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呉軍港

呉は、広島県南西部にある瀬戸内海に面した都市である。明治以前は寂れた漁村に過ぎなかったが、天然の良港を有していた事から、明治時代になって海軍基地に選定され、以降、莫大な国費が投じられて工場やドックが次々に造成されていった。やがて、呉海軍工廠の規模は東洋最大とまで謳われるようになり、そこから戦艦大和を始めとする、各種艦艇が生み出されていった。軍艦を作るには高度な技術が必要で、それを運用する乗員にも特殊な技能が求められる。この軍艦を建造、補修し、乗員の教育、訓練にあたるのが軍港の役割りであり、これ無くして艦隊は成り立たなかった。



戦前、戦中の日本には横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4軍港があったが、その規模の大きさ、機能の重要さにおいては、呉と横須賀が一頭地を抜いていた。軍艦建造能力でも呉と横須賀が際立っていて、この2港では主に戦艦、空母、重巡洋艦などの大型艦艇が建造されたのに対し、佐世保では軽巡洋艦と駆逐艦、舞鶴は駆逐艦、水雷艇などの中小艦艇が建造されていた。軍港としての呉は太平洋戦争中に最盛期を迎え、昭和18年(1943年)
には短期徴用工も含めると人口は40万人に達していた(2011年時点では約24万人)。しかし、大戦末期、アメリカ軍の攻撃が日本本土にまで及ぶようになると、呉は最重要目標と見なされて、激しい爆撃を受けるようになる。



昭和20年(1945年)3月19日、7月24日、7月28日と三度の爆撃を受けて工場群は壊滅し、呉は軍港としての機能を失ってしまう。連合艦隊の成れの果てである、残存艦艇も悉く沈められ、栄光を誇った日本海軍もまた、壊滅した。戦後、呉は焦土と化し、米軍機が投下した機雷によって船の往来もままならなくなった。けれども、危険を顧みない旧海軍掃海艇の活躍によって機雷は除去されていき、破壊された港湾施設の復興も徐々に進められ、再び工業都市としての輝きを取り戻すようになる。そして、海上自衛隊が発足するにあたって、旧海軍の伝統と設備を受け継ぐ呉は、軍港としても復活する。これからも呉は、日本の海を守る拠点として未来に渡って重要な役割を担い続けるであろう。



大和建造ドック
大和建造ドック posted by (C)重家

↑呉市街


呉では今なお、造船が盛んです。


大和建造ドック
大和建造ドック posted by (C)重家

↑大和建造ドック跡


ここには戦艦大和が建造されたドックがありましたが、現在は埋め立てられています。しかし、上屋の骨組みは、当時のままで残されています。



旧呉鎮守府
旧呉鎮守府 posted by (C)重家

↑海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮守府)


今も昔も、呉軍港の頭脳ともいえる施設です。鎮守府とは軍港を統括する組織で、定められた海域の防備、所属艦船の整備補給、将兵の教育訓練などを担う組織です。呉鎮守府は、明治19年(1886年)に第二海軍区鎮守府(明治22年に呉鎮守府に改称)が設置されたのを始まりとします。外戦部隊である連合艦隊とは別で、鎮守府指揮下にある艦艇は内戦部隊と云われ、駆逐艦、潜水艦、警戒艦、訓練艦、航空隊などで構成されていました。戦前の日本には横須賀鎮守府(東日本を守備範囲とする第一海軍区)、呉鎮守府(西日本の太平洋岸を守備範囲とする第二海軍区)、佐世保鎮守府「九州から台湾、中国、朝鮮半島までを守備範囲とする第三海軍区)、舞鶴鎮守府(日本海を守備範囲とする第四海軍区)が設置されていました。




噫 ( ああ ) 戰艦大和之塔
噫 ( ああ ) 戰艦大和之塔 posted by (C)重家


↑噫(ああ)戦艦大和塔


歴史の見える丘にあって、ここから大和建造ドックを望む事も出来ます。この塔の脇には戦艦「大和」や「長門」の主砲弾も展示されています。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑旧呉海軍工廠塔時計


かつては海軍工廠の屋上にあって終戦まで時を刻んでいましたが、
昭和46年(1971年)に入船山公園に移設されました。




入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑呉鎮守府、司令長官官舎


元となる建物は、
明治22年(1889年)に建てられました。明治38年(1905年)の芸予地震によって倒壊してしまいますが、同年中にその資材を用いて再建されました。昭和20年(1945年)まで鎮守府司令官宿舎として用いられ、戦後は米軍司令官の宿舎となって昭和31年(1956年)まで使用されました。その後、呉市に返還されて一般公開され、平成7年(1995年)に解体修復工事がなされました。建物は、東の洋風館と西の和風館からなっており、国の重要文化財に指定されています。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑鎮守府司令長官の執務室


ここでは歴代連合艦隊司令長官も集って、国事を話し合う機会もあった事でしょう。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑食堂


フランス料理が振舞われたのだとか。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑和風館



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家


東郷平八郎、山本五十六を始めとする錚々たる提督達もこの道を通った事でしょう。

ノスタルジック(郷愁・懐かしむ)、そんな言葉がよく似合う街です。


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大和ミュージアム 2

大和ミュージアムの目玉は、何と言っても戦艦大和の十分の一サイズの巨大模型である。実際の大和の大きさが、全長263メートル、全幅38・9メートルだったので、模型の全長は26・3メートル、全幅3・8メートルとなる。


戦艦大和については世間一般にも広く知れ渡っている事から、簡単な説明だけを記す。大和は、当時の日本人が持ちうる技術を結集して建造されたもので、日本海軍の誇りでもあった。その基準排水量6万4千トンと、砲塔1基2700トンにもなる46センチ3連装砲は、戦艦としては史上最大である。先に紹介した潜水艦「あきしお」の排水量が2250トンだったので、その巨大さが窺い知れる。しかし、当時は最高軍事機密とされていたので、一般人には知る由が無かった。大和が有名になるのは、むしろ戦後であった。


日米開戦間もない昭和16年(1941年)12月16日、大和は大いなる期待を背負って就役するも、既に海戦の主体は空母と航空機に移りつつあり、自慢の主砲が火を噴く機会はなかなか訪れなかった。太平洋戦争末期、大和は海上特攻隊として沖縄に送り込まれたものの、望んでいた敵戦艦との撃ち合いの場面は訪れず、代わって現れたアメリカ軍航空機の集中攻撃を受けて、昭和20年(1945年)4月7日、3千人余の将兵と共に東シナ海の海底に沈んでいった。




大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦大和の十分の一模型



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



戦艦大和の重厚感、機能美が伝わって来る素晴らしい出来栄えです。



砲弾
砲弾 posted by (C)重家

↑主砲弾の数々


左三つは戦艦大和の主砲弾で、左から46センチ91式徹甲弾、46センチ3式弾、46センチ91式徹甲弾の断面です。46センチ91式徹甲弾の全長は1.98メートル、重さは1.46トンもありますが、大和はこの砲弾を42キロ先まで飛ばす事が可能でした。しかし、実際の砲戦では、そんな遠距離に砲弾を放ってもまず命中しないので、砲戦距離は2万~3万メートルを想定していたでしょう。



回天
回天 posted by (C)重家

↑人間魚雷「回天」


これに人間が乗り込んで、敵艦に体当たり自爆する特攻兵器です。実戦にも投入されており、給油艦1隻、護衛駆逐艦1隻、揚陸艇1隻を撃沈しています。回天の戦没者は戦死、事故死、戦後の自決を含めて145人となっています。



特殊潜航艇海龍
特殊潜航艇海龍 posted by (C)重家

↑特殊潜航艇「海龍」


これも回天と同じく、人間が乗り込んで敵艦に向けて魚雷を放ったり、体当たり自爆するための特攻兵器です。戦争末期、本土決戦用に整備されていましたが、実戦に投入される事なく終戦となりました。



零式艦上戦闘機62型
零式艦上戦闘機62型 posted by (C)重家

↑零式艦上戦闘機62型


大和と共に名高い零戦の改良型です。戦争末期に制式化されたもので、初期型より火力が強化されています。


13mm機銃
13mm機銃 posted by (C)重家

↑零戦に搭載された13ミリ機銃



重巡洋艦摩耶
重巡洋艦摩耶 posted by (C)重家

↑重巡洋艦「摩耶」の模型


大和ミュージアムには、これ以外にも多数の日本海軍の艦艇模型が展示されています。

大和ミュージアム 1

大和ミュージアムは、広島県呉市にある博物館である。正式名は呉市海事歴史科学館と言って、日本海軍や呉軍港の歴史、そして、世界最大の戦艦大和についての展示、紹介がなされている。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑大和ミュージアム


左手にあるのが大和ミュージアムで、奥には自衛隊の潜水艦「あきしお」が展示されています。そして、博物館手前には、旧日本海軍の戦艦「陸奥」の装備品が展示されています。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦「陸奥」の41センチ主砲の砲身


陸奥の主砲は45口径41センチ砲だったので、これを掛け算すると砲身の長さは18.45メートルとなります。ちなみに大和の主砲は45口径46センチ砲だったので、砲身長は20・70メートルです。戦艦「陸奥」は長門型戦艦の2番艦として建造され、大正10年(1921年)に就役しました。昭和11年(1936年)には大改装を施されて面目を一新し、全長224、9メートル、全幅34、6メートル、排水量3万9千トンの巨艦となります。長門型は、41センチ砲を8門搭載しており、大和型に次ぐ有力艦と見なされていました。しかし、陸奥は昭和18年(1943年)6月8日、謎の大爆発(不祥事を起こした乗員の自爆が疑われる)を起こし、1121人の乗員を巻き添えにして山口県柱島沖に沈んでいきました。戦後、その装備品が引き揚げられて、各所に展示されています。



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦陸奥の主舵



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜水艦あきしお


まずは、あきしおから見る事にしました。全長76・2メートル、排水量2250トンあるとの事で、間近で見ると巨大です!


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑狭い通路


巨大な艦体とは裏腹に、内部は狭く入り組んでいます。


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑乗員の寝台


ここが乗組員のプライベート空間です。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑艦長室


艦長は艦船で一番階級が高いので、個室が設けられていますが、それでも狭いです。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜望鏡


覗いているのが艦長で、周りの人が乗組員だと思われます。潜水艦の乗員て、随分、高齢なんですね。 ( ̄Д ̄;;


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑あきしおの艦首


かすかに魚雷発射管の跡が窺えます。

18世紀のイギリス医療

2011.12.11 - 歴史秘話 其の二
18世紀、ヨーロッパの海洋帝国イギリスは、世界中から富を収奪し、それをもって世界初の産業革命を成し遂げた。イギリスの科学、工業水準は世界の最先端を走り、帝国は更に発展、拡大しつつあった。しかし、その一方でイギリスの医療水準は科学の進歩から取り残されて、人々は老いも若きも病に苦しんでいた。医療は中世からほとんど進歩しておらず、古代ギリシャの医師ヒポクラテスの教義、「全ての病気は体液の不均衡から生じる」を教義として、それを踏襲するのみだった。そして、人々は病気になれば、あらやる誤った治療法を取り入れた。カニの眼球や木屑に群れるシラミを有効な薬と信じて飲む、水銀などの有毒物資を薬として飲む、胃腸を洗浄すれば治ると信じて下剤や嘔吐剤を飲む、静脈を切開して血を抜く瀉血(しゃけつ)を行う、などなどの治療を行っては、かえって寿命を縮めるのだった。医療事故も日常茶飯事で、医者にかかれば、かえって天に召される時間が短縮される感さえあった。 
 
 
18世紀半ばのイングランドの平均寿命は37歳で、とりわけ子供の死亡率は高かった。1750年から1769年の間に生まれた赤ん坊の内、半分は2歳を迎えるまでに死亡している。子供が生き延びるには体の丈夫さと、運の良さが要求された。この死と隣り合わせの年少期を切り抜けると、体に免疫が付くので、その後は比較的、長く生きる事が出来た。しかし、それでも病気の材料には事欠けなかった。当時のロンドンの居住環境は不浄そのもので、排水溝には人間の排泄物や動物の死骸が流れており、一度、水が溢れれば、それらは路上を覆い尽くした。建物からは住民の排泄物が投げ捨てられ、馬車はそのしぶきを歩行者に浴びせかける。この様な環境であるから定期的に悪性の伝染病が発生し、多くの人々が命を落としていった。勿論、抗生物質のような便利なものもないので、感染症に罹ればひとたまりも無かった。また、当時のロンドンは性風俗が盛んで、聖職者、貴族、軍人、一般市民などあらゆる階層の人々が梅毒、淋病などの性病を抱えていた。人々は絶えず病に脅かされており、生きるというのはサーカスの綱渡りの様なものであった。 
 
 
内臓疾患は、不治の病に等しかった。患者が激しい腹痛を訴えても、18世紀にレントゲン撮影は存在しないので、内科医は病根を突き止められなかった。内科医も外科医も内臓疾患には基本的に無力で、病人に対して嘔吐剤や下剤を飲ませるか、瀉血を施すのみだった。瀉血はあらゆる病気に対して広く行われたが、これは何の意味も無いばかりか、瀉血のし過ぎで免疫機能が低下し、かえって病気が悪化する事も多かった。外目にもそれと分かる腫瘍や、外傷に対しては外科手術も行われたが、当時は麻酔も消毒も存在せず、道具も大昔からほとんど変わらない両刃刀とノコギリが使われるなど野蛮そのものだった。麻酔が使用されるようになるのは19世紀中頃で、消毒が確立されるのも19世紀後半である。そのため、外科手術を受ける患者は、手足を縛られて激痛に耐えねばならない。消毒の概念も無いので、傷口から細菌が侵入して重い感染症に罹る事も多かった。手術は一か八かの賭けに等しい。 
 
 
戦場は、最も感染症に罹りやすい環境だった。野戦病院に銃弾がめり込んだ負傷者が運ばれてくると、軍医は拡張術と呼ばれる手術を施し、傷口を開いて銃弾をピンセットか指で摘み出し、散らばっている骨片や弾片を取り除いて、最後に傷口を縫合する。しかし、この手術を受けられるのは主に手足を負傷した者で、腹部に重傷を負った者にはお手上げで、患者は死を待つのみであった。だが、適切と思われる、この銃弾摘出手術を受けると、かえって死ぬ者が多く出た。弾丸を体内に残すと患者に痛みを残すし、そこから感染症が広がる恐れもあるので、それを摘出するという考え自体は間違っていない。だが、麻酔無しで裂けた傷口を更に広げる手術は、患者に激痛と大量出血をもたらして弱らせ、その上、軍医は消毒無しの汚れた手術器具や手で傷口をまさぐるので、感染症の機会を大幅に増やしてしまうのだった。傷の状態にもよるが、そのまま放置して自然治癒力に委ねた方が、治りが早い事例も報告されている。また、戦地は兵士の汚物で溢れ、水も汚れているので、赤痢やチフスなどの集団感染症もよく発生する。戦地では、どちらか言えば銃弾で死ぬよりも、病気で死ぬ者の方が多かった。 
 
 
虫歯もイギリス人の悩みの種であった。ヨーロッパ社会で広く紅茶が飲まれるようになると、それに合わせて砂糖も大量に消費されるようになる。虫歯は老若男女を問わず、上流階級から下層階級まで平等に襲い掛かった。美しく着飾った貴婦人が微笑みかけても、その歯はがたがたで、黒ずんで欠けているなど日常茶飯事だった。当時は虫歯に対しても効果的な治療法が無いので、悪化すれば抜歯する他なかった。その抜歯であるが、何故か地位の低い者がする仕事との風潮があったので、床屋や、行商人、鍛冶屋などが主に行っていた。しかし、彼らの技量や方法はまちまちで、患者の中には歯肉をごっそりえぐられて顔が腫れあがり、一日中、激痛に苦しむ事もままあった。18世紀には、貧しい者から健康な歯を買い上げて、その歯を上流社会の者に移植する手術も流行っている。しかし、この移植された歯は、血管と神経まで縫合されていないので生着はせず、数年も経てば抜け落ちた。しかも、この移植で梅毒を移される例もあった。 
 
 
18世紀のイギリスでは、「全ての病気は体液の不均衡から生じる」という古典的な教義に拘る医療従事者は今だ多かったが、それでも新進気鋭の医者の中には、患者の生前の病態と、その死後の体の状態を調べて死因を特定するという実践的、科学的な手法を取り入れる者も現れ始める。そして、人体に対する研究熱が高まって、死体解剖が広く行われるようになった。だが、その熱意に反して、検体の数は余りにも少なかった。検体には、主に死刑囚の死体が使われたがそれでも足りず、墓場に収められたばかりの新鮮な死体が次々に盗みだされていった。解剖医達は、あらゆる病死体や幼児、妊婦を含む老若男女の死体を求めたため、やがて、死体盗掘を専門とする組織まで現れ、墓荒しが横行する事態となった。真っ先に狙われるのは浅く埋められている貧しい人々の墓で、その需要が高まった時には空っぽの墓ばかりとなった。死体を巡って盗掘団同士が暴力沙汰を起こす事もあったし、珍しい病態の死体を巡って解剖医の間で争奪戦が繰り広げられる事もあった。 
 
 
政府は腕の良い外科医が不足している現状を認識していたため、こういった死体泥棒や解剖医の存在を大目に見ていた。しかし、死体目的の殺人が起こるなど、死体盗掘が大きな社会問題となってくると、1832年には解剖令が施行されて、この悪習にも終止符が打たれた。医師達は、人々の目の前で犬や羊など生きた動物の腹を割いて実験して見せたり、人体実験を兼ねた危険な新治療を数限りなく行って失敗と成功を重ねていった。いくら医療の発展のためとは言え、彼らの行為は社会の規範や道徳を逸脱する面があって、数多くの批判を受けた。だが、こうした新進気鋭の医師達のあくなき探究心の結果、今まで説明のつかなかった病気の因果関係が明らかとなり、将来の予防や治療に光を当てる形となった事も確かである。そして、19世紀に入ると、観察と実験、証拠を突き詰めて病気を明らかにするという科学的手法が一般的となり、医学は飛躍的な進歩を遂げる事になるのである。


主要参考文献 「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」



 

観音寺城

観音寺城は、滋賀県近江八幡市安土町にある山城である。この城は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれていて、全国屈指の山城とされている。城には多くの石垣が用いられており、往時には千以上の郭(くるわ)が張り巡らされていた。麓から眺めるとさぞかし壮観だった事だろう。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓から眺める観音寺城



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑麓にある日吉神社



観音寺城に登るには、安土城考古博物館から桑実寺を経て登るルートもありますが、今回は日吉神社から観音正寺を経て登るルートを取りました。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音寺正寺へと続く石段



この様な石段がどこまでも続きます・・・登った日は9月初旬でしたが、うだるような暑さで汗だくとなり、セミも鳴きまくっていたと記憶しています(;´д`)ゞ アチィー!!山上部ではスズメバチとも遭遇しましたΣ(゚Д゚;)



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑観音正寺


この寺を正面から見て左手を下ると、観音寺城への道があります。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸跡


六角氏の屋敷があった場所です。今はただ、静寂な空間が広がるのみでした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑本丸手前の石垣


昔は立派な門が構えてあったはずです。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑家臣の屋敷跡


六角氏は君臣が一つにまとまっていれば、観音寺城も強固な城となっていたでしょう。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

繖山(きぬがさやま)山頂部から眺める安土山


安土城と観音寺城は、尾根続きとなっています。




観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑湖東平野


昔の近江国は、日本有数の穀倉地でした。



観音寺城
観音寺城 posted by (C)重家

↑石垣


写真では掴み難いでしょうが、奥にあるのはかなりの巨岩です。この観音寺城は戦国期の城としては珍しく、かなりの石垣が散見出来ます。今でこそ寂れていますが、往時には立派な屋敷が建ち並んで城主と家臣が住まわり、その他にも多くの人々が城を維持したり、警護するために暮らしていました。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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