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新府城

新府城は、山梨県韮崎市にある平山城である。戦国の強豪、武田氏が新たな本拠として築かんとした大規模な城郭である。しかし、未完成のまま、自焼して消え去った幻の城でもある。


天正9年(1581年)1月、武田勝頼は、甲斐国の北西部、韮崎の地に築城を命じる。これが新府城の始まりである。城地は小高い七里岩台地上にあって、西側には釜無川が流れており、既に天然の要害を成していた。だが、勝頼は新府城に要害堅固さだけでなく、巨大な武田領国全体の統治拠点としての機能を求めていた。これまでの本拠、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は手狭で、発展性に欠けていた。甲斐一国を支配していた武田信虎の時代であれば、躑躅ヶ崎館でも十分であったが、勝頼時代の武田家は、甲斐、信濃、上野、駿河の四か国に加え、飛騨、越後、遠江の一部を領有するに至っており、その領国の中心部に居城を築く必要を感じていたのだろう。


築城は領国の総力を挙げて行われ、同年11月には、防御施設は未完ながら、御殿などの居住施設は一応、完成を見たらしく、同年12月24日、勝頼とその一族、郎党は甲府の躑躅ヶ崎館から、新府城に移転した。その行列は華やかで、大勢の見物人が見守る中、金銀珠玉を散りばめた輿車(よしゃ・人力で曳く車)や諸国から集まった騎馬武者が行進していった。新府移転は、武田の栄華を誇るかの様な一大行事であったが、実際は蝋燭(ろうそく)の最期の灯であった。武田領国では、連年の出兵に伴う増税と兵士の供出に加えて、新府城築城の資材、人夫の負担も新たに課せられた。過大な負担によって、国衆、民衆の不満は高まっていった。


そして、天正10年(1582年)2月1日、武田方国衆、木曽義昌の離反に伴って、織田家による甲州征伐が開始されると、武田領国は瞬く間に崩壊、勝頼に付き従っていた兵士も大半が逃げ散ってしまう。新府城に籠城しようにも防御施設は未完で、兵士も足りなかった。勝頼は郡内の国衆、小山田信茂が拠る岩殿城への退避を決め、無念の思いを抱えつつ、新府城に自ら火を放つ他、無かった。そして、この時、離反した国衆の人質も焼き殺され、断末魔の叫びが響いたと云う。勝頼は、新府城から妻女や物資を運び出すべすべく、国中に触れを出して人夫や馬を求めたが、既に武田の滅亡を察していた民衆は、誰もこれに応じようとしなかった。


3月3日、勝頼一行は、取る物も取り敢えず、郡内へと落ち延びて行った。その道筋には様々な資材、雑具が散乱し、女子供達は足から血を流し、泣きはらしながら落ち延びていった。しかし、勝頼一行は小山田信茂からも見捨てられ、天正10年(1582年)3月11日、天目山、田野の地にて無念の最期を遂げたのだった。武田氏滅亡、本能寺の変を経て、同年6月~10月にかけて旧武田領国を巡る争い、天正壬午の乱が起こると、甲斐国は北条家と徳川家が争奪する場となり、新府城跡も戦場となった。徳川家康は新府城を要点と定めてここに本陣を置くと、北条家の大軍相手に戦局を有利に進め、甲斐一国と信濃の過半を勝ち取ったのだった。


武田勝頼が心血を注いで築いた新府城は、皮肉にも宿敵であった徳川家康に有効利用され、その興隆に力を添える形となった。その後、甲斐国の中心は再び甲府に戻され、新府城は使われる事なく、草木に埋もれていった。





↑堀跡




↑登城口




↑大手


ここから富士山が望めました。




↑丸馬出と三日月堀




↑二の丸




↑本丸




↑本丸


広大な平坦地で、この辺りに武田一族が居住する御殿が建てられていたのでしょう。




↑八ヶ岳連峰


新府城の北側からは八ケ岳が、南側には富士山が望めます。甲斐国の大半を俯瞰(ふかん)する要地である事が分かります。




↑本丸




↑新府城図


武田勝頼の時代が続いていたなら、城は更に発展し、総構えや城下町も構築されていったでしょう。甲斐国の中心も、甲府から韮崎になっていたかもしれません。




↑新府城遠景


新府城は、戦国有数の大大名、武田家に相応しい広々とした城郭でしたが、その栄光と悲哀を現す城でもあります。

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景徳院、武田氏滅亡の地

景徳院は、山梨県甲州市にある寺である。徳川家康によって建立された寺で、この地で終焉を迎えた、戦国大名、武田勝頼とその一族、家臣が祀られている。ここには首洗い池、生害石、姫ヶ淵などの地名が残されており、悲劇の歴史を今に伝えている。


天正10年(1582年)2月1日、武田家に属する国衆、木曽義昌は反旗を翻し、織田家に鞍替えする。織田信長は義昌からの援軍要請に応じ、大軍を催して信濃へ侵攻、ここに甲州征伐が始まった。同時に徳川家康も駿河に侵攻を開始し、ほどなくして北条氏政も動き出す。四面楚歌に陥った武田家では裏切り者が相次ぎ、領国は瞬く間に崩壊、兵も逃げ散って僅か数十人ばかりとなった勝頼一行は、行くあてもなく天目山(栖雲寺一帯の地域)を目指した。しかし、天目山の住民達は一揆を起こして受け入れを拒んだので、勝頼一行は田野の地で立ち往生してしまう。


天正10年(1582年)3月11日、山側は天目山の一揆勢によって遮られ、麓からは織田軍の先鋒、滝川一益勢が迫って来た事から、勝頼一行は田野を死地と定めた。勝頼一行の武士は僅か40人余で、その他に勝頼の妻、北条夫人と侍女達が20人余であった。それに対して、滝川勢は数千人であった。既に勝敗は決しており、残党狩りに等しかった。それでも死を決した武田の武士達は獅子奮迅の働きをもって、織田軍を防いだ。中でも土屋昌恒とその兄弟、金丸助六郎、秋山源三の働きは見事で、敵の織田方ですら称賛するほどであった。


武田勝頼の嫡男、信勝は若干16歳ながら、大竜寺麟岳(武田信廉の子息で僧籍)と共に織田軍を切って廻り、その武勇と華麗さは敵味方の目を引くほどであった。奮戦の後、信勝は、麟岳と刺し違えて果てたと云う。そして、忠勇の武士達も1人、また1人と織田軍に討たれてゆく。北条夫人と侍女達は読経を唱えた後、脇差を突き立てて果てていった。北条夫人は、勝頼から実家の北条家に戻る様、促されていたものの、これを断り最後まで夫に付き従ったとされる。若干19歳であった。勝頼はその遺骸を抱くと、しばし言葉を失った。それから我に返ると腹を十文字に描き切って果てたと云う。武田勝頼、享年37。


天正10年(1582年)7月、甲斐を領国とした徳川家康は、武田旧臣を懐柔すべく、田野の地に武田勝頼の菩提寺の建立を命じた。これが景徳院の始まりである。天正16年(1588年)、諸堂が落成したが、その後、火災を受けて諸堂は焼失し、現在は天保6年(1835年)再建の山門が残るのみとなっている。





↑景徳院




↑没頭地蔵


武田勝頼、信勝父子の首無し遺体は高台の中腹に埋葬され、後に地元の人々が3体の首なしの地蔵を祀ったとあります。


↑武田家の墓


中央が武田勝頼、右側が北条夫人、左側が武田信勝の墓石です。




↑武田勝頼生害石




↑北条夫人生害石




↑山門




↑本堂




↑景徳院 境内


高台にあって、勝頼一行は確かにこの辺りで最後を遂げたのでしょう。厳かで、悲哀を感じる場所です。




↑首洗い池


池は見当たらなかったものの、渓流が流れています。ここで勝頼ら武田方戦死者の首が洗われたのでしょう。




↑日川


現在は舗装されているものの、往時は細い山道であったでしょう。




↑鳥居畑古戦場跡


僅かな武田武士達が、主君の自害の時間を稼ぐべく、奮戦した地です。




↑武田勝頼像


甲斐大和駅前にあります。武田勝頼は勇将でしたが、長篠の敗北、北条家との開戦、高天神城の失陥、連年の戦と新府城普請の負担などが重なって人心を失い、終に田野の地で滅亡を迎えました。

国会議事堂

国会議事堂は、日本国の政治の中心かつ、国家の象徴ともなる、非常に重要な建造物である。大正9年(1920年)1月より建築が始まり、昭和11年(1936年)11月に完成する。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、約17年の建築期間と、当時2570万円(現在価値にすると1千億円以上)の建築費用を要した。幅は206.36m、奥行88.63m、中央塔の高さ65・45m、両翼の高さ21.91m。外装はどっしりした花崗岩で構成され、内装は大理石を始めとする日本各地から集められた名石が散りばめられている。




↑参観入口

国会議事堂を参観する場合、裏口に廻って、受付で氏名、住所を記入し、持物検査を受ける必要があります。










↑御休所

天皇陛下が休まれる部屋です。




↑御休所






↑中央広間

この中央広間の荘厳さは言葉にならないです。ここは、日本の政治の中心地であるだけでなく、芸術の粋を集めた巨大美術品でもあります。



↑中央広間



↑中央広間



↑衆議院議場

令和現在、日本の衰退を招いたのは、ここに集う政治家の低能さにあります。真に国家を案じ、立法している政治家は、全体の1割に満たないでしょう。しかし、国民も選挙に無関心であったり、口だけの政治屋に騙されたり、人気芸能人だからと言って投票した責任はあります。




↑国会議事堂正面


国会議事堂は、本当に荘厳な建物でありました。願わくばここに集う人々には、日本を背負っているという気概を持って、指導層として相応しい気品、知性を備えてほしいものです。

大坂夏の陣、小松山古戦場跡

小松山古戦場跡は、大阪府柏原市玉手町にある古戦場である。現在は住宅に埋もれた小山であるが、戦国最期の大戦、大坂夏の陣における激戦地の一つであった。


大坂夏の陣において、徳川方15万5千人余は北東の河内、東の大和、南の紀伊の3方向から大坂城に迫りつつあり、その内、大和方面から進撃する徳川方は、水野勝成、伊達政宗、松平忠輝ら3万4千人余であった。それに対して、豊臣方は総勢5万5千人余の内、後藤基次、真田信繁、毛利吉政ら1万8千人余が、大和方面の徳川方迎撃に向かった。豊臣方は、河内国と大和国との境目の狭隘地、国分、あるいは古墳群が連なる道明寺で、これを迎えつつ心積りであった。


慶長20年(1615年)5月6日夜明け前、豊臣方の先鋒、後藤基次は逸早く、道明寺に到着する。しかし、後続の真田、毛利隊が現れる気配はまったく無く、しかも斥候を放ったところ、徳川方3万4千人余は既に国分村に充満していると知った。このまま手をこまねいていれば、夜明けと共に徳川方は国分を出て、道明寺まで進出してしまう。そうなれば、迎撃どころではない。この時、基次には撤退して後日の作戦に備えるといった手もあったが、味方の来援を信じてあくまで国分を押さえんとした。そして、後藤隊は単独で進撃、国分の出口に当たる小松山に陣取った。しかし、それは2800人のみで、10倍以上の敵を相手にする絶望的な戦いでもあった。


5月6日午前4時頃、徳川方の先鋒、水野勝成隊は小松山に攻め上がるも、組下の部将、奥田忠次が戦死するなど、後藤隊に撃退されてしまう。続いて、伊達政宗、本田忠政、松平忠明らの大部隊が小松山に取り付き始めるも、後藤隊は奮戦を重ねて尚も持ち堪えた。だが、激闘8時間を経て、後藤隊も限界に達し、基次は殲滅される前に負傷兵らを西に逃がしつつ、自らは決死の兵を率いて東に向かって突撃する。後藤隊はたちまち徳川方の1、2隊を蹴散らすも、丹羽氏信隊に側面を突かれて隊は分断、基次は陣頭に立って兵をまとめようとするも、伊達政宗隊の鉄砲の猛射を受けて、胸に被弾して倒れる。基次は部下に介錯を命じ、その首は付近の深田に埋められたと云う。


5月6日正午頃、毛利吉政、真田信繫隊は、ようやく道明寺に到着しつつあったが、時既に遅しであった。彼らは後藤隊の残余を収容しつつ、伊達政宗隊を迎え撃ってこれを撃退し、徳川方と対峙状態に持ち込んだが、14時頃、伝令から、八尾、若江において、木村重成、長宗我部盛親が敗れたとの報と、大阪城への撤退命令がもたらされる。河内方面の戦線が崩れた事から、毛利、真田隊がこのまま対峙するのも無意味となり、撤退を開始する。こうして大和方面の戦線も崩れる事となり、翌5月7日、大坂城は落城を迎える事になる。





↑小松山


西側は大坂平野が広がっていますが、南側は山が連なっていて進軍は困難、北側は大和川が流れていてこれまた進軍困難、徳川方に面する東側も小川が流れていて、天然の要害の地を成しています。





↑奧田忠次と家臣5人の供養塔


奥田忠次は徳川方の部将です。高台にあるので、小松山を駆け上がったところで、後藤隊の逆襲を受けて討死したのでしょう。




↑小松山古戦場跡の碑




↑説明版




↑小松山から大坂城方面を望む




↑小松山から奈良(大和)方面を望む。




↑誉田林古戦場跡




↑誉田林古戦場跡の説明版


道明寺の戦いにおいて後藤基次は、正確かつ素早い行軍に、大軍相手に8時間もの抗戦を見せている事から、当代屈指の指揮官であった事が伝わって来ます。

柳之御所・毛通寺

柳之御所は、岩手県西磐井郡平泉町にある、奥州藤原氏の居館跡である。


北上川沿いの段丘上にあって、奥州藤原氏初代、清衡の時代から居館として用いられ、三代秀衡の時代に政庁として大規模に整備されたと考えられている。文治5年(1189年)、四代泰衡の時代、源頼朝の侵攻を受けて、泰衡自ら火を放って焼失した。鎌倉時代の歴史書、吾妻鑑では、平泉館(ひらいずみのたち)と記されている。巨大な堀によって囲まれた中に、建物群と庭園があった。そこからは儀式に用いられたと考えられる大量の土器(かわらけ)に、中国産の青磁、白磁の陶磁器から、常滑、渥美産の陶磁器、文字が書かれた木製品、行政に用いられたと考えられる銅印が出土している。




↑柳之御所





↑柳之御所



↑柳之御所


大型の二棟の建物が建っていて、ここが柳之御所の中心的な役割を担っていたと考えられています。



↑柳之御所




↑柳之御所



↑柳之御所


汚物を廃棄していた穴です。




↑柳之御所


非常に巨大な堀です。




↑無量光院跡


無量光院は、三代秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院です。その規模と造形は本家を上回るものであったと伝えられていますが、惜しくも火災で焼失してしまいました。



毛越寺(もうつうじ)は、嘉祥3年(850年)、天台宗の高僧、円仁によって創建されたと伝えられる。時代を経るにつれ衰退していったが、奥州藤原氏二代基衡の時代に大規模に再興され、壮麗な伽藍が建立された。その事業は三代秀衡にも受け継がれ、堂塔40余、僧坊50余となって、その規模と壮麗さは、中尊寺をも上回った。中でも本堂の金堂円隆寺は、紫壇、赤木の建物に金銀が散りばめられた上、多くの宝物で彩られていた。その堂内に雲慶作の丈六薬師如来像と十二神将像が祀られていた。吾妻鑑でも、「吾朝無双(わがちょうむそう)」と評されている。しかし、嘉禄2年(1226年)、金堂円隆寺を始めとする中心的建物の多くが焼失し、更に元亀4年(1573年)、葛西氏、大崎氏による戦火を受けて、残った建物も焼失してしまう。





↑毛越寺





↑毛越寺、嘉祥寺跡




↑毛越寺、講堂跡




↑毛越寺、金堂円隆寺跡


基衡による建立で、ここが毛越寺の中心的建物でした。




↑毛越寺、金堂円隆寺跡




↑毛越寺、遣水


池に水を注ぐ水路です。ここで雅(みやび)な曲水(ごくすい)の宴が催されたのでしょう。




↑毛越寺、常行堂跡と法華堂跡




↑毛越寺、観自在王院跡


藤原基衡の妻が建立した寺院で、毛越寺に隣接しています。




↑毛越寺、大泉が池




↑毛越寺、大泉が池


広大な池を中心として、山を借景に伽藍が建ち並んでいました。現在、建物は存在しなくとも、既に絵になっています。そして、大泉が池の前に立った時、ここに平泉で最も壮麗な寺院があったと確信しました。いや、平泉だけでなく日本一の壮麗さであったでしょう。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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