中国東北部、黒竜江省虎林市虎頭鎮、ここはロシアと接する辺境の地で、付近には大河アムールに繋がる支流、ウスリー川が滔々と流れている。この地域には雄大な自然が残されており、厳寒期は深い静寂に包まれる。しかし、ここは、第二次大戦末期、砲声轟く激戦地であった。それを物語る戦跡の数々が、ウスリー川西岸にある高地に残されている。そこには巨大なコンクリートの砲座や塹壕の跡が残されており、錆びた銃砲弾も所々に散らばっている。また、高地の麓には地中深く掘られたトンネル網があって、人知れず人骨も埋もれている。かつて、ここには日本が築いた大要塞があった。それも、圧倒的なソ連軍相手に徹底抗戦した日本軍将兵達の玉砕の地である。その名を虎頭要塞と言う。
何故、このような辺境の地に日本軍の大要塞が作られたのか?その経緯から説明しておきたい。虎頭要塞が存在する黒竜江省を始め、遼寧省、吉林省を合わせた地域は、現在、中華人民共和国の支配する所で、その東北部と呼ばれている。だが、かつてこの地は満州と呼ばれており、ツングース系や、モンゴル系の北方騎馬民族の勢力範囲であった。そして、この満州からは、漢民族以外の国家である、高句麗、渤海、遼、金などの大国を生み出している。その中でも最大の勢力が、ツングース系の女真族が立てた清である。清は満州から勃興して、やがて中国大陸をも飲み込んだ。しかし、数百年の歳月を経て清も衰えると、1911年の辛亥革命によって倒された。代わって漢民族による中華民国が打ち立てられ、清の領域を継承すると宣言したが、それは大軍閥の力に頼った非常に不安定な政権だった。中央の支配が行き届かないため各地に軍閥が割拠する事態となり、満州も馬賊出身の張作霖が支配する所となった。
1905年の日露戦争から満州に権益を持つようになっていた日本は、この張作霖と組んで権益の保全を図る。しかし、張作霖は中央政局に介入しようとして失敗し、日本とも距離を置き始めたため、1928年、満州駐留の日本軍、すなわち関東軍によって爆殺された。昭和6年(1931年)、関東軍は満州の確保を確実なものにせんとして、軍事行動に打って出た。張作霖の跡を継いでいた張学良の軍を撃ち破って、満州の主要都市と鉄道沿線を制圧した。これが満州事変である。そして、翌昭和7年(1932年)には、清朝の血を引く愛新覚羅溥儀を立てて、満州国を建国するに至った。だが、米中などは、満州国は日本の傀儡国家であるとして、これを認めようとしなかった。満州国は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による5族協和による国民国家であると謳われていたが、実態は確かに日本の強い影響下にあって、その戦時経済に供するために建国されたものだった。しかし、そうであったとしても、中国やアメリカにそれを非難するほどの大義名分や論拠があったとは思えない。
そもそも漢民族の勢力範囲は、北方騎馬民族の脅威から身を守る為に自らが築いた万里の長城までであって、その以北にある満州は漢民族の支配の及ばぬ地域であった。ここに漢民族が大量に流入するようになるのは、清朝末期の20世紀初頭からである。少数民族が雑居する人口希薄な満州に漢民族は洪水の様に押し寄せて、たちまち圧倒的多数派となった。こうして住み着いた漢民族の居留をもって、自国の領土であると主張し始めたのである。国家の成り立ちまで書けばきりがないのであるが、アメリカ自体、元々アメリカ大陸に住んでいた先住民を虐殺し、追い散らして成り立っているのであって、その後も帝国主義の風潮に乗っ取ってフィリピンやハワイを併合して来ている。そして、更なる利権獲得を狙って中国にも手を伸ばしてきたのであるが、その最大の競争相手となるのが日本であった。ここから日米の対立が始まるのである。
日本は、米中との軋轢が深まったとしても、日露戦争以来、大量の血と国富を費やして手に入れた、満州の利権を手放すつもりなど毛頭無かった。この地を領域に組み込みたいのはやまやまであったが、日本にもそれを正当化するだけの論拠がなかったため、新国家を建設して間接統治するに留めたのだった。このまま何事もなく数十年の時を経れば、戦後のイギリス連邦諸国の様に、満州国も日本の手を離れて自立していったかもしれない。だが、風雲急を告げる国際情勢がそれを許さなかった。日本は来るべき事態に備えて、満州に莫大な投資を始める。そして、鉄道、道路、橋を敷設して社会基盤を整え、巨大ダムを建設して電気を起こし、田舎町を工業都市へと生まれ変わらせていった。高度な技術を要する、戦車や航空機の製造すら可能となった。こうして満州は短期間で飛躍的な発展を遂げ、日本の国防上、経済上からも決して手放せない土地となる。
張作霖などの軍閥は、住民に重税を課して内戦に明け暮れるばかりで、産業への投資などはほとんど行わなかった。そうであったから治安は乱れ、馬賊や匪賊が跋扈する無法地帯となっていた。それが日本の軍事力によって、満州全土に蔓延っていた匪賊や馬賊は討伐されて、治安も大幅に改善される事となった。軍閥支配下にあった時代より、満州が住み良い環境になったのは確かであろう。こういった満州の発展を尻目に、中国本土では、国民党と共産党が果てしない内戦を繰り広げて、国土を荒廃させていた。しかし、満州事変を一つの切っ掛けとして、これらの勢力は抗日を叫んでアメリカやソ連に支援を仰ぐようになる。そして、満州にも国民党や共産党の勢力が侵入して、権益を脅かす事態となった。当初、日本は長城以南は中国固有の領土であるとして自制していたが、中国側の度重なる挑発行動に堪えかねて、ついには長城線を越えて作戦を実施するようになった。結果論となるが、日本は軍部の独走を抑えこんで、進出を満州までで止めておくべきであったし、それ以前から諸外国と協調しつつ利害の調整をしておくべきであったろう。こうして日中は、なし崩し的に全面衝突に向かう事になる。
だが、満州に最大の脅威を与えていたのは交戦相手の中国ではなく、北方の大国ソ連であった。共産主義のソ連と日本は相容れない関係で、1917年にロシアで社会主義革命が起こると、それがアジアにも波及する事を恐れて日本は干渉戦争も行っている(シベリア出兵)。それ以来、ソ連と日本は緊張状態にあって、特に強権的なスターリン時代になると、ソ満国境において紛争が頻発するようになる。そして、昭和13年(1938年)には張鼓峰事件、翌昭和14年にはノモンハン事件といった大規模な軍事衝突も起こった。これ以降もソ連は極東の軍事力を強化し続け、その戦力は満州駐留の日本軍の倍以上となった。このソ連の脅威から、かけがいの無い満州を守るべく、日本は国境の要地に多数の要塞を建設する事を決した。その一つとなるのが、虎頭要塞である。この要塞は、満州東方からのソ連軍侵攻に備えて、ソ満国境沿いを流れるウスリー河西岸の高地上に建設が決まった。
工事は昭和9年(1934年)から始まり、昭和13年(1938年)に完成を見る。それと同時に30センチ榴弾砲2門、24センチ榴弾砲2門、15センチ加農砲6門が備え付けられ、その他にも順次、多数の野砲、高射砲、速射砲が運び込まれていった。その中でも極めつけが、41センチ榴弾砲1門である。この巨砲はコンクリートの覆いで守られ、約1トンの砲弾を20キロ先まで飛ばす事が可能だった。それと、フランスから購入した24センチ列車砲1両も配備されており、その射程は最大50キロにも達していた。これらの要塞砲は対岸のソ連領、イマン市(現在名ダリネレチェンスク)を睨んでおり、極東ロシアの生命線とも言えるシベリア鉄道と、それが走るイマン鉄橋をも射程に収めていた。要塞の主陣地は中猛虎山で、他に虎北山、虎東山、虎西山、虎粛山の5つの地下陣地で構成されていた。これらの要塞陣地は交通壕で連結しており、相互支援が可能である。
要塞の規模は東西10キロ・南北4キロを誇り、重要箇所は厚いコンクリートで固められた。しかも、周囲は沼沢地という天然の要害である。そして、1万2千名の兵員が着陣して、鉄壁の守備を誇った。しかし、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦とその後の戦況悪化に伴って、満州の関東軍の戦力は順次、太平洋戦線に引き抜かれていった。そして、戦争末期の1945年8月を迎えると、満州防衛の切り札で、かつて精鋭を謳われた関東軍も著しく弱体化し、今や張子の虎と化していた。虎頭要塞もその例から漏れず、兵員を大幅に減らされて自己防衛すら困難になっていた。一方、ソ連は1945年5月のドイツ降伏を受けて、大量の兵員、戦車、火砲をヨーロッパ戦線から極東に振り向けつつあった。ソ連は、日本との間で結ばれていた日ソ中立条約を破棄して参戦する決意を固めていた。それを一言で表現すると、「瀕死の病人から財布を奪い取る」ためであった。
満州は広い。その面積は110万平方キロもあって、日本の国土の3倍もある。関東軍もソ連の参戦は近いと肌で感じていたが、弱体化した戦力で広大な満州を守る事は不可能であると判断し、ソ連軍侵攻の際には満州の三分の二を放棄して、朝鮮半島から程近い南部の通化に主力を結集して戦う方針を定めた。この方針自体は間違っていないが、問題なのはその侵攻時期の予測であった。昭和20年夏、国境付近にソ連軍が充満し、いつ何時、砲火が撃たれるか分からない状況だったにも関わらず、関東軍首脳はソ連参戦は9月以降と考えて、国境付近の居留民に対してなんの避難勧告も出さなかった。また、国境を守る守備隊にも、ソ連軍を刺激しないよう指示するのみだった。この緊迫した時期、虎頭要塞でも、守備隊長の西脇大佐が作戦会議に呼ばれて不在となった。関東軍が、ソ連軍の侵攻時期を見誤っていた何よりの証左である。
1945年8月9日午前1時。この夜は、満州各地で雷雨が降り注いでいた。だが、突如、雷鳴をも打ち消すほどの轟音が響き渡った。それはソ連軍による一斉砲撃であった。侵攻ソ連軍の規模は、兵員157万人、火砲26,000門、戦車、自走砲、装甲車合わせて5,500両、戦闘機、爆撃機合わせて3,400機、それに海軍艦艇とその作戦機1,200機も加わる一大戦力であった。これに対して関東軍は、兵員70万人(その内10万人は丸腰)、火砲5,360門、戦車200両、航空機350機でしかなかった。圧倒的なソ連軍の攻勢を前にして、満州の150万人余の日本人居留民の命が危機に瀕した。この様な状況にも関わらず、全満州の責任を負うべき関東軍の高官の中には、家族を連れて逸早く本土に逃げ帰る者も現れる始末であった。だが、その一方、居留民の後退を助けるため、ソ連軍に敢然と立ち向う日本軍部隊もいた。満州東部の要衝、虎頭要塞もその一つである。
虎頭要塞はソ連軍の不意討ちを受けた上、要塞守備隊長の西脇大佐も作戦会議で不在であったため、当初は混乱も生じたが、砲兵隊の指揮官であった、大木正大尉が臨時の守備隊長となって現場を統制する。この時の要塞兵力は僅か1,500人で、しかも、その内600人は緊急動員の新兵であった。要塞には、近隣から避難してきた居留民500人余も入る。しかし、要塞正面のソ連軍の規模は兵員6万人、火砲950門、戦車・自走砲166両という10倍以上の戦力であった。ソ連軍の浸透により虎頭要塞は早々に味方戦線から切り離されたが、将兵達はあくまで戦い抜く決意を固めていた。ソ連軍の重砲の砲撃は、午前1時5分から午前5時まで続き、それに合わせてウスリー河を渡河したソ連軍が侵入を開始する。最前線で監視にあたっていた小部隊は、ソ連軍に包囲されて次々に全滅した。

↑満州沿線図(ウィキペディアより)
地図の右下辺りにある虎頭に要塞があった。
地図の左下辺りにある山海関から満州国との国境に沿って、万里の長城がある。この万里の長城以南が長らく、漢民族の領域だった。
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慶長20年(1615年)5月7日、この日、大阪を舞台に戦国最後の激闘が行われていた。かつての天下人豊臣家と、現世の天下人徳川家との決戦である。双方合わせて十数万の軍勢が鬨(とき)の声を上げ、血刀を振るってぶつかり合う様は壮絶そのものだった。旗指入り乱れた乱戦にあって、一目でそれと分かる存在があった。それは将兵全て赤一色の軍装で染め上げた部隊で、まるで戦場に咲いた赤き躑躅(つつじ)の如くであった。人数は3千人余と見受けられ、見た目の鮮やかさもさる事ながら、戦場での働きはそれを上回る鮮やかさがあった。
雲霞の様な大軍相手に一歩も退かず、逆に突撃して真一文字に切り裂いてゆく。先頭に立つ武将は紅で染め上げた緋縅(ひおどし)の鎧を身にまとい、遠目にもそれと分かる鹿の角の前立兜を揺らし、片手には十文字槍を引っさげて猛烈な突進を繰り返すのだった。その鬼神のような働きと、己の最後を飾り立てるかのような華やかな軍装は、大舞台でも一際目立っていた。それこそ、大阪の陣で最も名を上げた男、真田信繁(幸村)その人であった。
真田信繁は、永禄10年(1567年)生まれで、この大阪夏の陣の時には49歳となっていた。しかし、それ以前の信繁は、ほとんど名も知られていない武将であった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、父、昌幸と共に2千人余の兵を指揮して上田城に篭城し、徳川3万8千の大軍相手に大いに戦って武名を上げたが、それでも父の影に隠れた地味な存在だった。しかも、肝心の関ヶ原本戦で西軍が敗れた事から、真田父子は所領没収の上、紀州九度山に蟄居を命じられる。このまま何事も無ければ、信繁は無名のまま歴史から消え去る運命であった。
九度山での不自由な暮らしは、大名生活が染み込んだ真田父子にとって大変、堪えたようである。大敵、徳川相手に一歩も引かずに気を吐いた昌幸ですら心が弱まり、家康の赦免をひたすら求めるようになっていた。そして、上田領を受け継いだ長男の信之宛てに手紙を送り、死ぬまでにもう一度会いたいと述べたり、配所での窮状を訴えかけるのだった。しかし、それらの願いが適わぬまま、慶長16年(1611年)、衰え病んだ昌幸は65歳でこの世を去った。華々しい壮年時代と比べて、なんとももの悲しい晩年であった。
信繁は父の死に際して出家し、好白と称したとされる。信繁も同じく赦免を願っていたが、なんの音沙汰も無く、空しく歳月だけが過ぎていった。信繁は借金を重ねていた上、火事を受けて屋敷が焼けてしまう。その再普請の費用と、これまでに積み重ねた借金は相当な額に上っていた模様である。そんな信繁に金銭援助して、生活を助けていたのが兄の信之だった。これまで、九度山での真田父子の生活は、信之の援助によって成り立っていた。それも徳川家に楯突いた角で、死罪になるところを信之の必死の助命嘆願によって一命を助けられている。
しかし、今でもお尋ね者である事に変わりなく、それを身内にもつ信之の気苦労は大変なものだった。しかも、九度山からは、幾度と無く金を無心される。それらに対して信之は不満一つこぼさず、出来る限りの援助を行った。昌幸、信繁の名に隠れてしまっているが、信之もまた一角の人物であった事は間違いない。信之は弟を評して、「物腰は柔和で辛抱強く、言葉少なく怒り立つことはない」と言ったそうである。しかし、この評は、信之自身にも当てはまる事だろう。
昌幸の死と、それに付き従っていた家臣達が上田に帰ると、信繁の身辺は一段と寂寥感が強まった。この頃の信繁の書状を幾つか載せてみる。
●真田家の重臣、木村綱成から歳暮の鮭(しゃけ)が届けられ、それに対する信繁の礼状。
「当冬は何事も不自由で、一段と寂しい状態です。こちらの情けない様子を御察しください」
追伸 「貴方は連歌に熱心だそうですね。私にも退屈しのぎにやってみてはいかがです、と勧める方もおりますが、老いの学問で上手くいきません。御察しください」
●信繁の姉の婿である小山田茂誠から鮭が届けられ、それに対する信繁の礼状。
「私の方も無事に過ごしております。こちらのうらぶれた様子は使者の市石が話すでしょうから、詳しくは申し上げません。もはや、お目にかかる事もありますまい」
追伸 「とにかく、年老いた事が残念でなりません。去年から急に老け込んで病身になってしまいました。歯なども抜け落ちてしまい、髭なども黒いのはほとんど残っておりません。」
信繁は34歳からの十数年、男として最も働き盛りの時期を無為に過ごし、ただ空しく老いさらばえていく我が身を悲しんでいた。慶長19年(1614年)秋、そんな信繁の下へ、大阪の豊臣秀頼からの使者が訪れた。この頃、豊臣家と徳川家の関係は悪化の一途を辿り、にわかに戦雲が垂れ込みつつあった。しかし、豊臣方では経験のある指揮官が不足していたので、名の通った浪人に片っ端から声をかけていた。その過程で、かつて上田城の攻防で武名を上げた信繁にも、誘いをかけてきたのであった。この時、豊臣方は引き出物として黄金200枚、銀30貫を贈り、勝利の暁には大名への取立ても約束したと云う。信繁には、これを断る理由など無かった。
豊臣方が不利なのは承知の上であるが、落ちぶれた自分を拾い上げようとしてくれる秀頼への恩義、九度山で苦汁の生活を強いられた事に対する徳川家への恨み、そして何より、再び歴史の表舞台に登場して、華々しい活躍をしたいと云う思いが信繁を突き動かしたのだろう。この時、信繁は48歳、絶望を湛えていた目は輝きを取り戻し、老いた体に青年時代の精気が蘇った事だろう。こうして信繁は九度山から脱出し、勇躍、大阪城に入城する。
だが、そんな信繁の高揚とは裏腹に、城内での自らの立場は微妙なものがあった。秀頼からは目をかけられたものの、兄、信之や叔父の信尹(のぶただ)が徳川方であった事から、周囲の人間からは疑いの目で見られていた様だ。信繁は否が応にも武勲を上げて、周囲の不信を拭い去る必要があった。そんな信繁と、うまが合ったのは同じ浪人の後藤又兵衛基次であったと云う。その基次の近習を務めた長沢九郎兵衛の覚書によれば、信繁には、「額に二、三寸の傷があり、小柄な人」であったと語っている。
そして、迎えた大阪冬の陣。慶長19年(1614年)11月、信繁は5千人余の兵を任されて大阪城南方にある出丸、通称真田丸に立て篭もった。徳川方の主攻は南方からであり、その危険な最前線を自ら買って出たのである。同年12月、信繁は、強攻を仕掛けてきた前田利常らの軍勢を真田丸に引き付けると、頃合を見計らって散々に銃撃し、大損害を与えて撃退した。この真田丸の戦いが冬の陣最大の激突であり、これに勝利した信繁は大いに武名を上げたのだった。この戦いの前後、徳川方から、我が方に付けば10万石の領土を与えるとの誘いが来たが、信繁は一顧だにしなかったと云う。
豊臣方は局地的な戦闘では度々勝利を得たが、全体的な戦況を見渡せば、完全に包囲されている豊臣方の不利は否めない。そこで徳川方と交渉して、本丸以外の堀と櫓を打ち壊す事を条件に和議へと持ち込んだ。こうして一時の平穏が訪れるが、これが危うい和平である事は誰の目にも明らかであった。信繁はそういった状況を見越してか、己の最後を見定めた達観した書状を旧知に送るようになる。
●翌慶長20年(1615年)2月10日、信繁の娘すえの婿、石合道定に宛てた書状。
「私ども篭城するからには、すでに覚悟は決まっております。この世でお会いすることも、もはやありますまい。何があってもすえだけは、心に障る事があったとしても、御見捨てにはならぬようお頼み申し上げます」
信繁は、すえが敵将の娘として離縁される事を危惧したのだろう。娘を案じる父の素顔が窺える。
●同年3月19日、小山田茂誠、之知父子に宛てた書状。
「私に対する殿様(秀頼)の寵愛は大変なものですが、いろいろと気遣いも多いです。とにかく1日1日と暮らしております。お会いすれば詳しい事も説明できましょうが、書状では思い通りになりません。こちらの様子は御使者が申し上げるでしょう。当年中が平穏に過ぎれば、なんとかお会いして、お話したいものです。懐かしく話したい事が山のようにあります。さだめなき浮世ですから1日先の事はわかりません。私のことなど、浮世にあるものとは思わないでください。」
信繁は今年一杯平穏ならば、姉婿と会って話をしたいと願っていたが、定めなき世につき明日の事はわからないとの言葉通り、一時の平穏は破れ、豊臣家と徳川家は最後の戦いを迎える事となる。そして、これが信繁の絶筆となった。
こうして迎えた大阪夏の陣。慶長20年(1615年)5月6日、豊臣方は、奈良方面からやってくる徳川先鋒隊を打たんとして、真田信繁、後藤基次、毛利勝永らの部隊を出陣させた。後藤隊は先行して道明寺に着いたが、信繁を始めとする後続の部隊は悉く遅参して姿を見せない。それでも後藤隊は踏み留まって、10倍する徳川方相手に8時間激闘した挙句、基次は討死した。この頃になって豊臣方諸隊はようやく道明寺に到着したが、時既に遅しであった。徳川方は基次を討った余勢を駆って束になって攻めかかり、後手に回った豊臣方は押されに押された。この豊臣軍総崩れの危機を救ったのが、殿軍を買って出た信繁であった。猛追してきた伊達政宗軍に対し、兵を伏せ、充分に引き付けた上で逆撃を加えて、撃退せしめたのだった。したたかにやられた伊達軍は、最早、後を追おうとしなかった。この時、信繁は並み居る徳川方に向かって、「関東勢は百万も揃っておきながら、男は1人もいないのか」と言い捨て、悠々撤退したとされている「北川覚書」。
しかし、後世になって編纂された、「幸村君伝記」によれば、信繁が殿軍を申し出た時、他の大阪方諸将は、「さもすれば信繁は己の武勇を自慢して、自分達をないがしろにしている。それならば事前の協議など止めて、各々が思う存分に戦おうではないか」と皆怒ったと云う。この話の真偽の程は定かではないが、信繁が積極的に自己喧伝に努めていたとは十分に考えられる。自らの部隊を赤備えとしたのも、戦場で目立つ意味合いも含まれていたのだろう。いずれにせよ、落ちぶれた九度山時代と比べて、別人の様な意気軒昂振りであった。そして、この意気盛んな武将振りこそ、信繁本来の姿であったのだろう 。
明くる5月7日、豊臣方は大坂城南方に残存戦力を結集し、最後の決戦に望む。劣勢ながら決死の豊臣方は奮戦し、前半戦は優勢に運んだ。その中でも信繁と毛利勝永の活躍は目覚しく、突撃に次ぐ突撃を重ねて、家康の本陣にまで斬り込んだ。そして、信繁率いる赤備えは家康本陣を突き崩し、その首を目の前としたものの、後一突きの力が足りずに力尽きたのだった。信繁と赤備えの3千人全てが、戦場の露と消えた。だが、信繁に無念の思いは無かったろう。己の全身全霊を出し尽くし、天下にその名を知らしめたという、晴れやかな満足感を抱きつつ、最後を迎えた事だろう。翌5月8日、大坂城は落城し、豊臣秀頼も自刃して果てた。この時、信繁の嫡男、大助幸昌も秀頼に殉じている。大助は、豊臣家臣の速水守久から脱出を進められたが、これを断り、秀頼が切腹するに当たって、「将たる者の腹切りでは佩楯(はいだて)は取らぬ、我は真田左衛門佐の倅なり」と叫んで、膝鎧を付けたまま割腹して果てたと云う。享年は13から16の間であった。夏の陣では兜首を一つ上げたとされており、父に恥じない武士の子であった。
当時の人々の声を取り上げてみる。
●本多家記録
「幸村十文字の槍をもって、大御所(家康)を目掛け戦わんと心懸けた。大御所とても叶わずと思って植松の方へと引き下がった」
●公家の山科言緒
「天王寺にてたびたび真田は勇敢に戦い、その後、討死した」
●細川家記
「左衛門佐(信繁)、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。首は越前大名、松平忠直殿の鉄砲頭が取った。しかし、傷付き、疲れ果てていたところを討ち取ったので手柄とは言えないだろう。」
●山下秘録
「家康卿の御旗本目指して一文字に突入し、家康卿の御馬印が倒された。異国はおろか日本にも聞き覚えがないほどの勇士である。神出鬼没の武士である。真田勢はその全てが討死した。合戦が終わった後、真田の名を知らぬ者は天下にいないほどである。」
●薩摩島津家の戦闘報告書
「5月7日、御所様の本陣へ真田左衛門が突撃し、旗本勢を追い散らし討ち取っていった。三度目には真田も討死した。旗本勢で三里ほど逃げた者は皆生き残った。徳川方半分敗北。世間ではもっぱらこれのみが話されている。真田日本一の兵、昔話にも聞いたことがないほどである」
これらの称賛の声こそ、信繁に対する最大の餞(はなむけ)であった。
真田信繁、享年49。野に埋もれ、萎れつつあった花が、最後の最後に大輪を咲かせたのだった。