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毛利隆元の苦悩

2016.09.09 - 戦国史 其の三

大永3年(1523年)、毛利隆元は、毛利元就の長男として生まれる。天文15年(1546年)、隆元24歳の時、50歳の元就より家督を譲られて、当主となった。この家督継承に当たって、元就は今後の心得を細々(こまごま)と書き記した書状を幾つか、渡した。

「書状九通、それに内に入れた書状一通、合計で十通であろうか。いずれも暇な時、手隙の時によくよく御覧になり、元就が申す事であっても、間違っているとお思いの事があれば、はっきりと異見を言ってください。話を聞きます。そのようにして、議論を戦わせてこそ、物事の分別や理非がはっきりするのです。思うところがあっても、心底に留めているだけでは、事は解決しないのです」


元就は、隆元に大きな期待を抱いていたが、同時に心配もしていた。

元就いわく、「隆元はまったくの正直者で、これでは今の世の中はやって行けない」

「今の時節は、誰が一番役立つ味方なのか、何が大切で何が不要なのか、どれを後回しにして、どれを急ぐべきなのか、隆元はその分別がちと弱いようだ。これも経験不足から来るものだろうか」

「万事をなげうって、隆元は稽古に励まねば駄目だ」

「隆元は、大変な孝行者である。神仏への信心も見事である」


元就は、隆元の実直な人柄を危ぶむと共に、評価もしていた。そして、まだまだ経験不足であると見なしていた。それでも元就は、当主としての隆元を全面に押し出していく。

「余所(よそ)への使者などの命令は、これからは隆元に行わせる」

「余所(よそ)への書状は、日夜、隆元から出させる」


元就は、隆元から相談される度、細かい助言を送って、陰から新当主を支えた。これらのやり取りは、書状で密密に行われた。書状を運ぶのは使者であるが、勿論、中を見る事は許されない。そして、元就と隆元の書状のやり取りでは、早く読んで相手に返すといった約束事が成されていたようである。元就からの書状には大抵、「この書状は読んだら返してください」と書き添えられている。また、隆元からの書状も読んだら返却していたようで、「なおなお、今朝の三通はお返ししました」とある。ところが、隆元はこれは思った書状は、手元に残して置く事があった。そんな事があるので、元就は追伸に、「この捻(ひねり、捻って綴じた文書の形)はすぐに返してください」と書いた上、包紙の上に更に、「この捻はすぐに返してください」と念を押す事があった。そして、時には書状を返却させるためだけに、書状を書き送ってもいる。「この前、御返事として出した書状を、この者(使者)に返してください。御返事は度重なる場合であっても返してください。もちろん、この捻も返してください」


元就の大変な几帳面さ、用心深さ、くどさが伝わってくるようである。現代人が見れば笑ってしまいそうになるが、戦国当時は常に生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、書状のやり取りこそが、情報伝達の主要手段であった。それに、元就の書状には、諸勢力との交渉、家臣達の取り扱い、家族内だけの愚痴や秘密など、他人には決して知られてはならないものが含まれていた。なので、ここまで書状の管理、すなわち情報の管理を徹底したのである。元就からの書状には、「この書状を見たら、誰にも見せずに燃やしさない」と注意書きを付け加えておいたものもあった。しかし、隆元はこれを燃やしもせず、返しもせず大切に保管した。元就は常日頃から、「書状は大事の物」、「いずれも暇があれば、隅々まで目を通しておきなさい」と言い聞かせていたので、実直な隆元は、それを忠実に守ったのである。その結果、これらの書状は後世まで残って、我々の目にするところとなった。


隆元は自分自身、まだまだ未熟だと感じていたので、絶えず父の指示を仰ごうとした。

元就の返書、「あなたの返事の通り、大小に関わらず、例え分かった事でも、密密に私に相談し、判断を仰ぐのが大事です。勿論、よくわからない事については申すまでもありません。そういう事なのですが、密密の事を頼める使いはそうはいませんし、文で伝えても、一通りの事しか表現できず、かえって相談がうまくいかない事もあります。そうなればあなた自身、軽々と山上まで登って来て、面談しなくてはなりません。そういうつもりでいてください。その上で書状で指示した事については、もちろん書状で対応してください」

元就と隆元は、共に吉田郡山城に住んでいたが、元就は山上190メートルの「かさ」と呼ばれていた本丸に住んでおり、隆元はそこから100メートル低い本城に住まっていた。しかし、隆元は、「かさと本城は遠く、何事も不便である」と述べて、この後、本丸から程近い尾崎丸に生活の場を移した。これも、元就の指南を受けやすくするためであろう。


隆元は、父の助言を忠実に守りながら、力を尽くして当主の重責を務めていた。しかし、自らの力量が父には及ばないとも自覚しており、自分の代で家を滅ぼしてしまうのではないかと、深く憂慮していた。天文23年(1554年)春、大敵、陶晴賢との戦いを目前に控えていた時、隆元は、山口にある国清寺(こくしょうじ)の僧侶、笠曇恵心(じくうん えしん)に宛てて、武運つたなく敗れた際には、死後の弔いをしてくれるよう依頼した。隆元は、恵心を心の師と仰いでいたようで、胸中を余す事なくさらけ出している。


「我が家も、父の代で終わると思います。私の代からは家運も尽き果てたようです。諸家興亡の中で、我が家だけが今日に至るまで存続しているのは、誠に不思議な事です。しかし、何時までも我が家が存続している訳は無く、私は家が滅びる時の主人として生まれて来ました。我が家は数代に渡って名を留め、父の代になり、その数代にも勝る名を馳せるようになりました。このため、例え私に才覚、器量があったとしても、父には及びもつきません。また、例え私が普通の人であっても、人は父と比べて大変、劣っていると見るでしょう。ましてや無才覚、無器量であったならば、言うまでもありません。我が家は、このように人にも知られるようになりましたが、それはひとえに父が一心の心遣い、苦労をしてきたからです。灯り消えんとして光増す、という例えの如く、家運もこれまででしょう。ともかく今生の思いは断ち切りました。今は来世にての安楽を願っておりますので、宜しくお導きください。しかし、このような事を言っているからといって、国を保つ事を油断している訳ではありません。十分には出来ないかもしれませんが、私なりに心掛けて努力しようと思っています。その事については、少しも疎意はありません。誠に恐れ入りますが、来世をお頼み致したく、この様に私の思いを残らずお話した次第です。なにとぞお頼み申し上げます」


これを読むと、隆元は気の弱い人物に思えるかもしれない。だが、彼には紛れも無く、戦国武将としての気概もあった。強大な軍事力を誇る陶晴賢に対し、元就は当初、恭順する姿勢を見せていたが、これと対決するよう主張したのは、他ならぬ、隆元であった。

隆元いわく、「晴賢は、元就を怖き者として恐れている。このためいずれは討たれる。ならば力のある時に戦うべきである」

そして、天文24年(1555年)、毛利家は総力を上げて厳島の戦いに臨み、見事、陶晴賢を討ち取る事に成功するのである。その立役者となったのが、隆元であった。


弘治3年(1557年)4月、大内義長を滅ぼした直後、毛利元就はこれを契機に、政務から一切手を引いて隠退すると言い出した。元就も61歳となっており、毛利家も力が付いてきた今、ここらが引き際と考えたのだろう。ところが、父あっての毛利家と考えていた隆元にとって、この隠退宣言は、晴天の霹靂であった。そして、隆元は、「父、元就が築き上げた領国を、自分の不器量、無才覚でつぶしては大変だ」と慌てふためき、しまいには、「長く家を保ち、分国を支配する事は出来ないから、隆元も隠居する」とまで言い出す始末であった。元就が翻意して隠退を撤回すると、隆元は安堵して再び、当主としての自覚を取り戻していく。それでも、時には、その責務に押し潰されそうになるのであった。

隆元いわく、「とにかく、元就の跡を継ぐ事が大変なのだ」

「自分の代で、毛利家を潰す訳にはいかないのだ」

恵心への私書、「名将の子には、必ず不運の者が生まれると申しますが、私には思い当たります」


陶晴賢、大内義長を滅ぼし、その領国を編入した毛利家は一躍、中国地方きっての大大名となった。だが、出雲国にはまだ強敵、尼子家が存在している事から、元就は油断せず、家中の引き締めを図った。その核となるのが、長男、毛利隆元、次男、吉川元春、三男、小早川隆景である。しかし、兄弟の仲は、必ずしもしっくりしたものでは無かった。元就はそれを憂いて、弘治3年(1557年)11月25日、かの有名な教訓状を書き綴った。

「毛利という名字を、力の及ぶ限り、末代までもすたらぬように心がけ、努力する事が大切である」

「元春、隆景は、すでに他家を相続している。けれどもこれは、当座のものに過ぎない。だから毛利の二文字を疎かにして、忘れるような事があれば、真に問題である」

「兄弟が少しでも喧嘩するような事があったなら、3人皆、滅亡するものと思いなさい」

「兄弟が仲良くする事は、亡き母、妙玖(みょうきゅう)への最大の弔いである」


これにて、隆元、元春、隆景の三兄弟の結束は強まったかに見えたが、実はそうでもなかった。


弘治4年(1558年)に書かれたと見られる隆元の覚書。

「私が足りないところを助けてくれるとのことだが、まったく何もしてくれない」

「吉田に2人が来ても、すぐに帰りたがる」

「何事も隆元をのけ者にして、2人だけでちこちこと話し合ってばかりいる。そのついでに他人とも、ちこちこと話し合っている。こちらからなつなつと話しかけても、相手にしてくれない」

弟達への不満を募らせた隆元は、ある朝、11箇条に渡って悩みを書き記し、それを元就に届けたのである。

それに対する元就の返書。長文なので中略してある

「今朝の書状、つぶさに拝見しました。元春、隆景に対し、思うところはよく分かりました。本当に、馴れ馴れしく、こまごまとした関係であるべきところを、次第にひたひたと疎遠になっていくとは困った事ですね。もっともなことです。私も、隆景が次第にひたひたと疎遠になっていく事に、腹が立つ事が多いです。あなただけでなく、私もそう感じています。もっともなことです。元春は前々から、付き合いの悪い者なので、言い様がありません。


隆景や元春も分かってはいるでしょう。ただ、他家を継げば、自然、自家の事を優先してしまいます。あなたと私との間でも問題は起こるのです。ましてや他家を相続しているのだから、そこのところをよく思いやって、互いに分別をわきまえるのが大事です。いつも父を頼ってばかりいては駄目ですよ。何事も兄弟で相談するようになさい。2人には私からも話しておきます。隆元の言う事はもっともです。私もそう思います」


元就から諭されたものの、それでも隆元には不満が残った。

「兄の言う事であっても、堪忍して受け入れず、隆景は心のままに動いている。それは、隆元を見限る行為である。小早川より下に私がいると言う事は、ひとえに私に才覚が無いからだと人は言っている」


この様に三兄弟は、元就が教訓状を送ったにも関わらず、すれ違いや衝突が絶えなかったようである。それでも3人共、道義はわきまえていたようで、深刻な対立に至る事は無かった。元就のくどいまでの説教が、功を奏したと言えよう。そして時には、兄弟仲良く、酒を酌み交わす事もあった。永禄4年(1561年)3月26日、毛利元就、隆元父子は重臣を引き連れて、三原にある隆景の居城、雄高山城(新高山城)まで旅行に出向いた。3月27日、一行が到着すると、そこから10日間、隆景は心を込めて饗応し、隆元を訪ねて酒を酌み交わしたり、隆元も宿所に隆景を招いて饗応したりしている。


永禄5年(1562年)12月、この時、元就は、出雲国、洗合(あらわい)の陣中にて、尼子攻めの指揮を取っていた。留守を預かっていた隆元は、66歳の老父の身を気遣って、厳島の神に向かって願文を捧げた。

「どうか父の体が健康で、長生きできますように。もし、巳歳の厄難がふりかかるならば、その難は隆元が引受けて、身代わりとなります」

しかし、その願いが天に通じてしまったのか、それから9ヵ月後の永禄6年(1563年)9月1日、隆元は、父のいる出雲に向かっている途中、安芸国佐々部にて急死してしまう。毛利隆元、享年41。


隆元の死後、国清寺の恵心は、隆元から送られてきた書状の数々を、元就に送り届けた。元就はそれを読んで、生前の隆元の心の苦しみや、父への溢れんばかりの思いを知った。これらの書状は、吉川元春や小早川隆景も拝見したようである。


元就の返書 、「隆元の書き置きをお贈り頂きましたところ、毎日見ては言葉にもならず、涙が絶えません。和尚(恵心)のことを、これほど頼りにしていたとは存じておりませんでした。お願いします、是非共、国にお越しください、共に隆元の菩提を弔ってください」


隆景の返書 、「御手紙を拝見致しました。隆元の書き置きを数通、送って頂きましたが、誠に、是非に及びません。これほどまで思いつめておられたとは、まったくもって言葉にもなりません。これらの書状の文面から、兄の深い思いが見えてきました。今まで、気付きませんでした。来世の事まであなた様を頼りとしていたようですので、このうえは安芸においでになり、隆元のために寺を建立してくださいますよう。元春も私も出来る限りの助力を致します。元就の御心底のほどは、御察しください。寺のことは、急ぎお願いしたいとの事であります。 くれぐれもお願い致します」


元就は、恵心に吉田に来て隆元の菩提を弔ってもらいたいと依頼した。同じ依頼は、吉川元春や小早川隆景からも届けられており、こうして郡山城内に隆元の菩提寺、常栄寺が建立された。

元就いわく、「私は、隆元の存命中は、世の中の恐れも少なく、心強く思っていた」

この元就の言葉こそ、隆元に対する最大の評価ではなかろうか。隆元は、偉大な父と常に見比べられながらも、自らの実直さを持って、国家を堅実に運営した。そして、当主の重圧に押し潰されそうになりながらも、懸命に責務を果たし続けた。元就だけでなく、元春や隆景も、亡くしてから初めて、その存在の大きさに気付いた事だろう。



↑毛利隆元像



隆元の死去を受け、元就は、孫の輝元を当主の座に付けた。しかし、まだ11歳の幼年であったので、自らが実権を握ると共に、輝元の補佐役として、吉川元春と小早川隆景を権力の中枢に据えた。3人で政務、軍務の分担を計ったが、それでも最高指導者として、元就にかかる心身の負担は重かったに違いない。永禄9年(1566年)には、病を患って一事、重篤になるも、京から呼び寄せた名医、曲直瀬道三の治療をもって回復に努め、同年9月には、尼子家を滅ぼして、毛利家を中国地方の覇者の座に押し上げる事に成功する。元亀元年(1570年)9月、元就は病が再発し、輝元、元春、隆景の懸命の看病を受けて一時、持ち直すも、元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城にて死去した。毛利元就、享年75。隆元の死から8年後の事であった。


主要参考文献、館鼻誠著「戦国争乱を生きる」



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