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日本駆逐艦の苦闘

駆逐艦、それは海軍の使役馬とも言える存在である。内燃機関が発達した19世紀末に登場して以来、敵艦攻撃、艦隊護衛、物資輸送、哨戒、乗員救助といったあらゆる任務をこなし、海軍を保持する国家にとって、決して欠かす事の出来ない艦種となっている。駆逐艦の特徴はなんといっても小型軽快で、高度な汎用性を有する点にある。海軍の華と言えば戦艦や空母であるが、圧倒的な攻撃力を有する反面、高価で数をそろえ難く、単独では潜水艦に対応出来なかった。その点、駆逐艦は安価で数を揃えやすく、攻撃力こそ低いが、対艦、対空、対潜とあらゆる脅威に対応可能であった。特に航空機と潜水艦の脅威が増した第二次大戦の海戦においては、駆逐艦は必要不可欠な存在となる。


だが、駆逐艦が有する小型軽快と言う長所は、短所とも表裏一体であった。 小型ゆえに荒天には弱く、居住性は劣悪で、航続距離も短かった。戦艦には20cmから40cmもの厚い防御装甲が施されているが、駆逐艦の外板は大抵、2cmにも満たなかった。防御力は無きに等しく、当たり所が悪ければ爆弾や魚雷の一発で轟沈(ごうちん)し、爆弾、砲弾の至近弾の破片、機銃弾を受けても艦体は穴だらけとなる。それを避けるには、駆逐艦ならではの軽快性を生かす他無かった。


駆逐艦が有する最も強力な兵器は、魚雷である。これを命中させる事が出来れば、大艦を屠る事も可能であった。しかし、この兵器は諸刃の剣でもあり、爆弾や砲弾の直撃を受ければ、誘爆を引き起こす危険性があった。実際、第二次大戦では、魚雷の誘爆を受けて幾隻もの駆逐艦が乗員諸共、爆沈している。また、駆逐艦は12cmクラスの砲塔と、潜水艦攻撃用の爆雷も搭載しているが、これらにも装甲は施されておらず、被弾すれば誘爆する恐れがあった。この様に駆逐艦とは、防御力の無い艦体に爆発物を満載した危険極まる艦でもあった。それでいて、常に最前線に立ち続けねばならなかった。


●駆逐艦と言う艦種の簡単な説明を終えたところで、ここから、第二次大戦における日本駆逐艦の働きや特長を紹介していきたい。


昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、その命名通り、広大な太平洋を舞台とする海軍主体の戦争となった。緒戦の日本海軍の活躍は目覚しく、瞬く間に広大な勢力圏を築き上げる事に成功する。この快進撃の主役となったのは日本の空母部隊であるが、その影では駆逐艦も重要な役割を果たしていた。空母部隊の威力は確かに絶大であったが、それでも広大な太平洋の海域全てを担当するのは不可能であり、代わって駆逐艦が各要所の制圧に当たっていた。日本海軍の作戦行動は駆逐艦によって支えられていると言っても過言ではなく、駆逐艦の乗員達も、太平洋での戦争は飛行機と駆逐艦でやっているとの強い自負があった。実際、太平洋で行われた主要な海戦のほとんどに駆逐艦は参戦しており、中でもソロモン方面での戦いでは、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見せた。その任務は、魚雷を抱いての敵艦攻撃、艦隊護衛ならびに船団護衛、沈没艦船の乗員救助、港や泊地の警戒、その高速を生かしての兵員、物資輸送と実に多岐に渡った。


日本海軍の拠点であるトラック島には、ソロモン海域で任務を終えた駆逐艦が戻ってくるが、前線では常に駆逐艦を必要としているため、休息もろくに与えられず、応急修理をして弾薬食料を補給すれば、すぐさま戦場に戻らねばならなかった。ソロモンで激戦が繰り広げられていた頃、南洋のトラック島には日本海軍が誇る戦艦、大和や武蔵も存在していた。しかし、大和型戦艦は1隻で駆逐艦10隻分の燃料を食うため、燃料不足の日本海軍では早々に動かす事は出来ず、大和、武蔵はトラック泊地に鋲泊したまま、ほとんど動かなかった。その一方、駆逐艦は整備する間もなく戦いに明け暮れていたので、どの艦も錆びつき、弾片を受けてささくれだっていた。駆逐艦乗員達は、まったく動く気配を見せない大和、武蔵を眺めては、大和ホテル、武蔵御殿などと陰口を叩きつつ、戦場に向かって行くのだった。駆逐艦は、東はハワイ諸島の近海まで、西はセイロン島近くのインド洋まで、北はアリューシャン列島近くの北太平洋まで、南はオーストラリア近くの南太平洋まで駆け回った。駆逐艦は消耗品扱いで酷使され、ほとんど知られる事なく、乗員諸共、海に消えていくのだった。


●駆逐艦での生活


艦船での生活は基本的に不便極まるもので、例え空母や戦艦などの大型艦であっても居住空間は狭苦しく、真水の使用も厳しく制限されていた。中でも、潜水艦や駆逐艦などの小型艦の居住空間は更に狭く、乗員は過酷な生活を強いられた。大和や武蔵には冷房、通風設備があったので熱帯の海でも比較的、過ごしやすかったが、駆逐艦には冷房など存在せず、赤道付近で任務に就いている駆逐艦は猛烈な熱気に苦しめられた。艦内は蒸し風呂の様な状態で、入った途端に油と乗員の体臭の入り混じった熱気に包まれる。鉄板は触れれば火傷しかねないほど熱せられており、その温度は夜になってもなかなか下がらないので、乗員は夜毎、交代で錨甲板に毛布を布いてごろ寝をしていた。日々の任務で汗と垢まみれになっても、真水の搭載量は微々たるものなので、入浴もままならなかった。


日本海軍の軍艦では、乗員は3日に一度しか入浴は許されず、それも洗面器にぬるま湯1ℓを3杯もらえるのみだった。これで体を洗って、洗濯もこなさねばならない。勿論、それで真水が足りるはずはないので、南国で活動している軍艦は、スコールを最大限、利用した。黒雲が艦の上空に差し掛かると、当直の士官は、「総員、スコール浴び方用意!」との号令を放送で流す。すると手隙の乗員は、褌(ふんどし)一つの裸体に、手拭いと石鹸を持って一斉に甲板に飛び出す。そして、滝の様な雨を浴びながら歓声を上げ、一心不乱に体を洗って、洗濯もこなすのだった。駆逐艦の水事情は更に悪く、泊地に戻って、大型艦から真水の供与を受けた時でしか、入浴できなかったとの話もある。


戦艦大和や武蔵などの新鋭艦は日本海軍の誇りであり象徴でもあるので、他の見本となるよう、艦内には厳正な軍紀が布かれていた。乗員は規則正しく行動する事を要求され、服装の乱れなど許されなかった。そして、木甲板はピカピカに磨き上げられ、艦内は隅々まで整理整頓が行き届いていた。初めて乗艦した者は、そうした光景を見て感銘を受けたものだが、どこか窮屈な息苦しさを感じるのも確かだった。だが、駆逐艦にはそこまで厳正な規則は布かれておらず、乗員は服に油染みや破れがあっても平気で着ていて、甲板作業も半裸に鉢巻、裸足で作業していた。また、駆逐艦の乗員はせいぜい200人、300人程度であるので、お互いの顔を覚えやすく、兄弟的な雰囲気があった。


広大な洋上で行動する以上、暴風雨との遭遇は免れない。数万tもある戦艦や空母などの大型艦は、海が荒れていてもゆったりとした動揺で、速力を落とす事なく航行する事が出来たが、2千t前後の駆逐艦ではそうはいかない。波に突き上げられると艦首は大きく持ち上げられ、続いて波が下がれば海中に没するかの様に沈み込む。上下に大きく振られるのを繰り返し、艦はまさに木の葉の様に翻弄される。こうなると乗員は立っているのもやっとで、艦を減速させつつ、必死に航行せねばならなかった。駆逐艦の様な小型艦にとって、暴風雨との遭遇は死命を決しかねない事態であったが、日本駆逐艦は概ね航洋性能が優れていたので、大戦中、台風を受けて沈没した艦は無かった。逆にアメリカ駆逐艦は航洋性に問題があって、大戦中の1944年12月18日、フィリピン沖で作戦行動中、台風の直撃を受けて、駆逐艦3隻及び乗員775人を失う大損害を出している。


●駆逐艦乗りの恐怖。


駆逐艦の防御力は無きに等しく、爆弾や魚雷の一発でも受ければ轟沈しかねないとは先に述べたが、乗員達にとって爆弾や魚雷はそれほど恐ろしいものではなく、むしろ当たればそれまでと覚悟を決められた。それよりも恐れられたのが、敵航空機による機銃掃射である。アメリカ軍機の多くは、両翼に多数の12・7mm機銃を搭載しており、それらが一斉に発射されると、まるで両翼が燃え上がっているかのようであった。発射された機銃弾は、何発かに一発の割合で曳航弾が含まれており、それらは海上に白い飛沫を連続して飛ばしつつ、急速に艦に迫り来る。やがて艦に到達すると、カン!カン!カン!と鋭い金属音を響かせつつ、艦上を薙ぎ払ってゆく。弾丸は駆逐艦の薄い外板をいともたやすく撃ち抜いていって内部で弾き飛び、中には反対側まで突き抜けていくものもある。機銃掃射の音が近づいてくると、乗員達は恐怖に慄き、一斉にしゃがんだり物陰に隠れたりした。事に恐ろしかったのが、背後からの銃撃であった。


しかし、艦上で機銃配備に就いている乗員達は逃げる訳にはいかず、25mm機銃をもって敵機に立ち向わねばならなかった。機銃員達は露天に剥き出しの状態であるので、機銃掃射を受ければひとたまりもなく、血飛沫をあげて次々になぎ倒されていった。弾丸が頭や胴体に当たれば致命傷は免れず、手足に命中したとしても、その運動エネルギーによって組織はズタズタに破壊され、切断に近い損傷を負った。駆逐艦乗員達も必死に25mm機銃を撃って、敵機を撃墜せんとするが、回避運動で激しく揺れ動いている艦上にあっては、なかなか命中弾を得られず、弾道確認の為の曳航弾が胴体や翼に吸い込まれていって、ようやく命中を確信しても、敵機は何事も無かったかのように飛び去ってしまう。アメリカ軍機は頑丈な造りであって、弾丸の多くは弾かれてしまうのだった。例え白い煙を吹かせたとしても、それらは消火剤であって、撃墜には繋がらなかった。


●日本駆逐艦の特徴


日本駆逐艦は、強大なアメリカ海軍との正面決戦を意識して、61cmという他国に例の無い大口径魚雷を多数積載して、対艦能力を突出させていた。その対艦攻撃力が遺憾なく発揮された例として、1942年11月30日に行われたルンガ沖夜戦を挙げたい。この時、日本側は駆逐艦8隻だったのに対し、アメリカ側は重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻という戦力で、質量共にアメリカ側が優勢であった。だが、日本側は果敢な夜間雷撃を敢行し、駆逐艦1隻が撃沈されたものの、敵重巡洋艦1隻を撃沈し、更に重巡洋艦3隻を大破せしめるという殊勲を挙げた。この様に日本駆逐艦は優れた対艦攻撃力を有していたが、その一方、対空、対潜能力は貧弱そのもので、航空機の攻撃には弱く、潜水艦に撃沈される艦も実に多かった。


日本駆逐艦の主砲である12・7cm50口径砲は、水上艦との交戦においては問題ないが、敵航空機には対処不能で、頼りとなるのは25mm機銃しか無かった。しかし、これも威力と装備数に欠けており、自艦を防衛する事さえ、ままならなかった。戦争後半になって航空機の脅威が意識される様になると、ほとんどの駆逐艦に機銃の増備が成されたが、それでも自艦防御がやっとで、他艦を援護する余裕など無かった。大戦における日本駆逐艦の損失の3分の1は、敵航空機によるものである。また、潜水艦探知能力も低い事から、目の前で護衛対象を撃沈される事も日常茶飯事で、アメリカ潜水艦を狩るべき立場の日本駆逐艦が、逆に30隻以上も撃沈される異常事態となっている。アメリカ潜水艦は第二次大戦において、爆撃、砲撃、爆雷、機雷、事故など各種理由で52隻が戦没しているが、その内、日本駆逐艦に撃沈されたとみられるのは7隻に過ぎない。


日本駆逐艦の多くは、対艦攻撃に特化した仕様となっていたが、戦争中盤からアメリカ側艦艇にレーダーが搭載される様になると、肝心の対艦戦でも劣勢に陥った。また、艦形を洗練させるなど性能向上に努めた結果、大量生産には不向きな凝った構造となっていた。日本駆逐艦は対艦攻撃力を高めて、敵艦隊との短期決戦を指向したが、実際の太平洋の戦いは、空中、水上、水中の三次元の戦いとなって、日本駆逐艦は十分に対応できず、しかも果てしない消耗戦に巻き込まれて、消耗に生産が追いつかなかった。駆逐艦という艦種は、大きさと装備を切り詰めながらも、三次元の敵に対応する能力を有し、数も揃えねばならない。もっとも、太平洋戦争において、日本が相手としたのは世界最大の工業国アメリカであって、建艦競争では到底勝てなかった。それが分かっていたからこそ、質を高め、短期決戦に持ち込もうとしたきらいはあった。ただ、そうであっても汎用性に欠けていた点だけは擁護できない。


アメリカ海軍は、開戦時には182隻の通常駆逐艦を有し、開戦後には約330隻の通常駆逐艦と、約440隻の護衛駆逐艦(能力を落として量産性を高め、船団護衛を主とした駆逐艦)を就役させた。合計すると、アメリカ海軍は終戦までに約950隻の駆逐艦を保有し、戦没したのは83隻であった。対する日本海軍は、開戦時には通常駆逐艦111隻を保有し、開戦後には31隻の通常駆逐艦と、32隻の護衛駆逐艦を就役させた。日本海軍が終戦までに保有した通常駆逐艦、護衛駆逐艦は合わせて174隻で、戦没したのは133隻、残存艦は41隻であった。この中でも、日本の主力駆逐艦であった陽炎型19隻、夕雲型19隻は、激戦に投入され続け、生き残ったのは陽炎型の雪風、ただ1隻のみだった。不十分な装備と数量で戦った日本駆逐艦とその乗員達であったが、強大なアメリカ海軍を相手にして、彼らは実に良く戦ったと言えるだろう。彼らの献身的かつ犠牲的な働き抜きに、太平洋での戦いは語れない。現在の日本の護衛艦は、こうした第二次大戦の苦い教訓を受けて、三次元の敵に対応可能な高度な汎用性を有するに到った。





軍艦行進曲



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安土城

安土城は、滋賀県近江八幡市にある山城で、戦国の風雲児、織田信長が築いた城として余りにも有名です。




天正4年(1576年)1月、織田信長は、家臣の丹羽長秀を普請奉行に任じて、近江国の安土山(標高106メートル)に城を築く事を命じた。安土は、その時の織田領国の中心近くにあって、指令を発しやすい位置にあった。更にもっと視点を高くすれば、この近江国は日本本土の中心に近く、北国街道、中山道、東海道といった重要街道が走る交通の要衝であり、北陸、近畿、東海の三地方を繋ぐ結節点ともなっていた。また、ここにある琵琶湖は、日本海や瀬戸内海の産物が往来する水運の交差点でもある。それと、当時の日本有数の大都市にして政治都市でもある、京都が隣接する点も見逃せない。例えば、安土から船や馬を用いたなら、その日の内に京に達する事が出来た。


信長は、この様な地理的重要性を見抜いて、安土築城を決したに違いない。同年4月からは石垣が築かれ始め、その中でも津田坊が運んできた蛇石は異彩を放つ巨石で、1万人余の人夫が3日がかりで、ようやく天主台まで引き上げる事が出来た。この時、信長自らが音頭を取って石を引き上げた事が、「信長公記」に書かれている。しかし、現在、この蛇石は幾度に渡る発掘調査でも発見されていない。安土城は、城域全てに石垣が施された、日本初の総石垣の城となる。また、城郭はおろか、城下町までをも取り囲んだ惣構(そうがまえ)も築かれていたと見られている。



天正7年(1579年)5月11日、完成した天守閣に、信長は吉日を選んで移り住んだ。これをもって、安土城は完成となった。天守閣の構造は地上6階地下1階、外観は5重の望楼型天守で、上から金、朱赤、青、白、黒に塗り分けられていた。この前代未聞の天守閣を手掛けたのは、尾張で熱田神宮の宮大工棟梁を務めていた岡部又右衛門以言(これとき)で、息子の以俊(これとし)と共に指揮を取って築き上げた。信長はその出来に満足して、以言に日本総天主棟梁の称号と小袖を与えた。瓦は金箔貼りで、内部は黒漆塗り、各部屋は狩野永徳の手による華麗な障壁画に彩られていた。


安土城天守閣は、日本の最高権力者の居館にして、当時の芸術文化の粋を集めた一大美術館でもあった。安土城の大手道は、幅6メートル長さ180メートルの直線構造となっており、この石段を登って行く者は、常に天守閣を見上げる形となる。この様な構造は、防御面では問題があるが、信長の力を視覚で感じる事となり、政治面、統治面においては効果的であった。総石垣に華麗な天守閣、それは余程の権力と財力がある者にしか築く事は出来ない。当時、この様な城を築ける者は信長以外にはおらず、その権力と独創性は他を圧していた。しかしながら、安土城の命脈は短かった。



天正10年(1582年)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反を受けて、本能寺にて横死する。変後、光秀は部将の明智秀満を派遣して安土城を接収させるも、自らは6月13日に起こった山崎の戦いで敗死した。6月14日、光秀の敗北を知った秀満は安土城を退去し、6月15日、坂本城にて自害した。同15日、安土城は炎上し、華麗なる天守は夢幻の如く消え去った。完成から僅か3年後の出来事であった。この原因についてははっきりせず、明智秀満が放火した、信長の次男、信雄が放火した、または付近の野盗が放火したとの説が取り沙汰されている。


ただ、焼け落ちたのは天守と本丸周辺だけのようで、二の丸などは健在であったようだ。清洲会議の後、信長の孫、秀信が入城し、二の丸を中心に生活したようだが、天正12年(1584年)に丹羽長秀が再建した坂本城に移り住んだ。天正13年(1585年)8月、羽柴秀次が近江国5郡43万石の大名として入封すると、八幡山城を築いてそこを居城とした。その際、安土城の資材が転用され、城下町も移築されて、廃城となった。もし、信長が長生きしていたなら、天守は尚も輝き続け、城下は日本有数の都市に発達していたかもしれない。だが、それもまた夢幻となった。




安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑大手道

かつては、天守閣の偉容を見上げながら登っていたはずです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、羽柴秀吉邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、前田利家邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑黒金門跡



安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑織田信長廟

彼の夢と魂はここに眠っているのでしょうか。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守台

かつては、テラスの様な張り出しがあって、そこから信長が観衆に声をかけたりしたそうです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守閣の礎石


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑摠見寺(そうけんじ)跡から、西を望む

かつては、安土山の麓まで琵琶湖が広がっていました。湖水に浮かびつつ、夕日を浴びた安土城の姿は、比類なき美しさであったそうです。



摂津滝山城

滝山城は、兵庫県神戸市中央区にある山城である。



滝山城の正確な築城年代は定かではないが、南北朝時代の正慶3年(1333年)、赤松則村(円心)が、生田の布引の城に篭もったとの記述が「正慶乱離志」にあり、これが史料上の初見となる。だが、当時は砦の様な作りであったろう。これを大規模な山城に造り替えるのは、戦国有数の梟雄として知られている、松永久秀である。畿内の大大名、三好長慶は、摂津西部を押さえる拠点として滝山城を選び、ここに重臣の松永久秀を配して城を改修させた。縄張り(城の設計)をしたのは久秀であろう。本丸がある316メートルの最高所を中心として、郭(くるわ)を何重も連ね、更に当時としては先進的な石垣も一部、用いられていた。「細川両家記」によれば、弘治2年(1556年)7月10日、久秀は、主君、長慶を滝山城に招いて、歌舞音曲、千句会、能をもってもてなしたとある。


滝山城の麓には風光明媚な布引の滝が流れており、更に大きな居館なども築かれていたと思われ、それらをもって来賓をもてなしたのだろう。この華やかな宴が催された時こそ、滝山城の全盛期であった。しかし、永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶が死去すると、三好家は、三好三人衆派と松永久秀派とに分裂して内戦が勃発し、滝山城もその争乱に巻き込まれる事となる。永禄9年(1566年)2月、三人衆派は、滝山城に攻撃を仕掛けるが、城の守りは固く、一度は撃退された。この時の城将は不明で、久秀が在城していたかどうかは定かではない。三人衆派はその後も包囲も続け、増援を受けて総攻撃を行い、同年8月17日、ついに城を落とした。滝山城の落城は、久秀の衰勢を決定付けるものであった。この後、三人衆派の篠原長房が城主として入った。


永禄8年(1568年)、織田信長が上洛を開始すると、三好三人衆はそれに敵対して、畿内各地で交戦状態となった。三人衆派は劣勢で京から追われ、更に一大拠点である摂津芥川山城も落とされるに到った。そのため、滝山城の長房は城を放棄して四国に撤退した。その後、滝山城は、信長の重臣で、摂津一国を任された荒木村重の持ち城となった。ところが、天正6年(1578年)10月、村重は摂津一円を上げて、信長に反旗を翻す。この時、本城の有岡城と重要な支城に戦力を集中するため、滝山城は放棄された模様である。しかし、織田軍は滝山城を接収すると、村重方の支城である、花隈城攻略の拠点として用いたようだ。天正7年(1579年)11月19日、村重は本城である有岡城を失うも、支城の尼崎城に拠って尚も抵抗を続けた。しかし、尼崎城も落ち、最後に残った花隈城も、天正8年(1580年)7月2日、織田方の池田恒興の攻撃を受けて落城するに到り、2年近くに渡った荒木村重の乱は終息した。そして、滝山城も役割を終える形となり、人知れず山林に埋もれていった。




摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑登り口


新神戸駅を正面から見て、一階、右側の通路を進んで行くと、ほどなくしてこの標識が出てきます。ここから滝山城へと登って行きます。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑曲輪(くるわ)跡


最初に出てくる曲輪で、本丸まではまだまだ距離があります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑登山道脇の急傾斜


写真では伝わり難いですが、城の両側はかなりの急傾斜でした。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑曲輪跡


この辺りから、城の中枢部となります。所々で、石が散らばっていたので、昔は石垣が組まれていたと思われます。天正9年(1581年)、兵庫城築城の際、滝山城の石垣が、転用されたと云われています。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑堀切


深く、大きな切れ込みでした。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑曲輪跡


堀切からは、大掛かりな曲輪が連続します。久秀は三好氏の重臣として、この城を預かっていましたが、一家臣の城と言うより、大名級の居城の様に感じました。久秀の地位と、力の程が窺えます。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑本丸


奥の一段高い所に、石碑があります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑本丸最高所


本丸周辺は樹木に覆われており、残念ながら、眺望はほとんど望めません。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑滝山城からの眺め


滝山城から下りつつ、布引きの滝へと進んでいくと、途中に樹木の切れ目があって、そこから神戸市街が見渡せました。神戸の港と、麓の街道を押さえる重要な城であった事が分かります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑滝山城遠望



布引の滝
布引の滝 posted by (C)重家

↑布引の滝、雄滝(落差43メートル)


水量豊富な、美しい滝です。松永久秀や三好長慶もこの滝を眺めて、酒を飲んだり、歌を詠んだりして楽しんだ事でしょう。



布引の滝
布引の滝 posted by (C)重家

布引の滝、雌滝(落差19メートル)


雌滝は、雄滝より下流にあって、小振りで大人し目の滝です。


滝山城は規模が大きく、山城好きの人なら十分、楽しめるでしょう。それと、すぐ近くには見応えのある布引の滝もあるので、合わせて見る事をお勧めします。

篠山城、再訪

篠山城は、兵庫県篠山市にある平山城です。


慶長14年(1609年)、関ヶ原合戦を経て、天下の権を握りつつあった徳川家康は、今だ大坂にて隠然たる勢力を有している豊臣家を警戒し、山陰道の要衝である丹波篠山の地に城を築く事を命じた。豊臣家を包囲する事が主目的であるが、西国大名に対する抑えの意味合いもあった。縄張奉行(城の設計者)となったのは、戦国有数の築城名人として知られている藤堂高虎で、普請総奉行(総監督)となったのは、家康の娘婿で、これまた築城に長けた池田輝政であった。築城は天下普請と呼ばれる大掛かりなもので、西日本の15カ国、20の大名と、総勢8万人もの人夫が動員された。工事は、慶長14年(1609年)3月9日の鍬入れから始まり、同年10月5日に奉行が帰国したとあるので、この頃におおよその工事が終わり、同年12月21日には人夫が皆、帰路に着いたとあるので、この頃に仕上がったのだろう。


並の大名ならば数年掛かりであったろうが、天下人、家康の御声掛かりによる大動員で、僅か9ヶ月余で完成を見たのだった。篠山城の規模は決して大きくはないが、整った方形に二重の堀、総石垣の外観は、まさに近世城郭といった趣で、この城が持つ堅固さの現れでもあった。初代城主となったのは、徳川譜代である松平康重で、以後も、別家の松平氏や、青山氏といった徳川譜代が、代々、城主を務めた。明治の世を迎えると、城内の建物のほとんどは破却されたが、唯一、大書院だけは残された。その大書院も昭和19年(1944年)1月に焼失してしまうが、平成12年(2000年)3月に、古地図、古写真、発掘調査を元にした、伝統工法によって再建された。





篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑枡形

敵の動きを妨げるための、方形の広場。




篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑大書院

中には、狩野派の屏風絵などが展示されています。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑篠山城の模型

中にある展示品は、一部、フラッシュ禁止がありますが、基本的に撮影可能との事でした。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑上段之間

最も格式の高い部屋です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑手前の広場が二の丸で、奥の一段高い所が本丸



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣

立派な石垣ですが、実際には天守閣は築かれなかったとの事です。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台からの眺め

前方に見える山は高城山(標高460メートル)で、丹波の戦国武将、波多野氏が築いた八上城がありました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑埋門(うずみもん)

非常時には埋めたてられ、石垣と一体化して遮断されます。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑堀際から見た天主台

内堀の石垣は、見た目が綺麗なので、最近、補強されたものの様です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑北堀

篠山城の外堀で、非常に広大でした。


篠山城の付近には多くの土産物屋、料理屋が立ち並んでいて、散策するにはもってこいでしょう。それと時間があれば、八上城にも登ってみては如何でしょう。篠山城には、華やかな江戸時代的な雰囲気が漂っていますが、八上城には、どこか物悲しい戦国の雰囲気が残っています。




芥川山城

芥川山城は、大阪府高槻市にある山城です。


芥川山城は、永正12年(1515年)頃、摂津北部の豪族、能勢頼則によって築かれたのが最初とされる。大永4年(1524年)、室町幕府の菅領で大実力者である細川氏が、高国と晴元とに分かれて、内部抗争していた際、能勢氏は、高国に味方したものの、晴元派の攻勢を受けて、没落した。天文2年(1533年)、権勢を増した細川晴元は芥川山城に入城し、自らの持ち城とするが、やがて家臣の三好長慶の力が増してきて、天文16年(1547年)には、長慶の持ち城となった。長慶は、一族の芥川孫十郎を城主として入れたが、天文22年(1553年)、孫十郎が細川晴元に呼応して謀反したので、これを攻め落とし、以後は自らの居城として用いた。それから7年間、長慶は芥川山城を本拠として、勢力拡大に努めた。この長慶時代に芥川山城は拡張され、摂津有数の大城郭に変貌を遂げる。


永禄3年(1560年)、長慶は、河内の飯盛山城に本拠を移し、芥川山城には嫡男の義興を入れた。しかし、永禄6年(1563年)、義興は若くして病死したので、代わって一族の三好長逸が入った。永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると、三好長逸はこれに敵対したので、攻撃を受けて城を追われ、代わって信長の部将、和田惟政が城主として入った。永禄12年(1569年)、惟政は功績を挙げて高槻城を与えられ、以後はここを居城として、芥川山城には家臣の高山友照を入れた。元亀2年(1571年)、惟政は討死し、その子の惟長が継いだものの、元亀4年(1573年)、高山友照、重友父子によって、惟長は追放された。高山父子は高槻城を接収すると、ここを居城とした。それに伴って芥川山城は廃城となり、短い歴史に幕を閉じた。




摂津峡

摂津峡 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

川の奥にあるのが三好山で、そこに芥川山城が築かれていました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

摂津峡が天然の堀となっており、斜面も急峻で、これまた天然の石垣の役割を果たしています。


芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

芥川山城では、所々で石垣が見られましたが、これが築城当時のものかどうかは不明です。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土橋跡

道の両側は掘削されて、堀切りになっているようでした。この他にも、何重もの郭の跡が見られました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土塁

写真では伝わり難いですが、結構な高さがあります。この上が本丸になります。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

ここが城の最高所で、発掘調査によれば礎石の跡があって、御殿の様な建物が建てられていたとの事です。なので三好長慶は、普段はここに住んでいたのでしょう。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

下には、摂津峡が流れています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から東を望む

高槻市街が広がっています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑水場

水汲み場と思われます。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

なかなか立派な石垣でした。これが戦国期に築かれたものならば大したもので、畿内を制した三好氏の力の程が窺えます。

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