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岐阜城の歴史

2012.08.29 - 戦国史 其の三
岐阜城は戦国史上において、最も名高い山城の一つである。建仁元年(1201年)、鎌倉幕府の政所執事であった、二階堂行政が砦を築いたのがその始まりとされる。岐阜城は、低いながらも険しい金華山の山頂にあって、山麓には長良川が流れる天然の要害である。それを麓から眺めたなら、平野にそそり立つ難攻不落の城に映った。しかし、山上の地積が狭いのと、ここを普段の住居とするには険しすぎるのが欠点であった。室町時代には美濃守護、土岐氏の最有力家臣で美濃守護代を務めた、斉藤氏の居城となり、天文2年(1533年)には、下克上の道を駆け上りつつあった斉藤道三(この頃の名は長井新九朗規秀)が城主となった。道三の時代、岐阜城は稲葉山城の名で呼ばれており、道三はここを拠点に美濃第一の実力者となりつつあった。だが、織田信長の父で尾張の実力者である、織田信禿が美濃攻略に乗り出すと、一時、支城の大垣城を奪われるなど苦戦に陥った。


天文13年(1544年)9月22日には織田信秀軍に稲葉山城下まで攻め入られるも、道三は夕刻を迎えて引き揚げる織田軍の一瞬の隙を突いて逆襲を加え、1千人余を討ち取る大勝利を収めた(加奈口の戦い)。この戦いで戦死した織田将兵を弔うために建てられた塚は織田塚と呼ばれ、現在でも金華山の麓に存在している。天文20年(1551年)頃、道三は、美濃守護で主筋に当たる土岐頼芸を放逐して美濃国主となり、下克上を極めた。そして、天文23年(1554年)、子息の義龍に家督と稲葉山城を譲って、自身は近隣の鷺山(さぎやま)城に隠居したとされる。しかし、道三と義龍の仲は次第に険悪なものとなり、弘治2年(1556年)4月18日には両者は軍勢を催して、長良川を挟んで対峙する事態となった。人数は道三軍が3千人未満であったのに対し、義龍軍は1万人以上であったと云う。4月20日には合戦となったが、衆寡敵せず、道三は鼻を削がれたうえで、首を上げられた。道三の娘婿となっていた織田信長は、援軍を率いて美濃に向かっていたが、道三討死の報を聞いて空しく引き揚げていった。


血塗られた道を経て美濃の支配者となった義龍はなかなかの実力者で、度々の信長の侵攻を撃退して国内に踏み込ませなかったが、永禄4年(1561年)、35歳の若さで急死した。義龍の跡を継いだ龍興はまだ14歳の若年であり、信長はそれを当て込んで度々、美濃に攻め入った。それでも美濃勢は当初は若い当主を支えて、信長の侵攻を食い止めんとした。しかし、信長の圧力は強まる一方であるのに対し、今だ年少の龍興に指導力は期待出来ず、次第に美濃勢の結束は揺らいでいった。そして、永禄7年(1564年)には、家臣の竹中半兵衛重治と安藤守就が背いて、稲葉山城を急襲、占拠する事件が起こった。城はすぐに返還されたものの、この事件は斉藤龍興の権威を失墜させ、信長の侵攻を加速させる契機となった。永禄10年(1567年)9月頃、ついに稲葉山城は落ちて、龍興は長良川を下って伊勢長島へと逃れた。この落城の際、火災が生じたらしく、麓にはその時のものと思われる焼土層が残っている。信長はこれにて念願の美濃攻略を果たし、100万石級の大大名となって、一躍、天下人への道が開かれた。


信長は稲葉山城を新たな本拠に定めると、その麓に4階の豪勢な居館を築いてそこを平時の住まいとした。そして、信長は、稲葉山城とその城下の井ノ口を岐阜と改名し、ここから天下布武の大号令を下したのだった。永禄12年(1569年)に岐阜城の信長の下を訪れたルイス・フロイスによれば、その居館は驚くほど壮麗で、欧州でもこれに比肩するものは無かったと云う。居館の外には4つから5つの庭園があり、形の良い石や白砂が撒かれて池には美しい魚が泳いでいた。1階には20余の部屋があって、それぞれに絵画と塗金が施された屏風が飾られてあった。2階は更に美麗な装飾が施された婦人部屋があり、その前の廊下は中国製の金襴(きんらん)の幕で覆われていた。3階は一転、静寂優雅な佇まいで、ここには茶室が設けられていた。4階からの展望は素晴らしく、美しい庭園や、岐阜の町並みを一望する事が出来た。信長の独創的な発想は岐阜居館の作りにも存分に反映され、それは後に幻の名城、安土城へと繋がってゆく。だが、天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前に控えた信長は、突如として本能寺に消えた。


その衝撃は美濃にも波及して、織田信忠の家臣の斉藤利堯なる者が岐阜城を乗っ取る事件も起こった。斉藤利堯はしばらく岐阜城から天下の動静を覗っていたが、羽柴秀吉が明智光秀を破って上方を掌握すると、岐阜城を明け渡した。この後、岐阜城は信長の三男信孝の居城となるが、信孝は秀吉との対立を深めてゆき、天正10年(1582年)12月には秀吉の大軍に攻められた。信孝は一旦、人質を差し出して降伏するが、翌天正11年(1583年)3月、柴田勝家が越前から出陣すると、再び挙兵して岐阜城に立て篭もった。しかし、頼みの勝家が賤ヶ岳の戦いで滅亡すると岐阜城は孤立無援となり、信孝は再び秀吉に降伏して、城を明け渡した。だが、信孝は許されずに切腹となり、岐阜城には池田恒興の嫡男、元助が入った。天正12年(1584年)4月、小牧、長久手の戦いで池田恒興、元助父子が討死すると、次男の輝政が岐阜城主となった。天正19年(1591年)4月、池田輝政は三河に転封され、代わって秀吉の養子、豊臣秀勝が城主となった。


文禄元年(1592年)9月、秀勝が病没すると、信長の孫に当たる織田秀信が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀信は西軍側で参戦し、西上する東軍を岐阜城で迎え撃たんとした。そして、同年8月22日、秀信軍6千人余は岐阜城から出撃して木曽川の線で東軍1万8千余を撃退せんとした。だが、兵力不足から強攻渡河を許し、そのまま数に勝る東軍に押し切られて岐阜城へと退いた。8月23日、勢いに乗った東軍は金華山を駆け上がり、岐阜城を激しく攻め立てた。岐阜城の見た目は堅固そのものであるが、山上部の地積が狭い事から、ここまで攻め入られれば、長くは持ち堪えられなかった。それでも秀信軍は激しく抵抗し、上格子門や二の丸門を巡る戦闘では双方多数の死傷者を出したと云う。だが、岐阜城の抵抗もここまでで、秀信軍は千人余が討ち取られ、同23日に秀信は降伏した。壮麗を極めた信長居館も、この時の戦災で焼失したのであろう。


戦後、秀信は高野山に追放され、代わって岐阜の地には徳川家康の家臣、奥平信昌が入った。だが、家康は岐阜城の廃城を決定し、信昌に加納城を築かせて、そこを統治の拠点とさせたので、岐阜城を巡る激動の歴史はここに終わった。それから4百年近い時を経た、昭和31年(1956年)、岐阜城跡に、鉄筋コンクリート製の3層4階建ての天守閣が復元された。決して風情を感じる建物ではないが、そこからの眺望だけは素晴らしいものがある。それはかつて、斉藤道三や、織田信長が大望を抱きながら眺めた光景と一緒である。また、金華山の麓にあるロープウェー駅のすぐ側には、壮麗を極めたと云う信長の居館跡が存在する。安土城の前身とも言えるこの居館跡を発掘調査した結果、かつては居館を中心に広大な庭園が巡らされていたようだ。現在は山の一角と化し、訪れる人も少ないが、ここには確かに信長の息吹が残っている。
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