
2011.09.06 - 城跡・史跡訪問記 其の二
安政5年(1858年)、この年、幕府の大老、井伊直弼は朝廷の許可無く、日米修好通商条約を締結する。更に老中、間部詮勝(まなべ・あきかつ)を京都に派遣して、維新志士に対する弾圧を強めさせた。これらの情報に接すると松蔭は激怒して、井伊直弼と間部詮勝を取り除くべく、暗殺という非常手段を用いる事を決した。だが、井伊直弼の方は水戸浪士が暗殺を企てていると聞いたので、松蔭は間部詮勝の暗殺を企てた。それ以外にも、尊皇攘夷派の公卿、大原重徳を動かして、各藩に決起を呼び掛けさせる計画も立てていた。松蔭は自らの手で、革命を成そうと動き出したのだった。そして、長州藩の重役に大砲と弾薬の貸与を願い出て、江戸にいる高杉晋作、久坂玄瑞らにも協力を要請する手紙を送った。しかし、塾生の多くは松蔭の計画を危ぶんで、自重する。長州藩もこれまでは松蔭を大目に見てきたが、表立っての暗殺計画にはさすがに驚きを隠せず、安政5年(1858年)12月26日、放置して置くと何をしでかすか分からないと危惧して、再び野山獄に投獄した。
江戸の塾生達から松蔭説得を頼まれた桂小五郎は、わざわざ萩まで赴いて時期尚早であると説き、教え子の高杉晋作、久坂玄瑞らも自重を促す手紙を送った。しかし、松蔭は自らの主張を改めず、逆に同調しなかった晋作らに怒りを含んだ手紙を送った。「江戸に居る諸友らと、僕とは意見が違うようだ。その分かれるところは、僕は忠義をするつもり、諸友は功業を成すつもり」。そして、松蔭は自分に付き従った塾生宛てには、「4、5年間は出獄の見込みは無いので、勤皇の行いも今日限りだ。同士の中にも然るべき人物はいない。長州も最早、どうしようもない。生きている事さえ、嫌になった」と破れかぶれの心情を語った。松蔭は塾生の多くが自分を支持してくれなかった事に腹を立て、晋作を始めとする塾生達に失望したと書き送り、数人には絶交状も送った。晋作は敬愛する師匠から罵られて一時期、自暴自棄になり、遊郭に通って酒色に耽ったり、道すがらに犬を斬った事もあった。しかしながら、晋作は孤立している松蔭を愛おしくも思って、郷里の友人に先生の世話を頼むと書き送ってもいる。
安政6年(1859年)4月、松蔭の牢獄生活も半年近くなり、この頃になると大分、平静を取り戻してきて、野山獄で牢番や囚人相手に講義をするようになっていた。松蔭は絶望の淵から、草莽崛起(そうもうくっき)、すなわち、志ある在野の人々が立ち上がる事によってのみ革命は成されるとの考えに至り、自らその先駆けとなって倒れる事も辞さない覚悟を決めた。そして、塾生との関係修復に乗り出して、晋作にも落ち着いた手紙を送るようになった。「近頃は怒気も大分薄らいできた。数年間、在獄する内、藩の体制が変わって釈放される事になれば、その時こそ君達に相談したい事がある」と書き送った。
だが、同年5月14日、幕府より呼び出しがあり、松蔭は江戸に連れ出される事となった。この時、今だに野山獄に入牢中であった高須久子からは手拭いを送られ、松蔭との別れに際して歌を交し合った。久子は、松蔭から送られてきた書き付けを終生、大切に持ち続けた。5月24日、松蔭に心酔していた司獄、福川犀之助の特別の計らいによって、松蔭は1日だけ実家の杉家に戻る事を許された。この夜、母の滝は松蔭を風呂に入れ、その背中を流した。そして、「元気に帰って来るのですよ」と声をかけると、松蔭も「はい、必ず元気で帰ってきます」と答えた。翌5月25日、松蔭は籠で江戸へと送られて行き、6月25日に江戸に着いた。
7月9日、松蔭は幕府の評定所に送られ、吟味を受ける。幕府の呼び出しは、安政の大獄で獄死した攘夷志士、梅田雲浜と謀議をしたのではないか?御所内に置かれた投書は松蔭が書いたのではないか?と問うものであった。何れも松蔭はまったく関与しておらず、間部詮勝の暗殺計画も幕府は知らなかったので、白を切っていれば重罪になる事はまず無かったろう。だが、松蔭は、暗殺計画は既に幕府に知られているだろうと考えて、それを正直に告白した。それに加えて黒船来航以来の幕府の姿勢は明らかに間違っていると、自らの思うところを滔々と語るのだった。松蔭の思いがけぬ告白に幕府役人は驚いたが、松蔭自身は重くて遠島送りか、軽くて牢獄に蟄居させられるぐらいにしか考えていなかった。松蔭は小伝馬町の牢獄に送られ、追って沙汰を待つ身となった。
この時、江戸にあった晋作は、牢獄で不自由していた松蔭のために奔走し、その求めに応じて牢名主に送る金子を用立てたり、書物なども差し入れた。晋作は懸命に師匠に尽くし、ために松蔭も深く感謝する。二人は一事の諍いを乗り越えて、強い友情で結ばれた。しかし長州藩は、晋作が、今や政治犯となった松蔭の身の回りの世話をする事に眉をひそめ、萩への帰国を命じた。松蔭はこれに落胆しつつも、「この災厄に遭っている時、君が江戸に居てくれた事は非常に幸せであった。君の厚情は忘れない。急に御帰国とは残念でならない」と別れの言葉を送った。安政6年(1859年)10月17日、晋作は後ろ髪を引かれる思いで、江戸を発った。9月から10月にかけて、幕府による吟味が続いたが、時の大老、井伊直弼は松蔭を危険人物と見なして、死罪を下した。
松蔭は見通しの甘さを悔いたが、覚悟を定め、安政6年(1859年)10月20日には、父、母、叔父、兄、義母宛ての遺書、「永訣の書」を記す。その冒頭には、両親への時世の句が読まれている。
「親思ふ 心にまさる 親心 けふの音づれ 何ときくらん」
10月25日から26日にかけては塾生宛ての遺書、「留魂録」を記す。その中で、松蔭は人間の生涯を穀物の四季に例えて、塾生に語りかけた。
「私は30歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実りを迎えたが、それがもみ籾なのか、成熟した粟なのか、私には知る由がない。もし、同志諸君の中で、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずに年々実り続けるのと同じである。同士諸君、よくよく考えてほしい」
安政6年(1859年)10月27日、刑場へと連れ出されていく際、松蔭は歯をかみ締め、無念ありありの様相であった。しかし、いざ執行の時が来ると松蔭は泰然自若とし、処刑人の山田浅右衛門すら感嘆させたと云う。そして、居合わせた幕府役人にも惜しいと思われつつ、江戸小伝馬町にて斬首に処された。吉田松陰、享年30。生涯独身であった。
松蔭の残した「留魂録」は後に塾生の間で回し読まれ、彼らは大いに悲憤した。松下村塾の筆頭格であった高杉晋作は、藩の重役宛てに、「私は松蔭先生の弟子として、この仇を討たずにはいられません」と決意の程を述べた。松蔭が松下村塾を建てて教えたのは僅か1年に過ぎず、実家の幽囚室で教えた1年半を加算しても2年半でしかない。だが、松蔭がその身をもって示した憂国と激情の念は、松下村塾の塾生に受け継がれ、それが倒幕の原動力となっていく。松下村塾出身で、動乱を切り抜けて明治の高官に登った者として伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義らがおり、雄才を有しながら動乱最中で命を散らした者として、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿らがいる。

↑左から山田顕義、高杉晋作、伊藤博文
彼ら松下村塾の面々は、激情の師の生き様に感化され、時に暴発して無謀な戦いに身を投じる事もあった。だが、その失敗にも学び、屈する事なく行動し続けた結果、維新の回天は成ったのだった。尚、松下村塾の出身では無いが、長州出身の明治の偉人として、木戸孝允、大村益次郎、井上馨、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎らの存在も忘れる事は出来ない。彼らも松蔭の存在は知っていたはずであり、その行動、思想に何らかの影響を受けた事は想像に難くない。
松蔭が残した思想と格言の数々。
一君万民論 (天皇の下に万民は平等である)
飛耳長目 (何時も情報収集を怠らず将来の判断材料とせよ)
草莽崛起 (志有る在野の人々よ立ち上がれ)
立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてはいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちよどうかいたずらに時を過ごさないでほしい)
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(真心込めて訴えれば相手は必ず分かってくれる)
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし (死んでも志が残るのであればいつでも死ねばよい、生きて大事を成せる見込みがあるなら諦めずに生き抜くがよい)
吉田松陰は、幕末の思想家、教育者、そして、革命家として名高い存在である。
天保元年(1830年)8月4日、松蔭は、長州藩士、杉常道の次男として誕生する。天保6年(1835年)、6歳の時、山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となるが、翌年、養父の大助が病死したため、7歳の松蔭がその名跡を継いだ。この後、松蔭の叔父で、山鹿流兵学免許皆伝の玉木文之進から厳しい、禁欲的な幼年教育を受けた。天保9年(1838年)、松蔭9歳の時、藩校明倫館の見習教授となる。天保11年(1840年)、松蔭11歳の時、藩主毛利敬親の前で山鹿流兵学の講義をし、賞賛される。天保13年(1842年)、叔父、文之進が松下村塾を開くと、松蔭もここに入門した。嘉永3年(1850年)、松蔭21歳の時、小倉・佐賀・平戸・長崎・熊本等を遊歴した。
嘉永4年(1851年)、松蔭22歳の時、長州藩の命を受けて江戸に遊学し、ここで洋学の第一人者である佐久間象山と出会う。松蔭は象山の人物に心酔し、弟子入りして蘭学と砲術を学び始める。ちなみに、幕末の志士達は芸妓好きで知られており、そのような若者が花の江戸に出たとすれば、まず吉原に向かったりするものであるが、松蔭にはまったくそんな気配は無かった。松蔭は女性には奥手で、周りからは仙人と呼ばれていた。この年、松蔭は東北旅行を友人と約したが、出発期日までに通行手形が下りなかったため苦慮する。だが、松蔭は友人との約束を重んじて、思い切って脱藩した。嘉永5年(1852年)、松蔭は東北各地をくまなく遊歴した後、江戸に戻ったが、脱藩の罪を問われて、士籍剥奪、家禄没収の処分を受けた。翌年には許され、諸国遊歴も許可される。
嘉永6年(1853年)7月4日、アメリカのペリーが日本に来航した聞くと、松蔭は佐久間象山と共に浦賀に向かい、そこで黒船の威容を目の当たりにした。それは、当時の日本では到底建造不可能な代物であり、松蔭は先進文明の技術にいたく感銘を受けた。しかし、同時に、その脅威に接して膝を屈せんとする幕府の姿勢に屈辱も感じた。そして、海外の情報収集に努め、更に洋学研究に打ち込むようになった。それからほどなく、ロシアのプチャーチンが長崎に来航したと聞き付けると、松蔭は海外渡航するとの一大決心を固め、同年9月18日、江戸から長崎に向かった。同年10月27日、松蔭は長崎に着いたものの、プチャーチンはすでに出航した後であり、同年12月27日に江戸に舞い戻った。これらの旅は、ほとんどが徒歩である。
安政元年(1854年)1月、ペリーが日米和親条約締結のため、横須賀の浦賀に現れると聞くと、松蔭は今度こそ宿願を果たさんとの決意を固める。そして、ペリー艦隊が伊豆の下田沖に移動すると、弟子の金子重之助と共に後を追って下田に入った。同年3月27日、松陰は上陸中のアメリカ水兵を見かけると、ペリー宛ての漢文の嘆願書「投夷書」を手渡した。
それは要約すると、こう書かれている。
「私達2人は卑賤の身で、小禄の者です。これまでただ空しく歳月を過ごしてきた無知の者です。そんな私達ですが、書を読み、西洋の進んだ文明を知るにつれ、この目で実際の世界を見たいと思うようになりました。しかし、我が国では、海外への渡航が厳しく禁止されており、どうする事も出来ませんでした。そんな折、貴国の軍艦が来られました。ここにおいて、宿念の思いを実行せんと決意した次第です。乗船させて頂けるなら、船内の如何なるご用も引き受けるつもりです。しかし、我が国の国禁は未だ解かれておりません。事が露見すれば、私達は捕らえられ斬刑に処されるでしょう。その様な訳ですから、出航するまでは私達を匿ってください。言葉では十分に伝える事は出来ませんが、以上は我々の心からの願いであります故、どうか疑わないでください。よろしくお願い申し上げます」
夜になると、松蔭と金子重之助は小舟を漕ぎ出し、苦労して黒船への接舷に成功する。そして、松蔭はペリーの通訳と話し合い、広い世界を見聞するため、乗船させて頂きたいと懇願した。しかし、ペリーの意を受けた通訳からは、「目的は理解するし、同行させたいのはやまやまであるが、現在、アメリカと日本とは条約を結んだばかりであるので、波風を立てる訳にはいかない」と断られる。松蔭らはそれでも諦めず、長時間に渡って話し合いを続けたが、聞き届けられる事は無かった。松蔭らは空しく引き返す他、無かったが、小舟が流されてしまったため、艦隊のボートで海岸まで送り届けられた。だが、流された小舟には、密航の証拠となりうる書類が載せられてあった。そのため、松蔭らは必死になって海岸を捜し回ったものの、とうとう見つける事は出来なかった。それが人目に付けば、すぐに密航は発覚するだろうと考え、松蔭は潔く下田奉行所に自首する。
松蔭は下田から江戸の獄に移される事になった。その途中、赤穂浪士の霊が弔われている泉岳寺を通りかかった時、一句を手向けた。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
松蔭は死罪も覚悟の上であった。
ペリーは、この出来事を遠征記に記している。
「この事件は、厳しい国法を犯し、知識を増すために命まで賭けようとした2人の教養ある日本人の激しい探究心を示すものとして、興味深いものであった。日本人は探求好きな民族で、道徳心、知的能力を増す機会があれば、進んでこれを迎えたものである。この2人の行動は、同国人に特有のものと信じられる。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の将来には、なんと広い展望が広がっていることか!」
ペリーは日本に開国を迫った時、尊大に構えて、どこか日本人を見下した態度を取っていた。けれども、松蔭らの命を賭しても学びたいという姿勢には心を打たれ、日本人に対する認識も改めたのだった。そして、松蔭らが捕われたと聞くや、直ちに助命嘆願を行った。
「2人の行為は、日本の法律に触れるものであったかも知れない。しかし、私達から見れば、自由にして賛美すべき好奇心の発露に過ぎない。どうか、2人に対して寛大な処置を取られん事を望む」
このペリーの嘆願書と、松蔭自身の憂国の一念から行ったものなのだとの説明もあって死罪は免れ、郷里の萩にて投獄される身となった。安政元年(1854年)10月、松蔭は萩に送られると、士分の幽閉先である野山獄に入れられ、従者の金子重之助は、庶民の幽閉先である岩倉獄に入れられた。松蔭は幾分、ましな環境の野山獄で囚人相手に孟子の講義を始めるが、より劣悪な環境にあった金子重之助は病んで、安政2年(1855年)1月に獄死する。これを伝え聞いた松蔭は嘆き悲しみ、それから出獄するまでの1年間、食費を節約し、金子を貯めて遺族に送った。その金子は石造りの花筒となり、現在でも重之助の墓前に供えられていると云う。
この野山獄で松蔭は1人の女性と出会い、親しく言葉を交わす様になった。女性は高須久子と云い、藩士の娘であったが、遊芸好きな上、奔放な性格であったので、乱惰(らんだ)の所業として入牢させられていたのだった。この時、久子は37歳で、松蔭は25歳、久子の方が一回り年上であったが、2人は獄中で催された連歌会で歌を交わすなど、心の交流を重ねた。これが松蔭唯一の恋と、呼ばれている。安政2年(1855年)12月、松蔭は野山獄からの出獄を許され、代わって実家の杉家に蟄居するよう申し渡された。
安政3年(1856年)、松蔭は実家の幽室に親族や近隣の者を集めて、孟子の講義を始める。その講義は評判を呼び、やがて城下からも人がやってくるようになった。安政4年(1857年)、受講人数が増えて狭い幽室に入り切らなくなると、松蔭は納屋を増改築して、そこを教育の場とした。これが、松下村塾の始まりである。この塾名は、かつて叔父の玉木文之進が開き、松蔭自身もそこで習った、松下村塾の名を受け継いだものである。当時、長州藩には明倫館と呼ばれる全国屈指の立派な藩校があって、それと比べると松下村塾は物置小屋を改装しただけの粗末な塾だった。それでも、松下村塾には明倫館には無い魅力があった。
明倫館は朱子学を基本に封建的身分制が保たれ、教育内容も訓話が中心であったのに対し、松蔭の松下村塾は自由な気風に溢れ、町人、武士を問わずに塾生を受け入れて、師弟が一緒になって時勢を討議した。松蔭は誰に対しても公正に接したから、松下村塾には魚屋、医者、士分などの雑多な身分の若者が集まり、塾生達も身分の垣根を越えた交友関係を持った。例えば、高杉晋作は150石取りの士分の1人息子であったが、その家に足軽小者の子の和作と忠三郎が訪ねたり、逆に晋作が和作の家をぶらりと訪ねる事もあった。当時、身分や格式による上下関係の差は揺れ動いてはいたが、まだはっきりと残っていた時代である。
この松下村塾を支えていたのは、松蔭だけではない。杉家の長男で松蔭の兄の杉梅太郎も、経済面で何かと支えてくれたし、叔父で藩の代官となっていた玉木文之進は、松蔭の後見役となっていた。それに親友の楫取素彦(かとり もとひこ)や幼馴染の久保清太郎らも一緒になって塾生の教育に当たっていた。松下村塾は、松蔭を軸に杉家が一体となった私塾であった。松蔭は尊皇攘夷の思想家であるが、ただ単純に外国人を排斥せよとの狭隘な考えは持ち合わせていなかった。世界を広く見聞し、進んだ知識を取り入れて富国強兵に励み、その上で諸外国に相対せよと云うものだった。松蔭は講義に当たっては、自らの信念を語りながらも、一方的に考えを押し付ける様な真似はしなかった。
塾生の回顧によると、松蔭は誰に対しても親切で、言葉使いも丁寧であった。塾生には友人の様な姿勢で接し、分からない事があれば、すぐ側まで行って説明した。松蔭は実学を重視し、現実の世界で役立つ人間を育てたいと願って、学んだ事は実際に実行せよと説くのだった。松蔭の口癖は、「勉強なされませ」だったが、それはいたずらに知識を詰め込むのではなく、勉強への意欲を見せよと言うものだった。松蔭は学習成績は重視せず、何よりも学習に取り組む態度や意欲を評価基準とした。松蔭は塾生が自主的に行動する事を望み、持って生まれた素質を伸ばすように仕向けた。
また、松蔭は、塾生を江戸や京都に遊学させて見聞を広めさせると共に、各地の情勢を探らせてもいる。そして、その情報を萩の自らの元へと届けさせたので、松蔭は幽閉の身でありながら、世の動向を手に取るように掴んでいた。江戸で塾生達の面倒を見たのが、桂小五郎(木戸孝允)である。小五郎は松蔭よりも3歳年下で、嘉永2年(1849年)からの付き合いだった。小五郎が松下村塾で学んだ事は無いが、松蔭とは度々会って親交を深めており、お互いに同士と認め合う仲であった。江戸での塾生達は小五郎を兄貴分として慕い、その下で勉学や情報収集に励んだ。
ちなみに桂小五郎は凛々しい風貌であって、古写真にもそれを認める事が出来る。しかし、松蔭の風貌は冴えなかったようだ。塾生の回顧によれば、「先生の風采は極めて粗野なもので、かつ無精なお人であった。衣服は汚れ放題、破れ放題、手を洗うと袖で拭き、頭髪は2ヵ月も結い直さず、見るからに上がらない風采だった」とある。世間の人々から見れば、変人に映ったかもしれない。しかしながら、塾生達は、松蔭の内に秘める激情、実行を伴う行動力、進歩的な思想、純粋な憂国の念には惹かれて止まなかった。

↑桂小五郎(木戸孝允) (ウィキペディアより)

↑吉田松陰(ウィキぺディアより)
2011.09.03 - 城跡・史跡訪問記 其の二
原爆ドームは、広島県広島市にある世界遺産である。
建物は、大正4年(1915年)4月に建てられたもので、戦前には広島県産業奨励館と呼ばれていた。設計に携わったのはチェコ人建築家のヤン・レッツェルで、かつては県内、県外の様々な物品が陳列されていた。昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発すると、広島は日本有数の軍都として、その作戦行動を支える。しかし、戦況は悪化の一途を辿り、アメリカ軍機による本土空襲が始まると、広島も攻撃目標の1つになる。1945年7月16日、アメリカニューメキシコ州の砂漠地帯で、人類初の核実験が成功すると、アメリカはこれを日本各地に投下する事を決定する。
昭和20年(1945年)8月6日、アメリカのB-29爆撃機が数機、広島上空に飛来し、その中の1機エノラ・ゲイ号が、リトルボーイと名付けられた原子爆弾を投下する。8時15分、原子爆弾は産業奨励館の北西約160メートル、高度約580メートルの地点で炸裂した。産業奨励館は、爆風がほとんど真上から吹き抜けたため、全体の倒壊は免れた。しかし、中にいた職員30人余は全員死亡し、建物も鉄骨と煉瓦の構造材を残すばかりとなった。爆発の瞬間に100万度以上の火球が形成され、地表でも4千度の高温に包まれた。言わば、小型の太陽が出現したようなもので、爆心地から500メートル以内にいた人々は文字通り焼き尽くされ90パーセントが即死した。
爆心地から1キロメートルの距離にあっても1800度の熱線に襲われ、60パーセント以上が即死状態で、生き残った人間も重度の火傷を負って、水、水と呻きながら次々に死んでいった。広島県では当時、35万人余の人々が住んでいたが、1945年12月までに14万人余が命を失った。戦後も被爆者の間には、放射線被爆によると考えられる癌や白血病を発症して、多くの人々が死んでいった。広島の人々はそれでも廃墟から立ち上がり、徐々に徐々に復興を進めてゆく。そして、広島で生き残った人々は、産業奨励館をいつしか原爆ドームと呼ぶようになり、その惨禍を後世に伝えるため保存を決定する。以後、定期的な補修を受けながら、現在にその姿を留めている。平成8年(1996年)12月には、世界遺産に認定された。

広島城 posted by (C)重家
↑広島城
広島城は、天正17年(1589年)、中国地方の大大名、毛利輝元によって築かれました。慶長5年(1600年)、毛利氏に代わって、福島正則が安芸に入ると、広島城も改築されました。元和5年(1619年)、正則が改易されると、代わって浅野長晟が入り、以後代々、浅野氏の居城として用いられます。明治維新後も天守閣は残されて国宝にも認定されましたが、原爆を受けて惜しくも倒壊してしまいました。

広島城 posted by (C)重家
↑広島城

原爆ドーム posted by (C)重家
↑原爆ドーム

原爆ドーム posted by (C)重家

原爆ドーム posted by (C)重家

原爆ドーム posted by (C)重家
↑原爆の子の像

原爆ドーム posted by (C)重家
↑平和の灯

原爆ドーム posted by (C)重家
↑平和記念公園
毎年、8月6日になると、ここに多くの人々が集って、慰霊式が執り行われます。

原爆ドーム posted by (C)重家
↑原爆死没者慰霊碑

原爆ドーム posted by (C)重家
↑祈りの泉と、広島平和記念資料館
原爆投下は許し難い戦争犯罪であり、これは後世に渡って語り継がれて行くべきものです。しかし、ただその非を問うだけでなく、何故、日本が戦争に走っていったのかも知る必要があるでしょう。二度とこの様な惨劇が起こらないようにせねばなりませんが、口先だけでは平和が実現しない事も事実です。世界には、話し合いや常識が通じない国が確かに存在しています。国家、国民とも長期的な視点に立ち、軍事、外交面で然るべき備えをしてこそ、平和は保たれるでしょう。
2011.08.23 - 城跡・史跡訪問記 其の二
東光寺は、山口県萩市にある寺院である。元禄4年(1691年)、毛利家第三代当主、吉就によって創建された。第三代から11代までの奇数代の当主とその夫人、子供などの墓が立ち並んでいる。墓所には、重臣達が寄進した500数基の石灯篭が並んで、荘厳な雰囲気を漂わせている。

東光寺 posted by (C)重家

東光寺 posted by (C)重家
↑総門
元禄6年(1693年)頃、建立の重要文化財。

東光寺 posted by (C)重家
↑三門
文化9年(1812年)、建立の重要文化財。

東光寺 posted by (C)重家
↑裏から見た三門

東光寺 posted by (C)重家

東光寺 posted by (C)重家
↑大雄宝殿
元禄11年(1698年)、建立の重要文化財。

東光寺 posted by (C)重家
↑毛利氏墓所
この墓所前から、凛とした空気が漂っていました。ここでは、毎年8月15日に万灯会が開かれて、500基の灯篭にロウソクが灯されます。

東光寺 posted by (C)重家
↑歴代藩主と夫人の墓

東光寺 posted by (C)重家

東光寺 posted by (C)重家