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観音寺城

観音寺城は、滋賀県近江八幡市安土町にある山城である。この城は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれていて、全国屈指の山城とされている。城には多くの石垣が用いられており、往時には千以上の郭(くるわ)が張り巡らされていた。麓から眺めるとさぞかし壮観だった事だろう。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓から眺める観音寺城



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓にある日吉神社



観音寺城に登るには、安土城考古博物館から桑実寺を経て登るルートもありますが、今回は日吉神社から観音正寺を経て登るルートを取りました。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音寺正寺へと続く石段



この様な石段がどこまでも続きます・・・登った日は9月初旬でしたが、うだるような暑さで汗だくとなり、セミも鳴きまくっていたと記憶しています(;´д`)ゞ アチィー!!山上部ではスズメバチとも遭遇しましたΣ(゚Д゚;)



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音正寺


この寺を正面から見て左手を下ると、観音寺城への道があります。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸跡


六角氏の屋敷があった場所です。今はただ、静寂な空間が広がるのみでした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸手前の石垣


昔は立派な門が構えてあったはずです。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑家臣の屋敷跡


六角氏は君臣が一つにまとまっていれば、観音寺城も強固な城となっていたでしょう。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

繖山(きぬがさやま)山頂部から眺める安土山


安土城と観音寺城は、尾根続きとなっています。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑湖東平野


昔の近江国は、日本有数の穀倉地でした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑石垣


写真では掴み難いでしょうが、奥にあるのはかなりの巨岩です。この観音寺城は戦国期の城としては珍しく、かなりの石垣が散見出来ます。今でこそ寂れていますが、往時には立派な屋敷が建ち並んで城主と家臣が住まわり、その他にも多くの人々が城を維持したり、警護するために暮らしていました。
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六角氏と観音寺城

2011.11.13 - 戦国史 其の三
観音寺城は、滋賀県近江八幡市にある山城である。近江守護六角氏の本拠地として用いられ、戦国の山城としては全国屈指の規模を誇る。 城は、湖東平野にそそり立つ独立峰、繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれており、最盛期には千以上の郭(くるわ)が張り廻らされた。中世城郭は土塁を基本としているが、観音寺城は異例とも言えるほど石垣が多用されている。また、観音寺城は交通の要衝にあって、付近には美濃国から山城国に至る街道、東山道(後の中山道)や、琵琶湖に直結する港、常楽寺や豊浦を管制下に置く事も出来る。もし、近江以東の戦国大名が上洛を試みても、観音寺城に拠る六角氏がそれを阻めば、城を落とす以外に通過する方法は無い。 


観音寺城の創建年は定かではないが、「太平記」によれば、建武2年(1335年)、南朝方の北畠顕家の南下に備えて、北朝方の六角氏頼が立て篭もったとあるから、南北朝時代には築かれていたようである。ただし、この頃はまだ砦のようなものだっただろう。応仁元年(1467年)、応仁の乱が発生すると六角氏も否応無く戦乱に巻き込まれ、それから幾度となく観音寺城を舞台に攻防戦が繰り広げられた。その過程で観音寺城の改築は進み、一大城郭へと発展していった。観音寺城の見かけは稀有壮大であるが、城の構造は、郭(くるわ)をただ並べただけの単純な作りで、明確な防御施設は見出せない。郭は、国人領主達の屋敷でもあり、居住性が重視されていた。彼ら国人領主は一応、六角氏に従っているが、半独立的な存在で、観音寺城に屋敷を持つと共に、自らの本拠地にも城を構えていた。 


六角氏は、自立性の強い国人達の上に成り立つ連合政権的な性格を持っていたので、その権力構成が城の構造にも現れているのだろう。その為だろうか、六角氏は強敵に攻められる度、城を捨てて甲賀に逼塞(ひっそく)し、機を見て城を奪回するというのを常套手段としている。六角氏は、近江源氏佐々木氏の流れを組んでおり、鎌倉時代より南近江を支配してきた名門であった。南北朝の争乱や、応仁の乱も切り抜けた六角氏は、定頼(1495~1552年)の時代に最盛期を迎える。定頼は、畿内の大勢力、三好長慶と戦って中央の政局に介入したり、北近江の新興勢力、浅井亮政と戦ってその行動を押さえ込むなど、東西奔走の活躍を見せる。定頼は内政手腕にも優れており(楽市楽座の創始者とも)、観音寺城下を繁栄に導いて、南近江に確固たる勢力を築き上げた。 


定頼の子、義賢(1521~1598年)も一角の武将で、天文22年(1553年)には浅井久政と戦って、これを大いに破り、浅井家を従属化に置いた(地頭山合戦)。永禄2年(1559年)、義賢は隠居して承禎と号し、その子、義治(1545~1612年)が跡を継ぐが、実権は尚も承禎が
握っていた。永禄3年(1560年)、浅井家でも家督交代があって、若干16歳の長政がその跡を継いだ。だが、若いながらも長政には覇気があり、六角家からの離反を表明する。その為、承禎・義治父子は大軍を率いて浅井討伐に向かった。この時、浅井軍は4~5千人余、六角軍が8千~1万人余と六角軍の方が遥かに優勢であったが、油断があったのか六角軍は大敗を喫してしまう(野良田の戦い)。この敗北で六角家の威信は大きく失墜するが、逆に浅井氏は勢い付いて、攻勢に転じる。この後、承禎は畿内の三好長慶にも戦いを挑んだが、こちらの戦況も思わしくなく、中央の政局からも追い出された(永禄5年(1562年)教興寺の戦い)。 


永禄6年(1563年)、六角義治は、専横が目立つとして重臣筆頭格であった後藤賢豊父子を殺害する事件を起こす。これは家臣の国人領主の権限を削減し、中央集権を目指す方策だったのかもしれない。しかし、これに対する国人衆の反発は激しく、各々、観音寺城の屋敷を焼き払って、それぞれの城に立て篭もる事態となった(観音寺騒動)。六角氏による統治はままならなくなり、この機に乗じて北近江の浅井長政も南下して来るという危機的な状況に陥った。その為、義治は国人衆に妥協して自らの権力を削減する事を約し、永禄10年(1567年)に六角氏式目を制定して、お互いに起請文を交し合った。しかし、この観音寺騒動で生じた、君臣間の溝は深かった。六角家はこういう状態で、翌永禄11年(1568年)の織田信長の上洛を迎え撃つ事になる。 


信長は上洛に先立って、義弟となった浅井長政の支城、佐和山城に入り、そこから六角承禎・義治父子に対して上洛への協力と人質提供を呼び掛けた。信長は7日間に渡って説得に努め、足利義昭からも、協力するならば京都所司代に任ずるとの言葉まで伝えられた。しかし、六角父子は三好三人衆と通じて、あくまで対抗の構えを崩さなかった。そこで信長は武力制圧を決し、永禄11年(1568年)9月7日、5、6万人と称される大軍を率いて岐阜を発った。これに対して六角父子は、観音寺城を主城に近隣の和田山城、箕作(みつくり)城に兵を込めて迎え撃つ態勢を取る。9月12日午後16時頃、織田軍はまず箕作城に狙いを定め、これに猛攻を加えた。戦いは夜半に及んだが、城方は支えきれず箕作城は落ちた。


この報を聞いて観音寺城の六角方は戦意を喪失し、その夜の内に六角父子は城を捨てて甲賀に逃れ去った。信長としては、巨大城郭がこうも呆気なく落ちた事に、肩透かしを食った思いだったろう。一方、六角氏としては強敵を前にして、ここは過去の前例にならって一旦、甲賀に退き、捲土重来を待つ気であった。実際、そうやって主城を奪回してきている。だが、以前と違うのは信長の勢威が過去のどの勢力よりも強大だった事、これまで六角氏を支えてきた国人達が、こぞって信長に忠誠を誓ってしまった事であった。やはり、観音寺騒動が響いていたのだった。それでも六角父子は諦めず、甲賀で情勢の変化を待ち続ける。 


元亀元年(1570年)、信長は越前遠征に失敗し、朝倉・浅井・三好、本願寺などを敵に回して四面楚歌に陥った。六角父子はここぞとばかりに江南で挙兵し、一向一揆や旧臣の助力も得て勢力回復戦に乗り出した。これに対し、織田方からは柴田勝家・佐久間信盛の部隊が駆け付け、両軍は落窪(おちくぼ)にて一戦に及んだ。しかし、寄せ集めの六角軍は、統制の取れた織田軍の前に大敗を喫し、旧臣の三雲定持ほか伊賀、甲賀の武士780人余が戦死してしまう(落窪の戦い・または野洲川の戦い)。この戦いでは、六角軍に攻められた柴田勝家が長光寺城に篭城し、士気を鼓舞するため水瓶を全て叩き割り、その上で一戦に及んで六角軍を撃ち破って、瓶割り柴田の異名を取ったという伝説が残る。いずれにせよ、この一戦で六角氏の戦力のほとんどが失われた。だが、六角父子に諦める気配は無く、観音寺城の南東にある鯰江城を拠点に、尚も失地回復の機会を窺う。 


同年9月、朝倉・浅井連合軍が近江を南下し、比叡山に立て篭もって信長の主力と対峙する状況になると、六角父子は再度、挙兵に及んだ。しかし、今回の六角軍の兵力は乏しく、ただ騒がすだけしか出来なかった。それでも、四方に敵を抱えていた信長にとっては脅威であり、11月12日には六角父子と和議を結んでいる。同年12月13日には、朝倉・浅井軍とも和議を結ぶ事に成功し、信長は危機を脱する事が出来た。しかし、これは一時の休戦であって、六角父子は尚も江南を窺い続ける。元亀3年(1572年)早々、六角父子は江南の一揆と結んで、琵琶湖岸まで進出した。翌元亀4年(1573年)は戦国の世にとっても、六角氏にとっても激動の年となる。同年4月に武田信玄が死んで信長包囲網が崩れ、7月には足利義昭が追放されて室町幕府は滅亡し、8月には朝倉・浅井家も滅ぼされた。 


同年9月4日、六角義治の籠る鯰江城も柴田勝家に攻撃され、開城を余儀なくされる。義治は、父、承禎が篭る近江石部城に移り、尚も反信長の姿勢を示した。しかし、この頃になると甲賀の者であっても、六角氏から離反する者が絶えなくなり、天正2年(1574年)4月には城を捨てざるを得なくなって、六角氏は完全に没落した。承禎はその後、浪々の身となって慶長3年(1598年)に78歳で死去。義治は武田勝頼を頼って落ちのびたが、天正10年(1582年)、信長による武田攻めで頼みの勝頼も滅亡し、自身も殺されるところを間一髪で逃れた。その後、豊臣秀吉による天下統一が成ると、義治は弓馬指南役として仕えた。承禎・義治父子は弓の達人であったと伝わる。慶長17年(1612年)、義治は大名身分に戻る事無く、68歳で死去。 


その後の観音寺城であるが、六角父子が城を捨てた後も信長によって利用されていたと思われる。天正4年(1576年)、信長が安土城を築いた際に、観音寺城から多くの建材や石材が転用されたが、安土城と観音寺城とは尾根続きで繋がっているので、防御拠点としての機能は持たせてあったと思われる。しかし、天正13年(1585年)、安土城が廃城になった際、支城としての観音寺城の役割りも終わり、ひっそりとその歴史に幕を閉じた。現在、観音寺城は草木に覆われ、訪れる人もほとんどいない。だが、繖山(きぬがさやま)の山上部を巡り歩けば、見事な石垣や広い屋敷跡が、所々に残されている。それは、忘却の彼方に消えた戦国大名六角氏が、確かに南近江の雄であった事を物語っている。

ナポレオンの死 遺体の行方

2011.10.27 - 歴史秘話 其の二
現在、ナポレオンの遺体は、パリにある廃兵院(アンヴァリッド)に安置されている。しかし、この遺体が、別人の者であると言えばどうなるだろうか?もし、そうであればフランスのみならず、全世界に衝撃を与える事になるだろう。何故、こんな疑いをもたれるのかと言うと、1821年にナポレオンが死亡して埋葬された状態と、1840年にフランスに返還するため、棺が発掘された時の状態とは明らかに異なっていたからである。 


1821年の埋葬時 
①ナポレオンの棺の下には2本の材木が敷かれて、湿気が棺に達しないようにされていた。 
②3重の棺。錫(すず)→鉛→マホガニー(高級木材)の順 
③銀の拍車の付いた乗馬用長靴 
④白い絹の靴下 
⑤三つの飾り。レジオン・ドヌール、鉄冠章、レユニオン章 
⑥色あせたパレードの服装 
⑦革命の3色の帽章の付いた帽子が足に載せられた。 

1840年の発掘時 
①棺を支える材木が無くなっていた。 
②4重の棺 錫→マホガニー→鉛→マホガニーの順 
③長靴には拍車が無い。縫い目がゆるんで、指が露出していた。 
④絹の靴下は無い。 
⑤二つの飾り。レジオン・ドヌール、鉄冠章 
⑥新しく見える普段の服装 
⑦帽章の無い帽子が尻にあった。 


1821年5月5日にナポレオンは死亡する。イギリス人軍医ヘンリー曰く、「なんと美しいことか皆が言った。皆、こんなに綺麗で整った死に顔は見た事が無いと異口同音に言った」。しかし、セント・ヘレナの熱帯性気候は、容赦がなかった。5月6~7日には、イギリス人士官や島の住人が弔問に訪れたが、もうその時には遺体の腐敗は進み、悪臭が漂っていた。ナポレオンの侍従の回想、「遺体の臭いがきつくなったので、ドアや窓を開けねばならなかった。人々は側に長く居る事に耐えられなかった。」 


1821年の遺体の状況 
①顔も頭も完全に剃られていた。 
②口は閉じていた。 
③顔立ちは完全に変質し、見分けがつかなくなっていた。 
④体は腐敗が進み、崩れかかっていた。 
⑤内臓を抜かれた体は伸びていた。 

1840年の遺体の状況 
①顔には髭が生え、頭にもいくらか髪の毛があった(死後、髪が伸びる現象もある) 
②口は開き、3本のとても白い歯が覗いていた。 
③顔は若く気品があった。顔立ちは変化していない。 
④肉体はミイラ化され、体型を保っていた。 
⑤内臓を抜かれた体は新鮮さを保っていた。 


1840年時に発掘されたナポレオンの遺体は、実は1818年2月27日に死亡した給仕長チプリアーニの遺体でないかと見る向きがある。チプリアーニはナポレオンと同郷で、体はより大きいが顔立ちは比較的、似ていた。チプリアーニの遺体は、セント・ヘレナ島の中心街ジェームズ・タウンに埋葬されていたが、後に墓地から消えてしまっていた。本物のナポレオンの遺体は、イギリス本土にあるウェストミンスター寺院に無名のまま安置されているとする向きも多い。生前のナポレオンも、「唯一の恐れは、イギリス人が私の遺体をウェストミンスター寺院に安置する事だ。無理にもフランスに返させてほしい」と述べていた。 


イギリス政府はナポレオンを籠の鳥としても、ヨーロッパ全体を震撼させたこの人物に対する警戒は怠らず、執拗なまでの監視体制を布いていた。もし、ナポレオンがフランス本土に舞い戻るような事があれば、この人物は三度、ヨーロッパに波乱を巻き起こす可能性が高い。このような危険人物は早めに消えてもらうに越したことは無いと考えるのが、普通ではなかろうか。しかし、表立っての殺害となると、イギリスという国家の名誉に傷が付くばかりでなく、フランス国民からの激しい反発を食らう事になる。そうなると、早めに病死してもらうか、病死のように見せかけて殺害するしかない。もしかすると、ナポレオンの信頼篤く、邸宅のワイン管理人だったモントロンと共犯に及んだのかもしれない。しかし、その後、ナポレオンの遺体が精密検査されて毒殺の疑いが出れば、困るのはイギリス政府である。なので、遺体をすり替えた(もっともチプリアーニの遺体も砒素中毒の疑いがあるが)。しかし、断っておくが、これもあくまで推理の一つに過ぎず、真相は闇の中である。 


1839年、モントロンはフランスで破産し、債権者に終われてイギリスに逃げ込んだ。ここで、モントロンはターナーと言うイギリス人に助けられ、15万リーブル・スターリング(現在の額で70万ユーロ)の巨額の資金を融資される。しかし、モントロンは、この金を不正に着服した。巨額の資金を騙し取られたにも関わらず、ターナーは告訴もせず、イギリス政府からもなんのお咎めも無かった。実質的には、イギリス政府から金を贈られたようなもので、何とも不自然である。現在、パリの廃兵院には疑惑のあるナポレオンの遺体が安置されている。唯一真偽を確かめる方法は、DNAによる鑑定であるが、何故か、フランス政府は頑なにそれを拒否している。


主要参考文献「ナポレオンは殺された」

ナポレオンの死 不可思議な死因

2011.10.27 - 歴史秘話 其の二
1821年5月5日、ナポレオンは51歳で死亡する。その死因は、セント・ヘレナ島の熱帯気候の過酷な生活や、島の総督ハドソン・ロウからの締め付けが原因とする向きが多い。しかし、その死因は今だはっきりとはしていない。後年、ナポレオンのものと伝えられる頭髪を科学検査した結果、平常値を遥かに上回る砒素が検出されている。それにナポレオンが生前に訴えた症状は、砒素中毒と余りにも良く似ていた。頭髪は薄く細くなり、体毛のほとんどが抜け落ちる・歯茎の腫れ・強い光線を嫌う・両足の冷え・肝臓の肥大・右上腹部の痛み・空咳・重度の不眠・執拗な便秘・などである。砒素は有害で、摂取すると様々な中毒症状を引き起こして人を死に至らしめる物質である。砒素の量を加減する事で症状を左右する事も可能で、これを少量ずつ長期に渡って摂取させれば、病気の様に見せかける事も出来る。しかも無味無臭で、食べ物や飲み物に混入しても誰にも分からない。 


これを入れられるとすれば、取り巻きの親しい人物しかいない。最も疑わしいのは邸宅の内邸係で、ねずみ退治用の砒素を扱う事もあったモントロン将軍である。モントロンは1783年7月21日生まれで、1815年8月8日のナポレオンのセント・ヘレナ行きにつき従った時は32歳だった。旧貴族の出身でナポレオンよりも、それに反するブルボン王家に縁が深い人物だった。賭博好きの大変な浪費家で、兵隊への給金を横領するという不祥事も起こしている。ナポレオンとはそれほど親しい間柄では無く、ナポレオンがエルバ島から脱出して、百日天下を握った際も駆けつけていない。にも関わらず、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて全てを失った時、何故か突然、目の前に現れてセント・ヘレナ行きに従った。この時、モントロンは給金横領で訴えられており、更に破産状態で債権者にも追われていたから、他に行き場が無かったのだった。 



モントロン
↑モントロン将軍 


島でのモントロン夫妻は、ナポレオンの遺産に預かれる事を期待して、献身的に尽くした。ナポレオン自身も遺産目当てであると気付いていたが、細部にまで行き届いたその世話働きには感じ入って、夫妻を深く信頼するようになる。そして、夫人のアルビーヌとも夜を共に過ごす関係となった。1818年1月26日には、モントロン夫人アルビーヌはナポレオンに良く似た女児(翌年死亡)を出産している。1816年12月30日、ナポレオンから一番寵愛を受けていたラス・カーズ伯爵が離島すると、モントロン夫妻はこれを喜んでいたとグウルゴウ将軍は日記に記している。そのグウルゴウ将軍もモントロンとの仲違いの末、1818年2月18日に島を去った。 


側仕えの者が減ると、モントロン夫妻に対する寵愛は益々深まっていった。もし、ナポレオンの遺産が目的であったとするならば、取り巻きの人間は少なければ少ないほど良い。その方が、より多く遺産に預かれる見込みが立つからだ。1819年7月12日、モントロン夫人アルビーヌは体調を崩して島を去る事になると、ナポレオンからは20万フランの手形と、ダイヤを散りばめた肖像入りの金の小箱が贈られる。ナポレオンはアルビーヌとの別れを惜しんで、涙を流した。そして、島に留まるモントロンのためにも、4万4千フランの年金と、14万4千フランの手形を贈与した。 



アルビーヌ
↑モントロン夫人アルビーヌ 


モントロンは邸宅の酒蔵係で、ワイン貯蔵庫の鍵をもっていたようだ。酒蔵にはナポレオン専用の樽と瓶があって、モントロンがこれを管理していた。もし、モントロンに悪意があれば、砒素を盛るのは容易である。それにモントロンは邸宅の責任者であったので、ねずみ退治用の砒素も管理していた。この砒素は、総督のロウからモントロン宛てに送られたもので、記録にも残されている。ナポレオンは専用のワインを、イギリス植民地南アフリカのコンスタンシアから取り寄せていた。このワインはイギリスの卸売り商人の手を経て、セント・ヘレナに持ち込まれていた。そして、これを樽から瓶に詰め替えていたのが、モントロンだった。 


ナポレオンの健康は1817年から変調を来たし始め、1818年からは、はっきりと悪化していった。 

1818年春、セント・ヘレナの住人ベツィ・バルコーム曰く、「病気のための変わりようは見ていて辛いほど。顔色は文字通り蜜蝋(みつろう)の様、両頬は垂れ下がり、くるぶしは腫れ上がって肉が靴からはみ出していた。ひどく弱っていて、一方の手を脇の机に、もう一方を付き添いの肩にかけないと立っていられなかった」 


1818年2月24日には、尋常ではない事件も起こっている。ナポレオンの信頼篤い給仕長チプリアーニと、召使いの女性とその子供が突然、下腹部の激しい痛みを訴えて昏倒し、3日ともたずに3人とも死んでしまった。召使いの女性はチプリアーニの愛人だった。3人で飲み物や食べ物を食べた際、何かしらの毒に当たった可能性がある。チプリアーニは酒蔵庫の合鍵を持っていたようなので、もしかするとナポレオン専用のコンスタンシア・ワインを盗み飲んだのかもしれない。砒素はグラス1杯ぐらいなら直ちに症状が現れる事は無いが、一度に瓶を何本も飲み干すような事があれば、急性砒素中毒で短期間で死に至る。その事件から数ヵ月後、ナポレオンから送られたワインを飲んだベルトラン夫妻は、その日からしばらく病気になる出来事も起こっている。ナポレオン自身はワインを瓶1本飲むような事はせず、1日にグラス1、2杯を飲む程度だった。もし、これに砒素が含まれていたとすれば、ゆっくりと症状は進行していく事になる。 


1818年7月、侍従マルシャンの記録、「皇帝は風呂から出られると、吐き気がして胸が悪くなり嘔吐された。セント・ヘレナに来て初めての事である」 


1818年7月26日、侍医オミーラの診断書、「肝臓の機能低下、気管支炎、消化不良と便秘に加え、右腹部に焼けるような痛み。胆汁質の嘔吐あり、胃の右側は腫れ、押さえると鈍痛。眩暈が頻発」 

1819年、侍従マルシャンの回想、「両足が冷えて、どうしても温まらない。水銀の丸薬を飲み出すと、脇腹に剃刀で切られるような痛みが感じられる。お顔全体が青白くなり、お体の毛が抜け落ちてしまった」 

1820年7月19日、侍医アントムマルキの報告、「皇帝は発熱、震え、激しい空咳をして、苦い胆汁を吐いた」 

1821年1月29日、侍医アントムマルキの報告、「極度の衰弱。どんよりとしてほとんど視力の無い目。神経質な空咳。口の中が乾いている。胃の痛み」 

1821年4月13日、ナポレオンはマルシャンとモントロンを部屋に呼び、口述で遺書の作成を始める。この時、モントロンは、ナポレオンから我が息子と呼ばれるまでの信頼を受けており、2人で相談しつつ、遺言書をまとめていった。 

1821年4月29日、侍医アントムマルキの報告、「昨日から聴力がとても衰え、老人に向かっているように大声で叫ばねばならなかった。こんな事は初めてだ」 

1821年5月5日、17時50分、昏睡状態に陥ったナポレオンは息を引き取った。侍医のアントムマルキがその両目を閉じた。 


1826年、セント・ヘレナ行きに従った主要人物達に、ナポレオンの遺言に従って遺金の分配が成された。ベルトラン伯爵に28万5千フラン、ラス・カーズ伯爵に6万フラン、忠実な従僕マルシャンに24万8千フランだった。だが、モントロンは他を突き放す135万フランを受け取っていた。これは、ナポレオンから最も多くの遺産を受け取った事になる。にも関わらず、モントロンは浪費を重ねて、大量の負債を抱え込んだ。そして、1828年には妻のアルビーヌとも別れ、翌1829年には法廷から破産宣告されるに到った。1846年、モントロンは回想録を出版する。その中で、当時、誰も問題には取り上げていなかったのに、ナポレオンに毒殺の疑いは無いと言明している。モントロンの回想、「ナポレオンが毒入りの食事や飲み物を口にする事はあり得ない。自分が皇帝の食卓に出る全ての料理と飲み物を試飲していたからだ」。 


1853年、モントロンは多くの謎を残したまま、70歳で死去する。この時、モントロンの息子は、廃兵院(アンヴァリッド)に眠るナポレオン一世の側に父の棺が置かれるよう、要望した。同じセント・ヘレナの忠臣であったベルトラン伯爵の棺も、廃兵院に納められていたからだ。しかし、時のフランス皇帝ナポレオン3世は、モントロンの素行不良を問題視してか、それとも何らかの疑いを持っていたからか、「廃兵院にモントロンのための場所は無い」とこれを拒否している。モントロンがナポレオンを砒素で暗殺したという確たる証拠は無く、あくまでも疑惑でしかない。それにモントロンが、身を磨り潰す様な献身でナポレオンに尽くした事も否定出来ない。だが、ナポレオンが死んで、最も受益を被ったのも事実である。ナポレオン死去の現場を描いた、マルシャンによるスケッチが残されている。これにはベルトラン、マルシャン、アントムマルキらの署名が載せられていた。しかし、モントロンだけは意味深げに、次のような言葉を書き込んでいた。 

「私がナポレオンの目を閉じた」 

ナポレオン死去時、実際に目を閉じさせたのは、侍医のアントムマルキであったのだが・・・ 


モントロン
↑モントロン将軍

セント・ヘレナのナポレオン 孤独と苦悩の日々 2

2011.10.16 - 歴史秘話 其の二
1820年の中頃を迎えると、ナポレオンの健康状態は目に見えて悪化していた。体力は衰え、屋内で過ごす日が多くなる。肉を飲み込む事が出来なくなり、肉汁だけを飲んだ。侍従達や医師は、ナポレオンの許す範囲で懸命に治療に務めたが、良くなる気配は無かった。1821年を迎えると、四輪馬車に乗る事も、散歩に出るのも稀になり、3月17日にはついに寝たきりの状態となる。ナポレオンは胃の幽門がやられていると言っていたが、当時の医療ではどうしようもなかった。3月後半、ナポレオンが口に出来るのは、少量のゼリーとスープのみだった。イギリス人軍医はその様子を見て、吐剤を飲ませようとしたが、ナポレオンはこれを拒否する。


ナポレオンは医者を信用しておらず、軍医に向かって、「そなた達医者は、無分別に仕事をしておられる。医学は命を救うよりも、奪う事の方が多いのですぞ」と言うのだった。当時の医療水準はまだまだ低く、誤った治療法が満延して、それによって命を落とす者は実に多かった。明敏なナポレオンは、それを察していたのだろう。ナポレオンは、カンゾウ(漢方薬に用いられるマメ科の多年草)の根が入ったボンボン入れを持ち合わせており、これが唯一好みの薬だと語っていた。そして、これをジュースにして飲むのが常だった。4月、イギリス人軍医から、広くて風通しも良い新居が完成したと告げられたが、最早、何の意味も無かった。ナポレオン曰く、「遅きに失するとはこの事ですぞ。今になって新居の鍵を渡されても、余はもう終わりだ」


4月13日、ナポレオンは僅かなゼリーしか受け付けられなくなり、それすら戻すようになった。そして、口述で遺言書の作成を始める。4月16日、ナポレオンはぶどう酒に浸したビスケットを一枚、口にしたがすぐに戻した。この日、侍従達が心配する中、自ら遺言状を書き続けた。ナポレオンは医者を信用していなかったが、フランス人軍医のラレイだけは手放しで賞賛した。「ラレイはエジプトでもヨーロッパでも、どれだけの兵士達の病気を看てくれたか。隊列の先頭から後尾まで走り回って、看病していた。何という男だ。実に勇敢な、立派な男だった。余は心から敬意を払ったが、決して裏切られる事はなかった。もし軍が記念碑を建てるなら、ラレイをモデルにするべきであろう」。(ドミニク・ラレイ医師、当時の劣悪な医療の改善に力を注ぎ、敵味方の区別なく治療にあたった時代の良心)


4月20日、ナポレオンはイギリス人軍医に、イギリス政府を非難する言葉を伝えた。

「余は誠実なもてなしを求めて、英国政府のもとにやってきた。この世には、あらやる真っ当なものがあるにも関わらず、イギリスは鉄鎖で余に答えた。最低限の家族との連絡さえ禁止され、妻と息子の消息は一切知らされなかった。住居として住むには最も適さない場所が与えられ、殺人的な熱帯性気候にも悩まされた。そして、全ヨーロッパを駆け巡っていた余が、四つの壁に閉じ込められねばならなかった。先生、これが貴国の政府から受けた、もてなしですぞ。余は詳細な長期計画で暗殺されつつある。あの忌まわしいハドソン・ロウは貴国の大臣達の手先だ。余はこの恐ろしい岩山で死し、イギリスの統治するこの屋敷に死という汚名を遺贈する」


5月3日、ナポレオンは、ぶどう酒を垂らした砂糖水を少し口にするのみだった。5月4日、しゃっくりが出るようになり、うわ言をもらすようになった。それは、フランス、我が息子、軍隊と聞き取れた。5月5日、17時50分、侍従達に見守られながら、稀代の征服者は逝った。ナポレオン・ボナパルト、51歳。一族や家族の付き添いも無い、なんとももの悲しい最後であった。5月7日、ナポレオンの顔からデスマスクが取られた。ナポレオンは生前、息子にも同じ病気が生じた時に備えて、遺体を解剖し、自らの病根を明らかにするよう遺言していた。それから、心臓と胃はメチルアルコール入りの銀器に収めて、妻のマリー・ルイーズ宛てに送るようにとも伝えていた。



Noporeon3.jpg
 









↑ナポレオンの死去


ナポレオンの遺体解剖にはフランス人侍医アントムマルキと、ハドソン・ロウから派遣されたイギリス人医師6人が加わって、作業が行われた。

●アントムマルキによる解剖記録。

皇帝は著しく痩せ、私が赴任した時の半分以下になっている。

遺体には頭に傷跡、左手の薬指に傷跡、左の腿(もも)に深い傷跡。

頭頂から足の先まで1メートル67センチ42ミリ

首は短いが正常、胸が広く、良い体型をしている。

心臓、肺、腸は正常だった。肝臓は充血し、通常以上の大きさだった。

胃の大きな湾曲部を切開すると、不快な刺激臭のする黒ずんだ液体物質が観察された。それを取り除くと、広範囲に癌性腫瘍の瘍が見られた(イギリス人医師団の見解は、癌に発達する可能性のある硬性癌種)。癌性腫瘍は特に胃の内壁上部を占め、上部の噴門開口部から、幽門の2、5cmのところまで広がっていた。胃の潰瘍性内壁面は著しく膨らんで、固くなっていた。


ナポレオンの肝臓は著しく肥大していたのだが、不思議な事にこれは問題にはされなかった。そして、ナポレオンの胃に癌性腫瘍が発見された事から、直接の死因は胃癌となった。しかし、これにはハドソン・ロウから医師団への強要があったとされる。肝臓疾患となると、ナポレオンを不健康な環境に留め置いた、自分の管理責任が問われかねない。そこでロウは、イギリス人医師を呼んで肝臓疾患に関するくだりを報告書から削除させてもいる。侍医アントムマルキの回想によると、胃壁は癌に見える硬性癌種に覆われていたが、胃癌ではなかったと述べている。


アントムマルキの解剖所見では、ナポレオンは著しく痩せていたとなっているが、正反対の証言もある。ナポレオンが死亡する少し前、島の名士ウィリアム。ダブトン卿が訪ね見たところ、「支那の豚みたいに肥え太っていた」と述べている。解剖に参加したイギリス人医師ワルターヘンリーは、1823年9月23日のロウへの報告で、「ナポレオンの体の表面全体が脂肪に覆われていました。脂肪の層は5センチ余りありました」と述べている。ナポレオン死去時、従僕のマルシャンがその時の光景をスケッチに描いているが、それを見るとナポレオンの死に顔はふくよかに見える。普通、胃癌になると痩せ衰えていくので、肥満になるのはおかしい。いずれにせよ、ナポレオンの死因は謎に包まれており、今だにはっきりしていない。


ナポレオンを追い込んだハドソン・ロウであるが、その後、同国人のイギリス人にまでその狭量さを軽蔑され、不遇な生涯を送る事になる。1816年8月18日の会見時、ナポレオンはロウに向かって、こう告げている。

「余の名声は不朽のもので、イギリス政府が書かせた誹謗中傷など無意味である。余の名前は太陽のごとく永遠なのだ。君が振りかざす命令を出している当の政府は、いつの日か君を捨て去り、イギリス国民は君を非難するだろう。世界のどこに行っても、世論は君を追い詰めるだろう。やがて君は、この予言を辛い思いで思い出す事になる。ナポレオン皇帝の呪いが君の上に襲い掛かる事を覚悟しておくがよい」


この予言は的中し、ナポレオン自身による非難の言葉、取り巻きの侍従や侍医達の非難の言葉は歴史となって書き残され、ロウは永遠に汚名を着る事となった。そして、ロウは閑職にまわされ、社交界からも敬遠されて孤独に陥った。これがナポレオンの彼に対する復讐であった。

ハドソン・ロウの述懐

「セント・ヘレナ滞在の頃は、自分の言動が歴史に残るなど、想像もしていなかった。まさか、ボナパルトが口にした悪口が海を越えて伝わろうとは。しかし、こうして歴史は完成し、自分の言動は永遠の文字で書かれて、一行も消し去る事は出来ないのだ・・・」


ヨーロッパ全土を駆け巡り、一時はその大半を制した男が一転、絶海の孤島に閉じ込められ、憂悶の日々を送らねばならなかった。しかし、絶望の淵にあってもナポレオンは決して自暴自棄にはならず、己を貫き通した。そして、最後は激しい痛みや嘔吐で何度も中断しながらも、多くの遺言状を手書きで、それも正確に、しっかりとした字で書き込んでいった。その遺言状は、妻マリー・ルイーズや子息のナポレオン2世だけでなく、共に戦った将軍や、一兵士、エジプト転戦時の召使いにまで到る、非常に行き届いたものだった。それは、この人物が最後まで強烈な意志と精神力を宿していた事を物語っている。ナポレオンの遺体は、セント・ヘレナ島の渓谷の木陰に埋葬された。ナポレオンは生前、自らの遺体をフランスの母なる大河セーヌの畔に埋葬するよう遺言していたが、その願いが適うのはそれから20年後、1840年の事であった。現在、ナポレオンの遺体は、パリにある廃兵院礼拝堂(アンヴァリッド)に安置されている。遺言にあったセーヌの畔では無かったにせよ、心から愛したフランスの大地に身を委ね、深く静かな眠りについている。


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↑廃兵院礼拝堂(アンヴァリッド)に安置されているナポレオンの遺体


主要参考文献 「ナポレオン最後の日」




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