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安土城

安土城は、滋賀県近江八幡市にある山城で、戦国の風雲児、織田信長が築いた城として余りにも有名です。




天正4年(1576年)1月、織田信長は、家臣の丹羽長秀を普請奉行に任じて、近江国の安土山(標高106メートル)に城を築く事を命じた。安土は、その時の織田領国の中心近くにあって、指令を発しやすい位置にあった。更にもっと視点を高くすれば、この近江国は日本本土の中心に近く、北国街道、中山道、東海道といった重要街道が走る交通の要衝であり、北陸、近畿、東海の三地方を繋ぐ結節点ともなっていた。また、ここにある琵琶湖は、日本海や瀬戸内海の産物が往来する水運の交差点でもある。それと、当時の日本有数の大都市にして政治都市でもある、京都が隣接する点も見逃せない。例えば、安土から船や馬を用いたなら、その日の内に京に達する事が出来た。


信長は、この様な地理的重要性を見抜いて、安土築城を決したに違いない。同年4月からは石垣が築かれ始め、その中でも津田坊が運んできた蛇石は異彩を放つ巨石で、1万人余の人夫が3日がかりで、ようやく天主台まで引き上げる事が出来た。この時、信長自らが音頭を取って石を引き上げた事が、「信長公記」に書かれている。しかし、現在、この蛇石は幾度に渡る発掘調査でも発見されていない。安土城は、城域全てに石垣が施された、日本初の総石垣の城となる。また、城郭はおろか、城下町までをも取り囲んだ惣構(そうがまえ)も築かれていたと見られている。



天正7年(1579年)5月11日、完成した天守閣に、信長は吉日を選んで移り住んだ。これをもって、安土城は完成となった。天守閣の構造は地上6階地下1階、外観は5重の望楼型天守で、上から金、朱赤、青、白、黒に塗り分けられていた。この前代未聞の天守閣を手掛けたのは、尾張で熱田神宮の宮大工棟梁を務めていた岡部又右衛門以言(これとき)で、息子の以俊(これとし)と共に指揮を取って築き上げた。信長はその出来に満足して、以言に日本総天主棟梁の称号と小袖を与えた。瓦は金箔貼りで、内部は黒漆塗り、各部屋は狩野永徳の手による華麗な障壁画に彩られていた。


安土城天守閣は、日本の最高権力者の居館にして、当時の芸術文化の粋を集めた一大美術館でもあった。安土城の大手道は、幅6メートル長さ180メートルの直線構造となっており、この石段を登って行く者は、常に天守閣を見上げる形となる。この様な構造は、防御面では問題があるが、信長の力を視覚で感じる事となり、政治面、統治面においては効果的であった。総石垣に華麗な天守閣、それは余程の権力と財力がある者にしか築く事は出来ない。当時、この様な城を築ける者は信長以外にはおらず、その権力と独創性は他を圧していた。しかしながら、安土城の命脈は短かった。



天正10年(1582年)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反を受けて、本能寺にて横死する。変後、光秀は部将の明智秀満を派遣して安土城を接収させるも、自らは6月13日に起こった山崎の戦いで敗死した。6月14日、光秀の敗北を知った秀満は安土城を退去し、6月15日、坂本城にて自害した。同15日、安土城は炎上し、華麗なる天守は夢幻の如く消え去った。完成から僅か3年後の出来事であった。この原因についてははっきりせず、明智秀満が放火した、信長の次男、信雄が放火した、または付近の野盗が放火したとの説が取り沙汰されている。


ただ、焼け落ちたのは天守と本丸周辺だけのようで、二の丸などは健在であったようだ。清洲会議の後、信長の孫、秀信が入城し、二の丸を中心に生活したようだが、天正12年(1584年)に丹羽長秀が再建した坂本城に移り住んだ。天正13年(1585年)8月、羽柴秀次が近江国5郡43万石の大名として入封すると、八幡山城を築いてそこを居城とした。その際、安土城の資材が転用され、城下町も移築されて、廃城となった。もし、信長が長生きしていたなら、天守は尚も輝き続け、城下は日本有数の都市に発達していたかもしれない。だが、それもまた夢幻となった。




安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑大手道

かつては、天守閣の偉容を見上げながら登っていたはずです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、羽柴秀吉邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、前田利家邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑黒金門跡



安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑織田信長廟

彼の夢と魂はここに眠っているのでしょうか。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守台

かつては、テラスの様な張り出しがあって、そこから信長が観衆に声をかけたりしたそうです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守閣の礎石


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑摠見寺(そうけんじ)跡から、西を望む

かつては、安土山の麓まで琵琶湖が広がっていました。湖水に浮かびつつ、夕日を浴びた安土城の姿は、比類なき美しさであったそうです。



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摂津滝山城

滝山城は、兵庫県神戸市中央区にある山城である。



滝山城の正確な築城年代は定かではないが、南北朝時代の正慶3年(1333年)、赤松則村(円心)が、生田の布引の城に篭もったとの記述が「正慶乱離志」にあり、これが史料上の初見となる。だが、当時は砦の様な作りであったろう。これを大規模な山城に造り替えるのは、戦国有数の梟雄として知られている、松永久秀である。畿内の大大名、三好長慶は、摂津西部を押さえる拠点として滝山城を選び、ここに重臣の松永久秀を配して城を改修させた。縄張り(城の設計)をしたのは久秀であろう。本丸がある316メートルの最高所を中心として、郭(くるわ)を何重も連ね、更に当時としては先進的な石垣も一部、用いられていた。「細川両家記」によれば、弘治2年(1556年)7月10日、久秀は、主君、長慶を滝山城に招いて、歌舞音曲、千句会、能をもってもてなしたとある。


滝山城の麓には風光明媚な布引の滝が流れており、更に大きな居館なども築かれていたと思われ、それらをもって来賓をもてなしたのだろう。この華やかな宴が催された時こそ、滝山城の全盛期であった。しかし、永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶が死去すると、三好家は、三好三人衆派と松永久秀派とに分裂して内戦が勃発し、滝山城もその争乱に巻き込まれる事となる。永禄9年(1566年)2月、三人衆派は、滝山城に攻撃を仕掛けるが、城の守りは固く、一度は撃退された。この時の城将は不明で、久秀が在城していたかどうかは定かではない。三人衆派はその後も包囲も続け、増援を受けて総攻撃を行い、同年8月17日、ついに城を落とした。滝山城の落城は、久秀の衰勢を決定付けるものであった。この後、三人衆派の篠原長房が城主として入った。


永禄8年(1568年)、織田信長が上洛を開始すると、三好三人衆はそれに敵対して、畿内各地で交戦状態となった。三人衆派は劣勢で京から追われ、更に一大拠点である摂津芥川山城も落とされるに到った。そのため、滝山城の長房は城を放棄して四国に撤退した。その後、滝山城は、信長の重臣で、摂津一国を任された荒木村重の持ち城となった。ところが、天正6年(1578年)10月、村重は摂津一円を上げて、信長に反旗を翻す。この時、本城の有岡城と重要な支城に戦力を集中するため、滝山城は放棄された模様である。しかし、織田軍は滝山城を接収すると、村重方の支城である、花隈城攻略の拠点として用いたようだ。天正7年(1579年)11月19日、村重は本城である有岡城を失うも、支城の尼崎城に拠って尚も抵抗を続けた。しかし、尼崎城も落ち、最後に残った花隈城も、天正8年(1580年)7月2日、織田方の池田恒興の攻撃を受けて落城するに到り、2年近くに渡った荒木村重の乱は終息した。そして、滝山城も役割を終える形となり、人知れず山林に埋もれていった。




摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑登り口


新神戸駅を正面から見て、一階、右側の通路を進んで行くと、ほどなくしてこの標識が出てきます。ここから滝山城へと登って行きます。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑曲輪(くるわ)跡


最初に出てくる曲輪で、本丸まではまだまだ距離があります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑登山道脇の急傾斜


写真では伝わり難いですが、城の両側はかなりの急傾斜でした。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑曲輪跡


この辺りから、城の中枢部となります。所々で、石が散らばっていたので、昔は石垣が組まれていたと思われます。天正9年(1581年)、兵庫城築城の際、滝山城の石垣が、転用されたと云われています。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑堀切


深く、大きな切れ込みでした。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑曲輪跡


堀切からは、大掛かりな曲輪が連続します。久秀は三好氏の重臣として、この城を預かっていましたが、一家臣の城と言うより、大名級の居城の様に感じました。久秀の地位と、力の程が窺えます。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑本丸


奥の一段高い所に、石碑があります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑本丸最高所


本丸周辺は樹木に覆われており、残念ながら、眺望はほとんど望めません。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑滝山城からの眺め


滝山城から下りつつ、布引きの滝へと進んでいくと、途中に樹木の切れ目があって、そこから神戸市街が見渡せました。神戸の港と、麓の街道を押さえる重要な城であった事が分かります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑滝山城遠望



布引の滝
布引の滝 posted by (C)重家

↑布引の滝、雄滝(落差43メートル)


水量豊富な、美しい滝です。松永久秀や三好長慶もこの滝を眺めて、酒を飲んだり、歌を詠んだりして楽しんだ事でしょう。



布引の滝
布引の滝 posted by (C)重家

布引の滝、雌滝(落差19メートル)


雌滝は、雄滝より下流にあって、小振りで大人し目の滝です。


滝山城は規模が大きく、山城好きの人なら十分、楽しめるでしょう。それと、すぐ近くには見応えのある布引の滝もあるので、合わせて見る事をお勧めします。

篠山城、再訪

篠山城は、兵庫県篠山市にある平山城です。


慶長14年(1609年)、関ヶ原合戦を経て、天下の権を握りつつあった徳川家康は、今だ大坂にて隠然たる勢力を有している豊臣家を警戒し、山陰道の要衝である丹波篠山の地に城を築く事を命じた。豊臣家を包囲する事が主目的であるが、西国大名に対する抑えの意味合いもあった。縄張奉行(城の設計者)となったのは、戦国有数の築城名人として知られている藤堂高虎で、普請総奉行(総監督)となったのは、家康の娘婿で、これまた築城に長けた池田輝政であった。築城は天下普請と呼ばれる大掛かりなもので、西日本の15カ国、20の大名と、総勢8万人もの人夫が動員された。工事は、慶長14年(1609年)3月9日の鍬入れから始まり、同年10月5日に奉行が帰国したとあるので、この頃におおよその工事が終わり、同年12月21日には人夫が皆、帰路に着いたとあるので、この頃に仕上がったのだろう。


並の大名ならば数年掛かりであったろうが、天下人、家康の御声掛かりによる大動員で、僅か9ヶ月余で完成を見たのだった。篠山城の規模は決して大きくはないが、整った方形に二重の堀、総石垣の外観は、まさに近世城郭といった趣で、この城が持つ堅固さの現れでもあった。初代城主となったのは、徳川譜代である松平康重で、以後も、別家の松平氏や、青山氏といった徳川譜代が、代々、城主を務めた。明治の世を迎えると、城内の建物のほとんどは破却されたが、唯一、大書院だけは残された。その大書院も昭和19年(1944年)1月に焼失してしまうが、平成12年(2000年)3月に、古地図、古写真、発掘調査を元にした、伝統工法によって再建された。





篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑枡形

敵の動きを妨げるための、方形の広場。




篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑大書院

中には、狩野派の屏風絵などが展示されています。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑篠山城の模型

中にある展示品は、一部、フラッシュ禁止がありますが、基本的に撮影可能との事でした。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑上段之間

最も格式の高い部屋です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑手前の広場が二の丸で、奥の一段高い所が本丸



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣

立派な石垣ですが、実際には天守閣は築かれなかったとの事です。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台からの眺め

前方に見える山は高城山(標高460メートル)で、丹波の戦国武将、波多野氏が築いた八上城がありました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑埋門(うずみもん)

非常時には埋めたてられ、石垣と一体化して遮断されます。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑堀際から見た天主台

内堀の石垣は、見た目が綺麗なので、最近、補強されたものの様です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑北堀

篠山城の外堀で、非常に広大でした。


篠山城の付近には多くの土産物屋、料理屋が立ち並んでいて、散策するにはもってこいでしょう。それと時間があれば、八上城にも登ってみては如何でしょう。篠山城には、華やかな江戸時代的な雰囲気が漂っていますが、八上城には、どこか物悲しい戦国の雰囲気が残っています。




芥川山城

芥川山城は、大阪府高槻市にある山城です。


芥川山城は、永正12年(1515年)頃、摂津北部の豪族、能勢頼則によって築かれたのが最初とされる。大永4年(1524年)、室町幕府の菅領で大実力者である細川氏が、高国と晴元とに分かれて、内部抗争していた際、能勢氏は、高国に味方したものの、晴元派の攻勢を受けて、没落した。天文2年(1533年)、権勢を増した細川晴元は芥川山城に入城し、自らの持ち城とするが、やがて家臣の三好長慶の力が増してきて、天文16年(1547年)には、長慶の持ち城となった。長慶は、一族の芥川孫十郎を城主として入れたが、天文22年(1553年)、孫十郎が細川晴元に呼応して謀反したので、これを攻め落とし、以後は自らの居城として用いた。それから7年間、長慶は芥川山城を本拠として、勢力拡大に努めた。この長慶時代に芥川山城は拡張され、摂津有数の大城郭に変貌を遂げる。


永禄3年(1560年)、長慶は、河内の飯盛山城に本拠を移し、芥川山城には嫡男の義興を入れた。しかし、永禄6年(1563年)、義興は若くして病死したので、代わって一族の三好長逸が入った。永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると、三好長逸はこれに敵対したので、攻撃を受けて城を追われ、代わって信長の部将、和田惟政が城主として入った。永禄12年(1569年)、惟政は功績を挙げて高槻城を与えられ、以後はここを居城として、芥川山城には家臣の高山友照を入れた。元亀2年(1571年)、惟政は討死し、その子の惟長が継いだものの、元亀4年(1573年)、高山友照、重友父子によって、惟長は追放された。高山父子は高槻城を接収すると、ここを居城とした。それに伴って芥川山城は廃城となり、短い歴史に幕を閉じた。




摂津峡

摂津峡 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

川の奥にあるのが三好山で、そこに芥川山城が築かれていました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

摂津峡が天然の堀となっており、斜面も急峻で、これまた天然の石垣の役割を果たしています。


芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

芥川山城では、所々で石垣が見られましたが、これが築城当時のものかどうかは不明です。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土橋跡

道の両側は掘削されて、堀切りになっているようでした。この他にも、何重もの郭の跡が見られました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土塁

写真では伝わり難いですが、結構な高さがあります。この上が本丸になります。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

ここが城の最高所で、発掘調査によれば礎石の跡があって、御殿の様な建物が建てられていたとの事です。なので三好長慶は、普段はここに住んでいたのでしょう。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

下には、摂津峡が流れています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から東を望む

高槻市街が広がっています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑水場

水汲み場と思われます。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

なかなか立派な石垣でした。これが戦国期に築かれたものならば大したもので、畿内を制した三好氏の力の程が窺えます。

諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 終

2015.05.05 - 三国志・中国史

251年、淮南の軍権を司る実力者、王凌(おうりょう)は、司馬懿の権力増大に危機感を強め、曹操の庶子である曹彪を擁立して、司馬懿打倒を画策した。だが、味方を募る過程で、計画は洩れ伝わってしまう。同年4月、司馬懿は、王凌を油断させるため、その罪を許すといった手紙を送ってから、自ら大軍を率いて討伐に向かった。司馬懿は水路を用い、強行軍をもって、僅か9日で淮南に進出する。王凌は、目の前に突如として現れた大軍に驚愕し、敗北を悟って司馬懿の陣に出頭した。王凌は、先の免罪にするとの手紙に淡い期待を抱いていたが、司馬懿に助ける気が無いと知ると、都に護送される途中、毒を仰いで自害した。


司馬懿は、王凌の一族はもとより、謀議に加わった者の一族も皆殺しとし、続いて曹彪も誅殺した。更に、曹一族の王候達を鄴(ぎょう)に集めて厳重な監視下に置き、互いの連絡を禁じた。ここに来て司馬懿は、内に秘めた野心を露にした。 かつて、曹操は一群雄だった時代から野心を露にして、度々、暗殺未遂を起こされている。しかし、司馬懿は同じ轍は踏まず、長らく野心を隠し通し、ここまで暗殺とは無縁であった。これは、曹操を反面教師としたのだろう。もう一つ、曹操から学んだものは、漢の皇帝を傀儡として、新王朝樹立の算段を整えた手法で、これをそっくりそのまま実践しようとした。


操り人形と化した曹芳は、司馬懿が帰還すると、相国(廷臣の最高職)に任命し、領地を加増して5万戸とした。司馬懿は今回も名より身を取り、相国は辞退したが加増は受け取った。 かつて、司馬懿が平定した遼東は、戸数4万、人口30万人余であったので、司馬懿は公孫淵以上の領地と兵力を有した事になる。しかも、魏の中央の軍権も握っている事から、最早、国内に対抗できる人間は、存在しなかった。 もし、これを打倒せんとするなら、地方の軍司令官が一斉に蜂起して、尚且つ、呉と蜀の援護を受けねばならかったろう。ちなみに、249年の曹爽誅殺の時、司馬懿は71歳で、251年の王凌討伐は、司馬懿73歳の出来事である。老人とは思えぬ、恐るべき頭の冴えと実行力だと言わざるを得ない。


だが、司馬懿は長らく中風(脳血管障害)を患う身であったらしく、それに加えて最後の遠征の無理が祟ったのか、251年6月、病に倒れ、同年8月、この世を去った。司馬懿仲達、享年73。 司馬懿の代で、新王朝を打ち立てる事は叶わなかったが、長男、司馬師と次男、司馬昭は共に国家を担う大器であり、意志を実現してくれる事を信じて疑わなかったであろう。実際には、司馬師と司馬昭の代では、まだ地盤固めの戦いを強いられたが、孫の司馬炎の時代を迎える頃には、その権力は不動のものとなり、魏帝、曹奐を禅譲させて、晋王朝を樹立するに到った。既に司馬昭の時代に蜀は滅んでおり、司馬炎は残る呉を滅ぼして、中国全土を統一した。三国志の最終勝利者は司馬懿であった、と言えるのではないか。


「晋書・宣帝記」は司馬懿を、こう評している。

司馬懿は内心では相手を嫌悪していても、表面は寛大に振る舞った。猜疑心が強く、権謀術数に長けていた。曹操は、司馬懿の内に秘めた野心を察して、太子の曹丕にこう注意を促した。「司馬懿は、臣下として大人しく仕えるような人間ではない。必ずやお前の家を乗っ取るぞ」。だが、曹丕は、かねてから司馬懿と親しく、何かにつけてかばってくれたので、事無きを得た。これ以降、司馬懿は、寝食を忘れて職務に精励し、どんなつまらぬ仕事であっても自ら進んでこなしたので、曹操も気を許すようになった。司馬懿は、公孫淵討伐の際には大量殺戮を行い、曹爽誅殺の際には一族郎党を老若男女の区別なく三族皆殺しとし、他家に嫁いだ者まで討ち漏らす事は無かった。かくして、魏の帝位を奪うに到ったのである。


この評を見ると、司馬懿は陰険な野心家にしか映らないが、司馬懿にも言い分はあろう。魏王朝において、曹爽が実権を握っていた時、政治は大いに乱れていた。曹爽が私欲で国富を浪費しているにも関わらず、皇帝、曹芳はなんの手立ても取れなかった。曹爽に関しては、歴史の勝者である司馬氏によって、不当に評価を陥れられている可能性はあるが、時期を得ない蜀遠征を行って失敗したり、最終的には司馬懿によって謀殺されているのは事実であって、有能な人物であったとは思えない。蜀の劉禅や呉の孫皓(そんこう)の例を見ても分かる通り、暗君や暴君を上に奉ると国家は衰亡し、やがては滅亡の憂き目を見るのである。曹爽の政治が続いたなら、魏も自壊していったかもしれない。 無能な人物が権力を握り続ける事ほど、国家と人民にとっての不幸は無い。


司馬懿は、天下の権を握りたいと言う己の野心もさる事ながら、曹爽の乱行を見過ごす訳にはいかないと言う司馬懿なりの正義感も働いて、政権簒奪に及んだのだろう。それに、曹爽との権力抗争は互いの浮沈を賭けた熾烈なものであって、相手の命脈を絶たない限り安心は出来なかった。この時、陳泰、高柔といった魏の重臣も司馬懿の側に立っているので、群臣の多くはこの政権交代を支持したと思われる。司馬懿は魏朝四代に仕える大功臣であり、その力をもって政道を正してもらいたいと群臣は期待したのだろう。だが、彼らもまさか司馬懿が魏の乗っ取りを謀っているとまでは、読めなかった。権勢を極めた司馬一族に、群臣達は戦々恐々であったろうが、司馬一族が指導力を発揮して、263年に蜀を滅ぼし、280年には呉を滅ぼして天下を統一するに当たっては、最早、心服するしか無かった。天下統一は、曹一族も成し得なった偉業であった。


晋を家に例えれば、司馬懿が設計し、司馬師が基礎を築き、司馬昭が柱を建て、司馬炎が家を完成させたと言えようか。司馬懿が行ってきた行為は、人間として臣下としては間違いであろう。だが、国家と人民の立場から見れば、正しかったと言える。司馬懿は、外面は鷹揚な忠臣であったが、内面は酷薄な野心家であった。耐えるべき時は徹底して耐え忍びながらも、好機と見るや即座に行動した。司馬懿と同質の野心を持っていた曹操は、雄才を有しながらもどこか抜けたところがあり、度々、失策を犯し、大敗を喫しているが、司馬懿には隙が無く、失敗らしい失敗も、敗北も諸葛亮との一戦以外には無い。


恐るべき周到さと、洞察力を備えていた。 しかし、表裏があって、容易に本心は明かさず、人としての魅力と、仁愛には欠けていた。司馬懿の日常に関する逸話は伝わっていないが、当時としては長寿を全うしているので、無理のない生活を送り、執務も基本方針は自らが決定して、細部は人に任せるなどしていたのだろう。国家を担うに足る政治家であったが、指揮官としての活躍はより引き立っており、英傑多い三国志において、五本の指に入る軍略家であろう。遺言によって遺骸は首陽山に埋葬され、文と諡(おくりな)された。後に、孫の司馬炎が晋の皇帝となった時、宣皇帝と追号される。


ここまで、諸葛亮と司馬懿の実績を概略してみたが、軍略面においては、司馬懿が一枚上手であったように思える。司馬懿は、諸葛亮との対戦では臆病に見られるほど防御に徹しているが、孟達や王陵の討伐では、電光石火の進軍でこれを打ち破り、公孫淵の討伐でも、果敢な攻めの姿勢を見せている。これを見ても分かる通り、司馬懿は、相手の力量や置かれた状況に合わせて、変幻自在の軍略を繰り出している。諸葛亮も陽動、引き込み等の作戦を用いているが、基本的には堅実で、その政治姿勢のように正道を行くものだった。諸葛亮の軍略からは、電光石火や変幻自在といった言葉は見出せなず、司馬懿のみならず、他の魏将にもその行動を読まれていた節がある。ただ、何分、国力と地形に大きな制約を受けていたので、慎重にならざるを得ない事情はあった。もし、蜀が、魏と同じくらいの国力と兵力を有していたなら、諸葛亮の軍略も大胆なものに変わっていたかもしれない。


政治面においては、諸葛亮の方が上手であったと思われる。諸葛亮は蜀の法律である蜀科を制定して、国家の骨組みを作っただけでなく、その公正な政治姿勢は当時から賞賛を受け、後世にも長く伝わるほどであった。それに対して司馬懿からは、賞賛を受けるほどの政治実績は伝わってこない。だが、司馬懿は、曹叡の宮殿造営を諌めて、民の負担を軽減しようとしたり、再三、農業振興策を具申して、国力増強に寄与しているので、並々ならぬ政治的力量は備えていただろう。政治というのは、軍事と比べると地味で伝わりにくいので、司馬懿が残した政治的実績も多くが埋もれてしまっているのだろう。 歴史に残した実績においては、より長生きして活躍した、司馬懿に分が上がるだろう。


司馬懿も諸葛亮も国家の礎を築いたという点では同じであるが、蜀は地方政権のまま滅亡したのに対し、晋は全土統一を果たした点で上回っている。生き様においては、これは非常に対照的で、両者に甲乙は付け難い。諸葛亮は乞われて仕官し、その後は忠義一筋に生きたが、司馬懿の方は無理やり仕官させられ、その後は内に秘めた野心の実現に邁進した。方向性は違えども、両者共に大志があり、信念があった。後世への聞こえ、人気と言った点においては、これは圧倒的に諸葛亮に分があるだろう。人間の感情というものは正直で、多くの人々は、司馬懿の生き様にはどす黒いものを感じ、諸葛亮の生き様には一陣の涼風を感じるのではなかろうか。


 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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