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高仙芝、パミールを越えた勇将 1

2011.07.17 - 三国志・中国史
8世紀前半、中国は唐の時代、玄宗皇帝の治世の下、唐王朝は最盛期を迎えようとしていた。国都、長安には東西南北から様々な人種が流れ込み、当時、アジア最大の都市として栄えていた。長安の人々は、シルクロードや運河を通じて持ち込まれる外国の鮮やかな物品で体を着飾り、平和と繁栄を謳歌していた。だが、長安から遠く離れた東西南北の国境地帯は平和とは無縁で、唐の守備隊と異民族との間で、血生臭い戦闘が絶え間なく繰り広げられていた。長安の平和は、彼ら国境を守る兵士の血によって保たれているのだった。そういった状況は、長安から遥か西に位置する、西域(中央アジア)でも同様であった。


西域は荒涼とした砂漠地帯であるが、古くから絹の一大交易路(シルクロード)として知られており、唐の経済にとって重要な地域であった。また、この西域を支配する事は、唐の脅威となっている北方騎馬民族の収入源を押さえる事にも繋がっていた。この様に西域は、戦略、経済、交通上の要衝であった。そこで唐は、この地域の支配を永続的なものとすべく、タリム盆地北部にある亀茲(クチャ)に安西都護府を開設し、そこに安西節度使を置いて統治の拠点とした。節度使とは唐が採用した制度で、辺境の統治と守備を一手に担う司令官である。辺境とは言え、節度使は広大な地域の軍権と政権を一手に握っている事から、そこに置ける権力と軍事力は非常に大きなものがあった。安西節度使は、広大なタリム盆地のほぼ全域を守備範囲とし、その兵力は2万4千人で、軍馬は2千7百を数えた。そして、この軍団の中に高仙芝(こう・せんし)と云う若き武人がいた。


高仙芝は高句麗(北朝鮮と中国東北部を含む地域)出身で、20歳余で父に連れられて、亀茲にやってきた。高仙芝の父、高舎鶏(こう・しゃけい)は低い身の上から始まって、そこから己の腕一つで将軍にまで立身した有能な戦士であった。その父の功績の余燼を受けて、高仙芝は20代にして父と同格の将軍に任ぜられた。だが、高仙芝は親の七光りだけで立身したのではない。容貌秀麗な偉丈夫にして、勇猛かつ騎射に長け、確かな将才も備えていた。高仙芝が、安西節度使、夫蒙霊詧(ふもう・れいさつ)の下で度々、武名を轟(とどろ)かせていた頃、封常清(ほう・じょうせい)と云う男がその武名を聞きつけて訪ねて来た。 


封常清は高仙芝の配下となる事を強く願ったが、痩せこけた外見で片足も不自由であった事から、相手にされなかった。
封常清はそれでも諦めず、開元29年(741年)、高仙芝が軍を率いて達奚(たっけい)族制圧に向かった際には、一兵卒として従軍した。そして、封常清は、高仙芝が用いた戦術を分析し、それを詳細に書いた報告書を提出する。その報告書は非の打ち所が無く、しかも高仙芝の意図を悉く見抜いたものであったから、高仙芝は驚いて封常清を召した。実は、封常清は高い志と優れた学識を有する賢人であったのだ。高仙芝は封常清に対する認識を完全に改め、以後は片腕として重用する。そして、高仙芝はこの達奚族制圧に成功した事から、副節度使に任ぜられた。 


西域支配を狙っていたのは、唐だけでは無かった。チベット高原の大勢力、吐蕃(チベット)もまた、虎視眈々と西域を狙っており、開元10年(722年)には、カシミール地方(パキスタン北部)にある、小勃律国(ギルギット)を属国化する事に成功していた。小勃律国は、小国ながら交通の要衝に位置していた。そのため、それより西にある20数カ国も吐蕃に服属を余儀無くされ、唐に対する朝貢も途絶えた。唐も黙ってこの状況を見逃していた訳ではなく、これまで三度に渡って遠征軍を差し向けたものの、悉く失敗に終わっていた。これは、吐蕃の援軍によって阻まれたと言うより、西域の厳しい気候と剣路に阻まれたのが主因だった。天宝6載(747年)、今度は、高仙芝にその小勃律国討伐の大命が下った。高仙芝は勇んでこれを拝命し、片腕の封常清、それに全軍きっての猛将、李嗣業(り・しぎょう)、監軍使の宦官、辺令誠(へん・れいせい)、それに歩騎兵合わせて1万人余を率いて、亀茲を出立する。 


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↑西域(タリム盆地)・(ウィキペディアより) 

写真には写っていないが、疏勒の左側にパミール高原がある。パミール高原を横断すれば、そこに小勃律国があった。 


遠征軍の一番の難題は、パミール高原(平均標高5千メートル)を踏破する事であった。唐軍は、疏勒(カシュガル)を経てパミール高原に入る。そして、行軍100日余、特勒満川(とくろまんがわ)に達したところで、高仙芝は軍を三つに分け、吐蕃の拠点がある連雲堡(れんうんさい)の手前で合流を約した。連雲堡は川に面した崖の上に築かれた城砦で、そこに1千人余りの兵が守りを固め、麓にも9千人余が柵を連ねて配置されていた。このように連雲堡は難攻不落の構えであったが、突如として目の前に現れた唐軍にはさすがに虚を突かれた。高仙芝は間髪おかず、急流を押し渡って総攻撃を加える。 


唐軍は、吐蕃軍の応戦が遅れる間に城の足元に取り付いたが、それでも崖の上から石、丸太、弓矢を雨の様に浴びせられて、苦戦に陥った。ここで高仙芝は、配下の猛将、李嗣業に、「昼までに城を必ず落とせ」と厳命を下した。李嗣業は抜刀した歩兵隊を率い、自ら軍旗を掲げて崖をよじ登り始める。吐蕃軍の投げ落とす岩石や矢に当たって、兵士達は次々に滑落していった。それでも李嗣業は休まず力攻を続け、午前10時頃、ついに崖を上りきって城内に突入する。そして、白兵戦の末、吐蕃軍5千人余を斬殺し、1千人余を捕虜とし、残りは逃走した。大勝利であったが、唐軍の目標は小勃律国であって、連雲堡はその通過点に過ぎない。高仙芝は更に進軍を続けようとしたが、ここで監軍使の辺令誠は臆病風に吹かれて、同行を躊躇した。そこで高仙芝は、足弱の兵3千を割いて辺令誠と共に連雲堡の守りに就かせ、自身は奥地へと踏み込んでいった。 



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↑パミール高原(ウィキペディアより) 


唐軍は酸素が薄く、厳しい寒気が包み込むパミール高原を突っ切り、氷雪に覆われたダルコット峠(標高4575メートル)をも越えた。そこから険しい山路を20キロ下れば、小勃律国の主城、阿弩越城があった。だが、その断崖絶壁の道を前にして、兵士達に不安と不満の声が上がる。すでに遠征は数ヶ月に及び、しかも日夜、厳しい風雪に晒されている事から無理も無かった。そこで高仙芝は一計を案じ、自軍兵士20名を地元民に変装させ、密かに山を下らせた。翌日、阿弩越城からの使者に扮した兵士達は唐軍の下を訪れ、降伏したいと申し出た。これを受けて高仙芝は、「小勃律国は降伏した。城はもう我らのものだ」と全軍に告げた。兵士達は騙されたとも知らず、喜び勇んで高仙芝に付き従うのだった。 


唐軍が再び進撃を開始して3日後、今度は本物の阿弩越城からの使者が来て、高仙芝に降伏を申し出てきた。高仙芝はこれに乗じて精鋭騎兵1千を先行させて、阿弩越城を制圧した。唐軍は小勃律国の国王、大臣を捕虜とし、更に吐蕃に通じる橋も落として援軍の道を断ち切った。この小勃律国制圧の報を受けて、72もの周辺小国が唐への服属を表明する。高仙芝は過去、三度も失敗している困難な遠征を成し遂げ、唐の勢力範囲をタリム盆地より更に西へと押し広げる事に成功したのだった。20世紀初頭の著名な中央アジア探検家スヴェン・ヘディンは、高仙芝のパミール越えを、ハンニバルのアルプス越え(平均標高1700メートル)を凌ぐ壮挙であると賞賛している。 


しかし、高仙芝はこの勝利で、思い上がったようだ。本来ならばこの勝報は高仙芝の上司である、夫蒙霊詧を通じて行うべきだったのだが、自らの部下を直接、長安に送って奏上した。高仙芝の器量を認め、ここまで引き立てたのは夫蒙霊詧であったから、そうと知った彼は、「恩知らずめ!今度こんな無礼な振る舞いをすれば、首を刎ねてやるぞ」と激怒した。これにはさすがの高仙芝も、恐れ慄くしかなかった。だが、これを知った監軍使の辺令誠は、高仙芝を擁護する上奏文を送る。その結果、夫蒙霊詧は都に召還され、代わって高仙芝が安西節度使に任ぜられる事となった。そして、この度の遠征で数々の献策をしたであろう、封常清も判官(副節度使に次ぐ位)となった。封常清は軍律に厳しく、それでいて賞罰は公正であったため、高仙芝は遠征する度、安心して彼に留守を任せる事が出来た。 
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首斬り浅右衛門

2011.07.03 - 歴史秘話 其の二
 江戸時代、刀剣の試し斬りと、斬首刑を専門とする特殊な一門が存在していた。試し斬りとは、処刑された罪人の死体を土壇(どだん)に載せてから、刀を大きく振りかぶって打ち下ろし、その切れ味の程を確かめる事である。現在から見れば、甚だ野蛮な行為であるが、当時は据物(すえもの)と呼ばれる武術の一種として認められており、特に将軍家のための試し斬りは御様御用(おためしごよう)と称され、名誉ある職と見なされていた。この御様御用を務めていたのが、山田一門と呼ばれる技術集団である。初代の貞武(さだたけ)から始まり、その跡を継ぐ者は代々、浅右衛門を襲名していた。


山田一門は試し斬りだけでなく、死刑執行人としても活動していた。山田一門によって斬首された罪人は数知れず、有名どころでは橋本左内や吉田松陰も含まれている。そのために人々から首斬り浅右衛門や、人斬り浅右衛門と呼ばれたのである。だが、これらは決して簡単な役目ではなかった。試し斬りをするには相当な技術が必要で、人の首を一刀両断するのも、技術に加えて、躊躇なく人の命を断つ、強靭な精神力が必要とされた。生半可な腕と心の者が首を落とそうとすれば、仕損じる事があり、そうなれば罪人に余計な苦しみを与える事になる。そのため、山田一門は厳しい修練を積み、一刀で首を打ち落とす、確かな腕を持った者を当主としていた。また、今際の際(いまわのきわ)の罪人が残す、時世の句を解するため、俳諧の修行も行っていた。この様に山田浅右衛門を襲名するには、文武両道の達人で無ければならない。しかし、山田一族から当主に足る者がいなければ、弟子の中から力量ある者を選んで養子とし、浅右衛門を襲名させて、その家風を受け継がせていった。


これらの役目は、武家政権である徳川幕府にとって必要不可欠なものであった。しかし、死を司る不浄な役目でもあったので、山田一門は正式な幕臣とはされず、浪人身分のまま雇われていた。だが、山田一門の財力は、数万石の大名並であったと云われている。山田一門は幕府、旗本、大名から依頼される試し斬り、刀剣鑑定などで相当な収入を得ていたが、それよりも巨利を得られたのが、人の内臓を用いた製薬の販売である。山田一門は御様御用の役得として、罪人の死体から肝臓、胆嚢(たんのう)を取り出して製薬販売する事を許されていた。当時、肝臓や胆嚢は、肺病に良く効く妙薬であると信じられていて、高値で出回っていたのである。


山田一門は処刑を執行し、その死体を試し斬りにし、さらに内臓を取って製薬を作る。世の人々は、山田一門の技には畏敬の念を持っていたが、その家業は忌み嫌ってもいた。しかし、山田一門に取っても、この家業は心身を著しく消耗するものであった。いくら罪人であっても人である事に変わりは無く、多数の処刑を執行した日には、体よりも心が疲れ果てて夜も眠れなかった。そのため、処刑をした日には宴会を開き、大騒ぎをして気を紛らわしていた。また、罪滅ぼしのため、罪人のための供養塔や寺院を建立したり、貧民の救済にも努めたとされている。


山田一門の家業は、武家の世が続く限りは安泰であった。しかし、明治の世を迎えると、試し斬りや人体の製薬は禁止されて、山田一門の最大の収入源が失われてしまう。それでも、しばらくは処刑執行人として斬首を担っていたが、それも明治13年(1880年)に絞首刑に切り替えられると、山田一門は完全に存在意義を失ってしまう。こうして山田一門は、武家の世の終わりと共に急速に没落してしまった。だが、その一方で、最後までその家風を守り抜いた者もいる。それが、最後の浅右衛門とも云われる山田吉亮(やまだ よしふさ)である。吉亮は安政元年(1854年)の生まれで、少年の頃から剣の才を発揮し、12歳にして斬首刑を執行したとされている。それ以来、多数の斬首刑を執行し、有名どころでは、雲井龍雄(維新の志士で元議員)や、高橋お伝(後に映画や小説のモデルとなった殺人犯)の斬首役も勤めたが、明治13年に斬首刑が禁止されると浪人となった。


吉亮は山田家から受け継いだ人胆(胆嚢)を隠し持っていて、金に困るとそれを売って糊口を凌いでいた。それでも食うに困り出すと、明治25年(1892年)、吉亮38歳の時から、知人の表具師(ひょうぐし)の職人宅を度々訪れるようになる。吉亮はここの主人からお小遣いをもらうまで、何日でも居候を決め込むのだった。吉亮の身嗜みは整っていたが、独身で洗濯をしないからか、虱(しらみ)を大量に飼っていた。主人の妻子はこの無遠慮かつ、虱を家中に撒き散らす居候を嫌っていた。吉亮は豆が嫌いであったので妻子があえて赤飯を出すと、敵もさるもの、箸で一つ一つ豆をつまみ出してから食べるのだった。だが、生真面目な一面もあり、妻子から手伝いを頼まれると、「はい」と答えて嫌な顔一つせず、仕事をこなすのだった。それに達筆の持ち主で、主人に代わって代筆をする事もあった。


毎回、布団は丁寧に折り畳み、365日欠かすことなく、袴(はかま)をきちんと着こなすなど几帳面なところがあった。体格は小柄だが、気迫が漲っているかの様な迫力があり、その鋭い眼光は、人の心底まで見透かしているかの様であった。実際、吉亮は、ある人の面相を見て死を予言し、それを的中させて一家を驚かせた事があった。普段は物静かであるが、子供が誤って袴の裾を踏んだ時には、顔に怒気を含ませ、「打首にするぞ」と凄んだ。この時の顔は、本当に恐ろしかったそうである。この家族の回顧によれば、吉亮は東京の薬屋に頻繁に出入りしていて、人胆の取引をしていたようだと語っている。その縁あってか、明治44年(1911年)に吉亮が58歳で亡くなると、葬儀は薬屋が執り行っている。



その後の山田家であるが、明治18年(1885年)、山田吉顕(よしあき)が九代目浅右衛門を襲名したものの、最早、名目だけであった。昭和に入ると跡継ぎは絶え、嫡流は途絶えてしまう。明治以降の山田一族には不幸が立て続き、病死、事故死、徴用による戦死、が付きまとった。縁起の悪さから名跡を継ぐ者はいなくなり、やがて山田家は消滅するに至った。


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↑山田吉亮

明治36年(1903年)12月17日、吉亮50歳時の写真と伝わる。
 
主要参考文献「大江戸残酷物語」


カリブの海賊

2011.06.17 - 歴史秘話 其の二
カリブ海とは、北は大アンティル諸島のキューバ、ドミニカ、西は中央アメリカのコスタリカ、ニカラグア、南は南米のベネズエラ、コロンビア、東は小アンティル諸島までを範囲とする海域である。 かつて、この海域は、先住民が小舟に乗って漁をしたり、ささやかな貿易をするのみであった。しかし、そこへヨーロッパ人が大船に乗って現れると、平和な海はたちまち激変する。ヨーロッパ人は先住民を虐げるばかりか、列強と海賊が相争う、修羅の海となったのである。その切っ掛けとなったのがヨーロッパ人による、アメリカ大陸発見と植民活動である。


1492年、コロンブス率いるスペインの船団が、アメリカ大陸に達した。ヨーロッパの人々は、これを快挙と捉えて、興奮の渦に包まれた。しかし、アメリカの先住民にとっては、悪夢の始まりとなった。そして、これ以降、スペイン人は大挙として中南米に押し寄せ、先住民達を虐げつつ、無慈悲な征服活動を進めていった。スペインは、1521年にはアステカ帝国を、1533年にはインカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中にした。更に1545年、南米(現在のボリビア)でポトシ銀山が発見されると、大量の銀が産出されるようになった。こうしてカリブ海一帯は、金銀財宝をヨーロッパへと運ぶ船で満ち溢れるようになる。財宝目当てに多くのスペイン人が中南米に渡り、各地に植民都市を建設していった。


しかし、財宝に惹き付けられたのはスペイン人だけではなかった。富を独り占めにはさせじとフランスが、次にイギリスが、17世紀からはオランダが、それぞれ私掠船を派遣してスペイン船を襲撃するようになる。私掠船とは、国家公認の海賊である。それだけでなく、財宝の噂を聞き付けたヨーロッパ各地のあぶれ者達が、中南米に殺到するようになり、彼らも海賊となってスペイン船を襲うようになった。これら海賊や私掠船の集団は、「バッカニア」と総称されて、恐れられた。スペインも対策として輸送船に軍艦を付けて護送船団を組んだり、軍を派遣して海賊の根拠地を攻撃したりしたが、海賊行為は激しくなる一方であった。


17世紀、カリブの海は、勇猛かつ貪欲な海賊で満ち溢れるようになった。彼らの激しい海賊活動によって、スペインの植民地支配が揺るぎ出すと、ヨーロッパ列強は割り込む様に各地に拠点を築いていった。カリブ海の中核となる西インド諸島には、フランス人やイギリス人が植民するようになり、さらにアフリカから連れられてきた奴隷によって人口は急増した。これらの人々の多くは、社会の最底辺に位置しており、容易に海賊行為に走った。また、当時の商船の多くは傲慢で残忍な船長の下、船員は過酷な扱いを受けていたので、彼らも海賊に加わる事が多かった。


海賊の国籍は様々で、ヨーロッパ各地の白人、アフリカの黒人奴隷、白人と黒人の混血、南米の原住民など、非常に国際的であった。海賊船の乗員の大抵は20代の若者で、船長になる者は、30代から40代くらいだった。そして、大部分の海賊は独身だった。海賊となった者の多くは、社会の圧制から逃れて来た者達であり、彼らは権威に縛られる事を大変嫌った。しかし、中には海賊の捕虜となり、仕方なしに仲間になる事を強いられた者もいた。彼らは自分達の自由を守るため、民主的な方法で組織を運営している。例えば、ヨーロッパの海軍が会議をする際には、参加を許されるのは士官のみであったが、海賊の場合は全乗員が参加する事が出来た。


船長は多数決で選出され、同じく多数決で罷免する事も出来た。船長に次ぐ地位である操舵手は、乗員の代表でもあった。船長、操舵手、外科医、船大工などの少数の熟練した技術者には、多めの略奪品が分け与えられたが、それ以外は全乗員に公正に分配されるのが基本であった。しかし、獲物が無けらば、もちろん報酬などは無い。海賊とは、博打打ちのような職業であった。それでも、海賊ならではの保障もあった。当時の国家では、障害者に対する保障などほとんど無かったが、海賊では、戦闘や航海で手足を失うような者がいれば、補償金が支払われている。


海賊の乗り込む船は、全長30メートルほどの2、3百トンクラスの船が多かった。獲物と狙う相手の方が大型船である場合が多いが、大胆不敵な海賊達は度々、挑戦しては勝利を収めている。糧食や器具は、他の船からの分捕りで多くを補っていた。航海用具は貧弱で、海図も不正確なものだった。だが、彼らの技術は確かであり、経験と勘を頼りに各地を航海した。海賊が掲げる旗で有名なのは、黒の生地に二本の骨が交差する頭蓋骨である。実際には様々な絵柄であったが、黒地である事はほぼ共通していた。海賊はこの黒地の旗をたなびかせ、乗り込んでいた楽士が不気味な演奏を奏でつつ、獲物に接近する。これは、相手の恐怖心を煽って、早期に降伏させる心理的効果を狙ったものである。


海賊達は、獲物を狙う時、砲撃戦よりも接近戦を図った。船をなるべく傷付けずに、積荷ごと奪うためである。1985年、北米大陸東岸、トッド岬沖で発見された海賊船ウィダ号からは、海賊の戦術を推測できる遺物が見つかっている。船には、スペインの金貨や銀貨、腕輪や指輪などの豪華な財宝に加えて、多くの武器、弾薬類も積み込まれていた。弾薬の打ち分けは、ピストル、散弾銃、マスケット銃、それに手投げ弾だった。これらの武器は、船体をあまり傷付けずに甲板上の敵を殺傷可能であった。それと、回収された骨と衣服から推測した結果、ウィダ号の海賊達の平均身長は、165センチであった。海賊と言えば、大柄な荒くれ男と想像しがちであるが、そうでもなかったようである。


17世紀半ば、イギリスはジャマイカ島を占領し、ここにポート・ロイヤルと云う理想的な港湾を見つけた。このポート・ロイヤルは、カリブ海の海運ルートの中心に位置していた。現地のイギリス総督はスペインを苦しめてやろうと企み、周辺の海賊を歓迎して招き入れた。海賊達も拠点が得られると喜び、ポート・ロイヤルに殺到するようになる。町はたちまちの内に、略奪品の金銀で溢れかえるようになった。町には貨幣所が作られて容易に換金できるようになり、さらに居酒屋、売春宿、賭博場が雨後の竹の子の様に建ち並ぶようになった。海賊達は略奪してきた金銀を毎夜毎晩、町で馬鹿騒ぎしながら撒き散らした。こうしてポート・ロイヤルは、海賊の楽園となった。イギリスから遥々やって来たある牧師は、このポート・ロイヤルで神の教えを説こうとしたが、海賊、殺人者、売春婦などで溢れかえっている町を見て絶望し、来た船で戻ってしまう出来事もあった。


カリブの海賊は、財宝を積んだ船だけでなく、植民都市も頻繁に襲った。海賊らはカリブ海周辺の沿岸都市を襲っては、住民を虐殺暴行し、略奪の限りを尽くした。また、町を破壊しないかわりに、法外な代償金をせしめる事も多々あった。捕虜となった者は、脅しと拷問を受けて財産の在り処を吐かされ、それが身分の高い者であれば、高額の身代金が要求された。カリブの海賊は恐るべき体力を誇り、大胆不敵かつ残忍だった。時に守備隊の方が数的に優勢であっても、彼らは粘り強い戦闘力を発揮して度々、勝利を収めている。彼らの活動は現地の住民にいつまでも恐怖の記憶として残り、子孫代々に渡って語り継がれていった。


スペイン側も捕らえた海賊は容赦なく殺害していったが、それでも攻撃が収まる気配は無かった。スペイン人が目の色を変えて中南米各地の住民から巻き上げた財宝は、同じく目の色を変えた海賊によって狙われ続ける運命にあった。略奪に成功した海賊がポート・ロイヤルに凱旋すると、酒、女、博打などのあらゆる放蕩にふけった挙句、数日の内に稼ぎを使い果した。これが、典型的な海賊の生態だった。莫大な財宝を得て海賊業から足を洗い、楽隠居を決め込む者もいたが、そういった者は少数に過ぎない。海賊の職業病はアルコール中毒で、大抵、若くして死んでいった。


海賊となった者には、一獲千金を得られる機会が確かにあった。そして、スリル、暴力、酒、女を存分に味わう事も出来た。しかし、その反面、リスクも大きく、戦闘、壊血病、暴風雨、熱帯病などが頻繁に彼らを襲った。また、海賊行為を行った者が官憲に捕まると大抵は縛り首となり、見せしめとして、目立つ場所に骸骨になるまで吊るされる事になる。それでも彼らはリスクを取って、海賊行為を続けた。例え平民として生きても、支配者から搾取されて長く貧しい生活を送るだけであり、それならば太く短く、自由気ままに生きようとしたのである。


1692年、ジャマイカに大地震が発生し、ポート・ロイヤルは地震とその後に襲ってきた大津波によって壊滅した。市街の大部分は海中に没し、2千人余の人々が死亡した。この町の成り立ちを知る人々は、神の審判が下ったのだと噂した。海賊の楽園は消え去ったかに見えたが、今度はバハマ諸島の島の1つ、ニュー・プロヴィデンスが新たな海賊の基地として注目される事になる。ここはすぐさま海賊の巣窟となり、たちまちの内に居酒屋、売春宿が建ち並ぶようになった。そして、彼らの吐き出す略奪品を目当てに、多くの商人も集まってくる。ここは海賊の楽園、第二のポート・ロイヤルとなった。海賊達は、俺達が死ぬ時には天国ではなく、ニュー・プロヴィデンスに帰るのだと言った。


200年余りもの間、カリブの海は海賊達に大いなる恵みを与えていた。だが、17世紀も後半になると、その実りは乏しくなる一方となる。財宝を運ぶ船はめっきり少なくなり、それに代わって植民地産の農産物などを運ぶ船が増えるようになった。それでも海賊をするしか能のない者は、農産物や日用品などを略奪したが、それらはほとんど金にならなかった。そんな海賊達に追い討ちをかける様に、これまで海賊活動を支援してきたイギリス、フランスが方針を転換して、基地の提供を拒否するようになる。今まで我が物顔でカリブの海を闊歩してきた海賊達に、暗い影が差し始める。だが、ロウソクの最後の灯火の様に、海賊達は再び活発な活動を開始した。


18世紀前半、黒髭を代表とする勇猛果敢な海賊の首領が次々に登場して、周辺の海域を支配したのである。ニュー・プロヴィデンスを中心に、海賊達の黄金時代が幕が開く。しかし、それは30年ばかりの期間でしかなかった。この頃から、国家として強力に成長してきたヨーロッパ諸国が海賊活動を強硬に取り締まるようになり、海賊の傍若無人な振る舞いを憎んでいた人々もこれに支持を与えた。1718年11月には海賊の代表格、黒髭が討ち取られて晒され、続いて1720年代には、名立たる海賊の船長達が片っ端から殺されたり、縛り首となる出来事が起こった。これ以降、カリブ海における海賊行為は急速に尻すぼみとなってゆく。これは、一世を風靡したカリブの海賊の終わりを告げる出来事であった。



決死の島抜け行「黒瀬川を越えて」

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

江戸時代後期、下総国佐原村に佐原喜三郎と云う侠客がいた。喜三郎は地元の裕福な大百姓、本郷武右衛門の子として生まれた。この本郷家の跡取りと期待されていた喜三郎は、成人してから江戸にある普化宗一月寺に入門し、高僧からの指導を受けて修行を始める。しかし、どこで道を間違えたのか、賭博にはまって侠客となり、やがて佐原に戻って胴取り親分となった。そして、渡世上の争いで人を殺めてお縄となり、天保8年(1837年)に伊豆諸島の八丈島に流刑となったのだった。だが、喜三郎には島で朽ち果てる気は毛頭無く、船で運ばれている最中からすでに島抜けを考えていた。


喜三郎はやくざ者とは言え、非常に頭が切れる上、高僧からの教えもあって教養も深かった。それに喜三郎の出身地、佐原には日本地図の大家、伊能忠敬の本家があって、忠敬が描かせた、「伊豆七島実測図」をどこかで見て、それを頭に記憶していた模様である。伊能地図は門外不出の幕府の極秘事項であったが、喜三郎は佐原の実力者であったから、見る事が出来たのだろう。喜三郎は八丈島に到着すると、朝日象現と称する虚無僧に成りすまし、島内を徘徊しては気象や海流の観測をして回る。その最中に出会ったのが、花鳥と云う女流人だった。花鳥は吉原の遊女出身で、13歳の時、苦界から逃れようとして放火し、15歳になった時点で八丈島に流されてきたのだった。


喜三郎は義太夫、新内(どちらも浄瑠璃)の名手であり、花鳥は三味線が得意であったから、2人はすぐに意気投合する。この時、喜三郎は32歳、花鳥は24歳、2人が恋に落ちるのに時間は要せず、同居生活が始まった。やがて喜三郎を中心に7人の流人が集い、お互いの結束を固めつつ、島抜け計画が進められていく。花鳥も江戸の両親に会いたい一心から、この謀議に加わった。そして、天保9年(1838年)7月3日、黒潮を乗り切るに足る順風が吹き始めると、喜三郎は頃合は良しと見て、帆柱2本、櫂8本の漁船を盗み出すと、外海へと乗り出した。いよいよ、前代未聞の島抜け劇の始まりである。だが、一行の前には、最初から大きな難関が待っていた。それは、八丈島からその北にある御蔵島までの距離、80キロ間を流れている黒潮の奔流、黒瀬川である。


黒瀬川は時速7~13キロで流れており、当時、多くの船がこれに捕まって難破したり、漂流の憂き目にあっていた。八丈島の島唄にも、「鳥も通わぬ八丈島を 越えよと越さぬ黒瀬川」と歌われている。喜三郎らは、これを数人乗りの小さな舟で乗り切らねばならないのである。だが、喜三郎の頭の中には、かつて見覚えた詳細な日本地図、「伊豆七島実測図」があり、それに日頃の観測結果と、情報収集を加えた結果、勝算ありと踏んだのである。この賭けは見事に当たり、慣れた漁師ですら月に3日しか渡れないと云う黒瀬川を突っ切る事に成功する。そして、舟は順風に乗って、2日間で80里(約320キロ)も走破した。


だが、7月4日、大島の付近で嵐に襲われ、帆柱が折れて舟は漂流状態となってしまう。翌7月5日以降も嵐は続き、木の葉の様に揺れる舟から、2人の流人が流されていった。7月7日、なんとか嵐を抜けて、舟は房総半島沖を漂流する。この時、2人の流人が陸地を求めて泳いでいったが、この2人も行方不明となった。7月8日、北東の風に乗って、船は銚子の犬吠崎(いぬぼうさき)を越え、鹿島灘に入った。そして、7月9日、鹿島郡荒野村の浜に近づくと、喜三郎らは船を寄せて座礁させ、とうとう本土に帰り着いたのだった。この7日間の航海で4人が死んだり行方不明となったが、喜三郎と花鳥、仲間の流人1人は生き残ったのだった。江戸から遥か南にある八丈島からの島抜けは、25件確認されているが、成功したのはこの佐原喜三郎だけの様である。


体力を消耗してふらふらになっていた喜三郎らは、浜で出会った1人の漁師に助けを求め、しばらくそこの納屋で介抱を受けた。7月12日、体力を回復した喜三郎らは、その故郷である佐原村へと向かった。翌7月13日、喜三郎は佐原村に着くと、かつての子分の世話になりながら身を潜め、おりしも危篤になっていた父、武右衛門との再会を果たす。武右衛門は思わぬ息子との再会を喜んだ後、翌月に息を引き取る事となる。しかし、佐原にも間もなく島抜けの噂が流れ始め、危険を察知した喜三郎は7月22日に江戸へと向かう。 翌7月23日、喜三郎らは江戸に入り、そこで花鳥は十数年ぶりに両親との再会を果たしたのだった。


2人はしばらく江戸に身を潜ませつつも、幸せな日々を送った。しかし、潜伏していた浜町にも喜三郎らの噂が流れ始める。 10月3日、危険を感じた2人が今まさに西国に逃れようとしていたところへ、役人に踏み込まれ、あえなく御用となった。幕府は、不可能と思っていた八丈島からの島抜けに驚き、2人を詳細に取り調べた後、極刑に処する事を決定した。 そして、3年後の天保12年(1841年)4月、花鳥は江戸市中引き回しの上、斬首となった。享年27。 だが、喜三郎の方は、子分から送られてくる見届け物に物を言わせて生き延び続ける。


喜三郎は、前代未聞の島抜けを果たした者として、皆から一目置かれており、推されて牢名主となった。それからは真面目に務め上げ、治安を安定させ、病を患った囚人を看病したりして、牢内の信望を得る。そして、火事の際、喜三郎が預かる牢から解き放たれた囚人が、全員立ち戻ってきた功を評されて永牢(無期懲役)に減刑された。喜三郎は悪賢いが、侠気があって人を惹きつける魅力があったのは確かであった。しかし、喜三郎は長い牢生活と、病人の囚人を看病し続けた事によって結核を患ってしまう。 やがて喜三郎は、自らの実体験を詳細に描いた記録本、「朝日逆島記」を牢内で書き上げる。それを奉行所に提出した結果、大変な評価を受けて、弘化2年(1845年)5月9日、ついに出獄を許される身となった。


命懸けの島抜けを果たし、その後、捕まって恋人は刑死し、自らも刑の執行を待つばかりであった死罪人が、とうとう自由の身となったのである。この時、喜三郎は40歳、かつての子分達から続々と見舞い品が届けられ、久方ぶりに娑婆の空気も味わった。しかし、喜三郎の強運もここまでだった。喜三郎は病を悪化させ、出獄1ヶ月にして病死してしまう。一方、喜三郎らと共に島抜けした流人の1人は、その後も捕まっておらず、真の島抜け成功者となっている。この喜三郎と花鳥の島抜けは人々の語り草となって、小説や演劇のモデルとなった。


流人となった者のほとんどが一度は心に抱くもの、それが島抜けである。島抜けこそ流人の花であったが、それは死と隣り合わせの仇花でもあった。成功率は千分の一程度で、失敗すれば極刑が待っている。それでも多くの流人が、飢餓から逃れんとして、親兄弟に会わんとして、自由の身にならんとして、海を漕ぎ出していった。だが、そのほとんどが、無残な末路を辿ったのだった。





伊豆七島の流人

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

伊豆の七島とは、東京の南、太平洋上に浮かぶ島々、北から大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の事である。これらの島々は本土から遠く離れ、周囲を海で囲まれている事から、古来より流刑の地として利用されていた。だが、本格的に流人がこの島々に送られるようになるのは、江戸時代からである。その代表格として上げられるのは、関ヶ原の合戦で副将を務めた宇喜多秀家であろう。


秀家は七島の最南端にある八丈島に流されたが、元大名であった事から客人としての待遇を受けていた。それに正妻の豪姫が北陸の大大名、前田家の出身であった事から、その援助を受けて秀家の子孫は繁栄し、明治の世には20家まで増えていた。しかし、これは例外中の例外であって、大多数の流人は地味の乏しい離島で、喘ぎ苦しみながら生活を送っていたのである。



遠島の刑は、現在の終身刑に当たる重罪である。その主な罪は、幕政批判、放火(放火の罪は重く、火あぶりと定められていたが、15歳未満の者は遠島とされた)、密貿易、恐喝、詐欺、博打(三度までは敲き(たたき)であるが、それ以上になれば遠島とされた)。遠島となっても、将軍の代替りや、慶弔、法要の折には特赦や恩赦も実施されたが、これに加えて、流人の関係者による強力な放免活動も必要であった。それも30年から40年経ってようやく放免は実現するため、それまでに死ぬ者が多かった。


八丈島に送られてくる流人は、最初は政治犯や思想犯が多く、島民は教養ある彼らを国人(くんぬ)と呼んで尊敬していたが、時代が下るにつれ無頼漢の刑事犯が増えてきたので、次第に軽蔑するようになった。江戸時代後半の例を挙げると、最多は博徒で、次に女犯の僧侶、そして喧嘩であった。ちなみに江戸時代、僧侶の妻帯は禁じられていたが、実際にはお針女とか洗濯女の名目で寺内に引き入れたり、遊里に通ったりしていた。それが発覚すれば、日本橋に3日間晒された上、寺法に則って処分された。寺持ちの僧侶であれば遠島で、相手が人妻であったなら、僧侶と言えども獄門に処された。


遠島となった者は道義に外れた者も多く、問題も多く起こした。そのため、島民は困り果てて度々、遠島の免除を願い出たが、幕府は聞き入れなかった。遠島が無くなるのは、明治の世まで待たねばならなかった。流人が配所に到着すると、島役人の人改めを受けた上で、それぞれの村に受け渡される。女流人は、男流人とは区別されて島の有力者の召使いとされた。女流人の小屋には男流人が群がって妊娠する事もあったが、子を養う力が無いため、赤子は捨てられていった。配所には流人頭がおり、流人達の世話と統率に当たった。流人頭は、流人の中から信望のある者が任命されており、親切で面倒見のある者もいたが、同じ流人を家来の様に扱って、牢屋の専制君主の様に振舞う者もいた。


流人は身分によって扱いが異なっており、武士、高僧、有識者などは「別囲」と呼ばれて、寺や島役人の離れに寄宿した。その中でも、宇喜多秀家の一族は別囲以上の扱いを受けていた。見届け物の多い裕福な流人は「家持流人」と呼ばれ、借家に住んだ。しかし、大多数の流人は「流人小屋」と呼ばれる、粗末な掘っ建て小屋に住んでいた。島送りの流人達は渡世勝手次第と言って、自分で生計を立てるのが原則であった。


一見自由に見える流人の生活にも、禁止事項はある。島抜けの禁止・再犯の禁止・水汲み女の雇い入れの禁止(島妻の禁止)・内証便の禁止(見届け物や手紙の密輸禁止)などである。伊豆の島々は水の便が悪く、それを汲むのは島の女の役目であり、それが水汲み女と称されていた。「別囲」「家持」などの流人は水汲み女を雇い入れて、実際には島妻としていた。表向き、水汲み女の雇い入れは禁止されていたが、妻子を持つと流人の心が和んで再犯防止に効果があったので、どの島でも黙認されていた。


島民が最も恐れたのは、流人の再犯である。そのため、再び犯罪に手を染めたなら厳罰を持って望んだ。その主な刑は、斬首、簀巻き(むしろで巻いて海に投げ落とす)、縛り首、断頭刑(木槌で頭を打ち砕く)、榾(ほだ)の掛け捨て(手足を丸太に挟んだまま死ぬまで放置する)などである。伊豆七島は小さな火山列島であり、耕作地は狭く、火山灰によって作物の実りも乏しい。その上、台風などによる塩害や風害を受ける事も多く、その都度、深刻な飢饉に襲われた。そうなれば島民には男1人2合、女1人1合のお救い米が幕府より支給されたが、流人とその子供は適用外であり、飢饉になると多くが餓死していった。流人がこの島で生きて行くには、親族などから送られてくる、金品や食料などの見届け物が必要不可欠であった。


宇喜多一族には、加賀100万石の前田家から、隔年で豊富な見届け物が届けられていたが、これは宇喜多一族のみに当てはまる事であって、ほとんどの流人は親族からの細々とした見届け物で命を繋いでいたのである。そして、飢饉になると頻発したのが、流人による島抜けであった。新島では、寛文8年(1668年)から明治4年(1872年)までに18件、三宅島では、明和2年(1765年)から文久3年(1863年)までに35件、八丈島では、享保7年(1722年)から延元年(1860年)までに25件、確認されている。島を抜けるには数人がかりで船を漕がねばならないので、大抵5人から10数人で決行されている。島抜けの例を幾つか挙げてみる。


嘉永5年(1852年)6月8日、新島から竹居安五郎と云う侠客の親分が6人の仲間と共に島抜けを図った。この時、安五郎は42歳、諸般の罪科を重ねて、遠島となっていた。まず、安五郎らは島の名主宅を襲って殺害した上、鉄砲を盗み出した。そして、水先案内を捕らえると、本土へ向けて船を漕ぎ出した。翌9日、船は伊豆半島に漂着したが、この時に案内人が逃れて代官所に駆け込んだ。直ちに安五郎らの人相書きが配られて、捜索が始まった。一味はばらばらに逃れたが、3人は捕らえられて獄門に処され、3人は行方不明となり、安五郎は甲斐国へ逃れて追跡を振り切った。かつての子分達が、安五郎を匿ったのだろう。そして、安五郎は関東のあぶれ者達の集まり、甲州博徒の親分に復帰して、10年に渡って君臨する事になる。


島抜け成功者として、侠客の中でさらに重きを成していた安五郎であったが、文久元年(1861年)10月6日、ついにその悪運も尽きる時が来た。安五郎の用心棒であった、犬上郡次の密告を受けてお縄となったのである。この郡次は、安五郎の島抜けの際に殺された名主の甥であった。そして、翌文久2年(1862年)安五郎は獄死する。しかし、密告した郡次も、安五郎の一番子分、黒駒の勝蔵の報復を受け、滅多斬りにされて殺されたのだった。


万延元年(1860年)11月、この年は飢饉だったらしく、三宅島に在島していた流人258人の内、34人が島抜けを図った。その中の1人、金子伴作は仲間13人を誘って船を漕ぎ出したが、海が荒れていたからか、島に押し戻されてしまう。そこで、一味は村の鉄砲庫を襲った上で山に逃れた。10日後の深夜、一味は再び船を漕ぎ出したが、村民に非常線を張られており、追跡されて全員が海上で殺されたのだった。

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重家 
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