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国会議事堂

国会議事堂は、日本国の政治の中心かつ、国家の象徴ともなる、非常に重要な建造物である。大正9年(1920年)1月より建築が始まり、昭和11年(1936年)11月に完成する。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、約17年の建築期間と、当時2570万円(現在価値にすると1千億円以上)の建築費用を要した。幅は206.36m、奥行88.63m、中央塔の高さ65・45m、両翼の高さ21.91m。外装はどっしりした花崗岩で構成され、内装は大理石を始めとする日本各地から集められた名石が散りばめられている。




↑参観入口

国会議事堂を参観する場合、裏口に廻って、受付で氏名、住所を記入し、持物検査を受ける必要があります。










↑御休所

天皇陛下が休まれる部屋です。




↑御休所






↑中央広間

この中央広間の荘厳さは言葉にならないです。ここは、日本の政治の中心地であるだけでなく、芸術の粋を集めた巨大美術品でもあります。



↑中央広間



↑中央広間



↑衆議院議場

令和現在、日本の衰退を招いたのは、ここに集う政治家の低能さにあります。真に国家を案じ、立法している政治家は、全体の1割に満たないでしょう。しかし、国民も選挙に無関心であったり、口だけの政治屋に騙されたり、人気芸能人だからと言って投票した責任はあります。




↑国会議事堂正面


国会議事堂は、本当に荘厳な建物でありました。願わくばここに集う人々には、日本を背負っているという気概を持って、指導層として相応しい気品、知性を備えてほしいものです。

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大坂夏の陣、小松山古戦場跡

小松山古戦場跡は、大阪府柏原市玉手町にある古戦場である。現在は住宅に埋もれた小山であるが、戦国最期の大戦、大坂夏の陣における激戦地の一つであった。


大坂夏の陣において、徳川方15万5千人余は北東の河内、東の大和、南の紀伊の3方向から大坂城に迫りつつあり、その内、大和方面から進撃する徳川方は、水野勝成、伊達政宗、松平忠輝ら3万4千人余であった。それに対して、豊臣方は総勢5万5千人余の内、後藤基次、真田信繁、毛利吉政ら1万8千人余が、大和方面の徳川方迎撃に向かった。豊臣方は、河内国と大和国との境目の狭隘地、国分、あるいは古墳群が連なる道明寺で、これを迎えつつ心積りであった。


慶長20年(1615年)5月6日夜明け前、豊臣方の先鋒、後藤基次は逸早く、道明寺に到着する。しかし、後続の真田、毛利隊が現れる気配はまったく無く、しかも斥候を放ったところ、徳川方3万4千人余は既に国分村に充満していると知った。このまま手をこまねいていれば、夜明けと共に徳川方は国分を出て、道明寺まで進出してしまう。そうなれば、迎撃どころではない。この時、基次には撤退して後日の作戦に備えるといった手もあったが、味方の来援を信じてあくまで国分を押さえんとした。そして、後藤隊は単独で進撃、国分の出口に当たる小松山に陣取った。しかし、それは2800人のみで、10倍以上の敵を相手にする絶望的な戦いでもあった。


5月6日午前4時頃、徳川方の先鋒、水野勝成隊は小松山に攻め上がるも、組下の部将、奥田忠次が戦死するなど、後藤隊に撃退されてしまう。続いて、伊達政宗、本田忠政、松平忠明らの大部隊が小松山に取り付き始めるも、後藤隊は奮戦を重ねて尚も持ち堪えた。だが、激闘8時間を経て、後藤隊も限界に達し、基次は殲滅される前に負傷兵らを西に逃がしつつ、自らは決死の兵を率いて東に向かって突撃する。後藤隊はたちまち徳川方の1、2隊を蹴散らすも、丹羽氏信隊に側面を突かれて隊は分断、基次は陣頭に立って兵をまとめようとするも、伊達政宗隊の鉄砲の猛射を受けて、胸に被弾して倒れる。基次は部下に介錯を命じ、その首は付近の深田に埋められたと云う。


5月6日正午頃、毛利吉政、真田信繫隊は、ようやく道明寺に到着しつつあったが、時既に遅しであった。彼らは後藤隊の残余を収容しつつ、伊達政宗隊を迎え撃ってこれを撃退し、徳川方と対峙状態に持ち込んだが、14時頃、伝令から、八尾、若江において、木村重成、長宗我部盛親が敗れたとの報と、大阪城への撤退命令がもたらされる。河内方面の戦線が崩れた事から、毛利、真田隊がこのまま対峙するのも無意味となり、撤退を開始する。こうして大和方面の戦線も崩れる事となり、翌5月7日、大坂城は落城を迎える事になる。





↑小松山


西側は大坂平野が広がっていますが、南側は山が連なっていて進軍は困難、北側は大和川が流れていてこれまた進軍困難、徳川方に面する東側も小川が流れていて、天然の要害の地を成しています。





↑奧田忠次と家臣5人の供養塔


奥田忠次は徳川方の部将です。高台にあるので、小松山を駆け上がったところで、後藤隊の逆襲を受けて討死したのでしょう。




↑小松山古戦場跡の碑




↑説明版




↑小松山から大坂城方面を望む




↑小松山から奈良(大和)方面を望む。




↑誉田林古戦場跡




↑誉田林古戦場跡の説明版


道明寺の戦いにおいて後藤基次は、正確かつ素早い行軍に、大軍相手に8時間もの抗戦を見せている事から、当代屈指の指揮官であった事が伝わって来ます。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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