このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
松本城は、長野県松本市にある平城です。その天守閣は日本に現存する12天主の一つであり、国宝にも指定されている貴重な建物です。
松本城は、永正元年(1504年)、信濃守護、小笠原氏が、居城である林城の支城として築いたのが始まりとされている。その頃は深志城と呼ばれており、土塁で囲まれた規模の小さな城であったろう。その後、甲斐の戦国大名、武田信玄によって小笠原氏は追われ、林城も廃城となるが、代わって深志城が拠点として持ちいられる事となった。天正10年(1582年)、武田家が滅亡すると、徳川家康の後援を得て、小笠原貞慶が城主となり、深志城から松本城へと改名する。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封され、代わって石川数正が城主となった。数正は赴任後、松本城の大規模な改築を開始するが、その完成を見る事なく死去し、その子、康長の時代になって本丸、二の丸、三の丸、五層六階の天守閣の完成を見る。これによって松本城は、近世城郭として面目を一新する。現在にまで伝わる松本城と城下町は、この石川氏によって整えられたものである。
しかし、康長は慶長18年(1613年)、大久保事件に連座して改易させられ、小笠原氏が代わって城主となった。その小笠原氏も長居はせず、戸田氏(1617~1633)→松平氏(1633~1638)→堀田氏(1638~1642)→水野氏(1642~1725)と城主は目まぐるしく代わって、最終的に戸田氏(1726~1869)の居城となって明治の世を迎えた。しかし、明治の世になると天守閣は荒廃して傾き、倒壊の危機に瀕した。その上、競売にかけられて解体寸前となったが、地元の有志の手によって買い戻され、それを11年かけて修理して、貴重な建造物を現在にまで伝え残した。
↑松本城を三方向から撮ってみました。
この城には鎧兜・刀槍・鉄砲などが豊富に陳列されてあって、見応えありました。しかし、何より見応えあるのは、この五重六階の大天主でしょう。遠くの山々を背景に、水に浮かず城郭は非常に美しいです。ただ、祝日には大勢の観光客で混雑すると思われるので、平日に訪れる方が良いかもしれません。
↑八ヶ岳の山麓
八ヶ岳の麓を通りがかったのでついでに撮ってきました。八ヶ岳は非常に雄大な山でした。
↑木曽の町並み
再現された町並みなんでしょうが、良い味が出ていました。
↑長野県で見かけた綺麗な池
澄んだ水をしておりまして、大勢の写真家がシャッターを切っていました。
マロリーの遺体を発見!
(1999年)、マロリーの遭難から75周年のこの年、マロリーとアーヴィンの遺体を捜索し、その偉業が達成されたのかどうかを確かめるべく、調査遠征隊がエベレストに向かった。そして、調査隊は初日、エベレスト北面標高8160メートル地点で、真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見する。その遺体はうつ伏せの姿勢で顔を地面に埋め、全身をいっぱいに伸ばして、滑落停止の姿勢をとっていた。
両腕はいまだ逞しい筋肉をつけながら頭の上へ伸びており、指先は関節を曲げて岩屑の中に埋もれていた。右ひじが折れているか、脱臼するかしていた。両足は下に伸びているが、片足は折れており、それを庇うようにもう一方の足が上に交叉していた。目は閉じており、額に致命傷と思われる外傷があって、砕けた頭蓋が飛び出していた。絡みついたクライミング・ロープが胸郭を締め付け、皮膚に食い込んでいた。
遺体付近からは、天然繊維の衣服・皮製のヘルメット・手紙数通・鋲靴・絹製のハンカチ・時計・肉の缶詰・ポケットにしまわれていた日除け用ゴーグルなどが見つかった。だが、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見出来ず、彼が頂上に置いてくると言っていた妻ルースの写真も見つからなかった。また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見出来なかった。
結局、今回の調査ではマロリーとアーヴィンがエベレスト登頂を果たしたのかどうかを確定する、決定的な証拠を見つける事は出来なかった。しかし、2人の行動を推測できる、幾つかの遺物を発見する事は出来た。特に標高8490メートル地点で、マロリー達が使用したNo9酸素ボンベが発見された事は、その登頂速度を推測できる重要な発見であった。一通りの調査を終えると、マロリーの遺体はその場に丁重に埋葬された。
マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めたのか?
オデールは、「とある岩の段差で2人を目撃した」と言っている。調査隊はその証言に基いて現地調査を試みた。その結果、サードステップ(標高8700メートル)が最もその光景に当てはまる事が分った。だが、午前5時半に出発したとして、午後13時にここまで到達するのは不可能ではないものの、極めて難しいと推測された。なので、セカンドステップ上部への到達が相応と考えられた。このセカンドステップは高さ30メートルほどの岩壁で、巡洋戦艦の切り立った艦首と形容されるほど難度が高い箇所である。 そのため、イタリアの著名な登山家メスナーは、当時の貧弱な装備でそこを越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。
だが、マロリーの友人はこう述べている。「彼のルートを探し出す才能に、何度も感心させられた事は忘れられない。複雑に入り組んだルートでも、彼は遠くから見当を付け、現場で細かく見極める」 「ジョージが登っている姿を見ていると、体力よりもしなやかさ、バランスの良さに感銘を受ける。どんなに険しい場所でも、リズミカルにテンポよく前進する。その動きの滑らかな事、まるで蛇の如しだ」と。マロリーは間違いなく当時世界一流の登山家であり、周囲の誰もが認める確かな技術があった。そして、2人は最大の難所セカンドステップを乗り越え、もしかするとサードステップにまで達していたのだろう。このサードステップはさほど難しい場所ではないので、後は頂上への道が残されるのみである。しかし、エベレストは超高所にあって、酸素の量は地表の三分の一に過ぎず、その条件下では、人間の能力は極端に低下する。なので、現在、酸素ボンベ無しでこの山を登頂出来る人間は、ほとんど存在しない。
マロリー達が頂上を目指す4日前には、同じ遠征隊の登山家ノートンとサマヴィルが、8530メートル地点まで無酸素で登っている事実がある。これは壮挙であったが、ノートンの最後の1時間の歩みは、高さにして30メートル、距離にして僅か90メートルでしかなかった。体力、経験豊富な2人の登山家が病弱者のように咳き込み、数歩進んでは息を切らし、喘ぎ苦しみながら登らねばならなかった。後300メートルの高さを登り切れば、2人は栄光の頂点に立つ事が出来るのであるが、それを成そうと思えば、少なくとも後10時間の時間が必要であった。そうなれば夜を跨いでの登山となるが、装備も貧弱で体力も限界近い2人には、到底無理な相談であった。2人はここで登頂を諦めて、引き返さざるを得なかった。酸素ボンベの助けがなければ、この過酷な山の征服は極めて難しい。一方、マロリーは酸素ボンベの使用を考えていて、その書き付けでは、「おそらく、酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう」と言っている。
マロリー達が午前5時~5時半にキャンプを出発したとして、酸素ボンベを2本ずつ背負い、頂上を目指した場合を想定してみる。最大流量にセットしてあるとすれば、その持続時間は8時間となり、午後13時頃、セカンドステップを乗り越えた時点で、酸素ボンベの2本目が無くなる。そこからは酸素不足で歩みが遅くなるので、頂上に到達するのは午後19時となり、丁度、日が沈み始める頃になる。この場合だと、まだ明るみの残る内に頂上ピラミッドは下れなかっただろうし、まして困難なセカンドステップを闇夜に下る事は、不可能であっただろう。そうなれば、彼らはここで遭難していただろう。だが、彼らが実際に遭難した場所は、セカンドステップとファーストステップを下り終えて、第6キャンプまで後もう少しという地点であった。
これは、マロリー達がまだ明るみが残っている間に、セカンドステップを下り終えていた事を示唆している。また、酸素ボンベの2本目が切れた時点(午後13時頃)で断念して、引き返していたとすれば、まだ日のある内に第6キャンプまで達していただろう。マロリーはその最中に、転落したのだろうか?しかし、マロリーのポケットには日除けゴーグルが入っていた。エベレストの紫外線は極めて強いので、日中の行動には日除けゴーグルは欠かせない。もし、ゴーグル無しで日中行動したなら、雪面に反射した太陽光によって雪盲(角膜、網膜の炎症)となり、痛みで目を開けられなくなってしまう。これがポケットに入っていたと言う事は、昼間ではなく、夜間に行動していた事を示唆している。酸素ボンベ2本ずつのシナリオだと、どうも話が噛みあわないのである。
マロリーの書き付けには、「おそらく・だろう」という言葉があって、酸素ボンベを2本ずつにするか3本ずつにするか、選択の余地があった。そして、彼らの手元には推定7本の使用可能な酸素ボンベがあった。後日、第6キャンプを捜索したオデールは、酸素ボンベを1本発見しているので、6本使用されたとも見なせる。もし、彼らが酸素ボンベを3本ずつ背負っていったなら、シナリオは劇的な変化を見せる事になる。最大流量にセットしてあるとすると、その持続時間は12時間となり、セカンドステップを乗り越えた時点で3本目に切り替え、そのまま歩みを緩めることなく、頂上を目指す事になる。そして、酸素ボンベの3本目が空になる午後16時頃、マロリーとアーヴィンは頂上に到達していた可能性がある。その場合だと、まだ明るみが残る内に難所のセカンドステップを下り終え、ファーストステップを下り終えた時点で日没を迎える事になる。
おそらく、彼らは3本ずつ酸素ボンベを背負っていったのだろう。そうなれば、(1953年)ヒラリーとテンジンのエベレスト初登頂から遡ること29年前、マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めていた可能性があるのだ。間接的に2人の登頂を示唆する手掛かりもある。マロリーの遺体から発見された物入れには、頂上に置いてくると言った妻ルースの写真が無かったのである。しかし、その写真が頂上で発見された訳でもない。なので、最終的には、マロリーが頂上で撮ってくると言っていたコダックのカメラが発見されなけれれば、登頂の確認は出来ない。エベレストのような寒冷な場所では、何十年経ってもフィルムは現像可能な状態で保存されており、それは今でも、ヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている。
エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 3に続く・・・
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ジョージ・マロリーの遺体