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浦上氏は、備前、播磨、美作の三カ国の守護であった赤松氏の被官として始まる。室町時代、浦上氏は赤松氏の柱石として働き、やがては守護代にまで任じられた。村宗の代を迎えると、浦上氏の勢力は主家の赤松義村が危惧を抱くほどのものとなり、やがて両者は反目、激突するに至った。この頃はまだ赤松氏の方が勢力は上で、永世16年(1519年)、義村は、村宗の居城に大規模な攻撃を仕掛ける。しかし、村宗は城を守りきり、逆に反抗に転じて、これを打ち破る事に成功した。そして、義村を強制的に隠居させ、幼少の晴政に跡を継がせて、傀儡とした。これで力関係は逆転し、浦上氏が備前、美作、播磨に支配力を及ぼす大勢力となった。永世19年(1521年)1月、義村は再起を期して兵を挙げたが、村宗はこれも打ち破り、かつての主君を捕らえて幽閉する。そして、同年9月、義村を幽閉先で暗殺した事から、その子、晴政は恨みを含んだ。
その頃、京都では官領家の細川氏が、高国と晴元とに分かれて内訌を繰り広げており、その一方である高国は、村宗の力に目を付けて参戦を要請した。これを受けて村宗は、高国を擁して上洛の軍を催した。村宗、高国連合軍は播磨、山城を席巻して破竹の進撃を見せたが、対抗相手の晴元も四国の大物、三好元長(三好長慶の父)を担ぎ出して反撃を試みる。摂津の中嶋付近で両軍は対峙し、小競り合いを繰り返した。しかし、双方、決定打が無く、対峙する状況が続く。そこで村宗と高国は、赤松晴政に援軍を要請した。しかし、晴政は、村宗に父を殺され、国政の実権を奪われた恨みを忘れておらず、村宗の背後を襲うつもりで出征したのだった。 享禄4年(1531年)6月、村宗、高国軍は味方だと思っていた赤松軍に背後を襲われ、さらに正面の三好軍からの挟撃を受けて、完膚無きまでに破れ、村宗も高国も戦場の露と消えた。
戦後、浦上家は村宗の嫡男、政宗が跡を継ぎ、赤松晴政と激しい抗争を交えつつ、勢力の回復に務めた。だが、天文6年(1537年)、山陰の大大名、尼子晴久が播磨に侵攻を開始すると、存亡の危機に立った政宗と晴政は恨みを捨てて、共に尼子氏に立ち向った。しかし、尼子氏の勢いは凄まじく、政宗は晴政共々城を追われて、堺まで逃れた。天文9年(1540年)、尼子氏が安芸の毛利元就を攻めるため、播磨から軍を撤収させると、政宗と晴政はこの機に乗じて播磨に戻り、失地回復戦を開始する。そして、この戦いの過程で、政宗は家中を主導する立場となった。天文13年(1544年)頃、赤松氏が再び備前、播磨の支配者に返り咲くと、政宗が筆頭家老となった。この後、政宗は自らの勢力を備前、播磨に扶植させる事に力を注ぎ、やがて、独立勢力となった。
天文20年(1551年)、尼子晴久が再び備前、美作に大規模な侵攻を開始すると、浦上家中は動揺して、紛糾(ふんきゅう)する。政宗が尼子氏に従属する姿勢を見せたのに対し、弟の宗景はこれに激しく反発したのである。そして、宗景は毛利元就と結んだ上、天神山にて旗揚げしたので、ここに浦上家は分裂した。宗景は毛利家に援軍を請い、政宗は尼子家に援軍を求めて、備前各地で戦いが繰り広げられた。天文23年(1554年)、戦いの最中、宗景は天神山城を本格的に普請し、自らの居城とする。戦況は宗景優勢で進み、永禄3年(1560年)には政宗を西播磨に追いやって、宗景が備前第一の勢力となった。しかし、備前国内にはまだ対抗相手もいたし、この時点では、浦上氏は毛利氏に従属する一国人に過ぎなかった。宗景は戦国大名としての自立の道を模索するが、そのためには毛利氏と手を切るしかないと定めた。
永禄6年(1563年)5月、宗景は、兄、政宗と和睦して背後を固めた上で、毛利氏とその従属大名、三村氏との戦いを開始する。当面の相手は、備中、美作、備前に勢力を張る強敵、三村氏であったが、家臣の宇喜多直家の奮迅の働きもあって戦いは優勢に進み、永禄12年(1568年)には、宗景は備前のほぼ全域と、美作の東南部を支配する堂々たる戦国大名に成長する。更に同年には、兄、政宗の跡を継いでいた誠宗(なりむね)を暗殺し、その西播磨の所領も自らの版図に加えたのだった。宗景の野望はこれだけに止まらず、西播磨の領主の1人、赤松政秀にも攻撃を加えたため、窮した政秀は、畿内の実力者となっていた織田信長に救援を求めた。信長はこれに応えて軍を派遣し、あろうことか重臣の宇喜多直家まで、信長に通じて叛旗を翻したから、宗景は重大な危機に陥った。
幸い織田軍の行動は一過性で、数箇所、城を落とすとすぐに引き返していったため、宗景は胸を撫で下ろした。織田軍撤退を受け、孤立した直家も降伏を申し出て来たので、その復帰を許したのだった。宗景はこの機会に直家を滅ぼすべきであったのだが、そうはしなかった。理由は定かではないが、滅ぼすには、既にその勢力が大き過ぎたのか、それとも、周囲の状況がそれを許さなかったのか。天正元年(1573年)、宗景は信長と和睦して、備前、播磨、美作の支配権を認められる。この内、播磨と美作は一部を領有するに留まっていたが、それでも毛利氏に次ぐ、中国地方の大大名である事に間違いはなかった。しかし、宗景の絶頂期も、束の間であった。翌天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が再び、叛旗を翻したのである。
直家は前回の失敗を教訓に、今回は準備万端で望んでいた。浦上家の嫡流に当たる久松丸(政宗の孫)を担ぎ出して大義名分を掲げ、更に事前に調略を廻らせて宗景配下から離反を続出させた。 宗景も備中の三村氏と結んでこれに対抗し、備前、美作を舞台に家中を二分する戦いが繰り広げられた。やがて直家は毛利氏を引き込む事に成功し、その軍事援助を受けて攻勢をかける。宗景も九州の大友氏、畿内の織田氏と結んだものの、相手側の事情もあって、直接の援助は期待薄であった。宗景は苦戦し、徐々に追い詰められて行く。そして、天正3年(1575年)6月、毛利氏が備中の三村氏を攻め滅ぼすと、毛利氏と直家は一丸となって宗景に襲い掛かってくる。たまらず宗景は天神山城に篭城し、その天険の守りを最後の砦とした。
しかし、同年9月、そこでも頼みとしていた重臣、明石景親に裏切られたため、最早、城を出て落ち延びるしかなかった。 以降、宗景は信長の後援を受けて、失地回復の機会を窺ったが、天正7年(1579年)、信長が直家の服属を認め、その所領を安堵した結果、宗景が復帰する見込みは無くなった。一時は、3カ国に勢力を張った宗景であったが、一浪人に零落し、以後の消息は途絶えてしまう。下克上で権力を登り詰めた男が、下克上にてその座を追われる、何とも皮肉であった。宗景一代の城である天神山城も、ほどなくして廃城となり、山林に還っていった。PR
天宝9載(750年)2月、高仙芝は吐蕃の属国、朅師(けっし)を討ち、その王を捕らえた。更に同年12月、属国の礼を取らなかったとの名目で、石国(タシュケント)へ遠征する。この遠征は、高仙芝が更なる功名を立てんとして、自ら申し出たものであった。この時、高仙芝は一旦、石国と和議を結んでおきながら、不意討ちをかけて老若男女を皆殺しとし、財宝、良馬を全て我が物とした。そして、先に捕らえていた朅師王や、石国王を長安に連行して、大いに面目を施したのだった。だが、この不義の行為は、高仙芝に災いを呼び込む。石国の王子が、西方のイスラム大国アッバースに逃げ込んで、高仙芝の横暴を訴えて、軍事援助を求めたのである。アッバースはそれに応えて、ズイヤード・イブン・サーリフ将軍を長として、諸国の軍を加えた数万の大軍を送り込まんとした。

↑8世紀のアジアの勢力図(ウィキペディアより)
アッバース軍動くと知った高仙芝は、逆に機先を制して攻撃せんとした。そして、漢族、異民族を合わせた3万人余の軍勢を率いて亀茲から北進すると、天山山脈を越え、アッバース領内に350キロも侵入する。唐軍は、タラス河(カザフスタンとキルギスに跨る河)の畔にあるタラス城に入った。天宝10載(751年)、唐軍とアッバース軍は、タラス河畔にて激突する。5日間に渡って互角の戦いが続けられたが、唐軍の背後で突如、異変が起こった。味方であった葛邏禄(かつらろく)族がアッバース側に寝返って、襲い掛かって来たのである。アッバース軍もこれに合わせて総攻撃を加えてきた為、さしもの高仙芝も成す術無く、大敗を喫した。これが世に云う、「タラス河畔の戦い」である。そして、この時に中国の紙漉き工が捕まって、西方に製紙技術が伝わったとされている。唐軍は数千人にまで討ち減らされ、さらに退路をフェルガーナ軍(ウズベキスタン)が遮った。唐軍は全滅の危機に陥ったが、李嗣業が先頭に立ってこれを斬り抜け、高仙芝らはなんとか危地を脱した。
この敗戦によって、唐の西域支配はタリム盆地にまで後退したが、高仙芝がその責を問われた形跡はなく、昇進して中央に召された。そして、高仙芝の片腕であった、封常清が安西節度使となった。天宝12載(753年)、封常清は、吐蕃の属国、大勃律国に攻め入り、これを降伏せしめる功を挙げる。この頃、唐の朝廷では、不穏な空気が漂っていた。玄宗は楊貴妃の魅力に溺れて政治を省みる事はなく、宮中では、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠と、地方の大権力者、安禄山とが権力を競っていた。天宝14載(755年)11月、中央での権力争いに敗れた安禄山は、ついに実力行使に及んだ。
節度使は強力な軍事力を帯びる事から、1人1職とされていたが、安禄山は玄宗の寵愛を糧に河東・范陽・平盧の3つの節度使の職を兼ねていたから、その軍事力は唐軍随一であった。そして、荒ぶる15万人余の兵を率いて、怒涛の進撃を開始した。唐王朝に激震が走り、折から入朝していた封常清は、玄宗から方策を尋ねられる。すると封常清は、「私が洛陽に赴いて官戸を開き、義勇軍を募集します。その軍で逆賊を討ち取ってご覧にいれます」と大言壮語した。この勇壮な奏上に玄宗は喜び、安禄山から范陽・平盧の節度使の職を取り上げた上で、これを封常清に与えて、洛陽へと送り出した。
封常清は洛陽に着くと、高札を立てて勇壮の者を広く召募した。10日余りで6万人余が集まったが、金目当ての無頼漢が多く、それに訓練を施す時間も無かった。そこへ安禄山軍が精強無比であるとの報告が入ると、封常清は自らの大言壮語を悔いたが、それでも責任を全うすべく、洛陽前面の守りを固めた。その頃、朝廷もようやく事態の深刻さを実感し、一大征討軍を編成する事とした。玄宗の第6子、李琬(りえん)を元帥に、その補佐役として、右金吾(ゆうきんご)大将軍に昇進していた高仙芝が付き、監軍使として辺令誠も付いた。実質的な総指揮官である高仙芝は、官庫を開いて11万人余を集めると天武軍と命名し、安禄山迎撃に向かった。
その頃、封常清率いる6万人余と、安禄山の先鋒は武牢にて激突した。安禄山軍は北方騎馬民族と死闘を繰り広げてきた歴戦の軍であって、その精鋭騎兵1万人余が突進してくると、市井の烏合の衆である封常清の軍は散々に蹂躙され、大敗を喫した。それでも封常清は諦めず、残兵を掻き集めて防戦を試みたが、再び大破され、唐の副都である洛陽は安録山の手に落ちた。封常清は街道の樹木を切り倒して、安禄山軍の進撃を遅滞させつつ、西方の陝郡(せんぐん)まで退いた。その地で、高仙芝と出会った封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、当たる術がありません。次に潼関(どうかん)を破られたら、長安が危機に瀕します。至急、潼関の守りを固めましょう」と訴えた。高仙芝はこの意見に同意し、官庫を開いて食料を兵士に分配し、残ったものは焼き払うと、撤退に入った。

↑安史の乱系図(ウィキペディアより)
撤退の最中、安禄山軍に追いつかれ、多くの兵士が死んだが、高仙芝と封常清は何とか先んじて潼関に入り、急いで守りを固めた。そこへ安禄山軍が猛攻を加えてきたが、高仙芝と封常清は協力し合って激戦の後、これを撃退する。だが、一息付いたところで、監軍使の辺令誠は、高仙芝と封常清を陥れる密書を朝廷に送った。辺令誠は一度、高仙芝に助け舟を渡した事があるので、度々、高仙芝や封常清にも賄賂を求めていた。しかし、相手にされず、これを恨みに思っていた辺令誠は、「高仙芝と封常清は賊を恐れて、戦わずして陝郡を放棄し、しかも軍需物資を横領した」と誣告(ぶこく)したのである。これを聞いた玄宗は激怒して、「両者を斬れ!」と厳命を下した。玄宗は若かりし頃は臣下の意見を聞き分け、賢明な統治をしていたが、老いては正常な判断力を失い、佞臣の思うがままであった。
辺令誠はまず封常清を捕らえると、皇帝からの詔書を突きつけた。これを受けて封常清は、「敗軍の将は、ついには死罪は免れないものです。しかし、安禄山を軽視してはなりません。臣の死後、是非良将を派遣して討伐の指揮を委ねられますように」と最後の上奏文を認めると、従容と刑を受けいれた。その死体は罪人として、道端に晒された。そこへ、外へ出ていた高仙芝が戻って来ると、盟友とも言える封常清の死体が横たわっており、愕然となった。そして、高仙芝も捕われの身となり、辺令誠が詔書を突きつけて死罪を告げた。
高仙芝は、「私は陛下の許可を得ずに潼関に撤退したので、死罪は覚悟の上である。しかし、軍需物資を横領したというのは冤罪だ」と述べた。そして、兵士達に向かって、「私は長安を守るために潼関に退いた。それを罪だと思うのなら、諸君、私が悪いと言ってくれ。しかし、罪が無いと思うなら冤罪だと言ってくれ」と訴えた。兵士達は一斉に、「冤罪だ!」と叫ぶ。それでも刑は断行される事となり、覚悟を決めた高仙芝は道端に横たわる封常清の死体を見やり、「貴公は私が抜擢した人だ。また、貴公は私の後任を引き受けてくれた。その貴公と共に死ぬのも運命だろうか」と言った。そして、兵士達の大地を揺るがすほどの叫びの中、パミール越えの勇将の命は断たれた。
高仙芝と封常清の生年は不明であるが、享年は50歳前後であろう。 この後、唐軍は安禄山軍に一戦を挑んで大敗し、潼関は打ち破られ、長安も陥落する。この時、辺令誠は安禄山に降伏し、後に唐に帰参したものの、許されずに斬られた。かつての高仙芝の部将、李嗣業はこの後も唐軍の先頭に立って奮戦するが、鄴(ぎょう)を巡る戦いで戦死する。唐は自力で解決する力を無くし、ウイグル国の援助を請うて、ようやく乱を平定するのだった。しかし、この安史の乱で唐の屋台骨は揺らぎ、かつての勢威を取り戻す事は二度と無かった。多大な努力を費やしてきた西域からも撤退し、唐は衰亡の一途を辿る事になる。
高仙芝は優れた武勇を誇り、軍略にも長けていたが、功名にはやって弱国を蹂躙し、私財を溜め込むなど貪欲な一面もあった。その挙句、他民族の反感を食らって一敗地にまみれるなど、政略面においては思慮を欠いていた。だが、衆を引き連れての遠路遥々の行軍、それに加えての困難なパミール越えは、並の指揮官に出来る事では無い。これには士卒の心を確実に掴み、強固な意志で引っ張っていく人物でなければならない。高仙芝が、偉大な統率力の持ち主であった事は、間違いないところである。
8世紀前半、中国は唐の時代、玄宗皇帝の治世の下、唐王朝は最盛期を迎えようとしていた。国都、長安には東西南北から様々な人種が流れ込み、当時、アジア最大の都市として栄えていた。長安の人々は、シルクロードや運河を通じて持ち込まれる外国の鮮やかな物品で体を着飾り、平和と繁栄を謳歌していた。だが、長安から遠く離れた東西南北の国境地帯は平和とは無縁で、唐の守備隊と異民族との間で、血生臭い戦闘が絶え間なく繰り広げられていた。長安の平和は、彼ら国境を守る兵士の血によって保たれているのだった。そういった状況は、長安から遥か西に位置する、西域(中央アジア)でも同様であった。
西域は荒涼とした砂漠地帯であるが、古くから絹の一大交易路(シルクロード)として知られており、唐の経済にとって重要な地域であった。また、この西域を支配する事は、唐の脅威となっている北方騎馬民族の収入源を押さえる事にも繋がっていた。この様に西域は、戦略、経済、交通上の要衝であった。そこで唐は、この地域の支配を永続的なものとすべく、タリム盆地北部にある亀茲(クチャ)に安西都護府を開設し、そこに安西節度使を置いて統治の拠点とした。節度使とは唐が採用した制度で、辺境の統治と守備を一手に担う司令官である。辺境とは言え、節度使は広大な地域の軍権と政権を一手に握っている事から、そこに置ける権力と軍事力は非常に大きなものがあった。安西節度使は、広大なタリム盆地のほぼ全域を守備範囲とし、その兵力は2万4千人で、軍馬は2千7百を数えた。そして、この軍団の中に高仙芝(こう・せんし)と云う若き武人がいた。
高仙芝は高句麗(北朝鮮と中国東北部を含む地域)出身で、20歳余で父に連れられて、亀茲にやってきた。高仙芝の父、高舎鶏(こう・しゃけい)は低い身の上から始まって、そこから己の腕一つで将軍にまで立身した有能な戦士であった。その父の功績の余燼を受けて、高仙芝は20代にして父と同格の将軍に任ぜられた。だが、高仙芝は親の七光りだけで立身したのではない。容貌秀麗な偉丈夫にして、勇猛かつ騎射に長け、確かな将才も備えていた。高仙芝が、安西節度使、夫蒙霊詧(ふもう・れいさつ)の下で度々、武名を轟(とどろ)かせていた頃、封常清(ほう・じょうせい)と云う男がその武名を聞きつけて訪ねて来た。
封常清は高仙芝の配下となる事を強く願ったが、痩せこけた外見で片足も不自由であった事から、相手にされなかった。封常清はそれでも諦めず、開元29年(741年)、高仙芝が軍を率いて達奚(たっけい)族制圧に向かった際には、一兵卒として従軍した。そして、封常清は、高仙芝が用いた戦術を分析し、それを詳細に書いた報告書を提出する。その報告書は非の打ち所が無く、しかも高仙芝の意図を悉く見抜いたものであったから、高仙芝は驚いて封常清を召した。実は、封常清は高い志と優れた学識を有する賢人であったのだ。高仙芝は封常清に対する認識を完全に改め、以後は片腕として重用する。そして、高仙芝はこの達奚族制圧に成功した事から、副節度使に任ぜられた。
西域支配を狙っていたのは、唐だけでは無かった。チベット高原の大勢力、吐蕃(チベット)もまた、虎視眈々と西域を狙っており、開元10年(722年)には、カシミール地方(パキスタン北部)にある、小勃律国(ギルギット)を属国化する事に成功していた。小勃律国は、小国ながら交通の要衝に位置していた。そのため、それより西にある20数カ国も吐蕃に服属を余儀無くされ、唐に対する朝貢も途絶えた。唐も黙ってこの状況を見逃していた訳ではなく、これまで三度に渡って遠征軍を差し向けたものの、悉く失敗に終わっていた。これは、吐蕃の援軍によって阻まれたと言うより、西域の厳しい気候と剣路に阻まれたのが主因だった。天宝6載(747年)、今度は、高仙芝にその小勃律国討伐の大命が下った。高仙芝は勇んでこれを拝命し、片腕の封常清、それに全軍きっての猛将、李嗣業(り・しぎょう)、監軍使の宦官、辺令誠(へん・れいせい)、それに歩騎兵合わせて1万人余を率いて、亀茲を出立する。

↑西域(タリム盆地)・(ウィキペディアより)
写真には写っていないが、疏勒の左側にパミール高原がある。パミール高原を横断すれば、そこに小勃律国があった。
遠征軍の一番の難題は、パミール高原(平均標高5千メートル)を踏破する事であった。唐軍は、疏勒(カシュガル)を経てパミール高原に入る。そして、行軍100日余、特勒満川(とくろまんがわ)に達したところで、高仙芝は軍を三つに分け、吐蕃の拠点がある連雲堡(れんうんさい)の手前で合流を約した。連雲堡は川に面した崖の上に築かれた城砦で、そこに1千人余りの兵が守りを固め、麓にも9千人余が柵を連ねて配置されていた。このように連雲堡は難攻不落の構えであったが、突如として目の前に現れた唐軍にはさすがに虚を突かれた。高仙芝は間髪おかず、急流を押し渡って総攻撃を加える。
唐軍は、吐蕃軍の応戦が遅れる間に城の足元に取り付いたが、それでも崖の上から石、丸太、弓矢を雨の様に浴びせられて、苦戦に陥った。ここで高仙芝は、配下の猛将、李嗣業に、「昼までに城を必ず落とせ」と厳命を下した。李嗣業は抜刀した歩兵隊を率い、自ら軍旗を掲げて崖をよじ登り始める。吐蕃軍の投げ落とす岩石や矢に当たって、兵士達は次々に滑落していった。それでも李嗣業は休まず力攻を続け、午前10時頃、ついに崖を上りきって城内に突入する。そして、白兵戦の末、吐蕃軍5千人余を斬殺し、1千人余を捕虜とし、残りは逃走した。大勝利であったが、唐軍の目標は小勃律国であって、連雲堡はその通過点に過ぎない。高仙芝は更に進軍を続けようとしたが、ここで監軍使の辺令誠は臆病風に吹かれて、同行を躊躇した。そこで高仙芝は、足弱の兵3千を割いて辺令誠と共に連雲堡の守りに就かせ、自身は奥地へと踏み込んでいった。

↑パミール高原(ウィキペディアより)
唐軍は酸素が薄く、厳しい寒気が包み込むパミール高原を突っ切り、氷雪に覆われたダルコット峠(標高4575メートル)をも越えた。そこから険しい山路を20キロ下れば、小勃律国の主城、阿弩越城があった。だが、その断崖絶壁の道を前にして、兵士達に不安と不満の声が上がる。すでに遠征は数ヶ月に及び、しかも日夜、厳しい風雪に晒されている事から無理も無かった。そこで高仙芝は一計を案じ、自軍兵士20名を地元民に変装させ、密かに山を下らせた。翌日、阿弩越城からの使者に扮した兵士達は唐軍の下を訪れ、降伏したいと申し出た。これを受けて高仙芝は、「小勃律国は降伏した。城はもう我らのものだ」と全軍に告げた。兵士達は騙されたとも知らず、喜び勇んで高仙芝に付き従うのだった。
唐軍が再び進撃を開始して3日後、今度は本物の阿弩越城からの使者が来て、高仙芝に降伏を申し出てきた。高仙芝はこれに乗じて精鋭騎兵1千を先行させて、阿弩越城を制圧した。唐軍は小勃律国の国王、大臣を捕虜とし、更に吐蕃に通じる橋も落として援軍の道を断ち切った。この小勃律国制圧の報を受けて、72もの周辺小国が唐への服属を表明する。高仙芝は過去、三度も失敗している困難な遠征を成し遂げ、唐の勢力範囲をタリム盆地より更に西へと押し広げる事に成功したのだった。20世紀初頭の著名な中央アジア探検家スヴェン・ヘディンは、高仙芝のパミール越えを、ハンニバルのアルプス越え(平均標高1700メートル)を凌ぐ壮挙であると賞賛している。
しかし、高仙芝はこの勝利で、思い上がったようだ。本来ならばこの勝報は高仙芝の上司である、夫蒙霊詧を通じて行うべきだったのだが、自らの部下を直接、長安に送って奏上した。高仙芝の器量を認め、ここまで引き立てたのは夫蒙霊詧であったから、そうと知った彼は、「恩知らずめ!今度こんな無礼な振る舞いをすれば、首を刎ねてやるぞ」と激怒した。これにはさすがの高仙芝も、恐れ慄くしかなかった。だが、これを知った監軍使の辺令誠は、高仙芝を擁護する上奏文を送る。その結果、夫蒙霊詧は都に召還され、代わって高仙芝が安西節度使に任ぜられる事となった。そして、この度の遠征で数々の献策をしたであろう、封常清も判官(副節度使に次ぐ位)となった。封常清は軍律に厳しく、それでいて賞罰は公正であったため、高仙芝は遠征する度、安心して彼に留守を任せる事が出来た。
江戸時代、刀剣の試し斬りと、斬首刑を専門とする特殊な一門が存在していた。試し斬りとは、処刑された罪人の死体を土壇(どだん)に載せてから、刀を大きく振りかぶって打ち下ろし、その切れ味の程を確かめる事である。現在から見れば、甚だ野蛮な行為であるが、当時は据物(すえもの)と呼ばれる武術の一種として認められており、特に将軍家のための試し斬りは御様御用(おためしごよう)と称され、名誉ある職と見なされていた。この御様御用を務めていたのが、山田一門と呼ばれる技術集団である。初代の貞武(さだたけ)から始まり、その跡を継ぐ者は代々、浅右衛門を襲名していた。
山田一門は試し斬りだけでなく、死刑執行人としても活動していた。山田一門によって斬首された罪人は数知れず、有名どころでは橋本左内や吉田松陰も含まれている。そのために人々から首斬り浅右衛門や、人斬り浅右衛門と呼ばれたのである。だが、これらは決して簡単な役目ではなかった。試し斬りをするには相当な技術が必要で、人の首を一刀両断するのも、技術に加えて、躊躇なく人の命を断つ、強靭な精神力が必要とされた。生半可な腕と心の者が首を落とそうとすれば、仕損じる事があり、そうなれば罪人に余計な苦しみを与える事になる。そのため、山田一門は厳しい修練を積み、一刀で首を打ち落とす、確かな腕を持った者を当主としていた。また、今際の際(いまわのきわ)の罪人が残す、時世の句を解するため、俳諧の修行も行っていた。この様に山田浅右衛門を襲名するには、文武両道の達人で無ければならない。しかし、山田一族から当主に足る者がいなければ、弟子の中から力量ある者を選んで養子とし、浅右衛門を襲名させて、その家風を受け継がせていった。
これらの役目は、武家政権である徳川幕府にとって必要不可欠なものであった。しかし、死を司る不浄な役目でもあったので、山田一門は正式な幕臣とはされず、浪人身分のまま雇われていた。だが、山田一門の財力は、数万石の大名並であったと云われている。山田一門は幕府、旗本、大名から依頼される試し斬り、刀剣鑑定などで相当な収入を得ていたが、それよりも巨利を得られたのが、人の内臓を用いた製薬の販売である。山田一門は御様御用の役得として、罪人の死体から肝臓、胆嚢(たんのう)を取り出して製薬販売する事を許されていた。当時、肝臓や胆嚢は、肺病に良く効く妙薬であると信じられていて、高値で出回っていたのである。
山田一門は処刑を執行し、その死体を試し斬りにし、さらに内臓を取って製薬を作る。世の人々は、山田一門の技には畏敬の念を持っていたが、その家業は忌み嫌ってもいた。しかし、山田一門に取っても、この家業は心身を著しく消耗するものであった。いくら罪人であっても人である事に変わりは無く、多数の処刑を執行した日には、体よりも心が疲れ果てて夜も眠れなかった。そのため、処刑をした日には宴会を開き、大騒ぎをして気を紛らわしていた。また、罪滅ぼしのため、罪人のための供養塔や寺院を建立したり、貧民の救済にも努めたとされている。
山田一門の家業は、武家の世が続く限りは安泰であった。しかし、明治の世を迎えると、試し斬りや人体の製薬は禁止されて、山田一門の最大の収入源が失われてしまう。それでも、しばらくは処刑執行人として斬首を担っていたが、それも明治13年(1880年)に絞首刑に切り替えられると、山田一門は完全に存在意義を失ってしまう。こうして山田一門は、武家の世の終わりと共に急速に没落してしまった。だが、その一方で、最後までその家風を守り抜いた者もいる。それが、最後の浅右衛門とも云われる山田吉亮(やまだ よしふさ)である。吉亮は安政元年(1854年)の生まれで、少年の頃から剣の才を発揮し、12歳にして斬首刑を執行したとされている。それ以来、多数の斬首刑を執行し、有名どころでは、雲井龍雄(維新の志士で元議員)や、高橋お伝(後に映画や小説のモデルとなった殺人犯)の斬首役も勤めたが、明治13年に斬首刑が禁止されると浪人となった。
吉亮は山田家から受け継いだ人胆(胆嚢)を隠し持っていて、金に困るとそれを売って糊口を凌いでいた。それでも食うに困り出すと、明治25年(1892年)、吉亮38歳の時から、知人の表具師(ひょうぐし)の職人宅を度々訪れるようになる。吉亮はここの主人からお小遣いをもらうまで、何日でも居候を決め込むのだった。吉亮の身嗜みは整っていたが、独身で洗濯をしないからか、虱(しらみ)を大量に飼っていた。主人の妻子はこの無遠慮かつ、虱を家中に撒き散らす居候を嫌っていた。吉亮は豆が嫌いであったので妻子があえて赤飯を出すと、敵もさるもの、箸で一つ一つ豆をつまみ出してから食べるのだった。だが、生真面目な一面もあり、妻子から手伝いを頼まれると、「はい」と答えて嫌な顔一つせず、仕事をこなすのだった。それに達筆の持ち主で、主人に代わって代筆をする事もあった。
毎回、布団は丁寧に折り畳み、365日欠かすことなく、袴(はかま)をきちんと着こなすなど几帳面なところがあった。体格は小柄だが、気迫が漲っているかの様な迫力があり、その鋭い眼光は、人の心底まで見透かしているかの様であった。実際、吉亮は、ある人の面相を見て死を予言し、それを的中させて一家を驚かせた事があった。普段は物静かであるが、子供が誤って袴の裾を踏んだ時には、顔に怒気を含ませ、「打首にするぞ」と凄んだ。この時の顔は、本当に恐ろしかったそうである。この家族の回顧によれば、吉亮は東京の薬屋に頻繁に出入りしていて、人胆の取引をしていたようだと語っている。その縁あってか、明治44年(1911年)に吉亮が58歳で亡くなると、葬儀は薬屋が執り行っている。
その後の山田家であるが、明治18年(1885年)、山田吉顕(よしあき)が九代目浅右衛門を襲名したものの、最早、名目だけであった。昭和に入ると跡継ぎは絶え、嫡流は途絶えてしまう。明治以降の山田一族には不幸が立て続き、病死、事故死、徴用による戦死、が付きまとった。縁起の悪さから名跡を継ぐ者はいなくなり、やがて山田家は消滅するに至った。

↑山田吉亮
明治36年(1903年)12月17日、吉亮50歳時の写真と伝わる。
主要参考文献「大江戸残酷物語」
カリブ海とは、北は大アンティル諸島のキューバ、ドミニカ、西は中央アメリカのコスタリカ、ニカラグア、南は南米のベネズエラ、コロンビア、東は小アンティル諸島までを範囲とする海域である。 かつて、この海域は、先住民が小舟に乗って漁をしたり、ささやかな貿易をするのみであった。しかし、そこへヨーロッパ人が大船に乗って現れると、平和な海はたちまち激変する。ヨーロッパ人は先住民を虐げるばかりか、列強と海賊が相争う、修羅の海となったのである。その切っ掛けとなったのがヨーロッパ人による、アメリカ大陸発見と植民活動である。
1492年、コロンブス率いるスペインの船団が、アメリカ大陸に達した。ヨーロッパの人々は、これを快挙と捉えて、興奮の渦に包まれた。しかし、アメリカの先住民にとっては、悪夢の始まりとなった。そして、これ以降、スペイン人は大挙として中南米に押し寄せ、先住民達を虐げつつ、無慈悲な征服活動を進めていった。スペインは、1521年にはアステカ帝国を、1533年にはインカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中にした。更に1545年、南米(現在のボリビア)でポトシ銀山が発見されると、大量の銀が産出されるようになった。こうしてカリブ海一帯は、金銀財宝をヨーロッパへと運ぶ船で満ち溢れるようになる。財宝目当てに多くのスペイン人が中南米に渡り、各地に植民都市を建設していった。
しかし、財宝に惹き付けられたのはスペイン人だけではなかった。富を独り占めにはさせじとフランスが、次にイギリスが、17世紀からはオランダが、それぞれ私掠船を派遣してスペイン船を襲撃するようになる。私掠船とは、国家公認の海賊である。それだけでなく、財宝の噂を聞き付けたヨーロッパ各地のあぶれ者達が、中南米に殺到するようになり、彼らも海賊となってスペイン船を襲うようになった。これら海賊や私掠船の集団は、「バッカニア」と総称されて、恐れられた。スペインも対策として輸送船に軍艦を付けて護送船団を組んだり、軍を派遣して海賊の根拠地を攻撃したりしたが、海賊行為は激しくなる一方であった。
17世紀、カリブの海は、勇猛かつ貪欲な海賊で満ち溢れるようになった。彼らの激しい海賊活動によって、スペインの植民地支配が揺るぎ出すと、ヨーロッパ列強は割り込む様に各地に拠点を築いていった。カリブ海の中核となる西インド諸島には、フランス人やイギリス人が植民するようになり、さらにアフリカから連れられてきた奴隷によって人口は急増した。これらの人々の多くは、社会の最底辺に位置しており、容易に海賊行為に走った。また、当時の商船の多くは傲慢で残忍な船長の下、船員は過酷な扱いを受けていたので、彼らも海賊に加わる事が多かった。
海賊の国籍は様々で、ヨーロッパ各地の白人、アフリカの黒人奴隷、白人と黒人の混血、南米の原住民など、非常に国際的であった。海賊船の乗員の大抵は20代の若者で、船長になる者は、30代から40代くらいだった。そして、大部分の海賊は独身だった。海賊となった者の多くは、社会の圧制から逃れて来た者達であり、彼らは権威に縛られる事を大変嫌った。しかし、中には海賊の捕虜となり、仕方なしに仲間になる事を強いられた者もいた。彼らは自分達の自由を守るため、民主的な方法で組織を運営している。例えば、ヨーロッパの海軍が会議をする際には、参加を許されるのは士官のみであったが、海賊の場合は全乗員が参加する事が出来た。
船長は多数決で選出され、同じく多数決で罷免する事も出来た。船長に次ぐ地位である操舵手は、乗員の代表でもあった。船長、操舵手、外科医、船大工などの少数の熟練した技術者には、多めの略奪品が分け与えられたが、それ以外は全乗員に公正に分配されるのが基本であった。しかし、獲物が無けらば、もちろん報酬などは無い。海賊とは、博打打ちのような職業であった。それでも、海賊ならではの保障もあった。当時の国家では、障害者に対する保障などほとんど無かったが、海賊では、戦闘や航海で手足を失うような者がいれば、補償金が支払われている。
海賊の乗り込む船は、全長30メートルほどの2、3百トンクラスの船が多かった。獲物と狙う相手の方が大型船である場合が多いが、大胆不敵な海賊達は度々、挑戦しては勝利を収めている。糧食や器具は、他の船からの分捕りで多くを補っていた。航海用具は貧弱で、海図も不正確なものだった。だが、彼らの技術は確かであり、経験と勘を頼りに各地を航海した。海賊が掲げる旗で有名なのは、黒の生地に二本の骨が交差する頭蓋骨である。実際には様々な絵柄であったが、黒地である事はほぼ共通していた。海賊はこの黒地の旗をたなびかせ、乗り込んでいた楽士が不気味な演奏を奏でつつ、獲物に接近する。これは、相手の恐怖心を煽って、早期に降伏させる心理的効果を狙ったものである。
海賊達は、獲物を狙う時、砲撃戦よりも接近戦を図った。船をなるべく傷付けずに、積荷ごと奪うためである。1985年、北米大陸東岸、トッド岬沖で発見された海賊船ウィダ号からは、海賊の戦術を推測できる遺物が見つかっている。船には、スペインの金貨や銀貨、腕輪や指輪などの豪華な財宝に加えて、多くの武器、弾薬類も積み込まれていた。弾薬の打ち分けは、ピストル、散弾銃、マスケット銃、それに手投げ弾だった。これらの武器は、船体をあまり傷付けずに甲板上の敵を殺傷可能であった。それと、回収された骨と衣服から推測した結果、ウィダ号の海賊達の平均身長は、165センチであった。海賊と言えば、大柄な荒くれ男と想像しがちであるが、そうでもなかったようである。
17世紀半ば、イギリスはジャマイカ島を占領し、ここにポート・ロイヤルと云う理想的な港湾を見つけた。このポート・ロイヤルは、カリブ海の海運ルートの中心に位置していた。現地のイギリス総督はスペインを苦しめてやろうと企み、周辺の海賊を歓迎して招き入れた。海賊達も拠点が得られると喜び、ポート・ロイヤルに殺到するようになる。町はたちまちの内に、略奪品の金銀で溢れかえるようになった。町には貨幣所が作られて容易に換金できるようになり、さらに居酒屋、売春宿、賭博場が雨後の竹の子の様に建ち並ぶようになった。海賊達は略奪してきた金銀を毎夜毎晩、町で馬鹿騒ぎしながら撒き散らした。こうしてポート・ロイヤルは、海賊の楽園となった。イギリスから遥々やって来たある牧師は、このポート・ロイヤルで神の教えを説こうとしたが、海賊、殺人者、売春婦などで溢れかえっている町を見て絶望し、来た船で戻ってしまう出来事もあった。
カリブの海賊は、財宝を積んだ船だけでなく、植民都市も頻繁に襲った。海賊らはカリブ海周辺の沿岸都市を襲っては、住民を虐殺暴行し、略奪の限りを尽くした。また、町を破壊しないかわりに、法外な代償金をせしめる事も多々あった。捕虜となった者は、脅しと拷問を受けて財産の在り処を吐かされ、それが身分の高い者であれば、高額の身代金が要求された。カリブの海賊は恐るべき体力を誇り、大胆不敵かつ残忍だった。時に守備隊の方が数的に優勢であっても、彼らは粘り強い戦闘力を発揮して度々、勝利を収めている。彼らの活動は現地の住民にいつまでも恐怖の記憶として残り、子孫代々に渡って語り継がれていった。
スペイン側も捕らえた海賊は容赦なく殺害していったが、それでも攻撃が収まる気配は無かった。スペイン人が目の色を変えて中南米各地の住民から巻き上げた財宝は、同じく目の色を変えた海賊によって狙われ続ける運命にあった。略奪に成功した海賊がポート・ロイヤルに凱旋すると、酒、女、博打などのあらゆる放蕩にふけった挙句、数日の内に稼ぎを使い果した。これが、典型的な海賊の生態だった。莫大な財宝を得て海賊業から足を洗い、楽隠居を決め込む者もいたが、そういった者は少数に過ぎない。海賊の職業病はアルコール中毒で、大抵、若くして死んでいった。
海賊となった者には、一獲千金を得られる機会が確かにあった。そして、スリル、暴力、酒、女を存分に味わう事も出来た。しかし、その反面、リスクも大きく、戦闘、壊血病、暴風雨、熱帯病などが頻繁に彼らを襲った。また、海賊行為を行った者が官憲に捕まると大抵は縛り首となり、見せしめとして、目立つ場所に骸骨になるまで吊るされる事になる。それでも彼らはリスクを取って、海賊行為を続けた。例え平民として生きても、支配者から搾取されて長く貧しい生活を送るだけであり、それならば太く短く、自由気ままに生きようとしたのである。
1692年、ジャマイカに大地震が発生し、ポート・ロイヤルは地震とその後に襲ってきた大津波によって壊滅した。市街の大部分は海中に没し、2千人余の人々が死亡した。この町の成り立ちを知る人々は、神の審判が下ったのだと噂した。海賊の楽園は消え去ったかに見えたが、今度はバハマ諸島の島の1つ、ニュー・プロヴィデンスが新たな海賊の基地として注目される事になる。ここはすぐさま海賊の巣窟となり、たちまちの内に居酒屋、売春宿が建ち並ぶようになった。そして、彼らの吐き出す略奪品を目当てに、多くの商人も集まってくる。ここは海賊の楽園、第二のポート・ロイヤルとなった。海賊達は、俺達が死ぬ時には天国ではなく、ニュー・プロヴィデンスに帰るのだと言った。
200年余りもの間、カリブの海は海賊達に大いなる恵みを与えていた。だが、17世紀も後半になると、その実りは乏しくなる一方となる。財宝を運ぶ船はめっきり少なくなり、それに代わって植民地産の農産物などを運ぶ船が増えるようになった。それでも海賊をするしか能のない者は、農産物や日用品などを略奪したが、それらはほとんど金にならなかった。そんな海賊達に追い討ちをかける様に、これまで海賊活動を支援してきたイギリス、フランスが方針を転換して、基地の提供を拒否するようになる。今まで我が物顔でカリブの海を闊歩してきた海賊達に、暗い影が差し始める。だが、ロウソクの最後の灯火の様に、海賊達は再び活発な活動を開始した。
18世紀前半、黒髭を代表とする勇猛果敢な海賊の首領が次々に登場して、周辺の海域を支配したのである。ニュー・プロヴィデンスを中心に、海賊達の黄金時代が幕が開く。しかし、それは30年ばかりの期間でしかなかった。この頃から、国家として強力に成長してきたヨーロッパ諸国が海賊活動を強硬に取り締まるようになり、海賊の傍若無人な振る舞いを憎んでいた人々もこれに支持を与えた。1718年11月には海賊の代表格、黒髭が討ち取られて晒され、続いて1720年代には、名立たる海賊の船長達が片っ端から殺されたり、縛り首となる出来事が起こった。これ以降、カリブ海における海賊行為は急速に尻すぼみとなってゆく。これは、一世を風靡したカリブの海賊の終わりを告げる出来事であった。