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白旗城 1

白旗城は、建武3年(1336年)、播磨の実力者、赤松円心(則村 / 1277~1350))が白旗山に築いたのが始まりとされる。


後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を唱えて挙兵すると、円心はこれに加担する。しかし、鎌倉幕府打倒後、後醍醐天皇は独裁的な政治を始める。円心は倒幕戦に活躍したものの、恩賞もなく冷遇されたため、怒って播磨に引き込んだ。やがて、足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、南北朝時代の幕が開けると、円心は北朝の尊氏に味方した。しかし、尊氏は南朝軍との戦いに敗れて、一旦、九州へと逃れた。


尊氏を破った南朝側は、今度は円心を討つべく、新田義貞を始めとする6万人余り(実数は2万人ほど?)の兵を播磨に向かわせた。円心は、白旗城を盾に2千人余の兵をもってこれを迎え撃った。義貞は圧倒的な兵力を有しながら、天険の要害である白旗城を攻めあぐね、50日余りもこの地に釘付けとなった。


その間、九州で勢力を回復した尊氏は東上を開始する。新田義貞は、尊氏東上を聞くと白旗城より撤退を開始するが、ここで赤松軍の追撃を受けて大きな打撃を被った。義貞は体制を立て直すべく、兵庫まで兵を引くが、ここで尊氏との決戦となった。この戦いでは、衰亡した新田軍が目立った働きを示す事はなかった。南朝の楠木正成は1人奮戦したものの退勢は変わらず、正成は討死し、南朝側は総崩れとなった。


この後も、南北朝の戦いは続いてゆくが、湊川の戦いは勢力が逆転する大きな転換点となった。そして、この尊氏の勝利に大きく貢献したのが、円心であった。建武3年(1336年)、室町幕府が成立すると、尊氏は円心の功を評し、播磨守護職に任命する。その後、赤松氏はさらに発展し、播磨、美作、備前の三カ国の守護に任ぜられると共に、京極、一色、山名と並ぶ四職として重んじられた。以後、白旗城は赤松氏の本城として用いられる。


その後の赤松氏と白旗城の歴史

康安元年(1361年)、南朝が京を占拠し、赤松則祐は逃れてきた足利春王丸(後の足利義満)を白旗城に迎えた。


嘉吉元年(1441年)4月、赤松満祐が第6代将軍、足利義教を殺害すると云う大事件を起こす(嘉吉の乱)。この後、赤松一族は満祐諸共、征討軍によって討ち滅ぼされた。この時に白旗城も落城したと見られる。


その後、赤松氏の残党である、赤松政則(1445~1496)が御家を再興し、再び播磨、美作、備前の守護となって勢力を盛り返す。しかし、その本拠は置塩城に移り、白旗城は支城として用いられた。白旗城は、戦国期にも用いられていたようだが、廃城の時期は不明である。


戦国期に入ると、家臣であった備前の浦上氏や播磨の別所氏、小寺氏らが実力を付けてきて戦国大名化するに伴い、赤松氏は勢力を縮小させていった。慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦時には、赤松氏は僅か1万石の小大名となっていた。しかし、赤松氏は西軍に加担した事から、所領は没収され、名族、赤松氏はここに滅亡した。
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