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ゼーロウ高地1945 2

オーデル、それは、ドイツ東部を流れる、ヨーロッパ有数の大河である。この河は、ソ連の大軍を食い止める、最後の防壁と見なされていた。だが、ソ連軍はその河をも超えて、西岸に橋頭堡を築き上げた。戦力に劣るドイツ軍は、これを排除する術もなく、ただただ、ソ連軍の集結を見守るばかりであった。橋頭堡は急速に成長して、数十万ものソ連軍がオーデル西岸に進出して配置に付き、東岸にも重砲の砲列が布かれて支援の体制を取った。後は、攻撃命令を待つのみとなる。そして、1945年4月16日ベルリン標準時間午前3時、穏やかに流れるオーデルに、突如として轟音が轟いた。東岸に陣取ったソ連軍の火砲1万門が一斉に火を噴いて、ヨーロッパの第二次大戦、最終戦となるベルリン攻略戦の幕が切って落とされたのである。



土砂降りのような砲弾の雨が30分に渡ってドイツ軍陣地に降り注ぎ、次々に火柱が立ち昇って大地が鳴動する。この時の地震の様な振動は、60キロ離れたベルリンでも感じられるほどであった。ベルリン市民は迫り来る脅威を身近に感じて、不安に慄いた。一方、ドイツ軍指揮官ハインリチはこの砲撃を予期して、前夜に前線陣地から兵員の大部分を後方の陣地に後退させていたので、被害を最小限に止める事に成功していた。そんな事を知る由も無いソ連軍は、あの猛砲撃を受けたドイツ軍は壊滅状態に違いないと誰もが思っていた。そして、ソ連兵達は口々に、「ベルリンへ!」と叫んで前進を開始した。ソ連軍司令官ジューコフは、まず歩兵を前進させて進路を切り開かせ、その後で戦車軍を投入する予定であった。



ソ連軍は進撃するにあたって、ドイツ軍の目を眩ませようと、143基のサーチライトをドイツ軍陣地に向けて、強烈な閃光を浴びせかけた。しかし、このサーチライトの閃光は、砲撃で舞い上がった土煙に反射して前方の視界を塞ぎ、逆にソ連軍の目を眩ましてしまう結果となった。ドイツ軍にとって、この閃光はなんの脅威でもなかったが、圧倒的大多数のソ連軍が迫って来る様子には、さすがに鬼気迫るものがあった。大勢いた即席の動員兵の中には、砲撃と閃光を受けてパニックに陥る者もいた。ソ連が攻勢を開始する以前、ドイツ軍は予め、川を計画的に氾濫させて、オーデル河畔の湿地帯を泥の沼地に変えていた。さらに水路や堤道、鉄道築堤などもソ連軍の戦闘行動の障害となっていた。



ソ連軍はそれらの障害物に足を取られて隊列に乱れが生じ始めるが、それでも徐々にドイツ軍陣地へと接近して行く。歩兵が地雷原に入って爆散していくが、これもジューコフの計算の内だった。戦車の道を切り開くための犠牲である。ソ連空軍も動き出し、シュトルモヴィーク地上攻撃機の群れが、高地上のドイツ軍陣地を狙って爆弾を投下していった。この日、延べ6,500機もの爆撃機が出撃を繰り返す事になる。しかしながら、爆撃の効果は不明瞭だった。両軍の間には、川霧、砲煙、砂塵が立ち込めていて、視界が極端に悪かったからだ。待ち受けるドイツ軍には、呼び合うソ連兵の声が聞こえてくるが、その姿はまったく見えなかった。そして、濃い煙をすかして、間近にソ連兵の姿を認めた時、熾烈な射撃が始まった。こうしてゼーロウ高地を巡る緒戦は、視界が利かない中での接近戦となった。



しかし、ドイツ軍が陣地に立て篭もっているのに対し、ソ連軍の周辺には泥濘の湿原が広がるのみ、射撃を回避する術が無く、ソ連兵は次々に撃ち倒されていった。ソ連軍は出鼻を挫かれる形となったが、圧倒的な戦力差があるので、全戦線で重厚な攻撃を加え続ければ勝利は疑いない。 だが、陣地攻撃に不可欠な直協砲兵隊は、砲爆撃の穴や泥濘の大地に難渋して、なかなか前に進めなかった。その為、泥だらけになった歩兵だけが、援護の無いまま前進する形となり、それを、高地上に陣取るドイツ軍から狙い撃たれて、死傷者が続出する事態となった。攻勢第一波のソ連軍は、河を渡ってゼーロウ高地の麓に達する、この僅かな距離を踏破するのに非常な困難に見舞われていた。そこで、総司令官ジューコフは予定を変更して、早期に戦車軍の投入を決定する。



しかし、この決定は、収拾の付かない大混乱を生み出した。砲兵隊の車両群が泥に埋まっているところへ、数千の戦車が殺到して大渋滞を引き起こしたのである。ソ連軍部隊が立ち往生すると、そこにドイツ軍の銃砲火が集中した。指揮官達は必死になって交通整理を行い、ようやく少量ずつ戦車が前線に参加していった。そして、ソ連軍は損害を省みない力押しで、ドイツ軍の第一線陣地を踏み越え、続いてゼーロウ高地上に築かれた第2線陣地に攻めかかった。この第2線こそ、ドイツ軍の主防衛線であった。そこには、無数の対戦車砲陣地や、機関銃陣地が設けられており、塹壕には、パンツァーファウストを手にした歩兵も潜んでいた。ソ連戦車は、高地を乗り越えんとするが、勾配が急で、エンジン全開でも直登は難しかった。そこで、ソ連戦車は高地を巻くようにしてよじ登り始めるが、弱い横腹を晒した途端、ドイツ軍の対戦車砲によって次々に撃ち抜かれていった。



塹壕に潜んだ歩兵も、ここぞとばかりにパンツァーファウストを撃ち込んでいく。辺りは炎上して黒煙をあげるソ連戦車ばかりで、さながら、戦車の火葬場の様相を呈していた。 ソ連軍の受けた損害は、ドイツ軍によるものだけではない。味方砲兵による誤射や、味方爆撃機による誤爆も相次いでおり、この戦いを通して、誤射によって受けたソ連軍の被害は甚大であった。ソ連軍の攻撃は夜を徹して続けられ、じりじりと前進はしたものの、突破は果たせなかった。同じ頃、南方でもコーネフの第一ウクライナ方面軍が攻撃を開始していたが、こちらのドイツ軍の抵抗は微弱で、早々に戦線を突破していた。しかし、ジューコフ正面のドイツ軍は手強く、容易には通してくれそうに無かった。



4月17日早朝、ソ連軍の攻撃が再開され、シュトルモヴィーク編隊による爆撃と、各種重砲による砲撃で始まった。この日は好天で、ソ連軍爆撃機は前日よりも正確に爆撃を加える事が出来た。砲兵も、あらゆる建物に集中砲撃を加える。ゼーロウ高地上のドイツ軍陣地は大きな損害を受け、周辺の町や村のほとんどが燃え落ちた。辺り一帯に、人間や家畜の焼ける強烈な臭いが立ち込める。ソ連軍は、こうして大量の砲弾と爆弾を叩き込んだ後、防御上の要であるゼーロウの町の奪取を狙って、歩兵と戦車を前進させた。ドイツ軍は前日の激戦で消耗し、更に爆撃と砲撃で痛め付けられていたにも関わらず、驚異的な粘りを見せて、この攻撃を阻止した。しかし、ドイツ軍もこの第一撃によって消耗し、防衛線に亀裂が生じたので、全予備兵力の投入を余儀なくされた。



ドイツ空軍も数少ない航空機を総動員して、ソ連軍を食い止めんとした。そして、使用可能なあらゆる戦闘機、爆撃機を繰り出して、オーデルに架かる舟橋を破壊せんとした。舟橋を破壊すれば、一時的にソ連軍の増援を断ち切る事が出来る。ドイツのユターボーク基地では、基地司令官フックス少将が、レオニダス飛行中隊の隊員35名に自爆攻撃を誓約させた後、500キロ爆弾を抱いたFw190戦闘機に乗せて、送り出したとされる。そして、3日間で17本の舟橋を破壊したと報告したが、実際の成果はキュストリンに架かった鉄橋1本のみであったようだ。ソ連軍でも、出所は不明ながら、ドイツ軍パイロットはしばしば、ソ連軍爆撃機に体当たりして、双方が炎に包まれて墜落したと報告されている。



この日は、前日にも増して各所で激しい戦闘が繰り広げられた。ドイツ軍の切り札、88ミリ対戦車砲は、ソ連戦車を次々に鉄屑に変えてゆき、ドイツ兵が撃ち放つ機関銃も、ソ連兵の集団を肉塊に変えていった。しかし、戦車を撃破しても撃破しても、歩兵を倒しても倒しても、ソ連軍は地平線の奥から、次から次に現れて来るのである。 ドイツ軍は奮闘を続けたものの、さすがに消耗は隠せなかった。やがて予備兵力も底を尽き、戦線が崩れ始める。そして、17日も終わりかけた頃、主防衛線は貫かれて、ゼーロウの町は陥落した。4月18日早朝、ソ連軍の攻撃再開。連日の激闘でソ連軍も疲労の色は隠せなかったが、それでも圧倒的な数的優勢にあった。ソ連軍の重圧にドイツ第9軍はどうにか持ちこたえていたが、左側面の戦線は崩壊し始めており、右側面の戦線も南から突破したコーネフの進撃に脅かされていた。それでも、中央のドイツ軍部隊はこの1日、奮闘を続けたが、増援が緊急に必要な状況だった。



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↑88ミリ対戦車砲


しかし、増援が送られて来る気配はなく、その後も休みなくソ連軍の攻撃は続けられた。ドイツ軍の後方にある救護所には、次から次に負傷兵が運び込まれて来るが、既に軍医が処置できる範囲を超えていた。粗末な野戦病院は、たちまち血の臭いと苦しみ喘ぐ声によって満たされる。大勢の負傷者が生じると、平時ならば、重傷者の治療が最優先とされ、軽傷者は後回しになる。しかし、戦場においては逆となり、治療は、早期に戦線復帰が見込まれる軽傷者が最優先され、重傷者は後回しとなる。手のかかる手術をする暇など無く、腹部に重傷を負った者は、既に死んだも同然だった。緊急を告げる前線の要求を受けて、将校らは野戦病院を駆け巡り、まだ歩ける負傷兵を見つけては強引に前線に連れ戻していった。



ドイツ軍は取り得るあらゆる手段を用いて戦線を取り繕ってきたが、とうとうソ連軍の波状攻撃を支え切れなくなった。ぼろぼろに磨り減ったドイツ軍は高地帯から後退し、後方のミュンへベルク前面に構築されていた第三線陣地に移動した。ソ連軍もその後を追ってミュンヘベルクへと進撃したが、路上でまたもや渋滞に陥り、そこを生き残ったドイツ戦車隊に攻撃されて大損害を出してしまう。ジューコフは一連の戦いで大量の戦車を失い、二つあった戦車軍団を一つに統合せざるを得なくなった。だが、この日、ソ連軍の前に大きく立ちはだかっていた、ゼーロウ高地は陥落した。戦場には数え切れない程の戦車が黒煙をあげて擱座し、無数の両軍兵士の死体が横たわっていた。生き残った将兵も休み無く続いた4日間の死闘で、憔悴しきっていた。



4月19日、ソ連軍の攻撃再開。ソ連軍は第三線陣地に深く食い込み、この日の遅くにはミュンへべルクを陥落させた。兵員、武器、弾薬を使い尽くしたドイツ第9軍は総崩れとなり、3つに分断されつつ後退していった。全ての防衛線を突破されたドイツに残されたものは、剥き出しとなった首都ベルリンのみ。そして、ソ連軍の大津波は、たちまちベルリンを取り巻いて、4月24日にはこれを完全に包囲する。それでもヒトラーは、幻想のドイツ救援部隊が駆けつけて来ると信じ、徹底抗戦の構えを崩さなかった。そして、市内ではパンツァーファウストの応急訓練を受けた婦人や十代前半の少年を含む一般人まで動員されて、独ソ戦最後の死闘が繰り広げられる事となる。



ソ連軍は、ゼーロウ高地を突破して最終勝利を確実なものとしたが、そのために支払った犠牲は凄まじいものがあった。ソ連軍の公式発表による戦死者は3万3千人(実数は7万人を超えるとも言われている)を数え、装甲車両は700両以上、失った。一方のドイツ軍も1万2千人の戦死者を出したとされる。両軍の正確な戦死者数は、今もって判明しない。第二次大戦屈指の激戦地となったこのゼーロウ高地では、現在でも塹壕などの戦争遺跡が生々しく残されており、両軍の将兵多数も人知れず眠りについている。


現在のゼーロウ高地(ゼーロフとも言う)を写したHP

http://www.mas-yamazaki.com/seelow06.html 



主要参考文献、アントニー・ビーヴァー著「ベルリン陥落 1945」、ピーター・アンティル著「ベルリンの戦い 1945」


 
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ゼーロウ高地1945 1

1945年2月、第二次大戦末期、ドイツ第三帝国は滅亡の淵に立っていた。西部戦線ではアメリカ、イギリス連合軍がフランスを解放し、ドイツ国境に到達する。ライン川に沿った640キロの戦線では、370万人の連合軍が2月下旬に行われる攻勢に備えて待機していた。これを迎え撃つのはドイツ軍100万人であり、戦いはドイツ国内へと移りつつあった。東部戦線では、1945年1月の時点でソ連軍は600万人の兵力を有していたが、これを迎え撃つドイツ軍は200万人の兵力でしかなかった。



2月になるとソ連軍はポーランドのほぼ全域を制圧し、ドイツの首都ベルリンから65キロのオーデル河畔にまで達する。そして、来たるべきベルリン攻略に向けて、その通り道にあたる交通の要衝、キュストリンに対する攻勢を開始する。 オーデル河畔にある都市キュストリンは、ソ連軍の攻勢からベルリンを守る盾とも言うべき都市であり、ヒトラーもここを要塞都市に指定して、死守を命じていた。1月31日、キュストリンを巡る攻防戦が始まる。圧倒的なソ連の大軍を迎えながらもドイツ軍は頑強に抵抗し、少数のドイツ戦車隊が局地的には勝利を収める場面もあった。



しかし、増援が無ければ、キュストリンの陥落は時間の問題だった。このように首都前面は危機的な状況にあったのだが、1月22日にヒトラーは信じがたい決断を下していた。「戦争を遂行するためには、ハンガリーの油田が必要だ!」と主張して、ハンガリー方面での攻勢「春の目覚め作戦」を指示したのである。このため、キュストリンに有力な部隊が送られる事はなかった。春の目覚め作戦に投入される装甲師団(戦車と自動車化歩兵を中心とした強力な部隊)は、ドイツに残された最後の有力部隊であり、ベルリン前面に迫ったソ連軍に対して、打撃を与え得る矛となりえたのだが、こうして副次戦線であるハンガリーに送られる事となった。



もし、春の目覚め作戦が失敗して、この戦力が失われれば、最早、ドイツには後が無い。3月6日早朝、ドイツ軍最後の攻勢、春の目覚め作戦は、ベルリン前面の危機的状況、深刻な燃料不足、数的劣勢などのあらゆる悪条件を無視して強行された。しかも、この攻勢はソ連軍に事前察知されており、予め、強固な防衛線が築かれていた。ドイツ軍は燃料不足に加えて、春の雪解けによる泥濘の影響で進撃がままならないところを、待ち伏せしていたソ連軍によって次々に撃破されていった。それでもドイツ軍は前進を強攻し、数十キロに渡って戦線を拡大した。



しかし、3月15日にはドイツ軍は攻勢限界点に達して、進撃は完全に止まった。翌3月16日、それを待っていたソ連軍が大反撃を開始すると、逆に包囲撃滅される危機に陥ったドイツ軍は、ヒトラーの死守命令も無視して壊走していった。戦場には、遺棄された多くの装甲車両が横たわっていた。ドイツ最後の有力部隊はこうして失われ、3月29日にはキュストリンも陥落する。ベルリンを守る盾と矛は失われた。もっとも、キュストリンに装甲師団を投入していたとしても、敗戦が先延ばしになるだけの効果しか無かったが。ソ連軍はキュストリンを確保したものの、数週間に渡る激戦の後であり、一旦進撃を停止して部隊を休ませ、消耗した装備を補充して5月に大攻勢を行おうとした。



しかし、スターリンは西側連合軍に先んじてベルリンを確保することを欲しており、ジューコフとコーネフの両元帥に対して、早急なベルリン攻略を求めた。その結果、4月16日をもってジューコフはベルリンの真東から、コーネフはその南からベルリンへの大攻勢をかける事となった。数百万もの兵員を動かす大攻勢は、本来ならば2、3ヶ月の準備期間を必要とする。だが、これが僅か2週間で進められる事となり、その橋頭堡としてキュストリンには、兵員の集中と大量の軍需物資の集積が急速に進められた。



ドイツ側も、ソ連軍がキュストリンから大攻勢を発するのを察し、その前面に位置する要衝、ゼーロウ高地の備えを固めた。ゼーロウ高地はオーデル川西岸にある穏やかな丘陵地帯であるが、地表からの標高差が40メートルあって、オーデル河一帯を射線に収める事が可能な、天然の要害だった。キュストリンから発するソ連軍の大津波を、この低い丘陵で食い止めねば、ベルリンは壊滅する。ソ連軍の手から、首都と市民を守るべく、ドイツ軍の将兵は粛々と配置に付いた。



ゼーロウ高地突破を担うソ連軍は、ジューコフ指揮下の第1白ロシア方面軍、兵員76万人、戦車3千両、火砲1万4千門であった。一方、この方面を守るドイツ第9軍は、兵員9万人、戦車及び自走砲512両、火砲は高射砲を含めて700門程度という劣勢にあった。しかも、兵員の多くは戦闘未経験者で、一般市民も含まれていた。重火器はほとんど無く、弾薬も携行定数を大きく割り込んでいた。1945年型編成のドイツ1個師団の定数は、1万2千人であったが、多くは定数割れを引き起こしていて、実際には4千~6千人程度でしかなかった。戦争の敗北が間近に迫っている事から兵士達の士気も低く、出来れば、負傷して後送されたい、脱走したい、投降したいと願う者が多かった。それでも彼らが持ち場に止まっていたのは、軍規による即決処刑と、家族への罰則適用を恐れてのものだった。



1941年6月22日から始まった独ソ戦は、人類史上最も凄惨な消耗戦となった。ソ連は1944年12月までに、1千万人を超える兵員の戦死、行方不明者を出していた。さらに民間人の犠牲者はこの数字を上回るものと推定されており、1945年には、人口大国のソ連と言えども人的資源の供給限界に達していた。一方のドイツも1944年12月までに兵員の戦死、行方不明者を300万人出しており、ソ連より人口の少ないドイツは、より深刻な人的資源の枯渇に見舞われていた。



1943年以降、歩兵のかなりの部分はドイツ領に編入されたドイツ系民族から補わざるを得なくなり、ドイツ国内で編成された部隊でも外国人の割合が増えていた。さらに連合軍のノルマンディー上陸以降、西部戦線にも戦力を割かねばならなくなって状況は悪化の一途を辿り、末期のベルリン攻防戦に至っては、陸に上がった海軍の水兵や、10代前半の少年から老人まで陸兵として動員された。この様な状況であったため、ベルリンを守る最重要の軍団ですら、定数割れしていたのだった。



1945年4月6日、ソ連軍の大攻勢が迫っていたこの日、ベルリン防衛を担当するヴァイクセル軍集団の司令官ハインリチ上級大将は、本土防衛の全体戦略を討議するため、ベルリンの総統官邸に召喚された。この会議には、ヒトラーを含む軍首脳が全員列席していた。そして、この会議でハインリチは、列席者が最も聞きたくない事実を報告する。「私は申し上げなくてはなりません。我が軍集団には、もはや予備と呼べる部隊はほとんど存在しません。前線の部隊は、敵の第一撃には耐え抜くかもしれません。しかし、最早、補充は無いのです。総統閣下、これが現実です。我々はせいぜい数日間、戦線を支え得る兵力しか保持しておりません。そして、全ては終わりを迎えることになるでしょう」



ハインリチの発言に対して、ヒトラーは机を叩いてこう叫んだ。「信念だ!信念と成功への強い意志があれば、兵力の不足は補えるのだ!この戦いに是非とも勝たなくてはならないという事実を君が自覚すれば、戦闘に勝てる!もし君の部下が同じ信念を持てば、その時こそ君は最大の勝利を達成し得るのだ!」。そして、運命の日、4月16日を迎え、ベルリンを目指すソ連軍の大攻勢が始まる。



歴史に残る海の大惨事

1945年1月、第二次大戦末期、かつてヨーロッパ全土を席巻したナチスドイツも、東西から連合軍に締め付けられ、今ではドイツ本土を残すのみとなっていた。ドイツの滅亡は間近に迫っていたが、それでも連合軍の攻撃が緩む事はなかった。中でもソ連は、自国が戦場となって荒廃した事から、凄まじい復讐心をもってドイツ本土に攻め入らんとしていた。そして、ソ連軍はドイツ領の東プロイセンに侵攻すると、住民に略奪、暴行の限りを尽くしつつ横断し、東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクをドイツ本土から切り離した。このままでは、孤立地帯の住民はソ連軍によって蹂躙され、数え切れない程の犠牲者を出す事になる。そこでドイツ海軍は、海路から住民を避難させるべく、総力を挙げて救出作戦を実施する事にした。これが、「ハンニバル作戦」である。決行するに当たって、大小問わず稼動する全ての艦艇、商船が動員され、その内の1隻に25,484トンの大型客船「ヴィルヘルム・グストロフ号」も含まれていた。


 1月30日、東プロイセンの港湾都市ゴーテンハーフェンから、グストロフ号は定員の4倍にあたる合計6,050人もの人員を乗せて出航した。しかし、船が動き出して間もなく、周辺に避難民達の小船が殺到して、必死に乗船を希望した。船長は仕方なくグストロフ号を停止させて、避難民を出来るだけ多く船内に収容する事にした。この時、さらに乗り込んだ避難民達を合わせると、船内の人数は1万人余に膨らんだと見られている。その大半が女、子供であった。
だが、夜間航行中、グストロフ号はソ連軍の潜水艦に発見されてしまう。潜水艦は4本の魚雷を発射し、その内の3発がグストロフ号に命中した。


船体に激しい衝撃を受けて人々はパニック状態となり、悲鳴を上げつつ、一斉に救命ボートや救命胴衣を目掛けて殺到した。しかし、その数はまったく足りておらず、人々は船を右往左往するばかりであった。その間にも水は容赦なく侵入してきて、グストロフ号は急激に傾斜を強めてゆく。人々は着の身着のままで、暗い酷寒の海に飛び込まざるを得なかった。しかし、船内ですし詰め状態となっていた人々は逃げる事も叶わず、押し潰されつつ、船と共に沈んでいった。海に難を逃れた人々も、零下10度の海水に晒されて、多くが救助を待つ間に凍死していった。周辺のドイツ船は直ちに救助活動を実施したものの、1,200人余りしか救う事は出来なかった。実に9千人もの人々が、凍てついたバルト海に消えていったのだった。



この海域では他にも、避難民を満載した船舶ゴヤ号とシュトイベン号が、それぞれソ連潜水艦によって撃沈されている。ゴヤ号では乗員6,849人の内、救助されたのは183人、犠牲者は6,666人。シュトイベン号では乗員3,450人の内、救助されたのは300人、犠牲者は3,150人であった。(これらの犠牲者数には諸説がある。)


この3隻の船に起こった悲劇は戦時中に起こった出来事であり、海難事故とは見なされない向きがあって世には余り知られていない。「海難とはあくまでも平時において海で発生した商船や艦艇の事故を原則とするものであって、遭難の内容が如何に甚大であろうとも、如何に社会的に与える影響が大きくとも、戦禍で沈んだ船は海難とは扱われる事はない」とあるからだ。しかし、これらの出来事は、歴史に残る海の大惨事である事に間違いはない。平時に於ける最大級の海難事故としては、(1912年4月15日)かの有名なイギリス豪華客船タイタニック号が、氷河と接触して沈没し、1,500人余りの死者を出している。 そして、日本では、(1954年9月26日)台風によって洞爺丸が沈没し、1,155人の死者を出したのが最大の海難事故とされている


しかし、戦争となると、(1945年4月7日)戦艦大和は、3,000人余の乗員と共に沈み、(1944年8月22日)沖縄からの避難民を乗せた対馬丸が、アメリカ潜水艦によって撃沈され、学童775名を含む1,418人の犠牲者を出している。その他も挙げて見ると。

(1944年2月)隆西丸、ボルネオ島沖にて雷撃を受け沈没。犠牲者数4,999人。

(1944年6月)富山丸、徳之島東方30海里地点にて雷撃を受け沈没。犠牲者数3,695人。

(1944年11月)摩耶山丸、済州島西方にて雷撃を受け沈没。犠牲者数3,437人。

第二次大戦中、戦禍で失われた世界の商船の中で、犠牲者数の多い上位15隻を示した場合、日本の商船がその大半を占める。


余談となるが、冒頭にもあった東プロイセンは古くからのドイツ人の土地で、第二次大戦までドイツ領だった。しかし、戦後、東プロイセンの内、北半分はソ連に編入され、その中心都市であったケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名されて現在に至っている。南半分も、ポーランドに編入されている。東プロイセンはドイツ人にとって心の故郷であり、日本で言えば京都に当たる土地だそうで、その無念さは察するに余る。日本も敗戦間際、瀕死の病人の枕元から財布を抜き取るように、ソ連に千島列島と樺太南部を奪われている。樺太南部も千島列島も全て日本固有の領土である。こちらも何とも無念である。


こちらにシュトイベン号の記事が少し載っています

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0502/index2.shtml




東部戦線での戦い

1941年6月22日、ドイツ軍300万人の大軍が、ロシアの大地に雪崩れ込んだ。人類史上、最も凄惨な戦いとなる独ソ戦の始まりである。ソ連は国境沿いに260万人の兵力を配置していたが、奇襲を受けて次々に包囲殲滅され、開戦早々、正規軍の大半を失う事となった。そこで、ソ連は素人の大衆を大量動員して、何とか戦線の穴埋めをせんとした。しかし、そうした努力も空しく、ソ連の重要都市は次々に陥落してゆき、1941年11月、ドイツ軍はついに、ソ連の首都モスクワの前面にまで至った。存亡の危機に立ったソ連は、ここで形振り構わぬ手段を用いて、首都を守り抜かんとした。すなわち、阻止分遣隊(銃弾をもっての味方の督戦、及び逃走を阻止する部隊)の全面採用である。



この時期のソ連軍は、一般人に銃の操作を教えただけの素人揃いであり、
ドイツ軍得意の空陸一体の攻撃を受けると、容易にパニックに陥った。さらに、敗北続きで士気も低下しており、脱走兵が絶えなかった。そこで、軍としての統制を維持すべく、味方の背中に機関銃を向ける事にしたのである。実際、阻止分遣隊は、味方兵士を引き締め、戦線維持に貢献する事となった。しかし、阻止分遣隊の存在は諸刃の剣でもあり、味方兵士に無謀な突撃を強要し、しかも退却を許さなかったので、ソ連軍兵士の死者はうなぎ登りに上がっていった。



●戦争初期のあるソ連軍部隊の攻撃


ソ連軍部隊が、緊張の面持ちで攻撃命令を待っていた。部隊で最も権限があるのは、共産党から送られてきた政治将校で、その政治将校が、前方のドイツ軍陣地を攻撃するよう部隊長に命じる。それを受けて部隊長が号令を発し、兵士達は一斉に雄叫びをあげて飛び出した。

「ウラーーー!!!(ばんざーい) 」

この時期のソ連軍は、味方全員に行き渡るほどの武器は無く、銃を所持しているのは先頭の兵士のみ、後方から続く兵士は少量の弾薬だけを携帯し、先頭の兵士が倒れたら、その手から銃をもぎ取って戦うのだ。何の遮蔽物もない吹雪の平原を、ソ連軍の集団が駆けて行く。その行く手には、ドイツ軍が陣地を築いて待ち受けていた。それは凍土を浅く掘っただけの塹壕に過ぎなかったが、それでも身を隠せるだけましであった。ドイツ軍も弾薬が欠乏しており、無駄弾は許されなかった。必中を期し、ソ連兵の顔が確認出来るまで引き付ける。そして、ドイツ軍の機関銃と小銃が一斉に火を噴き、ソ連兵は血飛沫を上げて次々に薙ぎ倒されてゆく。それでも、ソ連軍は突撃を続行し、倒れた戦死者から銃をもぎ取って戦った。



しばし、激しい銃撃戦が展開され、ドイツ軍も幾人かは倒れる。しかし、圧倒的に損害が多いのはソ連軍であった。ついにソ連軍は攻撃を諦め、元の陣地へと引き返してゆく。だが、敗走して来た彼らに待っていたのは、なんと味方からの機関銃掃射であった。阻止分遣隊を率いる政治将校は、敗走者を残らず射殺するよう命じ、それは確実に実行された。報告に上がった部隊長も攻撃失敗を咎められ、政治将校によってピストルで頭を撃ち抜かれた。ソ連軍は、1943年初頭のスターリングラード戦で勝利を収め、戦況が好転するまで兵士達をこのように扱っていた。



また、ソ連軍では、敵の包囲下に陥って退却してきた部隊の指揮官・兵士を決死的任務に投入する懲罰部隊に編入している。この懲罰部隊に編入されると、傑出した働きを示すか、戦死するか、負傷して前線に復帰可能となった場合のみ、元階級と地位を回復する事ができた。この懲罰部隊は、他のソ連軍部隊の進撃を容易にするため、地雷原をその足で切り開くよう、一列に並んで前進を強要される事もあり、その犠牲は大きかった。



●独ソの動員数と死傷者数

1941年6月22日、独ソ戦開始時、ドイツはルーマニア、フィンランドなどの同盟軍を合わせて376万人の兵力を有し、同年9月11日には最大402万人を数えた。しかし、その後は減少の一途を辿り、同年12月1日には340万人となっていた。ドイツは兵員補充に努めたが、それでも死傷して戦線離脱する者の方が上回った。1941年末までに、ドイツ軍は130万人に上る損害(負傷、行方不明、戦死)を出しており、その内、戦死者は20万を越えていた。ドイツは広大な占領地を有していたが、その戦線は危険なほど薄くなっていた。対するソ連軍は、開戦当初は260万人であったが、その後は増加の一途を辿り、1941年12月1日の時点で、ドイツ軍を上回る419万人に達していた。これ以降、ドイツ軍が数的に勝る事は無かった(両軍の動員数は、歴史群像を参照)。



1943年春の時点で、東部戦線のドイツ軍の兵力は270万人強で、ソ連軍の兵力は580万人弱であった。1945年初頭の段階では、東部戦線のドイツ軍は200万人で、ソ連軍は650万人に達していた。大戦後半、ソ連軍は圧倒的な数的優勢にあったが、それでも恐るべき損害を出し続けていた。1944年秋までに戦死、行方不明、捕虜は1千万人以上を出しており、負傷者も1,300万人に達していた。ただし、この数字は正規の軍人だけで、民間人の犠牲者は含まれていない。第二次大戦を通して、ソ連兵の死者は1,300万人余、民間人の死者は1,300万人以上で、ソ連の戦争犠牲者の総数は、2,600万人を超えると見られている。これは、中規模の国家が消滅するほどの死者数であった。ドイツの戦争死者の総数は、兵士、民間人を合わせて、430~530万人と見られている。



●バービィ・ヤール

独ソの攻防で、最大の焦点となったのはウクライナであった。この地は資源豊富で、ソ連の中で、最も重要な地域と認識されていた。前線での戦闘は激しく、死者が続出したが、後方の占領地でも虐殺の嵐が吹き荒れた。ドイツ軍はこの重要地を確実に確保すべく、反乱分子と見なした者、特にユダヤ人を根絶せんとした。その一例を挙げたい。



1941年9月19日、ドイツ軍は、ウクライナの首都キエフを占領したが、ソ連軍の仕掛けた時限爆弾が爆発して、数十人のドイツ兵が死亡した。この事件を受けてドイツ軍は、市街に居住していた5万人のユダヤ人に疑いを抱き、危険分子と見なして殲滅を決した。そして、彼らに新たな居住地を提供すると布告して、市街から誘い出し、郊外の谷へと連れ出していった。ユダヤ人達は検問所に着くと、そこで貴重品を取り上げられ、服も脱がされた。そして、峡谷の縁に10人ぐらいずつ並べられて、次々に銃殺されていった。



後から続く人々は、死体の山に腹ばいにさせられてから銃殺されていった。恐るべき作業は延々36時間、続けられ、こうして3万3千人余のユダヤ人が殺された。1943年11月6日ソ連軍の反攻によってキエフが解放されるまで、さらにパルチザン(対独レジスタンス)や、捕虜の虐殺等の犠牲者も加わって、10万人以上がこの谷を埋め尽くしたという。この谷はバービィ・ヤール(女の谷)と呼ばれている。



●東部戦線に派遣されたドイツ軍新兵。

東部戦線の広大な戦場は、幾らでも血と命を吸い続けた。それでも戦争が続く限りは、ベルトコンベアーの様に兵士を次々に送り込んでいくしかなかった。ドイツ本土で召集された新兵達は、列車に乗って東部戦線へと運ばれていく。新兵の多くは、まだ顔にあどけなさの残る20歳前後の若者達だった。彼らは列車に揺られつつのんびり風景を眺めたり、他愛もない会話を交えながら、戦場へと向かっていく。行く先に何が待っているのかは、この時点では知る由もなく、笑顔で談笑する余裕があった。
しかし、いざ列車から降り立ち、過酷な東部戦線に身を晒した途端、彼らの容貌は激変した。絶え間ない緊張の日々、不衛生な環境、粗末な食事、戦友の死、ロシアの酷寒、ソ連軍との常軌を逸した殺し合い。しばらくすれば、その顔から若者らしい初々しさは消え、恐怖と苦悩によって頬に深いしわが刻まれ、十歳以上、年をとった様な容貌に変わるのだった。



●大戦後半、ある戦場での話。

ソ連軍の大攻勢を受けて、ドイツ軍の集団が包囲されつつあった。そこでは、ドイツ本土へ向かう最後の列車が、負傷者を満載して、大急ぎで避退の準備を進めていた。それは、動けない重傷者を救う最後の命綱であった。ようやく列車は走り出したものの、ソ連軍の網から逃れるには一歩遅かった。ソ連軍爆撃機の攻撃を受け、列車は爆発炎上、線路から転覆する大惨事となった。この攻撃で大勢の重傷者が死んだが、まだ息のある者も多数いた。重傷者が呻(うめ)く側らを後退中のドイツ軍部隊が通りかかったが、助けようとする者は誰もいなかった。ソ連軍はすぐにここまで押し寄せて来る。自分達の命も危い中、動けない重傷者を助ける余裕など無かったからだ。



取り残される重傷者達は、ソ連軍の万に一つの慈悲にすがるしかなかったが、大半は虐待された挙句、殺される運命にあった。それが分っているある重傷者は、通りすがる兵士達の中に親しい戦友を見かけると、こう懇願した、自らの頭を撃ち抜いてくれと。その兵士は逡巡したが、尚も懇願され、やむなく承諾する。乾いた銃声が響き渡り、重傷者は事切れた。その側らで、戦友であった兵士は泣き崩れた。その間もドイツ軍部隊は歩みを止めず、重傷者のうめき声から耳を塞ぐ様に、うつむきながらその場を去っていった。


下記に紹介している本「最強の狙撃手」は、第二次大戦に従軍したドイツ軍一兵士の従軍記で、東部戦線の実態が生々しく描写されています。しかし、この本には、残酷な記述や写真が多数掲載されているので、心して読んでください。

 

ある戦場のエピソード

北太平洋にはアリューシャン列島と呼ばれるアメリカ、アラスカ州に属する、弧状に連なる島々がある。人も通わぬ寒冷地であるが、第二次大戦時には、日米の激闘の地となり、幾つかの逸話を残した。


1942年6月、第二次大戦時日本軍はミッドウェー作戦を発動するに当たって、アメリカ軍の注意を北方に引き付けるべく、アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略した。しかし、肝心のミッドウェイ海戦で、日本海軍は致命的な敗北を喫してしまったので、意味の無い作戦となってしまった。それでも、日本軍はアッツ、キスカ島を保持し続けるが、戦況の悪化に伴って、孤立の度を深めていった。
1943年5月13日、アメリカ軍がアッツ島に上陸して、激しい交戦の後、日本軍2,650名を全滅させて、島を奪回した。このため、キスカ島の日本軍6,000名は完全に孤立し、アッツ島に続く玉砕は確実な情勢となった。 だが、日本海軍は、キスカ島守備隊を何としても救出せんと努力を重ね、木村昌福少将率いる艦隊を派遣して、6,000人の守備隊を奇跡的に無傷で救出した。


キスカ島から日本軍が撤収するまでの間、アメリカ軍は絶え間なく空襲を加えていた。その過程で、1機のアメリカ軍機が撃墜されていた。爆撃を受けて痛い目に遭っていた日本軍であるが、アメリカ軍パイロットの遺体を回収すると、丁重に埋葬した。そして、キスカ島から撤退していく時、日本軍は後から上陸してくるアメリカ軍に分かるように、パイロットを埋葬した場所に、撃墜された日や状況が分かるよう、英文の立て札を立てておいた。

kiska.jpg















↑キスカ島の立て札

英語に堪能な兵士が書いたと思われ、大体の訳は、祖国に命を捧げし若者ここに眠る。日本陸軍。


上記の写真と訳文はこちらHPを参照

http://www.sinzirarenai.com/



もう一つアッツ島にまつわる話を一つ紹介。

アッツ島玉砕後、日本潜水艦がアメリカ軍の動向を探るため、アッツ島付近の海上を浮上哨戒していた。艦橋で警戒に当たっていた艦長と見張り員は、アッツ島上空に青白い炎のようなものを見つけた。ほどなくして、その火の玉はオレンジ色に変わると同時に、急速に潜水艦に向かってきた。あっと言うまに火の玉は、艦の間近にまで接近し、巨大な炎を揺らめかせた。


目の前でそれを見た艦長の背中には寒気が走り、艦に急速潜航を命じた。そして、艦は直ちに海中へと逃れた。しばらく経っても攻撃の気配は無かったので、敵機ではないようだった。艦内で乗員達は、あの火の玉について話しあった。艦橋にあった艦長を始め、見張り員達もあの火の玉を目撃していた事から、皆は口々に、「あれはアッツで玉砕した英霊達であったに違いない」と噂した。





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