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大和ミュージアム 2

大和ミュージアムの目玉は、何と言っても戦艦大和の十分の一サイズの巨大模型である。実際の大和の大きさが、全長263メートル、全幅38・9メートルだったので、模型の全長は26・3メートル、全幅3・8メートルとなる。


戦艦大和については世間一般にも広く知れ渡っている事から、簡単な説明だけを記す。大和は、当時の日本人が持ちうる技術を結集して建造されたもので、日本海軍の誇りでもあった。その基準排水量6万4千トンと、砲塔1基2700トンにもなる46センチ3連装砲は、戦艦としては史上最大である。先に紹介した潜水艦「あきしお」の排水量が2250トンだったので、その巨大さが窺い知れる。しかし、当時は最高軍事機密とされていたので、一般人には知る由が無かった。大和が有名になるのは、むしろ戦後であった。


日米開戦間もない昭和16年(1941年)12月16日、大和は大いなる期待を背負って就役するも、既に海戦の主体は空母と航空機に移りつつあり、自慢の主砲が火を噴く機会はなかなか訪れなかった。太平洋戦争末期、大和は海上特攻隊として沖縄に送り込まれたものの、望んでいた敵戦艦との撃ち合いの場面は訪れず、代わって現れたアメリカ軍航空機の集中攻撃を受けて、昭和20年(1945年)4月7日、3千人余の将兵と共に東シナ海の海底に沈んでいった。




大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦大和の十分の一模型



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



戦艦大和の重厚感、機能美が伝わって来る素晴らしい出来栄えです。



砲弾
砲弾 posted by (C)重家

↑主砲弾の数々


左三つは戦艦大和の主砲弾で、左から46センチ91式徹甲弾、46センチ3式弾、46センチ91式徹甲弾の断面です。46センチ91式徹甲弾の全長は1.98メートル、重さは1.46トンもありますが、大和はこの砲弾を42キロ先まで飛ばす事が可能でした。しかし、実際の砲戦では、そんな遠距離に砲弾を放ってもまず命中しないので、砲戦距離は2万~3万メートルを想定していたでしょう。



回天
回天 posted by (C)重家

↑人間魚雷「回天」


これに人間が乗り込んで、敵艦に体当たり自爆する特攻兵器です。実戦にも投入されており、給油艦1隻、護衛駆逐艦1隻、揚陸艇1隻を撃沈しています。回天の戦没者は戦死、事故死、戦後の自決を含めて145人となっています。



特殊潜航艇海龍
特殊潜航艇海龍 posted by (C)重家

↑特殊潜航艇「海龍」


これも回天と同じく、人間が乗り込んで敵艦に向けて魚雷を放ったり、体当たり自爆するための特攻兵器です。戦争末期、本土決戦用に整備されていましたが、実戦に投入される事なく終戦となりました。



零式艦上戦闘機62型
零式艦上戦闘機62型 posted by (C)重家

↑零式艦上戦闘機62型


大和と共に名高い零戦の改良型です。戦争末期に制式化されたもので、初期型より火力が強化されています。


13mm機銃
13mm機銃 posted by (C)重家

↑零戦に搭載された13ミリ機銃



重巡洋艦摩耶
重巡洋艦摩耶 posted by (C)重家

↑重巡洋艦「摩耶」の模型


大和ミュージアムには、これ以外にも多数の日本海軍の艦艇模型が展示されています。
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大和ミュージアム 1

大和ミュージアムは、広島県呉市にある博物館である。正式名は呉市海事歴史科学館と言って、日本海軍や呉軍港の歴史、そして、世界最大の戦艦大和についての展示、紹介がなされている。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑大和ミュージアム


左手にあるのが大和ミュージアムで、奥には自衛隊の潜水艦「あきしお」が展示されています。そして、博物館手前には、旧日本海軍の戦艦「陸奥」の装備品が展示されています。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦「陸奥」の41センチ主砲の砲身


陸奥の主砲は45口径41センチ砲だったので、これを掛け算すると砲身の長さは18.45メートルとなります。ちなみに大和の主砲は45口径46センチ砲だったので、砲身長は20・70メートルです。戦艦「陸奥」は長門型戦艦の2番艦として建造され、大正10年(1921年)に就役しました。昭和11年(1936年)には大改装を施されて面目を一新し、全長224、9メートル、全幅34、6メートル、排水量3万9千トンの巨艦となります。長門型は、41センチ砲を8門搭載しており、大和型に次ぐ有力艦と見なされていました。しかし、陸奥は昭和18年(1943年)6月8日、謎の大爆発(不祥事を起こした乗員の自爆が疑われる)を起こし、1121人の乗員を巻き添えにして山口県柱島沖に沈んでいきました。戦後、その装備品が引き揚げられて、各所に展示されています。



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦陸奥の主舵



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜水艦あきしお


まずは、あきしおから見る事にしました。全長76・2メートル、排水量2250トンあるとの事で、間近で見ると巨大です!


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑狭い通路


巨大な艦体とは裏腹に、内部は狭く入り組んでいます。


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑乗員の寝台


ここが乗組員のプライベート空間です。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑艦長室


艦長は艦船で一番階級が高いので、個室が設けられていますが、それでも狭いです。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜望鏡


覗いているのが艦長で、周りの人が乗組員だと思われます。潜水艦の乗員て、随分、高齢なんですね。 ( ̄Д ̄;;


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑あきしおの艦首


かすかに魚雷発射管の跡が窺えます。

18世紀のイギリス医療

2011.12.11 - 歴史秘話 其の二
18世紀、ヨーロッパの海洋帝国イギリスは、世界中から富を収奪し、それをもって世界初の産業革命を成し遂げた。イギリスの科学、工業水準は世界の最先端を走り、帝国は更に発展、拡大しつつあった。しかし、その一方でイギリスの医療水準は科学の進歩から取り残されて、人々は老いも若きも病に苦しんでいた。医療は中世からほとんど進歩しておらず、古代ギリシャの医師ヒポクラテスの教義、「全ての病気は体液の不均衡から生じる」を教義として、それを踏襲するのみだった。そして、人々は病気になれば、あらやる誤った治療法を取り入れた。カニの眼球や木屑に群れるシラミを有効な薬と信じて飲む、水銀などの有毒物資を薬として飲む、胃腸を洗浄すれば治ると信じて下剤や嘔吐剤を飲む、静脈を切開して血を抜く瀉血(しゃけつ)を行う、などなどの治療を行っては、かえって寿命を縮めるのだった。医療事故も日常茶飯事で、医者にかかれば、かえって天に召される時間が短縮される感さえあった。 
 
 
18世紀半ばのイングランドの平均寿命は37歳で、とりわけ子供の死亡率は高かった。1750年から1769年の間に生まれた赤ん坊の内、半分は2歳を迎えるまでに死亡している。子供が生き延びるには体の丈夫さと、運の良さが要求された。この死と隣り合わせの年少期を切り抜けると、体に免疫が付くので、その後は比較的、長く生きる事が出来た。しかし、それでも病気の材料には事欠けなかった。当時のロンドンの居住環境は不浄そのもので、排水溝には人間の排泄物や動物の死骸が流れており、一度、水が溢れれば、それらは路上を覆い尽くした。建物からは住民の排泄物が投げ捨てられ、馬車はそのしぶきを歩行者に浴びせかける。この様な環境であるから定期的に悪性の伝染病が発生し、多くの人々が命を落としていった。勿論、抗生物質のような便利なものもないので、感染症に罹ればひとたまりも無かった。また、当時のロンドンは性風俗が盛んで、聖職者、貴族、軍人、一般市民などあらゆる階層の人々が梅毒、淋病などの性病を抱えていた。人々は絶えず病に脅かされており、生きるというのはサーカスの綱渡りの様なものであった。 
 
 
内臓疾患は、不治の病に等しかった。患者が激しい腹痛を訴えても、18世紀にレントゲン撮影は存在しないので、内科医は病根を突き止められなかった。内科医も外科医も内臓疾患には基本的に無力で、病人に対して嘔吐剤や下剤を飲ませるか、瀉血を施すのみだった。瀉血はあらゆる病気に対して広く行われたが、これは何の意味も無いばかりか、瀉血のし過ぎで免疫機能が低下し、かえって病気が悪化する事も多かった。外目にもそれと分かる腫瘍や、外傷に対しては外科手術も行われたが、当時は麻酔も消毒も存在せず、道具も大昔からほとんど変わらない両刃刀とノコギリが使われるなど野蛮そのものだった。麻酔が使用されるようになるのは19世紀中頃で、消毒が確立されるのも19世紀後半である。そのため、外科手術を受ける患者は、手足を縛られて激痛に耐えねばならない。消毒の概念も無いので、傷口から細菌が侵入して重い感染症に罹る事も多かった。手術は一か八かの賭けに等しい。 
 
 
戦場は、最も感染症に罹りやすい環境だった。野戦病院に銃弾がめり込んだ負傷者が運ばれてくると、軍医は拡張術と呼ばれる手術を施し、傷口を開いて銃弾をピンセットか指で摘み出し、散らばっている骨片や弾片を取り除いて、最後に傷口を縫合する。しかし、この手術を受けられるのは主に手足を負傷した者で、腹部に重傷を負った者にはお手上げで、患者は死を待つのみであった。だが、適切と思われる、この銃弾摘出手術を受けると、かえって死ぬ者が多く出た。弾丸を体内に残すと患者に痛みを残すし、そこから感染症が広がる恐れもあるので、それを摘出するという考え自体は間違っていない。だが、麻酔無しで裂けた傷口を更に広げる手術は、患者に激痛と大量出血をもたらして弱らせ、その上、軍医は消毒無しの汚れた手術器具や手で傷口をまさぐるので、感染症の機会を大幅に増やしてしまうのだった。傷の状態にもよるが、そのまま放置して自然治癒力に委ねた方が、治りが早い事例も報告されている。また、戦地は兵士の汚物で溢れ、水も汚れているので、赤痢やチフスなどの集団感染症もよく発生する。戦地では、どちらか言えば銃弾で死ぬよりも、病気で死ぬ者の方が多かった。 
 
 
虫歯もイギリス人の悩みの種であった。ヨーロッパ社会で広く紅茶が飲まれるようになると、それに合わせて砂糖も大量に消費されるようになる。虫歯は老若男女を問わず、上流階級から下層階級まで平等に襲い掛かった。美しく着飾った貴婦人が微笑みかけても、その歯はがたがたで、黒ずんで欠けているなど日常茶飯事だった。当時は虫歯に対しても効果的な治療法が無いので、悪化すれば抜歯する他なかった。その抜歯であるが、何故か地位の低い者がする仕事との風潮があったので、床屋や、行商人、鍛冶屋などが主に行っていた。しかし、彼らの技量や方法はまちまちで、患者の中には歯肉をごっそりえぐられて顔が腫れあがり、一日中、激痛に苦しむ事もままあった。18世紀には、貧しい者から健康な歯を買い上げて、その歯を上流社会の者に移植する手術も流行っている。しかし、この移植された歯は、血管と神経まで縫合されていないので生着はせず、数年も経てば抜け落ちた。しかも、この移植で梅毒を移される例もあった。 
 
 
18世紀のイギリスでは、「全ての病気は体液の不均衡から生じる」という古典的な教義に拘る医療従事者は今だ多かったが、それでも新進気鋭の医者の中には、患者の生前の病態と、その死後の体の状態を調べて死因を特定するという実践的、科学的な手法を取り入れる者も現れ始める。そして、人体に対する研究熱が高まって、死体解剖が広く行われるようになった。だが、その熱意に反して、検体の数は余りにも少なかった。検体には、主に死刑囚の死体が使われたがそれでも足りず、墓場に収められたばかりの新鮮な死体が次々に盗みだされていった。解剖医達は、あらゆる病死体や幼児、妊婦を含む老若男女の死体を求めたため、やがて、死体盗掘を専門とする組織まで現れ、墓荒しが横行する事態となった。真っ先に狙われるのは浅く埋められている貧しい人々の墓で、その需要が高まった時には空っぽの墓ばかりとなった。死体を巡って盗掘団同士が暴力沙汰を起こす事もあったし、珍しい病態の死体を巡って解剖医の間で争奪戦が繰り広げられる事もあった。 
 
 
政府は腕の良い外科医が不足している現状を認識していたため、こういった死体泥棒や解剖医の存在を大目に見ていた。しかし、死体目的の殺人が起こるなど、死体盗掘が大きな社会問題となってくると、1832年には解剖令が施行されて、この悪習にも終止符が打たれた。医師達は、人々の目の前で犬や羊など生きた動物の腹を割いて実験して見せたり、人体実験を兼ねた危険な新治療を数限りなく行って失敗と成功を重ねていった。いくら医療の発展のためとは言え、彼らの行為は社会の規範や道徳を逸脱する面があって、数多くの批判を受けた。だが、こうした新進気鋭の医師達のあくなき探究心の結果、今まで説明のつかなかった病気の因果関係が明らかとなり、将来の予防や治療に光を当てる形となった事も確かである。そして、19世紀に入ると、観察と実験、証拠を突き詰めて病気を明らかにするという科学的手法が一般的となり、医学は飛躍的な進歩を遂げる事になるのである。


主要参考文献 「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」



 

観音寺城

観音寺城は、滋賀県近江八幡市安土町にある山城である。この城は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれていて、全国屈指の山城とされている。城には多くの石垣が用いられており、往時には千以上の郭(くるわ)が張り巡らされていた。麓から眺めるとさぞかし壮観だった事だろう。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓から眺める観音寺城



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓にある日吉神社



観音寺城に登るには、安土城考古博物館から桑実寺を経て登るルートもありますが、今回は日吉神社から観音正寺を経て登るルートを取りました。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音寺正寺へと続く石段



この様な石段がどこまでも続きます・・・登った日は9月初旬でしたが、うだるような暑さで汗だくとなり、セミも鳴きまくっていたと記憶しています(;´д`)ゞ アチィー!!山上部ではスズメバチとも遭遇しましたΣ(゚Д゚;)



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音正寺


この寺を正面から見て左手を下ると、観音寺城への道があります。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸跡


六角氏の屋敷があった場所です。今はただ、静寂な空間が広がるのみでした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸手前の石垣


昔は立派な門が構えてあったはずです。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑家臣の屋敷跡


六角氏は君臣が一つにまとまっていれば、観音寺城も強固な城となっていたでしょう。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

繖山(きぬがさやま)山頂部から眺める安土山


安土城と観音寺城は、尾根続きとなっています。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑湖東平野


昔の近江国は、日本有数の穀倉地でした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑石垣


写真では掴み難いでしょうが、奥にあるのはかなりの巨岩です。この観音寺城は戦国期の城としては珍しく、かなりの石垣が散見出来ます。今でこそ寂れていますが、往時には立派な屋敷が建ち並んで城主と家臣が住まわり、その他にも多くの人々が城を維持したり、警護するために暮らしていました。

六角氏と観音寺城

2011.11.13 - 戦国史 其の三
観音寺城は、滋賀県近江八幡市にある山城である。近江守護六角氏の本拠地として用いられ、戦国の山城としては全国屈指の規模を誇る。 城は、湖東平野にそそり立つ独立峰、繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれており、最盛期には千以上の郭(くるわ)が張り廻らされた。中世城郭は土塁を基本としているが、観音寺城は異例とも言えるほど石垣が多用されている。また、観音寺城は交通の要衝にあって、付近には美濃国から山城国に至る街道、東山道(後の中山道)や、琵琶湖に直結する港、常楽寺や豊浦を管制下に置く事も出来る。もし、近江以東の戦国大名が上洛を試みても、観音寺城に拠る六角氏がそれを阻めば、城を落とす以外に通過する方法は無い。 


観音寺城の創建年は定かではないが、「太平記」によれば、建武2年(1335年)、南朝方の北畠顕家の南下に備えて、北朝方の六角氏頼が立て篭もったとあるから、南北朝時代には築かれていたようである。ただし、この頃はまだ砦のようなものだっただろう。応仁元年(1467年)、応仁の乱が発生すると六角氏も否応無く戦乱に巻き込まれ、それから幾度となく観音寺城を舞台に攻防戦が繰り広げられた。その過程で観音寺城の改築は進み、一大城郭へと発展していった。観音寺城の見かけは稀有壮大であるが、城の構造は、郭(くるわ)をただ並べただけの単純な作りで、明確な防御施設は見出せない。郭は、国人領主達の屋敷でもあり、居住性が重視されていた。彼ら国人領主は一応、六角氏に従っているが、半独立的な存在で、観音寺城に屋敷を持つと共に、自らの本拠地にも城を構えていた。 


六角氏は、自立性の強い国人達の上に成り立つ連合政権的な性格を持っていたので、その権力構成が城の構造にも現れているのだろう。その為だろうか、六角氏は強敵に攻められる度、城を捨てて甲賀に逼塞(ひっそく)し、機を見て城を奪回するというのを常套手段としている。六角氏は、近江源氏佐々木氏の流れを組んでおり、鎌倉時代より南近江を支配してきた名門であった。南北朝の争乱や、応仁の乱も切り抜けた六角氏は、定頼(1495~1552年)の時代に最盛期を迎える。定頼は、畿内の大勢力、三好長慶と戦って中央の政局に介入したり、北近江の新興勢力、浅井亮政と戦ってその行動を押さえ込むなど、東西奔走の活躍を見せる。定頼は内政手腕にも優れており(楽市楽座の創始者とも)、観音寺城下を繁栄に導いて、南近江に確固たる勢力を築き上げた。 


定頼の子、義賢(1521~1598年)も一角の武将で、天文22年(1553年)には浅井久政と戦って、これを大いに破り、浅井家を従属化に置いた(地頭山合戦)。永禄2年(1559年)、義賢は隠居して承禎と号し、その子、義治(1545~1612年)が跡を継ぐが、実権は尚も承禎が
握っていた。永禄3年(1560年)、浅井家でも家督交代があって、若干16歳の長政がその跡を継いだ。だが、若いながらも長政には覇気があり、六角家からの離反を表明する。その為、承禎・義治父子は大軍を率いて浅井討伐に向かった。この時、浅井軍は4~5千人余、六角軍が8千~1万人余と六角軍の方が遥かに優勢であったが、油断があったのか六角軍は大敗を喫してしまう(野良田の戦い)。この敗北で六角家の威信は大きく失墜するが、逆に浅井氏は勢い付いて、攻勢に転じる。この後、承禎は畿内の三好長慶にも戦いを挑んだが、こちらの戦況も思わしくなく、中央の政局からも追い出された(永禄5年(1562年)教興寺の戦い)。 


永禄6年(1563年)、六角義治は、専横が目立つとして重臣筆頭格であった後藤賢豊父子を殺害する事件を起こす。これは家臣の国人領主の権限を削減し、中央集権を目指す方策だったのかもしれない。しかし、これに対する国人衆の反発は激しく、各々、観音寺城の屋敷を焼き払って、それぞれの城に立て篭もる事態となった(観音寺騒動)。六角氏による統治はままならなくなり、この機に乗じて北近江の浅井長政も南下して来るという危機的な状況に陥った。その為、義治は国人衆に妥協して自らの権力を削減する事を約し、永禄10年(1567年)に六角氏式目を制定して、お互いに起請文を交し合った。しかし、この観音寺騒動で生じた、君臣間の溝は深かった。六角家はこういう状態で、翌永禄11年(1568年)の織田信長の上洛を迎え撃つ事になる。 


信長は上洛に先立って、義弟となった浅井長政の支城、佐和山城に入り、そこから六角承禎・義治父子に対して上洛への協力と人質提供を呼び掛けた。信長は7日間に渡って説得に努め、足利義昭からも、協力するならば京都所司代に任ずるとの言葉まで伝えられた。しかし、六角父子は三好三人衆と通じて、あくまで対抗の構えを崩さなかった。そこで信長は武力制圧を決し、永禄11年(1568年)9月7日、5、6万人と称される大軍を率いて岐阜を発った。これに対して六角父子は、観音寺城を主城に近隣の和田山城、箕作(みつくり)城に兵を込めて迎え撃つ態勢を取る。9月12日午後16時頃、織田軍はまず箕作城に狙いを定め、これに猛攻を加えた。戦いは夜半に及んだが、城方は支えきれず箕作城は落ちた。


この報を聞いて観音寺城の六角方は戦意を喪失し、その夜の内に六角父子は城を捨てて甲賀に逃れ去った。信長としては、巨大城郭がこうも呆気なく落ちた事に、肩透かしを食った思いだったろう。一方、六角氏としては強敵を前にして、ここは過去の前例にならって一旦、甲賀に退き、捲土重来を待つ気であった。実際、そうやって主城を奪回してきている。だが、以前と違うのは信長の勢威が過去のどの勢力よりも強大だった事、これまで六角氏を支えてきた国人達が、こぞって信長に忠誠を誓ってしまった事であった。やはり、観音寺騒動が響いていたのだった。それでも六角父子は諦めず、甲賀で情勢の変化を待ち続ける。 


元亀元年(1570年)、信長は越前遠征に失敗し、朝倉・浅井・三好、本願寺などを敵に回して四面楚歌に陥った。六角父子はここぞとばかりに江南で挙兵し、一向一揆や旧臣の助力も得て勢力回復戦に乗り出した。これに対し、織田方からは柴田勝家・佐久間信盛の部隊が駆け付け、両軍は落窪(おちくぼ)にて一戦に及んだ。しかし、寄せ集めの六角軍は、統制の取れた織田軍の前に大敗を喫し、旧臣の三雲定持ほか伊賀、甲賀の武士780人余が戦死してしまう(落窪の戦い・または野洲川の戦い)。この戦いでは、六角軍に攻められた柴田勝家が長光寺城に篭城し、士気を鼓舞するため水瓶を全て叩き割り、その上で一戦に及んで六角軍を撃ち破って、瓶割り柴田の異名を取ったという伝説が残る。いずれにせよ、この一戦で六角氏の戦力のほとんどが失われた。だが、六角父子に諦める気配は無く、観音寺城の南東にある鯰江城を拠点に、尚も失地回復の機会を窺う。 


同年9月、朝倉・浅井連合軍が近江を南下し、比叡山に立て篭もって信長の主力と対峙する状況になると、六角父子は再度、挙兵に及んだ。しかし、今回の六角軍の兵力は乏しく、ただ騒がすだけしか出来なかった。それでも、四方に敵を抱えていた信長にとっては脅威であり、11月12日には六角父子と和議を結んでいる。同年12月13日には、朝倉・浅井軍とも和議を結ぶ事に成功し、信長は危機を脱する事が出来た。しかし、これは一時の休戦であって、六角父子は尚も江南を窺い続ける。元亀3年(1572年)早々、六角父子は江南の一揆と結んで、琵琶湖岸まで進出した。翌元亀4年(1573年)は戦国の世にとっても、六角氏にとっても激動の年となる。同年4月に武田信玄が死んで信長包囲網が崩れ、7月には足利義昭が追放されて室町幕府は滅亡し、8月には朝倉・浅井家も滅ぼされた。 


同年9月4日、六角義治の籠る鯰江城も柴田勝家に攻撃され、開城を余儀なくされる。義治は、父、承禎が篭る近江石部城に移り、尚も反信長の姿勢を示した。しかし、この頃になると甲賀の者であっても、六角氏から離反する者が絶えなくなり、天正2年(1574年)4月には城を捨てざるを得なくなって、六角氏は完全に没落した。承禎はその後、浪々の身となって慶長3年(1598年)に78歳で死去。義治は武田勝頼を頼って落ちのびたが、天正10年(1582年)、信長による武田攻めで頼みの勝頼も滅亡し、自身も殺されるところを間一髪で逃れた。その後、豊臣秀吉による天下統一が成ると、義治は弓馬指南役として仕えた。承禎・義治父子は弓の達人であったと伝わる。慶長17年(1612年)、義治は大名身分に戻る事無く、68歳で死去。 


その後の観音寺城であるが、六角父子が城を捨てた後も信長によって利用されていたと思われる。天正4年(1576年)、信長が安土城を築いた際に、観音寺城から多くの建材や石材が転用されたが、安土城と観音寺城とは尾根続きで繋がっているので、防御拠点としての機能は持たせてあったと思われる。しかし、天正13年(1585年)、安土城が廃城になった際、支城としての観音寺城の役割りも終わり、ひっそりとその歴史に幕を閉じた。現在、観音寺城は草木に覆われ、訪れる人もほとんどいない。だが、繖山(きぬがさやま)の山上部を巡り歩けば、見事な石垣や広い屋敷跡が、所々に残されている。それは、忘却の彼方に消えた戦国大名六角氏が、確かに南近江の雄であった事を物語っている。
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