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六角氏と観音寺城

2011.11.13 - 戦国史 其の三
観音寺城は、滋賀県近江八幡市にある山城である。近江守護六角氏の本拠地として用いられ、戦国の山城としては全国屈指の規模を誇る。 城は、湖東平野にそそり立つ独立峰、繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれており、最盛期には千以上の郭(くるわ)が張り廻らされた。中世城郭は土塁を基本としているが、観音寺城は異例とも言えるほど石垣が多用されている。また、観音寺城は交通の要衝にあって、付近には美濃国から山城国に至る街道、東山道(後の中山道)や、琵琶湖に直結する港、常楽寺や豊浦を管制下に置く事も出来る。もし、近江以東の戦国大名が上洛を試みても、観音寺城に拠る六角氏がそれを阻めば、城を落とす以外に通過する方法は無い。 


観音寺城の創建年は定かではないが、「太平記」によれば、建武2年(1335年)、南朝方の北畠顕家の南下に備えて、北朝方の六角氏頼が立て篭もったとあるから、南北朝時代には築かれていたようである。ただし、この頃はまだ砦のようなものだっただろう。応仁元年(1467年)、応仁の乱が発生すると六角氏も否応無く戦乱に巻き込まれ、それから幾度となく観音寺城を舞台に攻防戦が繰り広げられた。その過程で観音寺城の改築は進み、一大城郭へと発展していった。観音寺城の見かけは稀有壮大であるが、城の構造は、郭(くるわ)をただ並べただけの単純な作りで、明確な防御施設は見出せない。郭は、国人領主達の屋敷でもあり、居住性が重視されていた。彼ら国人領主は一応、六角氏に従っているが、半独立的な存在で、観音寺城に屋敷を持つと共に、自らの本拠地にも城を構えていた。 


六角氏は、自立性の強い国人達の上に成り立つ連合政権的な性格を持っていたので、その権力構成が城の構造にも現れているのだろう。その為だろうか、六角氏は強敵に攻められる度、城を捨てて甲賀に逼塞(ひっそく)し、機を見て城を奪回するというのを常套手段としている。六角氏は、近江源氏佐々木氏の流れを組んでおり、鎌倉時代より南近江を支配してきた名門であった。南北朝の争乱や、応仁の乱も切り抜けた六角氏は、定頼(1495~1552年)の時代に最盛期を迎える。定頼は、畿内の大勢力、三好長慶と戦って中央の政局に介入したり、北近江の新興勢力、浅井亮政と戦ってその行動を押さえ込むなど、東西奔走の活躍を見せる。定頼は内政手腕にも優れており(楽市楽座の創始者とも)、観音寺城下を繁栄に導いて、南近江に確固たる勢力を築き上げた。 


定頼の子、義賢(1521~1598年)も一角の武将で、天文22年(1553年)には浅井久政と戦って、これを大いに破り、浅井家を従属化に置いた(地頭山合戦)。永禄2年(1559年)、義賢は隠居して承禎と号し、その子、義治(1545~1612年)が跡を継ぐが、実権は尚も承禎が
握っていた。永禄3年(1560年)、浅井家でも家督交代があって、若干16歳の長政がその跡を継いだ。だが、若いながらも長政には覇気があり、六角家からの離反を表明する。その為、承禎・義治父子は大軍を率いて浅井討伐に向かった。この時、浅井軍は4~5千人余、六角軍が8千~1万人余と六角軍の方が遥かに優勢であったが、油断があったのか六角軍は大敗を喫してしまう(野良田の戦い)。この敗北で六角家の威信は大きく失墜するが、逆に浅井氏は勢い付いて、攻勢に転じる。この後、承禎は畿内の三好長慶にも戦いを挑んだが、こちらの戦況も思わしくなく、中央の政局からも追い出された(永禄5年(1562年)教興寺の戦い)。 


永禄6年(1563年)、六角義治は、専横が目立つとして重臣筆頭格であった後藤賢豊父子を殺害する事件を起こす。これは家臣の国人領主の権限を削減し、中央集権を目指す方策だったのかもしれない。しかし、これに対する国人衆の反発は激しく、各々、観音寺城の屋敷を焼き払って、それぞれの城に立て篭もる事態となった(観音寺騒動)。六角氏による統治はままならなくなり、この機に乗じて北近江の浅井長政も南下して来るという危機的な状況に陥った。その為、義治は国人衆に妥協して自らの権力を削減する事を約し、永禄10年(1567年)に六角氏式目を制定して、お互いに起請文を交し合った。しかし、この観音寺騒動で生じた、君臣間の溝は深かった。六角家はこういう状態で、翌永禄11年(1568年)の織田信長の上洛を迎え撃つ事になる。 


信長は上洛に先立って、義弟となった浅井長政の支城、佐和山城に入り、そこから六角承禎・義治父子に対して上洛への協力と人質提供を呼び掛けた。信長は7日間に渡って説得に努め、足利義昭からも、協力するならば京都所司代に任ずるとの言葉まで伝えられた。しかし、六角父子は三好三人衆と通じて、あくまで対抗の構えを崩さなかった。そこで信長は武力制圧を決し、永禄11年(1568年)9月7日、5、6万人と称される大軍を率いて岐阜を発った。これに対して六角父子は、観音寺城を主城に近隣の和田山城、箕作(みつくり)城に兵を込めて迎え撃つ態勢を取る。9月12日午後16時頃、織田軍はまず箕作城に狙いを定め、これに猛攻を加えた。戦いは夜半に及んだが、城方は支えきれず箕作城は落ちた。


この報を聞いて観音寺城の六角方は戦意を喪失し、その夜の内に六角父子は城を捨てて甲賀に逃れ去った。信長としては、巨大城郭がこうも呆気なく落ちた事に、肩透かしを食った思いだったろう。一方、六角氏としては強敵を前にして、ここは過去の前例にならって一旦、甲賀に退き、捲土重来を待つ気であった。実際、そうやって主城を奪回してきている。だが、以前と違うのは信長の勢威が過去のどの勢力よりも強大だった事、これまで六角氏を支えてきた国人達が、こぞって信長に忠誠を誓ってしまった事であった。やはり、観音寺騒動が響いていたのだった。それでも六角父子は諦めず、甲賀で情勢の変化を待ち続ける。 


元亀元年(1570年)、信長は越前遠征に失敗し、朝倉・浅井・三好、本願寺などを敵に回して四面楚歌に陥った。六角父子はここぞとばかりに江南で挙兵し、一向一揆や旧臣の助力も得て勢力回復戦に乗り出した。これに対し、織田方からは柴田勝家・佐久間信盛の部隊が駆け付け、両軍は落窪(おちくぼ)にて一戦に及んだ。しかし、寄せ集めの六角軍は、統制の取れた織田軍の前に大敗を喫し、旧臣の三雲定持ほか伊賀、甲賀の武士780人余が戦死してしまう(落窪の戦い・または野洲川の戦い)。この戦いでは、六角軍に攻められた柴田勝家が長光寺城に篭城し、士気を鼓舞するため水瓶を全て叩き割り、その上で一戦に及んで六角軍を撃ち破って、瓶割り柴田の異名を取ったという伝説が残る。いずれにせよ、この一戦で六角氏の戦力のほとんどが失われた。だが、六角父子に諦める気配は無く、観音寺城の南東にある鯰江城を拠点に、尚も失地回復の機会を窺う。 


同年9月、朝倉・浅井連合軍が近江を南下し、比叡山に立て篭もって信長の主力と対峙する状況になると、六角父子は再度、挙兵に及んだ。しかし、今回の六角軍の兵力は乏しく、ただ騒がすだけしか出来なかった。それでも、四方に敵を抱えていた信長にとっては脅威であり、11月12日には六角父子と和議を結んでいる。同年12月13日には、朝倉・浅井軍とも和議を結ぶ事に成功し、信長は危機を脱する事が出来た。しかし、これは一時の休戦であって、六角父子は尚も江南を窺い続ける。元亀3年(1572年)早々、六角父子は江南の一揆と結んで、琵琶湖岸まで進出した。翌元亀4年(1573年)は戦国の世にとっても、六角氏にとっても激動の年となる。同年4月に武田信玄が死んで信長包囲網が崩れ、7月には足利義昭が追放されて室町幕府は滅亡し、8月には朝倉・浅井家も滅ぼされた。 


同年9月4日、六角義治の籠る鯰江城も柴田勝家に攻撃され、開城を余儀なくされる。義治は、父、承禎が篭る近江石部城に移り、尚も反信長の姿勢を示した。しかし、この頃になると甲賀の者であっても、六角氏から離反する者が絶えなくなり、天正2年(1574年)4月には城を捨てざるを得なくなって、六角氏は完全に没落した。承禎はその後、浪々の身となって慶長3年(1598年)に78歳で死去。義治は武田勝頼を頼って落ちのびたが、天正10年(1582年)、信長による武田攻めで頼みの勝頼も滅亡し、自身も殺されるところを間一髪で逃れた。その後、豊臣秀吉による天下統一が成ると、義治は弓馬指南役として仕えた。承禎・義治父子は弓の達人であったと伝わる。慶長17年(1612年)、義治は大名身分に戻る事無く、68歳で死去。 


その後の観音寺城であるが、六角父子が城を捨てた後も信長によって利用されていたと思われる。天正4年(1576年)、信長が安土城を築いた際に、観音寺城から多くの建材や石材が転用されたが、安土城と観音寺城とは尾根続きで繋がっているので、防御拠点としての機能は持たせてあったと思われる。しかし、天正13年(1585年)、安土城が廃城になった際、支城としての観音寺城の役割りも終わり、ひっそりとその歴史に幕を閉じた。現在、観音寺城は草木に覆われ、訪れる人もほとんどいない。だが、繖山(きぬがさやま)の山上部を巡り歩けば、見事な石垣や広い屋敷跡が、所々に残されている。それは、忘却の彼方に消えた戦国大名六角氏が、確かに南近江の雄であった事を物語っている。
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