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ナポレオンの死 不可思議な死因

2011.10.27 - 歴史秘話 其の二
1821年5月5日、ナポレオンは51歳で死亡する。その死因は、セント・ヘレナ島の熱帯気候の過酷な生活や、島の総督ハドソン・ロウからの締め付けが原因とする向きが多い。しかし、その死因は今だはっきりとはしていない。後年、ナポレオンのものと伝えられる頭髪を科学検査した結果、平常値を遥かに上回る砒素が検出されている。それにナポレオンが生前に訴えた症状は、砒素中毒と余りにも良く似ていた。頭髪は薄く細くなり、体毛のほとんどが抜け落ちる・歯茎の腫れ・強い光線を嫌う・両足の冷え・肝臓の肥大・右上腹部の痛み・空咳・重度の不眠・執拗な便秘・などである。砒素は有害で、摂取すると様々な中毒症状を引き起こして人を死に至らしめる物質である。砒素の量を加減する事で症状を左右する事も可能で、これを少量ずつ長期に渡って摂取させれば、病気の様に見せかける事も出来る。しかも無味無臭で、食べ物や飲み物に混入しても誰にも分からない。 


これを入れられるとすれば、取り巻きの親しい人物しかいない。最も疑わしいのは邸宅の内邸係で、ねずみ退治用の砒素を扱う事もあったモントロン将軍である。モントロンは1783年7月21日生まれで、1815年8月8日のナポレオンのセント・ヘレナ行きにつき従った時は32歳だった。旧貴族の出身でナポレオンよりも、それに反するブルボン王家に縁が深い人物だった。賭博好きの大変な浪費家で、兵隊への給金を横領するという不祥事も起こしている。ナポレオンとはそれほど親しい間柄では無く、ナポレオンがエルバ島から脱出して、百日天下を握った際も駆けつけていない。にも関わらず、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて全てを失った時、何故か突然、目の前に現れてセント・ヘレナ行きに従った。この時、モントロンは給金横領で訴えられており、更に破産状態で債権者にも追われていたから、他に行き場が無かったのだった。 



モントロン
↑モントロン将軍 


島でのモントロン夫妻は、ナポレオンの遺産に預かれる事を期待して、献身的に尽くした。ナポレオン自身も遺産目当てであると気付いていたが、細部にまで行き届いたその世話働きには感じ入って、夫妻を深く信頼するようになる。そして、夫人のアルビーヌとも夜を共に過ごす関係となった。1818年1月26日には、モントロン夫人アルビーヌはナポレオンに良く似た女児(翌年死亡)を出産している。1816年12月30日、ナポレオンから一番寵愛を受けていたラス・カーズ伯爵が離島すると、モントロン夫妻はこれを喜んでいたとグウルゴウ将軍は日記に記している。そのグウルゴウ将軍もモントロンとの仲違いの末、1818年2月18日に島を去った。 


側仕えの者が減ると、モントロン夫妻に対する寵愛は益々深まっていった。もし、ナポレオンの遺産が目的であったとするならば、取り巻きの人間は少なければ少ないほど良い。その方が、より多く遺産に預かれる見込みが立つからだ。1819年7月12日、モントロン夫人アルビーヌは体調を崩して島を去る事になると、ナポレオンからは20万フランの手形と、ダイヤを散りばめた肖像入りの金の小箱が贈られる。ナポレオンはアルビーヌとの別れを惜しんで、涙を流した。そして、島に留まるモントロンのためにも、4万4千フランの年金と、14万4千フランの手形を贈与した。 



アルビーヌ
↑モントロン夫人アルビーヌ 


モントロンは邸宅の酒蔵係で、ワイン貯蔵庫の鍵をもっていたようだ。酒蔵にはナポレオン専用の樽と瓶があって、モントロンがこれを管理していた。もし、モントロンに悪意があれば、砒素を盛るのは容易である。それにモントロンは邸宅の責任者であったので、ねずみ退治用の砒素も管理していた。この砒素は、総督のロウからモントロン宛てに送られたもので、記録にも残されている。ナポレオンは専用のワインを、イギリス植民地南アフリカのコンスタンシアから取り寄せていた。このワインはイギリスの卸売り商人の手を経て、セント・ヘレナに持ち込まれていた。そして、これを樽から瓶に詰め替えていたのが、モントロンだった。 


ナポレオンの健康は1817年から変調を来たし始め、1818年からは、はっきりと悪化していった。 

1818年春、セント・ヘレナの住人ベツィ・バルコーム曰く、「病気のための変わりようは見ていて辛いほど。顔色は文字通り蜜蝋(みつろう)の様、両頬は垂れ下がり、くるぶしは腫れ上がって肉が靴からはみ出していた。ひどく弱っていて、一方の手を脇の机に、もう一方を付き添いの肩にかけないと立っていられなかった」 


1818年2月24日には、尋常ではない事件も起こっている。ナポレオンの信頼篤い給仕長チプリアーニと、召使いの女性とその子供が突然、下腹部の激しい痛みを訴えて昏倒し、3日ともたずに3人とも死んでしまった。召使いの女性はチプリアーニの愛人だった。3人で飲み物や食べ物を食べた際、何かしらの毒に当たった可能性がある。チプリアーニは酒蔵庫の合鍵を持っていたようなので、もしかするとナポレオン専用のコンスタンシア・ワインを盗み飲んだのかもしれない。砒素はグラス1杯ぐらいなら直ちに症状が現れる事は無いが、一度に瓶を何本も飲み干すような事があれば、急性砒素中毒で短期間で死に至る。その事件から数ヵ月後、ナポレオンから送られたワインを飲んだベルトラン夫妻は、その日からしばらく病気になる出来事も起こっている。ナポレオン自身はワインを瓶1本飲むような事はせず、1日にグラス1、2杯を飲む程度だった。もし、これに砒素が含まれていたとすれば、ゆっくりと症状は進行していく事になる。 


1818年7月、侍従マルシャンの記録、「皇帝は風呂から出られると、吐き気がして胸が悪くなり嘔吐された。セント・ヘレナに来て初めての事である」 


1818年7月26日、侍医オミーラの診断書、「肝臓の機能低下、気管支炎、消化不良と便秘に加え、右腹部に焼けるような痛み。胆汁質の嘔吐あり、胃の右側は腫れ、押さえると鈍痛。眩暈が頻発」 

1819年、侍従マルシャンの回想、「両足が冷えて、どうしても温まらない。水銀の丸薬を飲み出すと、脇腹に剃刀で切られるような痛みが感じられる。お顔全体が青白くなり、お体の毛が抜け落ちてしまった」 

1820年7月19日、侍医アントムマルキの報告、「皇帝は発熱、震え、激しい空咳をして、苦い胆汁を吐いた」 

1821年1月29日、侍医アントムマルキの報告、「極度の衰弱。どんよりとしてほとんど視力の無い目。神経質な空咳。口の中が乾いている。胃の痛み」 

1821年4月13日、ナポレオンはマルシャンとモントロンを部屋に呼び、口述で遺書の作成を始める。この時、モントロンは、ナポレオンから我が息子と呼ばれるまでの信頼を受けており、2人で相談しつつ、遺言書をまとめていった。 

1821年4月29日、侍医アントムマルキの報告、「昨日から聴力がとても衰え、老人に向かっているように大声で叫ばねばならなかった。こんな事は初めてだ」 

1821年5月5日、17時50分、昏睡状態に陥ったナポレオンは息を引き取った。侍医のアントムマルキがその両目を閉じた。 


1826年、セント・ヘレナ行きに従った主要人物達に、ナポレオンの遺言に従って遺金の分配が成された。ベルトラン伯爵に28万5千フラン、ラス・カーズ伯爵に6万フラン、忠実な従僕マルシャンに24万8千フランだった。だが、モントロンは他を突き放す135万フランを受け取っていた。これは、ナポレオンから最も多くの遺産を受け取った事になる。にも関わらず、モントロンは浪費を重ねて、大量の負債を抱え込んだ。そして、1828年には妻のアルビーヌとも別れ、翌1829年には法廷から破産宣告されるに到った。1846年、モントロンは回想録を出版する。その中で、当時、誰も問題には取り上げていなかったのに、ナポレオンに毒殺の疑いは無いと言明している。モントロンの回想、「ナポレオンが毒入りの食事や飲み物を口にする事はあり得ない。自分が皇帝の食卓に出る全ての料理と飲み物を試飲していたからだ」。 


1853年、モントロンは多くの謎を残したまま、70歳で死去する。この時、モントロンの息子は、廃兵院(アンヴァリッド)に眠るナポレオン一世の側に父の棺が置かれるよう、要望した。同じセント・ヘレナの忠臣であったベルトラン伯爵の棺も、廃兵院に納められていたからだ。しかし、時のフランス皇帝ナポレオン3世は、モントロンの素行不良を問題視してか、それとも何らかの疑いを持っていたからか、「廃兵院にモントロンのための場所は無い」とこれを拒否している。モントロンがナポレオンを砒素で暗殺したという確たる証拠は無く、あくまでも疑惑でしかない。それにモントロンが、身を磨り潰す様な献身でナポレオンに尽くした事も否定出来ない。だが、ナポレオンが死んで、最も受益を被ったのも事実である。ナポレオン死去の現場を描いた、マルシャンによるスケッチが残されている。これにはベルトラン、マルシャン、アントムマルキらの署名が載せられていた。しかし、モントロンだけは意味深げに、次のような言葉を書き込んでいた。 

「私がナポレオンの目を閉じた」 

ナポレオン死去時、実際に目を閉じさせたのは、侍医のアントムマルキであったのだが・・・ 


モントロン
↑モントロン将軍
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セント・ヘレナのナポレオン 孤独と苦悩の日々 2

2011.10.16 - 歴史秘話 其の二
1820年の中頃を迎えると、ナポレオンの健康状態は目に見えて悪化していた。体力は衰え、屋内で過ごす日が多くなる。肉を飲み込む事が出来なくなり、肉汁だけを飲んだ。侍従達や医師は、ナポレオンの許す範囲で懸命に治療に務めたが、良くなる気配は無かった。1821年を迎えると、四輪馬車に乗る事も、散歩に出るのも稀になり、3月17日にはついに寝たきりの状態となる。ナポレオンは胃の幽門がやられていると言っていたが、当時の医療ではどうしようもなかった。3月後半、ナポレオンが口に出来るのは、少量のゼリーとスープのみだった。イギリス人軍医はその様子を見て、吐剤を飲ませようとしたが、ナポレオンはこれを拒否する。


ナポレオンは医者を信用しておらず、軍医に向かって、「そなた達医者は、無分別に仕事をしておられる。医学は命を救うよりも、奪う事の方が多いのですぞ」と言うのだった。当時の医療水準はまだまだ低く、誤った治療法が満延して、それによって命を落とす者は実に多かった。明敏なナポレオンは、それを察していたのだろう。ナポレオンは、カンゾウ(漢方薬に用いられるマメ科の多年草)の根が入ったボンボン入れを持ち合わせており、これが唯一好みの薬だと語っていた。そして、これをジュースにして飲むのが常だった。4月、イギリス人軍医から、広くて風通しも良い新居が完成したと告げられたが、最早、何の意味も無かった。ナポレオン曰く、「遅きに失するとはこの事ですぞ。今になって新居の鍵を渡されても、余はもう終わりだ」


4月13日、ナポレオンは僅かなゼリーしか受け付けられなくなり、それすら戻すようになった。そして、口述で遺言書の作成を始める。4月16日、ナポレオンはぶどう酒に浸したビスケットを一枚、口にしたがすぐに戻した。この日、侍従達が心配する中、自ら遺言状を書き続けた。ナポレオンは医者を信用していなかったが、フランス人軍医のラレイだけは手放しで賞賛した。「ラレイはエジプトでもヨーロッパでも、どれだけの兵士達の病気を看てくれたか。隊列の先頭から後尾まで走り回って、看病していた。何という男だ。実に勇敢な、立派な男だった。余は心から敬意を払ったが、決して裏切られる事はなかった。もし軍が記念碑を建てるなら、ラレイをモデルにするべきであろう」。(ドミニク・ラレイ医師、当時の劣悪な医療の改善に力を注ぎ、敵味方の区別なく治療にあたった時代の良心)


4月20日、ナポレオンはイギリス人軍医に、イギリス政府を非難する言葉を伝えた。

「余は誠実なもてなしを求めて、英国政府のもとにやってきた。この世には、あらやる真っ当なものがあるにも関わらず、イギリスは鉄鎖で余に答えた。最低限の家族との連絡さえ禁止され、妻と息子の消息は一切知らされなかった。住居として住むには最も適さない場所が与えられ、殺人的な熱帯性気候にも悩まされた。そして、全ヨーロッパを駆け巡っていた余が、四つの壁に閉じ込められねばならなかった。先生、これが貴国の政府から受けた、もてなしですぞ。余は詳細な長期計画で暗殺されつつある。あの忌まわしいハドソン・ロウは貴国の大臣達の手先だ。余はこの恐ろしい岩山で死し、イギリスの統治するこの屋敷に死という汚名を遺贈する」


5月3日、ナポレオンは、ぶどう酒を垂らした砂糖水を少し口にするのみだった。5月4日、しゃっくりが出るようになり、うわ言をもらすようになった。それは、フランス、我が息子、軍隊と聞き取れた。5月5日、17時50分、侍従達に見守られながら、稀代の征服者は逝った。ナポレオン・ボナパルト、51歳。一族や家族の付き添いも無い、なんとももの悲しい最後であった。5月7日、ナポレオンの顔からデスマスクが取られた。ナポレオンは生前、息子にも同じ病気が生じた時に備えて、遺体を解剖し、自らの病根を明らかにするよう遺言していた。それから、心臓と胃はメチルアルコール入りの銀器に収めて、妻のマリー・ルイーズ宛てに送るようにとも伝えていた。



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↑ナポレオンの死去


ナポレオンの遺体解剖にはフランス人侍医アントムマルキと、ハドソン・ロウから派遣されたイギリス人医師6人が加わって、作業が行われた。

●アントムマルキによる解剖記録。

皇帝は著しく痩せ、私が赴任した時の半分以下になっている。

遺体には頭に傷跡、左手の薬指に傷跡、左の腿(もも)に深い傷跡。

頭頂から足の先まで1メートル67センチ42ミリ

首は短いが正常、胸が広く、良い体型をしている。

心臓、肺、腸は正常だった。肝臓は充血し、通常以上の大きさだった。

胃の大きな湾曲部を切開すると、不快な刺激臭のする黒ずんだ液体物質が観察された。それを取り除くと、広範囲に癌性腫瘍の瘍が見られた(イギリス人医師団の見解は、癌に発達する可能性のある硬性癌種)。癌性腫瘍は特に胃の内壁上部を占め、上部の噴門開口部から、幽門の2、5cmのところまで広がっていた。胃の潰瘍性内壁面は著しく膨らんで、固くなっていた。


ナポレオンの肝臓は著しく肥大していたのだが、不思議な事にこれは問題にはされなかった。そして、ナポレオンの胃に癌性腫瘍が発見された事から、直接の死因は胃癌となった。しかし、これにはハドソン・ロウから医師団への強要があったとされる。肝臓疾患となると、ナポレオンを不健康な環境に留め置いた、自分の管理責任が問われかねない。そこでロウは、イギリス人医師を呼んで肝臓疾患に関するくだりを報告書から削除させてもいる。侍医アントムマルキの回想によると、胃壁は癌に見える硬性癌種に覆われていたが、胃癌ではなかったと述べている。


アントムマルキの解剖所見では、ナポレオンは著しく痩せていたとなっているが、正反対の証言もある。ナポレオンが死亡する少し前、島の名士ウィリアム。ダブトン卿が訪ね見たところ、「支那の豚みたいに肥え太っていた」と述べている。解剖に参加したイギリス人医師ワルターヘンリーは、1823年9月23日のロウへの報告で、「ナポレオンの体の表面全体が脂肪に覆われていました。脂肪の層は5センチ余りありました」と述べている。ナポレオン死去時、従僕のマルシャンがその時の光景をスケッチに描いているが、それを見るとナポレオンの死に顔はふくよかに見える。普通、胃癌になると痩せ衰えていくので、肥満になるのはおかしい。いずれにせよ、ナポレオンの死因は謎に包まれており、今だにはっきりしていない。


ナポレオンを追い込んだハドソン・ロウであるが、その後、同国人のイギリス人にまでその狭量さを軽蔑され、不遇な生涯を送る事になる。1816年8月18日の会見時、ナポレオンはロウに向かって、こう告げている。

「余の名声は不朽のもので、イギリス政府が書かせた誹謗中傷など無意味である。余の名前は太陽のごとく永遠なのだ。君が振りかざす命令を出している当の政府は、いつの日か君を捨て去り、イギリス国民は君を非難するだろう。世界のどこに行っても、世論は君を追い詰めるだろう。やがて君は、この予言を辛い思いで思い出す事になる。ナポレオン皇帝の呪いが君の上に襲い掛かる事を覚悟しておくがよい」


この予言は的中し、ナポレオン自身による非難の言葉、取り巻きの侍従や侍医達の非難の言葉は歴史となって書き残され、ロウは永遠に汚名を着る事となった。そして、ロウは閑職にまわされ、社交界からも敬遠されて孤独に陥った。これがナポレオンの彼に対する復讐であった。

ハドソン・ロウの述懐

「セント・ヘレナ滞在の頃は、自分の言動が歴史に残るなど、想像もしていなかった。まさか、ボナパルトが口にした悪口が海を越えて伝わろうとは。しかし、こうして歴史は完成し、自分の言動は永遠の文字で書かれて、一行も消し去る事は出来ないのだ・・・」


ヨーロッパ全土を駆け巡り、一時はその大半を制した男が一転、絶海の孤島に閉じ込められ、憂悶の日々を送らねばならなかった。しかし、絶望の淵にあってもナポレオンは決して自暴自棄にはならず、己を貫き通した。そして、最後は激しい痛みや嘔吐で何度も中断しながらも、多くの遺言状を手書きで、それも正確に、しっかりとした字で書き込んでいった。その遺言状は、妻マリー・ルイーズや子息のナポレオン2世だけでなく、共に戦った将軍や、一兵士、エジプト転戦時の召使いにまで到る、非常に行き届いたものだった。それは、この人物が最後まで強烈な意志と精神力を宿していた事を物語っている。ナポレオンの遺体は、セント・ヘレナ島の渓谷の木陰に埋葬された。ナポレオンは生前、自らの遺体をフランスの母なる大河セーヌの畔に埋葬するよう遺言していたが、その願いが適うのはそれから20年後、1840年の事であった。現在、ナポレオンの遺体は、パリにある廃兵院礼拝堂(アンヴァリッド)に安置されている。遺言にあったセーヌの畔では無かったにせよ、心から愛したフランスの大地に身を委ね、深く静かな眠りについている。


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↑廃兵院礼拝堂(アンヴァリッド)に安置されているナポレオンの遺体


主要参考文献 「ナポレオン最後の日」




セント・ヘレナのナポレオン 孤独と苦悩の日々 1

2011.10.16 - 歴史秘話 其の二
1815年6月18日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはワーテルローで大敗を喫し、退位を余儀なくされた。そして、ナポレオンはイギリス軍艦ベレロフォン号に投降して、その身を委ねた。ナポレオンはイギリス本土在住を希望し、その法の下での保護を要請した。しかし、イギリス政府が下した決定は、無情にも、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セント・ヘレナへの移送であった。無論、ナポレオンはこれに強く抗議した。

「余はイギリスの捕虜ではない。余は貴国の法の保護下に身を委ねるべく、自由意志をもって赴いたのだ。イギリス政府は、個人の権利ともてなしという侵すべからざる権利を保障する、自らの国家の法に違反している。余は抗議し、イギリスの名誉に訴える」

だが、イギリス政府の決定は覆らず、1815年8月8日、ナポレオンは望まぬセント・ヘレナの旅路についた。


ナポレオンに付き従ってセント・ヘレナに赴く人員は、ベルトラン内大臣とその妻子、ラス・カーズ伯爵とその子息、モントロン将軍とその妻アルビーヌ、グウルゴウ将軍、イギリス人外科医オミーラ、それに従僕10人だった。一行を運ぶのはイギリス人提督コックバーンで、彼はナポレオンに敬意を払って丁重に対応した。8月9 日、フランス本土が視界に入ってくると、ナポレオンはデッキの上で帽子を取り、「さらば、勇士達の大地フランスよ、さらば」と万感の思いを込めて、つぶやいた。ナポレオンは航海中、読書や、従僕との歓談、英語学習をしながら日々を過ごした。度々デッキに現れてはイギリス人水兵と会話をし、気に入れば自室に招いて歓待した。夜になればトランプゲームに興じたが、いつも負けてばかりだった。


10月15日、船はセント・ヘレナに到着したが、一行は目の前に広がる荒涼たる光景に暗然となった。島には熱帯の焼け付くような太陽光が照り返し、周囲は300~600メートルの岩山がそびえたって、草木もほとんど生えていなかった。10月17日、ナポレオン一行は島に上陸したが、ロングウッド台地に用意された邸宅はまだ建設中であったので、しばらくは、島の中心地であるジェームス・タウンに滞在する事になった。ナポレオンはここでベツィ・バルコームと言う14歳の少女と知り合い、大の仲良しになった。ベツィはお転婆娘で、ある時はナポレオン一行に体当たりして、一行が倒れたり、ナポレオンがよろめく様を見ては大笑いするのだった。また、ある時はナポレオンの帯剣を引き抜いて、その頭上で振り回した事もあった。ベツィにそんな危険な真似をされてもナポレオンはご機嫌そのものだったが、ベツィが剣を置くとその耳を掴んでひねり、痛いと喚かれると今度はその鼻をつまんで強く引っ張った。さすがのナポレオンも、内心は冷や冷やものだったのだろう。


ナポレオンは流刑の身となってもあくまで皇帝としての威厳を崩さず、侍従達にも儀礼を遵守させていた。だが、ベツィだけは特別扱いだった。ベツィがナポレオンをボーニーとあだ名で呼んでも上機嫌で、気ままに部屋に遊びにきても、いつも満面の笑みで迎え入れた。ナポレオンはこの少女との触れ合いを楽しみにしていたが、それでも仮住まいの暮らしは不自由で、ロングウッドの邸宅の早い完成を望んでいた。12月10日、邸宅が完成したと聞くと、ナポレオン一行は早速そちらに移り住んだ。しかし、そこは、非常に厳しい自然条件にあった。灼熱の太陽光を避ける陰も無く、水も無く、絶えず南東の風に晒されていた。特に、夏には耐えられないほどの暑さとなった。セント・ヘレナの気候は概して健康に悪かったが、邸宅のあるロングウッド台地はとりわけ悪かった。それでも、ここに邸宅が建てられた理由は、監視が容易なためだった。


 
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↑セント・ヘレナのナポレオン


イギリス政府は、この小さな島に3千人もの兵士を送り込んでナポレオンを厳重に監視させた。ロングウッドを取り巻く岩山の山頂には、イギリス兵が常駐して行動の監視に当たり、海上でも警備船が島を巡回して警戒に当たっていた。更に念を押すように軍艦が常駐して、ナポレオンの脱出と、不審船の接近に備えていた。そして、イギリス人提督コックバーンも、皇帝一行に慇懃な態度を取りつつも、政府の訓令に従って徐々に拘束を強めていった。夜21時になると、邸宅の周辺にはイギリス兵の歩哨が立つので、夜間の外出は不可能となった。時には歩哨から、銃剣を突きつけられる事もあった。誇りをいたく傷付けられたナポレオンは、これら一連の監視強化に激しく抗議する。しかし、その結果、コックバーンとの関係は冷却化して更に締め付けが強化され、昼間でもナポレオンがイギリス人士官の随行無しで散策できる範囲は、邸宅から7キロまでに限定された。


ナポレオンの日常は、変化の無い単調なものだった。起床時間はまちまちで、夜が明けると乗馬で散歩をし、それから朝食を取った。14時頃風呂に入り、雑談するか口述筆記をさせた。入浴後は伯爵や夫人方を四輪馬車に乗せて、ロングウッド台地を廻ったりした。19時に夕食を取り、その後は読書、歓談、口述筆記などをする。22時以降、歓談し、眠気を催すとベッドに入った。ナポレオンは寝つきが悪く、2箇所にあるベッドを行き来しながら眠りについた。ベッドは質素な野戦用だったが、それが一番しっくりくるようだった。ナポレオンが待遇改善を訴え出ると、イギリス政府はもっと快適な地に邸宅を建設すると約束した。しかし、ナポレオンはその企画書を見た時、「この家を建てるには5年はかかるだろう。その時、余に必要なのは墓であろうに」と漏らした。ちなみにイギリス総督の邸宅は、同じセント・へレナに在りながら、日陰と水に恵まれた住み心地の良い建物だった。それはナポレオンの目に付かないように、散策を制限して存在が隠されていた。


1816年4月14日、セント・ヘレナ島の責任者として、ハドソン・ロウ総督が赴任する。それに伴って、コックバーン提督は本国に帰還していった。この頃、コックバーン提督とナポレオンとの関係は冷えきっていたが、それでもコックバーンは精一杯対応してくれていた。ナポレオンは次の新任総督との待遇の差を、身をもって思い知る事になる。4月16日、ナポレオンとハドソン・ロウは会談の場を持ったが、お互いに良い印象を抱かなかった。ロウはナポレオンを見下して皇帝とは認めず、ボナパルト将軍と呼んだ。ナポレオンは今でも皇帝としての威厳を重んじていたので、ただの将軍と呼ばれる事に憤慨した。ナポレオンは、この新任総督の悪意を感じとって、「この男は余の看守であるに留まらず、余の死刑執行人となるであろう」と断言した。


5月7日、両者は再び会談の機会を持ったが、長く激しい言葉の応酬となった。ナポレオンは、「あの男は不快極まる。礼儀も無ければ、教養も無い。二度と会いたくないぞ」と言った。ロウの方も、「ボナパルト将軍は己の状況の良し悪しが、総督たる私にかかっているという事を認識すべきだ。何時までも私に敬意を払わないのなら、私の権威を分からせてやろう。彼は私の囚人であり、私には彼の振る舞いを左右する権利がある」とまくし立てた。外部の人間がナポレオンと引見するには、ベルトラン内大臣に申し込めば良かったのだが、ロウは自らの許可無しにナポレオンに会う事を禁止した。これでナポレオンの交友関係は狭められ、外部からの情報も伝わり難くなった。ストレスの溜まったナポレオンは、侍従達に当り散らす事もあった。1816年6月に島を去った料理人ル・パージュの回想、「皇帝はちょっとした事でもすぐ怒り出す。カッとなるとビリヤードのキューを手にして邸宅中を駆け回り、口汚く罵りながら手当たりしだいに叩きのめした」


イギリス人侍医オミーラは、ナポレオンとロウとの仲介役を担っていたが、上手くいかず、「私は板ばさみだ。何の解決も出来ない。両者とも気難し過ぎる」とつぶやいた。ナポレオン宛ての書籍や手紙は差し押さえられ、経費の削減も申し渡された。そのため、ナポレオンは銀器を破壊して、それを売り払って不足分に割り当てるよう命じた。ロウは更に、随員4人をロングウッドから退去させ、雇っていた使用人も削減するよう申し渡してきた。ナポレオンは怒りながらも、これを受け入れた。それに加えて、ナポレオンの監視体制は一層強化され、ほとんど軟禁状態となった。従僕の1人は怒ってロウの暗殺を口にしたが、ナポレオンは、「そんな事をすれば、私の立場がどうなるか分からないのか。復讐など、断じてならん」と強く押し留めた。


1816年12月30日、ナポレオンと同世代で親友の様な付き合いをしていた、ラス・カーズ伯爵とその子息が逮捕され、離島を余儀なくされた。これはナポレオンにとって、大きな心の痛手となった。しかし、ラス・カーズ伯爵自身は、稀代の征服者の回想録を書いて、大ベストセラーにしたいという野心からエント・ヘレナ行きに従っていたに過ぎなかった。実際、帰国後に彼が出版した回想録は、大ベストセラーとなっている。ナポレオンは私生活では、モントロン夫人やベルトラン夫人と肉体関係を持っていたようだ。夫はそれを黙認していたらしい。1818年1月26日にモントロン夫人アルビーヌは女児を出産しているが、これはナポレオンの子供と言われている。しかし、このナポレオンに良く似た女児ジョゼフィーヌは、翌1819年9月30日に死亡する。


1818年2月18日、ナポレオンやモントロン将軍と仲違いしたグウルゴウ将軍が島を去った。同年2月24日、不自然な事件が起こる。邸宅の給仕長だった、チプリアーニが突然、激しい腹痛を訴えて倒れて3日後に死亡、同日中に1人の女召使いとその子供も同じ症状になって死亡した。生前のチプリアーニはただの給仕長ではなく、ナポレオンの間諜としての働きもしていた。ナポレオンがエルバ島に流された時には、大陸に送られて情報収集に当たっていた。ナポレオンがエルバ島を脱出して百日天下を取った際には、チプリアーニのもたらした情報に依るところが大きかったと云われている。1818年8月、ナポレオンが信頼していたイギリス人侍医オミーラがロウによって追放された。ナポレオンと親しくしていた者達は次々に島から去って行き、その孤独は益々深まっていくのだった。


1819年正月を迎える頃にはナポレオンは憔悴して、体の不調を訴える事が多くなった。新しく赴任してきたイギリス人軍医はナポレオンを診察して、瀉血(しゃけつ・血を抜く行為)をし、有毒な水銀入りの丸薬を飲ませた。現在から見ればかえって体を壊すような医療行為であるが、これは悪意あってのものではなく、当時はこれが最良の方法だと信じられていた。ナポレオンの目には隅が出来て、顔は青白くなった。そして、横腹に剃刀で切られるような痛みを感じると訴えた。ただ、鋭い眼差しだけが、往時のナポレオンを偲ばせた。ロウからの締め付けは続いていたが、それに立ち向かう気力は衰えてはいなかった。


ナポレオンは侍従に本を朗読させたり、自らの戦記や思い出を口述筆記をさせるのが常だった。自分について書かれた本で明らかな間違いを見つけると、「間違いだ。馬鹿げておる!」と怒ったが、良く書けた本であれば、自らが批判されていても「なかなか良い文章じゃ」と素直に評価した。また、ナポレオンは古き良き時代の思い出を時折、語った。「フランスではもう、炉端というのが消えてしまった。炉端での機知に富んだ、気の利いた会話は夕べの一時を過ごすのに欠かせなかったものだ。今では一族といった精神も失われておる。若い者が年寄りを敬う事も知らん」と言うのだった。ちなみに「最近の若い者は・・・」との台詞は古代エジプト時代から、現在まで使われている。


熱帯の島での生活は、ナポレオンだけでなく、多くの侍従達も体を壊す原因となった。モントロン将軍の夫人も島の気候で体を壊したため、離島を余儀なくされた。ナポレオンはこのモントロン夫人とその子供達3人との触れ合いを楽しみの一つとしていたが、それも失われた。1819年7月12日、夫人とその子供達が島を出る日、ナポレオンは侍従のマルシャンに、「余一人、この悲しい孤独の中で死んでいくのだ」と寂しげに語った。続けて、「死とて余にとっては恩恵となろう。余は死を急ぐつもりはないが、生きるために藁(わら)をも掴むような真似はせんぞ」と言った。行動範囲を狭められたナポレオンは、気分転換に部屋の改装をしたり、庭園や噴水を作らせたりした。また、菜園を作って、そこで取れた食材が食卓に上る事もあった。貧相な野菜ではあったが、収穫の喜びを噛み締めるのだった。


 
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↑皇帝時代のナポレオン



 
Naporeon1.jpg













↑セント・ヘレナのナポレオン



 

萩の史跡

山口県北部にある萩市は、多くの明治の偉人を生んだ事で知られています。その偉人達の住居や、その他の史跡を一部ですが紹介していきたいと思います。


萩市内
萩市内 posted by (C)重家

↑萩の城下町


萩市内を見学する場合、道が狭い上、入り組んでいるので、レンタサイクルでの散策をお勧めします。東萩駅に幾つかのレンタサイクル屋があります。



萩反射炉
萩反射炉 posted by (C)重家

↑萩の反射炉


反射炉とは、西洋で開発された金属溶解炉の事です。幕末、欧米列強による外圧が増してくると、危機感を持った幕府や各藩は、鉄製の洋式大砲を鋳造するため反射炉の導入を始めています。この萩の反射炉は、安政3年(1856年)に作られた試験炉だと見られており、実用炉では無かったようです。しかし、現在、反射炉が残されているのは萩と、伊豆の韮山の2ヶ所だけなので、非常に貴重な遺構となっています。



萩市内
萩市内 posted by (C)重家

↑高杉晋作の生誕地


高杉晋作(1839~1867年)は倒幕の中心人物の1人で、奇兵隊の設立者としても知られています。ここを訪れた時は、残念ながら午後5時過ぎで中を見学する事は出来ませんでした。



萩市内
萩市内 posted by (C)重家

↑円政寺


ここは、高杉晋作と伊藤博文が幼年時代に学んだ場所であるそうです。



伊藤博文旧宅
伊藤博文旧宅 posted by (C)重家

↑伊藤博文の旧宅


伊藤博文(1841~1909年)は、安政元年(1854年)から明治元年(1868年)までここに住んでいました。日本の初代内閣総理大臣となる人物の住居とは思えない、質素な作りです。


玉木文之進旧宅
玉木文之進旧宅 posted by (C)重家

↑玉木文之進旧宅


玉木文之進(1810~1876年)は吉田松陰の叔父にあたる人物で、優れた学識を有しており、松下村塾を開いて付近の児童の教育に当たりました。吉田松陰や乃木希典も幼年時代はここで学び、厳しい教育を受けて人格を形成していきました。松蔭は玉木文之進に大きな影響を受けて、後に松下村塾の名称も受け継ぎます。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家

↑松下村塾


ここは憂国の思想家、吉田松陰(1830~1859年)の教えの場として、余りにも有名です。松蔭はただ机の上で論じるだけでなく、非常な行動力も有していました。そして、物腰柔らかい松蔭の内に秘めた激情は、塾生達にも受け継がれていきました。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家


↑松蔭幽囚室


松蔭は最初、この狭い幽囚室で講義をしていました。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家

↑松下村塾


この小さな小屋から高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、山県有朋、前原一誠などの、錚々たる面々が巣立って行きました。



松陰神社
松陰神社 posted by (C)重家

↑松下村塾


ここで、若い師弟が盛んに時世を討議していたのでしょう。この小さな小屋から歴史が生まれたと考えると、感慨深いものがあります。

炎の革命家 吉田松陰 2

2011.09.05 - 歴史秘話 其の二
安政5年(1858年)、この年、幕府の大老、井伊直弼は朝廷の許可無く、日米修好通商条約を締結する。更に老中、間部詮勝(まなべ・あきかつ)を京都に派遣して、維新志士に対する弾圧を強めさせた。これらの情報に接すると松蔭は激怒して、井伊直弼と間部詮勝を取り除くべく、暗殺という非常手段を用いる事を決した。だが、井伊直弼の方は水戸浪士が暗殺を企てていると聞いたので、松蔭は間部詮勝の暗殺を企てた。それ以外にも、尊皇攘夷派の公卿、大原重徳を動かして、各藩に決起を呼び掛けさせる計画も立てていた。松蔭は自らの手で、革命を成そうと動き出したのだった。そして、長州藩の重役に大砲と弾薬の貸与を願い出て、江戸にいる高杉晋作、久坂玄瑞らにも協力を要請する手紙を送った。しかし、塾生の多くは松蔭の計画を危ぶんで、自重する。長州藩もこれまでは松蔭を大目に見てきたが、表立っての暗殺計画にはさすがに驚きを隠せず、安政5年(1858年)12月26日、放置して置くと何をしでかすか分からないと危惧して、再び野山獄に投獄した。 


江戸の塾生達から松蔭説得を頼まれた桂小五郎は、わざわざ萩まで赴いて時期尚早であると説き、教え子の高杉晋作、久坂玄瑞らも自重を促す手紙を送った。しかし、松蔭は自らの主張を改めず、逆に同調しなかった晋作らに怒りを含んだ手紙を送った。「江戸に居る諸友らと、僕とは意見が違うようだ。その分かれるところは、僕は忠義をするつもり、諸友は功業を成すつもり」。そして、松蔭は自分に付き従った塾生宛てには、「4、5年間は出獄の見込みは無いので、勤皇の行いも今日限りだ。同士の中にも然るべき人物はいない。長州も最早、どうしようもない。生きている事さえ、嫌になった」と破れかぶれの心情を語った。松蔭は塾生の多くが自分を支持してくれなかった事に腹を立て、晋作を始めとする塾生達に失望したと書き送り、数人には絶交状も送った。晋作は敬愛する師匠から罵られて一時期、自暴自棄になり、遊郭に通って酒色に耽ったり、道すがらに犬を斬った事もあった。しかしながら、晋作は孤立している松蔭を愛おしくも思って、郷里の友人に先生の世話を頼むと書き送ってもいる。 


安政6年(1859年)4月、松蔭の牢獄生活も半年近くなり、この頃になると大分、平静を取り戻してきて、野山獄で牢番や囚人相手に講義をするようになっていた。松蔭は絶望の淵から、草莽崛起(そうもうくっき)、すなわち、志ある在野の人々が立ち上がる事によってのみ革命は成されるとの考えに至り、自らその先駆けとなって倒れる事も辞さない覚悟を決めた。そして、塾生との関係修復に乗り出して、晋作にも落ち着いた手紙を送るようになった。「近頃は怒気も大分薄らいできた。数年間、在獄する内、藩の体制が変わって釈放される事になれば、その時こそ君達に相談したい事がある」と書き送った。


だが、同年5月14日、幕府より呼び出しがあり、松蔭は江戸に連れ出される事となった。この時、今だに野山獄に入牢中であった高須久子からは手拭いを送られ、松蔭との別れに際して歌を交し合った。久子は、松蔭から送られてきた書き付けを終生、大切に持ち続けた。5月24日、松蔭に心酔していた司獄、福川犀之助の特別の計らいによって、松蔭は1日だけ実家の杉家に戻る事を許された。この夜、母の滝は松蔭を風呂に入れ、その背中を流した。そして、「元気に帰って来るのですよ」と声をかけると、松蔭も「はい、必ず元気で帰ってきます」と答えた。翌5月25日、松蔭は籠で江戸へと送られて行き、6月25日に江戸に着いた。 


7月9日、松蔭は幕府の評定所に送られ、吟味を受ける。幕府の呼び出しは、安政の大獄で獄死した攘夷志士、梅田雲浜と謀議をしたのではないか?御所内に置かれた投書は松蔭が書いたのではないか?と問うものであった。何れも松蔭はまったく関与しておらず、間部詮勝の暗殺計画も幕府は知らなかったので、白を切っていれば重罪になる事はまず無かったろう。だが、松蔭は、暗殺計画は既に幕府に知られているだろうと考えて、それを正直に告白した。それに加えて黒船来航以来の幕府の姿勢は明らかに間違っていると、自らの思うところを滔々と語るのだった。松蔭の思いがけぬ告白に幕府役人は驚いたが、松蔭自身は重くて遠島送りか、軽くて牢獄に蟄居させられるぐらいにしか考えていなかった。松蔭は小伝馬町の牢獄に送られ、追って沙汰を待つ身となった。 


この時、江戸にあった晋作は、牢獄で不自由していた松蔭のために奔走し、その求めに応じて牢名主に送る金子を用立てたり、書物なども差し入れた。晋作は懸命に師匠に尽くし、ために松蔭も深く感謝する。二人は一事の諍いを乗り越えて、強い友情で結ばれた。しかし長州藩は、晋作が、今や政治犯となった松蔭の身の回りの世話をする事に眉をひそめ、萩への帰国を命じた。松蔭はこれに落胆しつつも、「この災厄に遭っている時、君が江戸に居てくれた事は非常に幸せであった。君の厚情は忘れない。急に御帰国とは残念でならない」と別れの言葉を送った。安政6年(1859年)10月17日、晋作は後ろ髪を引かれる思いで、江戸を発った。9月から10月にかけて、幕府による吟味が続いたが、時の大老、井伊直弼は松蔭を危険人物と見なして、死罪を下した。 


松蔭は見通しの甘さを悔いたが、覚悟を定め、安政6年(1859年)10月20日には、父、母、叔父、兄、義母宛ての遺書、「永訣の書」を記す。その冒頭には、両親への時世の句が読まれている。 

「親思ふ 心にまさる 親心 けふの音づれ 何ときくらん」 

10月25日から26日にかけては塾生宛ての遺書、「留魂録」を記す。その中で、松蔭は人間の生涯を穀物の四季に例えて、塾生に語りかけた。 

「私は30歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実りを迎えたが、それがもみ籾なのか、成熟した粟なのか、私には知る由がない。もし、同志諸君の中で、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずに年々実り続けるのと同じである。同士諸君、よくよく考えてほしい」 

安政6年(1859年)10月27日、刑場へと連れ出されていく際、松蔭は歯をかみ締め、無念ありありの様相であった。しかし、いざ執行の時が来ると松蔭は泰然自若とし、処刑人の山田浅右衛門すら感嘆させたと云う。そして、居合わせた幕府役人にも惜しいと思われつつ、江戸小伝馬町にて斬首に処された。吉田松陰、享年30。生涯独身であった。 


松蔭の残した「留魂録」は後に塾生の間で回し読まれ、彼らは大いに悲憤した。松下村塾の筆頭格であった高杉晋作は、藩の重役宛てに、「私は松蔭先生の弟子として、この仇を討たずにはいられません」と決意の程を述べた。松蔭が松下村塾を建てて教えたのは僅か1年に過ぎず、実家の幽囚室で教えた1年半を加算しても2年半でしかない。だが、松蔭がその身をもって示した憂国と激情の念は、松下村塾の塾生に受け継がれ、それが倒幕の原動力となっていく。松下村塾出身で、動乱を切り抜けて明治の高官に登った者として伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義らがおり、雄才を有しながら動乱最中で命を散らした者として、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿らがいる。 


松下村塾
↑左から山田顕義、高杉晋作、伊藤博文 


彼ら松下村塾の面々は、激情の師の生き様に感化され、時に暴発して無謀な戦いに身を投じる事もあった。だが、その失敗にも学び、屈する事なく行動し続けた結果、維新の回天は成ったのだった。尚、松下村塾の出身では無いが、長州出身の明治の偉人として、木戸孝允、大村益次郎、井上馨、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎らの存在も忘れる事は出来ない。彼らも松蔭の存在は知っていたはずであり、その行動、思想に何らかの影響を受けた事は想像に難くない。 


松蔭が残した思想と格言の数々。 

一君万民論 (天皇の下に万民は平等である) 

飛耳長目 (何時も情報収集を怠らず将来の判断材料とせよ) 

草莽崛起 (志有る在野の人々よ立ち上がれ) 

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない) 

俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてはいけない) 

不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな) 

且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ) 

百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない) 

君子勿素餐 (君たちよどうかいたずらに時を過ごさないでほしい) 

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(真心込めて訴えれば相手は必ず分かってくれる) 

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし (死んでも志が残るのであればいつでも死ねばよい、生きて大事を成せる見込みがあるなら諦めずに生き抜くがよい) 



 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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