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備中高松城 前

備中高松城は、織田家による中国攻めの際、その部将、羽柴秀吉によって水攻めにあった城として有名である。


高松城の築城年代は不明で、地元の豪族、石川氏が築いたのが始まりとされる。石川氏は備中の戦国大名、三村氏に仕えていたが、天正3年(1575年)、毛利氏の侵攻を受けて三村氏共々、攻め滅ぼされる。この時、三村氏に属していた清水宗治は、毛利氏に鞍替えして高松城主の地位に就いた。以後の宗治は毛利氏に従って各地を転戦し、深い信頼を得るようになる。


天正5年(1577年)、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨に入り、毛利氏との全面対決が始まった。この頃の戦場は播磨であったが、天正7年(1579年)、毛利輝元に属していた備前の戦国大名、宇喜多直家が織田信長に鞍替えすると、毛利家の戦線は一挙に後退し、清水宗治が守備する備中東部が最前線となった。そして、秀吉は播磨三木城、因幡鳥取城といった主要な城を落としていくと、天正10年(1582年)3月、今度は備中高松城を攻略すべく、姫路城を出立する。秀吉は攻撃に先立って黒田官兵衛を派遣し、宗治の誘降に取り掛かった。宗治は毛利に従ってまだ7、8年ばかりの外様であり、脈は十分あると踏んだのである。


だが、宗治はこの申し出を丁重に断った。それでも秀吉は諦めず、再び使者を送って説得せしめたが、結果は同じであった。秀吉は、武力をもって高松城を奪取する他、手は無くなった。同年4月、秀吉軍は高松城北方にある竜王山に陣取り、攻略戦に取り掛かった。秀吉軍は宇喜多軍1万余を加えた3万余の大軍団で、宗治は高松城を中心に6つの支城に5千人余の兵を配置して、これを迎え撃った。


高松城は低湿地の微高地に築かれており、平城ながら三方を沼に囲まれた要害堅固な城であった。秀吉は、高松城を強攻すれば犠牲は計り知れないと判断し、低湿地に築かれている事を逆に利用して、水攻めにする事を検討する。まず手始めに、高松城を援護する支城の攻略を開始した。同年4月25日、秀吉軍は冠山城に猛攻を加えてこれを落とし、100人余を討ち取った。続いて、加茂城、日幡城と落とし、5月2日には宮地山城を開城に追い込んだ。これで高松城を支える6支城の内、4つまでが落ちた。こうして障害を取り払った後、秀吉軍は堤防工事に取り掛かる。


秀吉は、金に物を言わせて農民多数を動員し、5月8日~5月19日までの僅か12日間で、高さ7メートル、長さ3キロメートルもの堤防を完成させたと云われている。(実際には高さはもっと低く、長さも数百メートルであったらしい)。上流の足守川の水が堤防内に引き込まれ、折からの梅雨の増水もあって、高松城の大部分が水に浸かった。これによって城方は、兵糧搬入と出撃はほぼ不可能となる。秀吉の方は、水攻めによって城方を封じ込める事に成功したので、自軍の大部分を援軍にやってくるであろう毛利軍主力に備える事が出来た。


これに対して毛利方は、4月中旬に小早川隆景の軍が後詰めにやって来たが、兵力不足で成すすべがなかった。5月21日になって、吉川元春の軍や毛利輝元の本隊が到着し、毛利方はようやく陣容が整った。この時、毛利方は総力を挙げた3万~4人余の軍勢を揃えたと云われているにも関わらず、積極的な動きを見せなかった。一つは、秀吉軍の包囲網がほぼ完璧で高松城に近寄り難かった事、二つは、最早、毛利家の劣勢は覆い難く、織田家との早期和平を望んでいたからである。秀吉は毛利方のそういった弱味を熟知した上で安土に使者を送り、信長の直接出馬を仰いだ。信長もこれを了承し、明智光秀ら畿内の諸将を率いて中国戦線に赴くと答えた。


毛利方は、信長の直接出馬を知って焦りが募る一方であった。秀吉の一軍だけでも押され気味であるのに、この上に信長の本隊が現れれば、毛利家は一挙に崩壊しかねなかった。すでにこの年、天正10年(1582年)3月には、名立たる強豪であった武田家が、織田家の大攻勢を受けて滅亡している事実もある。毛利方はそうなる前にと交渉を試みたが、秀吉は有利な情勢を背景に大幅な譲歩を求めてきた。すなわち毛利領国、五カ国の割譲と、清水宗治の切腹を要求してきたのである。


毛利方にとって領土の割譲は、最早、受け入れざるを得なかったが、毛利家に忠節を尽くし、今でも城を守り続けている清水宗治の切腹だけはどうしても受け入れ難かった。こうして和平交渉は暗礁に乗り上げたが、秀吉には焦る素振りは無かった。何故なら信長の親征を前にして、毛利方に更なる譲歩を要求出来る立場にあって、交渉を急ぐ必要などなかったからである。だが、信長が中国戦線に現れる事は永久になかった。天正10年(1582年)6月2日、本能寺において、織田信長、信忠父子が明智光秀によって討たれたからである。


同年6月3日夜半、高松の秀吉陣営にて1人の密使が捕らえられた。その密使が携えていた書を見て、秀吉は信長の死と明智光秀の反逆を知った。秀吉は長年仕えてきた主君の死の衝撃と、自らが置かれている危険な状況を鑑みて暗澹たる思いになった。しかし、秀吉に逡巡する時間は無かった。毛利方に信長の死が知れ渡るのは時間の問題であり、そうなれば光秀と毛利氏の挟撃を受ける恐れがあった。実際、そうしようとして光秀の密使が来たのである。


毛利方に正確な情報が伝わる前に、秀吉には直ちに和平交渉をまとめる必要があった。秀吉は密使を斬り、周辺の街道を封鎖して厳重な情報統制を行った。その上で秀吉は、この6月3日の夜中か、翌4日早々に毛利家の使僧、安国寺恵慶を呼び出した。会談にあたって秀吉は、面目上、清水宗治の切腹は譲れないが、領土の割譲に関しては、ほぼ現状を維持する形で講和すると大幅な譲歩案を示した。


千両役者の秀吉は信長の死を秘し、「上様の親征を前にして、これが最後にして最良の和解の機会である」と説いた。毛利方にはまだ、信長の死は伝わっていなかった。安国寺恵慶はこれが最良の和解条件と信じて秀吉陣から出ると、その足で高松城へと赴いて、宗治に和解条件の事を伝えた。暗に切腹を促すためである。この頃、高松城では餓死者が出始めるなど、篭城の限界に近づいていたらしく、すでに宗治は自身の切腹と引き換えに開城する決意を固めていた。


そして、宗治は自らの命一つで、高松城の将兵と毛利家が救われるのならば本望であると述べ、直ちに切腹開城の運びとなった。6月4日巳の刻(午前10時)、宗治は湖上に船を浮かべ、敵味方多くの将兵が見守る中、「浮き世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」との時世の句を残すと、従容として死の徒についた。清水宗治、享年46。そして、宗治の兄、月清入道や、弟の難波伝兵衛、毛利家の軍監、末近左衛門らもその後を追った。


この清水宗治の自刃をもって、毛利家と織田家との和解は成り、高松城は秀吉軍に明け渡された。そして、毛利方が信長の死を知ったのは、そのすぐ後の6月4日夜半か、翌5日であったようだ。毛利方では、この機に乗じて秀吉を襲わんとの声も挙がったが、すでに高松城を明け渡して和約を結んでいる以上、名分が立たなかった。それに和約を破棄して攻撃せんとしても、秀吉はまだ陣を固めたままであり、隙は無かった。


また、毛利方がこの時に得ていた上方の情報は、はなはだ不正確で(明智光秀と柴田勝家が結託して謀反を起こしたと見なしていた)判断に迷っていた事もあり、ここは一旦、兵を引き情勢を見極める事に決した。そして、6月6日、毛利軍は、当初の和約通りに兵を引いた。秀吉は、この毛利軍の陣払いを見届けた上で撤退に取り掛かった。そして、宇喜多軍1万人余を毛利軍への備えとして残すと、明智光秀と雌雄を決すべく、2万人余りの兵を率いて急速に東上を開始するのである。


毛利方は、この秀吉の撤退を黙って見逃した。間に宇喜多軍が立ちはだかっているとは云え、もし、この時に大挙して毛利方が襲い掛かっていれば、情勢はどう転んでいたか判らない。本能寺の変後、織田家の関東方面軍司令官だった滝川一益が、北条家の逆撃を受けて大敗北を喫している事実もある。また、光秀の密使が迷わずに毛利陣に手紙を届けていれば、これまた情勢は大きく変わっていただろう。そうなれば、高松城の開城も清水宗治の自害も無くなり、おそらく、毛利軍は大挙して反撃を試みていただろう。秀吉は強運の持主であった。だが、強運だけでなく、好機を逸する事なく行動した秀吉には、やはり天下人の器があったのだろう。


歴史の転換点の舞台となった高松城であるが、落城後は宇喜多氏の持ち城となり、江戸時代初期には廃城となった。清水宗治の死後、その嫡子の景知は、秀吉から大名に取り立てようとの誘いがあったと云うが、これを断って小早川家の家臣として仕えた。その後、小早川家が断絶した事から景治は毛利家に復帰し、父以来の忠勇を評されて重臣格の身上となって、そのまま明治の世まで続く事となる。

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