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ゼーロウ高地1945 1

1945年2月、第二次大戦末期、ドイツ第三帝国は滅亡の淵に立っていた。西部戦線ではアメリカ、イギリス連合軍がフランスを解放し、ドイツ国境に到達する。ライン川に沿った640キロの戦線では、370万人の連合軍が2月下旬に行われる攻勢に備えて待機していた。これを迎え撃つのはドイツ軍100万人であり、戦いはドイツ国内へと移りつつあった。東部戦線では、1945年1月の時点でソ連軍は600万人の兵力を有していたが、これを迎え撃つドイツ軍は200万人の兵力でしかなかった。



2月になるとソ連軍はポーランドのほぼ全域を制圧し、ドイツの首都ベルリンから65キロのオーデル河畔にまで達する。そして、来たるべきベルリン攻略に向けて、その通り道にあたる交通の要衝、キュストリンに対する攻勢を開始する。 オーデル河畔にある都市キュストリンは、ソ連軍の攻勢からベルリンを守る盾とも言うべき都市であり、ヒトラーもここを要塞都市に指定して、死守を命じていた。1月31日、キュストリンを巡る攻防戦が始まる。圧倒的なソ連の大軍を迎えながらもドイツ軍は頑強に抵抗し、少数のドイツ戦車隊が局地的には勝利を収める場面もあった。



しかし、増援が無ければ、キュストリンの陥落は時間の問題だった。このように首都前面は危機的な状況にあったのだが、1月22日にヒトラーは信じがたい決断を下していた。「戦争を遂行するためには、ハンガリーの油田が必要だ!」と主張して、ハンガリー方面での攻勢「春の目覚め作戦」を指示したのである。このため、キュストリンに有力な部隊が送られる事はなかった。春の目覚め作戦に投入される装甲師団(戦車と自動車化歩兵を中心とした強力な部隊)は、ドイツに残された最後の有力部隊であり、ベルリン前面に迫ったソ連軍に対して、打撃を与え得る矛となりえたのだが、こうして副次戦線であるハンガリーに送られる事となった。



もし、春の目覚め作戦が失敗して、この戦力が失われれば、最早、ドイツには後が無い。3月6日早朝、ドイツ軍最後の攻勢、春の目覚め作戦は、ベルリン前面の危機的状況、深刻な燃料不足、数的劣勢などのあらゆる悪条件を無視して強行された。しかも、この攻勢はソ連軍に事前察知されており、予め、強固な防衛線が築かれていた。ドイツ軍は燃料不足に加えて、春の雪解けによる泥濘の影響で進撃がままならないところを、待ち伏せしていたソ連軍によって次々に撃破されていった。それでもドイツ軍は前進を強攻し、数十キロに渡って戦線を拡大した。



しかし、3月15日にはドイツ軍は攻勢限界点に達して、進撃は完全に止まった。翌3月16日、それを待っていたソ連軍が大反撃を開始すると、逆に包囲撃滅される危機に陥ったドイツ軍は、ヒトラーの死守命令も無視して壊走していった。戦場には、遺棄された多くの装甲車両が横たわっていた。ドイツ最後の有力部隊はこうして失われ、3月29日にはキュストリンも陥落する。ベルリンを守る盾と矛は失われた。もっとも、キュストリンに装甲師団を投入していたとしても、敗戦が先延ばしになるだけの効果しか無かったが。ソ連軍はキュストリンを確保したものの、数週間に渡る激戦の後であり、一旦進撃を停止して部隊を休ませ、消耗した装備を補充して5月に大攻勢を行おうとした。



しかし、スターリンは西側連合軍に先んじてベルリンを確保することを欲しており、ジューコフとコーネフの両元帥に対して、早急なベルリン攻略を求めた。その結果、4月16日をもってジューコフはベルリンの真東から、コーネフはその南からベルリンへの大攻勢をかける事となった。数百万もの兵員を動かす大攻勢は、本来ならば2、3ヶ月の準備期間を必要とする。だが、これが僅か2週間で進められる事となり、その橋頭堡としてキュストリンには、兵員の集中と大量の軍需物資の集積が急速に進められた。



ドイツ側も、ソ連軍がキュストリンから大攻勢を発するのを察し、その前面に位置する要衝、ゼーロウ高地の備えを固めた。ゼーロウ高地はオーデル川西岸にある穏やかな丘陵地帯であるが、地表からの標高差が40メートルあって、オーデル河一帯を射線に収める事が可能な、天然の要害だった。キュストリンから発するソ連軍の大津波を、この低い丘陵で食い止めねば、ベルリンは壊滅する。ソ連軍の手から、首都と市民を守るべく、ドイツ軍の将兵は粛々と配置に付いた。



ゼーロウ高地突破を担うソ連軍は、ジューコフ指揮下の第1白ロシア方面軍、兵員76万人、戦車3千両、火砲1万4千門であった。一方、この方面を守るドイツ第9軍は、兵員9万人、戦車及び自走砲512両、火砲は高射砲を含めて700門程度という劣勢にあった。しかも、兵員の多くは戦闘未経験者で、一般市民も含まれていた。重火器はほとんど無く、弾薬も携行定数を大きく割り込んでいた。1945年型編成のドイツ1個師団の定数は、1万2千人であったが、多くは定数割れを引き起こしていて、実際には4千~6千人程度でしかなかった。戦争の敗北が間近に迫っている事から兵士達の士気も低く、出来れば、負傷して後送されたい、脱走したい、投降したいと願う者が多かった。それでも彼らが持ち場に止まっていたのは、軍規による即決処刑と、家族への罰則適用を恐れてのものだった。



1941年6月22日から始まった独ソ戦は、人類史上最も凄惨な消耗戦となった。ソ連は1944年12月までに、1千万人を超える兵員の戦死、行方不明者を出していた。さらに民間人の犠牲者はこの数字を上回るものと推定されており、1945年には、人口大国のソ連と言えども人的資源の供給限界に達していた。一方のドイツも1944年12月までに兵員の戦死、行方不明者を300万人出しており、ソ連より人口の少ないドイツは、より深刻な人的資源の枯渇に見舞われていた。



1943年以降、歩兵のかなりの部分はドイツ領に編入されたドイツ系民族から補わざるを得なくなり、ドイツ国内で編成された部隊でも外国人の割合が増えていた。さらに連合軍のノルマンディー上陸以降、西部戦線にも戦力を割かねばならなくなって状況は悪化の一途を辿り、末期のベルリン攻防戦に至っては、陸に上がった海軍の水兵や、10代前半の少年から老人まで陸兵として動員された。この様な状況であったため、ベルリンを守る最重要の軍団ですら、定数割れしていたのだった。



1945年4月6日、ソ連軍の大攻勢が迫っていたこの日、ベルリン防衛を担当するヴァイクセル軍集団の司令官ハインリチ上級大将は、本土防衛の全体戦略を討議するため、ベルリンの総統官邸に召喚された。この会議には、ヒトラーを含む軍首脳が全員列席していた。そして、この会議でハインリチは、列席者が最も聞きたくない事実を報告する。「私は申し上げなくてはなりません。我が軍集団には、もはや予備と呼べる部隊はほとんど存在しません。前線の部隊は、敵の第一撃には耐え抜くかもしれません。しかし、最早、補充は無いのです。総統閣下、これが現実です。我々はせいぜい数日間、戦線を支え得る兵力しか保持しておりません。そして、全ては終わりを迎えることになるでしょう」



ハインリチの発言に対して、ヒトラーは机を叩いてこう叫んだ。「信念だ!信念と成功への強い意志があれば、兵力の不足は補えるのだ!この戦いに是非とも勝たなくてはならないという事実を君が自覚すれば、戦闘に勝てる!もし君の部下が同じ信念を持てば、その時こそ君は最大の勝利を達成し得るのだ!」。そして、運命の日、4月16日を迎え、ベルリンを目指すソ連軍の大攻勢が始まる。



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