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ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 1

1945年4月26日、第二次大戦末期、ドイツの首都ベルリンは、圧倒的なソ連の大軍によって包囲され、破滅の時を迎えようとしていた。市街を守るのは、損耗しきった国防軍と武装SSの残存部隊4万5千人余に、陸に上がった水兵、警察官、ヒトラーユーゲントの少年兵、婦人や老人を含む国民突撃隊4~5万人余であった。それに対して、ソ連軍は150万人余の兵力でベルリンを包囲し、その内45万人余を市街戦に投入した。市民は、4月上旬の時点で300万人余がベルリンに残っており、その相当数が包囲網に捕われた。そんな中へ、ソ連軍は凄まじいばかりの砲爆撃を加える。建物は次々に崩壊し、市民は吹き飛ばされ、街はたちまち瓦礫と死体によって埋め尽くされていった。


兵士や市民達は心身共に疲弊しきっており、最早、敗北は免れないと悟っていたが、それでも戦う姿勢を見せねばならなかった。何故なら、移動軍法会議のSS将校が、脱走兵や、臆病者と見なした市民を捕らえては、街灯や並木に吊るして次々に処刑していったからだ。これらの死体には、「私は卑怯者でした」との札がかけられ、見せしめとして市内の到る所に吊るされた。ベルリンは、この様な惨状をきたしていたが、ドイツの総統ヒトラーはまだ健在だった。だが、彼の直接支配する土地は、最早、市街の中心部を占めるに過ぎず、そこにもソ連軍が激しい銃砲火を浴びせつつ、着実に接近していた。そんな市街戦の真っ只中に、一機のドイツ軍航空機が現れた。その機体はシュトルヒと呼ばれる小柄な偵察連絡機で、2人の搭乗者が乗り組んでいた。1人は、リッター・フォン・グライム空軍大将、もう1人は女性飛行士ハンナ・ライチュであった。


操縦者であるグライム大将は、ブランデンブルク門上空から着陸の機会を窺っていたが、無数の対空砲火を受けて機体の底面をはがされ、右足に重傷を受けた。グライムは意識を失って操縦不能となり、機体は墜落するばかりとなったが、後席のライチュは肩越しに操縦桿を握り、必死に操縦してじりじりと高度を下げ、東西幹線道路に何とか機体を着陸させる事に成功した。そこにもすぐ様、銃砲火が降り注いできたが、ライチュは意識の無いグライムを背負って退避する。そして、ブランデンブルク門を抜けたところで、通りがかった軍の車に拾い上げられ、窮地を脱する事が出来た。車は2人を乗せて、ヒトラーのいる地下壕に向かった。4月26日19時前後、2人は地下壕に到着し、そこでゲッベルス(ドイツの宣伝相)夫人マクダの出迎えを受けた。マクダは、ヒトラーを見捨てる者が多く出ているこの状況で、命懸けで会いに来た2人の勇気と誠実さに、感嘆の意を表した。


グライムはすぐ様、手術室に運ばれ、ヒトラーの侍医の手当てを受けた。そこへヒトラー本人が現れ、グライムに深い感謝を述べると共に、何故、グライムを呼んだのかを説明し始めた。そして、ヒトラーは目に涙を浮かべながら、腹心である、ゲーリングが自らの指示に反して逃亡し、勝手に連合軍と接触を図ったのだと語った。ライチュによれば、この場面は感動的かつ、劇的であったようだ。ヒトラーは、「最後通牒だ!厳しい最後通牒だよ!もう何も残っていない。私は何からも逃れようが無い。忠実な者などいなくなり、いかなる名誉も残っていない。私に降り掛かってきたこんな絶望は、誰も味わった事が無い!」と叫んだ。ヒトラーはしばらく自分を取り戻せず、言葉も発せなかったが、やがて、細い声で、「帝国を裏切ったかどで、ゲーリングをすぐさま逮捕してやる。私は彼の全ての称号を剥奪し、あらゆる職務を解任した。だから君を呼んだのだ。私は、君をゲーリングの真の後継者とし、空軍総司令官に任ずる。ドイツ国民の名において、私は君の手を握ろう」と告げた。


グライムとライチュは、ゲーリングの裏切りという情報にひどく驚かされたものの、ヒトラーの手を握って、「地下壕に残って、ゲーリングによってもたらされた、総統やドイツ国民、空軍に対する大きな災厄を自分達の命をもって償いたい」と申し出た。それによって、飛行士達の名誉、空軍の名誉、国家の名誉が守られると見なしたからである。ヒトラーはその決意に満足し、「君達は残っても良い。君達の決意は空軍史上、決して忘れ去られる事は無いであろう」と言った。この夜、ヒトラーはライチュを自室に呼んで、「ハンナ、君は私と共に死にたいと望む者の1人だ。私達はそれぞれ、こういう毒の小瓶を持っている」と言って、ライチュとグライムのための小瓶を手渡した。そして、「私達の内の誰かが、ロシア人の手に落ちるなど考えたく無いし、彼らによって、私達の遺体が発見される事も望まない。それぞれが、身元を特定される物を残さないように、自分の遺体の処分に責任を持つ。自分で方法を考えてくれ。それをフォン・グライムにも伝えてくれるね」と言った。


ライチュは、ヒトラーが敗北を悟っている様子に衝撃を受け、涙を流して椅子に腰を落とした。そして、ヒトラーにドイツと国民のため、生きてベルリンを逃れ出るよう懇願したが、ヒトラーは最後までベルリンに留まるとの決意を変えなかった。4月26日から、27日にかけての深夜、総統官邸に向けて、初めて大規模な集中砲火が浴びせられた。重砲弾の炸裂音が地下壕の真上で響き渡り、誰もが極度に緊張して、顔を引きつらせた。ライチュは地下壕で過ごしていた時、グライムの看病に追われていたので、他の人々と付き合う暇はほとんど無かった。だが、ゲッベルスの部屋は隣でドアも開け放しであったので、彼の様子は否応なく観察する事が出来た。ゲッベルスの部屋は狭いが豪華な造りで、彼はそこを大股で歩き回っては、ゲーリングに激しい非難の言葉を浴びせかけていた。


次には、演壇に立っているかのように熱弁を振るい始めた。「私達は、己の名誉のためにどのように死んでいくかを世界に知らしめよう。そして、私達の死は、全てのドイツ人にとって、また、友人達にとっても敵達にとっても同じように、永遠の模範となるだろう。私達の行動が正しかった事、自分の命を賭けて世界をボリシェヴィキから守ろうとした事は、何時の日か全世界が認めるであろう。何時の日かそれは、永遠に歴史に刻まれる事になろう」。ゲッベルスの話はいつも、「名誉」、「いかに死に」、「いかに総統に忠実であるべきか」、「歴史の項の上に、聖なるものとして末永く光り輝く模範」についてであった。ライチュが見たところ、ゲッベルスの演説はいかにも芝居がかっていて、中身の無い軽薄なものに聞こえた。昼夜違わず、隣から聞こえてくるこの演説を聞くたび、ライチュとグライムは、「あれが、我が国を指導していた人達なのか」と悲しげに首を振るのだった。


ゲッベルス夫人マクダは、時にさめざめと泣き出す事はあったが、ほとんどの場合、自制心を失う事は無かった。彼女がいつも心配していたのは、13歳から4歳までの6人の子供達の事であった。マクダは子供達の前では常に優しく、陽気に振舞っていた。しかし、彼女は、滅び行く第三帝国に殉ずる事を決意しており、帝国が存在し得ないならば、子供達も連れていく心積もりであった。それが、敗北の後に襲ってくるであろう、災厄からの救済の道だと考えていた。マクダは、その時が来て決心が鈍ったなら、ライチュに力添えをしてくれるよう頼んだ。ゲッベルスの6人の子供達は、薄暗く、絶望的な雰囲気が漂う地下壕において、唯一の明るい光であった。地下壕に住む皆が、子供達に気をかけ、彼女らがなるべく快適に過ごせるよう努力していた。ライチュも子供達の前で、飛行機についての話や、自分が訪れて来た場所や外国の国々についての話を聞かせた。マクダは、そんなライチュに感謝していた。


ヒトラーの愛人、エヴァ・ブラウンは美しい女性であったが、知的水準はあまり高くないように感じた。それでもヒトラーにあくまで忠実で、献身的であった。柔和で政治に口出しせず、相手に合わせる事の出来るエヴァは、ヒトラーに安息を与える存在だった。4月15日、エヴァは、ヒトラーと運命を分かち合うために、ベルリンにやってきた。ヒトラーからは立ち去るよう命令されたが、エヴァはこれを拒否して居残った。彼女は、自身の時間のほとんどを、爪を磨いたり、服を着替えたり、髪を整えたりして、女としての身繕いに当てていた。ヒトラーがいる所ではいつも魅力的で、彼がくつろげるよう最大限、気を使っていた。


しかし、ヒトラーがいない所では、彼を見捨てた恩知らず共をみんな殺すべきだと語った。エヴァによれば、唯一良いドイツ人とは、今この瞬間、地下壕にいる人々だけで、その他の人々は、総統と共に死ぬためにここにいないと言うだけで皆、裏切り者なのであった。ライチュによれば、彼女の言う事は何もかも子供じみているように感じた。そして、エヴァは常々、「可哀想な、可哀想なアドルフ。皆が彼を見捨てて、皆が彼を裏切った。彼が失われるくらいなら、他の何万人が死んだ方が、ずっとドイツの為になるわ」と口にしていた。


ヒトラーの側近で、その取次ぎ役として権勢を振るっていたボルマンは、地下壕ではほとんど動く事なく、いつも自分の机に向かっていた。そして、今この瞬間の出来事を、未来の世代のために記録すべく、一つ一つの発言、行動を日記に記していった。ヒトラーと接見した人物があれば、人々のもとを訪れ、その会話の正確な内容を尋ねた。そして、地下壕で起こった出来事を細大漏らさず、記録にしていった。ボルマンによれば、その記録によって、ドイツ史の最も偉大な各章の間に、己の場所を占める事が出来るからであった。(ボルマンは非常に権力欲旺盛な人物で、ドイツが末期的状態にあっても、尚も権力の独占を目論んでいた。去る4月23日、ゲーリングが、「総統の行動の自由が奪われたなら、私が指揮権を引き継ぐ事を了承してくださいますか?」とベルリンに電報を送ったところ、ボルマンは彼を陥れるべく、反逆を企てているとヒトラーに吹き込んだ。これをヒトラーが信じた結果、ゲーリングは解任されたのだった。 )





↑ソ連軍によって包囲されるベルリン





↑パンツァーファウストの訓練を受ける婦人 ベルリン戦の一こま




↑国民突撃隊 ベルリン戦の一こま

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津山城、再訪

津山城は、岡山県津山市にある平山城です。



津山城の始まりは、室町時代の嘉吉年間(1441~1444年)に、美作国の守護大名である、山名氏が築いたのが最初とされる。城は、津山盆地の中央にある丘陵(鶴山)に築かれたが、当時は砦のような造りであったろう。だが、応仁の乱を経ると山名氏は衰退し、城も打ち捨てられた。それから100年余の時を経て、慶長8年(1603年)、江戸時代の大名、森忠政(森長可、森乱丸の弟)が津山藩18万6千石として入封すると、恒久的な統治拠点として鶴山の地を選定し、翌慶長9年(1604年)より、本格的な築城を開始した。そして、この頃、城地は鶴山から津山に改められた。元和2年(1616年)、13年の歳月を経て、城は完成した。かつての古城跡は、面目を一新して総石垣の近世城郭となり、五層の天守閣を中心に77棟もの櫓(姫路城は61棟)が巡らされた。


忠政は更に、城下町の整備と発展にも努め、現在の津山の原型を作り出した。この様に津山の発展に力を注いだ森氏であったが、元禄10年(1697年)に改易となって、領地は召し上げられてしまう。元禄11年(1698年)、徳川家の親藩である、松平宣富(まつだいら のぶとみ)が10万石で入封し、以後代々、明治の世を迎えるまで、松平氏が城主を務めた。明治初期には、壮大な城郭を写した写真も撮られているが、明治6年(1873年)に施行された廃城令を受けて、翌明治7年(1874年)より解体が始まり、天守閣、櫓、壁などは悉く破却された。城は石垣を残すだけとなったが、平成17年(2005年)に備中櫓が復元され、現在、津山城の象徴的存在となっている。ここは桜の名所としても知られており、春を迎える度、大勢の人々で賑わいを見せる。





津山城
津山城 posted by (C)重家



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑切手門跡



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


津山城
津山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑天主台から北を望む



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑南を望む



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑東を望む


津山城
津山城 posted by (C)重家

↑北面の高石垣



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑天主台を望む



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑備中櫓


私が訪れた時には、既に桜は散りかけでしたが、それでも壮大な石垣と相まって見応えはありました。今回、開門早々に入城したので、人は少なく、落ち着いて散策出来ました。昼頃になると、大勢の観光客に加えて、あちこちにブルーシートが布かれるので、景観がいまいちになると思います。

佐和山城

佐和山城は、滋賀県彦根市にある山城です。



佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代に地元の豪族、佐保時綱によって砦が築かれたのが最初とされる。室町時代には近江守護、六角氏の持ち城となり、その家臣である小川氏が入ったが、戦国時代になると、佐和山城は、北近江から勃興してきた浅井氏の手に落ちた。1560年代、浅井長政は、ここに武勇に長けた磯野員昌(いその・かずまさ)を入れて、近江南部への進出を図った。しかし、元亀元年(1570年)4月、長政は、織田信長に敵対して背後を襲ったので、同年6月28日、姉川にて復仇戦を挑まれた。この戦いで浅井軍の磯野員昌は奮戦し、織田軍の陣を幾つか抜いたものの、最終的には数に勝る織田軍の前に敗れ去った。


敗北後、員昌は佐和山城に撤退したが、横山城が織田軍の手に落ちた事から、浅井家の本拠、小谷城との通路が切断され、敵中に孤立する形となった。ここから員昌は8カ月に渡って篭城を続けたものの、救援は無く、元亀2年(1571年)2月24日、織田家に降伏するに到った。これで、浅井家は近江南部への足掛かりを失い、小谷城周辺に押し込められて、やがて滅亡を迎える事となる。逆に信長にとっては、岐阜と京都を結ぶ回廊を手にして、領国に安定をもたらす結果となった。信長は、この交通の要衝たる佐和山城に、重臣の丹羽長秀を入れた。信長は、天正7年(1579年)5月11日に安土城を築き上げるが、その最も近い位置にいる重臣が丹羽長秀であった。信長の信頼の篤さの程が窺える。だが、天正10年(1582年)6月2日、信長は本能寺の変にて横死し、山崎の戦いを経て、同年6月27日に行われた清洲会議で、佐和山城は堀秀政に与えられた。


天正13年(1585年)、堀家は越前に転封され、代わって堀尾吉晴が入封した。天正18年(1590年)、堀尾家は遠江に転封され、代わって石田三成が入城し、文禄4年(1595年)になって、19万4千石の所領を宛がわれた。三成は、佐和山城に大改修を加えて、総石垣の上に、5層(3層とも)の天守を築き上げ、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と歌われるほどの大城郭となった。だが、城内は到って質素で、部屋は板張りで、壁はあら壁のままであったと云われている。慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成は破れ、佐和山城も東軍によって囲まれた。三成が不在であったため、父の正継を中心に2800人余の人数が立て篭もった。


同年9月18日、城方は、万余の東軍の猛攻によく奮戦するも、城将の長谷川守知らの裏切りを受けて東軍の侵入を許し、落城に追い込まれた。これを受けて、正継を始めとする石田一族は次々に自害して果てていった。東軍に従軍した者によれば、城内に金銀の蓄えはほとんど無かったとされている。同年、徳川家の功臣である井伊直政が、北近江18万石の領主として入封し、佐和山城に入った。その後、井伊家は彦根城の築城を開始し、慶長11年(1606年)に工事が中ほどまで完成したところで、こちらに移り住んだので、佐和山城は廃城となった。この築城の際、佐和山城の資材が持ち運ばれたのと、西軍の巨魁、三成の居城であった事から、徹底的に破壊され、遺構のほとんどは消え去った。現在、彦根城は、観光の城として大いに賑わっているが、そこから見える佐和山城は緑の山林に埋もれ、多くの歴史を秘めながらも、ほとんど忘れ去られた形となっている 。





龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑清涼寺とその奥に佐和山城

清涼寺は彦根藩主井伊家の菩提寺で、初代藩主井伊直政を始めとする歴代藩主の墓が安置されています。石田三成が統治していた頃には、その家臣である島左近の屋敷があったそうです。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺(りょうたんじ)

佐和山城へは、東の国道8号線佐和山トンネル付近からと、西側の龍譚寺の二ヶ所から登れます。大手口があるのは国道8号線側ですが、今回は電車で来たので、彦根駅から近い龍譚寺側から登りました。龍譚寺の境内から墓場を抜け、そこから山道を登って行きます。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑塩硝櫓跡(えんしょうやぐらあと)

塩硝とは火薬の原料の事なので、ここに火縄銃の火薬庫があったのでしょう。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸は思っていたより広々として、眺めも良かったです。ここからは琵琶湖や彦根城、伊吹山が望めました。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑彦根城


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑伊吹山とその右手には関ヶ原

佐和山城は、東の関ヶ原方面から攻め上がってくる敵を迎え撃つのに最適な位置にあります。実際、東側に堀が廻らされて、堅固な構えとなっていました。近江北東部は日本有数の交通の要所であり、石田三成がこの地を任されたというだけで、その高い器量と、豊臣秀吉からの篤い信頼を窺い知る事が出来ます。関ヶ原戦後、天下を取った徳川家康もこの地の重要性を理解しており、家中第一の功臣である井伊直政に近江北東部を委ねています。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸から南を望む

山麓には、何やら怪しげな復元天守閣が建っていました。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸跡に咲く花

関ヶ原の戦いの後、勝ちに乗じた東軍によって佐和山城は攻め落とされ、多くの石田一族が命を落としていきました。その無念の魂を、可憐な花が慰めているかのようでした。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺の庭園

佐和山城を登った後、龍譚寺の庭園を見学しました。閑静な佇まいで、鳥の鳴き声以外に聞こえるものは無く、心が落ち着きました。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺の庭園

先の清涼寺と同じく、この寺も井伊家の菩提寺ですが、石田三成にまつわる資料も多く展示されていました。

隠れた殊勲艦、駆逐艦「浜風」

第二次大戦時の日本駆逐艦で、現在、最も名が知られているのは、陽炎型駆逐艦の「雪風」であろう。「雪風」は開戦当初から太平洋の激闘に身を投じ、武勲を上げつつ、終戦まで生き抜いた幸運艦である。だが、それ以外にも隠れた偉大な功績を上げた駆逐艦が存在していた。それが、同じく陽炎級の駆逐艦「浜風」である(正しくは濱風)。



「浜風」は陽炎級駆逐艦の13番艦として、昭和14年(1939年)11月20日に起工され、昭和16年(1941年)6月30日に竣工した。

●完成当初の性能要目 基準排水量2千トン 

全長118・5メートル 

全幅10・8メートル 

最大速力35ノット 

航続距離18ノットで5千海里

乗員239名

●兵装

12・7センチ50口径連装砲3基 

61センチ4連装魚雷発射管2基 

25ミリ連装機銃2基 


戦訓を受けて対空火力の脆弱さを痛感すると、昭和19年(1944年)には後部2番目の12・7センチ砲を撤去して、そこに対空機銃を増備している。昭和20年(1945年)4月の最終時には、25ミリ3連装機銃4基、連装1基、単装が多数搭載された。機銃の増備に加え、電探や水測機の搭載に伴って、乗員は357人に増員されている。



「浜風」の戦歴は、日本海軍の主要海戦のほとんど全てに加わっていたと言えるほど豊富である。まず太平洋戦争開幕となる真珠湾攻撃から始まって、南洋のラバウル攻略、インド洋のセイロン沖海戦、運命のミッドウェー海戦、カ号作戦(ガダルカナル島への輸送任務)、南太平洋海戦、ラエ輸送作戦、ガダルカナル島陸兵輸送作戦、ケ号作戦(ガダルカナル島からの将兵撤収作戦で、浜風は第一次、第二次、第三次の全てに加わっている)、クラ湾夜戦、コロンバンガラ夜戦(この時、浜風は他3隻の駆逐艦と協力して敵巡洋艦3隻を大破、駆逐艦1隻を撃沈している)、第一次ベララベラ海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、坊ノ岬沖海戦(戦艦大和の特攻)など、常に最前線に立ち続けた歴戦の艦である。



だが、「浜風」が挙げた功績の中で最も特筆すべきものは、沈没艦船からの乗員救出数である。戦艦武蔵904人、戦艦金剛146人、空母信濃448人、日竜丸36人、安洋丸5人を合わせて1,539人、この他、正確な人数確認は不明ながら空母赤城、空母蒼龍、駆逐艦白露、空母飛鷹(ひよう)から乗員1,500人余を救助している。それから浜風は、ガダルカナル島からの将兵撤収作戦にも加わっていて、そこから3千人余の兵員を収容している。全てを合わせると、およそ6千人もの人員を救助しているのである。これは「浜風」の隠れた偉大な功績である。



初代艦長は折田常雄中佐で、昭和16年(1941年)6月から、昭和17年(1942年)7月20日まで指揮を執った。同7月20日からは、上井宏少佐が艦長に着任し、昭和18年(1943年)9月22日まで指揮を執った。上井艦長は短気で口やかましく、部下がちょっとしたミスを犯しても、すぐに殴り飛ばした。容赦の無い烈々たる人物だったが、操艦は巧みで戦上手であった。乗員達は艦長を恐れながらも、その戦闘指揮には全幅の信頼を置いていた。実際、「浜風」はソロモン諸島の激戦に度々参加していながら、被害らしい被害をほとんど受ける事なく任務を全うしている。名艦長と謳われた上井宏艦長が退任した同日、前川萬衛(まえかわ まんえい)中佐が着任して、昭和20年(1945年)4月7日の大和特攻まで指揮を執る事になる。この前川中佐は前任者とは正反対で、細かい口出しは一切せず、部下を殴り飛ばす様な真似もしなかった。飄々とした風貌をしていたが、人情味があって、ここぞと言う時には剛胆さを発揮した。



武蔵、金剛、飛鷹の乗員を救助した際には、夜間、敵潜水艦の雷撃に晒される危険があっても、探照灯を照射して、可能な限りの人命救助に努めた。また、日中も同様で、艦を停止させて救助を行うのだった。1944年6月20日、19時32分、マリアナ沖海戦において、空母飛鷹が敵潜水艦の雷撃を受けて沈没すると、「浜風」は他の駆逐艦と協力して乗員救助に当たった。既に日は没しており、前川中佐は探照灯で海面を隈無く照らし出して、乗員発見に努めた。そして、漂流者の集団を見つけると、スクリューで人を巻き込まないよう、艦を風上に停止させ、風圧でゆっくりと艦を進ませた。風下の舷側にはロープが何十本も垂らしてあって、そのロープには、人の胴体が入るほどの輪が作られてあった。そして、輪をくぐった者を手当たりしだいに引き上げていくのだった。



こうして大集団を効率良く回収していったが、まだ付近の海上に漂流者が散らばっていると、回収しきるまで粘り強く救助を続行した。そして、見張り員が、「あそこにいます!」と告げれば、何度でも何度でも艦をもっていった。しかし、「浜風」の乗員の中には、何時、敵潜の雷撃を受けるか気が気でならない者もいた。「浜風」の水雷長、武田大尉は、このまま時間をかけては、折角救助した漂流者だけでなく、本艦の乗員までやられてしまうのではないかと危惧した。そこで、「艦長、小の虫を殺して大の虫を生かすという諺(ことわざ)もあります。もうそろそろこの辺で、救助を切り上げてはいかがですか」と具申するも、前川中佐は、「水雷よ、ここに泳いでいる人達は、我々が助けなければ誰も助けてくれないだろう。艦がやられるかどうかは、これは運だよ。ともかく1人でも助けようではないか」と述べるのだった。これを聞いた武田大尉は迷いを打ち払い、救助を続行し、これからもこの艦長に身を預けていこうと決意するのだった。



昭和20年(1945年)4月7日、「浜風」は戦艦大和と共に沖縄特攻作戦の一員として参加する。 同日午後12時41分頃、「浜風」は、大和を護衛しつつ対空戦闘を行っていたが、左前方から接近してきた雷撃機に魚雷を投下される。ほぼ同時、左斜め後方から降下してきた急降下爆撃機2機に爆弾を投下されるも、直後に1機を撃墜した。「浜風」は、向かってくる魚雷は左に大きく舵を切ってかわしたが、急速回頭で艦尾が大きく右に振れたため、爆弾をかわし切れず1発が右舷艦尾に命中した。「浜風」の二番砲塔から後方の艦尾は切断され(半分千切れ、垂れ下がった状態であったようだ)スクリューと舵を失って洋上に停止してしまう。被弾から2分後(または5分以上後)再び雷撃機の編隊が現れて、4本の魚雷を投下した。魚雷3本はなんとか艦すれすれを通過していったが、残りの1本は艦中央に命中した。



巨大な水柱が湧き立って、艦は1番煙突と2番煙突との間で切断、つまり真っ二つに折れて、間もなく沈んでいった。沈没時刻は、4月7日午後12時50分であった。全乗員357人の内、100人が戦死したが、艦長の前川萬衛中佐以下257人は、生き残った駆逐艦によって救助された。轟沈と言ってよいほどの激しい沈み方であったにも関わらず、6割以上の乗員が助かったのは、まだ運が良かった方ではなかろうか。戦艦大和には、乗員3,332人が乗り組んでいたが、生還したのは276人(269人とも)に過ぎない。これまで多くの人命を救出してきた「浜風」の行為を天も評価し、なるべく多くの命を救い上げたのかもしれない。




↑駆逐艦「浜風」


主要参考文献、手塚正巳著「軍艦武蔵」上巻・下巻

日本駆逐艦の苦闘

駆逐艦、それは海軍の使役馬とも言える存在である。内燃機関が発達した19世紀末に登場して以来、敵艦攻撃、艦隊護衛、物資輸送、哨戒、乗員救助といったあらゆる任務をこなし、海軍を保持する国家にとって、決して欠かす事の出来ない艦種となっている。駆逐艦の特徴はなんといっても小型軽快で、高度な汎用性を有する点にある。海軍の華と言えば戦艦や空母であるが、圧倒的な攻撃力を有する反面、高価で数をそろえ難く、単独では潜水艦に対応出来なかった。その点、駆逐艦は安価で数を揃えやすく、攻撃力こそ低いが、対艦、対空、対潜とあらゆる脅威に対応可能であった。特に航空機と潜水艦の脅威が増した第二次大戦の海戦においては、駆逐艦は必要不可欠な存在となる。


だが、駆逐艦が有する小型軽快と言う長所は、短所とも表裏一体であった。 小型ゆえに荒天には弱く、居住性は劣悪で、航続距離も短かった。戦艦には20cmから40cmもの厚い防御装甲が施されているが、駆逐艦の外板は大抵、2cmにも満たなかった。防御力は無きに等しく、当たり所が悪ければ爆弾や魚雷の一発で轟沈(ごうちん)し、爆弾、砲弾の至近弾の破片、機銃弾を受けても艦体は穴だらけとなる。それを避けるには、駆逐艦ならではの軽快性を生かす他無かった。


駆逐艦が有する最も強力な兵器は、魚雷である。これを命中させる事が出来れば、大艦を屠る事も可能であった。しかし、この兵器は諸刃の剣でもあり、爆弾や砲弾の直撃を受ければ、誘爆を引き起こす危険性があった。実際、第二次大戦では、魚雷の誘爆を受けて幾隻もの駆逐艦が乗員諸共、爆沈している。また、駆逐艦は12cmクラスの砲塔と、潜水艦攻撃用の爆雷も搭載しているが、これらにも装甲は施されておらず、被弾すれば誘爆する恐れがあった。この様に駆逐艦とは、防御力の無い艦体に爆発物を満載した危険極まる艦でもあった。それでいて、常に最前線に立ち続けねばならなかった。


●駆逐艦と言う艦種の簡単な説明を終えたところで、ここから、第二次大戦における日本駆逐艦の働きや特長を紹介していきたい。


昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、その命名通り、広大な太平洋を舞台とする海軍主体の戦争となった。緒戦の日本海軍の活躍は目覚しく、瞬く間に広大な勢力圏を築き上げる事に成功する。この快進撃の主役となったのは日本の空母部隊であるが、その影では駆逐艦も重要な役割を果たしていた。空母部隊の威力は確かに絶大であったが、それでも広大な太平洋の海域全てを担当するのは不可能であり、代わって駆逐艦が各要所の制圧に当たっていた。日本海軍の作戦行動は駆逐艦によって支えられていると言っても過言ではなく、駆逐艦の乗員達も、太平洋での戦争は飛行機と駆逐艦でやっているとの強い自負があった。実際、太平洋で行われた主要な海戦のほとんどに駆逐艦は参戦しており、中でもソロモン方面での戦いでは、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見せた。その任務は、魚雷を抱いての敵艦攻撃、艦隊護衛ならびに船団護衛、沈没艦船の乗員救助、港や泊地の警戒、その高速を生かしての兵員、物資輸送と実に多岐に渡った。


日本海軍の拠点であるトラック島には、ソロモン海域で任務を終えた駆逐艦が戻ってくるが、前線では常に駆逐艦を必要としているため、休息もろくに与えられず、応急修理をして弾薬食料を補給すれば、すぐさま戦場に戻らねばならなかった。ソロモンで激戦が繰り広げられていた頃、南洋のトラック島には日本海軍が誇る戦艦、大和や武蔵も存在していた。しかし、大和型戦艦は1隻で駆逐艦10隻分の燃料を食うため、燃料不足の日本海軍では早々に動かす事は出来ず、大和、武蔵はトラック泊地に鋲泊したまま、ほとんど動かなかった。その一方、駆逐艦は整備する間もなく戦いに明け暮れていたので、どの艦も錆びつき、弾片を受けてささくれだっていた。駆逐艦乗員達は、まったく動く気配を見せない大和、武蔵を眺めては、大和ホテル、武蔵御殿などと陰口を叩きつつ、戦場に向かって行くのだった。駆逐艦は、東はハワイ諸島の近海まで、西はセイロン島近くのインド洋まで、北はアリューシャン列島近くの北太平洋まで、南はオーストラリア近くの南太平洋まで駆け回った。駆逐艦は消耗品扱いで酷使され、ほとんど知られる事なく、乗員諸共、海に消えていくのだった。


●駆逐艦での生活


艦船での生活は基本的に不便極まるもので、例え空母や戦艦などの大型艦であっても居住空間は狭苦しく、真水の使用も厳しく制限されていた。中でも、潜水艦や駆逐艦などの小型艦の居住空間は更に狭く、乗員は過酷な生活を強いられた。大和や武蔵には冷房、通風設備があったので熱帯の海でも比較的、過ごしやすかったが、駆逐艦には冷房など存在せず、赤道付近で任務に就いている駆逐艦は猛烈な熱気に苦しめられた。艦内は蒸し風呂の様な状態で、入った途端に油と乗員の体臭の入り混じった熱気に包まれる。鉄板は触れれば火傷しかねないほど熱せられており、その温度は夜になってもなかなか下がらないので、乗員は夜毎、交代で錨甲板に毛布を布いてごろ寝をしていた。日々の任務で汗と垢まみれになっても、真水の搭載量は微々たるものなので、入浴もままならなかった。


日本海軍の軍艦では、乗員は3日に一度しか入浴は許されず、それも洗面器にぬるま湯1ℓを3杯もらえるのみだった。これで体を洗って、洗濯もこなさねばならない。勿論、それで真水が足りるはずはないので、南国で活動している軍艦は、スコールを最大限、利用した。黒雲が艦の上空に差し掛かると、当直の士官は、「総員、スコール浴び方用意!」との号令を放送で流す。すると手隙の乗員は、褌(ふんどし)一つの裸体に、手拭いと石鹸を持って一斉に甲板に飛び出す。そして、滝の様な雨を浴びながら歓声を上げ、一心不乱に体を洗って、洗濯もこなすのだった。駆逐艦の水事情は更に悪く、泊地に戻って、大型艦から真水の供与を受けた時でしか、入浴できなかったとの話もある。


戦艦大和や武蔵などの新鋭艦は日本海軍の誇りであり象徴でもあるので、他の見本となるよう、艦内には厳正な軍紀が布かれていた。乗員は規則正しく行動する事を要求され、服装の乱れなど許されなかった。そして、木甲板はピカピカに磨き上げられ、艦内は隅々まで整理整頓が行き届いていた。初めて乗艦した者は、そうした光景を見て感銘を受けたものだが、どこか窮屈な息苦しさを感じるのも確かだった。だが、駆逐艦にはそこまで厳正な規則は布かれておらず、乗員は服に油染みや破れがあっても平気で着ていて、甲板作業も半裸に鉢巻、裸足で作業していた。また、駆逐艦の乗員はせいぜい200人、300人程度であるので、お互いの顔を覚えやすく、兄弟的な雰囲気があった。


広大な洋上で行動する以上、暴風雨との遭遇は免れない。数万tもある戦艦や空母などの大型艦は、海が荒れていてもゆったりとした動揺で、速力を落とす事なく航行する事が出来たが、2千t前後の駆逐艦ではそうはいかない。波に突き上げられると艦首は大きく持ち上げられ、続いて波が下がれば海中に没するかの様に沈み込む。上下に大きく振られるのを繰り返し、艦はまさに木の葉の様に翻弄される。こうなると乗員は立っているのもやっとで、艦を減速させつつ、必死に航行せねばならなかった。駆逐艦の様な小型艦にとって、暴風雨との遭遇は死命を決しかねない事態であったが、日本駆逐艦は概ね航洋性能が優れていたので、大戦中、台風を受けて沈没した艦は無かった。逆にアメリカ駆逐艦は航洋性に問題があって、大戦中の1944年12月18日、フィリピン沖で作戦行動中、台風の直撃を受けて、駆逐艦3隻及び乗員775人を失う大損害を出している。


●駆逐艦乗りの恐怖。


駆逐艦の防御力は無きに等しく、爆弾や魚雷の一発でも受ければ轟沈しかねないとは先に述べたが、乗員達にとって爆弾や魚雷はそれほど恐ろしいものではなく、むしろ当たればそれまでと覚悟を決められた。それよりも恐れられたのが、敵航空機による機銃掃射である。アメリカ軍機の多くは、両翼に多数の12・7mm機銃を搭載しており、それらが一斉に発射されると、まるで両翼が燃え上がっているかのようであった。発射された機銃弾は、何発かに一発の割合で曳航弾が含まれており、それらは海上に白い飛沫を連続して飛ばしつつ、急速に艦に迫り来る。やがて艦に到達すると、カン!カン!カン!と鋭い金属音を響かせつつ、艦上を薙ぎ払ってゆく。弾丸は駆逐艦の薄い外板をいともたやすく撃ち抜いていって内部で弾き飛び、中には反対側まで突き抜けていくものもある。機銃掃射の音が近づいてくると、乗員達は恐怖に慄き、一斉にしゃがんだり物陰に隠れたりした。事に恐ろしかったのが、背後からの銃撃であった。


しかし、艦上で機銃配備に就いている乗員達は逃げる訳にはいかず、25mm機銃をもって敵機に立ち向わねばならなかった。機銃員達は露天に剥き出しの状態であるので、機銃掃射を受ければひとたまりもなく、血飛沫をあげて次々になぎ倒されていった。弾丸が頭や胴体に当たれば致命傷は免れず、手足に命中したとしても、その運動エネルギーによって組織はズタズタに破壊され、切断に近い損傷を負った。駆逐艦乗員達も必死に25mm機銃を撃って、敵機を撃墜せんとするが、回避運動で激しく揺れ動いている艦上にあっては、なかなか命中弾を得られず、弾道確認の為の曳航弾が胴体や翼に吸い込まれていって、ようやく命中を確信しても、敵機は何事も無かったかのように飛び去ってしまう。アメリカ軍機は頑丈な造りであって、弾丸の多くは弾かれてしまうのだった。例え白い煙を吹かせたとしても、それらは消火剤であって、撃墜には繋がらなかった。


●日本駆逐艦の特徴


日本駆逐艦は、強大なアメリカ海軍との正面決戦を意識して、61cmという他国に例の無い大口径魚雷を多数積載して、対艦能力を突出させていた。その対艦攻撃力が遺憾なく発揮された例として、1942年11月30日に行われたルンガ沖夜戦を挙げたい。この時、日本側は駆逐艦8隻だったのに対し、アメリカ側は重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻という戦力で、質量共にアメリカ側が優勢であった。だが、日本側は果敢な夜間雷撃を敢行し、駆逐艦1隻が撃沈されたものの、敵重巡洋艦1隻を撃沈し、更に重巡洋艦3隻を大破せしめるという殊勲を挙げた。この様に日本駆逐艦は優れた対艦攻撃力を有していたが、その一方、対空、対潜能力は貧弱そのもので、航空機の攻撃には弱く、潜水艦に撃沈される艦も実に多かった。


日本駆逐艦の主砲である12・7cm50口径砲は、水上艦との交戦においては問題ないが、敵航空機には対処不能で、頼りとなるのは25mm機銃しか無かった。しかし、これも威力と装備数に欠けており、自艦を防衛する事さえ、ままならなかった。戦争後半になって航空機の脅威が意識される様になると、ほとんどの駆逐艦に機銃の増備が成されたが、それでも自艦防御がやっとで、他艦を援護する余裕など無かった。大戦における日本駆逐艦の損失の3分の1は、敵航空機によるものである。また、潜水艦探知能力も低い事から、目の前で護衛対象を撃沈される事も日常茶飯事で、アメリカ潜水艦を狩るべき立場の日本駆逐艦が、逆に30隻以上も撃沈される異常事態となっている。アメリカ潜水艦は第二次大戦において、爆撃、砲撃、爆雷、機雷、事故など各種理由で52隻が戦没しているが、その内、日本駆逐艦に撃沈されたとみられるのは7隻に過ぎない。


日本駆逐艦の多くは、対艦攻撃に特化した仕様となっていたが、戦争中盤からアメリカ側艦艇にレーダーが搭載される様になると、肝心の対艦戦でも劣勢に陥った。また、艦形を洗練させるなど性能向上に努めた結果、大量生産には不向きな凝った構造となっていた。日本駆逐艦は対艦攻撃力を高めて、敵艦隊との短期決戦を指向したが、実際の太平洋の戦いは、空中、水上、水中の三次元の戦いとなって、日本駆逐艦は十分に対応できず、しかも果てしない消耗戦に巻き込まれて、消耗に生産が追いつかなかった。駆逐艦という艦種は、大きさと装備を切り詰めながらも、三次元の敵に対応する能力を有し、数も揃えねばならない。もっとも、太平洋戦争において、日本が相手としたのは世界最大の工業国アメリカであって、建艦競争では到底勝てなかった。それが分かっていたからこそ、質を高め、短期決戦に持ち込もうとしたきらいはあった。ただ、そうであっても汎用性に欠けていた点だけは擁護できない。


アメリカ海軍は、開戦時には182隻の通常駆逐艦を有し、開戦後には約330隻の通常駆逐艦と、約440隻の護衛駆逐艦(能力を落として量産性を高め、船団護衛を主とした駆逐艦)を就役させた。合計すると、アメリカ海軍は終戦までに約950隻の駆逐艦を保有し、戦没したのは83隻であった。対する日本海軍は、開戦時には通常駆逐艦111隻を保有し、開戦後には31隻の通常駆逐艦と、32隻の護衛駆逐艦を就役させた。日本海軍が終戦までに保有した通常駆逐艦、護衛駆逐艦は合わせて174隻で、戦没したのは133隻、残存艦は41隻であった。この中でも、日本の主力駆逐艦であった陽炎型19隻、夕雲型19隻は、激戦に投入され続け、生き残ったのは陽炎型の雪風、ただ1隻のみだった。不十分な装備と数量で戦った日本駆逐艦とその乗員達であったが、強大なアメリカ海軍を相手にして、彼らは実に良く戦ったと言えるだろう。彼らの献身的かつ犠牲的な働き抜きに、太平洋での戦いは語れない。現在の日本の護衛艦は、こうした第二次大戦の苦い教訓を受けて、三次元の敵に対応可能な高度な汎用性を有するに到った。





軍艦行進曲



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