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広島城

広島城は、広島県広島市にある平城である。中国地方の覇者であった、毛利氏が新たな本拠として築いた城で、現在の広島市の基となった城でもある。


天正16年(1588年)、中国地方112万石の大大名であった毛利輝元は、上洛して豊臣秀吉に謁見し、その本拠である大阪城と聚楽第を見学する。どちらも平地に築かれた近世城郭で、その先進性と壮大さに輝元は圧倒されたのであろう。この時の、毛利氏の本拠、吉田郡山城は、堅固な山城であったものの、山間の盆地にあって発展性に乏しく、城の構造から、城下の規模まで明らかに見劣りするものであった。そのため、輝元は帰国後、ただちに新たな城地の選定に取り掛かり、太田川下流域の三角州に目を付けた。この地は、九州と畿内を結ぶ水陸交通の要衝にして、平野も広がっていた事から発展性に富んでいた。河口の三角州であった事から、地盤が軟弱で洪水の被害を受けやすいという欠点もあったが、それでも輝元は築城を決した。


天正17年(1589年)より築城が始まり、天正19年(1591年)の本丸の完成をもって、輝元は入城する。ただし、石垣、堀などはまだ未完だった模様で、その後も築城は続けられ、慶長4年(1599年)になってようやく完成を見る。しかし、翌慶長5年(1600)年9月、関ヶ原の戦いにおいて、輝元は西軍の総大将格であった事から、戦後、周防、長門に減封され、心血を注いで築いた広島城からも離れざるを得なかった。同年10月、毛利氏に代わって、福島正則が安芸、備後の49万8千石の領主として広島城に入った。正則は城域を拡大し、外郭を整備した他、城周辺の堤防を嵩上げを行って洪水に備えた。並行して町人町を拡大し、西国街道を城下に引き込むなどして、城下の発展に努めた。



元和3年(1617年)、広島城は大洪水に見舞われて大きな被害を受ける。元和4年(1618年)、正則は城の改修普請を進めたものの、徳川幕府に未届けであったため、武家諸法度に違反したとして詰問を受ける。元和5年(1619年)、幕府は諸条件を出して正則に履行を求めたものの、正則の対応が不十分であったので、終に信濃国高井郡への減転封を命じた。同年、浅野長晟(あさの ながあきら)が安芸、備後8郡42万6千石の領主として入った。浅野氏の治世は明治の世まで続いたが、その間も度々、洪水の被害を受けている。


明治4年(1871年)、廃藩置県を受けて広島県が発足し、軍の施設が本丸に建てられた。以降、広島城は陸軍の駐屯地となり、広島市も軍都として発展する。昭和6年(1931年)、現存していた天守閣が国宝に指定される。昭和20年(1945年)8月6日、アメリカが投下した原子爆弾を受けて、天守閣及び、陸軍の施設も倒壊し、駐屯していた1万人の兵士も死亡した。昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリート製の天守閣が建てられ、博物館として使用された。原爆で焼失した、二の丸表御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓は木造で再建され、現在に至る。





↑毛利輝元像


毛利輝元は、軍指揮官としては頼りないですが、領国の統治者としては有能であったと思います。




↑二の丸 


御門橋、表御門、平櫓が建ち並んでいます。




↑二の丸から本丸を望む




↑原爆で変色し、ひび割れた石垣




↑広島護国神社




↑広島大本営跡




↑広島城模型




↑天守閣


広島城の歴史の解説、刀剣や兜が展示されています。典型的な城の博物館といったところです。




↑天守閣からの眺め



↑天守閣からの眺め




↑天守閣からの眺め



↑天守閣からの眺め



2025年現在、広島城の天守閣は老朽化しており、建て替えが検討されています。再建される場合は、是非とも木造でお願いしたいものです。

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前田利長墓所・瑞龍寺

前田利長墓所は、富山県高岡市にある大名墓所である。前田利長(1562~1614)は、加賀前田家の二代目で、父、前田利家(1539~1599)よりは目立たないものの、堅実な政治手腕で激動の世を渡り歩き、外様大名最大の石高、いわゆる加賀百万石(119万石)を後世まで残した。その墓も大名としては最大規模で、高さ約12メートルの墓碑を中心として二重の堀と石塀で囲まれている。




↑前田利長墓所


墓域は約1万坪で、水堀と石塀で囲まれています。




↑前田利長墓所


鳥居の先には、利長の威光を称えるかのように、巨大な墓碑がそびえています。




↑前田利長墓所


この参道は、前田利長の菩提寺である瑞龍寺へと繋がっています。




↑前田利長像


この像は、瑞龍寺と前田利長墓所を繋ぐ参道にあります。




↑瑞龍寺 山門


瑞龍寺は、富山県高岡市にある寺で、前田利長の菩提寺である。元は法円寺という寺号であったが、利長の戒名、瑞龍院にちなんで瑞龍寺に改名された。正保2年(1645年)より造営が始まり、寛文3年(1663年)に完成を見た。壮大な七大伽藍を中心に、堀で囲まれた寺域は3万6千坪の広大さを誇った。実に20年もの歳月をかけた、加賀前田家の一大事業であった。


利長は生前、男子が生まれなかった事から、年の離れた異母兄弟、前田利常(1594~1658)を養子として、跡を継がせていた。利常は、30歳年長の兄に養育され、大大名、前田家の跡を譲られた事から、深い恩義を感じていた。そのため、壮大な伽藍と墓碑を建立したのだった。




↑瑞龍寺 仏殿




↑瑞龍寺 仏殿


瑞龍寺の中心で、荘厳です。かなり年長のお婆さんが、お堂内の解説をしてくださいました。




↑瑞龍寺 回廊




↑瑞龍寺 大庫理


瑞龍寺の台所を担っていました。




↑法堂


色褪せていますが、天井いっぱいに絵が描かれています。




↑瑞龍寺 石廟


手前から前田利長、前田利家、織田信長、信長夫人、織田信忠の石廟です。




↑前田利長石廟


これらの石廟の中で、利長のものが最も大きく、正面、側面には仏像も彫り込まれており、ここにも利長に対する、利常の強い崇敬の念を感じます。瑞龍寺は前田利長の菩提寺でありますが、前田家の威光を内外に示す象徴的な建造物でもあったでしょう。

新府城

新府城は、山梨県韮崎市にある平山城である。戦国の強豪、武田氏が新たな本拠として築かんとした大規模な城郭である。しかし、未完成のまま、自焼して消え去った幻の城でもある。


天正9年(1581年)1月、武田勝頼は、甲斐国の北西部、韮崎の地に築城を命じる。これが新府城の始まりである。城地は小高い七里岩台地上にあって、西側には釜無川が流れており、既に天然の要害を成していた。だが、勝頼は新府城に要害堅固さだけでなく、巨大な武田領国全体の統治拠点としての機能を求めていた。これまでの本拠、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は手狭で、発展性に欠けていた。甲斐一国を支配していた武田信虎の時代であれば、躑躅ヶ崎館でも十分であったが、勝頼時代の武田家は、甲斐、信濃、上野、駿河の四か国に加え、飛騨、越後、遠江の一部を領有するに至っており、その領国の中心部に居城を築く必要を感じていたのだろう。


築城は領国の総力を挙げて行われ、同年11月には、防御施設は未完ながら、御殿などの居住施設は一応、完成を見たらしく、同年12月24日、勝頼とその一族、郎党は甲府の躑躅ヶ崎館から、新府城に移転した。その行列は華やかで、大勢の見物人が見守る中、金銀珠玉を散りばめた輿車(よしゃ・人力で曳く車)や諸国から集まった騎馬武者が行進していった。新府移転は、武田の栄華を誇るかの様な一大行事であったが、実際は蝋燭(ろうそく)の最期の灯であった。武田領国では、連年の出兵に伴う増税と兵士の供出に加えて、新府城築城の資材、人夫の負担も新たに課せられた。過大な負担によって、国衆、民衆の不満は高まっていった。


そして、天正10年(1582年)2月1日、武田方国衆、木曽義昌の離反に伴って、織田家による甲州征伐が開始されると、武田領国は瞬く間に崩壊、勝頼に付き従っていた兵士も大半が逃げ散ってしまう。新府城に籠城しようにも防御施設は未完で、兵士も足りなかった。勝頼は郡内の国衆、小山田信茂が拠る岩殿城への退避を決め、無念の思いを抱えつつ、新府城に自ら火を放つ他、無かった。そして、この時、離反した国衆の人質も焼き殺され、断末魔の叫びが響いたと云う。勝頼は、新府城から妻女や物資を運び出すべすべく、国中に触れを出して人夫や馬を求めたが、既に武田の滅亡を察していた民衆は、誰もこれに応じようとしなかった。


3月3日、勝頼一行は、取る物も取り敢えず、郡内へと落ち延びて行った。その道筋には様々な資材、雑具が散乱し、女子供達は足から血を流し、泣きはらしながら落ち延びていった。しかし、勝頼一行は小山田信茂からも見捨てられ、天正10年(1582年)3月11日、天目山、田野の地にて無念の最期を遂げたのだった。武田氏滅亡、本能寺の変を経て、同年6月~10月にかけて旧武田領国を巡る争い、天正壬午の乱が起こると、甲斐国は北条家と徳川家の争奪の場となり、新府城跡も戦場となった。徳川家康は新府城を要点と定めてここに本陣を置くと、北条家の大軍相手に戦局を有利に進め、甲斐一国と信濃の過半を勝ち取ったのだった。


武田勝頼が心血を注いで築いた新府城は、皮肉にも宿敵であった徳川家康に活用され、その興隆に力を添える形となった。その後、甲斐国の中心は再び甲府に戻され、新府城は使われる事なく、草木に埋もれていった。





↑堀跡




↑登城口




↑大手


ここから富士山が望めました。




↑丸馬出と三日月堀




↑二の丸




↑本丸




↑本丸


広大な平坦地で、この辺りに武田一族が居住する御殿が建てられていたのでしょう。




↑八ヶ岳連峰


新府城の北側からは八ケ岳が、南側には富士山が望めます。甲斐国の大半を俯瞰(ふかん)する要地である事が分かります。




↑本丸




↑新府城図


武田勝頼の時代が続いていたなら、城は更に発展し、総構えや城下町も構築されていったでしょう。甲斐国の中心も、甲府から韮崎になっていたかもしれません。




↑新府城遠景


新府城は、戦国有数の大大名、武田家に相応しい広々とした城郭でしたが、その栄光と悲哀を現す城でもあります。

景徳院、武田氏滅亡の地

景徳院は、山梨県甲州市にある寺である。徳川家康によって建立された寺で、この地で終焉を迎えた、戦国大名、武田勝頼とその一族、家臣が祀られている。ここには首洗い池、生害石、姫ヶ淵などの地名が残されており、悲劇の歴史を今に伝えている。


天正10年(1582年)2月1日、武田家に属する国衆、木曽義昌は反旗を翻し、織田家に鞍替えする。織田信長は義昌からの援軍要請に応じ、大軍を催して信濃へ侵攻、ここに甲州征伐が始まった。同時に徳川家康も駿河に侵攻を開始し、ほどなくして北条氏政も動き出す。四面楚歌に陥った武田家では裏切り者が相次ぎ、領国は瞬く間に崩壊、兵も逃げ散って僅か数十人ばかりとなった勝頼一行は、行くあてもなく天目山(栖雲寺一帯の地域)を目指した。しかし、天目山の住民達は一揆を起こして受け入れを拒んだので、勝頼一行は田野の地で立ち往生してしまう。


天正10年(1582年)3月11日、山側は天目山の一揆勢によって遮られ、麓からは織田軍の先鋒、滝川一益勢が迫って来た事から、勝頼一行は田野を死地と定めた。勝頼一行の武士は僅か40人余で、その他に勝頼の妻、北条夫人と侍女達が20人余であった。それに対して、滝川勢は数千人であった。既に勝敗は決しており、残党狩りに等しかった。それでも死を決した武田の武士達は獅子奮迅の働きをもって、織田軍を防いだ。中でも土屋昌恒とその兄弟、金丸助六郎、秋山源三の働きは見事で、敵の織田方ですら称賛するほどであった。


武田勝頼の嫡男、信勝は若干16歳ながら、大竜寺麟岳(武田信廉の子息で僧籍)と共に織田軍を切って廻り、その武勇と華麗さは敵味方の目を引くほどであった。奮戦の後、信勝は、麟岳と刺し違えて果てたと云う。そして、忠勇の武士達も1人、また1人と織田軍に討たれてゆく。北条夫人と侍女達は読経を唱えた後、脇差を突き立てて果てていった。北条夫人は、勝頼から実家の北条家に戻る様、促されていたものの、これを断り最後まで夫に付き従ったとされる。若干19歳であった。勝頼はその遺骸を抱くと、しばし言葉を失った。それから我に返ると腹を十文字に描き切って果てたと云う。武田勝頼、享年37。


天正10年(1582年)7月、甲斐を領国とした徳川家康は、武田旧臣を懐柔すべく、田野の地に武田勝頼の菩提寺の建立を命じた。これが景徳院の始まりである。天正16年(1588年)、諸堂が落成したが、その後、火災を受けて諸堂は焼失し、現在は天保6年(1835年)再建の山門が残るのみとなっている。





↑景徳院




↑没頭地蔵


武田勝頼、信勝父子の首無し遺体は高台の中腹に埋葬され、後に地元の人々が3体の首なしの地蔵を祀ったとあります。


↑武田家の墓


中央が武田勝頼、右側が北条夫人、左側が武田信勝の墓石です。




↑武田勝頼生害石




↑北条夫人生害石




↑山門




↑本堂




↑景徳院 境内


高台にあって、勝頼一行は確かにこの辺りで最後を遂げたのでしょう。厳かで、悲哀を感じる場所です。




↑首洗い池


池は見当たらなかったものの、渓流が流れています。ここで勝頼ら武田方戦死者の首が洗われたのでしょう。




↑日川


現在は舗装されているものの、往時は細い山道であったでしょう。




↑鳥居畑古戦場跡


僅かな武田武士達が、主君の自害の時間を稼ぐべく、奮戦した地です。




↑武田勝頼像


甲斐大和駅前にあります。武田勝頼は勇将でしたが、長篠の敗北、北条家との開戦、高天神城の失陥、連年の戦と新府城普請の負担などが重なって人心を失い、終に田野の地で滅亡を迎えました。

国会議事堂

国会議事堂は、日本国の政治の中心かつ、国家の象徴ともなる、非常に重要な建造物である。大正9年(1920年)1月より建築が始まり、昭和11年(1936年)11月に完成する。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、約17年の建築期間と、当時2570万円(現在価値にすると1千億円以上)の建築費用を要した。幅は206.36m、奥行88.63m、中央塔の高さ65・45m、両翼の高さ21.91m。外装はどっしりした花崗岩で構成され、内装は大理石を始めとする日本各地から集められた名石が散りばめられている。




↑参観入口

国会議事堂を参観する場合、裏口に廻って、受付で氏名、住所を記入し、持物検査を受ける必要があります。










↑御休所

天皇陛下が休まれる部屋です。




↑御休所






↑中央広間

この中央広間の荘厳さは言葉にならないです。ここは、日本の政治の中心地であるだけでなく、芸術の粋を集めた巨大美術品でもあります。



↑中央広間



↑中央広間



↑衆議院議場

令和現在、日本の衰退を招いたのは、ここに集う政治家の低能さにあります。真に国家を案じ、立法している政治家は、全体の1割に満たないでしょう。しかし、国民も選挙に無関心であったり、口だけの政治屋に騙されたり、人気芸能人だからと言って投票した責任はあります。




↑国会議事堂正面


国会議事堂は、本当に荘厳な建物でありました。願わくばここに集う人々には、日本を背負っているという気概を持って、指導層として相応しい気品、知性を備えてほしいものです。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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