このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
山本山城は琵琶湖北東の岸辺にある、山本山(標高324メートル)の頂部に築かれた険阻な山城である。山本山城の歴史は古く、治承4年(1180年)、源氏に属する地元の豪族、山本義経がこの山本山に拠って、平氏に対して蜂起したのが、歴史における初見である。しかし、山本山城と義経は、平知盛・資盛率いる平家の大軍によって攻め滅ぼされたとある。室町時代になると、近江は京極氏の支配化となり、在地勢力の阿閉氏がその被官として山本山城に入った。戦国時代中期、浅井氏が近江北部で勢力を強めてくると、当時の阿閉氏当主である貞征(さだゆき・1528~1582)は、浅井氏の旗下に属するようになった。
元亀元年(1570年)、浅井長政が織田信長に戦いを挑むと、阿閉貞征、貞大(さだひろ・?~1582)父子もそれに従って篭城戦に参加する。阿閉氏は浅井氏の重鎮であり、姉川の戦いでは1千の兵を率いて参陣したとされており、その後も、山本山城に拠って度々の織田軍の攻撃にも耐え抜いた。山本山城は琵琶湖北東の湖上水運を制する位置にあり、また、その存在自体が小谷城を側面援助していた。このように、山本山城と阿閉氏の存在は、浅井氏にとって掛け替えの無いものだった。だが、天正元年(1573年)頃から、浅井氏の劣勢は明らかとなり、それを見越して阿閉父子は信長に降る。これが、浅井氏にとって決定的な打撃となり、同年9月1日、小谷城は落城し、浅井長政も自刃して果てた。
戦後、阿閉氏は本領である伊香郡(いかぐん)を安堵され、浅井氏に代わって近江北部の領主となった羽柴秀吉の与力となる。しかし、秀吉が、阿閉氏の収入源であった竹生島の扶持を差し押さえてくるなど、圧迫を強めてくると、阿閉貞大はこれに反発して信長に訴え出た。その後も、阿閉氏と秀吉の対立は解消される事なく、貞大は信長の直接指揮下に転属する。ちなみに貞大は大力無双の武者で、天正6年(1578年)8月15日には、信長の面前で相撲を披露している一面もある。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発すると、阿閉父子は明智光秀に組して、秀吉の本拠地であった長浜城を襲った。これには、かねてから遺恨ある秀吉への報復の意味合いも含まれており、秀吉の一族(生母のなか、妻おねなど)は命からがらで城から逃れた。
6月13日、阿閉父子は光秀方として山崎の戦いにも参加したが、この戦いで光秀は敗死し、阿閉父子も山本山城へと逃れた。だが、阿閉父子は、本拠地と家族の命を脅かされ激しい怒りを含んだ秀吉の報復攻撃を受ける事となる。勢いに乗った万余の秀吉軍を前に、いくら山本山城が堅城とは云え、孤立無援の阿閉父子に勝ち目は無かった。山本山城は秀吉軍によって攻め立てられ、阿閉父子は一族郎党共々、族滅されたのだった。この後、山本山城は廃城となり、阿閉氏と共に歴史の片隅に消えていった。
西教寺は、滋賀県大津市坂本にある寺院で、比叡山の東麓にある。明智光秀ゆかりの寺として知られている。
西教寺の開祖は聖徳太子であると云われているが、詳らかではない。西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、天台真盛宗の開祖、真盛上人が入寺してから、発展していった。しかし、元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際には、この西教寺も焼き払われてしまう。その後、坂本を領有するようになった明智光秀によって西教寺は復興され、以降、光秀と西教寺は、深い関係を有するようになる。
この西教寺には、光秀が戦死した家臣を弔うために書いた戦没者供養米寄進状が残されている。これは、元亀4年(1573年)2月、光秀が軍を率いて近江堅田の城を攻めた際、18人の戦死者を出したため、彼らの名前を列記した上で西教寺に米を寄進し、その冥福を祈った書状である。光秀は、この他にも負傷した家臣を労わる書状を幾つか残している。家臣へのこのような細やかな心遣いは、他の武将ではほとんど見られないものだった。その一方で光秀は「明智光秀家中軍法」と云う軍法を定めており、家臣に厳しい軍律も課している。家臣に規律を遵守させつつも、思いやりの心で接する、おそらく光秀軍は織田家中の精鋭であった事だろう。
光秀には妻木熙子(ひろこ)と云う正室がいたが、彼女は光秀に先立って、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったと云われており、その墓も西教寺にある。光秀は、熙子の葬儀をこの西教寺で盛大に執り行ったとか。また、この寺には光秀の妻の実家である、妻木一族の墓も建てられている。彼ら妻木一族は最後まで光秀に忠節を尽くし、多くの戦死者を出したとある。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺の変を起こすが、6月13日の山崎の戦いで敗死し、残された一族も坂本城で最後を迎える。6月18日、熙子の父とされる妻木広忠は、西教寺に明智一族と妻木一族の墓を建てた後、墓前で切腹して果てたと云われている。以降、西教寺では、縁が深かった明智一族と妻木一族の菩提を弔い続けた。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺の総門
この門は、坂本城の城門を移築したものであると伝えられています。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺の墓石群
雪煙が舞う墓石群の中に、明智一族の墓もあります。
西教寺 posted by (C)重家
↑明智一族の墓
坂本城で散っていった明智一族の菩提が弔われています。
西教寺 posted by (C)重家
↑妻木一族の墓
明智光秀の妻、煕子(ひろこ)は妻木氏の出で、その一族は光秀と深い繋がりを有しています。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺本坊
この本坊は昭和33年に改築されたものですが、元は光秀が寄進した坂本城の陣屋であったとされています。
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺の日本庭園
西教寺 posted by (C)重家
↑西教寺内に安置されている石仏
西教寺 posted by (C)重家
↑客殿に安置されている光秀とその妻、煕子の木像
寺の方の承諾を得て、撮らせてもらいました。左に安置されている鞍は、光秀の重臣で湖水渡りの伝説を残した明智左馬助 秀満のものであると云われています。