるオーデルに、突如として轟音が轟いた。東岸に陣取ったソ連軍の火砲1万門が一斉に火を噴いて、ヨーロッパの第二次大戦、最終戦となるベルリン攻略戦の幕が切って落とされたのである。



土砂降りのような砲弾の雨が30分に渡ってドイツ軍陣地に降り注ぎ、次々に火柱が立ち昇って大地が鳴動する。この時の地震の様な振動は、60キロ離れたベルリンでも感じられるほどであった。ベルリン市民は迫り来る脅威を身近に感じて、不安に慄いた。一方、ドイツ軍指揮官ハインリチはこの砲撃を予期して、前夜に前線陣地から兵員の大部分を後方の陣地に後退させていたので、被害を最小限に止める事に成功していた。そんな事を知る由も無いソ連軍は、あの猛砲撃を受けたドイツ軍は壊滅状態に違いないと誰もが思っていた。そして、ソ連兵達は口々に、「ベルリンへ!」と叫んで前進を開始した。ソ連軍司令官ジューコフは、まず歩兵を前進させて進路を切り開かせ、その後で戦車軍を投入する予定であった。



ソ連軍は進撃するにあたって、ドイツ軍の目を眩ませようと、143基のサーチライトをドイツ軍陣地に向けて、強烈な閃光を浴びせかけた。しかし、このサーチライトの閃光は、砲撃で舞い上がった土煙に反射して前方の視界を塞ぎ、逆にソ連軍の目を眩ましてしまう結果となった。ドイツ軍にとって、この閃光はなんの脅威でもなかったが、圧倒的大多数のソ連軍が迫って来る様子には、さすがに鬼気迫るものがあった。大勢いた即席の動員兵の中には、砲撃と閃光を受けてパニックに陥る者もいた。ソ連が攻勢を開始する以前、ドイツ軍は予め、川を計画的に氾濫させて、オーデル河畔の湿地帯を泥の沼地に変えていた。さらに水路や堤道、鉄道築堤などもソ連軍の戦闘行動の障害となっていた。



ソ連軍はそれらの障害物に足を取られて隊列に乱れが生じ始めるが、それでも徐々にドイツ軍陣地へと接近して行く。歩兵が地雷原に入って爆散していくが、これもジューコフの計算の内だった。戦車の道を切り開くための犠牲である。ソ連空軍も動き出し、シュトルモヴィーク地上攻撃機の群れが、高地上のドイツ軍陣地を狙って爆弾を投下していった。この日、延べ6,500機もの爆撃機が出撃を繰り返す事になる。しかしながら、爆撃の効果は不明瞭だった。両軍の間には、川霧、砲煙、砂塵が立ち込めていて、視界が極端に悪かったからだ。待ち受けるドイツ軍には、呼び合うソ連兵の声が聞こえてくるが、その姿はまったく見えなかった。そして、濃い煙をすかして、間近にソ連兵の姿を認めた時、熾烈な射撃が始まった。こうしてゼーロウ高地を巡る緒戦は、視界が利かない中での接近戦となった。



しかし、ドイツ軍が陣地に立て篭もっているのに対し、ソ連軍の周辺には泥濘の湿原が広がるのみ、射撃を回避する術が無く、ソ連兵は次々に撃ち倒されていった。ソ連軍は出鼻を挫かれる形となったが、圧倒的な戦力差があるので、全戦線で重厚な攻撃を加え続ければ勝利は疑いない。 だが、陣地攻撃に不可欠な直協砲兵隊は、砲爆撃の穴や泥濘の大地に難渋して、なかなか前に進めなかった。その為、泥だらけになった歩兵だけが、援護の無いまま前進する形となり、それを、高地上に陣取るドイツ軍から狙い撃たれて、死傷者が続出する事態となった。攻勢第一波のソ連軍は、河を渡ってゼーロウ高地の麓に達する、この僅かな距離を踏破するのに非常な困難に見舞われていた。そこで、総司令官ジューコフは予定を変更して、早期に戦車軍の投入を決定する。



しかし、この決定は、収拾の付かない大混乱を生み出した。砲兵隊の車両群が泥に埋まっているところへ、数千の戦車が殺到して大渋滞を引き起こしたのである。ソ連軍部隊が立ち往生すると、そこにドイツ軍の銃砲火が集中した。指揮官達は必死になって交通整理を行い、ようやく少量ずつ戦車が前線に参加していった。そして、ソ連軍は損害を省みない力押しで、ドイツ軍の第一線陣地を踏み越え、続いてゼーロウ高地上に築かれた第2線陣地に攻めかかった。この第2線こそ、ドイツ軍の主防衛線であった。そこには、無数の対戦車砲陣地や、機関銃陣地が設けられており、塹壕には、パンツァーファウストを手にした歩兵も潜んでいた。ソ連戦車は、高地を乗り越えんとするが、勾配が急で、エンジン全開でも直登は難しかった。そこで、ソ連戦車は高地を巻くようにしてよじ登り始めるが、弱い横腹を晒した途端、ドイツ軍の対戦車砲によって次々に撃ち抜かれていった。



塹壕に潜んだ歩兵も、ここぞとばかりにパンツァーファウストを撃ち込んでいく。辺りは炎上して黒煙をあげるソ連戦車ばかりで、さながら、戦車の火葬場の様相を呈していた。 ソ連軍の受けた損害は、ドイツ軍によるものだけではない。味方砲兵による誤射や、味方爆撃機による誤爆も相次いでおり、この戦いを通して、誤射によって受けたソ連軍の被害は甚大であった。ソ連軍の攻撃は夜を徹して続けられ、じりじりと前進はしたものの、突破は果たせなかった。同じ頃、南方でもコーネフの第一ウクライナ方面軍が攻撃を開始していたが、こちらのドイツ軍の抵抗は微弱で、早々に戦線を突破していた。しかし、ジューコフ正面のドイツ軍は手強く、容易には通してくれそうに無かった。



4月17日早朝、ソ連軍の攻撃が再開され、シュトルモヴィーク編隊による爆撃と、各種重砲による砲撃で始まった。この日は好天で、ソ連軍爆撃機は前日よりも正確に爆撃を加える事が出来た。砲兵も、あらゆる建物に集中砲撃を加える。ゼーロウ高地上のドイツ軍陣地は大きな損害を受け、周辺の町や村のほとんどが燃え落ちた。辺り一帯に、人間や家畜の焼ける強烈な臭いが立ち込める。ソ連軍は、こうして大量の砲弾と爆弾を叩き込んだ後、防御上の要であるゼーロウの町の奪取を狙って、歩兵と戦車を前進させた。ドイツ軍は前日の激戦で消耗し、更に爆撃と砲撃で痛め付けられていたにも関わらず、驚異的な粘りを見せて、この攻撃を阻止した。しかし、ドイツ軍もこの第一撃によって消耗し、防衛線に亀裂が生じたので、全予備兵力の投入を余儀なくされた。



ドイツ空軍も数少ない航空機を総動員して、ソ連軍を食い止めんとした。そして、使用可能なあらゆる戦闘機、爆撃機を繰り出して、オーデルに架かる舟橋を破壊せんとした。舟橋を破壊すれば、一時的にソ連軍の増援を断ち切る事が出来る。ドイツのユターボーク基地では、基地司令官フックス少将が、レオニダス飛行中隊の隊員35名に自爆攻撃を誓約させた後、500キロ爆弾を抱いたFw190戦闘機に乗せて、送り出したとされる。そして、3日間で17本の舟橋を破壊したと報告したが、実際の成果はキュストリンに架かった鉄橋1本のみであったようだ。ソ連軍でも、出所は不明ながら、ドイツ軍パイロットはしばしば、ソ連軍爆撃機に体当たりして、双方が炎に包まれて墜落したと報告されている。



この日は、前日にも増して各所で激しい戦闘が繰り広げられた。ドイツ軍の切り札、88ミリ対戦車砲は、ソ連戦車を次々に鉄屑に変えてゆき、ドイツ兵が撃ち放つ機関銃も、ソ連兵の集団を肉塊に変えていった。しかし、戦車を撃破しても撃破しても、歩兵を倒しても倒しても、ソ連軍は地平線の奥から、次から次に現れて来るのである。 ドイツ軍は奮闘を続けたものの、さすがに消耗は隠せなかった。やがて予備兵力も底を尽き、戦線が崩れ始める。そして、17日も終わりかけた頃、主防衛線は貫かれて、ゼーロウの町は陥落した。4月18日早朝、ソ連軍の攻撃再開。連日の激闘でソ連軍も疲労の色は隠せなかったが、それでも圧倒的な数的優勢にあった。ソ連軍の重圧にドイツ第9軍はどうにか持ちこたえていたが、左側面の戦線は崩壊し始めており、右側面の戦線も南から突破したコーネフの進撃に脅かされていた。それでも、中央のドイツ軍部隊はこの1日、奮闘を続けたが、増援が緊急に必要な状況だった。



Pak43

↑88ミリ対戦車砲


しかし、増援が送られて来る気配はなく、その後も休みなくソ連軍の攻撃は続けられた。ドイツ軍の後方にある救護所には、次から次に負傷兵が運び込まれて来るが、既に軍医が処置できる範囲を超えていた。粗末な野戦病院は、たちまち血の臭いと苦しみ喘ぐ声によって満たされる。大勢の負傷者が生じると、平時ならば、重傷者の治療が最優先とされ、軽傷者は後回しになる。しかし、戦場においては逆となり、治療は、早期に戦線復帰が見込まれる軽傷者が最優先され、重傷者は後回しとなる。手のかかる手術をする暇など無く、腹部に重傷を負った者は、既に死んだも同然だった。緊急を告げる前線の要求を受けて、将校らは野戦病院を駆け巡り、まだ歩ける負傷兵を見つけては強引に前線に連れ戻していった。



ドイツ軍は取り得るあらゆる手段を用いて戦線を取り繕ってきたが、とうとうソ連軍の波状攻撃を支え切れなくなった。ぼろぼろに磨り減ったドイツ軍は高地帯から後退し、後方のミュンへベルク前面に構築されていた第三線陣地に移動した。ソ連軍もその後を追ってミュンヘベルクへと進撃したが、路上でまたもや渋滞に陥り、そこを生き残ったドイツ戦車隊に攻撃されて大損害を出してしまう。ジューコフは一連の戦いで大量の戦車を失い、二つあった戦車軍団を一つに統合せざるを得なくなった。だが、この日、ソ連軍の前に大きく立ちはだかっていた、ゼーロウ高地は陥落した。戦場には数え切れない程の戦車が黒煙をあげて擱座し、無数の両軍兵士の死体が横たわっていた。生き残った将兵も休み無く続いた4日間の死闘で、憔悴しきっていた。



4月19日、ソ連軍の攻撃再開。ソ連軍は第三線陣地に深く食い込み、この日の遅くにはミュンへべルクを陥落させた。兵員、武器、弾薬を使い尽くしたドイツ第9軍は総崩れとなり、3つに分断されつつ後退していった。全ての防衛線を突破されたドイツに残されたものは、剥き出しとなった首都ベルリンのみ。そして、ソ連軍の大津波は、たちまちベルリンを取り巻いて、4月24日にはこれを完全に包囲する。それでもヒトラーは、幻想のドイツ救援部隊が駆けつけて来ると信じ、徹底抗戦の構えを崩さなかった。そして、市内ではパンツァーファウストの応急訓練を受けた婦人や十代前半の少年を含む一般人まで動員されて、独ソ戦最後の死闘が繰り広げられる事となる。



ソ連軍は、ゼーロウ高地を突破して最終勝利を確実なものとしたが、そのために支払った犠牲は凄まじいものがあった。ソ連軍の公式発表による戦死者は3万3千人(実数は7万人を超えるとも言われている)を数え、装甲車両は700両以上、失った。一方のドイツ軍も1万2千人の戦死者を出したとされる。両軍の正確な戦死者数は、今もって判明しない。第二次大戦屈指の激戦地となったこのゼーロウ高地では、現在でも塹壕などの戦争遺跡が生々しく残されており、両軍の将兵多数も人知れず眠りについている。


現在のゼーロウ高地(ゼーロフとも言う)を写したHP

http://www.mas-yamazaki.com/seelow06.html 



主要参考文献、アントニー・ビーヴァー著「ベルリン陥落 1945」、ピーター・アンティル著「ベルリンの戦い 1945」


 
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