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篠山城、再訪

篠山城は、兵庫県篠山市にある平山城です。


慶長14年(1609年)、関ヶ原合戦を経て、天下の権を握りつつあった徳川家康は、今だ大坂にて隠然たる勢力を有している豊臣家を警戒し、山陰道の要衝である丹波篠山の地に城を築く事を命じた。豊臣家を包囲する事が主目的であるが、西国大名に対する抑えの意味合いもあった。縄張奉行(城の設計者)となったのは、戦国有数の築城名人として知られている藤堂高虎で、普請総奉行(総監督)となったのは、家康の娘婿で、これまた築城に長けた池田輝政であった。築城は天下普請と呼ばれる大掛かりなもので、西日本の15カ国、20の大名と、総勢8万人もの人夫が動員された。工事は、慶長14年(1609年)3月9日の鍬入れから始まり、同年10月5日に奉行が帰国したとあるので、この頃におおよその工事が終わり、同年12月21日には人夫が皆、帰路に着いたとあるので、この頃に仕上がったのだろう。


並の大名ならば数年掛かりであったろうが、天下人、家康の御声掛かりによる大動員で、僅か9ヶ月余で完成を見たのだった。篠山城の規模は決して大きくはないが、整った方形に二重の堀、総石垣の外観は、まさに近世城郭といった趣で、この城が持つ堅固さの現れでもあった。初代城主となったのは、徳川譜代である松平康重で、以後も、別家の松平氏や、青山氏といった徳川譜代が、代々、城主を務めた。明治の世を迎えると、城内の建物のほとんどは破却されたが、唯一、大書院だけは残された。その大書院も昭和19年(1944年)1月に焼失してしまうが、平成12年(2000年)3月に、古地図、古写真、発掘調査を元にした、伝統工法によって再建された。





篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑枡形

敵の動きを妨げるための、方形の広場。




篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑大書院

中には、狩野派の屏風絵などが展示されています。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑篠山城の模型

中にある展示品は、一部、フラッシュ禁止がありますが、基本的に撮影可能との事でした。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑上段之間

最も格式の高い部屋です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑手前の広場が二の丸で、奥の一段高い所が本丸



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣

立派な石垣ですが、実際には天守閣は築かれなかったとの事です。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台からの眺め

前方に見える山は高城山(標高460メートル)で、丹波の戦国武将、波多野氏が築いた八上城がありました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑埋門(うずみもん)

非常時には埋めたてられ、石垣と一体化して遮断されます。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑堀際から見た天主台

内堀の石垣は、見た目が綺麗なので、最近、補強されたものの様です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑北堀

篠山城の外堀で、非常に広大でした。


篠山城の付近には多くの土産物屋、料理屋が立ち並んでいて、散策するにはもってこいでしょう。それと時間があれば、八上城にも登ってみては如何でしょう。篠山城には、華やかな江戸時代的な雰囲気が漂っていますが、八上城には、どこか物悲しい戦国の雰囲気が残っています。




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芥川山城

芥川山城は、大阪府高槻市にある山城です。


芥川山城は、永正12年(1515年)頃、摂津北部の豪族、能勢頼則によって築かれたのが最初とされる。大永4年(1524年)、室町幕府の菅領で大実力者である細川氏が、高国と晴元とに分かれて、内部抗争していた際、能勢氏は、高国に味方したものの、晴元派の攻勢を受けて、没落した。天文2年(1533年)、権勢を増した細川晴元は芥川山城に入城し、自らの持ち城とするが、やがて家臣の三好長慶の力が増してきて、天文16年(1547年)には、長慶の持ち城となった。長慶は、一族の芥川孫十郎を城主として入れたが、天文22年(1553年)、孫十郎が細川晴元に呼応して謀反したので、これを攻め落とし、以後は自らの居城として用いた。それから7年間、長慶は芥川山城を本拠として、勢力拡大に努めた。この長慶時代に芥川山城は拡張され、摂津有数の大城郭に変貌を遂げる。


永禄3年(1560年)、長慶は、河内の飯盛山城に本拠を移し、芥川山城には嫡男の義興を入れた。しかし、永禄6年(1563年)、義興は若くして病死したので、代わって一族の三好長逸が入った。永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると、三好長逸はこれに敵対したので、攻撃を受けて城を追われ、代わって信長の部将、和田惟政が城主として入った。永禄12年(1569年)、惟政は功績を挙げて高槻城を与えられ、以後はここを居城として、芥川山城には家臣の高山友照を入れた。元亀2年(1571年)、惟政は討死し、その子の惟長が継いだものの、元亀4年(1573年)、高山友照、重友父子によって、惟長は追放された。高山父子は高槻城を接収すると、ここを居城とした。それに伴って芥川山城は廃城となり、短い歴史に幕を閉じた。




摂津峡

摂津峡 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

川の奥にあるのが三好山で、そこに芥川山城が築かれていました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

摂津峡が天然の堀となっており、斜面も急峻で、これまた天然の石垣の役割を果たしています。


芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

芥川山城では、所々で石垣が見られましたが、これが築城当時のものかどうかは不明です。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土橋跡

道の両側は掘削されて、堀切りになっているようでした。この他にも、何重もの郭の跡が見られました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土塁

写真では伝わり難いですが、結構な高さがあります。この上が本丸になります。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

ここが城の最高所で、発掘調査によれば礎石の跡があって、御殿の様な建物が建てられていたとの事です。なので三好長慶は、普段はここに住んでいたのでしょう。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

下には、摂津峡が流れています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から東を望む

高槻市街が広がっています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑水場

水汲み場と思われます。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

なかなか立派な石垣でした。これが戦国期に築かれたものならば大したもので、畿内を制した三好氏の力の程が窺えます。

黒井城、再訪

黒井城は、兵庫県丹波市にある山城で、丹波の戦国大名、赤井直正の居城として用いられていました。


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑麓から見た黒井城


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑石踏の段跡

ここには、赤井氏を祭る石碑が立っています。


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑黒井城から北を望む

本丸跡に生えている桜を期待して登ったのですが、残念ながら、数日前の風雨で散ってしまっていました。

黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑黒井城から東を望む


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑黒井城から南を望む


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑本丸石垣


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑本丸跡


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑本丸跡にある石碑


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑麓にある興禅寺

黒井城主の居館跡です。


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑興禅寺

徳川家光の乳母として知られている春日局は、この地で誕生しています。

春の姫路城

姫路城は、兵庫県姫路市にある平山城で、最早、説明不要とも言える名城です。



姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家



姫路城
姫路城 posted by (C)重家



姫路城
姫路城 posted by (C)重家




姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家

姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家


訪れた日は、桜は満開でしたが、曇り空だったのが残念でした。姫路城にはもう何度も訪れていますが、その優雅な姿は、何回見ても飽きないです。

八幡山城

八幡山城は、滋賀県近江八幡市にある山城です。


八幡山城は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の甥で、養子でもある豊臣秀次によって築かれた。城が築かれた八幡山(別名、鶴翼山)は、標高は272メートルと低いものの急峻で、東西には琵琶湖の内湖が広がる天然の要害であった。平野となっている南は、琵琶湖の水を引いた八幡堀が巡らされたが、これは防御を固めるだけでなく、商業を促す運河としても用いられた。秀次の居館は山麓に築かれ、普段の政務や生活はここで行われた。城下町は、すぐ北にある安土城から移築され、人々も八幡に移り住んだ。


天正18年(1590年)、秀次は小田原征伐の功をもって、近江43万石から、尾張、伊勢100万石に転封となり、代わって、京極高次が2万8千石で八幡山城主となった。文禄4年(1595年)、秀次は謀反の嫌疑をかけられて切腹に追い込まれると、その痕跡を消すように八幡山城も破却された。同時期には、京の秀次邸宅であった聚楽第も破却されている。これを受けて、八幡山城主であった京極高次は大津に転封された。八幡山城は失われたが、城下町はその後も発展を続け、現在も尚、水堀に囲まれた趣ある景観を見せてくれる。悲運に泣いた秀次であったが、自らが作り上げた八幡の町の発展と存続は、せめてもの慰めとなったであろう。


八幡堀
八幡堀 posted by (C)重家

↑八幡堀



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山ロープウェー

ゴンドラに乗っている時に感じましたが、八幡山は結構、急峻な山でした。



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から東を望む


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から北を望む

中央にあって一段低い山は、安土城があった安土山です。その右側にある大きな山は、繖(きぬがさ)山で、かつてそこには六角氏の山城、観音寺城が築かれていました。左側に見える湖は、琵琶湖の内湖、西の湖で、昔は八幡山の麓まで広がっていたそうです。


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から西を望む。

西に広がるのは琵琶湖で、これも往時には八幡山の麓まで水が浸していたそうです。



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から南を望む


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑本丸虎口跡



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸跡には、現在、瑞龍寺が建っています。


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城出土の瓦


八幡山城は、往時の建物はもう残っていませんが、石垣は良好な状態で残されていました。頂上からの眺めは素晴らしく、3ケ所ぐらいある展望台まで足を伸ばせば、ほぼ360度の展望が得られます。また、堀に囲まれた城下町は情緒があって往時を偲ばせてくれます。今回は見逃しましたが、麓には総石垣の立派な秀次邸宅跡が見られます。

 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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