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荒木村重と有岡城

2011.08.06 - 戦国史 其の三
有岡城は、兵庫県伊丹市にある平城である。


天正2年(1574年)、摂津国の実力者、荒木村重は同国内の領主、伊丹氏を攻め滅ぼし、その居城、伊丹城を手に入れた。村重は伊丹城を有岡城と改名した上、この城を本拠とすべく、大改修を行った。そして、町屋と武家屋敷を丸ごと囲む、戦国期最初とされる総構えを構築する。その規模は、南北1・7キロ、東西0・8キロに達していた。城を見学したポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは、「甚だ壮大にして見事なる城」との感想を洩らしている。これほどの大城郭は当時でも数少なく、相当な権力、財力を有する者で無ければ、築けないものだった。そして、この有岡城を築いた男、荒木村重とは、自らの才覚のみで成り上がってきた野心家である。それでいて芸能にも造詣が深く、茶の湯を嗜み、能楽の観世流も身に付けた多芸な才人であった。そんな村重の意向を受けてか、有岡城には優雅な庭園も作庭されていた。


天文4年(1535年)に村重は生まれ、摂津の国人領主、池田家の一家臣として始まる。主家の池田家が内訌(ないこう)によって分裂すると、村重はそれに乗じて家中の主導権を握り、やがて主家を上回る権威を帯びるまでになった。元亀4年(1573年)3月29日、村重は、畿内の覇者となりつつあった織田信長の傘下に入らんとして、逢坂(近江と山城の国境沿い)まで出向き、そこで忠誠を誓った。以降、村重は信長の権威を背景に、摂津の完全掌握を目指して戦い、天正2年(1574年)中には、本願寺領を除いて、ほぼ一国を治めるに至った。この事業は、ほとんど村重の独力によるものだった。そして、同年11月には信長より、正式に摂津の一職支配者に任ぜられる。


太閤検地によれば、摂津国は35万6千石の生産力があった。その内、5万石は本願寺領であったが、それでも村重には30万石、7500~9000人の動員力があった。これは、有力戦国大名並みの戦力である。信長もその実力を認めて、村重を織田家の最有力部将の1人と見なした。村重は、その期待に応えて、大敵、本願寺を押さえ込みつつ、越前、紀伊、播磨など各地に遠征して信長の統一戦に貢献する。信長の覚えもめでたく、村重は外様の新参者ながら譜代家臣と同等の処遇を受けた。にも関わらず、村重の胸中には叛意が芽生え始める。その切っ掛けとなったのは、天正5年(1577年)から始まった中国攻めにある様である。中国地方には、戦国有数の大大名、毛利家が存在しており、織田家とは敵対関係にあった。この相手と戦うとなれば、かなりの苦戦が予想されるが、その反面、討伐に成功したなら、比類なき名誉と恩賞が期待できる、働き甲斐のある部署でもあった。


地位、能力とも不足のない村重は、自らが中国攻めの司令官に任ぜられるであろうと思っていた。ところが、その大命は羽柴秀吉に下されて、村重は内心、大いに不満を抱いたようだ。それに、信長の苛烈な性格に不安を覚え始めていたかもしれない。外様の新参者であった松永久秀は、天正5年(1577年)10月に信長から離反して攻め滅ぼされており、同じく磯野員昌も、天正6年(1578年)2月信長から叱責された後、逐電してしまっている。外様の自分もいつか同じ目に遭うのではないか、と村重は不安に苛(さいな)まれた事だろう。折りしもこの頃、中国方面軍司令官として播磨に入っていた秀吉は、地元の有力大名、別所家の離反を受けて大苦戦に陥っていた。摂津の北にある丹波でも、明智光秀相手に波多野氏が粘り強い抵抗を見せていた。ここで自分が離反すれば、秀吉や光秀は討滅され、織田家自体を崩壊に導く事も出来るのではないか、と村重は思案した。首尾よく運べば、村重は畿内有数の大大名となれる


もともと野心みなぎる男であった村重は、こうして一世一代の大博打を打つ事にした。その村重の決意を、摂津の臣民も後押ししていた様だ。これまで村重は、信長の命ずるまま休む間もなく出兵を重ねており、少なからず摂津の臣民は疲弊していたからだ。天正6年(1578年)10月中旬、叛意を固めた村重は、密かに本願寺顕如や、毛利輝元と通じた。だが、何時までも隠し通す事は出来ず、10月下旬には信長の耳に入って、その詰問を受ける事となった。村重は時間稼ぎのためか、事実無根であると釈明したが、自身の安土出頭や、人質供出などの約束事は履行しなかった。そのため信長は村重の謀反を確信し、11月3日、自ら大軍を率いて摂津に向かった。このまま村重を捨て置いては、播磨に出張っている秀吉は、毛利家と挟撃されて全滅しかねない。そうなれば毛利家の勢力範囲は地続きで摂津にまで及び、天下の形勢すら変わりかねなかった。


信長は相当な危機感を覚えて、織田家の大身の部将を総動員した5万人余の大軍を率いて事態に望んだ。それでも出来れば丸く収めたかった信長は、再度、翻意を促す使者を送った。しかし、最早、村重の決意が変わる事は無かった。織田家の大軍が迫っても、村重に動じる気配は無い。それもそのはずで、村重の拠る有岡城は天下の巨城であり、しかも、それを中心に摂津各地に支城網が張り巡らされていた。村重だけで1万人近い戦力を有しており、同じ摂津には1万5千人余の戦力を有する石山本願寺があって、その助力も期待できた。村重は、鉄壁の防衛線であると信じていただろう。播磨にいる秀吉軍も、早晩、別所家と毛利家に討滅される見込みであった。それまで、本願寺と共に織田家の大軍をこの摂津で食い止め、毛利家の来援をもって反抗に転じる、これが村重の基本戦略であった。


だが、開戦早々、村重の自信は崩れ去ってしまう。頼みとする3人の重臣が、次々に城ごと信長に降ってしまったのである。11月16日には高槻城の高山右近が、11月24日には茨木城の中川清秀が、12月3日には安部二右衛門の大和田城が信長に降伏してしまい、残るは村重が寄る有岡城と、その嫡男、村次が守る尼崎城に、従兄弟の元清が守る花隈城だけとなってしまう。これで、摂津の過半が呆気なく織田軍の手に落ちた事になり、村重にとって衝撃的な誤算となった。織田軍は各地で放火、なで斬りを働きつつ有岡城へと迫り、ほどなくびっしりと取り囲んだ。有岡城の様な巨城を攻略するには、本来、相当な準備期間を必要とするが、信長は早期決着を図って、全軍総攻撃を命じた。12月8日午後18時、薄暮の中、織田軍は一斉に攻めかかった。塀際で激しい銃撃戦が応酬され、それに合わせて織田軍は城内への突入を図ったが、城方の反撃は激しく、いたずらに犠牲を増すのみであった。


織田軍の総攻撃は失敗し、信長の寵臣、万見重元を始めとする、多大な戦死者を出す結果に終わった。おそらく、千人を超える死傷者を出した事だろう。有岡城の防御力を身に染みて実感した信長は、早期攻略を断念し、長期戦を覚悟した。そして、城の周囲に無数の付け城を築き、それらに織田信忠、信孝、信雄の兄弟、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興ら錚々たる有力部将を配置すると、信長自身は12月21日に戦場から離れた。以後、有岡城攻めは信長の嫡男、信忠が総指揮を執り、播磨の羽柴秀吉を支援しつつ、包囲が続く事となる。有岡城からは時折、兵が打って出て、包囲軍と小競り合いが生じたが、ほぼそのままの状態で戦線は膠着する。


天正7年(1579年)3月、反織田陣営に激震が走る。備前の有力大名、宇喜多直家が、毛利家から離反したのである。これによって毛利軍の主力が、播磨や摂津に来援するのは絶望的となった。有岡城の方でも織田軍は封鎖を強化し、城の周囲に堀を穿ち、二重三重に柵を立てて、外部連絡と兵糧搬送の遮断に入る。季節は移ろい、花やぐ春を過ぎ、天地輝く盛夏を迎えても、有岡城の包囲は続いた。兵糧は乏しくなる一方で、城内の憂いは日毎に深まってゆく。荒木軍は数千人あって、城を守るだけなら十分な人数であるが、数万もの包囲陣を打ち破る力は到底、無かった。この状況を打破するには、どうあっても、毛利家の助力が必要であった。これまで村重は、幾度となく毛利家に使いを立てたものの、より良い返事はもらえなかった。そして、季節は更に巡り、秋の虫が鳴き始める。村重は10ヶ月に渡って篭城を続けてきたが、事態は深刻になるばかりであった。そこで村重は自ら直接、毛利家に援軍を頼み込む決意を固め、同年9月2日夜、5,6人の供を引き連れて密かに城を抜け出した。


村重らは闇に紛れて織田軍の陣地線を掻い潜り、無事、嫡男、村次が守る尼崎城へと移る事が出来た。この尼崎城は海に近い事から、毛利家や本願寺との連絡が容易で、その支援も受けやすかった。村重のこの城抜けは命惜しさの行動と取られ易いが、第一は現状打開のためだった。9月11日付きの村重による援軍要請の書状が残っている、地元の有力者と見られる中村左門衛九郎と武田四郎次郎に宛てて、大阪の孫一の衆も駆けつける予定なので、一刻も早く駆けつけてほしいと書かれている。村重はこの後、すぐに海に出て、毛利家に直接頼みにいった可能性もある。いずれにせよ村重は、毛利輝元に援軍を懇願したに違いない。しかし、毛利家の主力は、備前の宇喜多直家に阻まれて、播磨にも入れない状況だった。来れるとすれば、水軍を通した数千人の援兵のみであったろう。しかし、有岡城は、数万もの織田軍によって封鎖されており、数千人程度の兵力では、有岡城への兵糧輸送すら困難だった。


その頃、有岡城では、主将が抜けた事によって人々の間に動揺が広がり始めていた。村重の城抜けは極秘にされていたが、それはすぐに噂となって流れた。包囲軍の将、滝川一益はそれを察知すると、城内に間者を送って寝返り工作を仕掛ける。そして、これに荒木方の将、中西新八郎が応じ、それに続いて足軽大将4人も応じる手配となった。有岡城の総構え内には、北に岸の砦、中央に上臈塚砦(じょうろうづかとりで)、南にひよどり塚砦があって、それぞれ主要防御拠点となっている。中でも、上臈塚砦が最重要拠点であり、その主将が織田方に通じたのだった。10月15日、中西らは上臈塚砦の門を開くと、織田軍を招き入れた。城内に篭っていた将兵、避難民は、突如として現れた敵軍に慌てふためき、大混乱の内に次々に討たれていった。


有岡城
↑有岡城の全体図(伊丹市ホームページより)


岸の砦を守っていた侍大将、渡辺勘大夫は砦を明け渡して退去したものの、信長は事前通告が無かったとして、これを斬り捨てた。ひよどり塚砦の侍大将、野村丹後は雑賀衆の加勢と共に砦を守っていたが、乱戦で雑賀衆が悉く討死すると、織田軍に降伏を申し出た。しかし、信長はこれも許さず斬首とし、安土までその首を運ばせた。野村の妻で、村重の妹でもあった女性は城内でこれを聞いて、泣き崩れたと云う。こうして上臈塚砦、岸の砦、ひよどり塚砦は陥落し、総構えは織田軍の手に落ちた。堀で囲まれた侍町にも火がかけられ、これで有岡城は主郭のみの裸城となる。どのような堅城であっても、内からの攻撃には脆い。やはり、主将の不在が響いたのだった。織田軍は包囲の輪を締め上げ、井楼(せいろう・城攻め用の櫓)から鉄砲を撃ち放ち、金堀衆をもって堀や塀を崩していった。


落城は目前に迫り、城内からは、「助けたまえ」との悲痛な叫び声が上がった。この状況を知った明智光秀は、荒木方が花隈城、尼崎城を明け渡すのと引き換えに、有岡城の篭城者を助命してもらいたいと信長に進言する。信長はこれに許可を与えたので、光秀は謝意を述べ、使者を有岡城へと送った。追い詰められた有岡城の荒木方は、一も二もなくこの条件を受け入れた。天正7年(1579年)11月19日、こうして有岡城は開城されたが、花隈城と尼崎城が引き渡されるまで、荒木一族と重臣の妻子は、人質として織田軍に預けられる事となった。そして、荒木久左衛門を始めとする重臣達は、村重を説得すべく尼崎城へと向かった。しかし、村重は尼崎城と花隈城の明け渡しを拒否し、尚も抵抗の構えを崩さなかった。


人質の命を無視する無情な回答であるが、これには毛利家や本願寺の意向も含まれていたかもしれない。この時、尼崎城には毛利家の部将、桂元将が援軍を率いて入っていたし、本願寺の援軍もいたと思われるからである。この尼崎城と花隈城を失えば、本願寺は益々孤立し、毛利家も追い込まれる事になる。いずれにせよ、明け渡しを拒否された久左衛門らは面目を失い、有岡に戻る事なく逐電してしまった。こうなれば信長も人質を殺さねば、他に示しがつかなくなる。そのため、600人余りの人質全てを処刑するよう命じたのだった。人質達は怯えながら、尼崎からの迎えを今か今かと待ち続けていたが、ついにそれが空しい願望である事を悟った。


女房達が幼子を抱き、声を上げて嘆き悲しむ様は見るも哀れで、警護の武士ですら哀れみの涙を拭った。12月13日、重臣の妻子122人は尼崎の七松という所へ引き立てられ、悲痛な叫び声を上げつつ全員が磔にかけられた。そして、下級の武士とその妻子510人余は、4軒の家屋に押し込められ、枯れ草を積まれて生きたまま焼き殺されていった。男女が煙と火に咽び、叫び苦しむ様は目も当てられなかった。12月16日、村重の妻、21歳のだし、村重の15歳と13歳の娘、村重の20歳の弟、17歳の妹などの荒木一族16人に加え、車3両に子供7,8人が乗せられて京都六条河原へと引き立てられていった。村重の妻だしを始めとする女房衆は身嗜みを美しく整え、取り乱しもせず潔い最期を遂げていった。人々はその様を見て、ある者は感心し、ある者は恐れ慄き、ある者は涙した。そして、この哀れな人質達を見捨てたのは村重であるとして、轟々たる非難の声を上げるのだった。


この後、尼崎城は早々に落ちたようだが、花隈城は尚も抵抗を続けた。しかし、天正8年(1580年)3月初旬、信長の部将、池田恒興の攻撃を受けて花隈城も落城し、荒木方の拠点は全て失われた。村重は、この時、毛利家に亡命したと云われている。天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺で横死すると、村重は堺に移り住んだ。やがて、豊臣秀吉が天下を握ると招かれて、御伽衆(秀吉の話し相手)となった。秀吉は、かつての同僚で、自らを窮地に陥れた事もある男と、如何なる話をしたのだろうか。村重は千利休と親交を結び、茶の湯に傾倒した。そして、人質を見捨てた自らを恥じて、道糞(どうふん)と名乗った。だが、秀吉はそれはあんまりだとして、道薫(どうくん)に改めさせた。晩年を文化人として生きた村重は、天正14年(1586年)5月2日、堺にて病死する。享年52。


村重の築き上げた有岡城のその後であるが、落城後には、池田恒興の嫡男、元助(之助とも)の居城となっていた。しかし、天正11年(1583年)、池田父子が美濃国に転封になった際、廃城となり、その歴史に幕を閉じた。明治以降、伊丹は急速に宅地開発が進んで、城域の大部分は埋もれていった。そして、ここに壮大な城があった事も、凄まじいばかりの悲劇があった事も忘れ去られていった。



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備前天神山城

天神山城は、岡山県和気郡和気町にある山城である。


標高409メートルの天神山のほぼ全域を城域とする大城郭で、天文23年(1554年)頃、備前の戦国大名、浦上宗景によって築かれた。



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑登山口


麓にある天石門別神社のすぐ脇から登り始めました。本丸まで1・1キロもありますが、最初は「望むところだ!」と意気込んでいました。が、しかし・・・



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑険しい岩肌


夏場の登山はただでさえ疲れるのに、この険しさが更に追い討ちをかけて、へこたれそうになりました。しかも、山道はクモの巣だらけで、帽子やTシャツにまで絡みつく始末でした・・・途中、私は何のためにこんな苦労をしているのだろうと考え込んでしまいました。
(;-ω-) =3 ふぅ~



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑下の段からの眺め



麓を流れる川は、吉井川です。 2リットルのポカリスエットを持っていたのですが、ここまで来るのに半分以上を飲み干しました。



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑三の丸から桜の馬場を望む。



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑桜の馬場



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑本丸手前にある空堀



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑本丸


かつて、浦上宗景が君臨していた場所です。この石碑は、昭和9年(1934年)に浦上氏の子孫が建てたものです。本丸の横には道があり、そこから麓に下ると侍屋敷の跡が広がっています。




天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑天神山城の鳥瞰図


非常に長大ですが、幅は狭いです。



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑飛騨の丸と、野面積の石垣


ここは浦上家の重臣、明石景親の屋敷があった場所です。この景親の子が、大阪の陣で活躍する明石全登です。屋敷が本丸直下にある事と、石垣が用いられている事からも、明石氏の格式の高さが覗えます。



天神山城
天神山城 posted by (C)重家

↑南櫓台


この先の峰にはまだ、太鼓丸と呼ばれる砦がありますが、今回はここまでとしました。 天神山城は、一時は数カ国を支配した浦上宗景の居城だけはあって、巨大な山城でありました。

浦上氏の興亡

2011.07.23 - 戦国史 其の三
浦上氏は、備前、播磨、美作の三カ国の守護であった赤松氏の被官として始まる。室町時代、浦上氏は赤松氏の柱石として働き、やがては守護代にまで任じられた。村宗の代を迎えると、浦上氏の勢力は主家の赤松義村が危惧を抱くほどのものとなり、やがて両者は反目、激突するに至った。この頃はまだ赤松氏の方が勢力は上で、永世16年(1519年)、義村は、村宗の居城に大規模な攻撃を仕掛ける。しかし、村宗は城を守りきり、逆に反抗に転じて、これを打ち破る事に成功した。そして、義村を強制的に隠居させ、幼少の晴政に跡を継がせて、傀儡とした。これで力関係は逆転し、浦上氏が備前、美作、播磨に支配力を及ぼす大勢力となった。永世19年(1521年)1月、義村は再起を期して兵を挙げたが、村宗はこれも打ち破り、かつての主君を捕らえて幽閉する。そして、同年9月、義村を幽閉先で暗殺した事から、その子、晴政は恨みを含んだ。


その頃、京都では官領家の細川氏が、高国と晴元とに分かれて内訌を繰り広げており、その一方である高国は、村宗の力に目を付けて参戦を要請した。これを受けて村宗は、高国を擁して上洛の軍を催した。村宗、高国連合軍は播磨、山城を席巻して破竹の進撃を見せたが、対抗相手の晴元も四国の大物、三好元長(三好長慶の父)を担ぎ出して反撃を試みる。摂津の中嶋付近で両軍は対峙し、小競り合いを繰り返した。しかし、双方、決定打が無く、対峙する状況が続く。そこで村宗と高国は、赤松晴政に援軍を要請した。しかし、晴政は、村宗に父を殺され、国政の実権を奪われた恨みを忘れておらず、村宗の背後を襲うつもりで出征したのだった。   享禄4年(1531年)6月、村宗、高国軍は味方だと思っていた赤松軍に背後を襲われ、さらに正面の三好軍からの挟撃を受けて、完膚無きまでに破れ、村宗も高国も戦場の露と消えた。


戦後、浦上家は村宗の嫡男、政宗が跡を継ぎ、赤松晴政と激しい抗争を交えつつ、勢力の回復に務めた。だが、天文6年(1537年)、山陰の大大名、尼子晴久が播磨に侵攻を開始すると、存亡の危機に立った政宗と晴政は恨みを捨てて、共に尼子氏に立ち向った。しかし、尼子氏の勢いは凄まじく、政宗は晴政共々城を追われて、堺まで逃れた。天文9年(1540年)、尼子氏が安芸の毛利元就を攻めるため、播磨から軍を撤収させると、政宗と晴政はこの機に乗じて播磨に戻り、失地回復戦を開始する。そして、この戦いの過程で、政宗は家中を主導する立場となった。天文13年(1544年)頃、赤松氏が再び備前、播磨の支配者に返り咲くと、政宗が筆頭家老となった。この後、政宗は自らの勢力を備前、播磨に扶植させる事に力を注ぎ、やがて、独立勢力となった。


天文20年(1551年)、尼子晴久が再び備前、美作に大規模な侵攻を開始すると、浦上家中は動揺して、紛糾(ふんきゅう)する。政宗が尼子氏に従属する姿勢を見せたのに対し、弟の宗景はこれに激しく反発したのである。そして、宗景は毛利元就と結んだ上、天神山にて旗揚げしたので、ここに浦上家は分裂した。宗景は毛利家に援軍を請い、政宗は尼子家に援軍を求めて、備前各地で戦いが繰り広げられた。天文23年(1554年)、戦いの最中、宗景は天神山城を本格的に普請し、自らの居城とする。戦況は宗景優勢で進み、永禄3年(1560年)には政宗を西播磨に追いやって、宗景が備前第一の勢力となった。しかし、備前国内にはまだ対抗相手もいたし、この時点では、浦上氏は毛利氏に従属する一国人に過ぎなかった。宗景は戦国大名としての自立の道を模索するが、そのためには毛利氏と手を切るしかないと定めた。


永禄6年(1563年)5月、宗景は、兄、政宗と和睦して背後を固めた上で、毛利氏とその従属大名、三村氏との戦いを開始する。当面の相手は、備中、美作、備前に勢力を張る強敵、三村氏であったが、家臣の宇喜多直家の奮迅の働きもあって戦いは優勢に進み、永禄12年(1568年)には、宗景は備前のほぼ全域と、美作の東南部を支配する堂々たる戦国大名に成長する。更に同年には、兄、政宗の跡を継いでいた誠宗(なりむね)を暗殺し、その西播磨の所領も自らの版図に加えたのだった。宗景の野望はこれだけに止まらず、西播磨の領主の1人、赤松政秀にも攻撃を加えたため、窮した政秀は、畿内の実力者となっていた織田信長に救援を求めた。信長はこれに応えて軍を派遣し、あろうことか重臣の
宇喜多直家まで、信長に通じて叛旗を翻したから、宗景は重大な危機に陥った。


幸い織田軍の行動は一過性で、数箇所、城を落とすとすぐに引き返していったため、宗景は胸を撫で下ろした。織田軍撤退を受け、孤立した直家も降伏を申し出て来たので、その復帰を許したのだった。宗景はこの機会に直家を滅ぼすべきであったのだが、そうはしなかった。理由は定かではないが、滅ぼすには、既にその勢力が大き過ぎたのか、それとも、周囲の状況がそれを許さなかったのか。天正元年(1573年)、宗景は信長と和睦して、備前、播磨、美作の支配権を認められる。この内、播磨と美作は一部を領有するに留まっていたが、それでも毛利氏に次ぐ、中国地方の大大名である事に間違いはなかった。しかし、宗景の絶頂期も、束の間であった。翌天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が再び、叛旗を翻したのである。


直家は前回の失敗を教訓に、今回は準備万端で望んでいた。浦上家の嫡流に当たる久松丸(政宗の孫)を担ぎ出して大義名分を掲げ、更に事前に調略を廻らせて宗景配下から離反を続出させた。 宗景も備中の三村氏と結んでこれに対抗し、備前、美作を舞台に家中を二分する戦いが繰り広げられた。やがて直家は毛利氏を引き込む事に成功し、その軍事援助を受けて攻勢をかける。宗景も九州の大友氏、畿内の織田氏と結んだものの、相手側の事情もあって、直接の援助は期待薄であった。宗景は苦戦し、徐々に追い詰められて行く。そして、天正3年(1575年)6月、毛利氏が備中の三村氏を攻め滅ぼすと、毛利氏と直家は一丸となって宗景に襲い掛かってくる。たまらず宗景は天神山城に篭城し、その天険の守りを最後の砦とした。


しかし、同年9月、そこでも頼みとしていた重臣、明石景親に裏切られたため、最早、城を出て落ち延びるしかなかった。   以降、宗景は信長の後援を受けて、失地回復の機会を窺ったが、天正7年(1579年)、信長が直家の服属を認め、その所領を安堵した結果、宗景が復帰する見込みは無くなった。一時は、3カ国に勢力を張った宗景であったが、一浪人に零落し、以後の消息は途絶えてしまう。下克上で権力を登り詰めた男が、下克上にてその座を追われる、何とも皮肉であった。宗景一代の城である天神山城も、ほどなくして廃城となり、山林に還っていった。

高仙芝、パミールを越えた勇将 2

2011.07.17 - 三国志・中国史
天宝9載(750年)2月、高仙芝は吐蕃の属国、朅師(けっし)を討ち、その王を捕らえた。更に同年12月、属国の礼を取らなかったとの名目で、石国(タシュケント)へ遠征する。この遠征は、高仙芝が更なる功名を立てんとして、自ら申し出たものであった。この時、高仙芝は一旦、石国と和議を結んでおきながら、不意討ちをかけて老若男女を皆殺しとし、財宝、良馬を全て我が物とした。そして、先に捕らえていた朅師王や、石国王を長安に連行して、大いに面目を施したのだった。だが、この不義の行為は、高仙芝に災いを呼び込む。石国の王子が、西方のイスラム大国アッバースに逃げ込んで、高仙芝の横暴を訴えて、軍事援助を求めたのである。アッバースはそれに応えて、ズイヤード・イブン・サーリフ将軍を長として、諸国の軍を加えた数万の大軍を送り込まんとした。
 


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↑8世紀のアジアの勢力図(ウィキペディアより)


アッバース軍動くと知った高仙芝は、逆に機先を制して攻撃せんとした。そして、漢族、異民族を合わせた3万人余の軍勢を率いて亀茲から北進すると、天山山脈を越え、アッバース領内に350キロも侵入する。唐軍は、タラス河(カザフスタンとキルギスに跨る河)の畔にあるタラス城に入った。天宝10載(751年)、唐軍とアッバース軍は、タラス河畔にて激突する。5日間に渡って互角の戦いが続けられたが、唐軍の背後で突如、異変が起こった。味方であった葛邏禄(かつらろく)族がアッバース側に寝返って、襲い掛かって来たのである。アッバース軍もこれに合わせて総攻撃を加えてきた為、さしもの高仙芝も成す術無く、大敗を喫した。これが世に云う、「タラス河畔の戦い」である。そして、この時に中国の紙漉き工が捕まって、西方に製紙技術が伝わったとされている。唐軍は数千人にまで討ち減らされ、さらに退路をフェルガーナ軍(ウズベキスタン)が遮った。唐軍は全滅の危機に陥ったが、李嗣業が先頭に立ってこれを斬り抜け、高仙芝らはなんとか危地を脱した。


この敗戦によって、唐の西域支配はタリム盆地にまで後退したが、高仙芝がその責を問われた形跡はなく、昇進して中央に召された。そして、高仙芝の片腕であった、封常清が安西節度使となった。天宝12載(753年)封常清は、吐蕃の属国、大勃律国に攻め入り、これを降伏せしめる功を挙げる。この頃、唐の朝廷では、不穏な空気が漂っていた。玄宗は楊貴妃の魅力に溺れて政治を省みる事はなく、宮中では、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠と、地方の大権力者、安禄山とが権力を競っていた。天宝14載(755年)11月、中央での権力争いに敗れた安禄山は、ついに実力行使に及んだ。


節度使は強力な軍事力を帯びる事から、1人1職とされていたが、安禄山は玄宗の寵愛を糧に河東・范陽・平盧の3つの節度使の職を兼ねていたから、その軍事力は唐軍随一であった。そして、荒ぶる15万人余の兵を率いて、怒涛の進撃を開始した。唐王朝に激震が走り、折から入朝していた封常清は、玄宗から方策を尋ねられる。すると封常清は、「私が洛陽に赴いて官戸を開き、義勇軍を募集します。その軍で逆賊を討ち取ってご覧にいれます」と大言壮語した。この勇壮な奏上に玄宗は喜び、安禄山から范陽・平盧の節度使の職を取り上げた上で、これを封常清に与えて、洛陽へと送り出した。


封常清は洛陽に着くと、高札を立てて勇壮の者を広く召募した。10日余りで6万人余が集まったが、金目当ての無頼漢が多く、それに訓練を施す時間も無かった。そこへ安禄山軍が精強無比であるとの報告が入ると、封常清は自らの大言壮語を悔いたが、それでも責任を全うすべく、洛陽前面の守りを固めた。その頃、朝廷もようやく事態の深刻さを実感し、一大征討軍を編成する事とした。玄宗の第6子、李琬(りえん)を元帥に、その補佐役として、右金吾(ゆうきんご)大将軍に昇進していた高仙芝が付き、監軍使として辺令誠も付いた。実質的な総指揮官である高仙芝は、官庫を開いて11万人余を集めると天武軍と命名し、安禄山迎撃に向かった。


その頃、封常清率いる6万人余と、安禄山の先鋒は武牢にて激突した。安禄山軍は北方騎馬民族と死闘を繰り広げてきた歴戦の軍であって、その精鋭騎兵1万人余が突進してくると、市井の烏合の衆である封常清の軍は散々に蹂躙され、大敗を喫した。それでも封常清は諦めず、残兵を掻き集めて防戦を試みたが、再び大破され、唐の副都である洛陽は安録山の手に落ちた。封常清は街道の樹木を切り倒して、安禄山軍の進撃を遅滞させつつ、西方の陝郡(せんぐん)まで退いた。その地で、高仙芝と出会った封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、当たる術がありません。次に潼関(どうかん)を破られたら、長安が危機に瀕します。至急、潼関の守りを固めましょう」と訴えた。高仙芝はこの意見に同意し、官庫を開いて食料を兵士に分配し、残ったものは焼き払うと、撤退に入った。


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↑安史の乱系図(ウィキペディアより)


撤退の最中、安禄山軍に追いつかれ、多くの兵士が死んだが、高仙芝と封常清は何とか先んじて潼関に入り、急いで守りを固めた。そこへ安禄山軍が猛攻を加えてきたが、高仙芝と封常清は協力し合って激戦の後、これを撃退する。だが、一息付いたところで、監軍使の辺令誠は、高仙芝と封常清を陥れる密書を朝廷に送った。辺令誠は一度、高仙芝に助け舟を渡した事があるので、度々、高仙芝や封常清にも賄賂を求めていた。しかし、相手にされず、これを恨みに思っていた辺令誠は、「高仙芝と封常清は賊を恐れて、戦わずして陝郡を放棄し、しかも軍需物資を横領した」と誣告(ぶこく)したのである。これを聞いた玄宗は激怒して、「両者を斬れ!」と厳命を下した。玄宗は若かりし頃は臣下の意見を聞き分け、賢明な統治をしていたが、老いては正常な判断力を失い、佞臣の思うがままであった。


辺令誠はまず封常清を捕らえると、皇帝からの詔書を突きつけた。これを受けて封常清は、「敗軍の将は、ついには死罪は免れないものです。しかし、安禄山を軽視してはなりません。臣の死後、是非良将を派遣して討伐の指揮を委ねられますように」と最後の上奏文を認めると、従容と刑を受けいれた。その死体は罪人として、道端に晒された。そこへ、外へ出ていた高仙芝が戻って来ると、盟友とも言える封常清の死体が横たわっており、愕然となった。そして、高仙芝も捕われの身となり、辺令誠が詔書を突きつけて死罪を告げた。


高仙芝は、「私は陛下の許可を得ずに潼関に撤退したので、死罪は覚悟の上である。しかし、軍需物資を横領したというのは冤罪だ」と述べた。そして、兵士達に向かって、「私は長安を守るために潼関に退いた。それを罪だと思うのなら、諸君、私が悪いと言ってくれ。しかし、罪が無いと思うなら冤罪だと言ってくれ」と訴えた。兵士達は一斉に、「冤罪だ!」と叫ぶ。それでも刑は断行される事となり、覚悟を決めた高仙芝は道端に横たわる封常清の死体を見やり、「貴公は私が抜擢した人だ。また、貴公は私の後任を引き受けてくれた。その貴公と共に死ぬのも運命だろうか」と言った。そして、兵士達の大地を揺るがすほどの叫びの中、パミール越えの勇将の命は断たれた。


高仙芝と封常清の生年は不明であるが、享年は50歳前後であろう。 この後、唐軍は安禄山軍に一戦を挑んで大敗し、潼関は打ち破られ、長安も陥落する。この時、辺令誠は安禄山に降伏し、後に唐に帰参したものの、許されずに斬られた。かつての高仙芝の部将、李嗣業はこの後も唐軍の先頭に立って奮戦するが、鄴(ぎょう)を巡る戦いで戦死する。唐は自力で解決する力を無くし、ウイグル国の援助を請うて、ようやく乱を平定するのだった。しかし、この安史の乱で唐の屋台骨は揺らぎ、かつての勢威を取り戻す事は二度と無かった。多大な努力を費やしてきた西域からも撤退し、唐は衰亡の一途を辿る事になる。


高仙芝は優れた武勇を誇り、軍略にも長けていたが、功名にはやって弱国を蹂躙し、私財を溜め込むなど貪欲な一面もあった。その挙句、他民族の反感を食らって一敗地にまみれるなど、政略面においては思慮を欠いていた。だが、衆を引き連れての遠路遥々の行軍、それに加えての困難なパミール越えは、並の指揮官に出来る事では無い。これには士卒の心を確実に掴み、強固な意志で引っ張っていく人物でなければならない。高仙芝が、偉大な統率力の持ち主であった事は、間違いないところである。



高仙芝、パミールを越えた勇将 1

2011.07.17 - 三国志・中国史
8世紀前半、中国は唐の時代、玄宗皇帝の治世の下、唐王朝は最盛期を迎えようとしていた。国都、長安には東西南北から様々な人種が流れ込み、当時、アジア最大の都市として栄えていた。長安の人々は、シルクロードや運河を通じて持ち込まれる外国の鮮やかな物品で体を着飾り、平和と繁栄を謳歌していた。だが、長安から遠く離れた東西南北の国境地帯は平和とは無縁で、唐の守備隊と異民族との間で、血生臭い戦闘が絶え間なく繰り広げられていた。長安の平和は、彼ら国境を守る兵士の血によって保たれているのだった。そういった状況は、長安から遥か西に位置する、西域(中央アジア)でも同様であった。


西域は荒涼とした砂漠地帯であるが、古くから絹の一大交易路(シルクロード)として知られており、唐の経済にとって重要な地域であった。また、この西域を支配する事は、唐の脅威となっている北方騎馬民族の収入源を押さえる事にも繋がっていた。この様に西域は、戦略、経済、交通上の要衝であった。そこで唐は、この地域の支配を永続的なものとすべく、タリム盆地北部にある亀茲(クチャ)に安西都護府を開設し、そこに安西節度使を置いて統治の拠点とした。節度使とは唐が採用した制度で、辺境の統治と守備を一手に担う司令官である。辺境とは言え、節度使は広大な地域の軍権と政権を一手に握っている事から、そこに置ける権力と軍事力は非常に大きなものがあった。安西節度使は、広大なタリム盆地のほぼ全域を守備範囲とし、その兵力は2万4千人で、軍馬は2千7百を数えた。そして、この軍団の中に高仙芝(こう・せんし)と云う若き武人がいた。


高仙芝は高句麗(北朝鮮と中国東北部を含む地域)出身で、20歳余で父に連れられて、亀茲にやってきた。高仙芝の父、高舎鶏(こう・しゃけい)は低い身の上から始まって、そこから己の腕一つで将軍にまで立身した有能な戦士であった。その父の功績の余燼を受けて、高仙芝は20代にして父と同格の将軍に任ぜられた。だが、高仙芝は親の七光りだけで立身したのではない。容貌秀麗な偉丈夫にして、勇猛かつ騎射に長け、確かな将才も備えていた。高仙芝が、安西節度使、夫蒙霊詧(ふもう・れいさつ)の下で度々、武名を轟(とどろ)かせていた頃、封常清(ほう・じょうせい)と云う男がその武名を聞きつけて訪ねて来た。 


封常清は高仙芝の配下となる事を強く願ったが、痩せこけた外見で片足も不自由であった事から、相手にされなかった。
封常清はそれでも諦めず、開元29年(741年)、高仙芝が軍を率いて達奚(たっけい)族制圧に向かった際には、一兵卒として従軍した。そして、封常清は、高仙芝が用いた戦術を分析し、それを詳細に書いた報告書を提出する。その報告書は非の打ち所が無く、しかも高仙芝の意図を悉く見抜いたものであったから、高仙芝は驚いて封常清を召した。実は、封常清は高い志と優れた学識を有する賢人であったのだ。高仙芝は封常清に対する認識を完全に改め、以後は片腕として重用する。そして、高仙芝はこの達奚族制圧に成功した事から、副節度使に任ぜられた。 


西域支配を狙っていたのは、唐だけでは無かった。チベット高原の大勢力、吐蕃(チベット)もまた、虎視眈々と西域を狙っており、開元10年(722年)には、カシミール地方(パキスタン北部)にある、小勃律国(ギルギット)を属国化する事に成功していた。小勃律国は、小国ながら交通の要衝に位置していた。そのため、それより西にある20数カ国も吐蕃に服属を余儀無くされ、唐に対する朝貢も途絶えた。唐も黙ってこの状況を見逃していた訳ではなく、これまで三度に渡って遠征軍を差し向けたものの、悉く失敗に終わっていた。これは、吐蕃の援軍によって阻まれたと言うより、西域の厳しい気候と剣路に阻まれたのが主因だった。天宝6載(747年)、今度は、高仙芝にその小勃律国討伐の大命が下った。高仙芝は勇んでこれを拝命し、片腕の封常清、それに全軍きっての猛将、李嗣業(り・しぎょう)、監軍使の宦官、辺令誠(へん・れいせい)、それに歩騎兵合わせて1万人余を率いて、亀茲を出立する。 


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↑西域(タリム盆地)・(ウィキペディアより) 

写真には写っていないが、疏勒の左側にパミール高原がある。パミール高原を横断すれば、そこに小勃律国があった。 


遠征軍の一番の難題は、パミール高原(平均標高5千メートル)を踏破する事であった。唐軍は、疏勒(カシュガル)を経てパミール高原に入る。そして、行軍100日余、特勒満川(とくろまんがわ)に達したところで、高仙芝は軍を三つに分け、吐蕃の拠点がある連雲堡(れんうんさい)の手前で合流を約した。連雲堡は川に面した崖の上に築かれた城砦で、そこに1千人余りの兵が守りを固め、麓にも9千人余が柵を連ねて配置されていた。このように連雲堡は難攻不落の構えであったが、突如として目の前に現れた唐軍にはさすがに虚を突かれた。高仙芝は間髪おかず、急流を押し渡って総攻撃を加える。 


唐軍は、吐蕃軍の応戦が遅れる間に城の足元に取り付いたが、それでも崖の上から石、丸太、弓矢を雨の様に浴びせられて、苦戦に陥った。ここで高仙芝は、配下の猛将、李嗣業に、「昼までに城を必ず落とせ」と厳命を下した。李嗣業は抜刀した歩兵隊を率い、自ら軍旗を掲げて崖をよじ登り始める。吐蕃軍の投げ落とす岩石や矢に当たって、兵士達は次々に滑落していった。それでも李嗣業は休まず力攻を続け、午前10時頃、ついに崖を上りきって城内に突入する。そして、白兵戦の末、吐蕃軍5千人余を斬殺し、1千人余を捕虜とし、残りは逃走した。大勝利であったが、唐軍の目標は小勃律国であって、連雲堡はその通過点に過ぎない。高仙芝は更に進軍を続けようとしたが、ここで監軍使の辺令誠は臆病風に吹かれて、同行を躊躇した。そこで高仙芝は、足弱の兵3千を割いて辺令誠と共に連雲堡の守りに就かせ、自身は奥地へと踏み込んでいった。 



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↑パミール高原(ウィキペディアより) 


唐軍は酸素が薄く、厳しい寒気が包み込むパミール高原を突っ切り、氷雪に覆われたダルコット峠(標高4575メートル)をも越えた。そこから険しい山路を20キロ下れば、小勃律国の主城、阿弩越城があった。だが、その断崖絶壁の道を前にして、兵士達に不安と不満の声が上がる。すでに遠征は数ヶ月に及び、しかも日夜、厳しい風雪に晒されている事から無理も無かった。そこで高仙芝は一計を案じ、自軍兵士20名を地元民に変装させ、密かに山を下らせた。翌日、阿弩越城からの使者に扮した兵士達は唐軍の下を訪れ、降伏したいと申し出た。これを受けて高仙芝は、「小勃律国は降伏した。城はもう我らのものだ」と全軍に告げた。兵士達は騙されたとも知らず、喜び勇んで高仙芝に付き従うのだった。 


唐軍が再び進撃を開始して3日後、今度は本物の阿弩越城からの使者が来て、高仙芝に降伏を申し出てきた。高仙芝はこれに乗じて精鋭騎兵1千を先行させて、阿弩越城を制圧した。唐軍は小勃律国の国王、大臣を捕虜とし、更に吐蕃に通じる橋も落として援軍の道を断ち切った。この小勃律国制圧の報を受けて、72もの周辺小国が唐への服属を表明する。高仙芝は過去、三度も失敗している困難な遠征を成し遂げ、唐の勢力範囲をタリム盆地より更に西へと押し広げる事に成功したのだった。20世紀初頭の著名な中央アジア探検家スヴェン・ヘディンは、高仙芝のパミール越えを、ハンニバルのアルプス越え(平均標高1700メートル)を凌ぐ壮挙であると賞賛している。 


しかし、高仙芝はこの勝利で、思い上がったようだ。本来ならばこの勝報は高仙芝の上司である、夫蒙霊詧を通じて行うべきだったのだが、自らの部下を直接、長安に送って奏上した。高仙芝の器量を認め、ここまで引き立てたのは夫蒙霊詧であったから、そうと知った彼は、「恩知らずめ!今度こんな無礼な振る舞いをすれば、首を刎ねてやるぞ」と激怒した。これにはさすがの高仙芝も、恐れ慄くしかなかった。だが、これを知った監軍使の辺令誠は、高仙芝を擁護する上奏文を送る。その結果、夫蒙霊詧は都に召還され、代わって高仙芝が安西節度使に任ぜられる事となった。そして、この度の遠征で数々の献策をしたであろう、封常清も判官(副節度使に次ぐ位)となった。封常清は軍律に厳しく、それでいて賞罰は公正であったため、高仙芝は遠征する度、安心して彼に留守を任せる事が出来た。 
 プロフィール 
重家 
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重家
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趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
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