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玄蕃尾城

玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根にある山城である。内中尾山(標高460メートル)の山上に築かれている事から、内中尾城とも呼ばれる。ここは近江と越前の国境沿いにあり、二つの街道を押さえる事も可能な要所にあった。この地に最初に砦を作ったのは朝倉氏であったようだが、ここを大規模な城郭に作り変えたのは柴田勝家である。



天正10年(1582年)6月27日の清洲会議後、勝家は近江長浜城を版図に加える。その長浜城と、自らの本拠地、越前北ノ庄城とを結び付けるために、この城を修築した。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが起こると、勝家はこの玄蕃尾城を本陣として使用している。しかし、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、その存在意義も無くなり、人知れず草木に埋もれていった。現在、玄蕃尾城は織豊系の貴重な城郭遺構として見直され、国指定の史跡となっている。



刀根坂
刀根坂 posted by (C)重家

↑近江と越前の国境、刀根坂


この峠の上に玄蕃尾城があります。熊が出没するとの事で、熊鈴を鳴らしつつ恐る恐るの登城でした。



刀根坂
刀根坂 posted by (C)重家

↑刀根坂からの眺め


この刀根坂は、古戦場でもあります。天正元年(1573年)8月、朝倉義景は、織田信長に攻められていた小谷城の浅井長政を救援に向かいます。しかし、戦況は悪化する一方で、義景は利あらずとして撤退に取り掛かりますが、その最中に織田軍の猛追撃を受けて、朝倉軍は壊滅します。朝倉軍は名のある将多数を含む3千人余が討ち取られ、この刀根坂から敦賀に至るまで屍を晒したと伝わります。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑説明版



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑南虎口



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑東虎口



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑主郭(本丸)


賤ヶ岳の戦いの時、勝家はここで全軍の指揮を執っていました。当時は、勝家を中心とする、屈強な武士達で満ち溢れていた事でしょう。そして、佐久間盛政が奇襲攻撃を行うに当たって、勝家もこの本陣から出撃して行きました。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑張出郭(見張り台)


麓には当時の幹線道路である、北国街道が走っています。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑搦手郭(兵糧庫)


結構、広い平坦地でした。


玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家


↑古城に咲く花
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賤ヶ岳

賤ヶ岳は、滋賀県長浜市にある標高421メートルの山である。この賤ヶ岳は、天正11年(1583年)4月、柴田勝家と羽柴秀吉が天下分け目の決戦をした地として余りにも有名である。



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑戦死者の慰霊地



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑琵琶湖の北岸



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳山頂の石碑



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳の武士像


傷つき、疲れ切っている様に見えます。良く、表現されていると思います。



賤ヶ岳 遠くに山本山城
賤ヶ岳 遠くに山本山城 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳からの眺め


山本山城が、かすかに見えます。



賤ヶ岳 遠くに小谷城
賤ヶ岳 遠くに小谷城 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳からの眺め


白く霞んでいますが、中央に小谷城が見えます。



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳から大岩山へと続く道


中川清秀が討死した大岩山まで行こうとしたのですが、途中で道が分岐しており、どちらに進んで良いか分からなかったので、引き返しました。



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳合戦図



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑余呉湖


余呉湖の右手の山地に大岩山があり、左手の山地に権現坂があります。この余呉湖周辺で、佐久間盛政隊と秀吉軍とが激戦を繰り広げました。

山本山城

山本山城は、滋賀県長浜市湖北町にある山城である



山本山城は琵琶湖北東の岸辺にある、山本山(標高324メートル)の頂部に築かれた険阻な山城である。山本山城の歴史は古く、治承4年(1180年)、源氏に属する地元の豪族、山本義経がこの山本山に拠って、平氏に対して蜂起したのが、歴史における初見である。しかし、山本山城と義経は、平知盛・資盛率いる平家の大軍によって攻め滅ぼされたとある。室町時代になると、近江は京極氏の支配化となり、在地勢力の阿閉氏がその被官として山本山城に入った。戦国時代中期、浅井氏が近江北部で勢力を強めてくると、当時の阿閉氏当主である貞征(さだゆき・1528~1582)は、浅井氏の旗下に属するようになった。


元亀元年(1570年)、浅井長政が織田信長に戦いを挑むと、阿閉貞征、貞大(さだひろ・?~1582)父子もそれに従って篭城戦に参加する。阿閉氏は浅井氏の重鎮であり、姉川の戦いでは1千の兵を率いて参陣したとされており、その後も、山本山城に拠って度々の織田軍の攻撃にも耐え抜いた。山本山城は琵琶湖北東の湖上水運を制する位置にあり、また、その存在自体が小谷城を側面援助していた。このように、山本山城と阿閉氏の存在は、浅井氏にとって掛け替えの無いものだった。だが、天正元年(1573年)頃から、浅井氏の劣勢は明らかとなり、それを見越して阿閉父子は信長に降る。これが、浅井氏にとって決定的な打撃となり、同年9月1日、小谷城は落城し、浅井長政も自刃して果てた。


戦後、阿閉氏は本領である伊香郡(いかぐん)を安堵され、浅井氏に代わって近江北部の領主となった羽柴秀吉の与力となる。しかし、秀吉が、阿閉氏の収入源であった竹生島の扶持を差し押さえてくるなど、圧迫を強めてくると、阿閉貞大はこれに反発して信長に訴え出た。その後も、阿閉氏と秀吉の対立は解消される事なく、貞大は信長の直接指揮下に転属する。ちなみに貞大は大力無双の武者で、天正6年(1578年)8月15日には、信長の面前で相撲を披露している一面もある。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発すると、阿閉父子は明智光秀に組して、秀吉の本拠地であった長浜城を襲った。これには、かねてから遺恨ある秀吉への報復の意味合いも含まれており、秀吉の一族(生母のなか、妻おねなど)は命からがらで城から逃れた。


6月13日、阿閉父子は光秀方として山崎の戦いにも参加したが、この戦いで光秀は敗死し、阿閉父子も山本山城へと逃れた。だが、阿閉父子は、本拠地と家族の命を脅かされ激しい怒りを含んだ秀吉の報復攻撃を受ける事となる。勢いに乗った万余の秀吉軍を前に、いくら山本山城が堅城とは云え、孤立無援の阿閉父子に勝ち目は無かった。山本山城は秀吉軍によって攻め立てられ、阿閉父子は一族郎党共々、族滅されたのだった。この後、山本山城は廃城となり、阿閉氏と共に歴史の片隅に消えていった。






山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑宇賀神社


この社の脇から登って行きます。
麓にある宇賀神社の近辺に駐車スペースがあり、そこから歩いて30~40分ばかり歩くと山頂まで行けます。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑傾斜の強い斜面


山本山の見た目は、低い穏やかな山なのですが、中腹から傾斜が強くなっており、頂上に向かうにつれ非常に息が切れてきます。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑二の丸跡


奥に本丸があります。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑山本山からの眺め。



黄砂が酷くて見え難いですが、琵琶湖の北岸が見渡せ、左手には竹生島もあります。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


ここで阿閉氏が君臨し、そして、最後を迎えたのでしょうか。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑本丸から一番馬場の方を望む。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑北面にある一番馬場


ここから北に7、8キロばかり進むと、賤ヶ岳まで通じます。

大阪城 

大阪城は、大阪府大阪市中央区にある平山城である。現在は花見の名所となって、多くの人々の笑い声が響く平和な城となっている。だが、この城は日本有数の要地にあって、戦国時代には、幾度となく激しい攻防が繰り広げられた激戦の地でもあった。



大阪は、古代より商業、交通の一大要衝として栄えており、繁栄を約束された地であった。そして、戦国時代、この地に初めて本格的な城郭を築いたのが、浄土真宗(一向宗)の僧侶、本願寺蓮如である。明応5年(1496年)、蓮如は、天然の要害である上町台地に大伽藍を築いて、ここを教団の本拠と定めた。堀を巡らし、櫓(やぐら)の役割を果たす堂塔を100以上建設し、更にそれを多数の坊官が守りを固める、鉄壁の構えであった。これが、石山本願寺の始まりである。本願寺は大阪に万全たる地盤を築いたかに見えたが、戦国の風雲児、織田信長が畿内に突如として現れて、本願寺に圧迫を加えてきた。時の本願寺法主、顕如はこれに強い不満と不安を抱き、そして元亀元年(1570年)9月、敢然と戦いを挑んだ。



本願寺は、有力戦国大名並の戦力を有していおり、他の戦国大名とも結んで信長を散々に苦しめた。だが、信長も底力を発揮して各個撃破で、本願寺の力を徐々に削いでゆき、とうとう石山本願寺を包囲するに到った。信長は数万の大軍をもって、本願寺を封じ込めたが、それでも力攻めで落とすのは不可能であって、根気強く、数年がかりの兵糧攻めで追い詰めていった。天正8年(1580年)、10年に渡る攻防の末、本願寺はついに石山の地を明け渡した。信長は苦労して手に入れたこの地に、一大城郭を築く予定であった。それは安土城を越える奇抜かつ壮麗な城となり、織田一族の居城にして、日本統治の拠点ともなっていただろう。しかし、その雄大な構想は、本能寺の変を受けて信長と共に消え去った。天正11年(1583年)、信長亡き後、その勢力範囲と統一事業を受け継いだ羽柴秀吉は、名実共に天下人たらんとして、石山の地に一大城郭の建設を開始する。



秀吉は諸大名、武士、農民を大動員して、天正13年(1585年)春には、華麗な天守閣と御殿を完成させた。九州の戦国大名、大友宗麟が秀吉に支援を求めて訪ねて来た際、この大阪城を案内されている。御殿の壁は、狩野永徳の手によって金箔を押された絵画が描かれ、天守閣の蔵には、金銀、宝物が山の様に収められていた。宗麟は、大阪城の規模と絢爛豪華振りに驚愕し、三国無双の城であると感嘆した。このような大城郭は、圧倒的な富と権力を持つ者にしか実現し得ないものであった。それを諸大名に見せ付ける事によって、力の格差を思い知らせ、戦わずして従わせる。これこそ、秀吉の意図するところであった。



大阪城の拡張工事は以後も続けられ、文禄4年(1594年)からは町屋も囲む長大な惣構(そうがまえ)の築造が始まり、秀吉死去の年、慶長3年(1598年)からは4年の歳月をかけて三の丸が築造され、豊臣家の繁栄と守護の象徴たる、大阪城は完成を見た。だが、秀吉の死と同時に、豊臣家の前途に暗雲が立ちこみ始める。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、天下の権の大部分は徳川家の手に移り、豊臣家の勢力は大きく後退した。一般的には、この時点で豊臣家は65万石の一大名に転落したと思われがちであるが、これは直轄地であって、豊臣家臣の知行地は西国各地に散らばっており、これらを合わせれば、実際の石高はもっと上であった。それに豊臣家は、高い家格、天下の巨城たる大阪城、莫大な資金を有しており、なにより、天下の台所とも呼ばれる物流と商業の一大拠点、大阪の地を押させているのが強みであった。 徳川家にとって、豊臣家は今だ脅威であった



豊臣家は一方の旗頭になるだけの潜在力をまだ秘めており、これに徳川家に不満を持つ外様大名が集まったなら、関ヶ原の様な大戦が再び起こらないとも限らなかった。それこそ、家康の最も危惧するところであったろう。その危惧を断つには家康の目が黒い内に、豊臣家を大阪から転封させるか、秀頼を江戸に置いて統制下に置くか、根絶やしにする他、無かった。しかし、名分も無しに要求を突きつける事は出来ず、家康はじっとその機会を窺った。そして、慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が起こると、家康はこれを絶好の機会と捉えて、豊臣家に要求を突きつけた。すなわち、大阪城を立ち退いて転封するか、秀頼か淀殿のどちらかが江戸に住まうよう求めたのだった。勿論、豊臣秀頼とその母、淀殿はこの申し出を峻拒する。豊臣家は、恩顧の大名ならば、馳せ参じてくれると見込んでいたようだ。しかし、徳川家の力、特に家康の力を知る諸大名は、全てがその命に従った。こうして、戦国最後の争乱、大阪の陣が始まった。



慶長19年(1614年)11月、徳川方20万人余が大阪に押し寄せ、城に篭る豊臣方10万人余を取り囲んだ。過去、家康は幾度となくこの大阪城に滞在しており、その堅牢さは分かりきっていた。そこで、無理攻めはせず、大音響が轟く大筒を日々、撃ち放ち、夜中に諸軍に大声で喊声を上げさせるなど、心理戦で豊臣方を追い詰めていった。この冬の陣は、全体的には平易に推移している様に見えるが、局地的には幾つか合戦が行われており、日々の鉄砲の撃ち合いも激しいものがあった。同年12月、両軍共、余りの大軍であるので、兵糧の欠乏に苦しみ始め、和平の機運が高まってくる。そして、豊臣方が大阪城の主要部を破却する事を条件に、徳川方は、秀頼、淀殿の関東下向は求めず、その本領を安堵する事として、和平は成った。この時の和議で大阪城は、二の丸、三の丸、惣構が破却され、外掘も埋められた。



だが、これが危うい和平である事は、誰の目にも明らかであった。事実、家康は和平締結後、すぐに大筒の製造を命じている。そして、豊臣方の浪人が不穏な動きをしているとの風聞が伝わってくると、家康はすぐさま反応し、浪人を全て放逐するか、転封するかのどちらかを選択せねば、豊臣家を追討すると最後通牒した。だが、どちらも豊臣家にとっては、受け入れ難い条件であった。例え、これを受け入れたとしても、約束が忠実に履行されるとは限らず、後に難癖を付けられて取り潰しに合えば、不名誉極まりない。そう思い定めた秀頼は、戦って潔い最期を迎える方が良しとした。そして、両家は最後の対決の時を迎える。



慶長20年(1615年)5月、徳川方15万5千人余が大阪の地に集結し、これを豊臣方5万5千人余が迎え撃つ。両軍共、先年よりは兵数は減少しているが、戦意は遥かに上回っていた。徳川家は最終勝利者として戦国の世を終わらせるべく、豊臣家はそれに最後の一矢を報い、あわよくば過去の栄光を取り戻すべく、戦場へと赴いた。だが、大阪城はすでに防御機能を失っており、豊臣方は劣勢な兵力を率いて、一か八かの決戦を挑む以外に手は無かった。



5月7日、豊臣方は、真田信繁(幸村)、毛利勝永らが突進を開始し、凄まじい気迫と勢いで徳川方の大軍を突き破っていった。そして、家康本陣まで乱入するも、あと一押しの力が足らず、力尽きたのだった。この後、豊臣軍は崩壊し、徳川軍10数万人が一斉に大阪城に乱入した。これを受けて万を越える避難民、武士らが落人狩りにあって命を落とすか、川を渡りきれずに溺死していった。この未曾有の惨劇の様子は、後の「大坂夏の陣図屏風」に克明に写し出されている。大阪城とその周辺は大炎上し、京都からも見えるほど、夜空を赤く染め上げた。翌5月8日、秀頼と淀殿は山里曲輪(やまざとくるわ)の一角に身を潜めていたが、最後の助命嘆願も無視され、自刃を余儀なくされた。ここに豊臣家は、大阪城諸共、滅び去ったのだった。



戦後、大阪は徳川家の直轄領となり、元和20年(1620年)より城の再建が始められる。そして、寛永6年(1629年)、新たな大阪城の完成を見る。徳川家による再建は、豊臣家の痕跡を消すが如く、徹底的に改築されたものであった。秀吉が築いた石垣は埋め立てられ、天守、堀、石垣の位置や形も大きく変更された。徳川時代の大阪城は、外郭線など城域は豊臣時代より縮小されたが、天守閣と石垣はより壮大なものとなった。だが、寛文5年(1665年)、落雷によって天守閣が焼失してしまうと、以後、再建される事は無かった。城の象徴たる天守閣は失ったものの、大阪城の戦略的な価値はいささかも衰えず、徳川幕府の西の要として重視された。



慶応3年(1868年)、明治維新が起こると、大阪城もその動乱の渦中に落ち、歴史ある建造物の多くが焼失してしまう。明治の世を迎えると、大阪城は陸軍の管轄地となり、鎮守府が置かれた。昭和6年(1931年)、大阪城の天守閣は、鉄筋コンクリート製で再建される。昭和20年(1945年)3月、大阪城は陸軍の拠点となっていた事から、米軍の爆撃目標となり、大空襲を受ける。この空襲によって、残されていた幾つかの歴史建造物が焼失してしまうが、天守閣自体は無事であった。戦後、大阪城は一時、米軍の駐屯地となったが、昭和23年(1948年)に返還され、大阪城公園として整備された。天守閣はコンクリート製とは言え、昭和初期の近代建造物としての評価は高く、国の登録有形文化財に指定されて現在に至っている。激動の世に翻弄されつつ、大阪城は今もそこに在り続ける。





大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑外堀



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑大手門前


大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑千貫櫓


大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑石垣と桜



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑桜門枡形の巨石


この巨石は城内第一の大きさで、蛸石(たこいし)と呼ばれています。
岡山県出土の花崗岩で、寛永元年(1624年)に備前岡山藩が運んで来たものです。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣


現代、天守閣は近代的なコンクリート建造物となって、様々な資料が収められた博物館となっています。近隣には大阪城ホールもあって、コンサートがある日には多くの人で賑わっています。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣から南を望む。



大阪城
大阪城 posted by (C)重家

↑天守閣から西の丸を望む。



大阪城 西の丸
大阪城 西の丸 posted by (C)重家

↑西の丸


平和な光景が広がっています。桜の季節の大阪城は、城内各所に屋台が建ち並んで人で溢れかえります。特に大阪城西の丸の広場は、多くの花見客で賑わいます。

西教寺 明智光秀ゆかりの寺

西教寺は、滋賀県大津市坂本にある寺院で、比叡山の東麓にある。明智光秀ゆかりの寺として知られている。


西教寺の開祖は聖徳太子であると云われているが、詳らかではない。西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、天台真盛宗の開祖、真盛上人が入寺してから、発展していった。しかし、元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際には、この西教寺も焼き払われてしまう。その後、坂本を領有するようになった明智光秀によって西教寺は復興され、以降、光秀と西教寺は、深い関係を有するようになる。


この西教寺には、光秀が戦死した家臣を弔うために書いた戦没者供養米寄進状が残されている。これは、元亀4年(1573年)2月、光秀が軍を率いて近江堅田の城を攻めた際、18人の戦死者を出したため、彼らの名前を列記した上で西教寺に米を寄進し、その冥福を祈った書状である。光秀は、この他にも負傷した家臣を労わる書状を幾つか残している。家臣へのこのような細やかな心遣いは、他の武将ではほとんど見られないものだった。その一方で光秀は「明智光秀家中軍法」と云う軍法を定めており、家臣に厳しい軍律も課している。家臣に規律を遵守させつつも、思いやりの心で接する、おそらく光秀軍は織田家中の精鋭であった事だろう。


光秀には妻木熙子(ひろこ)と云う正室がいたが、彼女は光秀に先立って、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったと云われており、その墓も西教寺にある。光秀は、熙子の葬儀をこの西教寺で盛大に執り行ったとか。また、この寺には光秀の妻の実家である、妻木一族の墓も建てられている。彼ら妻木一族は最後まで光秀に忠節を尽くし、多くの戦死者を出したとある。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺の変を起こすが、6月13日の山崎の戦いで敗死し、残された一族も坂本城で最後を迎える。6月18日、熙子の父とされる妻木広忠は、西教寺に明智一族と妻木一族の墓を建てた後、墓前で切腹して果てたと云われている。以降、西教寺では、縁が深かった明智一族と妻木一族の菩提を弔い続けた。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の総門


この門は、坂本城の城門を移築したものであると伝えられています。


西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の墓石群


雪煙が舞う墓石群の中に、明智一族の墓もあります。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑明智一族の墓


坂本城で散っていった明智一族の菩提が弔われています。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑妻木一族の墓


明智光秀の妻、煕子(ひろこ)は妻木氏の出で、その一族は光秀と深い繋がりを有しています。


西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺本坊


この本坊は昭和33年に改築されたものですが、元は光秀が寄進した坂本城の陣屋であったとされています。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の日本庭園



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺内に安置されている石仏



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑客殿に安置されている光秀とその妻、煕子の木像


寺の方の承諾を得て、撮らせてもらいました。左に安置されている鞍は、光秀の重臣で湖水渡りの伝説を残した明智左馬助 秀満のものであると云われています。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
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