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美濃岩村城の攻防

2008.10.26 - 戦国史 其の一
岐阜県東部にある岩村城は、日本三大山城の一つとも云われる、堅固な城である。岩村城の見所と言えば、壮大な石垣であるが、ここに秘められた歴史もまた壮絶なものがある。城の創建は古く、(1185年)、鎌倉時代、源頼朝の臣であった加藤景廉が、美濃国遠山荘の地頭に任じられた時から始まったとされている。その景廉の子、景朝の代に遠山性に改名し、以降、一族は恵那郡一帯に散って、数多くの城館を築いていった。それらの中で本家筋の遠山氏は、代々、岩村城を居城として戦国に至る。この岩村遠山氏、最後の当主となったのは遠山景任である。景任は、年代は不明であるが、美濃攻略を進めていた頃の織田信長と同盟を結んでいる。


信長は、美濃・信濃・三河の国境に位置する城である岩村城と、その一帯を統治する遠山氏を重要視し、叔母にあたるおつやの方を景任に娶せたうえに、子のなかった夫妻に婿養子として四男、坊丸まで送っている。元亀3年(1572年)11月、織田信長と武田信玄、戦国時代を代表する両雄が対決に至ると、岩村城はその位置ゆえ、争奪戦の的となる。信玄は西上作戦の一環として、秋山虎繁(信友)に3千の兵を任せて岩村城を攻撃させた。この時、岩村城では折り悪く、城主、遠山景任が死亡していた。その死は、武田軍との前哨戦で受けた傷によるものと考えられている。城主を失って主体性を失ったのか、残されたおつやの方と遠山一族は、信長の援軍を待たずして、虎繁の降伏勧告に応じた。


この時、おつやの方と遠山一族はほとんど抵抗せずに城を明け渡した事、坊丸を武田家に差し出した事、そして、おつやの方が敵将である虎繁の妻に納まった事で、後に信長の凄まじい怒りに触れる事になる。開城後、虎繁は城将として岩村城に君臨した。岩村城は信長の本拠、岐阜城からもほど近く、武田家の西方進出の拠点となった。それは、信長にとって脇腹に剣を突きつけられたも同様であり、さらに虎繁とおつやの方に対する憎悪の念を強めていくのだった。天正元年(1573年)4月、武田信玄が病没し、勝頼に代替わりするが、秋山虎繁はそのまま岩村城の守備を任された。


天正2年(1574年)2月、勝頼が東美濃で大規模な軍事活動を行うと虎繁もこれに従い、岩村城周辺の織田方18支城を陥落させて、周辺に勢力を伸ばした。しかし、
翌天正3年(1575年)5月21日、武田軍が長篠で大敗北を喫すると、岩村城は、織田軍の反抗をまともに受ける形となった。信長の嫡男、信忠率いる兵3万人余の大軍が岩村城に迫ってきたのである。信長は、長篠勝利の余勢を駆って、東美濃を奪還する決意であった。この時、虎繁が守る岩村城は3千人余の兵力だった。篭城するには十分な兵力であるが、後詰めが無ければ勝利の可能性は無い。同年6月、虎繁は、勝頼の来援を信じて篭城戦に入った。当初、織田軍は一挙に城を攻め落とさんと、力攻めを加えた。織田軍は数を頼みに強攻を加えたが、天険の要害はびくとみせず、逆に虎繁を始めとする城兵の激しい反撃を受けて、多数の死傷者を出して撃退された。


これ以降、織田軍は長期包囲する方針に切り替えて、城方の抵抗力が弱まるまでじっくり待つ事にした。この間、城方が待ち望んでいる、武田の後詰めはなかなか現れなかった。武田勝頼は長篠で大敗北を喫していたが、形振り構わぬ動員で、短期間で軍勢を再建する事に成功している。そして、同年9月7日、勝頼はこの寄せ集めの武田軍を、徳川家康によって包囲されていた遠江、小山城へと振り向けた。長篠の大敗北を受けて、武田方はしばらく動けないと踏んでいた徳川方は、この素早い援軍の到来に驚いて撤退していった。こうして小山城の危機は救われたが、同じく包囲されていた岩村城は後回しにされた。織田軍3万人余に包囲されている岩村城の救援は困難極まるが、1万人以下の徳川軍なら、寄せ集めの武田軍でも追い払えると勝頼は踏んだのだろう。


天正3年(1575年)11月、孤立無援の岩村城では、半年にも及ぶ篭城で兵糧が乏しくなり、士気も低下していった。焦りを募らせた虎繁は自力で事態を打開せんとして、賭けに出た。11月10日、織田方の陣がある水晶山に夜討ち部隊を差し向け、さらに城からも本隊を繰り出して、一挙に織田軍を打ち破らんとしたのである。だが、水晶山に向かった夜討ち部隊は織田家部将、川尻秀隆、毛利長秀らによって撃退され、城から打って出た本隊も、信忠自らが陣頭に立つ織田方によって打ち破られてしまった。城方は兵糧攻めによって力を出し切れず、1,100人余が討死する無残な敗北となった。これで城方は再起不能となり、落城は必死の情勢となった。


この頃、武田勝頼はようやく岩村城の後詰めに向かおうとしていた。上京していた信長は勝頼来援の報を受けると、急ぎ岐阜まで駆け戻った。しかし、包囲下にある虎繁にはそれを知る由もなく、篭城を断念して開城を申し出た。 11月21日、織田方が開城を受け入れたので、虎繁を始めとする3人の将は、礼を言わんと、信忠の陣へ赴いた。だが、この和議は謀略であって、信忠は3将を絡め捕って、信長の下へと送った。そして、助命されるはずであった城兵達も誰一人として許されず、主将を失った岩村城に織田軍の総攻撃が加えられた。


和議になると安堵していた城方は不意を突かれたが、この破約には怒って最後の抵抗を試みた。城内では遠山一族が各郭を守って、織田軍に少なからぬ打撃を与えたが、衆寡敵せず次々に討たれていった。最後には城に火が放たれ、生き残った者達も各郭に押し込められて、焼き殺されていった。一方、信長の下へ送られた虎繁は、長良川にて逆磔(さかさはりつけ)の刑に処された。おつやの方は虎繁と供に逆磔にされたとも、信長自らの手で斬り殺されたとも云われている。信長の激しい怒りに触れた岩村城の人間3千人余りは、こうして無残に葬り去られたのだった。


落城後、織田家部将、河尻秀隆が岩村城を任されて城主となり、大改修を加えて現代の城郭に近い姿となった。河尻秀隆が甲斐に移封となると、森乱丸、長可、忠政の森家兄弟、三代の持ち城となり、忠政の代になって近世城郭に作り変えられた。その後、城主は次々に変わり、最終的には松平氏が入封して明治に至る。しかし、明治の世を迎えると岩村城も他の城同様、建物は取り壊され、壮大な石垣と秘められた悲劇のみが残される事となった。



(余談)おつやの方は、信長に対して呪いの言葉を発しながら、死んでいったと云われている。この岩村城に関わった織田信長・織田信忠・坊丸こと織田勝長・森乱丸・森長可・川尻秀隆といった人物は、いずれも横死している。ちなみに岩村城では出る!との噂がある・・・



 
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