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- 2011.11.13 六角氏と観音寺城
- 2011.08.20 長州藩と萩城
- 2011.08.15 吉川広家と岩国城
- 2011.08.06 荒木村重と有岡城
- 2011.07.23 浦上氏の興亡
観音寺城は、滋賀県近江八幡市にある山城である。近江守護六角氏の本拠地として用いられ、戦国の山城としては全国屈指の規模を誇る。 城は、湖東平野にそそり立つ独立峰、繖山(きぬがさやま)の山上部一帯に築かれており、最盛期には千以上の郭(くるわ)が張り廻らされた。中世城郭は土塁を基本としているが、観音寺城は異例とも言えるほど石垣が多用されている。また、観音寺城は交通の要衝にあって、付近には美濃国から山城国に至る街道、東山道(後の中山道)や、琵琶湖に直結する港、常楽寺や豊浦を管制下に置く事も出来る。もし、近江以東の戦国大名が上洛を試みても、観音寺城に拠る六角氏がそれを阻めば、城を落とす以外に通過する方法は無い。
観音寺城の創建年は定かではないが、「太平記」によれば、建武2年(1335年)、南朝方の北畠顕家の南下に備えて、北朝方の六角氏頼が立て篭もったとあるから、南北朝時代には築かれていたようである。ただし、この頃はまだ砦のようなものだっただろう。応仁元年(1467年)、応仁の乱が発生すると六角氏も否応無く戦乱に巻き込まれ、それから幾度となく観音寺城を舞台に攻防戦が繰り広げられた。その過程で観音寺城の改築は進み、一大城郭へと発展していった。観音寺城の見かけは稀有壮大であるが、城の構造は、郭(くるわ)をただ並べただけの単純な作りで、明確な防御施設は見出せない。郭は、国人領主達の屋敷でもあり、居住性が重視されていた。彼ら国人領主は一応、六角氏に従っているが、半独立的な存在で、観音寺城に屋敷を持つと共に、自らの本拠地にも城を構えていた。
六角氏は、自立性の強い国人達の上に成り立つ連合政権的な性格を持っていたので、その権力構成が城の構造にも現れているのだろう。その為だろうか、六角氏は強敵に攻められる度、城を捨てて甲賀に逼塞(ひっそく)し、機を見て城を奪回するというのを常套手段としている。六角氏は、近江源氏佐々木氏の流れを組んでおり、鎌倉時代より南近江を支配してきた名門であった。南北朝の争乱や、応仁の乱も切り抜けた六角氏は、定頼(1495~1552年)の時代に最盛期を迎える。定頼は、畿内の大勢力、三好長慶と戦って中央の政局に介入したり、北近江の新興勢力、浅井亮政と戦ってその行動を押さえ込むなど、東西奔走の活躍を見せる。定頼は内政手腕にも優れており(楽市楽座の創始者とも)、観音寺城下を繁栄に導いて、南近江に確固たる勢力を築き上げた。
定頼の子、義賢(1521~1598年)も一角の武将で、天文22年(1553年)には浅井久政と戦って、これを大いに破り、浅井家を従属化に置いた(地頭山合戦)。永禄2年(1559年)、義賢は隠居して承禎と号し、その子、義治(1545~1612年)が跡を継ぐが、実権は尚も承禎が握っていた。永禄3年(1560年)、浅井家でも家督交代があって、若干16歳の長政がその跡を継いだ。だが、若いながらも長政には覇気があり、六角家からの離反を表明する。その為、承禎・義治父子は大軍を率いて浅井討伐に向かった。この時、浅井軍は4~5千人余、六角軍が8千~1万人余と六角軍の方が遥かに優勢であったが、油断があったのか六角軍は大敗を喫してしまう(野良田の戦い)。この敗北で六角家の威信は大きく失墜するが、逆に浅井氏は勢い付いて、攻勢に転じる。この後、承禎は畿内の三好長慶にも戦いを挑んだが、こちらの戦況も思わしくなく、中央の政局からも追い出された(永禄5年(1562年)教興寺の戦い)。
永禄6年(1563年)、六角義治は、専横が目立つとして重臣筆頭格であった後藤賢豊父子を殺害する事件を起こす。これは家臣の国人領主の権限を削減し、中央集権を目指す方策だったのかもしれない。しかし、これに対する国人衆の反発は激しく、各々、観音寺城の屋敷を焼き払って、それぞれの城に立て篭もる事態となった(観音寺騒動)。六角氏による統治はままならなくなり、この機に乗じて北近江の浅井長政も南下して来るという危機的な状況に陥った。その為、義治は国人衆に妥協して自らの権力を削減する事を約し、永禄10年(1567年)に六角氏式目を制定して、お互いに起請文を交し合った。しかし、この観音寺騒動で生じた、君臣間の溝は深かった。六角家はこういう状態で、翌永禄11年(1568年)の織田信長の上洛を迎え撃つ事になる。
信長は上洛に先立って、義弟となった浅井長政の支城、佐和山城に入り、そこから六角承禎・義治父子に対して上洛への協力と人質提供を呼び掛けた。信長は7日間に渡って説得に努め、足利義昭からも、協力するならば京都所司代に任ずるとの言葉まで伝えられた。しかし、六角父子は三好三人衆と通じて、あくまで対抗の構えを崩さなかった。そこで信長は武力制圧を決し、永禄11年(1568年)9月7日、5、6万人と称される大軍を率いて岐阜を発った。これに対して六角父子は、観音寺城を主城に近隣の和田山城、箕作(みつくり)城に兵を込めて迎え撃つ態勢を取る。9月12日午後16時頃、織田軍はまず箕作城に狙いを定め、これに猛攻を加えた。戦いは夜半に及んだが、城方は支えきれず箕作城は落ちた。
この報を聞いて観音寺城の六角方は戦意を喪失し、その夜の内に六角父子は城を捨てて甲賀に逃れ去った。信長としては、巨大城郭がこうも呆気なく落ちた事に、肩透かしを食った思いだったろう。一方、六角氏としては強敵を前にして、ここは過去の前例にならって一旦、甲賀に退き、捲土重来を待つ気であった。実際、そうやって主城を奪回してきている。だが、以前と違うのは信長の勢威が過去のどの勢力よりも強大だった事、これまで六角氏を支えてきた国人達が、こぞって信長に忠誠を誓ってしまった事であった。やはり、観音寺騒動が響いていたのだった。それでも六角父子は諦めず、甲賀で情勢の変化を待ち続ける。
元亀元年(1570年)、信長は越前遠征に失敗し、朝倉・浅井・三好、本願寺などを敵に回して四面楚歌に陥った。六角父子はここぞとばかりに江南で挙兵し、一向一揆や旧臣の助力も得て勢力回復戦に乗り出した。これに対し、織田方からは柴田勝家・佐久間信盛の部隊が駆け付け、両軍は落窪(おちくぼ)にて一戦に及んだ。しかし、寄せ集めの六角軍は、統制の取れた織田軍の前に大敗を喫し、旧臣の三雲定持ほか伊賀、甲賀の武士780人余が戦死してしまう(落窪の戦い・または野洲川の戦い)。この戦いでは、六角軍に攻められた柴田勝家が長光寺城に篭城し、士気を鼓舞するため水瓶を全て叩き割り、その上で一戦に及んで六角軍を撃ち破って、瓶割り柴田の異名を取ったという伝説が残る。いずれにせよ、この一戦で六角氏の戦力のほとんどが失われた。だが、六角父子に諦める気配は無く、観音寺城の南東にある鯰江城を拠点に、尚も失地回復の機会を窺う。
同年9月、朝倉・浅井連合軍が近江を南下し、比叡山に立て篭もって信長の主力と対峙する状況になると、六角父子は再度、挙兵に及んだ。しかし、今回の六角軍の兵力は乏しく、ただ騒がすだけしか出来なかった。それでも、四方に敵を抱えていた信長にとっては脅威であり、11月12日には六角父子と和議を結んでいる。同年12月13日には、朝倉・浅井軍とも和議を結ぶ事に成功し、信長は危機を脱する事が出来た。しかし、これは一時の休戦であって、六角父子は尚も江南を窺い続ける。元亀3年(1572年)早々、六角父子は江南の一揆と結んで、琵琶湖岸まで進出した。翌元亀4年(1573年)は戦国の世にとっても、六角氏にとっても激動の年となる。同年4月に武田信玄が死んで信長包囲網が崩れ、7月には足利義昭が追放されて室町幕府は滅亡し、8月には朝倉・浅井家も滅ぼされた。
同年9月4日、六角義治の籠る鯰江城も柴田勝家に攻撃され、開城を余儀なくされる。義治は、父、承禎が篭る近江石部城に移り、尚も反信長の姿勢を示した。しかし、この頃になると甲賀の者であっても、六角氏から離反する者が絶えなくなり、天正2年(1574年)4月には城を捨てざるを得なくなって、六角氏は完全に没落した。承禎はその後、浪々の身となって慶長3年(1598年)に78歳で死去。義治は武田勝頼を頼って落ちのびたが、天正10年(1582年)、信長による武田攻めで頼みの勝頼も滅亡し、自身も殺されるところを間一髪で逃れた。その後、豊臣秀吉による天下統一が成ると、義治は弓馬指南役として仕えた。承禎・義治父子は弓の達人であったと伝わる。慶長17年(1612年)、義治は大名身分に戻る事無く、68歳で死去。
その後の観音寺城であるが、六角父子が城を捨てた後も信長によって利用されていたと思われる。天正4年(1576年)、信長が安土城を築いた際に、観音寺城から多くの建材や石材が転用されたが、安土城と観音寺城とは尾根続きで繋がっているので、防御拠点としての機能は持たせてあったと思われる。しかし、天正13年(1585年)、安土城が廃城になった際、支城としての観音寺城の役割りも終わり、ひっそりとその歴史に幕を閉じた。現在、観音寺城は草木に覆われ、訪れる人もほとんどいない。だが、繖山(きぬがさやま)の山上部を巡り歩けば、見事な石垣や広い屋敷跡が、所々に残されている。それは、忘却の彼方に消えた戦国大名六角氏が、確かに南近江の雄であった事を物語っている。PR
慶長5年(1600年)、天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いが起こると、中国地方の大大名、毛利輝元は、西軍の総大将として参戦する。しかし、肝心の本戦が東軍勝利で終わると、輝元は狼狽して徳川家康に屈服する。輝元は降参の証として、剃髪して宗瑞幻庵と称した。だが、毛利家は、中国地方8ヵ国に及ぶ120万石の所領から、周防、長門の2ヶ国、36万石への減封を申し渡される。毛利家はそれに加えて、旧領6ヵ国から徴収していた慶長5年(1600年)度分の租税を、新たに赴任してきた大名に返還する必要に迫られたのだった。これらの対処として、輝元は家臣の俸禄を五分の一に削減する。
大減封の屈辱と、租税返還の重い負担には、輝元も嘆きの声を上げ、「こんな苦労をさせられるくらいなら、いっそ領土を放棄して浪々の身になった方がよほどましだ」と云ったとか。それまでの本拠地は安芸の広島城であったが、これも取り上げられたため、輝元は新たな居城を造る必要に迫られた。そこで、輝元は萩・防府・山口の3つの築城候補地を挙げ、幕府に意向を伺うと、萩への築城許可が下りる。そして、慶長9年(1604年)より築城が開始され、慶長13年(1608年)に完成を見た。城は、標高143メートルの指月山の麓に沿って築かれ、山頂にも詰めの山城が設けられた。そして、山麓の本丸には、5層の白亜の天守閣が築かれた。
萩の城下町は、橋本川と松本川に挟まれた三角州上に建設されており、巨大な天然の総構えとなっていた。城郭がある指月山も三方を海に囲まれており、これまた天然の要害となっていた。萩城の作りは実戦的で、輝元はいざとなれば、ここで最後の華を咲かせようとの思いを込めたのだろう。関ヶ原の戦い以降、萩の長州藩はひたすら幕府に恭順する姿勢を見せていたが、内面では大減封の恨みは消えなかった。また、6ヵ国租税返還の重い負担、幕府のお手伝い普請、参勤交代、江戸在住の費用が財政を圧迫し、長州藩は上も下もその負担に苦しみ喘いでいた。
長州藩の借金であるが、元和9年(1623年)には銀4千貫だった。これは、藩の1年分の実収入に匹敵する。延宝4年(1676年)には銀1万2千貫となり、長州藩は倹約令を布告し、藩士の俸禄を半減させた。しかし、政策を誤って更に借財は増え、正徳2年(1712年)には銀5万貫に達した。さすがにこれはまずいと、重臣の毛利広政が中心となって積極的な財政再建に取り掛かり、藩士の俸禄を更に削り、領民の負担を増大させるなどして、享保15年(1730年)には、銀1万5千貫まで削減させた。しかし、広政死後には再び財政は悪化し、宝暦8年(1758年)には銀4万貫となった。
宝暦11年(1761年)、長州藩は検地を執り行い、4万石の増収を得た。しかし、この増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる事業集団を発足させた。撫育方は米、紙、塩、蠟(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と蓄財に務めた。撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、非常時のために取り置かれた。長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金となるのである。しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。
農民への取立ては苛烈を極め、農村は疲弊していった。天保2年(1831年)、飢饉の発生を機についに農民の不満が爆発し、領内各地で13万人もの農民が蜂起する一大一揆が起こった。農民達は年貢の軽減、物流の自由化、村政改革を叫び、その一部を認めさせたのだった。しかし、首謀者は厳罰に処され、これ以降、大規模な一揆は影を潜める。天保3年(1832年)、長州藩の借銀は、とうとう8万貫に達した。しかし、この様な疲弊状況は長州藩だけでなく、幕府を始めとする全国の藩に共通するものであった。封建制は明らかに制度疲労を起こしており、人々の中に変革を望む声が上がり始める。
天保9年(1838年)、長州藩では家老の村田清風が先頭に立って、商人の自由取引、産業奨励、倹約の徹底、庶民への教育普及、軍制改革に取り組んだ。そして、37ヵ年賦皆済仕法(藩士の負債を37年支払いとする)を定めて、商人からの借財を事実上、踏み倒したのだった。村田清風はその後、商人の反発や保守派の反対によって失脚するものの、彼の改革路線は受け継がれていった。そして、長州藩は動乱の幕末を迎えるに当たって、この村田清風の残した改革の成果、撫育方の隠れ資金、長年の幕府への恨み、吉田松陰の憂国の教えが合わさって、一気に倒幕へと走り出すのである。
この長州の人々の激しい動きとは裏腹に、指月山の萩城は静かに動乱を見守り続けた。しかし、幕府軍に敗れるような事があれば、長州藩は萩城で最後を迎える事になったであろう。だが、維新の回天は成り、長州の指導者達は次々に明治新政府の高官に上っていった。そして、明治7年(1874年)、政府が通達した廃城令により、萩城も天守閣、櫓などは全て破却され、政治、軍事の中心地としての役割を終えたのだった。現在から見れば甚だ惜しい行為であるが、当時の人々からすれば、抑圧の象徴でもあった城の破却は望ましいものに映ったのかもしれない。それは、古き時代への決別と、新しき時代を向かえるための通過儀式でもあったのだろう。
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↑萩城
萩城とその城下町が、二つの川に囲まれた三角州にある事が分かります。そして、この巨大な三角州が、天然の総構えの役割を果たしていました。
永禄4年(1561年)、吉川広家は、毛利の両川と謳われた名将、吉川元春の3男として誕生する。天正14年(1586年)、父、元春が死去し、跡を継いだ長男、元長も翌年に死去したため、広家が出雲14万石の所領と月山富田城を受け継いだ。広家には次兄となる元氏がいたが、繁沢氏の養子として入っていたため、跡継ぎからは外れていた。慶長2年(1597年)、両川の1人で毛利家の重鎮であった小早川隆景が死去すると、広家が一門衆の筆頭となって当主の輝元を補佐する形となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、毛利輝元は西軍の総大将として参戦する。この時、広家は徳川家康の優勢を信じて、輝元を翻意させようとしたが、受け入れられなかった。そこで広家は輝元には内密で、黒田長政を通じて毛利家の本領安堵と引き換えに、毛利軍の関ヶ原本戦への不参加を約束する。そして、関ヶ原本戦において広家は約定通り、南宮山に陣取っていた毛利秀元隊1万5千人余の動きを制し、傍観を決め込んで東軍勝利の一端を担ったのだった。しかし、関ヶ原の戦いでは、輝元は本戦に参加こそしなかったものの、九州、四国に派兵して、積極的に勢力拡大に務めていた。そのため徳川家康は、輝元が西軍の総大将として動いていた事実は動かし難いとして、毛利家の取り潰しを決定する。そして、それに代わって広家が周防、長門二ヵ国の大名へ転身するよう申し渡したのだった。
しかし、広家はこの決定に驚愕する。関ヶ原合戦時に広家の取った行動は確かに利敵行為であったが、輝元に取って代わる野心などはなく、全ては本家存続のためであった。そのため広家は、必死になって本家存続活動を行う事になる。その時の広家の書状が残っている。
「此度の儀は、輝元の本意ではありません。輝元が分別の無い人間であるのは皆様も御存知の通りであります。これから輝元は家康様に忠節を尽くすゆえ、どうかどうか毛利の名字だけは残して頂きたい。輝元が罰せられ、私だけが取り立てられては面目が立たぬゆえ、私にも輝元と同じ罰を与えて欲しい。もし、有難い事に毛利の家を残して頂けるなら、輝元がその御恩を忘れる事は決してありません。千万が一、輝元が再び不届きな心底を持つようなら、今度は私が必ず本家を討ち果たし、首級を差し出す覚悟でございます。」
慶長5年(1600年)10月10日、広家の必死の懇願は家康の心をも動かし、輝元父子の身の安全は保障された。そして、広家が拝領するはずだった周防、長門国も輝元に宛がわれる事となる。こうして毛利家は120万石から、36万石に大減封されたものの、広家の尽力あって、辛うじて家名を保つ事は出来たのだった。その代償として広家も出雲14万石から、岩国3万石に減封されたが、彼にとっては本望だったのかもしれない。そして、広家は岩国に入ると心機一転して、要衝の地である横山に城を築く事を決定する。そして、慶長13年(1608年)に城は完成し、横山の山頂には3層4階の天守閣が築かれた。山麓にも土居と呼ばれる居館が築かれ、普段の生活と政務はここで営まれた。
毛利本家でも萩で築城が行われ、新たなる国造りが始まっていたが、大減封された事には変わりが無く、家中では釈然としない気持ちが残っていた。そもそも、関ヶ原合戦時に広家が家康に通じなければ、この様な苦しい境遇には陥らなかったとの思いが残ったのである。そのためか、毛利家にあった4つの支藩、長府、清末、徳山、岩国の内、岩国藩だけは傍流との理由で本家からは正式な藩として認められず、家臣として扱われたのだった。しかし、吉川家としても我らが本家を救ったのだとの思いは消えず、明治の世を迎えるまで、両家は複雑な眼差しを向け続ける事になる。
岩国城のその後であるが、元和元年(1615年)、幕府より一国一城令が通達されると、岩国城は完成から僅か7年で破却される事となった。天守閣と天守台の石垣は破壊されたが、麓の土居は存続して、吉川家の政庁と居館を兼ねて、明治の世まで用いられる。第二次大戦後、岩国城を再建する動きが広がり、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリート製の天守閣が建てられた。再建天守閣は錦帯橋からの景観を考慮して、本来の天守台跡から離れた南側に建てられている。そのような岩国城の変遷とは別に、山麓西側にある吉川家の墓所は変わらぬ佇まいで、自らが作り上げた町並みを静かに見守り続けている。
有岡城は、兵庫県伊丹市にある平城である。
天正2年(1574年)、摂津国の実力者、荒木村重は同国内の領主、伊丹氏を攻め滅ぼし、その居城、伊丹城を手に入れた。村重は伊丹城を有岡城と改名した上、この城を本拠とすべく、大改修を行った。そして、町屋と武家屋敷を丸ごと囲む、戦国期最初とされる総構えを構築する。その規模は、南北1・7キロ、東西0・8キロに達していた。城を見学したポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは、「甚だ壮大にして見事なる城」との感想を洩らしている。これほどの大城郭は当時でも数少なく、相当な権力、財力を有する者で無ければ、築けないものだった。そして、この有岡城を築いた男、荒木村重とは、自らの才覚のみで成り上がってきた野心家である。それでいて芸能にも造詣が深く、茶の湯を嗜み、能楽の観世流も身に付けた多芸な才人であった。そんな村重の意向を受けてか、有岡城には優雅な庭園も作庭されていた。
天文4年(1535年)に村重は生まれ、摂津の国人領主、池田家の一家臣として始まる。主家の池田家が内訌(ないこう)によって分裂すると、村重はそれに乗じて家中の主導権を握り、やがて主家を上回る権威を帯びるまでになった。元亀4年(1573年)3月29日、村重は、畿内の覇者となりつつあった織田信長の傘下に入らんとして、逢坂(近江と山城の国境沿い)まで出向き、そこで忠誠を誓った。以降、村重は信長の権威を背景に、摂津の完全掌握を目指して戦い、天正2年(1574年)中には、本願寺領を除いて、ほぼ一国を治めるに至った。この事業は、ほとんど村重の独力によるものだった。そして、同年11月には信長より、正式に摂津の一職支配者に任ぜられる。
太閤検地によれば、摂津国は35万6千石の生産力があった。その内、5万石は本願寺領であったが、それでも村重には30万石、7500~9000人の動員力があった。これは、有力戦国大名並みの戦力である。信長もその実力を認めて、村重を織田家の最有力部将の1人と見なした。村重は、その期待に応えて、大敵、本願寺を押さえ込みつつ、越前、紀伊、播磨など各地に遠征して信長の統一戦に貢献する。信長の覚えもめでたく、村重は外様の新参者ながら譜代家臣と同等の処遇を受けた。にも関わらず、村重の胸中には叛意が芽生え始める。その切っ掛けとなったのは、天正5年(1577年)から始まった中国攻めにある様である。中国地方には、戦国有数の大大名、毛利家が存在しており、織田家とは敵対関係にあった。この相手と戦うとなれば、かなりの苦戦が予想されるが、その反面、討伐に成功したなら、比類なき名誉と恩賞が期待できる、働き甲斐のある部署でもあった。
地位、能力とも不足のない村重は、自らが中国攻めの司令官に任ぜられるであろうと思っていた。ところが、その大命は羽柴秀吉に下されて、村重は内心、大いに不満を抱いたようだ。それに、信長の苛烈な性格に不安を覚え始めていたかもしれない。外様の新参者であった松永久秀は、天正5年(1577年)10月に信長から離反して攻め滅ぼされており、同じく磯野員昌も、天正6年(1578年)2月信長から叱責された後、逐電してしまっている。外様の自分もいつか同じ目に遭うのではないか、と村重は不安に苛(さいな)まれた事だろう。折りしもこの頃、中国方面軍司令官として播磨に入っていた秀吉は、地元の有力大名、別所家の離反を受けて大苦戦に陥っていた。摂津の北にある丹波でも、明智光秀相手に波多野氏が粘り強い抵抗を見せていた。ここで自分が離反すれば、秀吉や光秀は討滅され、織田家自体を崩壊に導く事も出来るのではないか、と村重は思案した。首尾よく運べば、村重は畿内有数の大大名となれる
もともと野心みなぎる男であった村重は、こうして一世一代の大博打を打つ事にした。その村重の決意を、摂津の臣民も後押ししていた様だ。これまで村重は、信長の命ずるまま休む間もなく出兵を重ねており、少なからず摂津の臣民は疲弊していたからだ。天正6年(1578年)10月中旬、叛意を固めた村重は、密かに本願寺顕如や、毛利輝元と通じた。だが、何時までも隠し通す事は出来ず、10月下旬には信長の耳に入って、その詰問を受ける事となった。村重は時間稼ぎのためか、事実無根であると釈明したが、自身の安土出頭や、人質供出などの約束事は履行しなかった。そのため信長は村重の謀反を確信し、11月3日、自ら大軍を率いて摂津に向かった。このまま村重を捨て置いては、播磨に出張っている秀吉は、毛利家と挟撃されて全滅しかねない。そうなれば毛利家の勢力範囲は地続きで摂津にまで及び、天下の形勢すら変わりかねなかった。
信長は相当な危機感を覚えて、織田家の大身の部将を総動員した5万人余の大軍を率いて事態に望んだ。それでも出来れば丸く収めたかった信長は、再度、翻意を促す使者を送った。しかし、最早、村重の決意が変わる事は無かった。織田家の大軍が迫っても、村重に動じる気配は無い。それもそのはずで、村重の拠る有岡城は天下の巨城であり、しかも、それを中心に摂津各地に支城網が張り巡らされていた。村重だけで1万人近い戦力を有しており、同じ摂津には1万5千人余の戦力を有する石山本願寺があって、その助力も期待できた。村重は、鉄壁の防衛線であると信じていただろう。播磨にいる秀吉軍も、早晩、別所家と毛利家に討滅される見込みであった。それまで、本願寺と共に織田家の大軍をこの摂津で食い止め、毛利家の来援をもって反抗に転じる、これが村重の基本戦略であった。
だが、開戦早々、村重の自信は崩れ去ってしまう。頼みとする3人の重臣が、次々に城ごと信長に降ってしまったのである。11月16日には高槻城の高山右近が、11月24日には茨木城の中川清秀が、12月3日には安部二右衛門の大和田城が信長に降伏してしまい、残るは村重が寄る有岡城と、その嫡男、村次が守る尼崎城に、従兄弟の元清が守る花隈城だけとなってしまう。これで、摂津の過半が呆気なく織田軍の手に落ちた事になり、村重にとって衝撃的な誤算となった。織田軍は各地で放火、なで斬りを働きつつ有岡城へと迫り、ほどなくびっしりと取り囲んだ。有岡城の様な巨城を攻略するには、本来、相当な準備期間を必要とするが、信長は早期決着を図って、全軍総攻撃を命じた。12月8日午後18時、薄暮の中、織田軍は一斉に攻めかかった。塀際で激しい銃撃戦が応酬され、それに合わせて織田軍は城内への突入を図ったが、城方の反撃は激しく、いたずらに犠牲を増すのみであった。
織田軍の総攻撃は失敗し、信長の寵臣、万見重元を始めとする、多大な戦死者を出す結果に終わった。おそらく、千人を超える死傷者を出した事だろう。有岡城の防御力を身に染みて実感した信長は、早期攻略を断念し、長期戦を覚悟した。そして、城の周囲に無数の付け城を築き、それらに織田信忠、信孝、信雄の兄弟、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興ら錚々たる有力部将を配置すると、信長自身は12月21日に戦場から離れた。以後、有岡城攻めは信長の嫡男、信忠が総指揮を執り、播磨の羽柴秀吉を支援しつつ、包囲が続く事となる。有岡城からは時折、兵が打って出て、包囲軍と小競り合いが生じたが、ほぼそのままの状態で戦線は膠着する。
天正7年(1579年)3月、反織田陣営に激震が走る。備前の有力大名、宇喜多直家が、毛利家から離反したのである。これによって毛利軍の主力が、播磨や摂津に来援するのは絶望的となった。有岡城の方でも織田軍は封鎖を強化し、城の周囲に堀を穿ち、二重三重に柵を立てて、外部連絡と兵糧搬送の遮断に入る。季節は移ろい、花やぐ春を過ぎ、天地輝く盛夏を迎えても、有岡城の包囲は続いた。兵糧は乏しくなる一方で、城内の憂いは日毎に深まってゆく。荒木軍は数千人あって、城を守るだけなら十分な人数であるが、数万もの包囲陣を打ち破る力は到底、無かった。この状況を打破するには、どうあっても、毛利家の助力が必要であった。これまで村重は、幾度となく毛利家に使いを立てたものの、より良い返事はもらえなかった。そして、季節は更に巡り、秋の虫が鳴き始める。村重は10ヶ月に渡って篭城を続けてきたが、事態は深刻になるばかりであった。そこで村重は自ら直接、毛利家に援軍を頼み込む決意を固め、同年9月2日夜、5,6人の供を引き連れて密かに城を抜け出した。
村重らは闇に紛れて織田軍の陣地線を掻い潜り、無事、嫡男、村次が守る尼崎城へと移る事が出来た。この尼崎城は海に近い事から、毛利家や本願寺との連絡が容易で、その支援も受けやすかった。村重のこの城抜けは命惜しさの行動と取られ易いが、第一は現状打開のためだった。9月11日付きの村重による援軍要請の書状が残っている、地元の有力者と見られる中村左門衛九郎と武田四郎次郎に宛てて、大阪の孫一の衆も駆けつける予定なので、一刻も早く駆けつけてほしいと書かれている。村重はこの後、すぐに海に出て、毛利家に直接頼みにいった可能性もある。いずれにせよ村重は、毛利輝元に援軍を懇願したに違いない。しかし、毛利家の主力は、備前の宇喜多直家に阻まれて、播磨にも入れない状況だった。来れるとすれば、水軍を通した数千人の援兵のみであったろう。しかし、有岡城は、数万もの織田軍によって封鎖されており、数千人程度の兵力では、有岡城への兵糧輸送すら困難だった。
その頃、有岡城では、主将が抜けた事によって人々の間に動揺が広がり始めていた。村重の城抜けは極秘にされていたが、それはすぐに噂となって流れた。包囲軍の将、滝川一益はそれを察知すると、城内に間者を送って寝返り工作を仕掛ける。そして、これに荒木方の将、中西新八郎が応じ、それに続いて足軽大将4人も応じる手配となった。有岡城の総構え内には、北に岸の砦、中央に上臈塚砦(じょうろうづかとりで)、南にひよどり塚砦があって、それぞれ主要防御拠点となっている。中でも、上臈塚砦が最重要拠点であり、その主将が織田方に通じたのだった。10月15日、中西らは上臈塚砦の門を開くと、織田軍を招き入れた。城内に篭っていた将兵、避難民は、突如として現れた敵軍に慌てふためき、大混乱の内に次々に討たれていった。
↑有岡城の全体図(伊丹市ホームページより)
岸の砦を守っていた侍大将、渡辺勘大夫は砦を明け渡して退去したものの、信長は事前通告が無かったとして、これを斬り捨てた。ひよどり塚砦の侍大将、野村丹後は雑賀衆の加勢と共に砦を守っていたが、乱戦で雑賀衆が悉く討死すると、織田軍に降伏を申し出た。しかし、信長はこれも許さず斬首とし、安土までその首を運ばせた。野村の妻で、村重の妹でもあった女性は城内でこれを聞いて、泣き崩れたと云う。こうして上臈塚砦、岸の砦、ひよどり塚砦は陥落し、総構えは織田軍の手に落ちた。堀で囲まれた侍町にも火がかけられ、これで有岡城は主郭のみの裸城となる。どのような堅城であっても、内からの攻撃には脆い。やはり、主将の不在が響いたのだった。織田軍は包囲の輪を締め上げ、井楼(せいろう・城攻め用の櫓)から鉄砲を撃ち放ち、金堀衆をもって堀や塀を崩していった。
落城は目前に迫り、城内からは、「助けたまえ」との悲痛な叫び声が上がった。この状況を知った明智光秀は、荒木方が花隈城、尼崎城を明け渡すのと引き換えに、有岡城の篭城者を助命してもらいたいと信長に進言する。信長はこれに許可を与えたので、光秀は謝意を述べ、使者を有岡城へと送った。追い詰められた有岡城の荒木方は、一も二もなくこの条件を受け入れた。天正7年(1579年)11月19日、こうして有岡城は開城されたが、花隈城と尼崎城が引き渡されるまで、荒木一族と重臣の妻子は、人質として織田軍に預けられる事となった。そして、荒木久左衛門を始めとする重臣達は、村重を説得すべく尼崎城へと向かった。しかし、村重は尼崎城と花隈城の明け渡しを拒否し、尚も抵抗の構えを崩さなかった。
人質の命を無視する無情な回答であるが、これには毛利家や本願寺の意向も含まれていたかもしれない。この時、尼崎城には毛利家の部将、桂元将が援軍を率いて入っていたし、本願寺の援軍もいたと思われるからである。この尼崎城と花隈城を失えば、本願寺は益々孤立し、毛利家も追い込まれる事になる。いずれにせよ、明け渡しを拒否された久左衛門らは面目を失い、有岡に戻る事なく逐電してしまった。こうなれば信長も人質を殺さねば、他に示しがつかなくなる。そのため、600人余りの人質全てを処刑するよう命じたのだった。人質達は怯えながら、尼崎からの迎えを今か今かと待ち続けていたが、ついにそれが空しい願望である事を悟った。
女房達が幼子を抱き、声を上げて嘆き悲しむ様は見るも哀れで、警護の武士ですら哀れみの涙を拭った。12月13日、重臣の妻子122人は尼崎の七松という所へ引き立てられ、悲痛な叫び声を上げつつ全員が磔にかけられた。そして、下級の武士とその妻子510人余は、4軒の家屋に押し込められ、枯れ草を積まれて生きたまま焼き殺されていった。男女が煙と火に咽び、叫び苦しむ様は目も当てられなかった。12月16日、村重の妻、21歳のだし、村重の15歳と13歳の娘、村重の20歳の弟、17歳の妹などの荒木一族16人に加え、車3両に子供7,8人が乗せられて京都六条河原へと引き立てられていった。村重の妻だしを始めとする女房衆は身嗜みを美しく整え、取り乱しもせず潔い最期を遂げていった。人々はその様を見て、ある者は感心し、ある者は恐れ慄き、ある者は涙した。そして、この哀れな人質達を見捨てたのは村重であるとして、轟々たる非難の声を上げるのだった。
この後、尼崎城は早々に落ちたようだが、花隈城は尚も抵抗を続けた。しかし、天正8年(1580年)3月初旬、信長の部将、池田恒興の攻撃を受けて花隈城も落城し、荒木方の拠点は全て失われた。村重は、この時、毛利家に亡命したと云われている。天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺で横死すると、村重は堺に移り住んだ。やがて、豊臣秀吉が天下を握ると招かれて、御伽衆(秀吉の話し相手)となった。秀吉は、かつての同僚で、自らを窮地に陥れた事もある男と、如何なる話をしたのだろうか。村重は千利休と親交を結び、茶の湯に傾倒した。そして、人質を見捨てた自らを恥じて、道糞(どうふん)と名乗った。だが、秀吉はそれはあんまりだとして、道薫(どうくん)に改めさせた。晩年を文化人として生きた村重は、天正14年(1586年)5月2日、堺にて病死する。享年52。
村重の築き上げた有岡城のその後であるが、落城後には、池田恒興の嫡男、元助(之助とも)の居城となっていた。しかし、天正11年(1583年)、池田父子が美濃国に転封になった際、廃城となり、その歴史に幕を閉じた。明治以降、伊丹は急速に宅地開発が進んで、城域の大部分は埋もれていった。そして、ここに壮大な城があった事も、凄まじいばかりの悲劇があった事も忘れ去られていった。
浦上氏は、備前、播磨、美作の三カ国の守護であった赤松氏の被官として始まる。室町時代、浦上氏は赤松氏の柱石として働き、やがては守護代にまで任じられた。村宗の代を迎えると、浦上氏の勢力は主家の赤松義村が危惧を抱くほどのものとなり、やがて両者は反目、激突するに至った。この頃はまだ赤松氏の方が勢力は上で、永世16年(1519年)、義村は、村宗の居城に大規模な攻撃を仕掛ける。しかし、村宗は城を守りきり、逆に反抗に転じて、これを打ち破る事に成功した。そして、義村を強制的に隠居させ、幼少の晴政に跡を継がせて、傀儡とした。これで力関係は逆転し、浦上氏が備前、美作、播磨に支配力を及ぼす大勢力となった。永世19年(1521年)1月、義村は再起を期して兵を挙げたが、村宗はこれも打ち破り、かつての主君を捕らえて幽閉する。そして、同年9月、義村を幽閉先で暗殺した事から、その子、晴政は恨みを含んだ。
その頃、京都では官領家の細川氏が、高国と晴元とに分かれて内訌を繰り広げており、その一方である高国は、村宗の力に目を付けて参戦を要請した。これを受けて村宗は、高国を擁して上洛の軍を催した。村宗、高国連合軍は播磨、山城を席巻して破竹の進撃を見せたが、対抗相手の晴元も四国の大物、三好元長(三好長慶の父)を担ぎ出して反撃を試みる。摂津の中嶋付近で両軍は対峙し、小競り合いを繰り返した。しかし、双方、決定打が無く、対峙する状況が続く。そこで村宗と高国は、赤松晴政に援軍を要請した。しかし、晴政は、村宗に父を殺され、国政の実権を奪われた恨みを忘れておらず、村宗の背後を襲うつもりで出征したのだった。 享禄4年(1531年)6月、村宗、高国軍は味方だと思っていた赤松軍に背後を襲われ、さらに正面の三好軍からの挟撃を受けて、完膚無きまでに破れ、村宗も高国も戦場の露と消えた。
戦後、浦上家は村宗の嫡男、政宗が跡を継ぎ、赤松晴政と激しい抗争を交えつつ、勢力の回復に務めた。だが、天文6年(1537年)、山陰の大大名、尼子晴久が播磨に侵攻を開始すると、存亡の危機に立った政宗と晴政は恨みを捨てて、共に尼子氏に立ち向った。しかし、尼子氏の勢いは凄まじく、政宗は晴政共々城を追われて、堺まで逃れた。天文9年(1540年)、尼子氏が安芸の毛利元就を攻めるため、播磨から軍を撤収させると、政宗と晴政はこの機に乗じて播磨に戻り、失地回復戦を開始する。そして、この戦いの過程で、政宗は家中を主導する立場となった。天文13年(1544年)頃、赤松氏が再び備前、播磨の支配者に返り咲くと、政宗が筆頭家老となった。この後、政宗は自らの勢力を備前、播磨に扶植させる事に力を注ぎ、やがて、独立勢力となった。
天文20年(1551年)、尼子晴久が再び備前、美作に大規模な侵攻を開始すると、浦上家中は動揺して、紛糾(ふんきゅう)する。政宗が尼子氏に従属する姿勢を見せたのに対し、弟の宗景はこれに激しく反発したのである。そして、宗景は毛利元就と結んだ上、天神山にて旗揚げしたので、ここに浦上家は分裂した。宗景は毛利家に援軍を請い、政宗は尼子家に援軍を求めて、備前各地で戦いが繰り広げられた。天文23年(1554年)、戦いの最中、宗景は天神山城を本格的に普請し、自らの居城とする。戦況は宗景優勢で進み、永禄3年(1560年)には政宗を西播磨に追いやって、宗景が備前第一の勢力となった。しかし、備前国内にはまだ対抗相手もいたし、この時点では、浦上氏は毛利氏に従属する一国人に過ぎなかった。宗景は戦国大名としての自立の道を模索するが、そのためには毛利氏と手を切るしかないと定めた。
永禄6年(1563年)5月、宗景は、兄、政宗と和睦して背後を固めた上で、毛利氏とその従属大名、三村氏との戦いを開始する。当面の相手は、備中、美作、備前に勢力を張る強敵、三村氏であったが、家臣の宇喜多直家の奮迅の働きもあって戦いは優勢に進み、永禄12年(1568年)には、宗景は備前のほぼ全域と、美作の東南部を支配する堂々たる戦国大名に成長する。更に同年には、兄、政宗の跡を継いでいた誠宗(なりむね)を暗殺し、その西播磨の所領も自らの版図に加えたのだった。宗景の野望はこれだけに止まらず、西播磨の領主の1人、赤松政秀にも攻撃を加えたため、窮した政秀は、畿内の実力者となっていた織田信長に救援を求めた。信長はこれに応えて軍を派遣し、あろうことか重臣の宇喜多直家まで、信長に通じて叛旗を翻したから、宗景は重大な危機に陥った。
幸い織田軍の行動は一過性で、数箇所、城を落とすとすぐに引き返していったため、宗景は胸を撫で下ろした。織田軍撤退を受け、孤立した直家も降伏を申し出て来たので、その復帰を許したのだった。宗景はこの機会に直家を滅ぼすべきであったのだが、そうはしなかった。理由は定かではないが、滅ぼすには、既にその勢力が大き過ぎたのか、それとも、周囲の状況がそれを許さなかったのか。天正元年(1573年)、宗景は信長と和睦して、備前、播磨、美作の支配権を認められる。この内、播磨と美作は一部を領有するに留まっていたが、それでも毛利氏に次ぐ、中国地方の大大名である事に間違いはなかった。しかし、宗景の絶頂期も、束の間であった。翌天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が再び、叛旗を翻したのである。
直家は前回の失敗を教訓に、今回は準備万端で望んでいた。浦上家の嫡流に当たる久松丸(政宗の孫)を担ぎ出して大義名分を掲げ、更に事前に調略を廻らせて宗景配下から離反を続出させた。 宗景も備中の三村氏と結んでこれに対抗し、備前、美作を舞台に家中を二分する戦いが繰り広げられた。やがて直家は毛利氏を引き込む事に成功し、その軍事援助を受けて攻勢をかける。宗景も九州の大友氏、畿内の織田氏と結んだものの、相手側の事情もあって、直接の援助は期待薄であった。宗景は苦戦し、徐々に追い詰められて行く。そして、天正3年(1575年)6月、毛利氏が備中の三村氏を攻め滅ぼすと、毛利氏と直家は一丸となって宗景に襲い掛かってくる。たまらず宗景は天神山城に篭城し、その天険の守りを最後の砦とした。
しかし、同年9月、そこでも頼みとしていた重臣、明石景親に裏切られたため、最早、城を出て落ち延びるしかなかった。 以降、宗景は信長の後援を受けて、失地回復の機会を窺ったが、天正7年(1579年)、信長が直家の服属を認め、その所領を安堵した結果、宗景が復帰する見込みは無くなった。一時は、3カ国に勢力を張った宗景であったが、一浪人に零落し、以後の消息は途絶えてしまう。下克上で権力を登り詰めた男が、下克上にてその座を追われる、何とも皮肉であった。宗景一代の城である天神山城も、ほどなくして廃城となり、山林に還っていった。