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長水城と宇野一族

2009.10.19 - 戦国史 其の二
長水城は、分和年間(1352~56年)頃、播磨守護である赤松則裕が険阻な長水山に砦を築いたのが、始まりであるとされている。文明元年(1469年)、赤松氏の支族である、宇野氏が城主として入ると、以後代々、宇野氏は長水城を居城とした。戦国時代に入ると、宇野氏は様々な勢力に属しつつ、または戦いつつ、徐々に力を伸ばしていった。


永正17年(1520年)、赤松氏に従って、浦上氏と戦う。

天文7年(1538年)、山陰の尼子氏が播磨に侵攻してくると、これに属し、赤松氏と戦った。

天文10年(1540年)、但馬の山名氏が宍粟郡に侵攻して来るが、これを撃退する。

永禄9年(1566年)、尼子氏が滅亡すると、代わって台頭してきた毛利氏に属した。


宇野氏の全盛期を築き上げたのが、宇野政頼である。この政頼の時代に宇野氏は、長水城を中心に篠ノ丸城、常屋城、香山城など、幾つかの支城を合わせ持つ、播磨西北の有力国人に成長した。 その勢力は宍粟郡一円に加えて、揖保郡、飾東群、但馬の美方群に及び、石高に表すと12万石余であった。 しかし、天正元年(1573年)を迎えると、宇野氏は西に毛利、東には織田といった大勢力の狭間に置かれ、どちらかの傘下に入らねば存続は危うかった。そこで、同年、政頼は京都に使者を送って、織田家との提携を模索する。


翌天正2年(1574年)、政頼は長水城にて嫡男、満景を殺害する。この事件の詳細は不明であるが、満景とは外交方針の違いを巡って対立したらしい。そして、同年中に政頼は、次男、祐清に家督を譲った。天正5年(1577年)、織田家の部将、羽柴秀吉が播磨に入り、中国攻めを開始すると、一時、宇野氏は織田家に恭順したらしい。あるいは織田、毛利を両天秤にかけて様子見していたのかもしれない。しかし、翌天正6年(1578年)4月、毛利軍が大挙して播磨に押し寄せ、織田方の上月城を落とすに至って、宇野氏は毛利側へ付く姿勢を明確にした。 宇野氏が毛利氏に鞍替えした理由については、この時の毛利氏の勢いが強かったのと、領内に多数存在する一向宗門徒の意向を無視する事が出来なかった事が挙げられる。


播磨はかねてから一向宗の盛んな地であり、加賀、三河、安芸と並んで本願寺の四大勢力地の一つであった。一向宗は概ね反信長であり、これを敵に回せば統治がままならなくなる恐れがあったからである。しかし、天正7年(1579年)3月、備前の戦国大名、宇喜多直家が織田家に寝返ると言う重大事態が発生するに至って、宇野氏や別所氏などの播磨の親毛利勢力は孤立し、強大な織田家相手に独力で戦わねばならなくなった。天正8年(1580年)1月、三木城の別所氏が力尽きて滅亡すると、宇野氏は侵攻してくる織田軍の矢面に立たされる事になる。そして、同年4月、羽柴秀吉は大軍をもって、宇野氏への攻撃を開始した。秀吉軍によって宇野方の支城は次々に落とされてゆき、4月下旬には長水城を囲まれた。城に篭った人数は3千人余と伝えられ、秀吉軍の方は1万人はいただろう。


長水城は堅固な山城と、麓の平城の両構えだった。麓の平城は、五十波(いかば)と清野の二箇所にあった。これらは揖保川近くの小高い丘に築かれており、宇野一族は普段はここを居館として用いていた。 五十波と清野の2つの構えには、政頼と政祐(祐清の伯父)が立て篭もって、秀吉軍を迎え撃った。4月24日から始まった戦闘は3日間続き、4月26日、宇野方は奮戦したものの、数に勝る秀吉軍によって押し切られ、五十波と清野の構えは乗っ取られた。宇野方は250人余が討ち取られたが、政頼と政祐は辛うじて背後の長水城へと逃れた。同時期、長水城の南西にある、篠の丸城も落とされた。


秀吉軍は城下を焼き払い、さらに長水山へ攻め上って多数の小屋を焼き払った。その上で要所に三つの砦を築いて城を徹底的に封鎖する。窮した城の者が逃れ出ても、秀吉は皆、捕らえるか首を切らせた。孤立無援に陥った長水城では結束が乱れ始め、5月9日
には内通者が現れて、それに呼応した秀吉軍の激しい攻撃を受けた。翌5月10日、城は炎上し、最早、落城は必死の情勢となった。同日夜半、祐清は一族郎党数百人を伴って城を抜け出し、縁者がいる美作に逃れんとした。 宇野一族は夜陰に紛れ、尾根伝いの間道を抜けていったが、途中で秀吉軍に見つかってしまう。ここで、幾人もの心ある武士が命を捨てて踏みとどまり、一族の逃亡を助けんとした。


近臣達が防戦に努める中、宇野一族は千種川の畔、大森まで辿り着いたが、川を渡る前に秀吉軍に追いつかれ、ついに政頼、祐清父子も自刃に追い込まれた。播磨西北の一大領主であった宇野一族は、ここに滅亡する。「信長公記」によれば、長水城が落城したのは6月5日であったとされているが、宇野一族の滅亡は5月10日の出来事であったと思われる。 以後、城が用いられる事はなく、廃城となった。その後、宇野一族が落命した大森の地には、子孫が供養塔が建てて、その冥福を祈った。供養塔は今でも、山中に静かに佇んでいる。


長水城の訪問記はこちら
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