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東光寺

東光寺は、山口県萩市にある寺院である。元禄4年(1691年)、毛利家第三代当主、吉就によって創建された。第三代から11代までの奇数代の当主とその夫人、子供などの墓が立ち並んでいる。墓所には、重臣達が寄進した500数基の石灯篭が並んで、荘厳な雰囲気を漂わせている。



東光寺
東光寺 posted by (C)重家


東光寺
東光寺 posted by (C)重家

↑総門


元禄6年(1693年)頃、建立の重要文化財。





東光寺
東光寺 posted by (C)重家

↑三門


文化9年(1812年)、建立の重要文化財。




東光寺
東光寺 posted by (C)重家

↑裏から見た三門



東光寺
東光寺 posted by (C)重家



東光寺
東光寺 posted by (C)重家

↑大雄宝殿


元禄11年(1698年)、建立の重要文化財。



東光寺
東光寺 posted by (C)重家

↑毛利氏墓所


この墓所前から、凛とした空気が漂っていました。ここでは、毎年8月15日に万灯会が開かれて、500基の灯篭にロウソクが灯されます。



東光寺
東光寺 posted by (C)重家

↑歴代藩主と夫人の墓




東光寺
東光寺 posted by (C)重家




東光寺
東光寺 posted by (C)重家






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萩城

萩城は山口県萩市にある、平山城である。周防、長門36万石を領有した毛利氏代々の居城であり、幕末の動乱の中心地ともなった城である。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑萩城の外堀


この堀は、遊覧船で回る事も出来ます。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑萩城


山麓に本丸があり、背後の指月山に詰めの山城があります。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑天守台跡


かつては、あそこに五層の白亜の天守閣がありました。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑天守閣の礎石



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑志都岐山神社(しずきやまじんじゃ)


指月山の麓にある神社で、歴代の毛利家当主を祭っています。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑東園


山麓にある大名庭園です。池の畔には、御茶屋が建てられていたと伝わります。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑指月山の詰丸へと通じる道


結構な山道でしたが、途中で立ち止まると、激しい蚊の襲撃を受けます。イヤ━━━━━(ll´Д`ll)━━━━━!!



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑土塀


かつての土塀が、そのまま残されています。しかし、品のない落書きが多く刻まれていて、残念な見た目となっています。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑詰丸にある巨岩


この巨岩の周囲が掘られて、貯水槽として使われていました。



萩城
萩城 posted by (C)重家

↑詰丸からの眺め


萩の城下町が一望出来ました。急な傾斜で汗だくとなり、蚊の襲撃も受け、自問自答しながらの登山でしたが、この展望を見て救われました

長州藩と萩城

2011.08.20 - 戦国史 其の三
慶長5年(1600年)、天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いが起こると、中国地方の大大名、毛利輝元は、西軍の総大将として参戦する。しかし、肝心の本戦が東軍勝利で終わると、輝元は狼狽して徳川家康に屈服する。輝元は降参の証として、剃髪して宗瑞幻庵と称した。だが、毛利家は、中国地方8ヵ国に及ぶ120万石の所領から、周防、長門の2ヶ国、36万石への減封を申し渡される。毛利家はそれに加えて、旧領6ヵ国から徴収していた慶長5年(1600年)度分の租税を、新たに赴任してきた大名に返還する必要に迫られたのだった。これらの対処として、輝元は家臣の俸禄を五分の一に削減する。


大減封の屈辱と、租税返還の重い負担には、輝元も嘆きの声を上げ、「こんな苦労をさせられるくらいなら、いっそ領土を放棄して浪々の身になった方がよほどましだ」と云ったとか。
それまでの本拠地は安芸の広島城であったが、これも取り上げられたため、輝元は新たな居城を造る必要に迫られた。そこで、輝元は萩・防府・山口の3つの築城候補地を挙げ、幕府に意向を伺うと、萩への築城許可が下りる。そして、慶長9年(1604年)より築城が開始され、慶長13年(1608年)に完成を見た。城は、標高143メートルの指月山の麓に沿って築かれ、山頂にも詰めの山城が設けられた。そして、山麓の本丸には、5層の白亜の天守閣が築かれた。


萩の城下町は、橋本川と松本川に挟まれた三角州上に建設されており、巨大な天然の総構えとなっていた。城郭がある指月山も三方を海に囲まれており、これまた天然の要害となっていた。萩城の作りは実戦的で、輝元はいざとなれば、ここで最後の華を咲かせようとの思いを込めたのだろう。関ヶ原の戦い以降、萩の長州藩はひたすら幕府に恭順する姿勢を見せていたが、内面では大減封の恨みは消えなかった。また、6ヵ国租税返還の重い負担、幕府のお手伝い普請、参勤交代、江戸在住の費用が財政を圧迫し、長州藩は上も下もその負担に苦しみ喘いでいた。


長州藩の借金であるが、元和9年(1623年)には銀4千貫だった。これは、藩の1年分の実収入に匹敵する。延宝4年(1676年)には銀1万2千貫となり、長州藩は倹約令を布告し、藩士の俸禄を半減させた。しかし、政策を誤って更に借財は増え、正徳2年(1712年)には銀5万貫に達した。さすがにこれはまずいと、重臣の毛利広政が中心となって積極的な財政再建に取り掛かり、藩士の俸禄を更に削り、領民の負担を増大させるなどして、享保15年(1730年)には、銀1万5千貫まで削減させた。しかし、広政死後には再び財政は悪化し、宝暦8年(1758年)には銀4万貫となった。


宝暦11年(1761年)、長州藩は検地を執り行い、4万石の増収を得た。しかし、この増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる事業集団を発足させた。撫育方は米、紙、塩、蠟(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と蓄財に務めた。撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、非常時のために取り置かれた。長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金となるのである。しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。


農民への取立ては苛烈を極め、農村は疲弊していった。天保2年(1831年)、飢饉の発生を機についに農民の不満が爆発し、領内各地で13万人もの農民が蜂起する一大一揆が起こった。農民達は年貢の軽減、物流の自由化、村政改革を叫び、その一部を認めさせたのだった。しかし、首謀者は厳罰に処され、これ以降、大規模な一揆は影を潜める。天保3年(1832年)、長州藩の借銀は、とうとう8万貫に達した。しかし、この様な疲弊状況は長州藩だけでなく、幕府を始めとする全国の藩に共通するものであった。封建制は明らかに制度疲労を起こしており、人々の中に変革を望む声が上がり始める。


天保9年(1838年)、長州藩では家老の村田清風が先頭に立って、商人の自由取引、産業奨励、倹約の徹底、庶民への教育普及、軍制改革に取り組んだ。そして、37ヵ年賦皆済仕法(藩士の負債を37年支払いとする)を定めて、商人からの借財を事実上、踏み倒したのだった。
村田清風はその後、商人の反発や保守派の反対によって失脚するものの、彼の改革路線は受け継がれていった。そして、長州藩は動乱の幕末を迎えるに当たって、この村田清風の残した改革の成果、撫育方の隠れ資金、長年の幕府への恨み、吉田松陰の憂国の教えが合わさって、一気に倒幕へと走り出すのである。


この長州の人々の激しい動きとは裏腹に、指月山の萩城は静かに動乱を見守り続けた。しかし、幕府軍に敗れるような事があれば、長州藩は萩城で最後を迎える事になったであろう。だが、維新の回天は成り、長州の指導者達は次々に明治新政府の高官に上っていった。そして、明治7年(1874年)、政府が通達した廃城令により、萩城も天守閣、櫓などは全て破却され、政治、軍事の中心地としての役割を終えたのだった。現在から見れば甚だ惜しい行為であるが、当時の人々からすれば、抑圧の象徴でもあった城の破却は望ましいものに映ったのかもしれない。それは、古き時代への決別と、新しき時代を向かえるための通過儀式でもあったのだろう。




大きな地図で見る

↑萩城


萩城とその城下町が、二つの川に囲まれた三角州にある事が分かります。そして、この巨大な三角州が、天然の総構えの役割を果たしていました。

岩国城

岩国城は、山口県岩国市にある山城である。


岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑錦雲郭

明治18年(1885年)に土居(城主の居館)の跡地に建てられたものです。



岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑天守閣


天守閣は鉄筋コンクリート製で、展望台と博物館を兼ねています。本物の天守閣があった場所はもう少し後方だったのですが、錦帯橋からの景観を重視して前方に配置されました。


岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


ここからは、岩国市街と錦帯橋が見渡せます。
横山という山の頂上にありますが、麓のロープウェイを使って登れるので、疲れる事は無いでしょう。


岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑天守台跡


かつての天守閣は、ここにありました。この天守台の石垣も破却時に崩されていたのですが、当時の石を用いて組み直されました。



岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑天守台跡


岩国城
岩国城 posted by (C)重家



岩国城
岩国城 posted by (C)重家



岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑吉香神社


歴代の吉川一族を祭っています。


岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑吉川家墓所


吉川家の歴代当主と、その家族の眠る場所です。



岩国城
岩国城 posted by (C)重家

↑吉川広家の墓所


毛利本家から見れば、救世主とも、裏切り者とも取れる微妙な人物でした。しかし、この岩国の基礎を作った人物である事は間違いないです。

吉川広家と岩国城

2011.08.15 - 戦国史 其の三
永禄4年(1561年)、吉川広家は、毛利の両川と謳われた名将、吉川元春の3男として誕生する。天正14年(1586年)、父、元春が死去し、跡を継いだ長男、元長も翌年に死去したため、広家が出雲14万石の所領と月山富田城を受け継いだ。広家には次兄となる元氏がいたが、繁沢氏の養子として入っていたため、跡継ぎからは外れていた。慶長2年(1597年)、両川の1人で毛利家の重鎮であった小早川隆景が死去すると、広家が一門衆の筆頭となって当主の輝元を補佐する形となった。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、毛利輝元は西軍の総大将として参戦する。この時、広家は徳川家康の優勢を信じて、輝元を翻意させようとしたが、受け入れられなかった。そこで広家は輝元には内密で、黒田長政を通じて毛利家の本領安堵と引き換えに、毛利軍の関ヶ原本戦への不参加を約束する。そして、関ヶ原本戦において広家は約定通り、南宮山に陣取っていた毛利秀元隊1万5千人余の動きを制し、傍観を決め込んで東軍勝利の一端を担ったのだった。しかし、関ヶ原の戦いでは、輝元は本戦に参加こそしなかったものの、九州、四国に派兵して、積極的に勢力拡大に務めていた。そのため徳川家康は、輝元が西軍の総大将として動いていた事実は動かし難いとして、毛利家の取り潰しを決定する。そして、それに代わって広家が周防、長門二ヵ国の大名へ転身するよう申し渡したのだった。


しかし、広家はこの決定に驚愕する。関ヶ原合戦時に広家の取った行動は確かに利敵行為であったが、輝元に取って代わる野心などはなく、全ては本家存続のためであった。そのため広家は、必死になって本家存続活動を行う事になる。その時の広家の書状が残っている。

「此度の儀は、輝元の本意ではありません。輝元が分別の無い人間であるのは皆様も御存知の通りであります。これから輝元は家康様に忠節を尽くすゆえ、どうかどうか毛利の名字だけは残して頂きたい。輝元が罰せられ、私だけが取り立てられては面目が立たぬゆえ、私にも輝元と同じ罰を与えて欲しい。もし、有難い事に毛利の家を残して頂けるなら、輝元がその御恩を忘れる事は決してありません。千万が一、輝元が再び不届きな心底を持つようなら、今度は私が必ず本家を討ち果たし、首級を差し出す覚悟でございます。」


慶長5年(1600年)10月10日、広家の必死の懇願は家康の心をも動かし、輝元父子の身の安全は保障された。そして、広家が拝領するはずだった周防、長門国も輝元に宛がわれる事となる。こうして毛利家は120万石から、36万石に大減封されたものの、広家の尽力あって、辛うじて家名を保つ事は出来たのだった。その代償として広家も出雲14万石から、岩国3万石に減封されたが、彼にとっては本望だったのかもしれない。そして、広家は岩国に入ると心機一転して、要衝の地である横山に城を築く事を決定する。そして、慶長13年(1608年)に城は完成し、横山の山頂には3層4階の天守閣が築かれた。山麓にも土居と呼ばれる居館が築かれ、普段の生活と政務はここで営まれた。


毛利本家でも萩で築城が行われ、新たなる国造りが始まっていたが、大減封された事には変わりが無く、家中では釈然としない気持ちが残っていた。そもそも、関ヶ原合戦時に広家が家康に通じなければ、この様な苦しい境遇には陥らなかったとの思いが残ったのである。そのためか、毛利家にあった4つの支藩、長府、清末、徳山、岩国の内、岩国藩だけは傍流との理由で本家からは正式な藩として認められず、家臣として扱われたのだった。しかし、吉川家としても我らが本家を救ったのだとの思いは消えず、明治の世を迎えるまで、両家は複雑な眼差しを向け続ける事になる。


岩国城のその後であるが、元和元年(1615年)、幕府より一国一城令が通達されると、岩国城は完成から僅か7年で破却される事となった。天守閣と天守台の石垣は破壊されたが、麓の土居は存続して、吉川家の政庁と居館を兼ねて、明治の世まで用いられる。第二次大戦後、岩国城を再建する動きが広がり、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリート製の天守閣が建てられた。再建天守閣は錦帯橋からの景観を考慮して、本来の天守台跡から離れた南側に建てられている。そのような岩国城の変遷とは別に、山麓西側にある吉川家の墓所は変わらぬ佇まいで、自らが作り上げた町並みを静かに見守り続けている。


 
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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