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2026.04.11 - 
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決死の島抜け行「黒瀬川を越えて」

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

江戸時代後期、下総国佐原村に佐原喜三郎と云う侠客がいた。喜三郎は地元の裕福な大百姓、本郷武右衛門の子として生まれた。この本郷家の跡取りと期待されていた喜三郎は、成人してから江戸にある普化宗一月寺に入門し、高僧からの指導を受けて修行を始める。しかし、どこで道を間違えたのか、賭博にはまって侠客となり、やがて佐原に戻って胴取り親分となった。そして、渡世上の争いで人を殺めてお縄となり、天保8年(1837年)に伊豆諸島の八丈島に流刑となったのだった。だが、喜三郎には島で朽ち果てる気は毛頭無く、船で運ばれている最中からすでに島抜けを考えていた。


喜三郎はやくざ者とは言え、非常に頭が切れる上、高僧からの教えもあって教養も深かった。それに喜三郎の出身地、佐原には日本地図の大家、伊能忠敬の本家があって、忠敬が描かせた、「伊豆七島実測図」をどこかで見て、それを頭に記憶していた模様である。伊能地図は門外不出の幕府の極秘事項であったが、喜三郎は佐原の実力者であったから、見る事が出来たのだろう。喜三郎は八丈島に到着すると、朝日象現と称する虚無僧に成りすまし、島内を徘徊しては気象や海流の観測をして回る。その最中に出会ったのが、花鳥と云う女流人だった。花鳥は吉原の遊女出身で、13歳の時、苦界から逃れようとして放火し、15歳になった時点で八丈島に流されてきたのだった。


喜三郎は義太夫、新内(どちらも浄瑠璃)の名手であり、花鳥は三味線が得意であったから、2人はすぐに意気投合する。この時、喜三郎は32歳、花鳥は24歳、2人が恋に落ちるのに時間は要せず、同居生活が始まった。やがて喜三郎を中心に7人の流人が集い、お互いの結束を固めつつ、島抜け計画が進められていく。花鳥も江戸の両親に会いたい一心から、この謀議に加わった。そして、天保9年(1838年)7月3日、黒潮を乗り切るに足る順風が吹き始めると、喜三郎は頃合は良しと見て、帆柱2本、櫂8本の漁船を盗み出すと、外海へと乗り出した。いよいよ、前代未聞の島抜け劇の始まりである。だが、一行の前には、最初から大きな難関が待っていた。それは、八丈島からその北にある御蔵島までの距離、80キロ間を流れている黒潮の奔流、黒瀬川である。


黒瀬川は時速7~13キロで流れており、当時、多くの船がこれに捕まって難破したり、漂流の憂き目にあっていた。八丈島の島唄にも、「鳥も通わぬ八丈島を 越えよと越さぬ黒瀬川」と歌われている。喜三郎らは、これを数人乗りの小さな舟で乗り切らねばならないのである。だが、喜三郎の頭の中には、かつて見覚えた詳細な日本地図、「伊豆七島実測図」があり、それに日頃の観測結果と、情報収集を加えた結果、勝算ありと踏んだのである。この賭けは見事に当たり、慣れた漁師ですら月に3日しか渡れないと云う黒瀬川を突っ切る事に成功する。そして、舟は順風に乗って、2日間で80里(約320キロ)も走破した。


だが、7月4日、大島の付近で嵐に襲われ、帆柱が折れて舟は漂流状態となってしまう。翌7月5日以降も嵐は続き、木の葉の様に揺れる舟から、2人の流人が流されていった。7月7日、なんとか嵐を抜けて、舟は房総半島沖を漂流する。この時、2人の流人が陸地を求めて泳いでいったが、この2人も行方不明となった。7月8日、北東の風に乗って、船は銚子の犬吠崎(いぬぼうさき)を越え、鹿島灘に入った。そして、7月9日、鹿島郡荒野村の浜に近づくと、喜三郎らは船を寄せて座礁させ、とうとう本土に帰り着いたのだった。この7日間の航海で4人が死んだり行方不明となったが、喜三郎と花鳥、仲間の流人1人は生き残ったのだった。江戸から遥か南にある八丈島からの島抜けは、25件確認されているが、成功したのはこの佐原喜三郎だけの様である。


体力を消耗してふらふらになっていた喜三郎らは、浜で出会った1人の漁師に助けを求め、しばらくそこの納屋で介抱を受けた。7月12日、体力を回復した喜三郎らは、その故郷である佐原村へと向かった。翌7月13日、喜三郎は佐原村に着くと、かつての子分の世話になりながら身を潜め、おりしも危篤になっていた父、武右衛門との再会を果たす。武右衛門は思わぬ息子との再会を喜んだ後、翌月に息を引き取る事となる。しかし、佐原にも間もなく島抜けの噂が流れ始め、危険を察知した喜三郎は7月22日に江戸へと向かう。 翌7月23日、喜三郎らは江戸に入り、そこで花鳥は十数年ぶりに両親との再会を果たしたのだった。


2人はしばらく江戸に身を潜ませつつも、幸せな日々を送った。しかし、潜伏していた浜町にも喜三郎らの噂が流れ始める。 10月3日、危険を感じた2人が今まさに西国に逃れようとしていたところへ、役人に踏み込まれ、あえなく御用となった。幕府は、不可能と思っていた八丈島からの島抜けに驚き、2人を詳細に取り調べた後、極刑に処する事を決定した。 そして、3年後の天保12年(1841年)4月、花鳥は江戸市中引き回しの上、斬首となった。享年27。 だが、喜三郎の方は、子分から送られてくる見届け物に物を言わせて生き延び続ける。


喜三郎は、前代未聞の島抜けを果たした者として、皆から一目置かれており、推されて牢名主となった。それからは真面目に務め上げ、治安を安定させ、病を患った囚人を看病したりして、牢内の信望を得る。そして、火事の際、喜三郎が預かる牢から解き放たれた囚人が、全員立ち戻ってきた功を評されて永牢(無期懲役)に減刑された。喜三郎は悪賢いが、侠気があって人を惹きつける魅力があったのは確かであった。しかし、喜三郎は長い牢生活と、病人の囚人を看病し続けた事によって結核を患ってしまう。 やがて喜三郎は、自らの実体験を詳細に描いた記録本、「朝日逆島記」を牢内で書き上げる。それを奉行所に提出した結果、大変な評価を受けて、弘化2年(1845年)5月9日、ついに出獄を許される身となった。


命懸けの島抜けを果たし、その後、捕まって恋人は刑死し、自らも刑の執行を待つばかりであった死罪人が、とうとう自由の身となったのである。この時、喜三郎は40歳、かつての子分達から続々と見舞い品が届けられ、久方ぶりに娑婆の空気も味わった。しかし、喜三郎の強運もここまでだった。喜三郎は病を悪化させ、出獄1ヶ月にして病死してしまう。一方、喜三郎らと共に島抜けした流人の1人は、その後も捕まっておらず、真の島抜け成功者となっている。この喜三郎と花鳥の島抜けは人々の語り草となって、小説や演劇のモデルとなった。


流人となった者のほとんどが一度は心に抱くもの、それが島抜けである。島抜けこそ流人の花であったが、それは死と隣り合わせの仇花でもあった。成功率は千分の一程度で、失敗すれば極刑が待っている。それでも多くの流人が、飢餓から逃れんとして、親兄弟に会わんとして、自由の身にならんとして、海を漕ぎ出していった。だが、そのほとんどが、無残な末路を辿ったのだった。





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伊豆七島の流人

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

伊豆の七島とは、東京の南、太平洋上に浮かぶ島々、北から大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の事である。これらの島々は本土から遠く離れ、周囲を海で囲まれている事から、古来より流刑の地として利用されていた。だが、本格的に流人がこの島々に送られるようになるのは、江戸時代からである。その代表格として上げられるのは、関ヶ原の合戦で副将を務めた宇喜多秀家であろう。


秀家は七島の最南端にある八丈島に流されたが、元大名であった事から客人としての待遇を受けていた。それに正妻の豪姫が北陸の大大名、前田家の出身であった事から、その援助を受けて秀家の子孫は繁栄し、明治の世には20家まで増えていた。しかし、これは例外中の例外であって、大多数の流人は地味の乏しい離島で、喘ぎ苦しみながら生活を送っていたのである。



遠島の刑は、現在の終身刑に当たる重罪である。その主な罪は、幕政批判、放火(放火の罪は重く、火あぶりと定められていたが、15歳未満の者は遠島とされた)、密貿易、恐喝、詐欺、博打(三度までは敲き(たたき)であるが、それ以上になれば遠島とされた)。遠島となっても、将軍の代替りや、慶弔、法要の折には特赦や恩赦も実施されたが、これに加えて、流人の関係者による強力な放免活動も必要であった。それも30年から40年経ってようやく放免は実現するため、それまでに死ぬ者が多かった。


八丈島に送られてくる流人は、最初は政治犯や思想犯が多く、島民は教養ある彼らを国人(くんぬ)と呼んで尊敬していたが、時代が下るにつれ無頼漢の刑事犯が増えてきたので、次第に軽蔑するようになった。江戸時代後半の例を挙げると、最多は博徒で、次に女犯の僧侶、そして喧嘩であった。ちなみに江戸時代、僧侶の妻帯は禁じられていたが、実際にはお針女とか洗濯女の名目で寺内に引き入れたり、遊里に通ったりしていた。それが発覚すれば、日本橋に3日間晒された上、寺法に則って処分された。寺持ちの僧侶であれば遠島で、相手が人妻であったなら、僧侶と言えども獄門に処された。


遠島となった者は道義に外れた者も多く、問題も多く起こした。そのため、島民は困り果てて度々、遠島の免除を願い出たが、幕府は聞き入れなかった。遠島が無くなるのは、明治の世まで待たねばならなかった。流人が配所に到着すると、島役人の人改めを受けた上で、それぞれの村に受け渡される。女流人は、男流人とは区別されて島の有力者の召使いとされた。女流人の小屋には男流人が群がって妊娠する事もあったが、子を養う力が無いため、赤子は捨てられていった。配所には流人頭がおり、流人達の世話と統率に当たった。流人頭は、流人の中から信望のある者が任命されており、親切で面倒見のある者もいたが、同じ流人を家来の様に扱って、牢屋の専制君主の様に振舞う者もいた。


流人は身分によって扱いが異なっており、武士、高僧、有識者などは「別囲」と呼ばれて、寺や島役人の離れに寄宿した。その中でも、宇喜多秀家の一族は別囲以上の扱いを受けていた。見届け物の多い裕福な流人は「家持流人」と呼ばれ、借家に住んだ。しかし、大多数の流人は「流人小屋」と呼ばれる、粗末な掘っ建て小屋に住んでいた。島送りの流人達は渡世勝手次第と言って、自分で生計を立てるのが原則であった。


一見自由に見える流人の生活にも、禁止事項はある。島抜けの禁止・再犯の禁止・水汲み女の雇い入れの禁止(島妻の禁止)・内証便の禁止(見届け物や手紙の密輸禁止)などである。伊豆の島々は水の便が悪く、それを汲むのは島の女の役目であり、それが水汲み女と称されていた。「別囲」「家持」などの流人は水汲み女を雇い入れて、実際には島妻としていた。表向き、水汲み女の雇い入れは禁止されていたが、妻子を持つと流人の心が和んで再犯防止に効果があったので、どの島でも黙認されていた。


島民が最も恐れたのは、流人の再犯である。そのため、再び犯罪に手を染めたなら厳罰を持って望んだ。その主な刑は、斬首、簀巻き(むしろで巻いて海に投げ落とす)、縛り首、断頭刑(木槌で頭を打ち砕く)、榾(ほだ)の掛け捨て(手足を丸太に挟んだまま死ぬまで放置する)などである。伊豆七島は小さな火山列島であり、耕作地は狭く、火山灰によって作物の実りも乏しい。その上、台風などによる塩害や風害を受ける事も多く、その都度、深刻な飢饉に襲われた。そうなれば島民には男1人2合、女1人1合のお救い米が幕府より支給されたが、流人とその子供は適用外であり、飢饉になると多くが餓死していった。流人がこの島で生きて行くには、親族などから送られてくる、金品や食料などの見届け物が必要不可欠であった。


宇喜多一族には、加賀100万石の前田家から、隔年で豊富な見届け物が届けられていたが、これは宇喜多一族のみに当てはまる事であって、ほとんどの流人は親族からの細々とした見届け物で命を繋いでいたのである。そして、飢饉になると頻発したのが、流人による島抜けであった。新島では、寛文8年(1668年)から明治4年(1872年)までに18件、三宅島では、明和2年(1765年)から文久3年(1863年)までに35件、八丈島では、享保7年(1722年)から延元年(1860年)までに25件、確認されている。島を抜けるには数人がかりで船を漕がねばならないので、大抵5人から10数人で決行されている。島抜けの例を幾つか挙げてみる。


嘉永5年(1852年)6月8日、新島から竹居安五郎と云う侠客の親分が6人の仲間と共に島抜けを図った。この時、安五郎は42歳、諸般の罪科を重ねて、遠島となっていた。まず、安五郎らは島の名主宅を襲って殺害した上、鉄砲を盗み出した。そして、水先案内を捕らえると、本土へ向けて船を漕ぎ出した。翌9日、船は伊豆半島に漂着したが、この時に案内人が逃れて代官所に駆け込んだ。直ちに安五郎らの人相書きが配られて、捜索が始まった。一味はばらばらに逃れたが、3人は捕らえられて獄門に処され、3人は行方不明となり、安五郎は甲斐国へ逃れて追跡を振り切った。かつての子分達が、安五郎を匿ったのだろう。そして、安五郎は関東のあぶれ者達の集まり、甲州博徒の親分に復帰して、10年に渡って君臨する事になる。


島抜け成功者として、侠客の中でさらに重きを成していた安五郎であったが、文久元年(1861年)10月6日、ついにその悪運も尽きる時が来た。安五郎の用心棒であった、犬上郡次の密告を受けてお縄となったのである。この郡次は、安五郎の島抜けの際に殺された名主の甥であった。そして、翌文久2年(1862年)安五郎は獄死する。しかし、密告した郡次も、安五郎の一番子分、黒駒の勝蔵の報復を受け、滅多斬りにされて殺されたのだった。


万延元年(1860年)11月、この年は飢饉だったらしく、三宅島に在島していた流人258人の内、34人が島抜けを図った。その中の1人、金子伴作は仲間13人を誘って船を漕ぎ出したが、海が荒れていたからか、島に押し戻されてしまう。そこで、一味は村の鉄砲庫を襲った上で山に逃れた。10日後の深夜、一味は再び船を漕ぎ出したが、村民に非常線を張られており、追跡されて全員が海上で殺されたのだった。

金ヶ崎城

金ヶ崎城は、福井県敦賀市にある山城である。ここは幾度となく戦乱の舞台となった激戦地だが、現在は、山頂から日本海や敦賀市を見渡す事も出来る風光明媚な城跡となっている。



金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した岬に築かれた山城である。城は標高86メートルの金ヶ崎山の山頂にあって、背面は急峻な斜面となっており、三方は海に囲まれた天然の要害である。また、この城は北陸と畿内をつなぐ街道と、日本海交易の拠点、敦賀港を押さえる事も出来る要衝であった。こういった戦略上、経済上の見地から、金ヶ崎城は度々、争奪戦の舞台となっている。


寿永2年(1183年)頃、源平合戦の最中、平氏が源義仲の挙兵に備えて、砦を築いたのが金ヶ崎城の始まりであるとされている。南北朝時代、建武3年(1336年)5月、湊川の戦いに敗れた南朝は捲土重来を期して、後醍醐天皇の皇子である尊良(たかよし)親王と恒良(つねよし)親王、そして、重臣の新田義貞を越前に派遣した。同年10月、皇子2人と義貞は金ヶ崎城に入ったが、すぐに北朝の足利方が包囲するところとなる。


翌建武4年(1337年)、足利尊氏は高師泰に大軍を授けて、城を激しく攻め立てたさせた。城方は何とかこの攻撃を凌いだものの、兵糧不足は深刻であった。同年2月、新田義貞は援軍を求めて城を脱出する。そして、援軍を編成して城に向かったものの、足利方に阻まれて救援は成らなかった。同年3月6日、足利方が城に総攻撃を加えると、兵糧攻めで弱っていた城方300人余は次々に討ち取られていった。そして、本丸まで攻め入られるに至って、尊良親王と新田義貞の嫡男、義顕は自害して果てた。恒良親王は捕らえられて毒殺されたと伝わる。現在、金ヶ崎城の中腹にある金ヶ崎宮は、尊良親王と恒良親王を祭って建てられたものである。



戦国時代、金ヶ崎城は越前朝倉氏の支配する所となり、その一族が敦賀郡司として守りに就いた。朝倉氏は紛うこと無き戦国の大大名であったが、その存在を抹消せんとする者が現れる、織田信長である。元亀元年(1570年)4月20日、信長は越前に攻め入らんとして、3万人余の大軍を率いて京を出立する。4月25日、織田軍は敦賀に侵入すると、手始めに手筒山城への攻撃を開始する。この手筒山城は金ヶ崎城の支城であり、尾根伝いで繋がっていた。信長の号令一下、3万の兵が一斉に雄叫びを上げて山上を駆け上がって行く。しかし、朝倉軍の抵抗も激しく、攻防戦の最中には森乱丸の兄にあたる森可隆(織田家の重臣、森可成の長男)も戦死している。織田軍はおびただしい死傷者を出しつつも、朝倉軍1370人余を討ち取って、その日の内に城を攻め取った。


戦国期の公家が書いた、「言継卿記(ときつぐきょうき)」によれば、織田軍も千人余の討死を出したと書かれており、相当な激戦であった事が窺える。だが、この犠牲は無駄では無かった。隣接する金ヶ崎城に加え、その南方にある疋檀(ひきだ)城も震え上がって、戦わずして織田軍に城を明け渡したからである。これで敦賀郡の平定は成り、後は木芽峠を越えて一乗谷を目指すのみであった。信長が今まさに軍を進めようとした時、凶報が入った。信長の妹婿にして近江北部の領主である、浅井長政が離反したのである。如何に大軍を引き連れていようとも、退路を断たれれば圧倒的に不利となる。4月28日、信長は即座に撤退を決断し、少数の馬廻(うままわり)だけを連れて京へと向かった。


信長は、後を追うであろう朝倉軍や浅井軍を食い止めさせるため、現地に羽柴秀吉、明智光秀、池田勝正らを残していった。殿軍(しんがり)は最も危険な役目であるが、それを成し遂げてこそ主君の信頼も得られる。金ヶ崎城には羽柴隊が篭って信長撤退の時間を稼ぎ、それを成したと判断すると脱出に入った。そこへ朝倉軍が大挙して襲い掛かってくるが、秀吉隊は鉄砲を乱射しつつ、じりじりと退いてゆく。


秀吉隊が崩れそうになると、池田隊や明智隊が側面から援助して撤退を助けた。そして、3隊は入れ替わり立ち替わりながら追撃を食い止め、殿軍の重責を果たしたのだった。この金ヶ崎撤退戦では羽柴秀吉の軍功が名高いが、実際には3千人余の兵を率いていた池田勝正が主力となっていたと思われ、明智光秀も秀吉と同等の働きをしていた。いずれにせよ、この三者の協力によって信長は死地を脱し、軍の大部分も脱出に成功したのだった。


この撤退戦によって織田軍は千人余の戦死者を出したとされるが、3万人余りの軍勢の撤退にしては犠牲は少ないと云えよう。信長の迅速な決断と、優秀な部下達の奮戦によって損害は最小限に抑えられたのだった。この事は、信長に早期の立ち直りを可能とする。4月30日、信長は無事、京に着くと、揺らいだ地盤を固め直すため、重臣と軍勢を近江各所に派遣する。そうした仕置きをすませた上で、5月21日に本拠の岐阜へと戻り、長政への復讐の機会を窺う。


そして、6月中旬、浅井氏に従う国人、堀秀村が織田家に鞍替えしたと聞くや、信長はすぐさま出陣を命じた。6月19日、信長はまたも少数の馬廻を従えただけで城を飛び出すと、近江と美濃の国境で軍勢の集結を待った。そして、6月21日になって2万余の軍勢(後から徳川軍3千人余も参加)が揃うと、小谷城へと攻め上って行くのである。信長は、攻めも退きも常に迅速であり、その速さは他の戦国大名の追従を許さない。信長のこの迅速な決断力と行動力こそ、天下制覇の大きな原動力であった。


尚、この後の金ヶ崎城であるが、天正3年(1575年)に信長が越前を平定すると、敦賀一群は
武藤舜秀(むとう きよひで)に委ねられた。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後には秀吉の部将、蜂屋頼隆が敦賀一群を与えられる。頼隆は敦賀城を築いてそこを居城としたため、金ヶ崎城は廃城となった。現在でも、金ヶ崎城には土塁や堀切の跡が残っており、かつての激戦地の面影を残している。




金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑金ヶ崎宮


金ヶ崎城の中腹にあります。かつては、ここも城域の一部だったと思われます。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑中腹から眺める敦賀市内



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑城の案内図



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿跡


金ヶ崎城の最上部、標高86メートル地点にあります。ここからの眺めはなかなかのものです。


金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から左方を望む


非常に急峻な崖となっています。南北朝時代、金ヶ崎城に篭城していた尊良親王、恒良親王らは足利方の大軍に囲まれて、ここから絶望的な面持ちで海を眺めていた事でしょう。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から右方を望む



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑堀切



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑兵糧庫の跡


元亀元年(1570年)、織田軍が金ヶ崎城を攻撃した際に倉庫が焼け落ち、その時に生じた焼米が出土したとされています。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑二の木戸跡


南北朝時代、この付近で激しい攻防戦があったと伝えられています。この先を進むと、手筒山城に行けます。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城


尾根の左側には金ヶ崎城があり、その右側の尾根に天筒山城がありました。戦国の第一級資料である「信長公記」には屏風の様な高山であったと記されており、実際に見て、なるほどと納得しました。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城


織田軍がこの城に攻めかかった際には、全山を震わすほど、軍勢の喊声や銃声が響き渡っていた事でしょう。金ヶ崎城は小規模な山城ですが、そこに秘める歴史は深いです。



一乗谷 2

一乗谷朝倉氏遺跡紹介の続きです。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑中の御殿跡


朝倉館の背後の高台にあります。この中の御殿には、朝倉義景の生母、光徳院が住まっていたと伝えられています。朝倉氏滅亡時、光徳院は捕らえられ、信長の命によって斬られたとあります。

一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑米津


ここからは刀装具を作るための炉の跡や、金属を加工する道具が発見されました。城下町の中心部に近い事から、ここの職人達は朝倉氏お抱えの金工師であったと推測されています。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑復元された町屋


発掘された石垣や礎石をそのまま使い、柱、壁、金具なども出土した遺物に基づいて忠実に再現されているとの事です。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑復元町屋



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑昔の便所



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑再現武家屋敷の内部


奥では家主がくつろぎ、手前では使用人が食事の準備をしています。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑大規模武家屋敷跡


再現町屋の裏にあります。この辺りには、朝倉氏の有力家臣の屋敷が建ち並んでいました。




一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑武家屋敷跡

一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑上城戸(かみきど)


一乗谷の北面を守っています。


一乗谷は、天正元年(1573年)8月の朝倉氏滅亡時に焼き尽くされ、さらに天正2年(1574年)1月には、越前一向一揆の蜂起によって戦場となり、天正3年(1575年)には、北ノ庄(福井)が越前の中心地となった事で急速に衰退していきました。そして、一乗谷の町並みは田畑へと変わってゆき、人々の記憶からも忘れ去られてしまいました。しかし、それは開発の波を逃れる事にも繋がり、現在まで貴重な遺構が残されています。



一乗谷 1

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市にある戦国期の遺跡である。


一乗谷は、越前の戦国大名、朝倉氏が築いた城下町である。一乗谷は山間の狭い谷間にあるが、往時には武家屋や町屋が所狭しと建ち並ぶ、1万人もの人々が生活を営む一大都市であった。朝倉氏は元々、但馬の武士であったが、南北朝時代に室町幕府の有力守護大名、斯波氏の家臣となって越前に入った。その頃から朝倉氏は、一乗谷を根拠地とした。


この一乗谷に繁栄をもたらしたのは、戦国初代の朝倉孝景(1428~1481)である。孝景は下克上の潮流に乗って、朝倉氏を一豪族の身上から越前の支配者まで押し上げた実力者であった。以降、戦国5代目の朝倉義景に至る100年余の間、一乗谷は越前の政治的中心地として発展を続ける。特に一乗谷の文化的興隆は目を見張るものがあり、朝倉氏の居館を始めとして、武家屋、町屋では盛んに作庭が行われ、そこで歌が詠まれ、茶会が催された。


一乗谷からは数多くの茶器が出土しており、それらは武家屋、町屋、寺院など城下のあらゆる場所から発見されている。また、硯(すずり)が700点以上も発見されている事から、文芸が盛んで住民の識字率と文化水準は極めて高かったと推測されている。一乗谷の華やかな文化を聞き付けて、訪れる公家や文化人は数知れず、歴代の朝倉当主はそういった人々を迎えては、和歌や連歌の会を催した。


当時の京は戦乱の影響で荒廃しており、そこに住む公家達にとって、一乗谷は憧れの土地であったらしい。当代一流の和漢の学者であった清原宣賢(1475~1550)は、この一乗谷を終焉の地と定め、晩年の8年間を過ごしている。永禄11年(1568年)、後の室町幕府第15代将軍となる足利義昭もこの一乗谷を訪れ、手厚い歓待を受けている。


一乗谷の中心には室町御所を模した朝倉氏の居館があり、堀と土塁が廻らされていた。朝倉居館の背後にある城山(標高473メートル)には一乗谷城が築かれて、朝倉氏の詰めの城となっており、対面する山の峰にも断続的に砦が築かれていた。また、一乗谷の北には長さ150メートルの巨大な土塁、上城戸が築かれ、南には朝倉氏の権威を見せ付けるべく、巨石を用いた石垣造りの下城戸が築かれていた。言わば、一乗谷全体が巨大な城郭となっていたのである。華やかな文化の営みを、堅固な城郭が包み込む。朝倉氏の栄華は、このまま続いていくかに見えた。だが、戦国の荒波は、平和を謳歌する一乗谷にも迫ろうとしていた。


元亀元年(1570年)4月、戦国の風雲児、織田信長が突如として、越前に攻め上ってきたのである。一乗谷と朝倉義景は危機的な状況に陥ったが、この時は浅井長政が信長の背後を襲ってくれたので、窮地を脱する事が出来た。その後も義景は長政と協力して信長と戦い続けるが、戦況は悪化の一途を辿った。そして、天正元年(1573年)8月、ついに義景は、刀根坂にて致命的な敗北を喫してしまう。主力を喪失した朝倉家に、最早、信長を防ぐ術は無かった。


国境は瞬く間に突破され、織田軍は一乗谷へと迫り来る。義景は一乗谷を捨てて越前大野へと逃れたが、そこで同族の景鏡の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。織田軍接近の報を聞いて、一乗谷は恐怖に慄き、逃げ惑う人々で大混乱に陥った。そこへ織田軍が一乗谷に突入してきて、寺院、町屋を問わず、あらゆる箇所に火をかけて回った。その炎は数日に渡って燃え盛り、一乗谷100年の歴史は、灰燼と化したのだった。


義景滅亡後、信長は朝倉旧臣であった桂田長俊を一乗谷に置いて、越前の統治を委ねた。だが、桂田長俊は専横の振る舞い多く、同僚の富田長繁と越前一向一揆の蜂起を受けて、一乗谷にて攻め滅ぼされた。以後、越前は一向一揆の支配する所となったが、天正3年(1575年)、信長は再び越前に攻め入って、一向一揆数万人余を撫で斬りとした。信長は平定成った越前の統治を、柴田勝家に委ねた。勝家は統治拠点を北ノ庄(福井)に定めて、一乗谷から寺院や住民を移転させていったため、荒廃していた一乗谷は一層衰退し、以降、町並みの多くが田畑へと変わっていった。


一乗谷は忘れ去られた幻の都市となったが、昭和42年(1967年)に発掘調査が始まると、戦国時代の町並みがほぼそのままの形で残っている貴重な遺構であると判明した。そして、国は、一乗谷を特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重指定とする。今でも湯殿跡庭園や、諏訪館跡庭園などの見事な庭園は静かに水を湛え、かつての一乗谷と朝倉氏の繁栄振りを偲ばせている。





一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑下城戸


土塁と巨石で固められています。ここが、一乗谷の表玄関となります。


一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑墓地跡


かつてこの辺りには寺院があって、墓地が広がっていました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家


↑かつての町屋跡



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡


手前の川は一乗谷川で、その奥に朝倉館(義景館)があります。さらに、その背後の山には一乗谷城がありました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡


この唐門は、義景の菩提を弔うために建てられた松雲院(しょううんいん)のもので、豊臣秀吉寄進のものであると伝わります。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡


歴代の朝倉氏が住まっていた所です。かつては、ここが越前の政治的中心地でありました。正面の山にも、砦群が築かれていました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑湯殿跡庭園


朝倉館跡の背後の高台にあります。歴代の朝倉当主も眺めた事でしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑南陽寺跡


右にある庭園には、かつて美しい糸桜が生えていた伝えられており、永禄11年(1568年)には、後の室町将軍足利義昭を招いて、ここで観桜の宴が催されました。その時には見事な伽藍があって、庭を眺めつつ華やかな宴が催された事でしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑英林塚(朝倉孝景墓)


戦国初代、朝倉孝景(1428~1481)は、朝倉氏を興隆に導いた人物です。彼はここから、一乗谷の盛衰をどのような思いで眺めているのでしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑諏訪館庭園


諏訪館は朝倉義景の妻、小少将(こしょうしょう)が住まっていた所です。この庭園は一乗谷遺跡の中で最も規模の大きなもので、小少将が義景に愛されて、大きな権勢を誇っていた事が窺えます。 しかし、義景が自刃した後、小少将は織田軍に捕らえられ、その子息で4歳の愛王丸共々斬られたと伝わります。

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