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松本城

松本城は、長野県松本市にある平城です。その天守閣は日本に現存する12天主の一つであり、国宝にも指定されている貴重な建物です。


松本城は、永正元年(1504年)、信濃守護、小笠原氏が、居城である林城の支城として築いたのが始まりとされている。その頃は深志城と呼ばれており、土塁で囲まれた規模の小さな城であったろう。その後、甲斐の戦国大名、武田信玄によって小笠原氏は追われ、林城も廃城となるが、代わって深志城が拠点として持ちいられる事となった。天正10年(1582年)、武田家が滅亡すると、徳川家康の後援を得て、小笠原貞慶が城主となり、深志城から松本城へと改名する。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封され、代わって石川数正が城主となった。数正は赴任後、松本城の大規模な改築を開始するが、その完成を見る事なく死去し、その子、康長の時代になって本丸、二の丸、三の丸、五層六階の天守閣の完成を見る。これによって松本城は、近世城郭として面目を一新する。現在にまで伝わる松本城と城下町は、この石川氏によって整えられたものである。


しかし、康長は慶長18年(1613年)、大久保事件に連座して改易させられ、小笠原氏が代わって城主となった。その小笠原氏も長居はせず、戸田氏(1617~1633)→松平氏(1633~1638)→堀田氏(1638~1642)→水野氏(1642~1725)と城主は目まぐるしく代わって、最終的に戸田氏(1726~1869)の居城となって明治の世を迎えた。しかし、明治の世になると天守閣は荒廃して傾き、倒壊の危機に瀕した。その上、競売にかけられて解体寸前となったが、地元の有志の手によって買い戻され、それを11年かけて修理して、貴重な建造物を現在にまで伝え残した。



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↑松本城を三方向から撮ってみました。

この城には鎧兜・刀槍・鉄砲などが豊富に陳列されてあって、見応えありました。しかし、何より見応えあるのは、この五重六階の大天主でしょう。遠くの山々を背景に、水に浮かず城郭は非常に美しいです。ただ、祝日には大勢の観光客で混雑すると思われるので、平日に訪れる方が良いかもしれません。



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↑八ヶ岳の山麓

八ヶ岳の麓を通りがかったのでついでに撮ってきました。八ヶ岳は非常に雄大な山でした。



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↑木曽の町並み

再現された町並みなんでしょうが、良い味が出ていました。


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↑長野県で見かけた綺麗な池

澄んだ水をしておりまして、大勢の写真家がシャッターを切っていました。

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世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 3

2009.03.05 - 歴史秘話 其の一
●調査隊が推測したマロリー、アーヴィンの遭難の様子



2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。しかし、疲労も甚だしく、酸素も切れていた。それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを下り終える事に成功する。そして、ファーストステップも下り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。マロリーは、ランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせなかった。なので、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを下りて行かざるを得ない。2人は水分不足や酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目前にした安堵感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。垂直な岩壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。



2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃によって切断されてしまう。その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れてしまった。そのまま急斜面を滑り落ちて、暗黒の谷底へと向かっていく。だが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませて、体を停めようとした。手袋はすぐに裂けたが、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い挙がった。そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。しかし、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。



アーヴィンの方は、どうなったのだろうか。(1933年)イギリスの第4次遠征隊がエベレストに挑戦した際、標高8460メートル地点で、アーヴィンのピッケルを発見している。そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。事故の際、アーヴィンは滑落を免れ、ピッケルをその場において親友を助けようとしたのだろうか。しかし、最早、どうする事も出来ず、1人で下山に取り掛かろうとして、途中で力尽きたのかもしれない。それとも、やはり事故の際、ピッケルを取り落として、一緒に滑落してしまったのかもしれない。いずれにせよ、アーヴィンは氷雪の山塊に倒れ、短い22年の生涯を閉じた。その遺体は、現在も発見されていない。マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であった。




●マロリーとアーヴィン、その人となり



ジョージ・レイ・マロリー(1886年6月18日~1924年6月8日)


マロリーは牧師の子として生まれる。その風采は極めて優れており、整った顔立ちに洗練された雰囲気を漂わせていた。彼は非常に神経質なタイプで自身たっぷりだったかと思うと、心許なくなって沈み込み、感情の振幅が激しいところがあった。だが、登山者としての彼の能力に疑問を持つ者は誰もいなかった。山に向かって足を運ぶ、その軽快な足取りは誰にも真似できないものだった。


マロリーのもっとも優れていたものは、その魂であった。彼の意志力は尽きる事がなく、何かやるべき事があれば、何時でも行動に移る用意があった。彼は誰よりも早く行動し、出発する時は夜も明けきらない早朝だった。遠征隊の隊長ノートンは、マロリーの事を、「不屈の精神を持った男であり、チャンスがある限りは敗北を認めない」と評している。しかし、その一方で、「彼は愛すべき人物だったが、せっかちで行く先々で所持品をばら撒いていった」とも述べている。



マロリーは登山家としては際立った能力を持っていたが、管理能力はなかった。目の前の物事に集中すると、決まって大事な物を忘れてくる傾向があった。最後の忘れ物の中にはコンパス・夜間用ランタン・懐中電灯がある(荷物になるのであえて置いていったとも考えられるが、ランタン・懐中電灯を携帯していれば遭難は避けられていたかもしれない)。



このエベレスト挑戦時、マロリーはもうじき39歳となる年齢だった。肉体的に、これが最後の挑戦となる可能性が高かった。それに彼は、このエベレスト登頂に人生の意義を見出していたので、今回のエベレスト挑戦には並々ならぬ決意で向かっていった。彼は死も覚悟していたが、勝算の無い戦いをするつもりはなかった。彼は以前、「私は既婚者ですし、後先を考えずに飛び込むわけには行きません」とも述べている。帰りを待っている妻子もあったし、その当時に出来うる限りの手を尽くしてエベレストに挑み、そして、生きて帰る心積もりであった。



アンドリュー・カミン・アーヴィン(1902年4月8日~1924年6月8日)


アーヴィンは裕福な家庭に生まれ、少年の頃からバイクの旅をするなど生来の冒険家であった。彼には登山の経験は少なかったが、機械に極めて強い点と抜群の体力を買われて21歳の若さで遠征隊に加えられている。若さゆえの生意気な行動を取る事もなく、常識心に富んでいた。長身で顔立ちが良く、肩幅の広い好青年であった。そして、彼の仕事能力は大変なものだった。昼間、氷河で作業して疲れ切った後でも、テントの中で道具類を広げ、壊れやすく扱いにくい酸素器具の改良に取り組んだり、遠征隊の修理屋を勤めたりもしていた。彼はこの作業を皆が寝静まった後も、だいぶ遅くまで続けていた。



彼は肉体的にも精神的にも大人であり、年長者に対して控え目な態度を取りながらも、大人として行動していた。高い理想を抱いており、シェルパに対しても礼儀正しく接していた。マロリーとアーヴィンは共に理想主義で子供っぽいほどの無邪気さがあり、2人は出会ってすぐに意気投合する。マロリーの方が10年以上も年長であったが、2人は対等の親友となった。遠征隊の記念写真が残っているが、2人は隣同士で写っている。そして、写真に写るアーヴィンはいつも陽気に微笑んでいる。



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↑後列左がアーヴィンでその隣がマロリー







↑マロリーの生い立ちや内面を知りたいなら、「エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝」が、1999年のマロリーの遺体発見時の様子、遭難の経緯、登頂の可能性を知りたいなら「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記」を読んでみるのが、よろしいかと。

世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 2

2009.03.04 - 歴史秘話 其の一

マロリーの遺体を発見!

(1999年)、マロリーの遭難から75周年のこの年、マロリーとアーヴィンの遺体を捜索し、その偉業が達成されたのかどうかを確かめるべく、調査遠征隊がエベレストに向かった。そして、調査隊は初日、エベレスト北面標高8160メートル地点で、真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見する。その遺体はうつ伏せの姿勢で顔を地面に埋め、全身をいっぱいに伸ばして、滑落停止の姿勢をとっていた。



両腕はいまだ逞しい筋肉をつけながら頭の上へ伸びており、指先は関節を曲げて岩屑の中に埋もれていた。右ひじが折れているか、脱臼するかしていた。両足は下に伸びているが、片足は折れており、それを庇うようにもう一方の足が上に交叉していた。目は閉じており、額に致命傷と思われる外傷があって、砕けた頭蓋が飛び出していた。絡みついたクライミング・ロープが胸郭を締め付け、皮膚に食い込んでいた。



遺体付近からは、天然繊維の衣服・皮製のヘルメット・手紙数通・鋲靴・絹製のハンカチ・時計・肉の缶詰・ポケットにしまわれていた日除け用ゴーグルなどが見つかった。だが、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見出来ず、彼が頂上に置いてくると言っていた妻ルースの写真も見つからなかった。また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見出来なかった。



結局、今回の調査ではマロリーとアーヴィンがエベレスト登頂を果たしたのかどうかを確定する、決定的な証拠を見つける事は出来なかった。しかし、2人の行動を推測できる、幾つかの遺物を発見する事は出来た。特に標高8490メートル地点で、マロリー達が使用したNo9酸素ボンベが発見された事は、その登頂速度を推測できる重要な発見であった。一通りの調査を終えると、マロリーの遺体はその場に丁重に埋葬された。




マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めたのか?


オデールは、「とある岩の段差で2人を目撃した」と言っている。調査隊はその証言に基いて現地調査を試みた。その結果、サードステップ(標高8700メートル)が最もその光景に当てはまる事が分った。だが、午前5時半に出発したとして、午後13時にここまで到達するのは不可能ではないものの、極めて難しいと推測された。なので、セカンドステップ上部への到達が相応と考えられた。このセカンドステップは高さ30メートルほどの岩壁で、巡洋戦艦の切り立った艦首と形容されるほど難度が高い箇所である。 そのため、イタリアの著名な登山家メスナーは、当時の貧弱な装備でそこを越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。



だが、マロリーの友人はこう述べている。「彼のルートを探し出す才能に、何度も感心させられた事は忘れられない。複雑に入り組んだルートでも、彼は遠くから見当を付け、現場で細かく見極める」 「ジョージが登っている姿を見ていると、体力よりもしなやかさ、バランスの良さに感銘を受ける。どんなに険しい場所でも、リズミカルにテンポよく前進する。その動きの滑らかな事、まるで蛇の如しだ」と。マロリーは間違いなく当時世界一流の登山家であり、周囲の誰もが認める確かな技術があった。そして、2人は最大の難所セカンドステップを乗り越え、もしかするとサードステップにまで達していたのだろう。このサードステップはさほど難しい場所ではないので、後は頂上への道が残されるのみである。しかし、エベレストは超高所にあって、酸素の量は地表の三分の一に過ぎず、その条件下では、人間の能力は極端に低下する。なので、現在、酸素ボンベ無しでこの山を登頂出来る人間は、ほとんど存在しない。



マロリー達が頂上を目指す4日前には、同じ遠征隊の登山家ノートンとサマヴィルが、8530メートル地点まで無酸素で登っている事実がある。これは壮挙であったが、ノートンの最後の1時間の歩みは、高さにして30メートル、距離にして僅か90メートルでしかなかった。体力、経験豊富な2人の登山家が病弱者のように咳き込み、数歩進んでは息を切らし、喘ぎ苦しみながら登らねばならなかった。後300メートルの高さを登り切れば、2人は栄光の頂点に立つ事が出来るのであるが、それを成そうと思えば、少なくとも後10時間の時間が必要であった。そうなれば夜を跨いでの登山となるが、装備も貧弱で体力も限界近い2人には、到底無理な相談であった。2人はここで登頂を諦めて、引き返さざるを得なかった。酸素ボンベの助けがなければ、この過酷な山の征服は極めて難しい。一方、マロリーは酸素ボンベの使用を考えていて、その書き付けでは、「おそらく、酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう」と言っている。



マロリー達が午前5時~5時半にキャンプを出発したとして、酸素ボンベを2本ずつ背負い、頂上を目指した場合を想定してみる。最大流量にセットしてあるとすれば、その持続時間は8時間となり、午後13時頃、セカンドステップを乗り越えた時点で、酸素ボンベの2本目が無くなる。そこからは酸素不足で歩みが遅くなるので、頂上に到達するのは午後19時となり、丁度、日が沈み始める頃になる。この場合だと、まだ明るみの残る内に頂上ピラミッドは下れなかっただろうし、まして困難なセカンドステップを闇夜に下る事は、不可能であっただろう。そうなれば、彼らはここで遭難していただろう。だが、彼らが実際に遭難した場所は、セカンドステップとファーストステップを下り終えて、第6キャンプまで後もう少しという地点であった。



これは、マロリー達がまだ明るみが残っている間に、セカンドステップを下り終えていた事を示唆している。また、酸素ボンベの2本目が切れた時点(午後13時頃)で断念して、引き返していたとすれば、まだ日のある内に第6キャンプまで達していただろう。マロリーはその最中に、転落したのだろうか?しかし、マロリーのポケットには日除けゴーグルが入っていた。エベレストの紫外線は極めて強いので、日中の行動には日除けゴーグルは欠かせない。もし、ゴーグル無しで日中行動したなら、雪面に反射した太陽光によって雪盲(角膜、網膜の炎症)となり、痛みで目を開けられなくなってしまう。これがポケットに入っていたと言う事は、昼間ではなく、夜間に行動していた事を示唆している。酸素ボンベ2本ずつのシナリオだと、どうも話が噛みあわないのである。



マロリーの書き付けには、「おそらく・だろう」という言葉があって、酸素ボンベを2本ずつにするか3本ずつにするか、選択の余地があった。そして、彼らの手元には推定7本の使用可能な酸素ボンベがあった。後日、第6キャンプを捜索したオデールは、酸素ボンベを1本発見しているので、6本使用されたとも見なせる。もし、彼らが酸素ボンベを3本ずつ背負っていったなら、シナリオは劇的な変化を見せる事になる。
最大流量にセットしてあるとすると、その持続時間は12時間となり、セカンドステップを乗り越えた時点で3本目に切り替え、そのまま歩みを緩めることなく、頂上を目指す事になる。そして、酸素ボンベの3本目が空になる午後16時頃、マロリーとアーヴィンは頂上に到達していた可能性がある。その場合だと、まだ明るみが残る内に難所のセカンドステップを下り終え、ファーストステップを下り終えた時点で日没を迎える事になる。



おそらく、彼らは3本ずつ酸素ボンベを背負っていったのだろう。そうなれば、(1953年)ヒラリーとテンジンのエベレスト初登頂から遡ること29年前、マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めていた可能性があるのだ。間接的に2人の登頂を示唆する手掛かりもある。マロリーの遺体から発見された物入れには、頂上に置いてくると言った妻ルースの写真が無かったのである。しかし、その写真が頂上で発見された訳でもない。なので、最終的には、マロリーが頂上で撮ってくると言っていたコダックのカメラが発見されなけれれば、登頂の確認は出来ない。エベレストのような寒冷な場所では、何十年経ってもフィルムは現像可能な状態で保存されており、それは今でも、ヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 3に続く・・・



YouTubu動画

ジョージ・マロリーの遺体

世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 1

2009.03.03 - 歴史秘話 其の一
19世紀から20世紀前半にかけて、世界では未知なるものを求める探検熱が大いに高まっていた。この頃、人類の科学技術は飛躍的な発展を遂げており、その恩恵を受けて大陸の奥地から、太洋の隅々まで探索する事も可能となっていた。新たなる発見は、国威発揚と、経済的利益にも繋がっていたから、各国は熱狂的に探検隊を送り出していった。中でも、経済力と軍事力があった欧米諸国は、地理上の空白地を次々に埋めてゆき、やがて、人類未訪の地は、北極、南極、そして、第3の極地と言われているエベレスト(ネパール名サガルマータ)のみとなる。欧米諸国は、この残された人類未踏の地に自らの国旗を打ち立てるべく、一番乗り競争にやっきとなった。



そして、1906年4月6日)には、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し(これには異論もある)、(1911年2月14日)には、ノルウェーのロアルド・アムンゼンが南極点に到達する事に成功する。いずれも、世界史に残る偉業であった。当時の世界大国イギリスも、これに負けじと北極、南極に遠征隊を送り込んでいたが、いずれにおいても遅れをとった。残された未踏の地は、第3の極地にして、世界最高峰であるエベレスト(標高8848メートル)のみとなる。イギリスは今度こそ、世界に先駆けてこの人跡未踏の地を征し、帝国の威信を内外に示さんと試みた。



そして、(1921年)、イギリスは、第1回遠征隊をエベレストに送りこむ。エベレストが生易しい山で無い事は分かっていたから、第1回遠征隊の目的はまずこの山を徹底的に偵察し、一番易しい登頂ルートを見出す事にあった。そして、この遠征には、1人の魅力的な人物が含まれていた。彼の名はジョージ・リー・マロリー、端正な容姿にして、技術と実績を積み重ねた優れた登山家であった。そして、「そこに山があるから」と言う世界的に有名な言葉を発している。 マロリーを含む3人の登山者は苦心の末、北稜の7千メートル地点にまで達した。そこから、マロリーは雪煙たなびくエベレストを見つめた。今回はここまでであったが、マロリーは頂上への登坂可能なルートを見出して満足であった。マロリーの残した言葉、「大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エベレストの山頂が現れた」



(1922年)、第2回遠征隊が派遣され、いよいよ本格的にエベレスト征服が試みられる事となる。今回の遠征にも、マロリーが主力の1人として加わっていた。そして、マロリー、サマヴィル、ノートンの3人の登山家が力を合わせ、遥かなる頂を目指して挑戦を開始した。3人は凍傷を負いながらも登坂を続け、酸素吸入器なしで8225メートルの高度にまで達した。だが、ここで信じ難いほどの寒気に襲われたため、一行は引き返さざるをえなかった。後日、マロリーとサマヴィルはそれでも諦めず、最後の挑戦に出る。



だが、アイスフォールの切り立った斜面を登坂中、雪崩が発生して、マロリーを含む登山隊を呑み込んでしまう。マロリーは無事であったが、この雪崩で7名のシェルパが死亡した。この挑戦はマロリーが強く訴えたものであったため、世間では非難の声も挙がり、彼自身深く苦悩した。こうして第二回遠征は、無残な失敗に終った。マロリーの言葉、「これは魔の山だ。冷酷ですぐ裏切る。はっきり言って事はあまり上手くいっていない。やられる危険があまりに大きく、高所で人間が使える力はあまりにも小さい・・・」



(1924年)、第3回遠征が行われる。今回の遠征にもマロリーは加わっていたが、この時、38歳となっており、年齢的に最後の挑戦となる可能性が高かった。マロリーの残した言葉、「打ち負かされて降りてくる自分の姿なぞ、とても想像できない」  「それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない」  「ほかの人達が私抜きで頂上の征服に取り掛かるのを見たら、あまり良い気持ちがしないだろう」  「どれほど今年に期待しているか、とても言い表せない」  「もう一度、そして、これが最後。そういう覚悟で私達はロンブク氷河を上へ上へと前進してゆく。待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か」  「この冒険はこれまでになく必死なものとなっていきそうな・・・」




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↑出発準備を整えるマロリーとアーヴィン



(1924年6月6日午前8時40分)、マロリーとアーヴィンの2人はノース・コル(標高7066メートル)のキャンプを出発する。2人が出発間近、準備に余念が無いところを登山隊の1人、ノエル・オデールが写真に収めている。マロリーが酸素マスクを気にしている様子を、アーヴィンが側で、少し首を傾けながら眺めている図である。これが、2人が撮られた最後の写真となる。



2人はシェルパ8人を伴って第5キャンプ(標高7710メートル)を目指した。ここに到着すると、マロリーは書き付けを託して4人のシェルパを戻した。書き付けには「ここは風もなく、見通しは明るい」と書かれてあった。(翌6月7日早朝)、マロリーとアーヴィンと4人のシェルパは第6キャンプ(標高8230メートル)に押し進んだ。ここでマロリーは再び書き付けを託して、4人のシェルパを戻した。



遠征隊の撮影係ジョン・ノエルに宛てた書き付け、「親愛なるノエル。この晴天を利して、出発はおそらく明日早朝。当方の姿を探すのに早過ぎる事はないでしょう。午前8時にはピラミッドの下のロックバンド(頂上ピラミッドを取り巻く、灰色の石灰岩の帯)を横切っているか、もしくはスカイラインを登高中の予定」 


ノエル・オデールに宛てた書き付け、「親愛なるオデール。何ともだらしない有様で誠に申し訳ない。出発直前に調理用ストーブを落としてしまった。明日は明るい内に気幕の予定にて、間違いなく早めに第4キャンプへ降ってもらいたい。そちらのテントにコンパスを忘れてきた模様、力添えを頼む。コンパス無しでここに居る。ここまで2日間で90気圧の消費、明日は、おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう。これは、クライミングにはえらいお荷物だ。天候の方は理想的だ!」



(6月8日推定午前5時半)、この日は、マロリーが書いたように理想的な晴天に恵まれた。マロリーとアーヴィンは第6キャンプを後にすると、頂上攻勢に出発した。現在、エベレストを目指すにはネパール側からとチベット側からの二通りのルートが開削されているが、ネパール側の方が難度が低いとされており、こちらが一般的に用いられている。しかし、マロリーが挑んだのは、チベット側からのルートであり、行く先には数々の難所が待ち受けている。(イエローバンド)、石灰岩の急な一枚岩の連なりで、砕けやすく、無数の岩屑が乗っている。(ファーストステップ)、高さ30メートル程のほぼ垂直な岩壁である。その後は強風が吹き晒す、危険な山稜ルートが続く。



(セカンドステップ)、高さ30メートルほどの岩壁で、ファーストステップより遥かに難しく、巡洋戦艦の切り立った艦首とも形容される。岩場は特徴のある三つの部分に分かれていて、上部は垂直である。この難所を超えると、技術的に困難な箇所はなくなる。後は広い台地の緩やかな登りとなり、雪に覆われた山頂ピラミッドへと続く。マロリーはコダック社のカメラを持参しており、頂上で記念写真を撮る予定であった。更に、妻ルースの写真を頂上に埋めてくると言っていた。



その頃、オデールはマロリーに頼まれたコンパスと2人のための食料品を届けるため、第6キャンプに向かっていた。(午後12時50分頃)、オデールはふとエベレストを見上げると、頂上を覆っていた雲がにわかに晴れわたって、その全貌が露(あらわ)となった。そこで、オデールは生涯忘れえぬ光景を目撃する。稜線上のとある岩の段差の下、小雪稜上に小さな黒点が一つ浮き上がり、そのまま動いて行く。また一つ黒い点が現れると小雪稜上の黒点に合流すべく、雪の上を進んで行く。これは明らかに人影であった。



その頃、一つ目の黒点は、大きな岩の段差に接近しており、ほどなくその上に現れた。二つ目の黒点も同じような動きであった。幻想的とも言えるその光景はやがて雲に覆われてゆき、まもなく搔き消えた。遠目にも分るほど、2人はてきぱきとした身ごなしで動いていた。そこから山頂に達して第6キャンプに戻るまで、明るい時間がそう長くないと意識していたからだろう。2人が目撃された場所は、頂上ピラミッドの基部からほど近い、よく目立つ岩の段差であった。



オデールは、2人がそこから山頂に辿り着くまで、後3時間はかかるだろうと見なした。2人の下山が遅くなるのは確実だった。だが、オデールは意志堅固なあの2人なら登頂を成し遂げ、「ついに征服した!」と知らせてくれるだろうと思い、さほど心配はしていなかった。オデールは第6キャンプに荷物を届けると、第4キャンプへと降っていった。その夜は晴れ渡っており、オデールは何か動きはないか、救難信号が出ていないか、と夜通し見張ったが何も見えなかった。



一夜明けて(6月9日)、オデールは双眼鏡で第5、第6キャンプの様子を窺ったが、2人の気配はまるでなかった。オデールはこの日の正午、嫌がるシェルパ2人を連れて、第5キャンプまで行って2人を捜索した。しかし、そこには誰もおらず、何も手がつけられていなかった。オデール、「盛んに流れていくちぎれ雲をすかして、嵐を告げるような夕焼けが時折覗き、やがて夜の帳が降りるにつれて、風と寒さが募っていった」。



(翌6月10日)、シェルパ達はこれ以上登るのを拒否したので、オデールは彼らを帰らせると1人で登っていった。第6キャンプに辿り着いたものの、やはり2人の姿はなく、酸素ボンベが一つあるのを発見したのみであった。凄まじい強風が吹き付ける中、オデールは危険を顧みず、ただ1人山頂に向かって2時間進み、2人を捜索した。だが、山稜には暗く重い大気が垂れ込み、強風が吹き荒れるのみで、親しい友人2人の痕跡を見つける事はついに出来なかった。



オデールは捜索を諦め、下山に取り掛かろうとした時、山頂へ振り返った。「それは冷たいよそよそしさで、私というちっぽけな存在を見下ろし、風の咆哮に乗せて、私の切なる願いを嘲笑っていた。秘密を明かしてくれ、2人の我が友にまつわる謎を明かしてくれという私の切なる願いを・・・」


マロリーとアーヴィンは、エベレストに消えた。そして、彼らが頂上に到達したのかどうかは、世界の登山史上に残る謎となった。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 2に続く・・・



YouTubu動画

ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦


津山城

津山城は岡山県津山市にありまして、日本百名城にも指定されている城跡です。この城は桜の名所として有名ですが、壮大な石垣も見応えがあります。


慶長8年(1603年)
津山城は、森忠政が美作国18万6500石を与えられてから、築城が始まる。元和2年(1616年)13年間の大規模な土木工事を経て、津山城は完成する。元禄11年(1698年)より、城主は徳川親藩の松平氏に代わり、そのまま明治の世を迎える。明治政府によって布告された廃城令によって、津山城も他の城同様、破却され、壮麗な五層の天守閣を始め、全ての建物が解体されてしまった。


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現在、津山城では備中櫓が復元再建されており、今後も少しずつ建物の復元が進んでゆくかもしれません。津山城には桜が約五千本植えられており、西日本有数の桜の名所として知られています。桜の季節となると大勢の見物客で溢れかえりますが、ここの桜と石垣は一見の価値があります。


在りし日の壮大な津山城(ウィキペディアの古写真)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Tsuyama_Castle_old_potograph.jpg
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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