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丹波金山城

丹波金山城(きんざんじょう)は、兵庫県篠山市にある山城である。この城は標高540メートルの金山山頂にあって、明智光秀の丹波侵攻時に築かれた。


天正3年(1575年)10月、織田信長の命を受け、明智光秀は丹波攻略に着手する。光秀は若狭、丹後を経由して丹波の北から攻め入ると、丹波第一の勢力を誇る赤井(荻野)直正の居城、黒井城を囲んだ。しかし、翌天正4年(1576年)1月、光秀に従っていた丹波の有力国人、波多野秀治が突如として反旗を翻すと、黒井城包囲中の明智軍の背後を襲わんとした。これを受けて、明智軍は総崩れとなり、第一次侵攻は無残な失敗に終わった。だが、天正5年(1577年)3月、丹波の赤鬼とも謳われた傑物、赤井直正が病死すると、これを好機と見てか、同年5月、光秀は丹波に再侵攻を開始する。光秀は前回の失敗に懲りて、今回はじわじわと地歩を進めていく堅実な作戦を取った。そして、翌天正6年(1578年)9月頃、丹波の二大勢力である八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏との連携を断つべく、その中間地点に位置する金山に築城を開始した。その上で、同年10月頃から八上城の包囲を開始する。


公家で吉田社の神官である吉田兼見は、金山城築城中の光秀を訪ねている。兼見が書いた日記「兼見卿記」によれば、天正6年10月、光秀は丹波氷上郡柏原で新城を普請中であるとの記事があるので、それが金山城の事だろう。この時、兼見は、光秀を陣中見舞いして小袖を送り、夕食を共にしている。翌朝、兼見は忙しい光秀の身を気遣ってか、暇乞いを告げぬまま京に戻ろうとすると、光秀は使者を送って引き留めてきた。そして、光秀はわざわざ城から下りてきて兼見と会い、しばし親しく語り合ってから、2人は別れた。光秀と兼見の親密振りが窺える話である。丹波攻略に難渋していた光秀にとって、親しい友との語らいは心安らぐ一時であったのだろう。一方、八上城の波多野勢と、それを包囲する明智軍の間では絶え間なく、小競り合いが続いていた。天正7年(1579年)1月には、八上城の北1キロにある明智軍の陣所に波多野勢が攻め寄せてきて、激しい合戦となった。この時、明智軍の前線指揮官、小畠越前守が討死するが、何とか波多野勢を撃退する事に成功している。


これを受けて封鎖は一層強化され、以降、八上城では餓死者が続出する事態となる。まだ包囲を受けていない赤井氏の黒井城では、八上城を救わんとしてあらゆる方策を練ったはずであるが、その支援は金山城によって遮られたのだろう。同年6月、八上城の篭城は限界に達し、城兵の忠誠や結束も揺らぎ始めていた。光秀は城兵の不満に付け込んで調略を仕掛けると、案の定、八上城では内紛が生じて、ついに波多野秀治を捕縛する事に成功する。そして、安土に送られた波多野秀治は、6月4日に磔に処された。赤井直正亡き後、波多野秀治が丹波の反織田勢力の精神的支柱となっていたが、その滅亡を受けて動揺が広がる。光秀は間髪置かずに兵を進め、同年8月には赤井氏の黒井城も落とした。これにて難航を極めた丹波の平定は完了し、光秀は天下に面目を施す事となった。これで金山城も役割を終える形となったが、光秀は城代を置いてしばらくは管理していたようだ。しかし、天正10年(1582年)6月13日、光秀が滅亡すると、金山城はまったく不要の存在となり、朽ち果てるに任された。現在でも、
本丸跡には苔むした石垣が残されており、それだけが当時の張り詰めた緊張を伝えている。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑大乗寺


金山城の南麓にある、小さな寺です。この寺からやや下った所に、金山城への登り口があります。この他に東麓にある、追入神社の横から登るルートもあります。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑園林寺跡


かつて、ここには園林寺と言う寺があって、石垣はその名残です。寺院跡には朽ち果てた材木が散乱していて、不気味な無常観を漂わせていました。それと、この寺院跡の前は広々とした削平地となっていたので、金山城健在時には、ここに曲輪が設けられていたのでしょう。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑馬場跡


長大な空間が広がっていますが、山上にあって実際に馬場として用いられたかどうかは疑問です。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


光秀はここで築城の指揮を執って、滞在した事もあったはずです。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸南側にある石垣



この石垣は、築城当時のものでしょう。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸北から、黒井城を望む


残念ながら霞がかっていて、どれが黒井城かは判別出来ませんでした。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

本丸南東から八上城を望む。


奥に広がっているのは、篠山市街です。しかし、こちらも霞がかっていて、どれが八上城なのかは判別出来ませんでした。それでも、両城の中間地点に楔を打ち込み、赤井氏と波多野氏の連携を断つという戦略意図は実際にその場に立って理解できました。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑鬼の架け橋


金山城の北東には、鬼の架け橋と呼ばれる景勝地があって、江戸時代の浮世絵師、安藤広重の「六十余州名所図会・鐘坂」にも描かれています。明智光秀が友の吉田兼見を金山城に迎えた際にも、この鬼の架け橋を案内して、談笑しつつ、岩場から覗いたりしたのではないでしょうか。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑鬼の架け橋上からの眺め



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑麓から眺める金山城


山深い地にあって、統治には向いていない城です。丹波が戦乱状態にあってこそ、価値のある城だったのでしょう。





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里見家の興亡 後

2012.06.09 - 戦国史 其の三
永禄11年(1568年)末、関東情勢は激変して、里見家にとって非常に好都合な展開となる。武田信玄の駿河侵攻を契機に三国同盟が解消され、北条家と武田家が交戦状態になったのである。これによって北条家の主力は駿河方面に釘付けとなり、房総半島には手出し不能となった。義堯はこれを絶好の機会と捉えて、攻勢を強める。それとは反対に北条氏康は、上杉家や里見家に背後を脅かされて窮地に陥り、両家との和睦を心から望んだ。そして、永禄12年(1569年)1月、義堯の元に、氏康からの懇願に近い和平提案書が送られてきたが、義堯は頑としてこれを受け付けなかった。そして、同年2月には義弘率いる里見軍が下総に侵攻して、北条方の諸城を攻め始め、更に水軍をもって三浦半島も襲撃させた模様である。 
 
 
しかし、同年3月、反北条の盟主と見なされていた上杉謙信は、里見家を始めとする関東諸将からの猛反対を受けながらも、北条家と盟約を結んでしまう。これに憤慨した里見父子は、同年8月頃、甲斐の武田信玄と盟約を結んで、北条打倒を約し合った。だが、関東の情勢は目まぐるしく変転する。元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康が死去し、氏政が当主となると上杉家との同盟は破棄され、翌元亀3年(1572年)1月に武田家と同盟を結び直したのだった。そして、同年2月、氏政は、信玄を通して里見家に和平を提案してきたが、義堯はあくまでこれを受け付けなかった。 
 
 
この元亀3年には、下総の半分は里見家の勢力範囲になっていたようだ。太閤検地によれば下総は37万石であり、この内の18万石が里見領国と言う事になる。それに上総38万石に安房4万5千石を加えると、里見家の版図は60万石にもなる。10万石に付き2500人の動員力が得られたと計算すると、里見家は1万5千人の動員力を有する、戦国有数の大大名に成長していた事になる。対する北条家は武蔵67万石、相模19万石、伊豆7万石の93万石に加えて、関東各地を切り取っていたので優に120万石はあって、3万人の動員力はあっただろう。まだまだ両家の力の差は大きかったが、里見家は今までこの大敵と戦って版図を拡大してきたのである。義堯の北条打倒の信念は、決して揺るがなかった。
 

天正元年(1573年)4月、武田信玄が死去すると、里見家と武田家の同盟は自然消滅となり、それから程なくして上杉謙信と里見家の同盟が復活した模様である。これで謙信と義堯は友誼を取り戻し、再び協力して北条家に当たる事となった。その北条家は天正年間から、下総の簗田晴助が守る関宿城攻略に全力を注ぎ始める。この関宿城は関東地方の中心に近く、しかも利根川水系の水運を一手に押さえる事も可能な戦略拠点だった。この城の存在が、北条家の膨張を抑える防波堤の様な役割を果たしていた。それが分かっている上杉謙信と反北条の関東諸将は、関宿城救援に力を注ぐのだが、北条氏政もまた一族の総力を上げて、攻略に執念を燃やすのだった。天正2年(1574年)6月、関宿城を巡る攻防が続く中、里見義堯は68歳でこの世を去った。国中の人々がその死を悲しみ、宿敵の北条方ですら、その人となりを讃えたと云う。


同年11月、関宿城は落城し、北条家を抑え込む堤防は決壊した。その怒涛は房総半島にも流れ込み、天正3年(1575年)8月、北条軍は陸上、海上の二方面から下総に攻め入って、力押しで里見軍を圧倒し始めた。義堯の跡を継いだ義弘も必死に防戦したものの、やはり、一対一の総力戦となれば戦力に劣る里見側が不利であった。天正4年(1576年)冬には、戦場は上総に移り、じわじわと里見家は追い詰められていった。この退勢を挽回するには、強力な外部勢力の助けが必要であった。そこで義弘は、天正5年(1577年)1月2月の2度に渡って上杉謙信に救援を求める書状を送った。しかし、この頃の謙信は北陸攻略に全力を投入していたので、関東を顧みる余裕は無かった。 
 
 
同年11月、孤立無援の義弘は、義堯以来の北条打倒の方針を改めざるを得なくなり、ついに氏政に和議を請うた。義弘は意地よりも、自家存続を優先したのだった。そして、氏政の娘が、義弘の弟、義頼に嫁ぐ形で講和は成立し、両家の数十年に渡る抗争はここに終結した。天正6年(1578年)3月13日、関東に大きな影響を及ぼしてきた上杉謙信が死去した事で、北条家の優勢がほぼ確立される。それから2ヵ月後の同年5月20日には、里見義弘も54歳でこの世を去った。義弘の代になって北条家に屈する形となったが、それでもこの義弘の存在無くして、里見家は存続し得なかっただろう。義弘は自分の死後には、上総は実子の梅王丸に、安房は養子としていた弟の義頼に相続させる予定であったと云う。だが、義弘死後の里見家は、梅王丸を支持する勢力と義頼を支持する勢力とに二分され、内乱状態に陥った。 
 
 
天正7年(1579年)、年長で経験もあった義頼は、戦いを優勢に進めて上総の諸城を落としていき、天正8年(1580年)4月には梅王丸を捕らえて出家させ、領国の再統一を果たした。同年7月5日、義頼は更なる支配強化を図り、不穏な動きを見せたとして、重臣の正木憲時討伐に取り掛かった。正木憲時は里見家の重臣であるが、安房東部から上総東部にかけての地域を支配する、半独立的な有力国人でもあった。義頼はこれを切り崩して、直接支配しようと試みたのである。だが、憲時を始めとする正木一族は、上総大多喜城を中心に一宮、勝浦城、吉宇城、興津城、浜荻城、金山城、山乃城などの支城を持っており、小戦国大名と言って良いほどの基盤を有していた。この内、勝浦城の正木一族は義頼方に付いたものの、それでも容易に倒せる相手では無かった。義頼は支城を一つ一つ攻めつぶしながら、徐々に大多喜城に迫っていった。こうした攻防戦の最中、甲斐の武田勝頼や、越後の上杉景勝の使者が訪れて共に北条氏を打倒しようと提案してきたが、この時の義頼にそんな余裕は無かった。 
 
 
天正9年(1581年)9月29日、正木憲時は内応した家臣によって殺され、大多喜城は落城する。義頼は、義弘死後から始まる内乱と、正木憲時の討滅に3年もの歳月を費やしたが、反対派は全て滅ぼしたので、その権力は揺るぎないものとなった。北条家との関係は、天正7年3月に両家の鎹(かすがい)である、義頼の妻(氏政の娘)が死去した事から、次第に冷却化していった模様である。両家の間で戦いが再燃したのかどうかは定かではないが、下総、上総では不穏な状況が続いた。天正15年(1587年)10月23日、里見義頼は45歳で死去し、若干15歳の義康がその跡を継いだ。その頃、中央では豊臣秀吉による天下制覇が進み、翻って関東では北条家による覇権が確立されつつあった。この様な重大な局面で、したたかな外交手腕を持っていた義頼を失った事は、里見家にとって不幸であった。 
 
 
天正16年(1588年)10月、里見義康は、豊臣秀吉に使者を送って太刀一振りと黄金10両を献上し、上総南半分、安房一国を現状のまま保持する事を認めてもらった。天正18年(1590年)春、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると義康も参戦し、同年4月には三浦半島に攻め入った。秀吉からは早急に小田原に参陣するよう求められていたが、義康はしばらく三浦半島に留まり、滅亡した小弓公方の再興のために便宜を図ろうとしたり、本来、秀吉が出すべきであった禁制を三浦半島で独自に発給したりした。義康が何時、小田原の秀吉の下に参陣したのかは不明だが、その勝手な行動を咎められて、しばらく面会は許されなかったと云う。そして、義康による小弓公方再興運動と独自の禁制発給は惣無事令違反に当たるとして、上総国の召し上げを通告されたのだった。これは義康のみならず、その家臣にとっても晴天の霹靂の様な衝撃であった。里見家の領国は上総半国だけでも19万石あったが、それが安房一国4万5千石に押し込められる形となったからである。里見家臣はこの後、召し放たれたり、知行が三分の一以下になる事を覚悟せねばならなかった。 
 
 
義康は失意のどん底にあったが、それでも大名として生き残るため、妻子を人質として上方に送り、困難な知行の再配分も成し遂げた。そして、豊臣大名の1人として、二度に渡る朝鮮出兵の際には数百人の兵を率いて九州名護屋まで出向いた。慶長2年(1597年)、豊臣政権による再検地が行われて、安房国は9万1千石に改められる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、義康は徳川方に参加して宇都宮に在陣する。そして、関ヶ原本戦が東軍の勝利で終わると、常陸国に3万石を加増され、里見家は合わせて12万石となった。しかし、慶長8年(1603年)11月16日、里見義康は31歳の若さで病死し、10歳の梅鶴丸が跡を継ぐ。大きな挫折を味わったものの、家運がやや盛り返しつつあった矢先の死であった。慶長11年(1606年)11月、梅鶴丸は将軍、徳川秀忠の前で元服し、その一字を賜って忠義と名乗り、慶長16年(1611年)には幕府の老中、大久保忠隣の孫娘を妻として迎えた。忠義は幕府との関係を密にし、順調に近世大名としての地歩を固めつつあった。 
 
 
しかし、慶長19年(1614年)9月、幕府内部に権力闘争が起こって大久保忠隣が失脚し、それに連座したとして忠義も改易を通告される。忠義には辛うじて伯耆国倉吉に4千石が与えられたものの、これまで先祖代々慣れ親しんだ房総半島の地から遠く離れた、山陰の寒村に移り住む事となった。だが、元和3年(1617年)6月、因幡、伯耆の新領主として赴任してきた池田光政によって、その4千石も召し上げられ、忠義は、倉吉田中村に100人扶持のみを与えられる身となった。悲運に悲運を重ね、しかも慣れない山陰の気候で体を壊したのか、元和8年(1622年)6月19日、忠義は29歳の若さでこの世を去った。忠義には側室に子がいたとされるが、嗣子無しと見なされて里見家はここに断絶する。同年9月19日、忠義の死から3ヵ月後、安房以来の家臣8人が主君の命日に合わせて殉死した。彼らには最早、どこにも身の置き所がなく、生きる望みを失っていたのだった。戦国時代から幾多の存亡の危機を乗り越えてきた武門の家、里見家はこうして、哀れなる最後を迎えた。


主要参考文献 「房総里見一族」



 

里見家の興亡 前

2012.06.09 - 戦国史 其の三
戦国時代、関東の覇者として君臨したのが、小田原を本拠とする大大名、北条家であった。だが、その北条家を相手に、関東の覇を競い合った気概ある戦国大名がいた。その名を里見家と云う。里見家は、清和源氏新田氏の流れを汲み、室町時代に関東の何処から房総半島に移り住んで安房国に勢力を伸ばしていったとされる。その出自には不明な点が多いが、永正年間(1504~1520年)には安房国の支配者的な存在となっていたようである。この里見家を全盛期に導いたのが、里見義堯である。だが、その人生は浮き沈みの大きい、波乱に満ちたものであった。 
 
 
義堯は永正4年(1507年)に生まれ、天文2年(1533年)、27歳の時に父実堯が本家の里見義豊によって討たれると云う悲運に見舞われた。義堯は安房を逃れて西上総の百首城に立て篭もり、小田原の北条家や安房東部の正木家に援助を請うた。そして、天文3年(1534年)4月6日、義堯は北条や正木の援軍を得て反抗に転じ、義豊と決戦して、これを討ち滅ぼす事に成功した(犬掛合戦)。これで、義堯が晴れて安房一国の支配者となったのだが、その統一には北条氏綱の助力によるところが大であったので、しばらくはその旗下に属する事となった。天文4年(1535年)には北条氏綱の要請に応えて武蔵国に援軍を派遣したり、鎌倉の鶴岡八幡宮の造営にも協力している。だが、義堯には北条の属将のままで終わる気は無く、野望を胸に秘めて雄飛の機会を待った。 
 
 
その頃、上総の有力戦国大名、真里谷武田家では、信隆と信応(のぶまさ)の二派に分かれて跡目争いをしていた。北条氏綱は信隆方を応援したので、それに属する義堯も当初はこれを支援していたが、天文6年(1537年)10月になって、小弓公方の足利義明の要請を受けて、信応方に転じたのだった。そして、この内紛は、足利義明と里見義堯の有力な支援を受けた信応方優勢で和議が成立する。義堯はこの内紛に乗じて西上総に勢力を伸ばし、この頃に房総半島の中心に位置する場所に久留里城を築いて、そこを本拠にしたと見られる。義堯は、この内紛を機に足利義明に鞍替えする形となったが、それは同時に北条家との決裂も意味していた。北条と里見、両家の長い宿命の対決はここから始まる。 
 
 
天文7年(1538年)10月、足利義明は北条氏綱との決戦を目論んで、里見義堯や武田信応を始めとする房総半島の諸将を召集する。そして、1万人余の諸軍を率いて、武蔵との境目に当たる下総国府台まで進出した。一方、北条氏綱も2万人余の兵を率いて迎撃に向かい、両軍は江戸川を挟んで対峙した同年10月7日、北条軍は大胆にも、江戸川を敵前渡河して突撃を開始する。足利軍は絶好の攻撃機会をみすみす逃したが、緒戦は善戦して北条軍と互角に渡り合った。しかし、北条軍が陣容を整えて数に物を言わせて攻め寄せてくると、ついに足利軍は崩れ出し、総大将の義明も戦死するという惨敗を喫した(第一次国府台合戦)。この戦いで義堯は積極的には動かなかった模様で、軍勢を温存したまま撤退したようだ。そして、ほどなくして西上総に侵攻を開始し、その地を切り取っていった。房総半島の一大勢力であった足利義明の討死によって軍事的な空白が生じ、かえって義堯の勢力拡大に弾みがついたのだった。天文10年(1541年)、北条家では氏綱が死去して、その子、氏康が跡を継ぐ。その頃、義堯は自ら西上総の攻略に当たる一方で、里見家の盟友とも言える正木家に命じて東上総を切り取らせていった。 
 
 
義堯は少しずつであるが確実に北上を押し進め、天文21年(1552年)を迎える頃には上総の大部分が里見家の勢力範囲となり、同年中には下総にも進出して、北条方の有吉城を攻撃したと云う。だが、北条氏康もこの情勢を黙って見過ごす訳はなく、勢力を増しつつある里見家を陥れるべく、強烈な謀略を仕掛けた。天文22年(1553年)、里見支配下にあった上総、安房の土豪達をそそのかして、一斉に叛旗を翻させたのである。これらの土豪達は半独立的な存在で、里見家の支配は彼らの頭を押さえて、戦時の際に兵員を供出させるに留まっていた。しかし、里見家の勢力が増大するに従い、これらの土豪達は独立性と既得権益が侵されるとの危機感を覚えたようだ。北条家はそこを突いて彼らの知行を安堵したり、物資を援助して、反乱をそそのかしたのだった。
 
 
この反乱によって安房、上総国内は未曾有の混乱に陥り、各地の城や寺が焼けていった。しかも、そうした状況を見越して北条家は直接、里見領に攻め入らんとした。天文23年(1554年)春、北条氏康は武田晴信、今川義元と三国同盟を結んで背後の憂いを取り去り、関東制覇に全力を傾ける事が可能となっていた。義堯も越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)と結んでこれに対抗せんとしたが、当面は自力で北条家の鋭鋒を退けねばならなかった。軍記の「関八州古戦録」によれば、天文23年(1554年)11月10日、北条氏の勇将、北条綱成率いる1万2千の兵が義堯の本拠、久留里城を囲み、翌11日に一斉攻撃を加えてきたが、里見軍4千人は激闘の後にこれを退けたと云う。また、弘治元年(1555年)3月1日にも、北条方の将、藤沢播磨守率いる2千人余の兵が押し寄せてきたが、里見軍はこれも撃退し、藤沢播磨守の首を討ち取ったと云う。 
 
 
弘治2年(1556年)を迎えた頃には、義堯は度重なる北条軍の襲来を退け、国内の反乱もようやく鎮める事に成功したようだ。「関八州古戦録」によれば、同年10月、義堯は子息義弘を総大将とする水軍を三浦半島に送り込んで、北条家に逆襲を試みたようである。そして、北条水軍と船軍(ふないくさ)となったが、戦いは里見水軍優勢で運び、一時的に三浦半島は里見家の勢力範囲になったようである。里見軍が房総半島に引き返すと、三浦半島は再び北条家の支配に戻ったが、これ以降も里見水軍は頻繁に襲撃を加えて来るため、三浦半島の住民達は困り果てて、年貢の半分は里見氏に献上して、攻撃を控えてもらうようにした。北条家はこれを苦々しく思ったが、里見水軍に東京湾の制海権を握られている現状では、これを認めざるを得なかった。こうした里見水軍の優勢は、天正年間(1573年)を迎える頃まで続いたようである。だが、北条水軍も隙を突いては、房総半島の沿岸に度々、襲撃を加えたので、里見方も沿岸の防備を固めざるを得なくなった。このような東京湾を挟んでの両水軍の戦いは、里見、北条の対立が続く限り、止む事は無かった。 
 
 
永禄3年(1560年)8月上旬、北条氏康は大軍を催して、義堯の本拠、久留里城を囲んだ。窮地に立たされた義堯は、越後に急使を派遣して上杉謙信(この頃は長尾景虎)の来援を請う。同年9月、謙信はこの要請に応えて越山し、関東へと攻め入った。これを受けて氏康は久留里城の囲みを解いたので、義堯は危機を脱した。義堯は、謙信に書状を送って深謝すると共に、共に北条家を打倒する事を申し合わせた。そして、永禄4年(1561年)3月に謙信が北条家の本拠、小田原城を囲んだ際には、里見家からも義弘が海を渡って参陣した。その間に義堯は下総に手を伸ばし、重臣の正木家に命じて小弓、臼井の城を攻め取らせた。謙信率いる関東諸勢は一ヶ月に渡って小田原城を攻め立てたものの、無類の堅城が落ちる気配は無く、謙信は攻城を諦めて越後に帰っていった。 
 
 
だが、謙信(この頃は上杉政虎)がいなくなると、北条氏康はすぐさま奪われた諸城を取り戻していくのだった。これ以降の関東では、こうした上杉家と北条家の攻めぎあいが延々と繰り返される事になる。永禄6年(1563年)12月、謙信は越山して上野国へと入り、里見義堯、義弘父子にも出兵を促した。翌永禄7年(1564年)1月、義弘は要請に応えて安房、上総の兵を率いて出陣し、岩槻の大田資正の軍勢と合流して、下総の国府台に陣取った。北条氏康は上杉軍に背後を襲われる前に決着をつけるべく、里見軍に向かって急行した。「関八州古戦録」によれば、北条家は一族郎党の総力を結集した2万人余の兵力であったのに対し、義弘率いる里見勢は6千人で、大田資正率いる2千人を合わせても8千人でしかなかった。里見軍は半分以下の劣勢であったが、台地上の地の利を生かして、攻めかかってくる北条勢の先鋒を斬り崩し、遠山直景や富永政家などの名のある侍多数を討ち取って、緒戦を勝利で飾った。 
 
 
しかし、この日の夜、勝利に気を良くした里見軍は酒を飲み交わし、ゆったりと休息をとった。北条氏康は密偵からの報告を受けて、里見軍が油断しきっていると知ると、軍を二手に分けて明朝払暁をもって奇襲する事を決した。そして、1月8日の夜明けをもって北条軍が一斉に国府台に攻め上がって来ると、里見軍は大混乱に陥り、大将の義弘自ら太刀を手に取って、囲みを切り抜けねばならないほど、無残な敗北を喫した。北条軍は敗走する里見軍を追撃して、その先鋒は上総に入ったが、背後に謙信がいたので深追いは避けて兵を返した。だが、同年4月に謙信が帰国すると、北条軍は大挙して上総に攻め入り、その勢いを恐れた上総の諸城の多くは北条家に降っていった。同年10月には久留里城も落城し、義堯は安房へと退いた。同年末、落ち目の里見家に追い討ちをかけるように、片腕と頼んでいた勝浦城主の正木時忠まで北条家に寝返ってしまう。 
 
 
上総国では大多喜城の正木憲時と、土気(とけ)城主の酒井胤治だけが里見方として残ったものの、里見家はほぼ安房一国に押し込められる形となった。義堯が半生を費やして築いてきたものは、音を立てて崩れ去ったのだった。上杉謙信もこの情勢を憂いて、里見父子を慰める書状を送っている。永禄8年(1565年)11月、謙信が越山して関東に入ると、里見義弘はこれに呼応すべく、安房国中に重い棟別銭を課して出陣準備を整えた。そして、翌永禄9年(1566年)3月、上杉軍が下総に攻め入ると、義弘も参陣して共に北条方の城を攻め立てた。同年5月、謙信は越後に帰っていったが、その関東遠征の余慶を受けて、里見家は上総南部を奪回する事に成功したようだ。だが、永禄10年(1567年)8月、北条氏政は、里見家が再び息を吹き返しつつあるのを見て、今度こそ引導を渡さんとして大軍を率いて上総へと攻め入った。 
 
 
北条氏政率いる本隊は、里見義弘の居城、佐貫城を望む要所、三船山に陣取り、三浦方面からは北条綱成が水軍を率いて安房侵入を図った。この時、北条軍は3万人余で、これを迎え撃つ里見軍は8千人余であったと云う。里見家は、これまでに無い存亡の危機に立った。だが、義弘率いる里見軍は知略と死力を振り絞って、北条軍に乾坤一擲の決戦を仕掛ける。そして、ものの見事に、北条軍を打ち負かす事に成功したのだった。この頃、北条綱成率いる水軍も里見水軍に阻まれて、上陸を阻止された模様である。北条軍は、殿を務めた岩槻城主の大田氏資が戦死するなど、多数の戦死者を出した(三船山合戦)。戦後、北条氏政は戦死した家臣の相続問題に心を配らねばならなくなり、それとは反対に里見義堯、義弘父子は意気揚々たる戦勝報告書を、安房にいる義頼(義堯の子息)に送った。 この勝利によって、里見家は滅亡の淵から一転、飛躍の時を迎える。上総の大部分が里見家の版図に戻り、下総侵攻にも着手した。この過程で、先に反逆した正木時忠も里見家に帰参した。

 

福知山城

福知山城は、京都府福知山市にある平山城である。


天正7年(1579年)、織田家の部将、明智光秀は丹波攻略を進める中、北部の盆地にある横山城を落とす。同年、丹波一国を平定した光秀は、この横山の地を福智山(後に朽木氏が福知山とする)に改名すると共に、地域支配の拠点として、ここに新たな城を築く事を決した。この時期、まだ毛利氏の勢力が山陰に残っていたので、それに対する抑えとしての目的もあった。城の縄張りは光秀自らが行い、石垣を用いた近世城郭として完成する。光秀は城下の発展にも力を注ぎ、
民衆の地子(税)を免除したり、度々
氾濫を起こす由良川に対して、河道を北に付け替える大規模な治水工事を施した。この様に光秀は福知山の基礎を作り、その発展に努めた人物であった。光秀自身は同じ丹波の亀山城を居城としたので、この福知山城には娘婿の明智秀満を入れた。


しかし、光秀は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変を起こし、6月13日の山崎の戦いで敗死した。
同年、丹波一国は羽柴秀吉の養子である羽柴秀勝の領国となり、翌天正11年(1583年)頃、城代として杉原家次が入った。天正12年(1584年)、杉原家次が病没すると、羽柴家直参の小野木重勝が入る。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると小野木重勝は西軍1万5千余を率いて、細川藤孝が守る丹後田辺城を攻める。重勝は田辺城を開城させたものの、本戦で西軍が敗れた事から福知山城に退却していった。しかし、細川藤孝の息子、忠興がその後を追って福知山城を囲み、重勝を開城切腹に追い込んだ。同年、関ヶ原で功を挙げた有馬豊氏が入り、福知山の城と町並みを更に改修、発展させた。その後、城主は岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房と入れ替わった後、寛文9年(1669年)、朽木種昌が入って落ち着く事になる。


この朽木氏による統治が200年続いた後、明治の世を迎えて、福知山城は廃城となった。建物は払い下げられて解体され、台地も切り崩されて曲輪(くるわ)は消失していった。朽木氏による統治は200年もの長きに渡ったのに対し、光秀が福知山を統治した期間は僅か3年でしかなかったが、彼が施した善政と町並みの基礎を作り上げた功を人々は忘れてはいなかった。
江戸時代、人々は領主の朽木氏に申し出て、宇賀御霊大神を祭る神社に光秀を合祀する事を願い出ている。それが許可されると、以後、御霊神社(ごりょうじんじゃ)と呼ばれる様になり、現在に至るまで光秀の威徳を称えると共に、その悲運の魂を慰めている。



福知山城
福知山城 posted by (C)重家


福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑麓の小さな川から見た福知山城






福知山城
福知山城 posted by (C)重家



福知山城
福知山城 posted by (C)重家



福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑再建天守閣


外観は木造建築に見えますが、内部は鉄筋コンクリート製となっています。中には、朽木氏由来の鎧兜や刀が展示されています。



福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑天守閣から北東を望む


左手に流れているのは、由良川です。光秀がその河道を北に押し上げる堤防を築いたので、洪水被害が減りました。


福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑天守閣から北を望む


福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑天守閣から西を望む


こんもりとした丘は、伯耆丸と呼ばれる出丸です。あの付近から眺めると、城郭が良く映る様です。



福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑転用石


福知山城の石垣には、五輪塔やら墓石が大量に用いられています。明智光秀が建築するに当たって、近隣の寺社仏閣や、墓場から徴用したものと思われます。石垣を築くには大量の石材を切り出してくる必要があるのですが、最も手っ取り早い方法を取ったのでしょう。現在から見れば罰当たりの一言ですが、光秀は神や仏の罰を恐れるよりも軍事的な合理性を追求したと言う事でしょうか。この辺りにも、信長と光秀に共通する冷徹な合理性を感じます。


福知山城
福知山城 posted by (C)重家

↑転用石



ヨーロッパが恐怖に震えた日 アッティラの来襲

2012.05.04 - 歴史秘話 其の二
5世紀前半、ゲルマニア(ドイツ)に居住するゲルマン諸部族が、大挙としてライン河を越え、西ローマ帝国領であるガリア(フランス)に侵攻を開始した。世に言う、ゲルマン民族大移動である。実のところ、ゲルマン人によるガリア侵攻はさほど珍しい光景ではなく、ほとんど日常茶飯事と言ってよいものだった。それは、紀元前1世紀にユリウス・カエサルがガリアを征服して以来、400年以上もの歴史がある。だが、ローマ帝国はその試みを悉く打ち砕いて来たし、侵入してきたゲルマン人達も、略奪した後は本拠地に引き返して行くという一過性のものに過ぎなかった。


しかし、今回、明らかに事態は違っていた。ゲルマン人には激しい動揺が見られ、何としても西ローマ帝国内に生存権を確保しようと必死になっていた。これまでゲルマン人は、ローマ人に幾度と無く、手痛い目に遭わされてきたが、決して恐れてはいなかった。その大柄な体格と命知らずの蛮勇は、時に精鋭ローマ軍すら恐れさせたものだった。だが、そんな彼らが恐怖に青ざめ、何かに急き立てられるように、大挙として西ローマ帝国内に押し寄せて来るのである。 
 
 
この時のローマ帝国は衰弱して東西に分裂しており、ゲルマン人を追い払う力も無くしていた。その為、ガリアはたちまちのうちに、難民と化したゲルマン人諸部族の占有する地となった。何が、彼らをそこまで追い詰めていたのだろうか?それは東の果てからやってきた遊牧民、フン族の脅威である。彼らの特徴に付いて述べてみる。フン族の男は幼い頃から馬に慣れ親しみ、狩猟の腕を磨きながら成長していくので、言わば生まれながらの騎馬戦士であった。何をするにも、どこに行くにも馬に乗り、戦場でも馬から下りて戦うのを極度に嫌った。


彼らは牛、馬、羊の群れを引き連れて移動し、狩猟や牧畜によって生計を立てていた。衣服は動物の皮で作られたもので、擦り切れるまで着ていた。住まいは二輪の牛車で、その中で食事や睡眠、男女の混交もこなしていた。フン族には人間行動を律する法律は存在せず、族長の命令が絶対だった。土地や蓄財の収集には関心が無かったが、黄金は好んだ。黄金に限らず、光り輝く物は何でも好んだ。耕作し、食料を確保しておくという考えが無かったので、機会さえあればまず奪う事を考えた。目的地も無く、定住にも関心が無かったので、各地を移動しつつ、略奪を繰り広げた。彼らの軍団は神出鬼没の機動力を誇り、その騎乗戦闘能力も極めて高かった。 

 
 
その獰猛さは、勇猛で鳴るゲルマン人ですら悪魔と呼ぶほどであり、蛮族の中の蛮族と恐れられた。ゲルマン人の方が遥かに人数が多く、優秀な騎兵も有していたのだが、それでもフン族の騎兵には歯が立たなかった。そして、フン族は強力な騎兵団にものを言わせて、多数のゲルマン人諸部族を支配下に組み入れていった。西暦444年、フン族の族長に、アッティラと呼ばれる優れた統率者が就任すると、その獰猛さに拍車が掛かる。この頃、フン族は現在のハンガリー平原一帯に本拠を置いていたが、アッティラに率いられてドナウ河を渡り、東ローマ帝国に侵攻を開始した。


フン族は行く先々で荒れ狂い、略奪の限りを尽くした。彼らは多数の人間も連れ去ったが、役立たない人間と見なせば容赦なく殺戮していった。東ローマ帝国のキリスト教徒は、フン族に神の鞭(むち)との綽名(あだな)を付け、彼らの通った後には犬の鳴き声すらしないと恐れ慄いた。フン族は、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノーブルの目前まで接近すると、そこから東ローマ皇帝に凄まじいばかりの要求を突きつけた。まず2,250キロの黄金の差し出しに加えて、更に毎年、約780Kgもの黄金の支払い、それにフン族から脱走した兵士の返還と、捕虜としたローマ人を解放するに当たって金貨を支払うよう求めるものだった。 
 
 
東ローマ帝国はこの要求に対して、脱走兵の返還だけでお茶を濁そうとして、彼らをアッティラの元へと送り届けた。これらの脱走兵はフン族に組み敷かれたゲルマン系の兵士がほとんどで、フン族の生活行動に馴染めず、東ローマ帝国に投降した者達だった。アッティラは、これら脱走兵全員を地に伏せさせて天幕用の布をかぶせると、フン族騎兵の集団に何度もその上を往復させて、悉く轢き殺したのだった。東ローマ帝国の人々はこの蛮行に震え上がったが、雇っていたゲルマン人兵士の中では敵愾心が高まった。


そして、ゲルマン人庸兵を中心とするローマ軍が主体となって、フン族を殲滅せんとして出撃して行ったが、戦場を縦横に駆け巡って雨あられの如く弓矢を浴びせかけるフン族騎兵の前に大敗を喫してしまう。この結果、東ローマ帝国はフン族の脅迫に屈して、大量の黄金供出を余儀なくされたのだった。西暦449年、アッティラは更に注文を付けて、身分の高い使者を送って確実に協約を実行せよと迫ってきたので、東ローマ帝国は然るべき高位の人物をアッティラの下へと送った。その使者の1人である、プリスクスが書き残した記録が残っている。 
 
 
「我々一行はナイッスス(ニシュ)の街に入った。ここは、コンスタンティヌス大帝の生地であり、基幹道路も走っているが、フン族の襲撃を受けて破壊し尽され、廃墟と化した教会で雨露をしのぐ僅かな人数以外には、無人の街と化していた。街道の周辺も無人地帯が続き、川辺にはフン族に殺された多くの人々が白骨化して横たわり、殺されたままの状態で放置されていた。我々はドナウ河を渡り、アッティラの本拠地に入った。天幕の中のアッティラは、何人もの蛮族の高官や武将に囲まれていた。アッティラが身に付けている衣服の質素さには驚かされた。


ライン河からドナウ河にかけての広大な地域を支配している首長の天幕だと言うのに、その内部には煌びやかな調度品や、芸術品は何一つ置かれていなかった。寝台は見当たらず、これだけは高価そうな毛皮が床に置かれ、その他にあるのは木製の粗末な椅子と、アッティラの傍らに立て掛けてある弓と斧だけだった。アッティラの背は低かったが、頑丈そうな体格をしていた。顔の色はくすんだ黄色で、髭(ひげ)はほとんど無く、顔の造りは奇妙な程に平面的だった。両眼とも斜視で黒い窪んだ眼をしており、珍しいものでも眺める様に我々に視線を注いでいた」




↑フン族の進路(ウィキペディアより)
 
 
西暦451年4月、アッティラ率いるフン族はハンガリー平原から出立して、再び大規模な征服活動に取り掛かった。まず、ゲルマニア(ドイツ)を横断してライン河に至ると、その中流に位置するマインツ付近から渡河して、ガリア(フランス)に攻め入ったのである。フン族はガリアに侵入すると軍を三つに分け、パリの南西にあるオルレアンを目指して侵攻を開始する。このオルレアンはフランス中央部に位置する要衝であって、ここが落ちれば、ゲルマニアに続いてガリアまでもフン族に支配下になりかねない。このガリアにはフン族の脅威から逃れて、生存権を獲得しようと必死になっていたゲルマン人諸部族が存在していた。


それに地中海に面したガリア南部には、まだ西ローマ帝国の勢力も残っていた。もし、ガリアまでフン族の支配する所となれば、ゲルマン人には行き場が無くなり、ただでさえ衰亡している西ローマ帝国も止めを刺されかねない。この存亡の危機を受けて、かつては宿敵同士だったゲルマン人諸部族と西ローマ帝国が結託してフン族に当たる事となった。そして、フン族撃滅を目指して、ローマ・ゲルマン連合軍を結成する。その頃、フン族の3軍団はそれぞれ略奪、虐殺を繰り広げながらガリア中央部を目指して侵攻中で、オルレアン近郊に達すると合流して都市の攻囲を開始した。 
 
 
ローマ・ゲルマン連合軍はオルレアン攻囲中のアッティラの背後を突くべく、南と西から接近した。アッティラはこれを察知すると不利な情勢と見たのか、ゲルマニアを目指して撤退を開始する。しかし、途中のランス付近で補足されたので、アッティラはここで会戦を決意した。西暦451年6月24日、西ローマ帝国軍と西ゴート族を始めとするローマ、ゲルマン連合軍と、アッティラ率いるフン族軍団はシャンパーニュ地方の平原で激突した。両軍の規模であるが、フン族の兵士数は3万人と言われており、多数の蛮族も自軍に組み込んでいるので、5万人以上はいたと思われる。


これに対するローマ、ゲルマン連合軍はやや劣る人数であったのではないか。フン族は左と右に傘下の蛮族兵団を配し、中央にはアッティラ直率のフン族騎兵団を配した。これに対して、西ローマ帝国軍の司令官アエティウスはフン族騎兵の機動力を封じるべく、地形を有効活用する。ローマ軍を左手の丘陵に配して、中央にはアラニ族を配し、右手に河を望む地に西ゴート族を配して、左右から回り込まれるのを事前に防いだ。 
 
 
午後15時に始まった開戦は、力押しの混戦となった。フン族騎兵は蛮勇を奮って中央のアラニ族を蹴散らしつつあったが、その左右を支える配下の蛮族軍は、ローマ軍と西ゴート族の奮戦を受けて押され気味となった。丘陵と河に挟まれた地形による制約と、左右を支える蛮族軍が総崩れになった事で、フン族騎兵も自慢の機動力と攻撃力を存分に振るえなかった。両軍は尚も激闘を重ねて、乱戦の中、西ゴート族の族長テオドリックも戦死した。


それでも、陽が落ちる頃にはフン族軍の劣勢は明らかとなり、さすがのアッティラも茫然自失して自害するとまで口走ったと言う。フン族軍はついに撤退を開始するが、消耗しきったローマ・ゲルマン連合軍にもこれを追う力は無かった。フン族はこの戦いで大きな痛手を受けたものの、アッティラ自身はすぐに気力を取り戻し、翌452年には西ローマ帝国領の北イタリアに再び侵攻を開始する。フン族は、イタリア北部の東にあるアクィレイアから西のミラノに至るまでの地方都市を次々に蹂躙していった。 
 
 
先年にはゲルマン人と協力してフン族を撃退した西ローマ軍であったが、今回はその援軍を得られる見込みは立たず、単独で戦ったしても勝ち目は無かったので、自国を蹂躙されながらも見て見ぬ振りをした。その為、フン族は春から秋にかけて、半年余りも我が物顔で北イタリアを蹂躙したのだった。フン族が接近してくると、人々は「アッティラが攻めてくる、フン族が押し寄せて来る」と叫んで狂乱状態に陥った。


西ローマ帝国は膝を屈して、司教レオと元老院議員2人を代表とする使者をアッティラの元に派遣し、賠償金を支払う事でようやく北イタリアから去ってもらう事を承諾させた。この不名誉な事態を、キリスト教会は美談に作り変えて宣伝する。すなわち、神の加護を得た司教レオが勇気を奮ってアッティラと対面し、その暴虐を非難して恥じ入らせ、神の愛を説いた事によって、彼を退散させるに到ったのだ、と。歴史的な屈辱を、キリスト教の伝説に作り変えたこの出来事は、画家のラファエッロの手によって壮麗な絵画に描かれ、その後のキリスト教布教に大いに貢献する事になる。 




「大教皇レオとアッティラの会談」 (ウィキペディアより)
 
 
西暦453年春、冬が過ぎ去って再びフン族が暴れだす季節となり、周辺の人々が戦々恐々になっていた頃、突如としてアッティラは倒れた。宴の最中、突然、大量の血を吐いて倒れ、あえなく息を引き取ったのだった。蛮族の中の蛮族たるフン族王の葬儀は、傘下のゲルマン諸部族の族長も大勢参列する盛大なものとなった。遺骸は金、銀、鉄の3重の棺に納められ、河を塞き止めたその底に豪華な埋葬品と共に埋められたが、それを掘らされた奴隷は墓の秘匿の為、全員殺されたと云う。アッティラの死後、息子達による後継争いが勃発して、部族は内紛状態に陥った。


フン族は四分五裂して急速に求心力を失い、これを好機と見た傘下の蛮族達は次々にその支配を離れていった。アッティラ率いるフン族は一時、ドナウ河の河口からライン河の河口に至るまでの広大な地域を傘下に治めたものの、アッティラの死と共に、その支配は脆くも崩れ去ったのだった。以後、フン族は散り散りになって現地社会に埋没していった。彼らが再び歴史に浮上する事は無かったが、彼らが残した恐怖の爪痕はヨーロッパに住む人々の脳裏に刻まれ、悪夢として語り継がれていった。 
 
 
アッティラは常々、北部ヨーロッパに一大帝国を創設すると公言していたが、国家統治に欠かせない政治機構を創設した形跡は伺えない。アッティラは大胆な行動力、優れた統率力、好機を生かす判断力、騎兵を縦横に操る戦術能力を有していたが、明確な軍事戦略や、国家構想を持っていたとは言い難い。ただひたすら獲物を求めて追いかけていく、肉食獣の様な本能だけが彼の行動原理だった様に見える。


このアッティラを始めとするフン族は、自分達についての記録を何一つ残しておらず、その起源も今だ明らかになっていない。分かっているのは、彼らがカスピ海の東方からやって来た事だけである。アッティラと会見したプリスクスによれば、彼は黄色い肌に平面系の顔をしていたとあるので、これはモンゴル系の遊牧民であるとの印象を強くする。 フン族は、かつてモンゴル平原に勢力を振るった匈奴の末裔ではないかと見る向きは多い。それを裏付ける資料は無いが、その生活様式、戦闘行動に共通点が多いのも確かである。
 
 

匈奴もまた文字を持たない民族であるため、彼らを知ろうと思えば、敵として戦った中国の帝国、漢の記述に頼る他は無い。匈奴は遊牧と狩猟を生業としている民族で、その衣服も動物の毛皮をなめしたものだった。子供の頃から馬や羊に慣れ親しみ、鳥や鼠を射抜いては弓術を磨いた。青年になる頃には強い弓を引く様になり、革の鎧を身にまとった。全匈奴氏族を合わせても100~200万人でしかなかったが、成年男性の全てが軽装騎兵であるので、戦時の動員力は極めて高かった。


全部族が結束していたなら、優に10~20万人は動員できたと思われる。匈奴は
その神出鬼没の騎兵団をもって、6千万人の人口を擁する前漢と互角に渡り合った。しかし、匈奴内で内紛が度重なった事に加えて、それを好機と見た前漢の武帝(在位 紀元前141~87年)による激しい攻撃を受けて弱体化し、匈奴の部族は、漢への服属を余儀なくされたり、北辺に逃れたりした。その部族の一派が数百年の歳月をかけてユーラシア大陸を横断し、やがてフン族としてヨーロッパに姿を現したのではなかろうか。




↑紀元前250年頃の匈奴の領域(ウィキペディアより)



 
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