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一乗谷 2

一乗谷朝倉氏遺跡紹介の続きです。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑中の御殿跡


朝倉館の背後の高台にあります。この中の御殿には、朝倉義景の生母、光徳院が住まっていたと伝えられています。朝倉氏滅亡時、光徳院は捕らえられ、信長の命によって斬られたとあります。

一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑米津


ここからは刀装具を作るための炉の跡や、金属を加工する道具が発見されました。城下町の中心部に近い事から、ここの職人達は朝倉氏お抱えの金工師であったと推測されています。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑復元された町屋


発掘された石垣や礎石をそのまま使い、柱、壁、金具なども出土した遺物に基づいて忠実に再現されているとの事です。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑復元町屋



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑昔の便所



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑再現武家屋敷の内部


奥では家主がくつろぎ、手前では使用人が食事の準備をしています。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑大規模武家屋敷跡


再現町屋の裏にあります。この辺りには、朝倉氏の有力家臣の屋敷が建ち並んでいました。




一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑武家屋敷跡

一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑上城戸(かみきど)


一乗谷の北面を守っています。


一乗谷は、天正元年(1573年)8月の朝倉氏滅亡時に焼き尽くされ、さらに天正2年(1574年)1月には、越前一向一揆の蜂起によって戦場となり、天正3年(1575年)には、北ノ庄(福井)が越前の中心地となった事で急速に衰退していきました。そして、一乗谷の町並みは田畑へと変わってゆき、人々の記憶からも忘れ去られてしまいました。しかし、それは開発の波を逃れる事にも繋がり、現在まで貴重な遺構が残されています。



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一乗谷 1

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市にある戦国期の遺跡である。


一乗谷は、越前の戦国大名、朝倉氏が築いた城下町である。一乗谷は山間の狭い谷間にあるが、往時には武家屋や町屋が所狭しと建ち並ぶ、1万人もの人々が生活を営む一大都市であった。朝倉氏は元々、但馬の武士であったが、南北朝時代に室町幕府の有力守護大名、斯波氏の家臣となって越前に入った。その頃から朝倉氏は、一乗谷を根拠地とした。


この一乗谷に繁栄をもたらしたのは、戦国初代の朝倉孝景(1428~1481)である。孝景は下克上の潮流に乗って、朝倉氏を一豪族の身上から越前の支配者まで押し上げた実力者であった。以降、戦国5代目の朝倉義景に至る100年余の間、一乗谷は越前の政治的中心地として発展を続ける。特に一乗谷の文化的興隆は目を見張るものがあり、朝倉氏の居館を始めとして、武家屋、町屋では盛んに作庭が行われ、そこで歌が詠まれ、茶会が催された。


一乗谷からは数多くの茶器が出土しており、それらは武家屋、町屋、寺院など城下のあらゆる場所から発見されている。また、硯(すずり)が700点以上も発見されている事から、文芸が盛んで住民の識字率と文化水準は極めて高かったと推測されている。一乗谷の華やかな文化を聞き付けて、訪れる公家や文化人は数知れず、歴代の朝倉当主はそういった人々を迎えては、和歌や連歌の会を催した。


当時の京は戦乱の影響で荒廃しており、そこに住む公家達にとって、一乗谷は憧れの土地であったらしい。当代一流の和漢の学者であった清原宣賢(1475~1550)は、この一乗谷を終焉の地と定め、晩年の8年間を過ごしている。永禄11年(1568年)、後の室町幕府第15代将軍となる足利義昭もこの一乗谷を訪れ、手厚い歓待を受けている。


一乗谷の中心には室町御所を模した朝倉氏の居館があり、堀と土塁が廻らされていた。朝倉居館の背後にある城山(標高473メートル)には一乗谷城が築かれて、朝倉氏の詰めの城となっており、対面する山の峰にも断続的に砦が築かれていた。また、一乗谷の北には長さ150メートルの巨大な土塁、上城戸が築かれ、南には朝倉氏の権威を見せ付けるべく、巨石を用いた石垣造りの下城戸が築かれていた。言わば、一乗谷全体が巨大な城郭となっていたのである。華やかな文化の営みを、堅固な城郭が包み込む。朝倉氏の栄華は、このまま続いていくかに見えた。だが、戦国の荒波は、平和を謳歌する一乗谷にも迫ろうとしていた。


元亀元年(1570年)4月、戦国の風雲児、織田信長が突如として、越前に攻め上ってきたのである。一乗谷と朝倉義景は危機的な状況に陥ったが、この時は浅井長政が信長の背後を襲ってくれたので、窮地を脱する事が出来た。その後も義景は長政と協力して信長と戦い続けるが、戦況は悪化の一途を辿った。そして、天正元年(1573年)8月、ついに義景は、刀根坂にて致命的な敗北を喫してしまう。主力を喪失した朝倉家に、最早、信長を防ぐ術は無かった。


国境は瞬く間に突破され、織田軍は一乗谷へと迫り来る。義景は一乗谷を捨てて越前大野へと逃れたが、そこで同族の景鏡の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。織田軍接近の報を聞いて、一乗谷は恐怖に慄き、逃げ惑う人々で大混乱に陥った。そこへ織田軍が一乗谷に突入してきて、寺院、町屋を問わず、あらゆる箇所に火をかけて回った。その炎は数日に渡って燃え盛り、一乗谷100年の歴史は、灰燼と化したのだった。


義景滅亡後、信長は朝倉旧臣であった桂田長俊を一乗谷に置いて、越前の統治を委ねた。だが、桂田長俊は専横の振る舞い多く、同僚の富田長繁と越前一向一揆の蜂起を受けて、一乗谷にて攻め滅ぼされた。以後、越前は一向一揆の支配する所となったが、天正3年(1575年)、信長は再び越前に攻め入って、一向一揆数万人余を撫で斬りとした。信長は平定成った越前の統治を、柴田勝家に委ねた。勝家は統治拠点を北ノ庄(福井)に定めて、一乗谷から寺院や住民を移転させていったため、荒廃していた一乗谷は一層衰退し、以降、町並みの多くが田畑へと変わっていった。


一乗谷は忘れ去られた幻の都市となったが、昭和42年(1967年)に発掘調査が始まると、戦国時代の町並みがほぼそのままの形で残っている貴重な遺構であると判明した。そして、国は、一乗谷を特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重指定とする。今でも湯殿跡庭園や、諏訪館跡庭園などの見事な庭園は静かに水を湛え、かつての一乗谷と朝倉氏の繁栄振りを偲ばせている。





一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑下城戸


土塁と巨石で固められています。ここが、一乗谷の表玄関となります。


一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑墓地跡


かつてこの辺りには寺院があって、墓地が広がっていました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家


↑かつての町屋跡



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡


手前の川は一乗谷川で、その奥に朝倉館(義景館)があります。さらに、その背後の山には一乗谷城がありました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡


この唐門は、義景の菩提を弔うために建てられた松雲院(しょううんいん)のもので、豊臣秀吉寄進のものであると伝わります。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡


歴代の朝倉氏が住まっていた所です。かつては、ここが越前の政治的中心地でありました。正面の山にも、砦群が築かれていました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑湯殿跡庭園


朝倉館跡の背後の高台にあります。歴代の朝倉当主も眺めた事でしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑南陽寺跡


右にある庭園には、かつて美しい糸桜が生えていた伝えられており、永禄11年(1568年)には、後の室町将軍足利義昭を招いて、ここで観桜の宴が催されました。その時には見事な伽藍があって、庭を眺めつつ華やかな宴が催された事でしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑英林塚(朝倉孝景墓)


戦国初代、朝倉孝景(1428~1481)は、朝倉氏を興隆に導いた人物です。彼はここから、一乗谷の盛衰をどのような思いで眺めているのでしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑諏訪館庭園


諏訪館は朝倉義景の妻、小少将(こしょうしょう)が住まっていた所です。この庭園は一乗谷遺跡の中で最も規模の大きなもので、小少将が義景に愛されて、大きな権勢を誇っていた事が窺えます。 しかし、義景が自刃した後、小少将は織田軍に捕らえられ、その子息で4歳の愛王丸共々斬られたと伝わります。

福井城

福井城は、福井県福井市にある平城である。


福井の地に最初に大城郭を築いたのは織田家の部将、柴田勝家である。天正3年(1575年)、勝家は、織田信長の命によってこの地に北ノ庄城を築く。しかし、天正11年(1583年)4月、勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れて、北ノ庄城諸共滅亡してしまう。その後、丹羽氏、堀氏、青木氏等がこの北ノ庄を支配し、慶長5年(1600年)より徳川家康の次男、結城(松平)秀康が入る。そして、翌慶長6年(1601年)、徳川一門の重鎮が住むに相応しい城を築かんとして、天下普請による大工事が始まる。 6年の歳月をかけて築かれた城郭は、幾重もの水堀が廻らされた広大な平城となった。


中心となる本丸と天守台の石垣は、越前青石とも呼ばれる笏谷石(しゃくだにいし)のみが用いられており、その独特の深みのある天守台の上に、
四層五階の白亜の天守閣がそびえ立っていた。元和10年(1624年)、第三代福井藩主、松平忠昌は北ノ庄を福井に改名する。よって、北ノ庄城も福井城となった。寛文9年(1669年)、天守閣は火災にあって焼失してしまい、以降、再建される事は無かった。福井城は明治以降の都市開発、昭和20年(1945年)の福井空襲、昭和23年(1948年)の福井地震を受けて破壊が進み、現在は本丸を残すのみとなっている。かつての面影を偲ばせるものは青みがかった本丸石垣と、天守台だけである。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑舎人門(とねりもん)


福井市郷土歴史博物館の隣にあります。 かつての福井城の外堀の門で、近年再建されたものです。この水路も復元されたもので、現在、外堀はほぼ消失しています。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑福井城本丸


この正面に、かつては四層五階の天守閣がそびえ立っていました。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑福井城本丸南側



御本城橋が見えます。あの石橋から大手門に繋がります。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑福井城本丸



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑本丸内にある結城(松平)秀康の石像


結城秀康は越前福井藩の祖で、福井城を築いた人物でもあります。天正2年(1574年)、秀康は、徳川家康の次男として生まれ、武人としての器量に恵まれていましたが、何故か家康に疎まれて育ちます。そして、将軍職も弟の秀忠に受け継がれ、慶長12年(1607年)、父に先立って、34歳の若さで不遇の生涯を終えます。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑左が天守台跡で、右が控天守台


ここには、天守台を含めて37メートルもの高さの天守閣がありました。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑天守閣図



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑控天守台跡


昭和23年(1948年)に起こった福井地震によって、石垣が崩れています。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑本丸石垣


石に掘られた穴や、削られた様な跡は、切り出しの際に付けられたものでしょうか。



福井城
福井城 posted by (C)重家

↑天守台にある井戸の跡


福井の地名は、この井戸からきているそうな。  この本丸跡を見れば、かつての福井城の威容が僅かに偲ばれます。しかし、その遺構のほとんどが破壊され、しかも県庁などのビル群が建ち並んでいるのは残念な事です。

北ノ庄城

北ノ庄城は、福井県福井市にある城跡である。天正3年(1575年)から柴田勝家が築き始めた城で、織田信長の築いた安土城にも引けをとらない壮大な城であったと伝わる。しかし、天正11年(1583年)4月賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた事からこの城も攻め立てられ、焼失してしまう。慶長6年(1601年)、福井城の築城にあたって、この北ノ庄城の石材が用いられた事から、現在、遺構のほとんどが消滅した幻の城となっている。



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城跡、


この付近に本丸があったと推測されています。



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城の石垣跡



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城の堀跡



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城の想像図



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑舟橋の鎖


この鎖は、北ノ庄城跡のすぐ脇にある資料館内に展示されています。舟橋とは、川に舟を何艘も並べてその上に板と鎖を通して、橋としたものです。この鎖は、柴田勝家が北陸道と九頭竜川が交わる地点に橋を渡した際に作られたものであると伝えられています。



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑左からお市の方、茶々、江、初



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑柴田勝家の銅像


この石垣は、笏谷石(しゃくだにいし)と呼ばれる石を使用しており、独特の青みがかった色をしています。北ノ庄城もこの笏谷石を大々的に取り入れていて、城の美観に一層の磨きがかかっていたと伝わります。現在、北ノ庄城は幻の城となっていますが、かつては確かに存在しており、壮大な天守閣もそびえ立っていました。

玄蕃尾城

玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根にある山城である。内中尾山(標高460メートル)の山上に築かれている事から、内中尾城とも呼ばれる。ここは近江と越前の国境沿いにあり、二つの街道を押さえる事も可能な要所にあった。この地に最初に砦を作ったのは朝倉氏であったようだが、ここを大規模な城郭に作り変えたのは柴田勝家である。



天正10年(1582年)6月27日の清洲会議後、勝家は近江長浜城を版図に加える。その長浜城と、自らの本拠地、越前北ノ庄城とを結び付けるために、この城を修築した。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが起こると、勝家はこの玄蕃尾城を本陣として使用している。しかし、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、その存在意義も無くなり、人知れず草木に埋もれていった。現在、玄蕃尾城は織豊系の貴重な城郭遺構として見直され、国指定の史跡となっている。



刀根坂
刀根坂 posted by (C)重家

↑近江と越前の国境、刀根坂


この峠の上に玄蕃尾城があります。熊が出没するとの事で、熊鈴を鳴らしつつ恐る恐るの登城でした。



刀根坂
刀根坂 posted by (C)重家

↑刀根坂からの眺め


この刀根坂は、古戦場でもあります。天正元年(1573年)8月、朝倉義景は、織田信長に攻められていた小谷城の浅井長政を救援に向かいます。しかし、戦況は悪化する一方で、義景は利あらずとして撤退に取り掛かりますが、その最中に織田軍の猛追撃を受けて、朝倉軍は壊滅します。朝倉軍は名のある将多数を含む3千人余が討ち取られ、この刀根坂から敦賀に至るまで屍を晒したと伝わります。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑説明版



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑南虎口



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑東虎口



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑主郭(本丸)


賤ヶ岳の戦いの時、勝家はここで全軍の指揮を執っていました。当時は、勝家を中心とする、屈強な武士達で満ち溢れていた事でしょう。そして、佐久間盛政が奇襲攻撃を行うに当たって、勝家もこの本陣から出撃して行きました。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑張出郭(見張り台)


麓には当時の幹線道路である、北国街道が走っています。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑搦手郭(兵糧庫)


結構、広い平坦地でした。


玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家


↑古城に咲く花
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重家 
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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