
2021.08.09 - 城跡・史跡訪問記 其の四
2021.08.09 - 城跡・史跡訪問記 其の四
勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にある山城である。城は、北に中城湾、南に金城湾に挟まれた勝連半島の丘陵上にあって、眼下に海が広がる風光明媚な城跡である。
勝連城は、14世紀初頭、勝連按司(かつれんあじ)によって築かれたと推測されている。歴代城主の中で最も有名なのが、第10代勝連按司の阿麻和利(あまわり)である。1454年、王位継承をめぐる王族の内乱、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」を経て、尚泰久(しょう たいきゅう)が第6代国王となる。しかし、彼の権力は不安定で、急速に力を増しつつあった阿麻和利が最大の脅威となっていた。
そこで、尚泰久は、長女を阿麻和利に娶らせて懐柔を図ると共に、実力者である護佐丸の娘を正室に迎えて、彼に阿麻和利を牽制させた。1458年、護佐丸は中城城にて、阿麻和利に対抗する兵馬を整える。しかし、阿麻和利はこれを逆手にとって、護佐丸が王家に対する謀反を企んでいると讒言する。これを受けて尚泰久は、阿麻和利を総大将に任じて、護佐丸を攻撃させた。護佐丸は身の潔白を証明すべく反撃もせず、妻子と共に自害した。
首尾よく宿敵を討ち滅ぼした阿麻和利は、続いて那覇の王府を急襲せんとした。だが、阿麻和利の妻で尚泰久の娘であった、百度踏揚(ももとふみあがり)が王府に走って急報を伝えたので、その謀反は明らかとなった。尚泰久は討伐軍を差し向けて阿麻和利を撃退し、続いて勝連城を攻め立てて、これを攻め滅ぼした。以後、勝連城は廃城となった。これが琉球王国の正史が伝える歴史であるが、逆臣とされる阿麻和利は勝連では名君と称えられており、忠臣とされる護佐丸は実際に謀反を企んでいたとの説もある。
↑勝連城
↑右旋回の階段
↑二の廓石垣
↑一の廓を望む
↑二の廓
ここには城で最も重要な施設とされる、殿舎がありました。
↑一の廓から北を望む
↑一の廓から東を望む
正面奥には海中道路が走っています。両側が海という開放感溢れる道で、沖縄本島屈指の景観の良さでした。
↑一の廓から南を望む
↑一の廓から西を望む
↑勝連城の麓
深田によって、敵の侵入を阻んでいます。
勝連城は海を見渡す、360度の展望が広がっており、晴れていれば爽快感は計り知れないです。また、沖縄の城の中では珍しく、動乱の歴史を秘めており、その余韻に浸ることも出来ます。
2021.08.09 - 城跡・史跡訪問記 其の四
今帰仁城(なきじんぐすく・なきじんじょう)は沖縄県国頭郡今帰仁村にある、山城である。琉球王国成立以前に存在していた、北山王国の本拠であり、沖縄本島北部の要衝でもあった。
今帰仁城は、12世紀末に築城され、その後、整備拡張されて、14世紀始めには現在の形になったと見られている。14世紀の中国の史書には、北山王として、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3王が登場する。そして、この頃の沖縄は、北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山が支配する、三国鼎立(さんごくていりつ)状態にあった。
しかし、1416年、中山の尚巴志(しょうはし)によって、北山は攻め滅ぼされてしまう。北山は沖縄北部を支配して、面積的には三山最大であったが、北部は山岳と密林が大半を占めているので、人口的には最小であったと思われる。そのため、人口に勝る中山によって、押し潰されたのだろう。
尚巴志によって琉球統一が成されると、今帰仁城には北山監守(ほくざんかんしゅ)が置かれて、北部地域を管理した。しかし、1609年、薩摩島津氏の侵攻を受けて、今帰仁城は灰塵と化し、1665年、監守は廃止された。以後は、拝所、祭祀の場となって、多くの参拝者を集めた。
↑今帰仁城入口
↑平郎門
↑平郎門裏側
↑大庭へと続く道
右側に旧道があって、そちらは防御上、曲がりくねった形状となっています。
↑北西を望む
左奥に見える建物は、なきじんぐすくショップで、ちょっとした食べ物やお土産が売られています。
↑大庭(うーみゃ)
正殿、北殿、南殿があったと推測される、重要な場所です。
↑火之神の祠
沖縄の城は統治の場であるだけでなく、祭祀の場である事も多いです。
↑主郭の石垣
↑志慶真門郭(しげまじょうかく)
ここには、城主に仕える、側使えの人々が住んていたと考えられてます。
↑平郎門から続く石垣
ここの石垣は規模が大きく、見応えがあります。
沖縄の城は総じて海が見渡せるので、景色が爽快です。この事は海との深い関わり、すなわち海外交易によって、栄えていたことを窺わせます。
2021.08.09 - 城跡・史跡訪問記 其の四
首里城は、沖縄県那覇市にある平山城で、かつて南西諸島に存在していた琉球王国の王都として栄えた城跡である。那覇港を見下ろす丘陵にあって、日本、中国の築城技術を融合させた、独特の建築様式が用いられている。
城の創建年代は定かではなく、14世紀末には存在していたが、1429年に琉球統一を果たした尚 巴志(しょう はし)によって、本格的な築城が始まった。15世紀初期に内郭が築かれて、ここに正殿、北殿、南殿、奉神門などの中心施設が置かれ、16世紀中期に外郭が築かれて、4つの門が設けられた。
首里城は、王とその一族が居住する政治的中心地であり、また、王国の祭祀(さいし)を司る宗教的中心地であり、那覇港を通じて日本、中国、朝鮮、東南アジアとの中継貿易を行う、経済的中心地でもあった。明治12年(1879年)、明治政府によって琉球王国は廃され、首里城も明け渡されて沖縄県が設置された。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争時には、首里城地下に壕が掘られて、陸軍第32軍の司令部が置かれた。その影響もあって、米軍の激しい砲爆撃を受けて、地上の建物群は焼失した。
尚、首里城は2020年までに5度、焼失している。
①1453年、王位争いである、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」が起こって焼失。
②1660年、焼失。
③1709年、焼失。
④1945年、太平洋戦争の戦火を受けて焼失。
⑤2019年、焼失。
南国の青空の下、鮮やかな朱色に彩られた正殿は、沖縄の象徴であり、人々の心の拠り所でもあった。その再建が待たれるところである。
↑守礼門
↑歓会門
↑瑞泉門
↑西を望む
↑石垣
↑南殿跡
広場の奥に正殿がありました。なんとも無残な状況です・・・ ここに来る時に乗ったタクシーの運転手によれば、首里城に向かう観光客の数は激減しているとのことで、付近の道路や駐車場も空いていました。首里城の案内役をしておられた、地元の方々も表情に影が差しており、やるせない思いを抱えているようでした。
↑焼失跡
↑那覇市街を望む
↑王陵(たまうどぅん)
琉球王国の歴代王が祭られています。太平洋戦争で破壊されてしまいましたが、昭和52年(1977年)に復元されました。
↑王陵(たまうどぅん)
↑石畳道 首里城から南部へと続く道で、300メートルほど残っています。
↑首里城遠景
この場所から、首里城が燃えている様子がニュースで映し出されていて、なんとも残念な思いがしました。時間はかかるでしょうが、再建は成されるでしょう。しかし、6度目の焼失だけは、何としても避けてもらいたいです。
2021.04.11 - 城跡・史跡訪問記 其の四
周山城は、京都府京都市右京区にある、山城である。この城は、明智光秀が築いた事で知られているが、存続期間は短く、また文献も少ない事から、光秀その人の様に謎めいた存在となっている。
天正7年(1579年)9月、織田家部将として丹波を平定した光秀は、同国の支配拠点として亀山城を始めとする幾つかの城を築城する。その一つが、周山城である。周山城は、標高480m(比高230m)の城山の険阻な山上に総石垣で築かれ、天守台も有する近世城郭であった。若狭と京を結ぶ周山街道の中間にあって、北東には禁裏御料地である山国荘が広がっており、重要な街道と荘園を押さえる位置にあった。
天正9年(1581年)8月14日には、堺の商人、津田宗及を招いて、山上にて十五夜の月見が行われたとの記録(津田宗及茶湯日記)が残る。光秀が滅亡した後も城は用いられ、天正12年(1584年)2月4日には、豊臣秀吉も城に向かったとの記録(兼見卿記)が残る。秀吉は家臣の加藤光泰を城代として入れたが、その後の記録は残っておらず、廃城の時期も定かではない。
↑登山口
これから、奥にそびえる山を登って行く事になりますが、熊が出没するとの注意書きがあって、戦々恐々です。
↑大手門
大手門とありますが、それらしい遺構は見受けなかったです。ただ、ここから急坂になって本格的な登りとなります。
↑鍛冶屋
比較的、広い削平地ですが、本当に鍛冶屋があったのかどうか定かではありません。
↑虎口
ようやくそれらしい遺構に出会いました。石垣が崩され、破城の跡が窺えますが、かつてはさぞかし立派な門構えだったのでしょう。
↑兵糧蔵
↑二の丸
奧に登ると本丸があります。この通りも石垣が崩されて、苔むした石があちこちに転がっています。
↑本丸跡
かつて、明智光秀はここに津田宗及を招いて、月見の宴を行ったのでしょうか。
↑本丸跡
↑周山城の見取図
↑本丸石垣
↑井戸跡
小性曲輪にあります。明智光秀も飲んだであろう、城の命水です。
↑小性曲輪

↑小性曲輪
↑周山城からの眺望
周山城の西方には、まだ土塁の城もありますが、今回は石垣の城だけにしました。しかし、これで光秀が築いた城のほとんど、丹波亀山城、福知山城、丹波金山城、近江坂本城、大溝城(光秀が縄張りした城と伝わる)を巡り切って感無量でした。

↑慈眼寺(じげんじ)の明智光秀像
上記の写真は、寺で購入したポストカードです。慈眼寺は周山城の麓にあります。そして、この寺には黒塗りの明智光秀像が安置されています。この写真からは窺えませんが、光秀像の両肩には明智家の家紋、桔梗が施されています。誰もが目にするであろう、かの有名な光秀の肖像画は、知的で柔和な表情をしていますが、上記の光秀像は、表情険しく目も血走っていて、荒々しい武将らしい風貌をしています。光秀には二面性があって、部下や領民を思う優しい一面があったかと思えば、敵と見なせば容赦なく撫で斬りにする冷徹さもあり、この黒塗りの光秀像はそうした光秀の裏面を表しているかのようです。