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韮山城

韮山城は、静岡県伊豆の国市にある平山城である。戦国時代、関東に覇を唱えた、北条氏の最初の本拠となった城である。



明応2年(1493年)、駿河今川氏の客将であった伊勢宗瑞が伊豆国に進出し、自らの拠点として築いたのが、韮山城の始まりである。伊勢宗瑞は、ここを足掛かりとして更なる版図拡大を目指して行く。この伊勢宗瑞こそ、関東の雄、小田原北条氏の祖であり、韮山城はその興隆の起点となった。伊勢宗瑞の死後、嫡男、氏綱は北条に改姓し、合わせて相模国の小田原城を本城に定めたため、韮山城はその支城となったが、その後も伊豆支配の拠点として重要視された。



韮山城は、標高53mの龍城山と呼ばれる小山に三ノ丸、二ノ丸、権現曲輪、本丸といった城の中枢部が築かれ、尾根伝いにある標高128mの天ヶ岳(てんがだけ)一帯にも砦が築かれ、外郭線として用いられた。龍城山の麓、北西に城主の屋敷が、南西に武士や町人の屋敷群があったと推測され、往時には城の東、西、北側は堀が巡らされていた。韮山城が広く知られる様になるのは、天正10年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐での攻防戦である。時の城主は北条氏規(四代目当主、北条氏政の弟)で、3600人余の兵をもって、豊臣軍4万4千人に立ちはだかった。韮山城攻めの豊臣軍は、織田信雄、細川忠興、蒲生氏郷、福島正則ら錚々たる武将達で、堀を掘って、付城を築いて韮山城の四方を取り囲んだ。



天正10年(1590年)3月29日より韮山城の攻防戦が始まり、同日には重要支城、山中城も攻められ、こちらは激しい戦いの後、僅か1日で落城した。だが、韮山城はここから豊臣軍の攻撃を3カ月に渡って耐え抜く。しかし、他の北条方支城が悉く落城し、本城、小田原城も包囲される事態となっては如何ともし難く、同年6月24日、徳川家康の説得を受けて、北条氏規は城を開城した。同年7月には小田原城も開城し、北条氏は滅亡と相成った。それを受けて、徳川家康が関東を領有し、その家臣の内藤信成が韮山城主として入ったが、慶長6年(1601年)、廃城となった。






↑堀切





↑城池












↑二ノ丸






↑本丸





↑本丸から北西を望む



この辺りは御座敷と呼ばれ、城主の屋敷跡があったと推測されています。







↑本丸から西を望む


対面する山々には豊臣方が陣取っていたでしょう。






↑天ヶ岳


右手の山は天ヶ岳で、韮山城の外郭線を構成していました。






↑城の地図

















↑熊野神社





↑熊野神社





↑城池と韮山城


かつては沼であったようです。



韮山城を訪問したならば、北条家の祖、北条早雲こと伊勢宗瑞がここを本拠として関東経略を図った事や、北条氏規が豊臣の大軍に立ち向かった事に思いを巡らせてみては如何でしょう。


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韮山反射炉

韮山反射炉は、静岡県伊豆の国市にある反射炉です。反射炉とは、鉄の精錬に使われた施設です。その仕組みは、燃焼室で発生させた熱や炎を天井部分で反射させ、銑鉄(せんてつ・不純物を多く含んだ粗鉄)に高温を当てて溶解するというものでした。そこから取り出した優良な鉄をもって、大砲を鋳造していました。




幕末の日本は、欧米列強からの圧力に晒されており、これに危機感を覚えた徳川幕府は、嘉永6年(1853年)、韮山代官であった江川英龍を抜擢して反射炉の建設を命じます。これが韮山反射炉の始まりです。英龍は以前から反射炉の研究を進めていたものの、オランダの書物を頼りに一から近代設備を建造する事は、非常な困難が伴いました。それでも工事を進めていた英龍ですが、その完成を見ぬまま、安政2年(1855年)に病死してしまいます。




息子の英敏がその跡目と意志を引き継いで、反射炉建造を推し進め、同じく反射炉の建造を行っていた佐賀藩の助力も仰いで、安政4年(1857年)11月、ようやく韮山反射炉は完成します。完成なった韮山反射炉は幕府直営とされ、そこから鉄製18ポンドカノン砲や、青銅製24ポンドカノン砲などが鋳造され、日本の国防に貢献しました。元治元年(1864年)、韮山反射炉は使用停止され、しばらく放置されたものの、明治41年(1908年)以降、度々、保存修理がなされ、平成27年(2015年)には世界遺産に登録され、現在に至っています。





↑韮山反射炉



今回は時間が無かったので、資料館である韮山反射ガイダンスセンターには入らず終いでした。反射炉も外から眺めただけです。






↑展望台から見た反射炉



反射炉のすぐ側には、大きな土産屋もあります。






↑江川英龍の像






↑韮山反射炉



安政4年(1857年)に折角、完成した韮山反射炉ですが、そこから造り出された大砲は既に時代遅れのものであったでしょう。ただ、それでも何もしないよりはましで、この反射炉建造を足掛かりとして近代化の幕が開けたでしょうし、例え旧式の大砲であっても国防に資したのは間違いないでしょう。何より、危機感をもって国防に取り組んだという事実が大事で、韮山反射炉はそうした国防意識をもった人達が残した遺産です。

五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡

五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、兵庫県淡路市にある弥生時代後期の遺跡です。ここでは、西暦1年~100年頃にかけて鉄器作りが行われており、発見された23棟の竪穴建物の内、12棟が鍛治工房でした。同所では100年に渡って鉄器作りが行われており、一番大きな建物は少なくとも3回建て替えられていました。







↑復元鍛治工房







↑復元鍛治工房







↑復元鍛治工房







↑復元鍛治工房






↑復元鍛治工房







↑復元鍛治工房







↑遺跡全貌








↑出土土器







↑出土鉄器



左と真ん中が鉄鏃(てつぞく)で、弓矢の鏃(やじり)。左が鋳造鉄斧片。






↑出土鉄器



左は鉄器制作用の素材と考えられ、真ん中は針か錐(きり)と考えられる工具で、右はのみ状の工具。



五斗長垣内遺跡は、古代日本の鉄器制作の模様が知れる極めて貴重な遺跡です。また、見晴らしも良く公園としても過ごせるでしょう。

岩剣城

岩剣城(いわつるぎじょう)は、鹿児島県姶良市にある山城である。岩剣城は、薩摩統一を果たしたばかりの戦国大名、島津氏が更なる飛躍を目指して、総力を挙げて攻めかかった城であり、また、名将として知られる島津4兄弟の次弟、義弘が初陣を飾った城でもある。




岩剣城は、享禄2年(1529年)頃、北薩の国人、祁答院(けどういん)良重によって築かれたとされる。標高225mの岩剣山の山上にあって、三方が切り立った断崖で、尾根筋の一方も幾重もの切岸や曲輪によって厳重に守られていた。天文19年(1550年)、薩摩統一を果たした島津貴久は続いて、大隅国への進出を図っていた。その最初の標的となったのが、大隅国西部に拠る蒲生範清(かもう のりきよ)である。蒲生氏は竜ヶ城(蒲生城)を本拠として、松阪城、北村城、といった支城を持つ有力国人で、平山城、岩剣城を有する国人、祁答院良重と結んで、島津氏に対抗せんとした。 天文23年(1554年)9月10日、蒲生範清が先に動き、大隅国にある島津方の加治木城を攻め立てた。これを受けて島津貴久も動き、弟の忠将(ただまさ)、尚久(なおひさ)、子息の義久、義弘、歳久らを始めとする一族譜代に国内諸領主を総動員して、薩摩との国境に近い岩剣城を攻めんとした。




同年9月12日、島津勢は岩剣城に押し寄せ、まずは城の西側に陣取って半分、取り囲んだ。9月14日、島津忠将が船5艘で岩剣城の足元にある脇本を襲撃し、鉄砲で13人を討ち取った。9月17日、島津義弘が脇本南方の白銀坂に着陣し、東側の包囲を進める。9月18日、島津忠将は、50艘余の船をもって別府川を遡上し、蒲生、祁答院の主力が籠る平山城に鉄砲を撃ちかけて牽制した。9月20日、義弘は手勢を二手に分けて、一手を脇本に伏せさせ、一手を持って岩剣城下を焼き払い、稲を刈り取らせた。これに激高したのか、城兵が打って出たところを伏兵を持って撃退し、義弘は初陣を勝利で飾った。9月21日、義弘は船10艘を拿捕した上、脇本を完全に制圧して、岩剣城を孤立せしめた。




10月2日夜明け、島津貴久は岩剣城への総攻撃を命じ、義弘率いる手勢は西門を攻撃して城戸を打ち破り、小屋に火をかけてまわった。その隙に乗じて、尚久の手勢も城際に迫って攻撃した。こうして城方に打撃を与えた上で、島津軍は城下に布陣し、蒲生、祁答院勢の後詰に備えた。貴久は城への攻撃と並行して、一手をもって星原で稲を刈り取らせ、蒲生、祁答院勢が籠る平山城を挑発させていた。これに釣られた蒲生、祁答院勢2千人余が出撃し、島津軍主力が待ち受ける星原で激突した。だが、蒲生、祁答院勢は祁答院良重の子息、重経、蒲生家の重臣、西森盛家ら主だった者50人余が討ち取られる惨敗を喫する。後詰の蒲生、祁答院勢が敗れた事で、城方の士気は喪失し、同日夜半、城兵は城を捨てて逃走、翌10月3日、岩剣城は島津氏の手に渡った。




戦後、義弘が岩剣城を任されるが、山城が不便であったのか麓の平松に居館を築いて、3年間城番を務める。島津貴久は岩剣城を足掛かりに更に蒲生範清を攻め立て、天文24年(1555年)に平山城を落とし、弘治2年(1556年)松坂城を落として、蒲生氏の本拠、竜ヶ城へと迫った。弘治3年(1557年)4月、孤立を深めた蒲生範清は、ついに竜ヶ城を棄てて祁答院へと落ちて行った。こうして大隅西部は、島津貴久の領する所となった。その後の岩剣城であるが、麓の平松館は使われ続けたものの、それも慶長11年(1606年)に役割を終えて岩剣城共々、廃城となった。







↑登山口



山深く険しい道のりです。







↑大手口付近







↑最高所への道



岩剣城を登っている時、誰とも出会わないだろうと思っていましたが、この付近で山城散策をしていた物好きな人に出会いました。「こんなマイナーな城を登られているとは、城マニアの方ですね」と声をかけると、苦笑いされました。「お前もだろう」と思ったに違いないです。







↑曲輪8



広い削平地です。小屋を建てて、大勢の兵が詰めていたと思われます。






↑奧が曲輪10







↑曲輪10



岩剣城の最高所です。






↑最高所からの眺め



姶良市街が広がっています。眼下に映る一帯が蒲生氏の勢力範囲でした。しかし、島津氏はこれだけの地域を制圧するのに、3年近い歳月を費やしています。蒲生氏の抵抗が強かったのもありますが、島津氏の力がまだ不足していたのもあるでしょう。







↑本丸






↑本丸石垣



戦国期の山城にしては珍しく、石垣が施されています。ただ、城を築いた祁答院氏が積んだのか、その後、城主となった島津氏が積んだのかは分かりません。






↑本丸直下の斜面



切り立っていて険しいです。





↑城を流れる渓流


大手道に沿って流れており、水に困る事は無いです。






↑岩剣神社とその背後に岩剣城

鹿屋航空基地史料館

鹿屋航空基地史料館は、鹿児島県鹿屋市にある史料館です。海上自衛隊鹿屋航空基地に隣接しており、太平洋戦争時の日本海軍から現代の海上自衛隊に至る豊富な史料が展示されています。無料で入館出来ますが、2022年時点ではコロナ過を受けて、人数制限がされています。



鹿屋航空基地は、昭和11年(1936年)4月、大日本帝国海軍鹿屋航空隊の創設に始まる。太平洋戦争末期には神風特攻隊最大の出撃拠点となり、鹿屋航空基地から908名もの搭乗員が飛び立っていった。戦後はアメリカ軍が進駐し、その退去後は警察予備隊の駐屯地となり、昭和30年(1955年)から海上自衛隊の管轄する所となった。現在も、広大な南西諸島の警戒監視と救難活動を担っている。





↑鹿屋航空基地史料館



屋外には、海上自衛隊で使用されていた、航空機やヘリコプターが大量に展示されています。屋内も日本海軍の艦艇模型や、零戦の復元機と装備機銃、特攻隊員の遺影と遺書、などなど大量の史料が見られます。特に見入ってしまったのは、昭和18年(1943年)4月、山本五十六大将が戦死した際の搭乗機、一式陸上攻撃機の残骸や、硫黄島守備隊の遺品、銃孔らしき穴の空いた鉄兜や、薬品の瓶などでした。展示史料は撮影不可もありますが、兵器等は撮影可が多かったです。基本的に私が興味あるものを載せていきます。







↑零戦用エンジン 栄発動機二一型







↑零式艦上戦闘機五二型



平成4年(1992年)、鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた2機の零戦から部品を補い合って復元されました。






↑零式艦上戦闘機五二型





↑零式艦上戦闘機五二型





↑零式艦上戦闘機五二型







↑7.7mm機銃



零戦などの軍用機に搭載されていたものです。






↑零式艦上戦闘機二一型用20mm機銃



初期型の零戦に搭載された20mm機銃で、銃身が短いです。







↑下が零式艦上戦闘機五二型丙用20mm機銃で、その上が13mm機銃



後期型の零戦に搭載された20mm機銃で銃身が長く、見た目にも威力が上がっているのが分かります。






↑旧日本海軍の軍装







↑航空母艦赤城の模型








↑軽巡洋艦矢作の模型







↑二式大型飛行艇一二型



唯一の現存機で、屋外展示機の目玉です。






↑二式大型飛行艇一二型






↑二式大型飛行艇一二型


往時には側面、上面に20mm機銃が装備されていました。






↑二式大型飛行艇一二型



側面から見るとずんぐりした機体に見えますが、意外と細いです。空力的に洗練するため、この形状になったのでしょう。


太平洋戦争に興味がある者にとって、鹿屋航空基地史料館は興味が尽きない施設です。特攻作戦に関する史料は、知覧特攻平和会館の方が豊富ですが、兵器など総合的な史料数は、鹿屋航空基地史料館の方が豊富でした。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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