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大和ミュージアム 2

大和ミュージアムの目玉は、何と言っても戦艦大和の十分の一サイズの巨大模型である。実際の大和の大きさが、全長263メートル、全幅38・9メートルだったので、模型の全長は26・3メートル、全幅3・8メートルとなる。


戦艦大和については世間一般にも広く知れ渡っている事から、簡単な説明だけを記す。大和は、当時の日本人が持ちうる技術を結集して建造されたもので、日本海軍の誇りでもあった。その基準排水量6万4千トンと、砲塔1基2700トンにもなる46センチ3連装砲は、戦艦としては史上最大である。先に紹介した潜水艦「あきしお」の排水量が2250トンだったので、その巨大さが窺い知れる。しかし、当時は最高軍事機密とされていたので、一般人には知る由が無かった。大和が有名になるのは、むしろ戦後であった。


日米開戦間もない昭和16年(1941年)12月16日、大和は大いなる期待を背負って就役するも、既に海戦の主体は空母と航空機に移りつつあり、自慢の主砲が火を噴く機会はなかなか訪れなかった。太平洋戦争末期、大和は海上特攻隊として沖縄に送り込まれたものの、望んでいた敵戦艦との撃ち合いの場面は訪れず、代わって現れたアメリカ軍航空機の集中攻撃を受けて、昭和20年(1945年)4月7日、3千人余の将兵と共に東シナ海の海底に沈んでいった。




大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦大和の十分の一模型



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



戦艦大和の重厚感、機能美が伝わって来る素晴らしい出来栄えです。



砲弾
砲弾 posted by (C)重家

↑主砲弾の数々


左三つは戦艦大和の主砲弾で、左から46センチ91式徹甲弾、46センチ3式弾、46センチ91式徹甲弾の断面です。46センチ91式徹甲弾の全長は1.98メートル、重さは1.46トンもありますが、大和はこの砲弾を42キロ先まで飛ばす事が可能でした。しかし、実際の砲戦では、そんな遠距離に砲弾を放ってもまず命中しないので、砲戦距離は2万~3万メートルを想定していたでしょう。



回天
回天 posted by (C)重家

↑人間魚雷「回天」


これに人間が乗り込んで、敵艦に体当たり自爆する特攻兵器です。実戦にも投入されており、給油艦1隻、護衛駆逐艦1隻、揚陸艇1隻を撃沈しています。回天の戦没者は戦死、事故死、戦後の自決を含めて145人となっています。



特殊潜航艇海龍
特殊潜航艇海龍 posted by (C)重家

↑特殊潜航艇「海龍」


これも回天と同じく、人間が乗り込んで敵艦に向けて魚雷を放ったり、体当たり自爆するための特攻兵器です。戦争末期、本土決戦用に整備されていましたが、実戦に投入される事なく終戦となりました。



零式艦上戦闘機62型
零式艦上戦闘機62型 posted by (C)重家

↑零式艦上戦闘機62型


大和と共に名高い零戦の改良型です。戦争末期に制式化されたもので、初期型より火力が強化されています。


13mm機銃
13mm機銃 posted by (C)重家

↑零戦に搭載された13ミリ機銃



重巡洋艦摩耶
重巡洋艦摩耶 posted by (C)重家

↑重巡洋艦「摩耶」の模型


大和ミュージアムには、これ以外にも多数の日本海軍の艦艇模型が展示されています。
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大和ミュージアム 1

大和ミュージアムは、広島県呉市にある博物館である。正式名は呉市海事歴史科学館と言って、日本海軍や呉軍港の歴史、そして、世界最大の戦艦大和についての展示、紹介がなされている。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑大和ミュージアム


左手にあるのが大和ミュージアムで、奥には自衛隊の潜水艦「あきしお」が展示されています。そして、博物館手前には、旧日本海軍の戦艦「陸奥」の装備品が展示されています。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦「陸奥」の41センチ主砲の砲身


陸奥の主砲は45口径41センチ砲だったので、これを掛け算すると砲身の長さは18.45メートルとなります。ちなみに大和の主砲は45口径46センチ砲だったので、砲身長は20・70メートルです。戦艦「陸奥」は長門型戦艦の2番艦として建造され、大正10年(1921年)に就役しました。昭和11年(1936年)には大改装を施されて面目を一新し、全長224、9メートル、全幅34、6メートル、排水量3万9千トンの巨艦となります。長門型は、41センチ砲を8門搭載しており、大和型に次ぐ有力艦と見なされていました。しかし、陸奥は昭和18年(1943年)6月8日、謎の大爆発(不祥事を起こした乗員の自爆が疑われる)を起こし、1121人の乗員を巻き添えにして山口県柱島沖に沈んでいきました。戦後、その装備品が引き揚げられて、各所に展示されています。



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦陸奥の主舵



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜水艦あきしお


まずは、あきしおから見る事にしました。全長76・2メートル、排水量2250トンあるとの事で、間近で見ると巨大です!


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑狭い通路


巨大な艦体とは裏腹に、内部は狭く入り組んでいます。


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑乗員の寝台


ここが乗組員のプライベート空間です。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑艦長室


艦長は艦船で一番階級が高いので、個室が設けられていますが、それでも狭いです。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜望鏡


覗いているのが艦長で、周りの人が乗組員だと思われます。潜水艦の乗員て、随分、高齢なんですね。 ( ̄Д ̄;;


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑あきしおの艦首


かすかに魚雷発射管の跡が窺えます。

観音寺城

観音寺城は、滋賀県近江八幡市安土町にある山城である。この城は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれていて、全国屈指の山城とされている。城には多くの石垣が用いられており、往時には千以上の郭(くるわ)が張り巡らされていた。麓から眺めるとさぞかし壮観だった事だろう。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓から眺める観音寺城



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓にある日吉神社



観音寺城に登るには、安土城考古博物館から桑実寺を経て登るルートもありますが、今回は日吉神社から観音正寺を経て登るルートを取りました。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音寺正寺へと続く石段



この様な石段がどこまでも続きます・・・登った日は9月初旬でしたが、うだるような暑さで汗だくとなり、セミも鳴きまくっていたと記憶しています(;´д`)ゞ アチィー!!山上部ではスズメバチとも遭遇しましたΣ(゚Д゚;)



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音正寺


この寺を正面から見て左手を下ると、観音寺城への道があります。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸跡


六角氏の屋敷があった場所です。今はただ、静寂な空間が広がるのみでした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸手前の石垣


昔は立派な門が構えてあったはずです。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑家臣の屋敷跡


六角氏は君臣が一つにまとまっていれば、観音寺城も強固な城となっていたでしょう。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

繖山(きぬがさやま)山頂部から眺める安土山


安土城と観音寺城は、尾根続きとなっています。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑湖東平野


昔の近江国は、日本有数の穀倉地でした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑石垣


写真では掴み難いでしょうが、奥にあるのはかなりの巨岩です。この観音寺城は戦国期の城としては珍しく、かなりの石垣が散見出来ます。今でこそ寂れていますが、往時には立派な屋敷が建ち並んで城主と家臣が住まわり、その他にも多くの人々が城を維持したり、警護するために暮らしていました。

萩の史跡

山口県北部にある萩市は、多くの明治の偉人を生んだ事で知られています。その偉人達の住居や、その他の史跡を一部ですが紹介していきたいと思います。


萩市内
萩市内 posted by (C)重家

↑萩の城下町


萩市内を見学する場合、道が狭い上、入り組んでいるので、レンタサイクルでの散策をお勧めします。東萩駅に幾つかのレンタサイクル屋があります。



萩反射炉
萩反射炉 posted by (C)重家

↑萩の反射炉


反射炉とは、西洋で開発された金属溶解炉の事です。幕末、欧米列強による外圧が増してくると、危機感を持った幕府や各藩は、鉄製の洋式大砲を鋳造するため反射炉の導入を始めています。この萩の反射炉は、安政3年(1856年)に作られた試験炉だと見られており、実用炉では無かったようです。しかし、現在、反射炉が残されているのは萩と、伊豆の韮山の2ヶ所だけなので、非常に貴重な遺構となっています。



萩市内
萩市内 posted by (C)重家

↑高杉晋作の生誕地


高杉晋作(1839~1867年)は倒幕の中心人物の1人で、奇兵隊の設立者としても知られています。ここを訪れた時は、残念ながら午後5時過ぎで中を見学する事は出来ませんでした。



萩市内
萩市内 posted by (C)重家

↑円政寺


ここは、高杉晋作と伊藤博文が幼年時代に学んだ場所であるそうです。



伊藤博文旧宅
伊藤博文旧宅 posted by (C)重家

↑伊藤博文の旧宅


伊藤博文(1841~1909年)は、安政元年(1854年)から明治元年(1868年)までここに住んでいました。日本の初代内閣総理大臣となる人物の住居とは思えない、質素な作りです。


玉木文之進旧宅
玉木文之進旧宅 posted by (C)重家

↑玉木文之進旧宅


玉木文之進(1810~1876年)は吉田松陰の叔父にあたる人物で、優れた学識を有しており、松下村塾を開いて付近の児童の教育に当たりました。吉田松陰や乃木希典も幼年時代はここで学び、厳しい教育を受けて人格を形成していきました。松蔭は玉木文之進に大きな影響を受けて、後に松下村塾の名称も受け継ぎます。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家

↑松下村塾


ここは憂国の思想家、吉田松陰(1830~1859年)の教えの場として、余りにも有名です。松蔭はただ机の上で論じるだけでなく、非常な行動力も有していました。そして、物腰柔らかい松蔭の内に秘めた激情は、塾生達にも受け継がれていきました。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家


↑松蔭幽囚室


松蔭は最初、この狭い幽囚室で講義をしていました。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家

↑松下村塾


この小さな小屋から高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、山県有朋、前原一誠などの、錚々たる面々が巣立って行きました。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家

↑松下村塾


ここで、若い師弟が盛んに時世を討議していたのでしょう。この小さな小屋から歴史が生まれたと考えると、感慨深いものがあります。

原爆ドーム

原爆ドームは、広島県広島市にある世界遺産である。


建物は、大正4年(1915年)4月に建てられたもので、戦前には広島県産業奨励館と呼ばれていた。設計に携わったのはチェコ人建築家のヤン・レッツェルで、かつては県内、県外の様々な物品が陳列されていた。昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発すると、広島は日本有数の軍都として、その作戦行動を支える。しかし、戦況は悪化の一途を辿り、アメリカ軍機による本土空襲が始まると、広島も攻撃目標の1つになる。1945年7月16日、アメリカニューメキシコ州の砂漠地帯で、人類初の核実験が成功すると、アメリカはこれを日本各地に投下する事を決定する。


昭和20年(1945年)8月6日、アメリカのB-29爆撃機が数機、広島上空に飛来し、その中の1機エノラ・ゲイ号が、リトルボーイと名付けられた原子爆弾を投下する。8時15分、原子爆弾は産業奨励館の北西約160メートル、高度約580メートルの地点で炸裂した。産業奨励館は、爆風がほとんど真上から吹き抜けたため、全体の倒壊は免れた。しかし、中にいた職員30人余は全員死亡し、建物も鉄骨と煉瓦の構造材を残すばかりとなった。爆発の瞬間に100万度以上の火球が形成され、地表でも4千度の高温に包まれた。言わば、小型の太陽が出現したようなもので、爆心地から500メートル以内にいた人々は文字通り焼き尽くされ90パーセントが即死した。


爆心地から1キロメートルの距離にあっても1800度の熱線に襲われ、60パーセント以上が即死状態で、生き残った人間も重度の火傷を負って、水、水と呻きながら次々に死んでいった。広島県では当時、35万人余の人々が住んでいたが、1945年12月までに14万人余が命を失った。戦後も被爆者の間には、放射線被爆によると考えられる癌や白血病を発症して、多くの人々が死んでいった。広島の人々はそれでも廃墟から立ち上がり、徐々に徐々に復興を進めてゆく。そして、広島で生き残った人々は、産業奨励館をいつしか原爆ドームと呼ぶようになり、その惨禍を後世に伝えるため保存を決定する。以後、定期的な補修を受けながら、現在にその姿を留めている。平成8年(1996年)12月には、世界遺産に認定された。



広島城
広島城 posted by (C)重家

↑広島城


広島城は、天正17年(1589年)、中国地方の大大名、毛利輝元によって築かれました。慶長5年(1600年)、毛利氏に代わって、福島正則が安芸に入ると、広島城も改築されました。元和5年(1619年)、正則が改易されると、代わって浅野長晟が入り、以後代々、浅野氏の居城として用いられます。明治維新後も天守閣は残されて国宝にも認定されましたが、原爆を受けて惜しくも倒壊してしまいました。



広島城
広島城 posted by (C)重家

↑広島城



原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家

↑原爆ドーム



原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家



原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家



原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家

↑原爆の子の像


原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家

↑平和の灯


原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家

↑平和記念公園


毎年、8月6日になると、ここに多くの人々が集って、慰霊式が執り行われます。


原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家

↑原爆死没者慰霊碑



原爆ドーム
原爆ドーム posted by (C)重家

↑祈りの泉と、広島平和記念資料館


原爆投下は許し難い戦争犯罪であり、これは後世に渡って語り継がれて行くべきものです。しかし、ただその非を問うだけでなく、何故、日本が戦争に走っていったのかも知る必要があるでしょう。二度とこの様な惨劇が起こらないようにせねばなりませんが、口先だけでは平和が実現しない事も事実です。世界には、話し合いや常識が通じない国が確かに存在しています。国家、国民とも長期的な視点に立ち、軍事、外交面で然るべき備えをしてこそ、平和は保たれるでしょう。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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